かつて『三国の至宝』とまで謳われた美麗な曲線を描く山岳は、
今、その美しさを災禍の真紅に、あまねく絶望と憤怒をない混ぜた彩(いろ)に
塗り潰されようとしていた。


「…ローラント族長、ジョスター・アークウィンド殿とお見受けいたす」


豊富な自然に囲まれた山間部に位置する秘境は煉獄なる炎の渦に焼滅され、
秘境の中心に位置する石造りの神殿の支柱には無尽に亀裂が走り、
走った先から崩落が始まっている。


「…貴殿の名は…」
「…フォルセナ黄金騎士団長、ロキ・ザファータキエ」
「誉れ貴き【黄金の騎士】殿直々の御出陣か…」


血と肉の焼ける酸鼻が垂れ込めた神殿の最奥には、
全身を己の血で赤く、黒く、重く染め上げ、
意匠を施した銀槍を支えに、途切れ途切れの意識で堪える若き【族長】と、
黄金の甲冑に身を包んだ、やはり若く精悍な騎士が相対している。
今にも彼らを飲み込まんと襲い掛かる崩落の中、互いに逃げるそぶりも見せず、
まるでここが終着点であるかのように、静かに、静かに眼光を交錯し合っている。


「【未来享受原理】の御名において、貴殿の首級、頂戴仕る」


いよいよ崩落も最終段階に入り、焦熱地獄が二人を取り囲んだ頃、
【黄金の騎士】が腰に携えた長剣(ブロードソード)を、
幾たびもの死線を切り開いてきた秘剣【ノートゥング】を抜き放った。
紫電の閃きを残像させながら、罪人を斬首の刑に処す執行官さながらの厳然たる面持ちで
振りかぶるように【ノートゥング】を構える。


「…【未来享受原理】。
 貴殿の掲げしその理想は、誰が為の理想なのか」


【ノートゥング】が振り下ろされようとした瞬間、
弁明粛々に瞑目していた【族長】が執行官へ不意の禅問答を投げかけた。


「盲人の私には世界の姿を見渡す事は叶わぬが、
 瞳に彩の宿らぬ分、健全なる人間よりも時流を読み通す心眼を宿しておる」


かつては『三国の至宝』を誇りとして映していた瞳には、今はもう光は宿らない。
見開かれた瞳には、誇りに代わり、神殿を包む昏い炎が映し出されるばかりだった。
その炎の凄絶さも、【族長】の視る世界には存在しない。漠たる感覚のみの次元だった。


「重ねて問おう。
 …【未来享受原理】。それは、誰が為の理想なのか」


突然の禅問答を受け、【ノートゥング】を構えたまま硬直する騎士の胸に
【族長】の言葉が不可視の槍として降り注ぐ。


「…この期に及んで何を乞うおつもりかッ!!」


逆巻く炎の火勢を増幅せんばかりの怒号が轟いた。
この期に及んで見苦しく命と名誉を乞う者を、
いみじくも一部族の長たる者がそのような醜態を晒す事が許せず、
黄金の騎士は目を見開いて正義の怒りに叩きつけた。


「ローラントに封印されし【禁咒】…。
 世界を侵すと忌み嫌われる【禁咒】を解放せんとする逆賊が何を乞うおつもりかッ!!
 あまつさえそれを後光に社会を恫喝し、クーデターを目論む卑賎な逆賊が、
 応報の死地に在りて何を乞うのかッ!?
 命捨つ断罪の因果を結びしは、誰でもない、貴様自身では無いかッ!!」
「…確かに我が手の【禁咒】は世界を侵す夢魔の理となるだろう。
 しかし、それを誰が証明する? 如何にして証明したのだ?
 それでは貴殿に弁証願おう。
 我ら【ローラント】の民を征討するに値する弁証を、私に、社会に。
 【禁咒】とは、果たして如何な存在なのか。
 【禁咒】とは、如何にして世界を夢魔と塗り替える存在なのか」


