―――そこは、奈落の底よりも深く昏い闇の深奥。
耳を澄ませば数億年の眠りに就いた魔獣の轟々たる寝息でも聴こえてきそうな闇、闇、闇である。


「憎しみだッ!! 人と憎しみは一蓮托生ッ!! 人が猿でなく物考えるヒトである限り憎しみは生まれ続けるッ!!
 終わらないんだよッ! 憎しみの連鎖はッ!! 純然たるオディオは、永遠に終わらないッ!!」


眼を凝らせば凝らすほど道に惑う世界へ一滴の光が落ちた。
滴った光は次第に大きくなり、スポットライトさながらに広がっていく。
光は、やがて一つの影を捉えた。それが、夢遊病にも似た語り草で恐々を独白する男だった。
ブレストプレートを胸に当てこんだ騎士風の青年である。
年の頃はまだ若く、明るく溌剌と―――していなくてはならないのだが、ギョロリと剥かれた瞳は
何を映しているのかさえ分からないほど虚ろに淀んでいる。


「いいか、オディオというのは憎―――」
「―――はい、もうケッコーですよ〜」


この世のありとあらゆる負の感情を剥き出しに両手を広げて朗々と振るっていた彼の熱弁は
カーン、と言う中身の無い軽い金属音と無情な一言でバッサリ切り捨てられた。



「はーい、次の方。エントリーナンバーが………えーと、78番の方ぁ〜」
「ま、待ってくれ! それって判定はどうなんだッ!?」


人間らしい感情の無い熱弁に集中する余り気付けなかったが、雫はいつの間にか更に三滴ほど流れ落ちており、
騎士風の青年と向き合う位置に光の柱を三本作り出していた。
カーディガンを肩に羽織ってアカデミックな雰囲気を演出しているものの、ガラも目付きも悪く、
おまけに髪の毛まで逆立たせた少年を中央に、右隣へ掛け算を九九の段まで覚えていなそうな様子の子供、
左隣へカラクリ製の丸っこい物体が光を浴びながら何やらメモを確認している。
もっとも、実際に手元のメモを読んでいるのはガラの悪い少年だけで、計算のダメそうな子供も丸っこい物体も、
メモ帳を手に取る事や覗き込む事すらしていない。


「発表は台本に記される予定の配役表をもって返させていただきます」
「それはわかってるんだ! 俺もそれを確認して今日ここにやって来たッ!! 手ごたえもあるッ!!
 ………そりゃちょっと長くなり過ぎたのは反省だけど、それでもよくやったよ、うん。
 それで俺は―――」
「次の方、いらっしゃいませんかぁ? おぼろ丸さん? 某忍者村のアトラクション係をクビになった方〜?」
「―――って、ちょ、ちょっとぉッ!? 人がすごく意味深な事を話しているのに、
 “GET OUT(流暢な発音で)”するのはどうかと思いますよッ!?」


やる気と言うものがまるで感じられない三人の失礼極まりない言い方には、騎士風の青年も怒りが心頭へと巡り、
彼らに猛然と食って掛かった。


「オルステッドさンさぁ、あンた、これでオーディションを受けるのは何回目だィ?」
「えーっと、昨日、ミュージカルの募集を申し込んで、その前にラジオドラマの声優の試験があって、
 その前は………………………」
「俺が言ってンのはそういう事じゃないンだよなぁ………空気読めよ、バカでも良いから」
「は、はぁ………」
「あンたが今日ここでオーディションを受けるのが何回目かって聞いてンだ!」
「一回目ですよ。エントリーナンバー77番。あと7が一つ揃っていればウハウハだったのに………」
「そう、一回目だねぇ………わざと回りくどくしてンのか、チクショウめ。
 じゃあさ、あンた、その一回こっきりのオーディションで何回やり直ししてる?
 今の演技が気に入らないとかなんとかクドクド言って、やり直しにさせるなんて前代見聞だぜッ!?」
「演技は場数ではない、ハートだッ!!」
「稽古場入ってから寝言ほざけッ!! こっちゃ大事なCM録りだってのに、
 遊び半分で信頼もできないヤツを採用できるかッ!! 社運を賭けられるかッ!!」


なおも愚図ろうとした騎士風の男―――オルステッドは思い切り肩を突き飛ばされて腰砕けに倒れた。
何かにぶつかり、横倒しにしてしまった様な音が聞こえる。
続いて、グェッという見も世も無い鈍い絶叫。ちょうどオルステッドが倒れた先から聞こえてきた。


「な、殴ったねッ!? ストレイボウにも殴られた事無いのにッ!!」
「誰だストレイボウってッ!! 妄想親友か? 自宅の観葉植物にでも名前付けたかッ!? 知るか、そンなンッ!!
 つか殴ってねぇッ!! 俺ぁただ兄貴分仕込みのハワイアン張り手をぶちかましただけだわいッ!」
「十分暴力だッ!! くっそー………、審査員だからって調子に乗りやがって………。
 ―――おい、あんた、大丈夫か? ごめんな、ぶつかっちゃっ―――――――――」


ガラの悪い男に突き倒された際に巻き込んでしまった何者かの手を掴むと、
オルステッドは立ち上がらせる様に力を込めて腕を引いた。
しかし、腕を引いたオルステッドにその男は立ち上がる事無く足元をだらけさせ、身体ごと彼の胸の中に倒れ込んできた。
打ち所が悪く、気を失ってしまったのではないかと不安になり、だらんと脱力した男の顔に欹てて様子を伺う。
すると―――――――――


「………………まさか、これ………………」
「あーッ! ンなとこにいたンか、おぼろ丸さん!
 落第野郎と遊んでないでちゃっちゃと始めま―――」
「………しッ、死んでる………………………ッ!!!!」


