1・
 生い茂った新緑の鮮やかさと抜けるような青空の下、全くミスマッチな鬱々とした表情で道端に座り込む一人の少年。
マコシカに住むラドクリフは、隣町への用事を酋長のレイチェルから仰せつかって、
その道の途中でいったん休憩していた。
隣町といっても他の町村とは距離のあるマコシカからの道程は、
荷車に満載された薬草を運ぶには少々労力を要するものだった。
 空を見上げながら「はあ……」と大きくため息をついたラドクリフ。
しかしこれは荷物の多さと道程の長さに疲れたから出たのではない。
彼の心の中にある、鬱屈とした思いがそうさせていたのだ。

「どうして、ボクがこんなことをしなくっちゃ……」

 意識せずに口から洩れた彼の不満は、お使いを命じたレイチェルへ向けられたものではなく、
隣町まで行かなければならないことに対してのもの。
より正確にいうのなら、マコシカ以外の者と関わらなければならないことへである。

(だいたい、外界との接触を絶つ、なんてエラそうなことを言うくせして、
実際にはそんなことしないで外界と接触を持つだなんて…… こんなの絶対におかしいじゃないか)

 再び歩き出しながら、ラドクリフはボンヤリと考えていた。
神に最も近い村と言われるマコシカは、俗世間から離れて生活していくのが原則。
そうなのだが、現実はわずかながらも外界と接触しているし、しなければマコシカは立ち行かない。
 自分が持つ理想と現実が?み合わず、それがために世の中の事を斜めに、ひねくれがちに捉えてしまう、
十代前半の頃の子供に良く現われる独特の心理というものが、ラドクリフにも例に漏れず発現していた。
 もしかしたらその気持ちは、他の同世代の人よりも彼の方が強いかもしれない。
 肉親のいないラドクリフにとって、マコシカというところは心の拠り所となる唯一のコミュニティなのだ。
そのマコシカが他の村の者と関わるという事は、
あえていうなれば自分が大切にしているものを他人に汚されるような、そんな思いなのである。

 消極的な外部との接触ですら気に入らないというのに、マコシカの中には積極的に外界と関わる者すらいる。
例えばホゥリーだ。
マコシカにいる時よりも、いない時の方が長い彼は、
外界の人間から依頼を受けては何やら(何をしているのかラドクリフは知らないし、知ろうとも思わない)、
胡散臭い仕事をしているようなのだ。
こんな事をする人間がいる事が、マコシカが堕落している証明だ、とラドクリフは常々思っていた。
村の掟に背いている(とラドクリフはそう思っている)ホゥリーを諌めるべきであるレイチェルもまたそうだ。
ふと記憶の糸を手繰ってみる――

「――それじゃあ、ラドはマコシカが外界と関わるのが不満だと言いたいのね?」
「それはそうです。この村は、マコシカは俗世間とは接触しないでいるべきです」
「そりゃあこの村はよその村とは違う、特別な村ではあるけれど――」
「そういう言い方が既に外界との接触の結果です。
マコシカがマコシカだけで、神聖な孤立をつらぬいていれば他の村なんてどうでもいいじゃないですか。
それなのに、『特別』なんて言葉は外部と比較しているから出てくるんです。
本当にマコシカが自らの道を進んでいれば、それが‘普通’なんですよ」
「孤立、ねえ。まあ私だって、完全に外界と接触を絶つべし、って考え方は分からないでもないけどさあ。
それじゃあマコシカはやっていけないってわけよ。
あ、勘違いしないでね。独立独歩できないって意味じゃないから」
「ならどういう――」
「話は最後まで聞きなさいな。この村が細々ながらも外界と関わっているのにはれっきとした意味があるわけ。
一例だけど、マコシカの伝統的なやり方で村を運営していって、
もしそのやり方が通用しない時が来たときにはこの村はおしまいよ。
イシュタル様が良い知恵を授けてくださればいいけれど、
そんな事でお呼び出ししても『自分たちで何とかしなさいな』と言われるのがオチだろうね。
自分たちの文化を、ひいては神人信仰の礎を守るためにも、
逆に外界とのやり取りは完全に絶ってはならないってわけ。分かる?」
「いえ、分かりません。酋長はわざわざ外部の人間と結婚したから、
マコシカの伝統をないがしろにするようになって、つまりは堕落してしまったんです」

――などというかつてのやり取りを思い出していた。



 いかに思春期特有の考え方に陥っているラドクリフとて、レイチェルに対する敬意の念は失ってはいない。
それでも、彼女の考え方を強く否定し、あまつさえ堕落とまで言うほどに反抗してみせたのは、
彼がマコシカに対して抱いている強い想いがあるからなのだった。



