一、


 初めて彼の姿を目の当たりにしたとき、まず頭に浮かんだのは「逃亡者」と言う三文字の、
人間としてはとても不名誉で、言わば烙印にも近い呼び名だった。
 実際、彼は得体の知れない何かから必死になって逃げていたように思う。
 その日は、季節外れの豪雨だった。
 女神イシュタルと神人たち、そして、母なるエンディニオンへの礼拝を終えた後、
集落の若い衆を集めて武術の模擬戦を行う予定だったのに、もう台無しよ。
 あたしもそのつもりで用意をしていたし、集落で最年少のラドクリフも大いに張り切っていた。
 当時の彼は『イングラム』のプロキシ――神人の力を授かって光の弓矢を作り出すものだ――を
会得したばかりで、早く実戦で試したいとよく生意気を言っていた。
 彼の師匠は、最近、“仕事”とやらで家を空けっ放しにしている。
 元々、勝手気ままな自由人のアイツは、弟子をほったらかしにして、
いきなり何処かへ出かけていくことも多かった。
 アイツ曰く、「ボーイってリブ物は、セルフで勝手にビッグになるから問題ナッシングね。
ボキがラドをフリーにしとくのは、そーゆー主義ってコトだヨ」とのこと。
 口が回るって言うか、何て言うか……。狡賢いって意味で、頭の回転が早いのよね、無駄に。
 でも、最後は言い訳もホントのコトになった。
 最初の内は、よくあたしのトコロに転がり込んできたラドクリフも、
その内に師匠の不在に慣れて来て、いつの間にか、しっかり自活ができてるじゃない。
 考えてみれば、自堕落な師匠に代わって家事全般を仕切っていたのは、他の誰でもないラドクリフ。
年長者がいない不便にもすぐに順応しちゃったのよね。
 自立心と一緒に、男の子らしい負けん気も育ってきたのか、プロキシや武術の稽古にも余念がない。
 すっかり一人前だと思って安心していた矢先、
そのラドクリフが血相変えてあたしん家のドアを叩いたってわけ。
 自活を始めて間もなくの頃、台所に潜むヤツの出現にビビッて猛ダッシュしてきたときと同じか、
それ以上の慌てっぷりでね。

 今にして思えば、それが始まりだったのかも知れないわね。

「酋長! 集落の入り口に人が……、不審者がいるんですっ!」

 ついでに思い出したけど、ソレって酋長の職を襲名して初めての大仕事でもあったのよね。
 日々の務めや定例の儀式を除くと、何事もユルい集落。事件らしい事件なんて起こりようもない。
時たま、集落の宝物庫を狙ってバカどもが押しかけてくるくらいなのよ。
 それも、すっかりご無沙汰でね。つまり、血が騒いじゃったってコト。

 愛娘のミストに外出しないよう言いつけて飛び出してみれば、
村の若い衆が手に手に武器を携えて酋長の到着を待っていた。
 みんな、良い面構えをしている。日々の鍛錬が、実を結んでいる証拠ね。
ホゥリーがいないのは少しだけ不安だけど、ま、ここはラドクリフの見せ場ってコトで。
 もしも、集落に侵入してきたのが手慣れたアウトローだったら、
迎え撃つあたしたちもそれなりの覚悟を決めなきゃならない。
 あたしの前に立った若い衆は、みんな、その覚悟ができている。

 侵入者の第一発見者であるラドクリフの説明では、確認できた賊は一人だけ。
だからって、油断はできないわね。辺りに仲間が潜伏しているとも限らない。
 危急の報せを受けて集まったのは、総勢十四人。
 そのうち、プロキシと体術を融合させて戦えるイェランと、イングラムを使えるラドクリフ、
それから一緒に家を飛び出した我が愛弟子ちゃんの三人を選んだら、あとの十人は散開。
伏兵に対する警戒と、もしものときにアウトローどもを集落の中に入れない為の作戦ね。

 マコシカの集落には、厳密には出入り口はない。
隣町と地続きになっている林道と面した場所、そこをあたしたちは便宜的に出入り口と呼んでる。
 マコシカって聞いたら、金銀財宝ザックザクってイメージがあるのかねェ。
アウトローやギャング団のターゲットにされること一度や二度じゃなかった。
 場合によっては組み立て式の塀を使ってバカどもを堰き止めて、
プロキシで返り討ちにするってこともある。
 ……やり過ぎちゃって、前酋長に怒られたこともあったけどさ。
 そんなわけで、少数から大人数まで、恥知らずを蹴散らす為のノウハウがマコシカにはバッチリあるのよ。
 団体さんのお着きにも対応できるよう十人を散開させたら、
いよいよあたしたちの出番。正面からガチンコ勝負ってヤツよ!
 クソ真面目なイェランは、ここぞとばかりにアレコレ指図しくさったけど、
いちいちぐちぐち頭で考えてたら、柔軟な動きもへったくれもなくなるじゃないのさ。

「お前はとかく先走り過ぎる。酋長としての自覚を持ってだな――」
「侵入者が出たってときにノロノロしてらんないでしょ。速攻でブッ潰さないと」
「言いたいことはわかるが、先走ったお前のフォローは誰がする? 俺か? ソニエか? 
まさか、ラドクリフをアテにしているんじゃないだろうな? 
目下の者の人間の規範になるのが俺たち年長者の――」
「はいはい、お説教は後回し! 足動かして、足!」
「言われずとも動かしている。動かさなければ、お前を見失うからな。
お前がいなくなったら、それこそ俺は不安で仕方がない」
「……ったく、いちいち気障なんだから、アンタは」

 幼馴染みだから、まあ、阿吽の呼吸ではあったのよ、イェランとは。
取り上げてくれた産婆だって同じって言う筋金入りね。
 酋長補佐って言う役目を買って出てくれたし、あたしの無茶振りにも応じてくれる。
 隣町へのお使いにも文句一つ言わないで行ってくれるわ。
五分以内に行って来いみたいな、そんな無茶振りにもね。
 自ら進んで隣町への用事を確かめるくらい酋長補佐の仕事を完璧にこなすのよ。
これも阿吽の呼吸よね? ……それは違うって、ミストにもソニエにも言われたわよ、ええ。

 助かってるわ。助かってるわよ! イェランのおかげでいつも助かってますゥ!
 ……でもさ、保護者ぶるのはやめて欲しいのよ。
あたしも良いトシ――じゃないけど! それなりにオトナの女なんだからッ!

 ……あーッ! なんだかイラついてきたわ!
 今日の連中は、可哀相ね。いつもより多めにお仕置きしてやろうかなぁ!
その日の気分でお仕置きコースを選べるのは、迎撃する側の特権よね。

「先生、顔がすごい嬉しそうですよ。これ、大切な酋長のお仕事じゃないんですか?」
「そう言うソニエだってニヤニヤしっぱなしよ?」
「先生の弟子ではあるけど、あたし、マコシカの出身じゃないですもん。
集落のコトとか考えないで大暴れできますからっ」
「都合の良いときばっかり部外者に戻るんじゃないわよ。そーゆー可愛くないコトを言うなら夕飯抜きよ?」
「夕飯抜きはいいんですけど、じゃあ、誰が先生のご飯を作るんですか? ミスト?
先生、自分で作ったご飯……のようでご飯ではない何かを食べれます?」
「……師匠に度胸試しを強要するなんて、ソニエも言うようになったじゃない」

 ツッコミが板についてきたのは、あたしン家に住み込みでプロキシ修行をしてるソニエ嬢。
 元々は何不自由なく暮らしていられる大富豪のお嬢様なんだけど、
マコシカのこと、エンディニオンの歴史を深く知りたいって、あたしんトコに転がり込んできてね。
 一種の留学? ホームステイって言うのかな? 
ド根性入ってるハングリー精神には頭が下がるって言うか、なんて言うか、物好きよねぇ〜。
 こっちも仕込み甲斐があったわよ。
 元々、神人に愛される才能があったみたいで、
外部(そと)から来たのが信じられないくらいあたしの教えを吸収してくれたわ。

 さて、その天晴れな愛弟子ちゃん。早くも棍棒を作り出すプロキシなんてのを使っちゃっていたの。
いわゆる魔法の棍棒を右手に構えて、……実はソニエが一番闘る気まんまんだったのよ。
 師弟揃って肉弾戦大好きなのよ、あたしら。
「魔法使いって、近づかれたらおしまいじゃね?」って思ってるヤツ、あたしの教育の賜物を食らうがいいわ。

「ラド、飛び道具は任せたわよっ! あたしらは奴さんをブン殴ってくるからっ!」
「――了解っ!」

 自慢のイングラムを発動させたラドクリフは、道の途中で待機。
あたしら三人が白兵戦をやってる最中に援護射撃って算段よ。

「賞金首ならめっけもんね。ゾクゾクしてきたわッ!」

 思わず口をついて出ちゃったんだけど、早速、イェランったら顔を真っ赤にして怒ったわ。
酋長としての自覚が足りないとか、なんとか……。
 大きなお世話よねぇ、ホンット!
 幼馴染み特有の「オレは何でも知っている」的な、勘違い系ツッコミで色々冷めたもんだから、
何だか妙に落ち着かされちゃって。
 侵入者が目撃されたと言う集落と林道の境も、割かし冴えた頭で観察できたのよね。

 そうして集落の入り口を確認した途端、あたしは足を止めてしまった。
もちろん、ソニエもイェランもね。
 確かに、そこにはラドクリフが報せてきたような不審者がいたわ。
集落に足を踏み入れてはいたから、ギリギリ侵入者にもなってるけど。
 でも、アウトローなんかじゃなかった。
 身なりはそこそこ怪しかったけど、何て言ったらわかりやすいのかしら、
……表情(かお)がね、普通じゃなかったのよ。
 この世の全てに怯えているような、そんな表情(かお)だった。



 そんな景気の悪い表情を顔面に貼り付けた不審者ないしは侵入者は、
ズブ濡れのまま、亡霊のようにふらふらと辺りを彷徨っていた。
 あたしたちを見つけたときの怯えようったらなかったわ。
見えない力で突き飛ばされたみたいに腰砕けに倒れて、手足をバタつかせて後ずさるのよ。
 食事も休憩も、睡眠だってまともに摂っていない――
それが傍目にもわかるんだから、力なんて出やしないわよね。
 結局、手足をバタバタさせている内に力尽きて、そのまま意識を失っちゃったわ。
 様子がおかしいってコトに気付いて駆けつけたラドクリフも、目を丸くして驚いてたわ。

 一番の驚きは、不審者ってのが、男だったってコトね。
 長い黒髪だったから、最初は女かと思ったのよ。それにしては随分と体格も良いじゃない。
髪の毛掻き分け、真っ白な顔を拝んで初めて男だってわかったわ。

 そこから先も、驚きの連続。
 泥水で汚れていたから、パッと見ではわからなかったんだけど、
身なりと言うか、着ている物がとにかく立派で、特別だった。
 一言で言うなら、軍服。もうひとつ付け加えると、「どこの軍隊の物かはわからない」。
 あたしもイェランも――と言うか、マコシカの民は外の世界のコトをあんまり知らないから、
当然、胸の勲章を見たって、階級とか何軍とかは一個もわからない。
 外から来たソニエも「ファッション雑誌に軍服特集があったら憶えてましたよ」ってお手上げ状態。
こうなると、いよいよ八方塞よね。
 軍服の上に羽織ったトレンチコートも、あちこちにド派手な装飾が施してある。
……気になったのは、肩の部分ね。装飾の一部が毟り取られたような形跡があったのよ。
 所属している軍か何かのエンブレムとか、身元を確認できる何かが縫い付けてあったんじゃないかと
あたしは想像していたわ。
 問題は、誰が毟り取ったか。
 こいつが自分でやったのだとしたら、直前の怯えた様子と照らし合わせると、
なんだかイヤ〜な気持ちになるじゃない? てか、明らかに怪しいじゃない。
 トレンチコートの上から嵌めたベルトに吊るしてある豪奢な軍刀も怪しさバリバリよ。
ちょっとまさぐってみたら、あんた、そのベルトには拳銃まで引っ提げていた。
 軍刀に血の跡が付いてるかもとか、拳銃は何発か撃った後じゃないのとか、
名推理を披露してやりたかったんだけど、その間に、こいつは衰弱死するなぁって思い直してね。
 イェランに担いでもらって、ひとまずあたしん家まで運んでもらったわ。

 集落中の警戒に当たってた十人も程なく戻ってきて、その日はそれで解散。
結局、集落に侵入したのは、こいつ一人だったみたい。
 となると、アウトローじゃなくて冒険者? でも、こんな身なりの冒険者なんているわきゃない。

「どこぞの部隊からの脱走兵ではないかと思う。いや、服装からして脱走将校と言うべきかな。
いずれにしても、この辺りの人間じゃないことは間違いない」

 それがイェランの立てた仮説だった。
 いかにもイェランらしい突飛なことがない優等生的な考察よ。
まあ、奇抜なことがない分、あたしたちもすんなりと頷けたわね。
 隣町へ使いに出る際にはサルーンに立ち寄って、極力外の情勢も耳にしているそうだけど、
イェランの知る限りでは、このあたりで軍事演習が行われる予定はなかったみたいね。
 そんな催しものがあるのであれば、隣町ではもっと大騒ぎだろうとも付け加えていたっけ。

