―――――――――それは、彼らが【大人】の階段を登りきっていない、
まだ青春の情熱にキラキラと輝いていた頃の、
………数多の悲劇が痛切に運命を絡め取る以前の物語。


「………ただいま戻りました」


木製のドアを恐る恐るそっと押し開いて玄関の中へ入ってきた剣士風の青年―――
―――ロキ・ザファータキエも、この頃はまだやっと二十歳を過ぎただけの、
大仰な夢想や原理を説く口すら持たない剣一筋の朴訥な青年だった。


「あ、おかえりなさい、ロキ♪」


ほとんど怯えた様子で周囲の気配を探り探り廊下を忍び足で進むロキを
目敏く発見して駆け寄ってきたのは、誰もが朗らかになれる笑顔が魅力の可憐な少女―――
―――後に夫と子供を残して彼岸を渡るロキの恋人、シモーヌ・パラッシュだ。


「―――ぴぁっ!?」
「うわっ!? …お、おい、何やってんだよっ?」
「いたた………、ロキが帰ってきたのが嬉しくて、
 ちょっとはしゃいじゃった………」
「………はしゃぐなよ、いい歳こいて」
「もぉ、ロキは本当に乙女心がわかってないよ。
 普通ははしゃぐものなのっ、一ヶ月も離れ離れだった恋人と再会したならっ」
「こ、恋人って………そんなこっ恥ずかしい呼び方すんなよ」


急に走ったせいか、思いっきりつんのめって顔面から板張りの廊下へ激突したシモーヌを
慌てて抱き起こすロキの頬には、「恋人」と呼ばれた気恥ずかしさからか
僅かばかり赤みが差していた。
もちろんシモーヌの頬もうっすら赤いが、こちらは単に照れているだけではないようだ。


「………また熱出してたのか?」
「―――えっ? ち、違うよ。これは………、
 ―――そうっ! 久しぶりに会えたからちょっとテンション上がっちゃって、それで………」
「………お前と俺は何年の付き合いだ?」
「ふぇっ? あ、改めて聴かれると照れるなぁ〜。
 えーっと、私からお付き合いしてって云ったのが18歳の頃だから今年で―――」
「家が隣同士でガキの頃から一緒だった俺とお前の腐れ縁は何年だって聴いてんだ?」
「………20年です」
「よし、それじゃあ質問を変えるぜ。この20年の間、お前が俺に嘘をつき通せた事が一度でもあったか?」
「………ありません」
「なら、俺が言おうとしてる事もわかるよな?」
「で、でも、今度はほんのちょっと風邪をこじらせただけで、それで…っ」
「風邪をこじらせたヤツがテンション高く突っ走って来んなっての」
「………はい」


忍び足で家に入り込んだ時の無様さはどこへやら。
返事と共に咳き込んでしまったシモーヌの背中を「ほら、言わん事ぁ無ぇ」と優しくさするロキは
病に臥しがちな恋人を気遣う男らしさに溢れており、
これならばシモーヌでなくとも夢中になってしまうのが頷けるほど恰好良かった。


「………私もリチャード王子みたいに強かったら、ロキに随いていけたのにな………」
「あんなのが二人になったら、俺のが保たねぇよ。
 ………お前はお前のままで元気になってくれ。でなけりゃ、俺も安心して家を出れねぇよ」
「ロキ………」
「お前が元気で待っていてくれる事が、俺にとって一番のパワーになるんだからさ」
「………うんっ」


誰がどう見ても恋人同士の語らいだ。
なにしろシモーヌはロキに抱きかかえられたまま、彼の胸の中へ身体を預けているし、
言葉のやり取りの一つ一つがメイプルシロップよりも甘やかで、
まるで恋愛映画のワンシーンを切り取ったかのようにロマンチック。
何人も立ち入れない“二人の世界”がそこにあった。


「こンの腐れ外道ぉッ!! 帰ってくるなりシモーヌに(悪い意味の)悪戯たぁ良い度胸だコルァッ!!」
「………ひょわッ!?」


―――恰好良かったのはほんの僅かな時間だったが。


「なにが『ひょわッ!?』だッ!! ………前戯かッ!? 前戯の真っ最中だったのかコルァァァッ!!」
「ぜ、ぜんぎッ!? なに言ってんだお前ッ!?
 ………ていうか、ちょっと待てッ!! 意味わかんねぇけどひとまず落ち着けッ!!
 落ち着かなくてもいいから斬肉包丁だけは下ろしてくれ、ステラッ!!」