2・
気分が晴れないまま、ラドクリフは言いつけどおりに隣町での用事を終えた。
「マコシカの薬は評判が良くってねえ、これからもよろしく頼むよ」と愛想よく話しかける店主の言葉も、
ラドクリフには良い気のしないものだった。
故郷が食い物にされている、そんな感じにすら捉えてしまいがちだった。
 関わりたくない余所の土地に長居する気はさらさら無く、さっさと帰路につこうとしたラドクリフの視界に、
奇妙な人物が飛び込んできた。
パープルの髪に、奇抜で(ラドクリフからすれば悪趣味な)ハデハデしい装いのその姿は、
ラドクリフには外界の人間に対する悪い感情を一層かき立てるに充分。
何度かこの村に来たことはあったが、初めて目にする人物だった。
 もっとも、余所者の村にまた別の余所者が入り込んできた、という認識でしかなく、さして気にも留めず先を急いだ。
その男がすっと彼へ視線を向けたような気がしたが、
余所者と関わり合いたくないラドクリフは、視線を返すことも無くその場から立ち去ろうとした。
 そんな時、彼の後方からざわめき声が上がった。
何があったのかとついつい振り向くと、先ほどの奇抜な出で立ちの男が、
数人の大柄の男たち(見た目からするに冒険者、それも性質のよろしくない連中だろう)にからまれていた。
肩がぶつかったとか何だとか他愛の無い理由のようだったが、そんな事はどうでもよかった。

(これだから余所者は…… 他人の土地にズカズカと入り込んでは秩序を乱す)

 冷ややかな目つきで余所者同士のやり取りを眺めていたラドクリフ。
これ以上このくだらない茶番を見ていても無意味だ、と再び歩みを進めようとした時だった。
 冒険者の一人が怒りにまかせて男の顔面を殴りつけた。わっと周囲の野次馬が声を上げる。
体格だけで判断すれば、大柄の冒険者の一撃で決まってしまってもおかしくは無かったのだが、
しかし男は拳を顔に受けながらも笑い顔を保ったまま。
まるで効いていないといわんばかりか、避けようと思えばいくらでも避けられるが、
あえて一発殴られてやったのだとでも言っているような表情だった。
 そして、男は口からぷっと霧状に血を吹きだす。
すると次の瞬間、信じ難いことに赤い血は紅い炎へと姿を変えた。
さらに、男はその紅蓮の炎を身にまとい、高笑いを発すると、もっと攻撃して来いと冒険者たちを挑発した。
 あまりに衝撃的な光景を目にし、呆気にとられたまま硬直してしまう冒険者たち。
高笑いを続ける男が、一歩、また一歩と近づく度に、彼らは一歩一歩後ずさりする。
彼らの固まったままだった表情は、どんどんと恐怖にひきつったものへと変わっていった。
 ほんの十数秒の後、不良冒険者たちはいかにもな悲鳴を上げながら逃げ去っていった。
それを見ながら男は、炎が消えてもなお笑いを絶やさないままでいた。
すると、その声に合わせるように、周りの人々からはどっと称賛の声や拍手の音が上がり、
その轟きはいつまでも鳴り止まなかった。
 人々の輪の外から怪訝そうな眼差しで見つめていたラドクリフ。

(余所者同士のくだらない争いじゃないか。それなのにどうして……)

 どこの者とも分からぬ者同士のつまらないやり取りなのに、どうしてこの土地の人々が惜しげもない称賛を送るのか。
「これだから余所者が来るとろくな事にならない」とでも顔をしかめて言う土地のものが一人もいないのか。
ラドクリフには理解できない、不思議な光景でしかなかった。

「彼我の力量も分からぬ者、生かしておかなくてもよろしいのでは?」

 炎の男に向けて、もう一人の厳めしい顔つきの男が尋ねた。
(興味の無いラドクリフは気付いていなかったが、どうやらこの余所者は二人連れだったようだ)
それに対して男は涼しげな顔で、

「よいのじゃ。いずれ全てが余の物となる。さすれば、あやつらも余の所有物よ。
殺さずに生き長らえさせてやっても損はあるまい。
無論、あまり躾がなっていない者共はしっかりと矯正してやらねばならぬ。有象無象を導くこともまた、余の務めよ」

などと大言壮語と表現しても差し支えない物言いで笑い飛ばした。
 その言葉を後にしながら、ラドクリフは忌々しげな顔で街から去っていった。

(誰も彼も、外の連中はみんな一緒だ。ろくでもない)

