<決戦突入:15時間前>



「そ、それはまことかッ!?」
「でかしたッ! まことでかしたぞ、【セクンダディ】ッ!!」
「おぉ、いよいよ、いよいよ【超神(トリニティ=マグナ)】の旭光が昇るのだな…ッ!!」


一筋の光も差さない暗黒の深淵に在る奈落の底では、
もたらされた吉報を受けて、三盟主らが歓喜に打ち震えていた。


「【太母】の成長は既に予測範疇を遥かに上回っております。
 熟れた果実を食すのは今が頃合かと」


貼り付けたような笑顔で進言するヒースの腕の中にはリースが、
今頃は【草薙カッツバルゲルズ】の面々と決戦に備えて
つかの間の休息を取っているはずのリースが抱かれていた。
深く眠っているのか、瞳を閉じたままぐったりと横たわっている。
【喪服】ではなく、裸体に薄手の布をかけられただけの姿で
ヒースに抱かれる【太母】に三盟主は、誰からともなく舌なめずりをした。


「―――喜びに震える時ではあるが、【堕ちた聖者】よ。
 予定進捗よりも随分と早い捕獲となったな?」
「当初の予定では、ここ【キマイラホール】までおびき寄せ、
 忌々しき郎党どもを一掃した後に捕獲という段取りでは無かったか?」
「熟れきったところで収穫するのならまだしも、
 早摘みとなると、計画に綻びが生じるのではないだろうか………」
「我々としても驚いている限りなのです。【太母】の飛躍的な成長には。
 収穫時期を越えた果実は腐って落ちるというもの。
 これ以上、熟れすぎれば同化の法にも影響が出るゆえ、
 ギリギリの一線を把握し、捕獲した次第でございます」
「左様であったか。…うむ、大儀であるッ!!」
「有難きお言葉にございます」


予定を繰り上げた理由を懇切丁寧に報告し、三盟主らから労いを賜ったヒースは、
瞳閉じたまま微動だにしない【太母】をかき抱いたまま平伏した。
三盟主の首座よりは見えない俯き加減の表情には、
相変わらず貼り付けたような笑顔が宿っている。


「―――されど、盟主。
 こうなっては外患が黙ってはおりますまい」


ヒースと共に盟主の首座にて平伏していた黒耀の騎士が
労いを噛み締める時間を置いてから、緊張した声色で進言を続けた。


「それはどういう事か?」
「我らが【共産】の神威を纏わば、何人とて恐れるものはあるまいに」
「―――【太母】の郎党…か」
「アークデーモン様が仰せられる通りにございます。
 【草薙カッツバルゲルズ】。まるで児戯のような名ではございますが、
 今や【太母】を中核にその勢力は増大の一歩を辿っており、
 我らとて侮る事許されぬかと」
「【太母】が我らの手に落ちたと知れば、彼奴らは奪還に攻め入ってくる。
 ………そう申したいのだな?」
「戦(いくさ)となりましょう」


世界の命運を握る【太母】が敵方の手中に落ちたのだ。
おそらく【草薙カッツバルゲルズ】は決死の覚悟で攻め上ってくるだろう。
黒騎士の危惧は間違いなく、【キマイラホール】は戦場と化す。
そうなれば【超神(トリニティ・マグナ)】への同化などと
算段を付ける状況で無くなる事は明白である。
ようやく【共産】の開闢まで漕ぎ着けたというのに、
侮蔑無粋な横槍を入れられるなど以ての外だ。
「郎党どもめ…」と異口同音して忌々しげに呻いた三盟主はある決断を下した。


「―――【黒耀の騎士】よ。貴殿に全軍の指揮を任せるッ!」
「これより【三界同盟】の全兵力を率いて下郎どもが襲撃に備えよッ!」
「我らが同化の秘術にて【超神(トリニティ・マグナ)】へと至るまでの暫時、
 完全なる布陣を敷き、理想護る絶対の砦となるのだッ!!」
「「「――我らが【共産】の理想のためにッ!!!」」」
「身に余る光栄にございます。
 我ら一丸【共産】の官軍となりて、
 奸族輩を必ずや討ち果たしてご覧に入れましょうぞッ!!」