 つまり、ますます謎が深まったってワケ。
 それじゃ、一体、イェランに担がれたこの男は何者なのよ。

(――なんにせよ、一件落着ってコト)

 今回ばかりはイェランが居てくれて助かったわぁ〜。
 ウチってば両親も早世(いな)いから、男物の服が一着もないのよね。
身長もそう変わらないってコトで自分の服を提供してくれて、
おまけに着替えさせるのも手伝ってくれて。
 イェランがいてくれなかったら、途方に暮れていたところよ。
さすがは酋長補佐って、誉めといてあげるわ。

 部屋中に熱が行き渡るよう暖炉に火を熾したときには、不審者発見の報せから三時間も経っていた。
 担ぎ込まれたときに比べてだいぶ温めた筈なんだけど、
それでも、暖炉の近くに寝かされた不審者は目を覚まさない。
 目は落ち窪んで、頬は痩せこけて……誰がどう見ても衰弱の極みだった。
冗談じゃなく、あのまま雨に打たれていたらくたばっていたわね。
 なんてコトを言ってるあたしも、あたしに付き合ってくれたイェランもソニエも、
自分たちのほうがヘトヘトになっちゃってたけどさ。
 勿論、愛娘も一生懸命手伝ってくれたわ。あたしたち以上に家中を走り回って、
毛布とか必要な物を抜かりなく用意してくれたのよ。
でもね、そうやって全力疾走し続けたら体力が切れるのも早いわけで……。

「お母さん、ごめんなさい……目が、目が回ってしまって、わたし……」
「気が合うわね、ミスト。お母さんも、世界がグルグル回転して見えるわぁ……」

 正直、ラドクリフが差し入れの弁当を持ってきてくれなかったら、あたしら共倒れになってたかもね。
 あたしゃ、あの日、ラドクリフがこさえてくれた弁当の味を一生忘れないわよ。
さすがは『マコシカで嫁にしたいランキング』を三年連続で連覇するだけはあったわ。
 ……よくよく考えたら、“嫁”っておかしいわね。ラドクリフは立派な男の子だし。
嫁イコール女の子扱いされて、案の定、ブチギレてたし、本人。

 ラドクリフも来てくれたんで、一先ずイェランには仮眠を取ってもらうことにした。
イェランが起きたら、次はラドクリフが仮眠。更にその次はソニエ、最後にあたしって言う交替制の看病ね。
 完全にグロッキーして立てそうにないミストは、一足先に寝室へ直行。
本人は自分の不甲斐なさを悔しがっていたけど、こう言うときは無理しちゃダメなのよ。

 ここでも気配り上手なラドクリフは、不審者が目を覚ましたときに
飲ませてあげられるようアルミの容器に入れたミルクを暖炉の傍に置いて、ずっと温めている。
 なにこの……なんなのかしら、このコ。ホゥリーの横着がいつまでも直らないのは、
このコが気配り上手で甘やかしてるのも原因じゃないのかしら。

「これからどうするんでしょうね、この人。……帰る場所もなさそうですよね」

 そんなラドクリフが、侵入者の顔をまじまじと覗き込んで、実に建設的なことを言い出した。
 そうなのよ。身の振り方って言うか、起きた後の対応も考えなきゃいけなかったのよ。
気配り上手のラドクリフ、ここでも一番にそのことに触れてくれたわ。
 あたしもさ、忘れてたわけじゃないのよ。……いや、正直、頭ん中は飽和状態だったわよ? 
でも、忘れてなんかいなかったから! 酋長、ウソ吐かない!

(人生に嫌気が差すって年齢じゃあないのよね。まだ若いんだし……)

 無精ヒゲとか疲れっぷりに邪魔されててわかり辛いけど、まだ二十代よね。
 つまり年はあたしに近い。近いってコトにしておこう。きっと、近いのよ、ええ。
近くなくては、おかしいわッ!

「酋長?」
「……なんでもないわ……」

 このときは、ホント、頼むから放っておいて欲しかったわね。
ラドクリフに何か突っ込まれたら、ボロ出しまくるって思ったもの。
 しかも、不審者よりずっと若……純粋無垢な顔で見つめてくるし!
 また性悪のソニエがね。こっそりと笑ってんのよ。肩とか頬とか、震えまくりなのよ。
一瞬、破門にしたろーかって思ったわ!

「……しばらくは集落(ここ)に置いとくしかないわねぇ」

 無理くり話題を変えてやったけど、ラドクリフも別に不思議がっちゃいなかったわ。
これはこれで、考えなきゃならない問題ですもの。

「この人の事情にもよると思いますけど、行くあてがないのなら、それがベターですよね。
放っておくと野垂れ死に確定ですし。せめて体調が戻るまでは休んでもらいましょう」

 腹を抱えて笑うのを堪えてたソニエも、ようやくこっちに合流。
そこでやっとまともに話し合いができる状態になったわ。
 合流したら合流したで、師弟のコンビネーションは完璧(パーペキ)。
ソニエもあたしのアイディアへすぐに賛同してくれたわ。
 外部(よそ)の人間を集落に留めるってことには、少しラドクリフは驚いていたわね。
介抱しなきゃ見殺しも同じだって、すぐにわかってくれたけどさ。

「また長老たちが騒ぐんじゃないですか。ソニエさんを迎え入れたときも、大変だったじゃないですか」
「本人前にして言ってくれるわね。ラドも度胸があるじゃない」
「ソニエさんみたいに良い人ばかりならいいですよ? 
誰かもわからない軍人で、しかも剣まで携えてるんですよ、この人。
不審者に変わりはありません。そう言う人を簡単に引き入れるのは、
酋長としてどうなのかなって思っただけです」
「あら? 可愛いコトを言ってくれるのね。こっち来なさい、ラド。お姉さんがチュ〜したげる」
「ちょっとちょっと! 全然可愛かないわよ。どさくさに紛れてあたしを腐したでしょっ」

 介抱自体は理解したけど、微妙に納得していないらしくて棘のあるこの言い方。
このときは、ちょっとドキッとしたわねぇ。
 ホゥリーに似たのかしら。将来、あんなブヨンブヨンにならなきゃいいけど……。

「留まってもらうのは良いとして――先生、誰が面倒を見るんです?」
「そりゃあ、あたしが責任持って面倒見るわよ。これでも一応は酋長だし。
おさんどんとか、ソニエには迷惑かけるけど……」
「食事の支度くらい別に構いませんけど、……本当にこの家で寝泊りしてもらうんですか?」
「えっ!? この家で寝泊りしてもらうんですか!?」
「父の寝室は手付かずで残っているもの。そこに入ってもらいましょ」

 あたしとしてはベストのアイディアだと思ったんだけど、ソニエとラドクリフはお気に召さなかった。
 二人して顔を見合わせて、「これだからガサツな人は……」と失礼なコトを抜かし始めたわ。

「ちょっとラド、今の聴いた? 男気溢れるお言葉だったわよね」
「酋長は男気の塊ですからね。そうじゃなければ、女性二人の住まいにケダモノを引き込むなんて、
そんな危ない真似はできませんよ。せめてイェラン兄さんのところに預けるとか……」
「だよね〜。お風呂でムード歌謡を口ずさむだけのことはあるわ。
男気通り越して、オッサンよ、オッサン」
「ああ、だから……。この人の不精ひげに、おかしな親近感が湧いちゃったんですね」

 ここまで来ると、悪口大会よね。根に持つタイプじゃないつもりだったんだけど、
これはハッキリ憶えてるわ。いずれソニエには落とし前つけなきゃね。
 ……そんなに呆れることかしら? 困ってる人を助けるんだし、別に構わないと思うんだけどなぁ。
ここで別の人間に丸投げしたら、それこそヒドい話じゃない。
 一度、関わった以上、最後まで面倒見るのが人情ってもんよ。そうよ、人情なのよ。

「一目惚れでもしたんじゃないのか?」

 癪に障るこの一言は、当然の如く、イェランの声。
 交替の時間よりだいぶ早く起き上がってきたのは、本人に言わせると、
「枕元で騒がれていたんじゃ、おちおち寝てもいられない」とのコト。
 ホント、いけ好かないわよね。皮肉以外にこの口が動いているところを見たことがなかったわ。
 一番腹が立つのは、あたし以外のヤツには、そこそこ優しいってコトね。
起き抜けに何をするかって言ったら、少し早いけどもう休めってラドクリフに促すわけよ。
 ソニエの体調にも気を配るクセして、あたしには「居眠りしていなかっただろうな」の一言よ。
 予定より一時間も早く、それに色々と気にかかることもあったのか、
ラドクリフは「まだ眠くない」の一点張り。結局、四人で不審者を見守ることになった。

 依然として不審者の意識は戻らない。
 体力は少しずつ回復してきたようで、濡れネズミの頃に比べると血色はかなり良くなっていた。
それでもまだまだ精気は薄い。どれだけ疲れ果てて、ここにたどり着いたのかしら。
 まだまだ若いってのに、何か思い詰めて、人生に疲れてマコシカまでやって来たのかと思うと、
……やるせなくなるわ。

 時々、いるのよ。何もかも嫌になって、女神イシュタルへ縋ろうとする人が。
 マコシカの集落は、余所者の訪問をあんまり歓迎はしていない。これは事実。
女神イシュタルと神人への信仰を果たすことが、あたしたち、マコシカの民の使命よ。
そこに外界の情報が入り込むと、気が散って儀式の純度が落ちるだのウンタラカンタラ……。
 早い話、頭の固いジジィどもがイヤがっているのね。

(外の人間は、どんどん変わっているわ。イシュタル信仰への考え方だって同じよ。
外の世界の信仰に寄り添えなくなったら、……自分たちのやり方だけが正当なんて言い張ったら、
イシュタル様だって悲しまれるに決まってるわ)

 酋長を襲名したとき、あたしは頭の固いジジィどもとの対決も決意した。
どれだけ文句を言われても、あたしだけは外の世界に手を差し伸べようって。
 神人の慈悲に縋りたいと言って這ってきた人たちを、追い返したくなかった。
自分にできることなんてたかが知れてるけど、相談くらい乗ってあげたいじゃない。
 それが人情ってもんでしょう?
 ジジィどもの反対を押し切ってソニエを弟子に取ったのも、同じこと。
 マコシカのことを知りたいと思った人を足蹴になんかしたくない。
何を考えて、マコシカにやって来たのか、それを知りたかったから。
 自分の行動は、最後には必ずイシュタルへの信仰に通じるって今も変わらず信じているわ。

(……こいつは、何をやらかして、ここまで逃げてきたのかしら……)

 尋常じゃない怯え方を披露した不審者は、結局、その夜は目を覚ますことはなかった。
 「目を覚ますことはなかった」なんて大袈裟に言っちゃったけど、それはあたしたちもおんなじ。
お間抜けもいいところよね。看病するって言った四人が揃いも揃って寝ちゃったんだから。
 イェランなんて、多少なりとも仮眠してたくせにがっつり寝やがったからね。
誰よりもカッコ悪かったわよ。

「――って、それどころじゃないッ!」

 目の前で眠っていた筈の不審者の姿がどこにもないッ!
 一発で目が覚めたわよ。壁に立てかけておいた軍刀がどこにもなくなっているんだから!

(油断したッ!?)

 血の気が引くとはこのことよ。このときばかりは自分のお人好しを呪ったわ。
もしも、アイツが本当はアウトローで、集落のみんなに危害が加えられたら……ってさ、
最悪の事態をまず考えてしまったわね。

(やっぱり外の人間なんて、信用しちゃいけなかったのッ!?)

 机に放り出しておいたジャマダハルだけ引っ掴んで、あたしはすぐに家を飛び出した。
ドアを足で蹴り開けたんだから、殆ど錯乱する一歩手前よね。
 三人を起こしてから出るのがベストの判断だって、後になって反省したけど、
そのときのあたしは冷静な判断を下せる余裕なんか持っていなかった。


 夜が明けても、まだ雨は降り続けている。
小降りになるどころか、勢いが増しているようにも思える大雨が――。
 雨の中、“賊”を探して駆け回るのは、とてつもなく厄介なことだった。
 足場は悪いし、容赦なく体力も奪われる。万一、戦いになったときは最悪ね。
視界が狭まれば、足を滑らせやすくなるもの。
 “賊”の得物とあたしの得物では、相手のほうが圧倒的にリーチが長い。
懐に潜り込もうとした拍子にすっ転ぶ可能性だって低くはないわ。

(て言うか、衰弱してるクセして武器持ち出すなんて、バカとしか言いようがないわッ!)