 全く不愉快な語りだった。平気で他人の領域に足を踏み入れ、踏みにじり、我が物にしようとする。
外の人間はすべからく秩序を乱すためにやってくる侵略者とよぶべきだと、
そういう手合いから村を守り、平和と安息を維持していくためにも外界との接触などするべきではないと、
ラドクリフは自身の考えの正当性を頭の中で繰り返し唱えていた。
 しかしながら、大口を叩いたあの男が、炎の中で高笑いを上げたあの男が、頭の中から消えないままだった。



3・
それから数日、気付くとラドクリフは町で目にしたあの男の顔が忘れられなくなっているのをはっきり自覚した。



それがなぜなのか、彼には判断が付けられずにいたが、ふと一つの考えが浮かんでくる。
自分があの男に対して、言い知れぬ、何か魅力のようなものを感じ取ったのではないかと。
まさかそんなはずはない、とラドクリフは頭を振った。
奇妙な出で立ちの男が炎の中で延々と高笑いを続けていたその光景が、
ぼんやりとしていた時に視界に入ったから、たまたま印象強く感じたのだ。
自分自身を納得させるように、ラドクリフは何度も何度も心の中でそう解釈した。
 そんな中で彼は村人たちの噂話を耳にする。
見た事の無い二人組がマコシカやその周辺地域の歴史や風土、伝承などを調べて回っているというのだ。
学者ならまだ理解できるが、二人とも全くそのように見えない風貌らしい。
どんな姿格好かと話題に上る二人の様子を聞くと、ラドクリフが目にした例の二人組に間違いない。
あんな奇妙な人間がそうそういるものじゃない、と彼は自分の考えが正しいと確信する。
 それにしても学者でもない者がどうして、と村人たちの憶測は尽きない。
そのような中で誰かが、「もしかしたらこの村の秘宝を狙っているのでは」と口にする。
そんなまさか、いいやそうでもなければこの村を詳しく調べるはずがない、などと村人たちが口々に言い合う内に、
彼らの推定はいつの間にやら確定めいたものへと変化していった。
 外界のちょっとした出来事に過敏に反応するのも多少なりとも開会と接触しているからだ、
といつものラドクリフなら思い、だからこそマコシカは閉じた世界の中にあるべきなのだと自分の考えを正当づける。
だがしかし、今回はそうではなかった。
ほとんど反射的に彼は隣町へと駆け出して行った。
どうしてなのかと問われれば、自分でも説明に困ってしまう。
自分の中に湧き上がっては押し殺していた思い。名も知らぬ男に初めて抱いた感情。狂気を孕んだ危うげな魅力。
しかし、そうではあっても彼はラドクリフからしてみれば外界の、余所の者。
所詮は余所者なのか、外の世界より無遠慮にやって来ては今ある物を破壊しようとする悪しき存在なのか、
そうなのかそうでないのかを確かめるだけだ、それだけだ、
とラドクリフは心の中で繰り返しながら隣町への道をひたすらに走っていった。

 やがて、ラドクリフは隣町に辿り着いた。
はたせるかな、そこには例の男の姿もあった。二人で土地の調査をしているとの噂から、
見つけるには時間がかかるかと思っていたが、思いのほかあっさりと発見できた。
 この村の者(特に若い男たち)が目立つ人だかりを形成し、その中心にいたのだ。
宗教家が信徒を集めて説教しているか、はたまた軍の司令官が兵士を鼓舞しているか、そんな様子にも見えた。
熱気にあふれた聴衆の中で、男はとうとうと語り続ける。
エンディニオンに覇道を敷くだのなんだのと、一笑に付されてもおかしくは無いはずの内容でありながら、
周りの者たちは皆熱心に聞き入り、中には称賛の声を上げる者もいた。
 するとそこへ、熱気に水を差すように一本の輝く矢が飛び込んでくる。
おおよそ50メートル先の民家の屋根の上から、ラドクリフがイングラムのプロキシを射かけてきたのだ。



 不意を突いたつもりだったのだが、男は矢を事も無げにかわし、驚く周囲の反応をよそに平然と笑い声を上げた。
そして、自らの体に傷をつけて、そこから流れ出した血液を、以前と同じように紅の炎へと変化させて身にまとう。

(これがっ…… この炎がっ!)