【三界同盟】の命運を双肩に託された黒騎士の武人らしい宣誓が
三盟主の首座に猛々しく木魂する。
【太母】を抱えたまま事の仔細を見守るヒースは
終始貼り付けたような笑顔のままでいた。
眠る【太母】のように少しの感情も微動だにせず、不気味なほどの笑顔のままで。













<決戦突入:3時間前>



【獣王義由群(ビースト・フリーダム)】の屯所内には、
寝室や食堂、簡素な遊技場が組み合わさった居住区や事務所の他に
弛まぬ鍛錬を行うための格技室が設けられている。
ケヴィンやカールを始めとする隊士たちは、ここで互いに腕を磨き合うのだが、
さすがに決戦を直前に控えたこの時間帯には誰の気配も無かった。


「おや? 君は確かデュランの………」
「あ、あなたは、確か、師匠の………」


誰も来ないからこそ精神を集中できると考え、
カールも置いて、独り静かな道場の中心で禅を組んでいたケヴィンは
ドアを開く音に反応して振り返った。
向かって背中側にある唯一のドアを開けて入ってきたのは、
デュランの親友であり、今回の決戦にも助太刀を買って出た
【黄金騎士団第7遊撃小隊】隊長、ブルーザーだった。
薄手のシャツにワークパンツというラフな恰好だが、
腰には二振りの剣を携えている。


「あの、それは………」
「え? ああ、剣(これ)かい?
 いつも使っている鍛練用のものだよ。
 …もういくらの猶予も無いのだけど、なんだか気が散ってしまってね。
 格技室があると聞いたから、
 軽くウォームアップでもしておこうと思ったのだけど………お邪魔だったかな?」
「いえ、オイラも、似たような、ものですから」
「似たようなもの…か。落ち着かないのかい?」
「戦は、初めてなので………」


不安げに毛むくじゃらな耳を折ったケヴィンの心には、
決戦の刻限が近づくにつれて不安と焦燥が染み出していた。
【三界同盟】と戦う事には少しの怯みも無く、
最大の秘義【アグレッシブビースト】を備えた今では負ける恐怖も無い。
それなのに絡み付いてくる不安の正体を、ケヴィンは自分でも理解していた。
自分には戦に出た経験が欠如しているのだ、と。


「デュランには相談したのかい?」
「………『自分を信じろ』と、それだけ、言われました」
「なるほど、あいつらしいな………」


きっとぶっきらぼうにそれだけ言って、背中を叩いてやったのだろう。
余計に不安を駆り立てたり、甘えを呼び込むような事は絶対にしない奴だ。
その時の光景が易々と想像できてしまい、
ブルーザーは噴出しそうになる苦笑を懸命に堪えた。
何をそんなに必死になって堪えているのだろうと訝るケヴィンにとっては
この不安は重大な悩みなのだから、不躾に横槍を入れるわけにはいかない。


「―――ん、よし、それなら、
 ケヴィンくん、一手俺に付き合わないか?」
「ブルーザーさんと、ですか?」
「こう見えてもデュランとは同門でね。退屈はさせないと思うよ?」
「………わかりました。一手、お願いします」


ケヴィンは数少ない師匠の教えを思い出していた。
頭で考えるよりも身体を動かせ、と常々言われてきた。
不安のはけ口を頭で探し出せないなら、身体を動かして発散させてみよう。
その相手が師匠の同門なのだから言うことは無い。
ケヴィンは禅を解いて立ち上がると、すぐさま一礼し、構えを取った。


「よし、始めようか………ッ!」


左右両手に鍛錬用のライトソードを構えたブルーザーは、
宣戦するや否や、すさまじい速度でケヴィンの懐めがけて踏み込み、
絶妙の時間差を付けて二刃を繰り出した。






(―――ッ!? 早いッ!!)






十字を切る連撃を巧みに捌いたケヴィンは肘打ちで反撃しながらも
心の中では大きな感嘆に包まれていた。
デュランと同門であると教えられたが、太刀筋はまるで正反対。
ツヴァイハンダーによる重い強撃を得手にするデュランに対し、
ブルーザーは二刃から繰り出される緩急自在の技巧に長けているようだ。
今も打ち出した肘打ちを右の剣の鍔元で軽く跳ね上げられてしまい、
そこへ左の剣が追い討ちを仕掛けてきた。
ツヴァイハンダーの圧倒的な破壊力こそ無いものの、
ツヴァイハンダーには無い流麗さと精密さを兼ね備えた、柔の剣である。
まさに陰陽両極端。
それでいて身のこなしはデュランとそっくりなのだから面白い。






(すごい! すごいすごい!! こんな速い技、見るの、初めてだッ!!!)