 こんなときまで“賊”を心配するなんて、あたしも大した余裕よね。
 幸い、自分のお人好しを後悔しなくて済んだから良かったものの、
雨音に誰かの悲鳴が紛れ込んだら……なんて、想像しただけでゾッとするわ。

 ――ま、“賊”って呼び方、一先ず“不審者”に戻してやったわよ。
 土砂降りの中、傘も差さずに軍刀握り締めて棒立ちなんて言う体を張った芸を、
……あたしん家の前で披露していやがったからね。

 軍刀は、鞘に納められたままだった。それを確かめたときは、胸を撫で下ろしたわよ。
抜き身で突っ立っていたら、外聞が悪くて仕方なかったわ。

「寒くない? “ジョン・ドゥ”さん?」

 ジョン・ドゥ――名前がわからないときに一番ベターな呼び方を試みたものの、反応はイマイチ。
いや、こっちを向いたから効果はあったのよ。効果は。
 あたしが言いたいのは、物理的なリアクションのことね。
ジョン・ドゥなんて呼ばれたら、普通の人間なら本名を明かして訂正を求めるでしょう? 
でも、ソイツは違った。と言うよりも、自分がジョン・ドゥって呼ばれたこと自体、
多分、認識していなかったと思う。
 声のしたほうへとりあえず首を向けただけ。そんな感じね。
 もう一つ、付け加えると、……あいつは、壊れ物同然の自分が選ぶべき道を、
誰かに示して欲しかったんじゃないかって思う。今なら、はっきりとそう言えるわ。

「……人を殺したことがあるか……」

 少しの間、あたしのことを虚ろな目で見つめていた“ジョン・ドゥ”は、
全く感情のこもってない声で、それだけを呟いた。

 ――人を殺したことがあるのか、と。

 そうやって人に問いかけるからには、“ジョン・ドゥ”のほうには経験が有るってコトよね。
 そりゃ当たり前よね。軍人だもの。命のやり取りが仕事なんだからさ。

(……誰を、……どんな相手を殺したら、こんなザマになるのかしら……)

 心がブッ壊れてしまうようなコトに手を染めてしまったことがあるのかって、
コイツは訊きたかったんだ。
 自分と同じように、白刃を振るって心を壊した経験があるのか、と。
 きつく、固く、これ以上なく強く軍刀の柄を握り締める真っ白な手は、
見ていて痛ましいくらい血管が浮き上がっている。

 「人を斬った」って言い方がOKなら、何人もジャマダハルの錆にしてきたわ。
 外の世界からのゲストは大歓迎よ。でも、マコシカの秘術や宝物を狙ってくるバカどもには、
容赦する理由が何処にある? “ご退場”願うわよ、速やかにね。
 でも、あたしが握るジャマダハルには、“ジョン・ドゥ”が全身に浴びたようなモノは染み付いちゃいない。
 罰の刃を振るうあたしが浴びるのは、罪の意識じゃなくてバカを狩った返り血だからね。
 心を壊すほどの罪に共感できる人間は、マコシカのどこを探しても見つからないと思うわ。
少なくとも、このときまでは誰もいなかった筈よ。

「……あたしの勘じゃ、雨をシャワーの代わりにしていたって、
あんたにこびりついてるもんは流れちゃくれないわよ」

 あたしなりの会心の決め台詞を、ジョークと思ったのか、それとも冗句とでも捉えたのか、
こいつは喉の奥を鳴らしやがった。どこまでも陰気な笑い声を搾り出してくれたもんだわ。

「――ま、イシュタル様の慈悲は無限だし? 神人から授かった叡智も山ほどあるからね、ここは。
悩み相談をするには一番の場所よね。話くらいは、聴いてあげるわよ」
「……俺っちは、女神サマなんか信じちゃいねぇよ」

 せっかく、あたしが手を差し伸べてやったってのに、このバカ、意地を張ってくれたのよね。
 威勢が良いのは口先だけ。自分がどんな顔してるか、コイツは絶対にわかってなかったわ。
……見てらんないもんよ、必死な虚勢なんてさ。

「道に迷って、こんなド田舎まで来ちまっただけさ。……それだけのコトさ……」

 ズブ濡れになった長い御髪(おぐし)と一緒に嘘八百を顔面に貼り付けたこのバカが、
心の底から哀しくて、どうしようもなく儚げに見えて。
 あたしは目を逸らすことが出来なかった。


二、


 ヒュー・クローウン――それが、“ジョン・ドゥ”の本名だった。
 雨垂れの出逢いから数週間を経る頃には、ヒューはすっかりマコシカの集落に馴染んでいた。
馴染んだと言うよりは、居ついてしまったと言うほうが正しいのかも知れないわね。
 ソニエやラドクリフの懸念はあったものの、結局、ヒューはあたしん家に居候。
 最大のネックはミストと合うか、どうかだったわね。
 今日から見ず知らずの男が一つ屋根の下で暮らすっていきなり言われたら、
ミストも驚くと言うか、怯えるんじゃないかってね。それが一番心配だったわ。
 ところが、我が愛娘は親が思っている以上にしっかり者で、おまけに人格者だった。
ヒューの事情をすぐに理解して、二つ返事で居候も了承してくれた。
 似ても似つかぬ二人だけど、どこかで波長が合ったのかしら。
さして緊張することもなく打ち解けてくれたわ。
 和やかに自己紹介をし合う二人を見たときには、安堵を通り越して感動しちゃったわよ。

 と言っても、働き盛りの青年を家でヒマにさせておくのもアレだったし、
家事や儀式の手伝いをしてもらうことになった。
 手先がやたら器用だから、助かっちゃったわ。食事は、まぁ、男の味って感じね。
 体力が回復して以降は持ち前の腕力を発揮して資材運びも難なくこなしてくれた。
さすがに儀式自体には参加させられないし、ヒュー本人にもきっぱり断られたけど、
とりあえずマコシカで暮らしていく最低ラインの条件はクリアね。

 案の定、頭の固いジジィどもは文句言ってきたわ。「素性の知れない男をいつまで置いておくのか」って。
大きなお世話よね。素性が知れないんじゃなくて、こっちから訊かないだけよ。
何人かは、ヒューを尋問しようとしたけど、そこは酋長の一存ってコトで黙らせてやったわ。
 ついでに言うなら、若いツバメを囲ったとか、ヒモとかふざけたコトを抜かした輩には、
軽く生まれてきたことを後悔してもらったわよ。

 尤も、バカバカしい横槍は最初の一、二週間でぱったりと止んだ。
 ヒューのほうから集落のみんなに上手く入り込んでいったって言うべきかしら。
堅物連中とも器用に渡り合っていたわ。
 陰気を通り越して亡霊みたいなヤツ――そんな第一印象は、完全にひっくり返っていた。
 良く言えば、「根が明るい」。悪く言えば、「お調子者」ってね。
 みんなと打ち解けてくれて安心は安心だけど、半月もしないうちに集落中の女をナンパすんのは、
ちょっとどうかと思うのよね。しかも、五歳児から百を超えたおばば様まで口説くって、
ストライクゾーンが広すぎるでしょうが!
 おばば様もおばば様で、すっかりヒューに乗せられちゃって……。
止めてなかったら、マジでシャレにならないコトになってたわよ!?
 おばば様の一件で張っ倒してやってから、あたしもヘンにこいつの扱いに慣れちゃって。
ヒューがアホをやらかす度に、一発、喰らわしてやるのがお決まりのパターンになっていった。
 もう一つ、付け加えると、ヒューを悶絶させたあたしがミストから「やりすぎてはいけません」って
注意されるのもパターン化されました。はい、娘に注意されるダメ母です……。

「……ミスト、もしも――もしもだぞ? もしも、おっかさんからヒドい目に遭わされたり、
身の危険を感じたら、すぐに俺っちに相談しろよ? 出るトコ出て、お前さんを守ってやるからな?」
「あんた、ミストになんてコトを吹き込んでんのよ!? あたしがそんなサイテーの親に見えるワケ!? 
バカ抜かしてると、本当に追い出すわよッ!?」
「だって、心配になるじゃね〜か。俺っちの頭を打楽器みてーにポンポンとブン殴ってくるしよぉ」
「お母さん、あの……ヒューさんも悪気があったわけじゃありませんし、わたしは気にしていませんから。
それよりもあらぬ誤解を持たれると言うことは、お母さんの注意の仕方が問題なのかもしれません。
パンチじゃなくてしっぺに切り替えるとか、……ううん、口で注意するとか。
もう少しヒューさんにも優しくしてあげてくださいね?」
「あッれェーっ!? あたし!? あたしが悪者になっちゃってない!?」
「娘の目から見てもヒールって、すげぇな、お前。逆にちょっと尊敬するわ」
「ィよーし、コレはもうケンカ売ってると見なしていいわね? ブン殴る理由として正当よねッ!?」
「お母さん、いけませんって」
「――目を覚まして、ミストっ! お母さんとあのバカ、どっちの目が澄んでいるか、よく見てぇっ!?」

 勿論、他のヤツにはやんないわよ、こんなこと。
 見た目、ヘラヘラしてるクセして、その実、バカみたいに強いってわかってるから、
遠慮なくブン殴るのよ。信頼の証なのよ、ええ。
 ……ミストに悲しい目で見られるようになってからは、さすがに控えているんだけどね。
少なくとも、ミストの前ではね。

 ミストだって、ヒューの強さを見れば考えを変えてくれると思うんだけどなぁ。
 日常の仕事の合間に武術の稽古にも何度か手を借りてね。
模擬戦にも参加して貰ったら、あんた、それなりに訓練を積んでる連中も軽くあしらわれたわ。
 ソニエもその一人ね。今はどうかわからないけど、その当時は殆ど歯が立たない状態だった。
あのコったら、地団駄踏んで悔しがっていたっけ。
 人のことは言えないわよ? 腕に覚えのあるあたしだって、良くて競り勝ち、悪いと惜敗。
引き分けに持ち込めれば御の字だったんだから。
 集落でも一番強いって評判だったイェランでさえ、十八番を出す前によく転がされていた。
 おまけにヒューのヤツ、何をこだわってんだか、軍刀も抜かないのよね。
プロキシ相手にステゴロで戦(や)るのよ。見上げたクソ度胸だわ。

「あれは、おめー、飾りみてぇなもんだぜ? そもそも俺っちの得意は剣術じゃねぇし」

 キザったらしい喋り方がムカついて仕方ないけど、実力は折り紙つきね。
 銃剣術を齧った程度って言うクセして、あたしの太刀筋を簡単に見破っちゃってさ。
 ……血が騒いだわねぇ。こっちも工夫のし甲斐があるってもんよ。
 ラドクリフにも色々とアドバイスしていたわ。
 この色男、銃剣以外にもやたらめったら武器の使い方に詳しくて、
矢を一気に束ねて射る技とか、それこそ外の世界にしかないような芸当を幾つも教えてくれたわ。
 あいつから話すことはなかったし、こっちも訊いたりしないんだけど、
脱走してきた――これもあたしたちの想像――軍隊ってのは、化け物が犇いていたんじゃないかしら。
戦闘に関しちゃ何でも単独(ひとり)でやれる、みたいな。
 ヒューの手ほどきを受けてからはイングラムの使い方が全然変わったって、ラドクリフも驚いていたわ。
 そりゃ驚くわよね。弓矢は弓矢でも、イングラムはれっきとしたプロキシ。
神人から授かったエネルギーを加工したシロモノだから、
世間一般に出回っている弓矢とは全く要領が違う筈なのよ。
 ヒューってば、プロキシの原理を把握した上でイングラムの使い方を研究したってコト。
プロキシの修行もしてないのに…って、ソニエもラドクリフと一緒になって唖然としてたわね。

 ラドクリフと言えば、彼の師匠でもあるホゥリーが“外の仕事”の休暇を利用して集落へ帰省したときのこと。
 自分の知らない間に増えていた新しい住人に、あのゲス野郎ってば、
見ているこっちがドン引きするような勢いで根掘り葉掘り質問責めよ。
 ホント、人を不快にさせることには全力よね。興味本位でタブーにも平気で触れやがるしさ。
 ヒューもすぐにホゥリーの人となりがわかったらしく、
まともに相手をせず、のらりくらりと質問をかわすようになったけど、
だからって気分が良いもんじゃない。胸糞悪いに決まってる。
 ひとまず、ホゥリーをヒューから引き剥がして、マコシカに身を寄せた経緯を説明してやったわ。
 そのとき、二言、三言、ゲスいことを言われた気がするわね。
デコピンで速攻黙らせてやったから、何を言いたかったのかは、分からず仕舞いねぇ。

 ……まあ、ホゥリーにヒューのことを話したのは、実はちょっとした思惑もアリ。
 外の世界で仕事をしているホゥリーなら、ヒューがどこからやって来たのか、
何かわかるかも知れないって思ったのよ。
 もしも、ヒューが有名な軍の出身なら、軍服なりトレンチコートなりを見れば、
ホゥリーも何か思い当たるんじゃないかってさ。
 このゲス野郎と同類項になるのは、わかってるわ。でも、あたしは確かめずにはいられなかった。

 気に掛かるのよ、やっぱり。気にならないほうがおかしいわよ。
 雨の日になると、決まって窓辺に立って、じっと外を眺めている。
雨垂れが自分の身の穢れを落としてくれないかって、そればかりを願っているような――。

 ヒューのことを、少しでも分かってあげたい。
 だから、無茶を承知でホゥリーの知識に賭けたの。……結局、ホゥリーをもってしても、
ヒューの正体を掴むことはできなかったのだけどね。

「ワーク柄、コンバットやアーミーにもリトル詳しいつもりだヨ? 
それでも全然ピンとカムしナッシングよ。トゥルーにミリタリーなメンなの? 
リアルはコスプレくんでしたーとか、チープなフィニッシュじゃナッシング?」

 ヒューってば、当人の知らないトコでホゥリーに不名誉なレッテルを貼られちゃったわね。
 素性がわかるのなら、いっそ、コスプレくんでも構わなかったわよ。


 大雨の中、濡れ鼠であたしの前に現れたこの男が、ヒューが何者なのか――
 程なくその答えを知ることになったのだけれど、真実への扉が開かれた“その日”は、
あたしにとっては、……ううん、マコシカの民にとって、忘れ難い一日になってしまった。

 まるで何かを暗喩しているように、その日も前夜から大雨だった。
 例によってヒューは口数も少なく、ボケーッと窓の外ばかり眺めていたわ。
ミストからお菓子作りを手伝って欲しいと誘われるまで、飽きることなくずーっとね。

 それにしても、ヒューのことに気を配れるなんて、
あたしの娘って、ホント、健気でいじらしくて愛らしくて……ッ!
 いずれラドクリフから『マコシカで嫁にしたいランキング』の王座を奪取するに違いないわ。
残念だったわね、ホゥリー? 今年こそはうちの娘が主役よ!