 あの時と同じように、ラドクリフは一瞬揺らめく炎に魅入られてしまう。
はっと我に返り、二の矢をつがえようとしたその前に、輝く炎はその形を大きな翼へと変え、
男はその炎の翼をはばたかせてラドクリフの元へと近づいてくる。
畏怖や驚嘆、様々な感情を抱きながらラドクリフは屋根から屋根へと飛び移り、二度三度と次々に魔法の矢を放つ。
だが、全ての矢は炎の翼に撫でられただけであっけなく消滅してしまった。

(まさか…… そんなことが!?)

驚くラドクリフを空高くより見下ろし、高笑いしながら、

「先日、余を見ておった小童か、貴様」

そう男は声をかけてきた。まさかの展開に再び驚くラドクリフ。
数日前にほんのわずかな間、視界に入っていただけのはずなのに、なぜはっきりと自分の顔を覚えているのか。

「どうして…… いったい何者なんだ?」
「目で見、耳で聞き、魂で感じよ。余はゼラール・カザン。全エンディニオンを統べる者ぞ」

 ゼラールと名乗ったその男は悠然と、そして尊大にラドクリフの問いに答えた。
説明し難い迫力に押されながらも、名を知ったところでそれが何だというのだ、と彼は自分を奮い立たせる。
もう一度矢を射るために間を取ろうとラドクリフが後ずさりした時、後方より、

「閣下を侮るなよ。視界に入るものは何もかもが閣下の所有物。そして閣下はそれらを一目で覚えられる」

とゼラールと共にいたもう一人の男が、屋根の上へと飛び乗って来た。
魔法も、ゼラールのように炎の翼を用いることもなく、
純粋な身体能力だけの一蹴りで屋根まで達する力は驚嘆に値するが、
今のラドクリフにはそんな事にまで感心していられる余裕は無い。

「手出しはするな、と伝えたはずだぞ、トルーポ」
「そんなつもりは毛頭ございません。閣下のご活躍を特等席から拝見するだけの事です」



 ゼラールからトルーポと呼ばれた男はそう言って笑った。

「フェッハハハ、まあよいわ。しかしトルーポ、貴様も余を侮るでない。
見る物だけではない、五感全てで感じられる物、いや、そうでない物ですら全て余の物じゃ」
「いや、これは失敬」

 ラドクリフを間に挟みながら、ゼラールとトルーポは息の合ったやり取りを交わした。
そんな二人の会話を半分も聞かず、進むも退くも叶わなくなったラドクリフは、再度矢をつがえてゼラールへ向ける。

「ここへ何をしに来た? マコシカの秘宝を奪うためか?」

 ラドクリフの問いかけに、ゼラールは聞くなり豪快に笑うと、

「その通りじゃ。万物の上に君臨する余なるぞ。マコシカの秘宝とやらも余の物ぞ」

と言い放った。やはりそうだったのか、とラドクリフは彼へ向けて魔法の矢を射る。
その矢をゼラールは避けもせず、先ほどのように炎の翼でかき消しもせず、あえて手で掴み取ってみせた。
 イングラムは単に魔法で作られた矢ではない。それ自身が高熱を発するものなのだ。
生身の人間が触れて耐えられるような生半可な熱量ではない。
 そのはずなのだが、しかしゼラールは己の掌が焼けようとも一向に意に介した様子は無い。
それどころか、心地よい魔法だ、と笑いを絶やさぬまま矢を握り潰してしまった。

「早まるな。今のは閣下一流のジョークだ」

そうトルーポが面白そうにラドクリフに向けて説明する。しかし彼の声は今のラドクリフには届くことは無い。
ほとんど焦燥の思いにとらわれながらも、再度の攻撃を試みる。
効果の見られない魔法の矢をなおもつがえようとしたラドクリフの元へ、
ゼラールはにやりと笑いを浮かべると炎の翼をはためかせて一気に飛び込んだ。
 とっさの事に思わず硬直してしまったラドクリフに、ゼラールはゆっくりを顔を近づけると、

「貴様は何故、そんなに怯えきった顔をする?」

と問いかけてきた。はっとするラドクリフ。
その時になって、こう言われて、初めて自分が怯えていることを、背中に冷たいものが流れる感覚を自覚した。
 いずこからともなくやって来た氏素性も知れない余所者に、今ある自分が大切なものを壊されてしまう。
そんなありもしない、自分の頭の中だけで作り上げられていた事に自分自身を怯えさせていたのか、
とラドクリフは湧き上がってくる思いに頭の中を支配された。
押し黙ったままあれやこれやと考えるラドクリフを目にしながら、

「奪うなどと小賢しい、つまらぬマネを余がするわけも無かろう。そもそも奪う必要など全く無い。
いずれ全てが余の物となるのだ。それまではマコシカの秘宝はマコシカの者どもに預けさせておくだけの事じゃ」