社会悪を糾弾する罵声を怒号でもって返した【族長】は、
出血と共に抜け出てゆく力をあらん限りに振り絞り、騎士へ詰め寄った。
支えの銀槍をかなぐり捨てて、最後の全霊をかけて、騎士の襟元に掴みかかった。


「…【禁咒】の名が指し示す通りではないか。
 太古に封されし滅びの種子、
 今日まで解かれる事なく永劫の眠りに就いていたのだ。
 誰の眼にも触れぬ事こそ喜びであり常の条理。
 それを貴様が………ッ」
「…一部族を滅ぼす征討の大儀とするにはあまりに脆弱な答えだ。
 【禁咒】に確たる実像も見出せず、大言をもって霧散させんとする迷い子だ」
「迷ってなどいないッ!! 正義は我らにあるッ!!」
「ならば、大言を連ねる度に、瞳が不安に淀むは如何な理由か?」
「………………………」


騎士の激昂を【族長】の静かな、穏やかな、しかし憤怒に満ちたオーラが押さえ込む。
社会の正義を剣に秘めて征討へ繰り出した騎士には、この時、初めて迷いが生じた。
目の前の男の言葉は、全てがあまりに的を射ていたからだ。
社会の正義を振りかざす身にありながら、騎士には【禁咒】の何たるかを知る術は無かった。
逆賊を処断せんとしたこの瞬間においても、騎士には【禁咒】の正体は掴めていなかった。
太古の昔に封印された滅びの種子、解かれれば世界に災いげ芽吹く――とのあやふやな伝承だけが
彼にとって正義の行動を裏付ける錦旗だったのだ。
それを許せず剣を振るい、この場に参じた正義が、今、根底から覆されようとしていた。


「確たる証明もなく、ただ異端というだけで一部族を虐殺せしめるのは、
 …せしめた先にまことの未来を享受する原理が産まれると、
 なぜ夢想でき――」


【未来享受原理】と呼称される核心へ【族長】の弾劾が迫った瞬間、
騎士の右腕が峻烈に動き、剣に烈志を宿して【族長】の胸元を貫いた。


「………散り際を弁えぬ愚者だからこそ、かような悲劇を招いたのだ。
 涅槃の淵に立って世迷いを連ねるなど、その極みッ!! その顕在ッ!!
 命数を惜しむ弁明を並べず、せめて今際の際のみ、堂々と一部族の長らしくされいッ!!」
「――これが貴殿の答えか…ッ。
 これが貴殿らの…我が民を焦熱に焼き討つ“偶像の犬”の名分か…ッ」


失望と侮蔑を込めた怨嗟を喀血と共に吐き出し、
ヨロヨロと力なく後ずさった【族長】は、
神殿最奥から天を貫く一本の巨柱に手をかけると、そのまま崩れ落ちた。


「………因果に背景を求める事無く、
 己の正義に反する者を危険視し、蹂躙する…どこまで蒙昧なのだ…」


夜空を焦がさんばかりに盛り狂う災禍に包まれながら、
炎よりも熱く暗い最期の呪言を吐き捨てる。
そうだ、そうでなくてはならない。
無様に御託を並べ立てる社会悪こそ、正義の刃にかけるに相応しいのだ。
迷いを確信なる正義に換えた騎士の胸に、最早迷いは無い。


「私の胸に燃えるは無限の希望ッ! 【未来享受原理】の先に広がる理想ッ!!
 理想を転覆せんとする逆賊よ、ジョスター・アークウィンドよ、
 貴殿の首級、今こそ頂戴仕るッ!!」
「最後まで正義を誤解するのならば、
 【偽り】の正義を平和と履き違えし貴殿にこそ見せてやろうッ!!
 腐敗した社会の尖兵、ロキ・ザファータキエよッ!!
 奈落の底にて真の未来を…貴殿の夢想よりも遥かに喜びの苑へ広がる、
 まことの【未来享受原理】を無明なる双眸に焼き付けよッ!!」