 ラドクリフを超えることが約束された愛娘は、ヒューとのお菓子作りを楽しんでいる様子だった。
 手先が器用でも、お菓子作りはさすがに勝手が違うみたいで、ヒューにしては珍しく悪戦苦闘。
情けない声で助けを求める始末だった。
 微笑ましいキッチンの様子を眺めながらも、あたしとソニエは集落に伝わる秘伝書を紐解いてプロキシの勉強。
 ソニエの腕はますます上達。その内に追い付かれるんじゃないかって、内心、冷や冷やしていたわ。

 あたしの目には、何の変哲もない平凡な一日だった。
 きっと、いつもと同じように穏やかに暮れていくのだと、信じて疑わなかった。
 けれど、何かが動き始める瞬間と言うものは、何の前触れもなく唐突に訪れて、
「いつもと同じ」、そんな日常を容易く壊していく。
 台所で悲鳴を上げているロンゲ野郎がこの家にやって来た日も、そうだった。
緩やかに過ぎるとばかり思っていた平和な時間は、ラドクリフのノック一つで吹き飛んだのだ。

 ミストとヒューのお菓子作りがオーブンに掛ける直前まで進んだとき、
我が家のドアが無遠慮にノックされたのよ。
 雨音を噛み砕くような、大きなノックが二度、三度と繰り返された。
 ノックに続いてドアの向こうから聞こえてきたのは、
「ピンカートンさん、ご在宅ですか? ピンカートンさん!」と、あたしのファミリーネームを呼ぶ声。

 記憶にない声だった。もっと言えば、マコシカの民にこんな声の持ち主はいない。
 しかも、声色が明らかにおかしい。切羽詰ってる人間って、どうしてこう声が裏返るのかしら。
 反射的にガンストックのプロキシを発動させたソニエは勿論、
尋常じゃないと気付いてキッチンからやって来たヒューも拳を鳴らして、“万が一”に備えている。
 ジャマダハルは寝室に置いてあるけれど、二人が臨戦態勢を取っているなら先ずは安心ね。
 もしも、ドアの向こうに立つのが悪意ある者だった場合、
あたしもガンストックを作り出して応戦するつもりだった。
 不安そうに立ち尽くしているミストに「大丈夫だから、部屋に行ってなさい」と声を掛け、
素直に二階へ上がっていったのを見届けてから、あたしはドアの前に立った。
 ミストの足音が上階へ消えるまでの間にも、ノックと呼び声は続いていた。

「これをどう見る? 居候サン?」
「気配からして徒党を組んでるのは間違いねぇな。でも、家を取り囲んでるわけじゃねぇ。
気配も玄関に集中してるぜ」
「正面から突っ込んでくるってコトはないわよね。あたし、見た目通りにか弱いのよ? 
腕力に物を言わせて押さえ込まれたら、一たまりもないわ」
「……先生、あたし、そのテの自虐ギャグには時々随いてけませんよ。居候サン、あんたはどう?」
「ソニエちゃんもまだまだ観察が足んね〜な。ありゃあ、ツッコミ待ちってヤツだぜ。
まあ、ネタ振りが自虐だから、結局は一緒なのかもだけどよ」
「……あんたら、コレが終わったら、とっちめてやるから!」

 失礼極まりない居候どもはともかく――三人で談じて導き出した結論は、
とにもかくにもドアを開けて状況を正確に把握すること。これに尽きる。
 「今、出るわよ」と返事をし、間髪を容れずにドアを押し開くと、
そこには、やっぱり見たこともない男が数名ばかり難しい顔をして立っていた。
 誰ひとりとして顔に見覚えがないのだけど、先頭の男を頭のてっぺんから爪先まで観察してみたら、
その身分は一発でわかった。自身が何者かを内外に知らしめる物を、彼らは携えていた。
 全員、胸に星型のバッジを付けていたのよ。
 エンディニオンでこのバッジを付けて活動する職業は、たったの一つしかない。
彼らは、地域の治安を守る為に活動しているシェリフ(保安官)だった。

 身分と言うか、職業はわかったけれど、目的までは判然としない。
 まさか、ヒューを探しにきた、とか? イェランが言うような脱走兵だったなら、
捜査の手が及ぶ可能性は高い――……いや、脱走兵の捜査は同じ軍が行うハズよね。
 軍でなくシェリフが動いたとなると、もしかして単純に行方不明者として捜索願が出されたとか?
 あたしの頭の中で堂々巡りするアレコレの憶測は、
全てが当たっているように思えるし、全てが外れている気もする。
 ……つまりね、こんがらがっちゃったワケよ。

 そもそも、シェリフがマコシカの集落に足を踏み入れるなんて前代未聞のことだった。
 ここいらの地域を統括するシェリフオフィス(保安官事務所)は、
あたしの記憶が確かなら、隣町のベルフェルまでが管轄の範囲だった筈よ。
マコシカの集落には、ノータッチだったじゃない。
 それにも関わらず、ガンベルトにリボルバー拳銃装備でやって来たってコトは、
よっぽどの事件が起きたってコトね。

 重大事が発生したと速攻で悟ったからこそ、
予想し得る最悪の事件(ケース)として、ヒューの身柄の捜索を疑ったのだけど、
実際に彼らが我が家を来訪した理由は、あたしの予想とは全く関わりのないコトだった。

 シェリフ曰く、昨夜、隣町のベルフェルで殺人事件が発生したとのこと。
犯人は逃走中。それで、マコシカの集落にも目撃情報を聞き込みに来たってワケね。
 言葉巧みに隠してたけど、それがシェリフの“建前”ってコトはモロバレよ。
いや、聞き込みってのも捜査の一環ではあるんだろうけどね。
 こいつらの本当の目的は、マコシカの民の中に潜んでるかもしれない犯人の発見ね。
てか、ハナからあたしらを疑いまくってるわよね。
 マコシカに対する外の人間の見方は、大体、パターンが決まっていて、
ソニエみたく神秘に対する興味を持っているか、アウトローのように財宝を狙っているか、
あるいは、古代民族ってだけであたしらを得体の知れないカルト集団と見なしているか。
 シェリフ連中は、間違いなく三つ目。大方、呪いの儀式をする為に生贄を捧げたとか、
そーゆー風にあたしらを疑ってるんでしょうね。
 ンなヤバい儀式をマジでやってたら、もっと早くに問題になってるでしょうに。

 ヒューとは別の意味でデリカシーのない連中よね。
 口には出す度胸はないクセして、目では完全にマコシカを化け物扱いよ。
こいつら、頭ん中で、どんな邪悪な儀式を思い描いてんのかしら。
いくらなんでもビビり過ぎじゃない? 何なら、マジでそーゆーコト、やったろうかしら!?

 ……と言うわけで、シェリフの訪問を受けてからはバリバリ不機嫌よ。
 正義の味方気取りの肩越しに見えるのは、不安そうにこっちの様子を窺うマコシカの仲間たち。
何だかんだ言って、コレが一番頭に来たわね。
 正義の味方のつもりなら、無闇にパンピーを混乱させるんじゃないわよ。

 この無礼な連中にどうやってお引取り願おうかと、世間話しつつアレコレ頭を捻っていたら、
突然、後ろからすごい力で押しのけられた。
 玄関の狭いスペースから力ずくで追い出されたあたしは、そりゃあ、驚いたわね。
何とヒューがあたしの前に躍り出たじゃない。
 あたしゃ、てっきりキレたソニエがシェリフ相手にガンストックで殴りかかったのかと思ったわ。
 ヒューの頭越しに「誰です?」と尋ねてきたシェリフには、ひとまず「家人」と答えておく。
いちいち説明するのも面倒だし、ヤブ蛇だったら、それこそ目も当てられないもの。
 家人と言う説明におかしな誤解をした様子のシェリフ、あたしとヒューとを交互に見比べて、
何やら「頼りになる旦那さんだ」とか頷いていたけれど、それもすぐに打ち切りになった。

「捜査の邪魔にならねぇ範囲でいいんだけどよ、事件のことを詳しく教えてくれねぇか? 
どうせ協力するなら、とことんやったろうじゃね〜か」

 この場にいる誰もが想像していなかったことをヒューが言い出したんだ。
 捜査にとことん協力する。これは別に構わない。マコシカの潔白を証明する為だもの。
あたしらが驚かされたのは、その前ね。事件のことを詳しく教えて欲しいだなんて、
まるで捜査そのものに参加するような口ぶりじゃないの。

 ソニエが家から持ってきた推理小説に、こんなようなシチュエーションがあったわね。
シェリフでも何でもない人が、持ち前の洞察力を駆使して犯罪捜査をやってのけるってヤツ。
 推理小説の世界じゃポピュラーなコトを、このバカは現実でやろうとしてる。
いくらなんでもそれは無謀ってモンじゃない? 腐ってもシェリフは犯罪捜査のプロなのよ?

「しばらくあんたと一つ屋根の下で暮らしてたけど、
あんた、いつの間に探偵事務所なんて開いたのよ? それとも、シェリフの助手にでも就職ゥ? 
……恥かかない内に引き下がったほうがいいって、マジで」

 ソニエもあたしと同じことを考えたみたいね。
早速、ヒューに「迷探偵」なんてニックネームを進呈していたわ。

「……ご協力、願えますか?」
「俺っちで良ければ、いくらでも。ただし、他の連中にはノータッチで頼むぜ。
必要な人間に、必要なだけ話を聴くってコトにしてくれや。戸別訪問は堪忍な」
「しかし、それでは……」
「どんな情報が捜査に必要なのか、そこをまずハッキリさせようぜ。
アシで稼ぐのは調査の基本かもしんねぇが、効率悪いコトしても仕方ねぇだろ? 
……ココは、もともとは静かな場所なんだよ。それを、お前らがガチャガチャ騒いでみ? 
みんなも警戒するし、そーなりゃ聞き込み調査も行き詰っちまうぜ」
「うむー……、一理ありますが……」
「お、話がわかるじゃね〜の。そうそう、頭使う仕事は、柔軟性が大事だぜ」

 意外にもシェリフはヒューの口出しを怒ろうとはしなかった。
それどころか、聞かれてもいないことまでベラベラ喋り始めたわ。
 守秘義務って言うんだっけ? そのあたりのルールは、一体全体、どこにブッ飛んだのやら。
 ましてや、ヒューとはさっき初めて顔を合わせたばかりなのよ? 
信用できるかどうかも確かめないうちに殺人現場のコトまでバラしちゃって良いのかしら?
 逆を言えば、一般人に協力求めなきゃならないくらいシェリフ・オフィスはダメ揃いなのかって、
コワくなる話よね、コレ。


 ヒューが口八丁でシェリフから聞き出したところによると、事件当夜のあらましは、大体、こんなカンジ――。

 殺されたのは、隣町でサルーンを経営している男。年齢は三十二歳。
 死体の第一発見者は、その妻。三十歳。サルーンではフラメンコによる演芸も披露。
夫婦の寝室は別々。事件当夜も妻は自分の部屋で寝ていたのだけど、
夫の悲鳴に飛び起きて、大慌てで相手の寝室に駆けつけた。
するとそこには血まみれで倒れる夫の姿が――と言うわけ。
 ちなみに、夫はドアのすぐ近くで倒れていたそうよ。
おそらく襲撃者から逃れようとしたんだろうってのが、ヒューの推理ね。
あいつ、したり顔で言いやがったけど、そんなの誰だってわかることじゃない。
 検死の結果は出ていないけど、おそらく死因は脳挫傷だとシェリフは説明していた。
 凶器は、硬い鈍器のようなもの――要するに、殺された夫が愛用していた灰皿ね。
部屋の至るところが煙草の吸殻と灰とでめちゃくちゃに汚れていたそうよ。
 そして、この事件の一番の肝。犯人はどこから来て、どこに去ったのか。
 夫の寝室にあるたった一枚の窓ガラスは、妻が現場に駆けつけたときには割れていた。
正確には、突き破られていたと言うべきね。
 犯人は大胆にも窓ガラスを突き破って侵入してきたみたい。
 現在進行形で現場検証の最中らしいから新しい情報が出てくるかも知れないけど、
今のところ、第一発見者である妻の証言は、こんなところかしら。
 それにしても、窓ガラスをブチ破ってご登場とは、ハデ好きも居たものよね。
物盗りに入るんなら、せいぜい窓の一部を壊して鍵を外すとか、音を出さない工夫をするハズよ。
 ハナから殺しに来たって言ってるようなものじゃない、コレ。
いや、殺すにしても、窓破って入ったら相手に逃げられるんじゃないかしら。