と笑い飛ばすゼラール。
彼が常々口にする言葉は、規模があまりにも途方も無く大きく、普通ならば実現不可能だと言う他に無い。
大ぼらか妄言か、エンディニオンの支配者となってこの世の全てを手中に収めるなどとは、
到底まともな人間が口にする言葉とは思えない。
誇大妄想だ、とラドクリフは言い切ることだってできた。だが、そうできないだけの説得力があった。
目の前にいるゼラールから、言い表しようのない圧倒的なスケールの大きさを感じ取ってしまった。
 眩暈がしそうな迫力を覚えながら、

「ではどうして、マコシカの事なんか調べて……」

とラドクリフは喉の奥から絞り出すように、最後まで言い切れないプレッシャーを感じつつ尋ねた。

「全てが余の物であるとしても、それらを充分に使いこなしてやるにはそれに合ったやり方があろう?
活用するためのマニュアルを読んでいるようなものぞ」

 ゼラールはそう言ってくっくと笑った。どれだけの資料や伝承があるのかラドクリフは把握していないが、
神人信仰の総本山ともよぶべきマコシカについて述べているものは並大抵の数ではないはず。
そうであるのにゼラールは取扱説明書程度にしか思っていないというのだ。
 トルーポに言わせればこれもまた「閣下一流のジョーク」なのかもしれないが、
ゼラールの意思がどうあれ、ラドクリフは圧倒されて呆然とするばかり。そんな彼に向かって、

「その姿を見れば分かる。貴様はマコシカの者であろう? 
丁度都合の良いタイミングで新しい説明書がやって来たわ。余にマコシカの何たるかを知っている限り伝えよ」

と彼の顎をつい、としゃくりながら命令した。
今までに見た事の無い、それどころか想像だにつかなかった、ラドクリフには到底理解できないゼラールという人間。
しかしそれでも、炎をまとい笑いを上げる彼はとても魅力的な人物であるように思えて仕方なかった。
 ずっと構えていた腕をすっと下ろし、魔法の矢を解除して、ラドクリフはゼラールの目を見つめて問いかける。

「あんた…… いや、あなたは自分の器をどう思う?」
「器? フェッハハハ、そのような矮小な言葉で表現できるような余ではない。
強いて言うのなら世界そのものぞ。古きものどもを洗い流し、新しい風を吹かせる。
新旧問わず全てを包括し、正しき秩序を作り上げるための装置よ」
「……そんな風に世界が変わると?」
「変わるのじゃ。変わらねば余が変えてみせるだけぞ。
全ての民族が、文化が独自性を保ちつつも融和し、余を頂点とした世界が形成されよう」

 どこまでも大きな、果てない野望を語って聞かせるゼラール。
やはりそれはむちゃくちゃな物言いだったかもしれないが、それでもラドクリフには目の覚めるような衝撃があった。
 マコシカがマコシカとして続いていくために、敢えて外部と関わり合う事の意義。
レイチェルの言葉の意味が分かったような気がした。
 外界の影響を受けるだけではなく、マコシカの文化や伝統が外部との接触で伝播していけば、
正しき神人信仰もまた世界各地に広まっていくことだろう。
マコシカが文化の送り手として発展していけば、様々な文化が交じり合うことでより発達した文化が生まれつつもなお、
マコシカは宗教の中心地として古き伝統を保ち続けることができるかもしれない。
余所者にマコシカを荒らされることを恐れていたラドクリフだったが、結局それは自分の杞憂だったのではと思った。
傷つくことを恐れていては前に進めない。人も文化もそうなのかもしれない。
 とにかく、新しいマコシカと世界を作り上げるなど、可能かどうかは未知数だ。
しかしそれもゼラールと共に歩めば叶わない事ではないのかもしれない。





「この命、全て閣下の野望のために」

 気づくとラドクリフはゼラールに平伏し、忠誠を誓っていた。
彼を片腕で抱いてゼラールは大笑いし、トルーポは満足そうに見つめていた。
 新しい主従関係の成立、この一連の流れを目にしていた村の人々は、
良くできた劇を見た後のように歓声を上げ、万雷の拍手を送った。
誰ともなくエルガーの威風堂々のコーラスを口ずさみ、あっという間にそれは大合唱となっていった。
彼らの声援に応えるように、ゼラールは両手を振り上げて惜しみない称賛を一身に浴びていた。

傍らでゼラールをずっと見つめ続けていたラドクリフ。
いつしか彼も威風堂々を口にし、ゼラールを讃えたのだった。




モドル