先ほどシモーヌが駆け寄ってきた部屋から、今度は凄まじく巨大な刀剣を引きずりながら
爛々たる鬼気を迸らせて何者か――後に『剣聖』と謳われる女剣士・ステラだ――が飛び出し、
ロキめがけて一刀両断の兜割りでもって襲撃を仕掛けてきた。
滅した相手の血肉を喰らうと言われる羅刹の如き殺気が全身から噴き出し、これに当てられたロキは、
シモーヌを抱いたまま完全に萎縮し、硬直してしまった。


「ね、姉さん、ど、どうしちゃったのっ?」
「どうしちゃったのはアンタだよ、シモーヌッ!!
 小さな花みたいに素直で可愛かったアンタが………アンタがこのゴクツブシと看病プレイなんてッ!!
 ………この腐れロキがぁッ!! 言えッ!! アタシの可愛い妹に何を仕込んだッ!?」
「はぁッ!?」
「他にどんなプレイを仕込んだのかって聴いてんだよッ!! えぇ、肉欲の権化ぇッ!!」
「なんだ肉欲ってッ! 俺とシモーヌは至って清純派だッ!!」
「放置プレイと看病プレイの合わせ技一本のどこが清純派かぁッ!!
 シモーヌは騙せてもアタシを欺く事ぁ不可能だからねぇッ!!
 二度と悪さが出来ないようにちょん切ってやるよッ!!」
「な、何をッ!?」
「ナニをッ!!」


公然猥褻罪スレスレの言いがかりにすっかり怯まされたロキに代わって、
「ね、姉さん、もうやめてッ!!」とシモーヌがステラを、
何やらとんでもない勘違いに頭をやられて猛襲してくる姉を止めにかかる。
その傍らでロキは戦々恐々。後に【黄金の騎士】と畏敬される雄姿はまだ見る影も無い。
というか、修羅場に遭って恋人を盾にしている現時点では英雄どころか相当なダメ男だ。


「止めるな、シモーヌッ! こいつみたいな『歩く民事訴訟』は
 公害撒き散らす前に仕留めておかなきゃならないんだよッ!!」
「トチ狂ってんじゃねぇッ!! 言うに事欠いて、なんなんだよ、その『歩く民事訴訟』っつーのはッ!?」
「認知を求める調停さねッ!!」
「お前こそ名誉毀損だ、ボケェッ!!」
「ロキも姉さんも、いい加減にしてっ! このままじゃ各方面から指導が入っちゃうっ!
 社会的なイロイロが行政から差し止められちゃうからッ!!」
「差し止められてしまえッ、こんな三文芝居ッ!! この腐れ鬼畜の死をもってなぁッ!!」
「姉さんっ! …もうっ、ロキもなんとか言ってよっ!!」
「し、しかしなぁ、今の俺が何か言って通じるとは思えねぇし………」
「コルァ、ロキィッ!! お前、シモーヌの頼みが聴けないってのかいッ!?
 …くぁぁぁぁぁーッ! 大した甲斐性ナシだよ、コイツめッ!!」
「お前が話をわけわけんねぇ方に狂わせるから何も言えねぇんだろうがッ!!
 …ちっくしょう、頭来たぜッ!! もう我慢ならねぇッ!!
 ステラ、この野郎、表に出ろッ!! 表に出やがれッ!!」
「上等じゃないかッ!! ガキの頃から通算する事の583戦492勝の歴史に
 もひとつ勝ち星を添えてやろうかねぇッ!!」
「ロキっ! 姉さんっ!」


パラッシュ家の玄関は、ロキが忍び足で帰ってきた意味が無くなるくらいの大騒動。
シャレにならない誤解に支配されて斬肉包丁を振り回すステラにうろたえまくって使い物にならないロキ、
その二人の間に割って入り、咳き込みつつもどこか楽しそうなシモーヌ。
屈託の無い、まだ無垢でいられた頃の三人からは、
やがて迎える哀しみの彩はどこを探しても見つけられなかった。


「今日と言う今日はデケぇの一発ブチ込んでやっからなッ!!」
「女に向かって吼える台詞じゃあないねぇ………いっぺん真剣にハラスメント裁判で
 社会的権利を剥奪してやろうか?」
「もーっ、もーっ! ロキも姉さんも、もう知らないっ!! 私、もう知らないからっ!!
 好きにしちゃえ、ばかぁっ!!」


―――――――――そう。これは、彼らが【大人】の階段を登りきっていない、
まだ青春の情熱にキラキラと輝いていた頃の、
………数多の悲劇が痛切に運命を絡め取る以前の物語。