 ズブの素人のあたしですら、ちょっと考えただけで幾つも不審な点に気付いたわ。
何だか妙に冴えてる「迷探偵」は、あたしなんか比べ物にならない量の疑問を、
アタマん中に浮かべているんでしょうね。

「ここいらの天気予報の的中率って、大体、どのくらいなんだい? 
厳密じゃなくていいんだ。体感でもいいから、教えてくれねぇかい?」
「……は?」
「いやね、正直、マコシカに来てまだ日が浅いんでさ、そこらへんのコトがわかんねぇのよ」

 ヒューの質問に、シェリフは少しだけ面食らっていた。
 そりゃそうよ。殺人事件の捜査と天気の的中率なんて、一体、どんな関係があるわけ?
 シェリフたちは相談し合って「八割」と言う答えを出していたけれど、
最後まで「迷探偵」の意図をわかってなかったわね。
 あたしたち、“身内”にもヒューが何をしたいのか、殆どわかんなかったわ。

 考えをまとめる為だか何だか知らないけど、ひとしきり頭を掻いたヒューは、
「そんじゃ、現場見ようか、現場。当たり前だけど、現場保存はしてあるんだろうな?」と
調子よくシェリフたちを促して、ベルフェルの殺人現場に行ってしまった。

「ちょちょいと終わらせてくるわ」

 出掛けにまでヘラヘラと余裕かましてくれちゃったけどさ、
我が家の「迷探偵」は、ことの重大さってのが、わかってるのかしら……。


三、


 「迷探偵」がシェリフと一緒に殺人現場へ赴いてから二時間――
我が家は、ちょっとしたティーパーティーの会場になっていた。
 と言っても、ヒューを働かせておいて、自分だけ遊んでいたわけじゃないのよ。
 何の連絡もなしに大挙してきたシェリフを見て不安がるみんなへ事情を説明し、
「殺人事件」と言う刺激的なフレーズに狼狽した人を宥め終わったのが、つい数分前。
 酋長としての大仕事を済ませてきたのだから、
話し疲れてガラガラになった喉を潤すくらい許して欲しいわ。
 何しろ、いつも以上に疲れていたのよ。
 村に変事あれば真っ先に駆けつけてくれる筈のイェランが不在だったのも痛かった。

 解散した後にイェランの家も訪ねてみたら、もうゾンビみたいな顔をしていたのよ。
 前の日から体調を崩していたと言うイェランには、「助けてやれなくて、すまなかったな」なんて、
殊勝にも平謝りされちゃったわ。
 そしたら、あたしも「具合が悪いときは仕方ないわよ」って答えるしかなかった。
 集落のみんなもイェランのことは心配していたわ。ここのところ、ずっと調子悪そうだったって。

(無理をさせるわけにはいかない。みんな、イェランを気遣っていたのよね――)

 げっそりとしたイェランと別れて帰宅したんだけど、問題はそこから先よ。
 くたびれて帰ってきたって言うのに、一番見たくなかった物体が床に転がっているじゃないの。
 その物体ってのは、言うまでもなく、ホゥリーの野郎。あいつ、家主の断りもなく家に上がり込みやがって! 
おまけにあたしのお気に入りのクッションを枕代わりにしてゴロ寝と来たもんだ。
 ソニエから事情を聞かされていなかったら、顔面を踏み抜いてやったところよ。

「ごめんなさい、酋長……ぼくがいけないんです……」

 ホゥリーの隣には、申し訳なさそうに座っているラドクリフ。
ソニエの話では、このコ、あたしの心労を気遣って様子を見に来てくれたらしいのね。
ホゥリーは、言わばそのおまけ。大方、ただ飯にありつけるとでも期待したんじゃないかしら。
 ラドクリフに免じて許してはやったけど、
あんまりおイタが過ぎるようなら容赦なく大雨の中に放り出してやるつもりだったわ。

 まあ、その辺りはラドクリフが手綱を引いたから大丈夫だったわね。
 ミストお手製の焼き菓子を一人で貪り食おうとしたときも、ラドクリフに手を叩かれていたものね。
弟子にまで叱られるなんて、ダメ師匠の典型じゃない。

「――先生、ヒューのことが心配なのはわかりますが、
だからって着替えもしないままウロウロされても困りますよ。今、風邪を引くのは最悪でしょ?」
「な、何をトボケたこと、言ってんのよ!? あたしは別に……」
「おトボケは先生でしょうが……。先生の歩いたトコ、全部水浸しですよ。
それともこの家、雨漏りでもしてるんでしたっけ?」

 ……はい、すいませんでした。あたしも師匠失格でした。
 集落のこと、殺人事件のこと、イェランのダウンのこと、そのほか諸々――
とにかく心配事が多すぎて、気付かない内に思考が散漫になっていたの。
 ソニエに窘められて自分の足元に目を落とせば、ご指摘の通りに見事な水溜り。
そりゃそうよ、濡れたままで着替えもしてないんだもの。
 自覚症状もないなんて末期も良いところじゃないのさ……。

 シャワーを浴びるようミストには勧められたけど、その間に新しい動きがあったら困るし、
濡れそぼった服を着替えるだけに留めておいた。とにかくあたしは一秒でも惜しかったのよ。
 二階の自室で新しい衣に着替えて、すぐさまに階下へ戻ろうとしたあたしの目に、
父様の――いえ、ヒューの部屋のドアが飛び込んできた。
 階段への進路上にあるのだから否応なく目に入るのだけど、それは当たり前のことなんだけど、
何故だか、そのときは妙にそのドアに引き付けられてしまった。
 おまけに足まで止まってしまって、いよいよそこから先には進めない。
 傍から見たら、とんでもなく間抜けな絵面よね。
ヒューの部屋のドアを、ノックも何もせずにジーッと見ているんだもの。

(……アイツだって、いい大人だもの、ね)

 ここで心配しても詮ないってわかってるのに、どうして立ち止まったかねぇ、あたしの足は。
 古びたドアが発生源の意味不明な引力から強引に足を引き剥がして、急いで一階に降りたわ。
 降りたら降りたで、ささやかなティーパーティーにも加わらず、窓辺に一直線。
その様子は、ソニエ曰く「窓に吸い込まれていきましたよ」。
 無意識って怖いわね。ホント、怖いわ。窓辺に立つまでの一連の行動、全部無意識なのよね。

「ドーターほったらかしでヒモのコトばっかシンキングってかい。
酋長ってば、パーフェクトにフォーリンだねぇ。なんなら、今からベルフェルへゴーしたら? 
旦那を引き取りにカムしましたってサ」
「――なッ!?」

 恥ずかしいったらありゃしない失態を、真っ先にからかってくるとしたら、
コイツだとは思っていたわよ? でも、本当に予想が当たると、やっぱり頭に来るものね! 
予想していたから平気? ンなコト、あるわきゃない!
 しかも、コイツめ、怒声をぶつけられないよう事前に盾を構えていやがったのよ。




 でっぷりと肥えたこの野郎の腹の上には、スヤスヤと眠るラドクリフ。
ミストはそれを微笑ましそうに眺めていたけど、あたしにとっちゃ最悪にムカつくわ。
ラドクリフを盾にされたんじゃ、バカをどやしつけることもできやしない。

「それにしても、酋長のヒモちゃん、トゥデイはベリー張り切ってるネ。
ルナゲイトのレディからリスニングしたヨ。ヒモちゃんてば、セルフからタッグを申し出たんだって? 
マコシカのメンでもナッシングなのに、ルック上げた根性だ」

 立て続けに厭味が飛んでくるかと思いきや、案外、まともなコトを言い出した。
 ソニエもホゥリーの発言には同意するところが多かったみたいで、ウンウンと頷いている。

「見せてやりたかったわよ、あいつの迷探偵っぷり。
シェリフでも助手でもない一般人の分際で出しゃばるヤツって、
推理小説やサスペンスドラマでありがちでしょ? あいつ、それをフルコースでやらかしたのよ」
「まー、リアルでやったらバッドだネ。ドラマでルックするだけってのがグッドで、ベターよ。
一般メンに頼っちゃうくらいだからプロブレムはナッシングだろうけど、
ストレンジな真似でもしちゃった日には、捜査ジャムでアレストだヨ」
「かれこれ、もう二時間よ。あいつが隣町へ行ってから。
そろそろ容疑者集めて迷推理でもやってるんじゃない? 
それか、アンタが言うように捜査妨害でブタ箱コースへまっしぐら」
「酋長のイメージダウンはエスケープできナッシングね。ヒモがアレストされました。
しかも、シェリフのワークにネックをチャージしたのが原因です。
……ワオ、ボキったらウキウキしてきたヨ。ザットな発表、酋長ってばどんなフェイスでやるのかネェ〜」

 本人いないからって、好き勝手言ってるわねぇ。
あ、いや、この二人の性格上、ヒューがいても平気で茶化すかしら。

 甚だ不本意ながら、アイツの名誉の為に言っとくと、
興味本位で殺人事件に首を突っ込んだわけじゃないわよ。
バカはバカなりに、この集落のコトを考えてくれていたわ。

 「マコシカの仲間」にあらぬ疑いが掛かるのを、あいつは黙っては見過ごせなかったのよね。
だから、シェリフと対峙したのよ。他のみんなに手出しさせないように、ね。
 ……マコシカの盾になってくれたのよ、アイツは。
 あいつがシェリフを相手に上手いこと取り成してくれなかったら、
今頃、集落中が捜査の名のもとに踏み荒らされ、大混乱に陥っていたに違いないわ。

「もしかすると、リアルでディテクティブだったのかもね、酋長のヒモちゃん」

 ホゥリーが面白いコトを口走ったのは、そんなときだった。
 殆ど反射的に「どう言う意味よ?」と尋ねてみたら、ホゥリーはしたり顔で「セイったまんまのミーンさぁ」。

「シェリフから捜査のインフォメーションをメニーメニー引き出していたんだよネ? 
おまけにウェザー予報までチェックと来たもんだ。被害メンの半径数メートルにこだわらず、
トータル的に事件全体をリサーチして、クリミナルに迫っていくメソッドをネ、
巷じゃプロファイルってコールするのサ」
「……初めて聞くわね。それが探偵の仕事だって言うの?」
「ノンノン、ディテクティブには限らナッシングよ。
プロファイラーって言う専門メンを抱えるシェリフ・オフィスもあるらしーしネ。
要はクリミナルの行動分析ネ。事件現場のシチュエーションとか、キリングの手口とか、
モア言うなら、現場へのインとアウトにも注目して、クリミナルの性格とか特徴を分析するノ」
「だから、その違いがわからないのよ。推理でしょ、それ。探偵の仕事じゃない」
「もったいぶらずに言いなさいよ! 先生を困らせるんじゃないわよ!?」
「推理っちゃ推理だけど、クリミナルを直接ヒットするワケじゃナッシングなのヨ。
クリミナルのキャラクターとか行動パターンを細かくアナライズするのが、プロファイルの本質ネ。
で、アナライズの結果にヒットするようなパーソンを被害メンの周辺でサーチして、
引っ掛かったら事情をリスニング。……ターゲットを絞り込むワークなのサ。
ボキとしては、推理がディテクティブのメインのワークって言うアホ丸アウトのチミたちに
ツッコミをインしたいトコだヨ」

 
 てっきり探偵気取りで口から出任せ言ってるのかと思っていたあたしには、
プロファイルなんてものは、天地がひっくり返るような驚きだったわ。
あいつとシェリフのやり取りに、そんなに深い意味があったなんて――ってね。
 ホント、何も知らなかったのよ、アイツのこと。

 ホゥリーが言うには、探偵の仕事とプロファイルは近い関係にあるみたい。
素行調査とか行方不明者の捜索にも、行動の分析は必要不可欠なんだって。
 だから、前職が探偵じゃないかって、ホゥリーは睨んだみたいね。
でも、それはとんだ薮睨みよ。て言うか、ちょっと前に質問したコトを、すっかり忘れてるじゃない。

「――あぁ、ソーリーソーリー。ヒモちゃんがアーミーってコトをコロッとフォーゲットしてたゼ。
アーミーでプロファイルにインサイドなポストは、さしずめ諜報員かネェ」

 ヒューが元軍人なのは間違いない――
そうツッコミを入れようとした矢先、ホゥリーから「諜報員」と言う耳慣れない名前が飛び出した。
 諜報員と言うのは、情報の収集や工作を専門的に行う部署のことね。
危険な敵状視察の任務は勿論、偽の情報を触れ回り、敵を霍乱することも多いらしく、
相当な技量の持ち主だけが生き残れるとホゥリーは説明を締め括った。
 成る程、敵の動向を探るにはプロファイルの能力が求められるわねぇ……。

「ボキの想像だからトゥルースはどうかわからナッシングよ? 
そもそもコマンドーなセクションとは関わらナッシングようにしてるんだからネ。
バットしかし、さっきセイったような諜報員か、同じようなデューティを与えられるフォースなのは、
ボキがルックしたところ、きっとヒットしてるハズだヨ」