いつしかケヴィンは不測の立ち合いへ夢中になっていた。
拳を、脚を繰り出すたびに不安が、焦燥が振り切れていく。
そもそも何をそんなに鬱々としていたのだろうか。
愉しい闘いは、それすらも忘れさせてくれた。


「そろそろ本気で行かせてもらうよ!
 ―――【靂双(れきそう)】ッ!!」
「それじゃあ、こっちも全力で!!
 ―――【ジャイロジェット・バルカン・ティーガー】ッ!!」


左右の双剣から斬り上げと斬り下げを同時に放つブルーザー必殺の【靂双】と
無数の拳を乱打するケヴィンの【ジャイロジェット・バルカン・ティーガー】が
真正面から激突する。
手数で言えばケヴィンの乱打に勝機は傾きそうだが、
いくら無数と言えど、それを繰り出す拳は左右に一つずつしかない。
それがブルーザーの狙いだった。
斬り上げと斬り下げでケヴィンの拳を打ち据え、
超速の乱打を強制停止させたブルーザーはそのままの姿勢から、
無防備になったケヴィンとの距離を、半身を捻りながら一気に詰めた。


「もらったァッ!!」
「――――――――………ッ!!」


防御の体勢を立て直そうにもままならず、ならばせめて直撃だけは避けようと
一足飛びで後退するケヴィンの初動をブルーザーが捉える。
猛然と攻めかかるブルーザーは、刃ではなく柄での殴打を仕掛けてきた。
斬撃が来ると考えていただけに、この動きは虚をつかれるもので、
結局驚きに口を開け広げたまま、ケヴィンはアバラを一撃されて
その場に崩れ落ちた。


「まだまだ隙があるな。
 必殺の一撃を回避された時こそ、死中に活を見出せるものなんだよ。
 この一手がダメだったら、次はあの一手という具合に
 早い切り替えしの連携を考えないと」
「ま、参りました………」
「―――と言ってる割には、だいぶご機嫌みたいだけど?」
「はい! オイラ、すっごく、満足!!
 師匠にも、何度か、稽古付けてもらったけど、
 ブルーザーさんとの試合も、すごく、刺激になりました!」
「師匠―――かぁ」


敗北を悔やむよりも試合で得られた経験を喜ぶケヴィンから飛び出た
『師匠』という敬称に、ブルーザーは再び苦笑を漏らす。
ケヴィンが師匠と慕うデュランは、
およそ人から『師匠』などと敬服されるような気性ではない。
これまでにも何度か騎士団の教官を頼んだが、
いずれの機会もただ荒稽古を付けるだけの鬼スパルタ。
“物事を教える”という次元の話ではなかった。
そんなデュランに『師匠』という冠はあまりにも似合わなく、
ケヴィンに申し訳ないと思いつつ、どうしても苦笑を抑えられないのだ。


「あいつは普段、君にどんな事を教えてくれるんだい?」
「基本的には、なにも。ただ、黙って俺についてこい、みたいな、感じで」
「だろうねぇ。簡単に想像がつくよ」
「でも、黙ってついていくだけで、すごく勉強になる」
「たとえばどんな風に?」
「師匠は、いつでも、真っ直ぐ。
 誰かを叱る時も、誰かを守る時も」
「叱る? 守る?」
「うん。オイラたち、リースっていう仲間、守るために戦ってきた。
 最初はお仕事だったんだけど、師匠は、誰よりも先頭に立って。
 リースが、無茶すれば、本気で叱るし、守る時は命がけ」
「…ははぁ、デュランめ、さてはリースさんとやらにホの字だな。
 だからそんな慣れないこと―――」
「ううん、リースだけじゃないよ。
 仲間が落ち込んだり苦しんでるとき、師匠、すごく頑張る。
 正面から叱って、本気で心配してくれる。
 オイラ、そんなカッコイイ師匠みたいに、なりたいんだ」
「―――あいつがそんな事を?」