―――――――――【草薙カッツバルゲルズ】が活躍する遥か昔の物語。













「それじゃ何かい、アンタ、長いコト家空けてたのが気まずくて
 忍び足だったってのかい?」
「………………………」
「かぁーッ、情けないったりゃありゃしないねぇッ!!
 どう小細工したって長期間留守にしてた事実は消えやしないんだ。
 ビビったって仕方あるまいに! ………ホント、アンタ、ダメ男だねぇッ!!」
「ほら、姉さんもその辺にしとこうよっ! ロキだって帰って早々お説教じゃ可哀想だよ。
 ―――はい、コーンスープ。それと………長旅、ご苦労様、ロキ」
「あ、ああ…、サンキュな、シモーヌ」
「シモーヌがそうやって甘やかすから図に乗るんだよ、この男は。
 いっぺんきちっとシメとかなきゃならないってのにさっ!」


テーブルについてシモーヌのこしらえてくれたカップスープへ口を付けるロキは、
目の前で不機嫌そうにしているステラ姉妹とは、いわゆる幼馴染みの間柄。
もともと家が隣同士という事もあり、三人は子供の頃からお互いに一番の遊び友達だったが、
とりわけロキは、彼女たちの父親のたった一人の弟子でもある。
騎士の国としても名高い【フォルセナ】で代々撃剣師範を務めてきたパラッシュ家がお隣さんだった事は、
剣の神域を求道する彼の人生を決定付けたようなものだし、なによりシモーヌとは恋人同士。
様々な意味において“運命”だと結論付けられるだろう。


「………ロキ、お仲間とバカ巡業してんのが楽しいのはわかるけど、
 うら若き女二人をずーっと家に残しといて、アンタ、不安にはならないのかい?
 男としての責任感ってのを、悪いけど疑っちまうね、アタシゃ」
「………さんざ俺をボコボコにしたヤツの台詞かよ。
 鬼も押しのけるような豪腕引っさげてか弱い乙女を気取ってんじゃねぇっての」
「何か言ったかいっ!?」
「―――いや、なんにも」
「………はン、そうやってしらばっくれてりゃいいさ。
 次は丸腰ん時を襲ってやるから覚悟しときな。今度こそ確実に去勢してやるよ」
「お前はホントに鬼かッ!?」


ちなみにロキをボッコボコに叩きのめしたステラも女だてらに剣術を志す、
言わば同門の姉弟子であり、幼い頃から腕を磨きあってきたライバルだ。
対戦成績を通算すると583戦中ステラの493勝。つまりロキの493敗………残念ながら、
ライバルはライバルでも、肩を並べられる領域には程遠いようだが。


「―――師匠に…申し訳ねぇって思ったんだよ。
 大事な娘さん二人を残して、長い間家空けちまってよ」
「………ロキ」
「………ふんっ!」


ロキとパラッシュ姉妹に両親はいない。
正確には、既に夭折していると言うべきだろうか。
ロキとステラの関係に同じく、剣術の腕を互いに磨き合うライバルでもあった二人の父は
その卓越した剣腕ゆえに危難に巻き込まれ、戦いの中で壮死、
パラッシュ姉妹の母親はそれよりも数年前に病没していた。
―――ロキの母親については、苛烈なまでに剣一筋へ生きようとする夫に耐えかね、
息子が物心を付くより以前に離縁。その後の消息を知る者は誰もいない。

幼馴染みとして、同じ境遇にある者として、ロキとパラッシュ姉妹は孤児(みなしご)同士、
寄り添いながら今日まで生きてきたのだ。“三人揃って一人”で。

―――思えば皮肉なものだ。
両親が離縁したロキはシモーヌとの間に兄妹を設けた後、育児放棄に近い状態へ陥り、
シモーヌ自身も母と同じ病で我が子の成長を見ずに鬼籍へ入っている。
後の時代の混迷を暗示させる伏線は、既にこの時から様々な形に姿を変えて張り巡らされていた。


「だから俺はついつい居た堪れなくて―――」
「そんなのが言い訳になるかぁッ!!」
「―――ッぎゃぁぁぁぁぁぁあああああああああッ!?」
「え? えっ? えぇっ!? ど、どうしたのロキ、急に悶絶して…っ!?」
「足ッ…! 足ぃッ!!」
「あ…し?」