 本人不在につき、確認することはできない。
いや、仮に図星を突かれたからと言って、ヒューが白状するとも思えない。
 それでも、ホゥリーはかなり核心に迫っているような気がした。
思わず鵜呑みにしそうになるくらい、コイツの想像には説得力があったもの。

(“殺した”って言うのは、その任務の最中に――ってコトかしら)

 あたしの単純な発想じゃ、敵軍の情報を掠め取る為に人を騙して陥れて、
追い詰めた末に死なせてしまったとか、月並みなことを思い浮かべるのが精一杯。
 諜報の何たるかを知らない人間には、これが限界ってコトよ。
 それなのに、あたしったら、根性が汚いのかしらね。ヒューに悪いと思いつつも邪推を止められなかった。

「今日はお母さんがヒューさんの代わりですね」

 自覚できるくらい難しい顔してウンウン唸っていたら、ミストから笑われちゃったわ。
雨の日の窓辺は、あいつの定位置だったわね。
 あいつの代わりにここに座って、あたしはあいつのことばかり考えている。
考えてるって言うか、あんまり誉めれたもんじゃない想像を膨らませている。
 子どもの教育にもよろしくないわね、今のあたし。

「ヒューにはナイショよ? あいつに知られたらどんな風に冷やかされるか、考えただけで怖くなるわ」
「わたしは誰にも言いませんけど、ソニエさんが……」
「迷探偵もあたしもピンカートンの家に同居する居候ですし、情報は共有しておきませんと」
「言ってる意味がわからない! 笑い話のタネでしかないでしょーが、それはッ!」
「ヘイヘイ、レディたち。ボキのコトもフォーゲットしナッシングでヨ? 
ウォークするスピーカーとの評判と実績を、チミたちにショウオフしよう。
トゥモローのナウ頃には、ヴィレッジ中のエブリバディがウワサにしてるとプロフェットしとくヨ」
「ンなことしてみなさいよ、あんたの有給、全部療養で消させてやるから!」
 
 反射的にホゥリーを怒鳴ったら、案の定、あいつの腹の上で昼寝してたラドクリフが起きちゃって。
起き抜けに「お師匠様、いじめられてるんですか?」なんて言うもんだから、ああ、もう……っ!


 何だか急に自分が恥ずかしくなって、窓から離れようとしたその瞬間よ。
 降りしきる大雨の中、水溜りを蹴りながら集落を突っ切る人影が視界に飛び込んできた。
 と言っても、いつぞやのようなギャング団じゃない。先頭を走るのは、見紛うことなくヒューだ。
隣町へ向かったときと同じようにシェリフ連中を引き連れている。
 ただ、様子がおかしい。上手いこと話を取りまとめて、和やかに去っていった二時間前とは殆ど別人。
物々しいとか、そんなレベルじゃないわ。シェリフの内、数人はガンベルトから拳銃を引き抜いている。
 ヒューだって武器こそ持っていないけど、尖がり方が普通じゃなかった。
冷酷って言うか、殺伐って言うか――あんな表情(かお)を見せるのは、そのときが初めてだった。
 しかも、我が家を素通りしていくなんて。
 それはつまり、酋長への報告よりも優先するべきことが、マコシカの集落で発生したってコトで……。

(……それとも、本当にこの集落に殺人犯が……ッ!?)

 有り得ないこと、あってはならないことが頭を過ぎり、あたしは大慌てで頭を振った。
 ……でも、それ以外の可能性なんか見つからない。

「ミスト、絶対に家の外に出ちゃダメよ! お母さん、ちょっと出かけてくるからッ!」

 いつものように家の中で待機するようミストに言いつけると、
あたしは娘の返事も待たずに大雨の中を飛び出した。
 雨水を蹴る足音は、何人分だったかな。
 ソニエが随いてくることは織り込み済みだけど、その日の雨音には気色悪いゲップが混じっていた。
 珍しいことに、ホゥリーもあたしたちを追いかけてきたのよ。
あいつが自分から厄介ごとに首を突っ込むとは信じられなくて。
明日は槍でも降るんじゃないかって、思わずソニエと顔を見合わせたわ。

「お師匠様、ちゃんと身を入れて走ってくださいっ! 皆さんに置いていかれますよ!?」
「ザットはファーストからわかってるコトだロ。ボキはアスリートじゃナッシングだからネ。
ヒットり前だけど、ディテクティブでもナッシング。酋長をホーミングすること自体、
ボキはナンセンスだってシンキングだヨ」
「ダメですっ! こんなときこそ郷里(さと)に協力しなきゃ! 
そんな薄情な人には晩ごはんも作ってあげませんよっ?」
「……アイシー、アイシー。ラジャりましたヨ、ヘイヘイ……」

 不愉快なゲップに続いて聞こえてきたのは、やっぱりやる気のなかった師匠を嗜めるラドクリフの声。
 あのバカデカい尻を叩けるようになるなんて、ホント、しっかりしたわねぇ。

 傘も差さずに猛ダッシュするヒューとシェリフには集落の仲間たちも気付いたらしく、
後を追うあたしたちに不安げな声を投げかけてきた。
 すれ違い様に「心配しなくても大丈夫。何かあっても、あたしらで何とかするから」と
答えてはいるけれど、あたし自身、どうなるかわからない。
 ……そうよ。この先に何が待ち受けているのか、教えて欲しかったわ。

 追えば追うほど、進めば進むほど、あたしの中で嫌な予感が膨らんでいく。
 懸命になって「何かの間違いよ」って念じると、刹那の安堵は得られるのだけれど、
その直後には心臓が一段高く跳ね上がる。その繰り返しだったわ。

「……イェランのホームにゴーしてるよネ、ヒモちゃんたち……」

 胃のあたりがおかしくなり、猛烈な吐き気が襲ってきたわ。
 それは、ホゥリーが禁句を口に出したのが原因じゃない。
あたしが自分の目で、見たくもないものを確かめてしまった所為だった。



 ヒューとシェリフは、ホゥリーの言葉の通り、イェランの家の前に立っていた。
 しかも、何人かのシェリフは家の周囲を取り囲み、
リボルバー拳銃の撃鉄(ハンマー)を引き起こしている。
 テレビドラマでよく見かける光景よね――シェリフたちは、人っ子一人逃さないよう包囲網を張っていた。
 でも、目の前にあるのは、とてもじゃないけど受け入れ難い光景。
信じられる筈のない光景だったわ。
 その光景を見ただけで、イェランがどんな立場に置かれたのか分かるのだから……。

「どう言うつもりよ、ヒューッ!? あんた、自分が何をしてるか、わかってるッ!? 
冗談のつもりなら、全然笑えないわよッ!」

 自分でも危ういとわかるくらい取り乱していたわ。我を忘れてって言うヤツよね。
 気付いたときには、あたしはヒューの腕を背後から引っ掴んで、力任せに振り回していた。
こちらを向いて事情を説明するように、……良いトシして駄々っ子みたいなことをやらかしたのよ。
 でも、ヒューは何も答えない。ただひたすらに、じっとイェランの家のドアを睨み付けている。
ドアを睨みすえたまま、決して視線を外さなかった。

「これは、ピンカートンさん。いやはや、クローウンさんの名推理には驚かされましたよ。
聞き込み調査から手をつけるつもりが、まさか、こんなにも早く犯人の逮捕にこぎつけるとは!」

 振り向いてもくれないヒューの代わりに、シェリフの一人が口を開いた。
少し興奮気味にベラベラと語るこいつは、確かシェリフのリーダー格の筈だ。

 シェリフのリーダーが言うには、殺人犯は二人一組。
その内の一人は、なんと被害者の妻だった。
 現場検証に立ち会ったヒューは、窓ガラスにまず不審を持ったと言う。
突き破られた窓ガラスの破片は、その殆どが外に散乱していた。
部屋の内側には細かいガラス片ばかりが残っていて、それも窓の真下に集中。
 ここでヒューの目が疑惑の真芯を捉えた。
 あいつの読みによると、窓ガラスは脱出時に割られたと言うのだ。
 シェリフはしきりに「すごい洞察力だ」なんて誉めそやしていたけど、
コレって、こいつらが真っ先に気づかなきゃいけないコトよね。
冷静に考えれば、プロファイルってのをわからないあたしにもわかることだもの。
 窓を突き破って突入したとすれば、内側にガラス片は散らかるわ。
 ――窓ガラスは、もう一つの真実をヒューに伝えたみたい。
 被害者の妻は、事件当夜に夫の悲鳴を聞きつけて飛び起きたと証言していた。
 睡眠を破るくらいだから、とんでもなく大きな悲鳴だったみたいね。
でも、窓ガラスが割れる音だって、それに負けず劣らず大きいハズよ。
 仮に窓ガラスを突き破って侵入してきたと言うのなら、どうして、その音には、反応しなかったのか。
 もしかすると、窓ガラスが割れた音で睡眠が破られて、
ウトウトしているときに悲鳴が飛び込んできたのかもしれないわ。
 コレ、窓ガラスの件を突っ込まれたときに被害者の妻が見せた反応らしいのね。
 問題は、被害者の妻を叩き起こしたと言う大きな悲鳴を隣家の誰も聴いていない点。
侵入時に窓が破られていたら、悲鳴は確実に外に漏れ出すわよね。遮る物がないのだから。
 つまり、被害者が悲鳴を上げた当時、窓ガラスはその音を遮蔽できる状態だったと言うわけ。

 そこにヒューが気づいたことから、被害者の妻にボロが出始めた。
 では、犯人はどこから侵入してきたのか。
 サルーンの出入り口とは別に、家人が使う裏口から入ってきたとヒューはすぐに見抜いた。
 でも、裏口にはピッキングなど強引に侵入してきたような痕跡は見られない。
殺人犯は裏口のドアを普通に開けて、客人のように屋内へ入ってきたのだ。
 ヒューを伴って戻ってくる前にシェリフが確かめたところ、
被害者の妻は裏口の鍵はいつも閉めていると証言していたそうね。
 では、その日に限って鍵が開いていたのか。
 たまたま犯人が裏口のドアノブを回してみたら、たまたま施錠されていなかった。
だから、強引な手口を使わずとも中に入ることができた。
 ……いくらなんでも、出来過ぎよね。こんなに偶然が重なるわけがない。
 殺人犯は、誰か招き入れられたと、この時点でヒューは確信を持ったそうよ。
 ――それは、誰か。
 被害者が自ら呼び込んだと言うセンも全く有り得ないコトもないのだけど、それは特殊なケース。
まずは彼の妻に疑いの目を向けるのが自然よね。
 一つの仮説として――被害者の妻の手引きで家の中に入った犯人は、
眠っていた被害者を灰皿で殴り殺し、それから窓ガラスを突き破って逃げたと、ヒューは考えた。
 屋内へ入ったときと同じように裏口を使わず、敢えて窓ガラスを突き破って逃走したのは、
被害者の妻に共犯の疑いが掛からないようにする為の偽装工作とまで迷探偵は読んでいた。
 事件当夜は大雨だ。犯人は、凄まじい雨音に紛れて逃げ去ったのだろう、と。
 このあたりの地域の天気予報の的中率は、およそ八割。雨の日を犯行の決行日として選べなくもない。

 そこから先は、実にチンケな幕引きだとシェリフは鼻を鳴らした。
 被害者の妻の部屋をシェリフ以上にくまなく調べたヒューは、床に僅かな泥の付着を見つけた。
必死に目を凝らしていなければ見落としてしまうような、本当に微かな泥を、ね。
 本来は成人男性の足跡並みの大きさがあった筈なのに、何故だか拭き取られてしまっていて、
残留するのは数ミリの断片。
 だけど、ヒューにはこれだけで十分だった。
鑑識を行っていたシェリフ・オフィスのスタッフに向かって、
被害者の妻の寝室で見つかった泥の付着と、裏口付近の泥水の成分とを分析するよう声を掛けた。
 更に裏口から両名の寝室までの動線を一層丹念に調べるようにも付け加えたと言うわ。
犯人の進路に泥の付着が一つでも見つかれば、ヒューの立てた仮説は正解へ一気に近付く。
 真っ直ぐに殺しへ向かった筈の犯人は、どうして被害者の妻の寝室に立ち寄ったのか。
犯人がドアを開けて踏み入らない限り、外の泥が持ち込まれることはあり得ないのよ。
 事件当日は雨が降り出して以降、一歩たりとも外に出ていないとの証言は既に取ってある。
 被害者も、彼の妻も、どちらも外出していないのだ。泥は犯人にしか持ち込めないでしょう?
 次に、どうして被害者の妻は、犯人の行方を探れる手がかりを拭き取ってしまったのか。
本来ならば、死守すべき証拠の筈よね。
 泥靴で入ってきた人間の正体を、被害者の妻が知っていたからに他ならない。
あるいは、裏口から招き入れた犯人を、一度、自身の寝室へ引き込んだのかもしれない。
 この時点で妻の証言は完全に信憑性を失っているわね。
 泥の件をヒューに難詰された被害者の妻は、いきなりうろたえ始め、受け答えもしどろもどろ。
鑑識に当たっていたシェリフの一人が床板の隙間に泥を発見したと報告にやって来た瞬間、
とうとうその場に崩れ込んでしまったそうよ。

