0.真夜中の顔


「賢い人間しか長生きできないんだよ、賢い人間しか」

 足下に転がった大きな影に向かってそう吐き捨てる黒服姿の男の声には、
人間らしい感情と言うか、生身の体温と言うものが感じられなかった。
 空中を遊泳する羽虫が目障りだから、ちり紙に包んで握り潰し、無造作に放り捨てた―――
自身の爪先にも触れている影に対して、彼はその程度の認識しか持ち合わせていない様子である。

 もはや物言わぬオブジェクトとなり果ててはいるが、彼の爪先が接しているその影は四肢が長く伸びており、
もとは生ある人間だったことが認められた。
 しかし、二度と言葉を話すことがないのと同様に、ピンと伸びきった四肢にも再び活力が漲る日は訪れない。
 眉間には鉄製の串のようなモノが深々と突き刺さっており、
そこから流れ出した真紅の生命力は、既に温もりを失って凝固し始めていた。
 脈を取って確かめるまでもなく、その男の絶息は明白であった。

 命の全てが流れ落ちるまでの間、懸命に生を渇望したのであろうか、
全身くまなく哀れなほど埃に塗れ、左の手首に嵌めている腕時計は、午前二時三十分を指したところで機能を停止していた。
 針を防護する為の丸いガラス板は大きくヒビ割れており、とてつもなく強い力でのたうち回っていたことが察せられる。

 室内にかけられた時計の針は、ちょうど午前三時を告げている。
 成る程、体温を失った血潮が石と化すかのように固まるには十分な時間の経過を見ている。

「お前の言う通りだな。分別を弁えぬ人間ほど救えぬものはないわ」
「町長………」

 室内にはもうひとり厳つい面構えの老人が居る。
 蛇皮の装丁が施されたA4サイズのノートを手にしたまま苦みばしった顔で歯軋りするその老人を、
黒服の男は“町長”と呼んだ。

「………たったひとりではあるが、農家の人間がこのコトに気が付いた。由々しき問題であるな」
「一刻の猶予もありません。早くに始末をつけます」
「だが、手はあるのか?」
「私にお任せください」

 意味ありげな視線を“町長”へ送った黒服は、次いで足元の遺骸を一瞥した。
 作業用ツナギで全身を包んだ、この哀れなるオブジェクトを。




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