黄金の騎士が断罪の【ノートゥング】を振り下ろした瞬間、
【族長】の指が僅かに動き、深紅の飛沫と呼応するかのように、
巨柱が地鳴りを上げ――――――













「ロキはッ!! 【黄金の騎士】は発見できたのかッ!?」


山岳一帯を焦がす程の大火に包まれた秘境を蒼銀の甲冑を纏った男が
数名の部下を率いて駈けずり回っていた。
彼の瞳が探すのは、正義の刃で討ち取る邪悪ではない。
太古の昔、【女神】と【聖剣の勇者】によって封印された滅びの種子…【禁咒】を解放し、
社会転覆を目論んだ逆賊『ジョスター・アークウィンド』を討ち取らんと
一番槍に先駆けて突貫した親友、ロキ・ザファータキエである。


「部下数名を引率して大神殿へ…
 【アクシス=ムンディ】へ突入してからの消息は不明でありますッ!!」
「その【アクシス=ムンディ】も崩落から半刻が経ちます!
 …残酷かもしれませぬが、息災での生還は難しいかと――」
「ロキッ!! どこだ、ロキッ!!!!」


部下の一人の報告は、最早彼の耳には届いていない。
狂々とした戦場に飛び交う通信には、誤報が入り混じって然りだ。
そのようなあやふやなものを信じるわけにはいかなかった。信じたくなかった。
自分の瞳で視認するまでは、親友の安否をあやふやな情報へなど委ねられない。
だから、走って、走って、秘境中を駆けずり回っている。


「君側の奸がぁぁぁあああッ!!!!」


親友の幻影を求める彼の前に、
突如として突撃槍を構えた女戦士(アマゾネス)が飛び出し、
血だらけの身体ごと襲い掛かってきた。


「――くッ!!」


抜き打ちで一刀のもとに切り捨てると、
夥しい鮮血を迸らせた女戦士は極限的な憎悪を孕んだ眼光で彼を睨み据え、
そのままの形相で地面に伏した。


「………………」


苦い思いが駆け巡り、憎悪の沸き立つ骸から思わず眼を反らしてしまう。
彼らに課せられた任務は、社会転覆を謀る【アークウィンド家】の征討である。
標的が特定されている以上、その他の犠牲は最小限に防ぐのが、
“社会の護民官”たる騎士の務めであり責務である。
しかし、今回の任務は、そうした想いも誇りも途中から【民族虐殺】へすり替わってしまった。
老若男女、戦士も一般市民も、秘境【ローラント】の全ての民が
【族長】とその血族を守護しようと命を顧みない特攻で反撃を仕掛けてきたのだ。






(人と人との繋がり深きが【ローラント】の風潮と耳にはしていたが、よもやここまでとは…)






言葉でどれだけ説得しても決して応じず、届かず、
けれど社会悪を擁護せんとする逆賊の徒を見過ごすわけにも行かず、
応戦するしか無くなり、ついに戦場は賛美を極める【民族虐殺】の惨状と化してしまった。






(これが【未来享受原理】の行き着く果てなのか…ッ? 俺たちはこんな事をするために戦ってきたのか…ッ?)






平穏な社会を夢見て戦ってきたからこそ、苦い思いが身体を突き刺す。
親友たちと語り合った未来は、このような悲劇の上に折り重なる朝日では無かった筈なのに。
それなのに、今、許しがたい惨劇の場に自分たちは佇んでいる。
許しがたい惨劇を自分たちが築いている。
正義を愛し、社会の平穏を夢見た瞳が真っ暗なカーテンに遮蔽される錯覚すら覚える彼の足元を、
切って捨てた女戦士から流れ出た鮮血が濡らす。
【平和】という調和のもとへ全ての民が集い、【未来】を享受せんとする理想を、
黒く、赤く、隷属なる原罪が濡らしていく。


「――王子ッ!! リチャード王子ッ!!
 ザファータキエ団長は我々が必ず発見いたしますッ!!
 王子はどうかこの場より退避をッ!! 御身に触りますッ!!」
「黙れッ!! あいつは俺が必ず探し出すッ!! 他の者に任せられなどするものかッ!!
 ――ロキッ!! どこにいるんだ、ロキッ!!!!」