にわかには信じられなかった。
ただ強くなる事だけにこだわり、他人を寄せ付けず、
いつの間にか【狂牙】と恐れられるまでに荒れていたデュランが
誰かのために本気をぶつけるとは信じられなかった。
誰にも媚びないデュランが、背中を丸めて寄り付く連中を蹴散らすバラガキが、だ。
しかし、こんなにも眼を輝かせて師匠のカッコよさを
誇らしげに語るケヴィンが嘘を言っている様子とは思えない。


「変わったみたいだな、あいつ………」


護衛の依頼に就くからと【フォルセナ】で別れたのは数ヶ月前だ。
あの日見送った背中と今の背中では背負う物が全く違っているのかも知れない。
それは、ブルーザーの知らない、幼馴染の顔だった。


「ブルーザーさんも、昨夜の鍋パーティー、繰ればよかったのに。
 師匠のカッコよさ、オイラ、もっと、話したかった」
「いや、覗いた事は覗いたんだけよ。
 でも、なんか入り込めそうになくて―――」






(―――ああ、そうか、だからか………)






だから入り込めないと感じたのだ。
誰にも媚びない筈のデュランが、大勢の仲間に囲まれて楽しそうに笑っていた。
そこになぜか入り込めない空気を感じて――素っ裸に剥かれたランディが
プリムの鞭のもと、無理やり腹芸をさせられていたという狂乱もあり――、
ブルーザーは顔だけ見せてそのまま鍋パーティーの会場を去ったのだが、
今ならその時抱いた感情の正体がよくわかった。






(驚き半面寂しいもんだな…。
 ダチがいつの間にか知らない顔になってくのは)







もうすぐ決戦の刻限だと言うのに、
ケヴィンの師匠自慢はまだまだ止まりそうにない。
不安の色を浮かべる彼を鼓舞しようと稽古を申し込んだのに、
終わってみれば今度は自分に気落ちの順番が回ってくるとは。
目映いばかりのケヴィンの笑顔に目を細めながら、
先ほどまでとは意味合いの違う苦笑をブルーザーはそっと漏らした。













<決戦突入:14時間前>



先ほどまで決戦に向けての軍議が開かれていた石室のテーブルに
ぽつんといつまでも邪眼の伯爵が腰掛けていた。
普段は美獣と一対を成している伯爵にしては珍しく一人きりで、
静かに深く何事かを思案しているようだ。


「―――待たせてしまったかな、伯爵殿」
「いや、こちらこそ決戦直前に呼び立てしてすまなかった」


武人の声は薄暗い石室によく通った。
気が付くと、伯爵の隣に黒耀の騎士が座っていた。


「盟主様のご様子はどうだ?」
「これより【太母】との同化の儀式に入る。
 補佐は、堕ちた聖者と美獣の二人が取り成す―――とは、
 今ほどの軍議でも発表していたな」
「そうか、それは何よりだ………」
「何よりと安堵するには、卿の顔色はすこぶる悪いように見えるぞ?」
「………………………」
「私を呼びつけた理由はそこにあると考えてもよろしいかな?」
「そう察してもらえると有難いな。話が滞りなく進みそうだ」


滞りなく進みそうだ、と言っておきながら、伯爵は自分で沈黙の間を作ってしまっている。
どうやって切り出せば良いものか、視線を泳がせ、深呼吸を繰り返し、
たっぷり三分以上平行線を続けてから、ようやく決心を付けて話し始めた。
その間、黒騎士は急かすでもなく、ただ、じっと彼の言葉を待っていた。


「………【太母】を手中に収めた以上、これで我らの勝利は間違いない。
 間もなく盟主様は三柱にして一対の絶対存在へ、
 【超神(トリニティ・マグナ)】へ進化される。
 その時こそ、【共産】の理想輝く新しき国の開闢(はじまり)だ」
「そうだ。新しき国はもうすぐそこまで来ている」
「―――では、新しき国とはなんだ?」
「ほ…う?」


まさか伯爵から聴くとは思わなかった言葉には、
泰然たる黒騎士も狐に摘まれたような驚きを見せる。
美獣と邪眼の伯爵の忠誠心は他の【セクンダディ】よりも遥かに強く、
特に彼らの棲まう魔界の主、【黒の貴公子】アークデーモンには
常に跪いて従属している。
アークデーモンの言葉があれば、何の疑いも自分の意見も抱かず、
従順に任務を遂行する機械人形―――とも揶揄される伯爵が
初めて疑問を口にした。