 ヒューによって事件への関与を暴かれた被害者の妻は、観念して本当のことを白状。
 被害者の妻……いいえ、共犯者は、長い間、夫とは別の男性と不倫関係だったらしいわ。
店に来た客に誘われて、ズブズブとそっちにハマり込んでしまったとか。
 とっくに愛想を尽かしていた共犯者には、夫はただの邪魔者でしかなくなっていた。
そこで不倫相手と相談し、邪魔者の始末に取り掛かったと言うわけね。
 こんな偽装工作で捜査を霍乱できると、本当に信じていたのかとシェリフは憤っていたけど、
数時間前まで見ず知らずの男だったヒューに頼り切っている自分らの顔を、鏡で見たらいいわよ。

 追い詰められた共犯者は、不倫相手つまり殺人の実行犯の名を明かした。
 もう逃げ切れないと覚悟を決めたのかしらね。それとも、自分だけ捕まるのがイヤで、
一蓮托生を不倫相手に求めたのか。
 どっちにしろ、マコシカにとって、……あたしにとって、それは最悪の事態だったわ。
共犯者の口から誰の名前が出たのか――。

「犯人は灰皿に入っていた吸殻を被っている筈です。逃げた日は大雨だ。
着衣には確実に灰が染み込んでいる――イェラン・ブキャナンも言い逃れはできますまい」

 シェリフの口から容疑者としてイェランの名前がはっきりと飛び出したとき、
あたしは目の前が真っ暗になる思いだったわ。
 正直、マコシカの仲間たちが見ている前でなかったら、膝から崩れ落ちたと思う。

「今日は具合が悪いって言ってましたけど、それって、こう言うコトだったの……」

 さすがのソニエもこの展開にはショックを隠し切れなくて、声は完全にかすれてしまっている。
タフなソニエでさえそこまで打ちひしがれたのだから、ラドクリフなんか言葉一つ出せないわけよね。
 一方でホゥリーはでっぷり肥えた腹を太鼓のように叩いてリズムを取り始めた。
プロキシを使う準備に入った証拠よ。

「ど、どう言うつもりよ、ホゥリー? あんた、一体……」
「イェランのフールが、大人しくシェリフにアレストされればグッドだけどネ。
あいつのスキルがどれだけハイなのかは、酋長が誰よりディープにわかってるでショ? 
イフもしも、篭キャッスルなんてされたデイには、シェリフだけでアレストするのはディフィカルトさ。
バンドの恥さらしをエスケイプさせるワケにも行かナッシングでしょうヨ」
「自暴自棄になって攻撃してきたら、……プロキシで迎え撃つと言うの?」
「ラドにも言われたばかりなのヨ。たまにはヴィレッジの役に立てってネ。
一応、ボキもマコシカのボーンだからねェ。……酋長のハンドを煩わせるのもバッドだしィ、
あいつの面倒はボキがルックしてやろうってコトさ」
「……ホゥリー……」
「グッドなメンでしょ、ボキ。ディスなくらいハートの優しいメンはどこにも探せナッシングだヨ」

 ともすれば、物騒にも思えるホゥリーの発言にソニエも納得したらしく、
我が愛弟子もまた水溜りの上でステップを踏み始めた。
 ホゥリーはそのずんぐりむっくりとした右手に『ペネトレイト』の稲光を、
ソニエはダッシュの最中に作り出していたガンストックへ『ホローポイント』――
エネルギーの弾丸をそれぞれ宿らせている。
 この中で誰よりも幼いラドクリフでさえ震える指先で光の弓矢を作り出し、
その鏃を“犯人の立て篭もった先”へと向けていた。
 もしも、シェリフたちの拳銃が撃発されていたなら、
ラドクリフもそれに倣ってイングラムの矢を射掛けていたでしょうね。

(イェラン……ッ!)

 ことここに至った以上、酋長であるあたしも腹を括るしかなかった。
 創造女神イシュタルへ罪深き者に裁きを下されるよう祈りを捧げ、歌舞を奉じたあたしは、
出掛けに引っ掴んできたジャマダハルの刀身を神人の力で満たしていった。
 『神霊剣』――あたしにとっては必殺の、いや、滅殺の絶技よ。
 これを使って仕留められなかった者――言うまでもなく、アウトローやギャングだ――は、
誰一人としていなかった。

 一斉にプロキシを使ったのは、立て篭もったまま出て来ないイェランへの威嚇でもあった。
 あいつは集落でも指折りのレイライナー(神霊術師)よ。一対一の勝負だったら、あたしだって苦戦する。
それだけ優秀なアイツには、プロキシの使い手を四人同時に相手にする恐ろしさがわかる筈。
難易度の高いプロキシをコントロールできても、あたしたちを突破することはできっこないのよ。
 しかも、正面にはヒュー。模擬戦で毎回のように負けてる相手が
ドアの前に仁王立ちと来たもんだ。
 腰抜けシェリフたちも、今は拳銃を構えている。抗戦したところで、イェランに勝ち目はないわ。

「――イェラン・ブキャナン! 無駄な抵抗はやめて出てきなさい! 
お前のことは共犯者が既に供述している! もう逃げ場はないぞ! ここは完全に包囲されている!」

 シェリフのひとりが家の中へと呼びかけた。
 窓のカーテン越しにイェランの影を見つけたのかもしれないわね。

「相手は殺人犯だ。何をするかわからない。……突入して逮捕しますか?」

 シェリフのリーダーがヒューに尋ねる。それくらいの判断は自分の責任でやれって話よね。
勿論、ヒューもコレには何も答えなかった。
 自分が陣頭指揮を取らなければならない立場だと、一応は思い出したのかしら。
 この無責任リーダーは、五分待って投降しない場合には強行突入すると、
部下たちに、そして、立て篭もり続けるイェランにも聞こえるよう大声で宣言した。

 ……その宣言で、自分の運命を悟ったのかも知れないわね。
 シェリフのリーダーが突入を宣言した直後、家のドアが開いた。

「……イェラン……」

 土砂降りの外に出てきたのは、誰しもが予想した通り、イェランだった。
 それにしても、このときのイェランは見るに耐えない顔だった。今でもそう思う。
生まれてこのかた、ずっとイェランを見てきたけれど、
みすぼらしいとしか言いようのない表情を晒した記憶はなかったもの。
 ……どこか、初めて出会ったときのヒューを想い出すわね。
何もかも諦めて疲れ果て、自分自身に絶望しきっているような、そんな表情(かお)――。

 玄関の真ん前に立ったヒューと、しばらくの間、見詰め合っていたイェランは、
迷探偵の隣で拳銃を構えているシェリフのリーダーに対して、
「自分がやりました」とベルフェルで犯した罪を認めた。

 ――マコシカの集落で栽培している薬草を町の問屋へ納めに行ったとき、
ふと立ち寄ったサルーンで共犯者と知り合った。
イェランは、それを「運命の出会い」なんて抜かしていやがったわね。
 それからと言うもの、ベルフェルへ赴く度にサルーンへ通い、
いつしか共犯者と会いたいが為に隣町へ行く用事を探すようになった。
どうしても我慢ができないときには、夜の闇に紛れて共犯者のもとを訪ねたとか。
 この段階で、イェランと共犯者は、極めて不適切な関係になっていた、と言うべきね。
 ここから先は、共犯者の供述と一緒。関係を続けていく上で邪魔になった被害者を消したってワケ。

 ……わかっちゃいるけど、聞きたくなかったわね。
 あらゆる意味で、イェランの自供はあたしの、……あたしたちの心を引き裂いてくれたわ。
ラドクリフは「どうして、どうして……」とうわ言のように繰り返してる。

 あたしだって、「どうして」の一言しかなかった。
 窓ガラスを突き破る偽装工作は、シェリフの捜査から共犯者を外すことともう一つ、
犯人が行きずりの強盗だと捜査陣に信じ込ませる為だったなんて、あいつは自供した。
 ……強盗? 部屋も荒らさず、ターゲットだけを殺して逃げる強盗なんて、
どんなにつまらない推理小説でも見たことないわよ。

 チンケよ。本当にチンケな幕引きよね。
 ガキのいたずらみたいな手口で成功するって、本気で思ったのかしら。
思っていなけりゃ、こんなバカな真似をしないか……。
 人の道に、何よりもイシュタルの戒めに背いた罪がどのように裁かれるのか、
勤勉なイェランなら忘れるわけがないわよね。
 それなのに、自分の人生を捨てやがった。色香に騙されて、捨ててしまった。
 ……チンケな終わり方じゃない、こんなの。

 イェランが罪を自供したなら、マコシカの酋長として取るべき道は、たったの一つしかなかった。

「……ここから先は、マコシカの話よ。あんたたちは退いてて頂戴な」

 早速に身柄を拘束しようとするシェリフを、
あたしは「マコシカの話だと言っている!」と一喝して押し止めた。

「……ピンカートンさん?」
「集落から出た罪人はマコシカの手にて裁く。これが女神と交わした誓いなのよ。
これを邪魔する人間は、イシュタルへの背教になるわ」
「し、しかし……」
「もともと、ここはシェリフ・オフィスの管轄から外れている場所よね? 
外の人間の手は煩わせないわ。……だから、口出しもしないで欲しいわね」
「ピンカートンさん……」

 あたしの掌には、ジャマダハルがある。
 集中が途切れたときにプロキシの効力は失ったけれど、
振り下ろせば何者をも切り裂くことのできるジャマダハルを、あたしは渾身の力で握り締めていた。




「……イェラン・ブキャナン。女神イシュタルの戒めに背いて邪淫に興じ、
あまつさえ己が快楽の為だけに尊い命を蹂躙したその罪、……それは、極刑に値する……」

 あたしの宣言に、イェランは力ない笑みを浮かべて頷いた。
「お前にできるのか」と挑発しているわけじゃないわ。
本当の意味で自分の運命を手放した証拠なのよね、それは……。
 今から何が行われようとしているのか。シェリフたちも気がついたみたいね。
 だけど、ここはマコシカの集落よ。外界の法が立ち入ることの許されない場所なのよ。
女神イシュタルの名に於いて全てが決せられる場所には、何人たりとも手出しはできない。

「――ちょっと待てよ! 俺っちは、そう言うコトの為にやったんじゃねぇんだよッ!」

 その禁忌を破って、あたしに食って掛かってきたのは、一番の功労者の筈のヒューだった。
 イェランの罪を暴いた手柄に胸を張るどころか、完全に取り乱してしまっていた。
見開いた目は焦点なんか合っちゃいない。殆ど正気を失っているように見えたわ。

「こいつはよ、確かに罪を犯したかもしれねぇよ! 
バカをやりまくって、その結果、救いようのねぇオチまでつけやがったッ! 
救ってやる義理はねぇかもしれねぇッ! でもよ、こいつには償いをする権利があるんじゃねぇかッ!?
一生かけて償う義務がよォッ!」
「……イシュタルに背いた者がマコシカで生きる道はないのよ」
「だったら、シェリフに預けりゃいいだろ!? マコシカとは絶縁でもさせてよぉッ! 
なんで……なんで、殺す必要があるんだッ!? 罪を償わせれば、それで済むじゃねぇかッ!」

 ジャマダハルの刃と、そこに宿る一つの意思にあいつは怯えていた。
 当たり前だけど、切っ先はヒューのほうには向いちゃいない。然るべき標的のみを狙い定めているわ。
それなのに、自分の身に危険が迫っているような、そんな取り乱し方をしていた。

 怒るって言うのなら、まだわかるわ。あたしがやろうとしていることを批難するなら、ね。
 でも、こいつは違った。同じ狂乱でも、怒りに脳をヤラれるんじゃなくて恐怖に取り憑かれていたのよ。
正直、どうしてヒューに怯える必要があるのか、そのときのあたしには全くわからなかった。
 ……とにかく普通の表情(かお)じゃなかったわ。まるで、この世の全てに怯えているような――。

(……そうか……そうね、コレは――)

 あたしの脳裏に閃くものがあった――あれは、そう。今日と同じような土砂降りの中、
初めて出会ったときにも見せた表情(かお)だ。
 そして、焦点の合っていないあの目は、あたしに一つの問いかけを投げたときとそっくり同じ。

 ――人を殺したことがあるのか。
 
 煌びやかな軍刀を握り締めながら、あいつは壊れたようにそう問いかけてきたんだ。
 そのときと同じ目が、あたしを突き刺していた。
 これからあたしの身にどんなモノがこびりつくのか、あいつには見えていたんだと思う。

「イシュタルとの縁を切ることが、エンディニオンの人間にできるの? 
ましてや、あたしたちはマコシカなのよ。女神の教えを守る一族なの」

 あいつの眼光が何を訴えているのか、全く分からないわけじゃない。
 だけど、あたしはヒューとは違う。あたしは、生まれついてのマコシカなのよ。
そして、その仲間たちを率いる酋長でもある。
 だから、あたしはジャマダハルを引こうとはしなかった。
 酋長たる者がイシュタルへの背教を情けで許すことなど、あってはならないのだから。