慌ててテーブルの下に顔を潜らせてロキの悲鳴の正体を確認してみれば、
なんとステラが彼の右足の脛辺りを自分の足の指で抓り上げている。
ジーンズの上からの攻撃だが、デニム生地を巻き込んだ皺があり得ないくらいに深々と螺旋を巻いており、
皮膚と肉がギチギチと絞られているのは視認するより明らかだった。


「―――姉さんっ!」
「………ったく、やっぱちょっとナマッちまったみたいだねぇ。
 脛の肉をごっそり剥ぎ取ってやろうと思ってたのにサ」
「なッ、なんつー事考えてやがんだよ………ッ!!」
「アンタがいないとイマイチ稽古に張り合いが無くってねぇ。
 騎士団の連中はアタシとすれ違う度に硬直しがやるし、
 酷くなってくると『姐さんッ!』と尻尾振って随いてくる始末だ。
 てんで互角稽古にもなりゃしない」
「そりゃそうだろ。【フォルセナ】広しと言えど、お前の名前を知らねぇヤツはいねぇさ。
 『戦殺爆姫(せんさつばっき)』。名誉ある称号じゃねぇ―――ぶべッ!!」
「うら若き乙女がそんなん貰って喜ぶかいッ!」
「うら若き乙女がポンポン人の顔殴んなよッ!!
 ………ってぇ〜、お前、これ、絶対腫れるぞ………ッ」
「そうそう、これこれ、この感触♪
 本気で打ち込んでも壊れないサンドバッグが無いとねぇ。
 素振りだけじゃ身体がナマるってもんさね」
「………………………」
「ひと月くらいは家にいられるんだろ?
 オヤジに申し訳ないと思ってるんなら、その間、ちょいとアタシに付き合いな、ロキ。
 ツケにしといた分、骨の髄まで刻み込んでやるからさ」
「………………………」


「こそこそ忍び足で帰ってくる方がよっぽどオヤジを悲しませてるさね」と
悪態をつくステラへやり返そうにもこの力量さでは、30倍の返り討ちに遭うのが関の山だ。
口でも腕力でもステラの前に敵はいない。






(―――だったら、フレイムに教わったやり方でキメてみるか)






「結局俺がいなくて寂しかっただけじゃないか、お前?」
「なッ………………………!!」


プレイボーイを地でいく旅仲間から授かった、女性を仕留める名文句を繰り出し、
ロキはせめてもの反撃を試みた。
ステラへの攻撃目的にロキが欲しがる“仕留める”と旅仲間が云うところの“仕留める”とでは、
この場合、微妙にニュアンスが異なるのだが、どうも効果は覿面だったらしい。


「………あ………う………あ………っ!?」


冷やかしめいた“名文句”に胸を貫かれたステラは、一瞬にして顔を真っ赤に染め上げ、
かと思えばシモーヌとロキを交互に見比べて真っ青になり―――


「―――――――――死ねッ、『歩く生殖器』がッ!!」
「言われなくても死ぬわッ!! 危ねぇじゃねーかッ!!
 あと数センチで血みどろジャックポットだったぞ、コラッ!!」


―――台風のような猛烈な勢いでテーブルを立ち、そのまま自室へ飛び込んでいってしまった。
当のロキは「初反撃、してやったり」………などと喜んでもいられず、
駆け出し様、手元に置いてあったフォークを投げつけてきたステラの背中へ
怯えが入り混じったブーイングを叩きつけた。
避けていなければ間違いなく鼻から貫いて後頭部を通っていた事だろう。
渾身の力で投げ込まれたフォークは、ロキの背後の壁から取っ手の尻をほんの少し出すだけの
奇怪なオブジェと化していた。
………周囲に無数の亀裂を走らせながら、中程までめり込んでいた。


「なんだよアイツ………わけわかんねぇよ。なに赤くなって―――」
「そっ、それよりもっ!」


なぜステラが真っ赤になって逃げ出したのか、駆け出し様に必殺を狙う攻撃を仕掛けてきたのか、
ロキの思考がそちらへ向かうのを押し流すようにシモーヌの声が割って入った。


「今度の旅はどうだったの?」
「あ? …ああ、今度の旅も相当くたびれた。
 っていうか、無駄に疲れさせられたっていうかな」


ステラの急変の意味も、無理矢理シモーヌが場の空気を切り替えた意図も
ロキは微塵も気付いていない。もちろん「今日は鈍チンに助けられたぁ…」との小さな呟きにも。


「なぁ、聴いてくれよッ! 今回こっきりだけど、新しく加わったヤツがいたんだけどよ、
 なんとこいつがよぉ―――――――――――――――………………………






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