「【共産】の世界とは、人間を廃した世界だ。
 【イシュタリア】を食いつぶす人間を根絶した…な」
「当然だろう? 人間を根絶した先にこそ【共産】は実を持つのだと、
 三盟主も常々―――」
「しかし、それは真に新しき国だろうか?」
「………………………」
「何かを排斥するのは簡単だ。
 簡単だが、それが真の新しき国へ通じると思えないのだ。
 絶対の存在となられたのなら、その威力をもって支配すればよいではないか。
 支配に留めず、何ゆえ、根絶せしめねばならないのか」
「異なことを言うものだな。
 人間を見下し、根こそぎにする事を誰よりも推していたのは、
 卿ら【支配階級魔族(サタン)】では無かったか?」
「そう、その通りだ。………だからこそ、解からないのだ。
 理想の世界の足音がすぐそこに聴こえているにも関わらず、
 なぜ今になって新しき国を自問するのか、
 なぜ今になって人間の根絶に疑問を抱くのか、
 ………そのような迷いを生み出す私自身が解からないのだよ」
「―――こないだの祭り騒ぎで、人間サマに惚れ込んだんじゃないか?」


吐露が進むにつれて頭を抱えてしまった伯爵へ助言を与えようと黒騎士が
口を開いた出鼻を挫いて、石室の入り口からつっけんどんな言葉が投げかけられた。
【紅蓮の魔導師】ことブライアンだ。
炎の如く揺らめくマントに身を包んだブライアンが腕組みして
岩壁に凭れ掛かっていた。


「卿は………」
「俺はあんたを呼びにきただけだ。
 話に聞く耳立てていたわけではない………【不浄なる烈槍】がお呼びだ」
「む…、しかし今は………」
「答えなら俺がいま提示した通りだ。
 これであんたを引き止める後ろ髪は切れただろう」
「そのような安直な物では―――」


―――と言いかけたところで、
ブライアンの言葉で得心がついた伯爵の顔を目端に捉えた。


「………まさか、本当にそうなのか…?」
「無理からに話を膨らませんでくれ。
 色恋の問題ではない。第一、私にはイザベラがいるのだ。
 ………ただ―――」


後から考えてみれば辱めでしかないような恰好をさせられて、
こてんぱに打ちのめされたというのに、
伯爵にはあの夜祭りでの出来事を呪わしく思う事がどうしても出来なかった。
呪うばかりか、赤いフンドシを締めた男を、彼と演じた勝負を、
そんな自分たちを見て明るい声援を送った人々の笑顔を思い出すたび、
頬が綻んで仕方が無いのだ。


「―――人間も、そう悪いものではないと感じたのだ」


魔界に産み落とされてから今日まで、
あれほど心躍るものがあると知らずにいた。
知らずにいたから、人間を踏みにじろうとも何も感じなかった。
けれど、今は違う。
これまで向き合う事もせずに下等種族と嘲った人間を知ったからこそ、
彼らを滅びに招く【共産】の世界に、新しき国に迷いを生じたのだ。


「私は愚か者だろうか…?
 たかが一度の享楽で何を単純な、と詰ってくれるか?
 決戦を前に私は―――」
「愚か者というか、なぁ………?」
「ああ………、自ら視野を開拓した卿を愚者と嘲る者はおらぬよ。
 卿の胸に宿ったその疑念こそが、新しき国への礎となるのだ」
「………気休めとして頂戴するには、なによりの薬だ。
 しかし、迷いを抱えたまま戦えるだろうか、私は………」
「アタマでゴチャゴチャと考えて答えが出ないなら、
 いっそ面と向かってやり合ってみろ。そこから見える物もある。
 ………チッ、なんだか思い出すには苦い顔が浮かんでくる…ッ!」
「戦いとは、ただ命を奪うだけのものではない。
 生殺与奪の取捨と自問を心に常に置いてこそだよ。
 ………相対する者への礼儀を失する事なきよう、
 全力を尽くす事も、新しき国への一つの鍵となる」


―――「新しき国へ」………。
黒騎士とブライアンからの訓示を、伯爵は小さくもう一度口の中で反芻した。







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