「……ヒュー、マコシカは、どこにいてもマコシカよ。そのさだめから逃れることはできないの。
魂の鎖なのよ、マコシカの民は。本来、その鎖が断ち切られることはない。
千切れるとしたら、それは破戒によって魂の鎖を否定した場合のみ」
「……レイチェル……」
「わかるでしょう、ヒュー。これは、……これがイェランのさだめなのよ」
「何がさだめだよッ! お前がやろうとしていることは、イェランと何にも変わらねぇぞッ!?」

 絶叫が、木霊した。
 イェランの逮捕を主導したヒューが、彼の断罪を嘆き、執行に抗っていた。
 騒ぎを聞きつけた長老たちも遠巻きにヒューの狼狽を眺めていたけれど、
このときばかりは、彼を「マコシカのしきたりを弁えぬ余所者」などと蔑んだりはしなかった。
 誰もがヒューと同じように慟哭したかったんだ。

 あたしは――このときになって初めてヒューが背負っている物を理解できた気がした。
甕のフチから闇の底を覗き込んだような、そんな心持ちだった。
 ……あたしの勘は、やっぱり冴えていたわね。
 これから自分の身に浴びることになる物は、雨なんかじゃ絶対に落とせない。

(……いつかあたしも、あいつみたいに哭く日が来るのかしらね……)

 ヒューの全部を、あたしはまだ分かったわけじゃない。
 こいつが軍で何を失い、打ち付ける雨に何を期待し、今、誰の為に慟哭したのか。
それさえあたしは知らない。知らないどころか、触れるのを怖がって避けてきた。

 けれど、一つだけ確かなことがある。確かにヒューと分かち合えるものがある。
 全身の血が、心が死んでいくようなこの感覚(きもち)を、あいつもいつか感じたのだろう。
 あいつが心に抱える果てしない闇を、雨の窓に立ち、洗われ流れていくことを渇望する念も、
あたしは受け止めることになるんだ。

「……ヒュー、もういい。もういいんだ。俺は、もう心を決めている」
「……おめぇよぉ、……なにフザけたこと、言ってんだよォ……なんで簡単に諦めるんだよ……」
「そんな風に言ってくれるなよ。これは背教者の罰で、……マコシカの償いなんだ――」

 外道に堕ちたとは言え、イェランもマコシカに生を受けた者。甘んじて断罪を受け入れようとしている。
水溜りの上に膝を突き、潔く首を差し出した。
 それさえヒューには理解できないと頭を振り続けている。

「どうしていつも……――こんなことになっちまうんだよッ!!」

 白刃が振り落とされる間際にも、……イェランの首筋に裁きが閃いた後も、ヒューは哭き続けた。
まるで子どものように、哭いて哭いて、言葉にならない吼え声を上げ続けた。


四、


 ……それからのことを振り返ると、今もまだ胸が軋む。いいえ、一生涯、軋み音は止まないと思うわ。
 女神イシュタルに背いたイェランの家は、その日の内に焼き払われ、
速やかに浄化を祈る儀式が執り行われた。
 それは、マコシカの民から背教者を出してしまったことを女神イシュタルに詫びる為の儀礼ね。
許しを請うセレモニーと言ったって構わないわ。
 イェランの遺骸もその炎の中で焼亡し、浄化の儀式が終わる頃には、
罪の深さを示すかのような黒色の炭屑と化した。
 つい数時間前まで背教者だった炭屑(もの)は、浄化の術を施された砂と土で埋められ、
向こう百年もの間、封印されることになった。
 この先ずっと風化し得ない原罪としてマコシカの集落に遺されていく。
だって、そうでしょう? 背教を許したあたしたちが何も背負わないなんて、そんなムシの良い話は有り得ない。

 背教者を滅する命令は、全てあたしが下した。
ファランクスのプロキシでもって浄化の火を熾したのも、あたし自身。
 あたしの意思で、イェラン・ブキャナンと言う存在をこの世から滅したのよ。

 ヒューは、それをずっとあたしの隣で見つめていた。
 イェランの家が、あいつの遺骸が浄化の炎の中で崩れ去っていく様を一瞬たりとも見逃さないように。
あたしと肩を並べて、背教者の辿る末路を見届けた。
 そのとき、あいつがどんな目でイェランの末路を見つめていたのか、あたしにはわからない。
確かめることもしなかった。
 ……違うわね。確かめることなんて、できっこなかった。
 それでも、一つだけ確信があったわ。
 燃え盛る炎を見つめるあいつの瞳は、肩を並べたあたしと大して変わらなかっただろうって。

 背教者を滅し、浄化の儀式が全て終わった後――
ヒューはあたしに向かって両手を広げながらホザいたわ。

「俺っちで良けりゃ、胸を貸してやるぜ?」

 ……バカよね、ホント。無理しておどけてるのが、モロバレよ。
 あんなに慟哭していた奴が、余所者を毛嫌いしていた長老たちに
「お前さんはようやってくれた。ようマコシカの務めを果たしてくれた」とまで慰められたヤツが、
簡単に立ち直れるわけないじゃない。
 ブッ壊れるかどうか、ギリギリのところで踏ん張ってる顔があんまりみっともなかったから、
胸を借りる代わりに、胸板へパンチを一発お見舞いしてやったわ。

「あんたに同情されるほどヤワじゃないのよ。こちとら、酋長なのよ。
こんなもんでへこたれていたんじゃ、マコシカの歴史は背負えないわ」
「俺っちが言ってるのは、そう言うことじゃねぇって。イェランはお前さんにとっちゃ――」

 ボケたコトを抜かそうとしたから、胸板にもう一発パンチ炸裂。
 全くこのボケナスは、余計な気を回してくれるわね。
……「さよなら」なんて、浄化の火を熾すのと一緒に済ませているわ。
 そう、これはもう終わったことなんだ。
 原罪を背負う身にはなったけれど、一つのピリオドは打たれた。

 尤も、事件そのものは、結末まで後味が悪かったわ。
 被害者の妻、つまりイェランの共犯者はベルフェルで裁判に掛けられ、絞首刑に処された。
捜査の霍乱を図った偽装工作や動機の悪質さから陪審員は誰一人として彼女の無罪を考えなかったと言う。
 ……この手でイェランを処断しておいて何だけど、縛り首って結果には、さすがに気持ちが塞いだわね。
ヒューなんか共犯者と直接顔を合わせていたから、刑の執行を聞かされた後は、
暫く物思いに耽っていたわ。


 でも、ずっと落ち込んだままではいられない。そもそも、周囲がそれを許さない。
 お互いに苦い思い出とはなったものの、この一件で堅物の長老たちもヒューのことを
集落の仲間として本当に認めたらしく、無遠慮にあれこれと仕事を言いつけ始めた。
 「良かれ悪しかれ」ってヤツかしらね。お互いに変な気兼ねをしなくなったのは、良いコトかなぁ。

 殺人事件で関わったシェリフたちもヒューの忙しさに拍車を掛けた。
 事件解決に貢献したプロファイリングを評価したシェリフ・オフィスはヒューを特別表彰し、
それ以来、難事件が起こる度、我が家の「迷探偵」に協力を要請するようになった。
指名手配を受けたアウトローの捜査にも駆り出されていたっけ。
 その内、名プロファイラーの噂を聞きつけた遠方の人からも「依頼」が入るようになり、
たちまちヒューは引っ張りだこになった。
 さすがに最初のうちは、あいつも「こーゆーのを商売にするのも、なんだかなァ」とか躊躇していたけど、
依頼の見返り、つまり報酬はかなり大きいのよね。
 プロファイリングの依頼を受ける限り、ちゃんと食っていける。
ヒモなんて言われずに済むってコトね。
 ホゥリーなんかは、「いっそディテクティブをジョブにしたら?」ってしきりに勧めていたわ。
ソニエもこれには賛成。「晴れてあんたを迷探偵って呼べるわね」なんてエールが、実にあのコらしいわ。
 それでもウジウジやってっから、あたし直々に尻を蹴っ飛ばしてやったわ。
「探偵事務所を開きたいって言うんなら、この家を好きに使ったらいいじゃない。
使用料さえ払って貰えたら、あたしは別に構わないわよ」ってね。
 我が家の玄関に『クローウン探偵事務所』なんて看板が掛けられたのは、
それから間もなくのことだった。

 『クローウン探偵事務所』は、開設以来、右肩上がりで業績を伸ばしていった。
半年ほど経った頃には、遠方からお呼びが掛かって出張する機会も増えていたわ。
 そのときに抱えていた最大の仕事は、ルナゲイトで起きた連続猟奇殺人事件かしら。
女性ばかりを標的にした変質的な事件ってコトで、ヒューのヤツ、二つ返事で引き受けたのよね。
 探偵らしい調査業務ばかりじゃなく怪事件の捜査も手がけるようになっていたから、
シェリフ経由で特注の手錠やサブマシンガンも調達し始めたっけ。
ヒュー曰く、「探偵七つ道具」ってヤツね。
 それらを駆使して犯人へ手錠を掛けることに成功したんだけど、その逮捕劇がルナゲイトで大評判になってね。
 テレビ取材もされたらしくて、帰ってくるなり「俺っちってば、モテモテだぜぇ」と自慢していたわ。
 ミストやソニエの前ではそうやってカッコつけてたけど、さすがにくたびれたみたい。
二人がいなくなった途端にテーブルに突っ伏して、ようやく落ち着いて休みが取れるってさ。
 あたしのところで預かってる仕事の依頼書を見せたら、真っ青になるかしら。

 一週間は骨休めしたいとヒューは要望を語っていたのだけど、間が悪いと言うか何と言うか、
休むと決めた次の日は、またしても大雨になった。
 盛大にズッコケたときのあいつの間抜け面、面白過ぎて忘れられないわね。


 その日は、たまたま家にあたしとヒューの二人きりだった。
 ミストはラドクリフから編み物を教わりに出かけていて、ソニエは同い年の友人とベルフェルにお使い。
我が愛弟子は、どこかの軒下で雨宿りしているのかしらね。

「雨、上がらないわね」

 窓辺に立って吹き付ける雨を眺めると、やっぱりこの一言が無意識に浮かんでくる。
 ……まだまだ“傷”が癒えていないってコトね。雨垂れを見る度に心がざわついて仕方なかった。
雨の日に起きたことを、どうしても思い出してしまうんだ。

 今もヒューは雨の日にはじっと窓辺に佇んでいる。この頃には、あたしもそこに加わるようになっていた。
 二人並んで雨を見つめるってのは、珍妙と言うか、間抜けな絵面だし、
実際、ソニエにも「宗教上の理由でそんなコトやってんの?」って笑われたけど、
ほっときなさいよ、もう。

 だってね。これはきっと、あたしとヒューにしか、わからないコトなのよ。
 雨音を耳にする度に訪れる胸の疼きは、罪の痛みを自分で浴びた人間だけが分かち合えるものだからね。
……ま、何の自慢にもならないけど、さ。

「いいのかぁ? 雨が止んだら、俺っちは出ていっちまうかもしんねぇぜ? 
なにしろあちこちから腕を引っ張られるモテモテだからよぉ。
チンケな田舎で燻っていたんじゃカワイコちゃんたちに申し訳が立たねぇぜ」

 雨が上がらない――少なからずヒューの心をも揺さぶる筈の呟きに対して、
あいつから返ってきたのは、おどけた調子の軽口。
 だから、あたしもシリアスにはなってやらない。
一瞬だけそっちに傾きかけたけど、脇に肘鉄砲を入れることで力任せに振り戻す。

「好きにすれば?」
「ちぇっ――可愛げのねぇリアクションだな。手を握ってイヤイヤするとか、
そーゆー真似ができねぇのかよ」
「まっぴらごめんよ、そんな媚びを売るような気持ち悪い真似。
あんた、どっかのキャバレーでそう言うコトをされたんじゃないの?」
「キャバレー! これまたレトロなカルチャーをご存知で!」
「……ズッ殺すわよ?」
「『頭蓋骨をぶっこ抜いて殺す』って脅し文句の略だっけ? ……怖ッ!」

 憎まれ口を叩いて遊んでやるけど、ヒューがここから居なくなったりしないことを、
実のところ、あたしは誰よりも分かっているつもり。
 そっくりと言えるほど似ているようで、でも遠いところにあるのかも知れない原罪を背負う人間同士の、
妙ちきりんなシンパシーって言えば良いのかしら?
 あたしと原罪を共有することにあったあの日から、あいつがその発端を担ってしまった日から、
……もしかすると、あたしたちはお互いの“半身”になったのかも知れない。

 今もヒューが何に絶望して、どんな罪をその身に浴びて軍から逃げてきたのか、あたしは知らない。
 でも、ね。今では、そんなことを知る必要もない気がする。
 あいつは、今でも雨を見つめ続けている。壊れた心を満たせる『答え』を見出せないでいる。
その痛みさえあたしがわかっていれば、良いんじゃないかなって。

 お互いが“半身”になるって言うのは、あたしたちにとっては、そう言うコトなのよ。
きっと――きっとね。

「雨なんか、いつまで経っても止まねぇさ。……それでも良いんじゃねぇかって、最近は思うがな」

 これも、シンパシーってヤツかしら? なんだか心の底を見透かされてるようで腹立たしいわね。



 ――あたしたちが見つめる先には、いつまでも雨が降り続けている。




モドル