漆黒の暗夢から立ち戻り、己が成すべき事を思い出したリチャードは、
王族である彼の身を案じ、後ろから羽交い絞めにする部下たちを振り払い、
再び惨劇の戦場を駆け巡り始めた。
愛しき友を呼ぶ絶叫に答える声は無い――――――。













幼い頃から駆け回った野原も、夢を馳せて見上げた夜空も、
今は深紅の赫に染め上げられて、淡い想い出すら絶望へ塗り替えられてゆく。
昨日まで笑顔を合わせた全ての民も、溢れんばかりの愛情で育んでくれた父も、
その災厄の焔の渦中へ消えていった。


「………父様は、悪いことをしたのでしょうか。
 悪いことをしたから、攻めて、焼かれて、…命を奪われたのでしょうか」


誰に対しても分け隔てなく優しかった最愛の父が成そうとしていた偉業を、
その時、まだ幼すぎたブロンドの少女には理解できよう筈もない。
だから、父の志に誇りを持つでなく、突然全ての幸福を奪われた絶望に嘆く事しかできなかった。
それは、一人の人間として、当たり前に抱く嘆きであった。


「リース様――」


生まれたばかりの弟を抱いて逃亡の山河を渡る少女を引率するように
先立って血路を確かめていた、交叉槍(ツインランス)を携える甲冑姿の女騎士が、
その小さな手のひらには許容し切れない悲しみに嗚咽を漏らす少女へ
毅然と、けれど慈しむように声をかける。


「――ジョスター様…お父上様は何も間違った事をしてはいません。
 正しい事を成そうとしたからこそ、間違った人間の恨みを買ってしまったのです。
 …お父上様は正しかった。
 憎むべきは、崇高な理想を履き違えた愚かな蛮人たちです」
「わからない…私には。
 …間違いであっても、私は、今まで通りに暮らしたかったのに…」


頭を振って否定する少女の悲しみを誰より痛ましく理解する女騎士は、
涙に濡れた頬を優しく撫でて、今日を、明日を生きよと励ます。
我が身を犠牲として幼い少女とその弟を護り、庇った全ての民の想いを背負って。
「息災でいてくれ」と願った民の総意を勇気に換えて。


「いつか、きっと、私の言葉も、お父上様の偉業も誇りに思える日が来ます。
 その日のために、その日に誤った選択を下さないために、
 リース様、あなたは今日という日を決して忘れてはなりません」
「今日を…」
「【昨日】よりも悲しく、【明日】へ未来を灯す狭間である【今日】という日を」


劫火に包まれ焼失されていく想い出を、家族を、友を刻むために、
涙に濡れた瞳をチュニックの袖でしっかりと拭い、
還り道を亡くした故郷を遥か彼方の山河から思う。
山河を越えて尚、夜空を染める絶望の赫を瞳に焼き付ける。


「私は忘れない。忘れたりしない。
 【今日】という日に【昨日】までを奪われた悲しみも、
 今日という日から始まる【明日】への想いも全部――」


太古の昔、【女神】によって封印された“滅びの種子”【禁咒】を解き放ち、
社会転覆を企てた少数民族の秘境【ローラント】とその族長、アークウィンドは
事態を重く見た民主社会の護衛者を標榜する【フォルセナ】王国騎士団によって
一夜の内に攻め滅ぼされ、地図上からその名を、“暴徒”の烙印によって焼き消された。
前代未聞のクーデター未遂事件は、一部族を根こそぎ消失させるという結末をもって終幕し、
この戦によって命を落とした勇敢なる黄金騎士団団長、ロキ・ザファータキエは
亡骸なきまま国葬をもって弔われ、彼の勇敢な働きを、人々は【英雄】と称えた。
悪しき魔族を討ち果たした、社会正義の【英雄】――と。







しかし、人々は知らない。
大衆の正義の裏側で絶望の涙を流した少女がいた事も、
【英雄】の残滓が、やがて世界に秘匿された【偽り】を暴き立てる事も。


「――忘れない」


少女が呟き、瞳から零れた星屑が大地に散って消えた時、
真実を超える【偽り】の旅路が始まりの音を打ち響かせた。






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