―――――――――気絶など比べ物にならない事態が発覚し、オルステッドも、ガラの悪い男も、眼を見張り、息を呑んだ。
瞬間、微かに差し込む程度だった光がパッと全体に広がり、世界が在るべき彩りに塗りたくられていく。
光と彩りを取り戻した世界では、机、イス、花瓶が雑然と倒れており、そのすぐ近くには、
割れた花瓶から漏れ出した水で頬を濡らす男が一人、横たわっていた。
オルステッドやガラの悪い男は、生気を無くしたその男を取り囲むように佇んでいる。呆然と、ただ呆然と。


「おぼろ丸さんッ!? おぼろ丸さんッ!?」


だが、無言。“おぼろ丸”と呼び掛けられる男は、何度自分の名前を繰り返されてもピクリとも反応を示さず、
黒目が逆上がりした瞳からは生けとし生ける者が等しく持ち合わせている筈の輝きが抜け落ちていた。


「………無駄だよ、息をしてない。脈だって感じられなかった。
 ………残念だけど、本格的に駄目だよ、その人………」
「………バカな………たかがCMのオーディション中に人が命を落とすなんて………前代未聞だ、こンなン………ッ!」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」


そして、沈黙。
この上無く重苦しい、極限の緊張感をはらんだ沈黙が、光を取り戻した世界へ不可視の闇で圧し掛かった。


「お、お前が殺したんだッ!!」


沈黙を破ったガラの悪い男がオルステッドを指差し、強い口調で「人殺し」と詰る。
死者と生者を見下ろす天井から垂れ下がった看板はポップな自体で
“新製品マタンゴドリンク・CMオーディション”と記されており、
眼下の殺伐と呑気な文字のギャップが度を越して滑稽だった。


「あ、アンタが突き飛ばしたんじゃないかッ!! あんたが真犯人だッ!!」
「お、俺に逆らうンかッ!? このアキラ先生にッ!? てめぇ、この場で落選させンぞッ!?」
「CMのオーディションで一生を棒に振ってたまるかッ!! 落選させるならさせろッ!!
 お前の人生を落選させてやるわぁッ!!」


これには流石にオルステッドも黙ってはいない。
新製品のドリンク剤のCMオーディションへ応募した身ではあるものの、
殺人罪を着せられようとしている今、審査員――三人(?)ともまるで審査員に見えないが――に歯向かって一体何を損する。
自分で突き飛ばし、直接、おぼろ丸氏の死因を作っておきながら濡れ衣で逃れようとする審査員―――アキラの胸倉へ
怒気もろとも掴みかかった。


「俺の人生を落選だぁッ!? そンな事してみろッ!! 自首した時にお前も共犯だってでっち上げてやらぁッ!!
 けっけっけッ!! 道連れじゃァッ!!」
「何のバックボーンも無くCMオーディションに応募なんぞするかッ!! こちとら役者だッ!!
 役者魂を注ぎ込んでやるッ!! 過剰演技で同情を誘ってやるぜッ!!
 そうなれば、お前のでっち上げを誰も信じなくなるだろうよッ!!」
「あンッ!? てめぇ、さっきのクドい演技で俳優を自称するつもりか!? ヘソで茶ぁ沸かすわッ!!
 演技がイケずに口ばっかで友達も出来ず、ありとあらゆる劇団を追い出された挙句、
 個人経営のドサ回りで食いつないでる様なみっともない役者崩れが夢視てンじゃねぇッ!!」
「バカにすんなッ!! 演技ってのは、生きてる限りどこでも出来るんだッ!!」
「お前のは演技って呼ばねぇんだよッ!! 贔屓して良く言って、やっとパントマイムだわいッ!!」
「悪く言えばッ!? 念の為」
「口に出すのも検閲削除なクスリやってキマッちゃってるヒトッ!
 及びそれで見えてきた新世界と戯れるアンパンマン(意味深)だァッ!!」
「貴様ぁっ!!」


原始人と丸っこい物体は非情にも我関せずを貫いていて、二人がどれだけ揉みくちゃになろうが止める気配すら無い。
こうなると誰の手でも収拾がつかなくなるというもの。
最後には「お前が悪い!」「悪いって言ったお前が悪いんだ」と見苦しく子供じみた言い訳で互いに唾し合い始めた。



―――――――――コンコン。


………と、くんずほぐれつ乱闘する二人の耳へ何やら木戸をノックする音が飛び込んできた。
ノックは外界の介入を一切遮断するドアの向こう側から聴こえてくる。
これはつまり、


「………エントリーナンバー79番、サンダウン・キッド。
 俺の出番はまだだろうか? 前の人間が入っていってから三十分は経過しているが………」


待たされに待たされた次の応募者が、痺れを切らしてオーディション会場へ入ろうとしている事に他ならない。
ドアを叩く音はますます強くなっている。回数も最初の“コンコン”から“ドンドンドンドンッ!!”と倍増した。


「「―――マズいッ!!」」


しかし、いくら参加者が鬱憤を募らせたからと言っても、今この木戸を開けるわけにはいかない。
なにしろこの状況だ。迂闊に開放して死体とご対面にもなれば、オルステッドもアキラも二人まとめて人生落選間違いナシ。
何のかんのと罪を擦り付け合った二人だが、降って湧いたこの殺人事件に当事者として関与している以上、
主張するアリバイの正当性は言い逃れに足りなかった。


「ど、どどど、どうすンだ、えぇ、どうすンだッ!?」
「お、おおお、落ち着け! ヘタに偽装工作でもして時間をかければ余計に怪しまれるッ!!」
「だからどうするか訊いてンだっつーのッ!!」
「俺に訊くのかッ!? あんたで考えろよ、当事者ッ!!」
「こうなったらお前が当事者、俺が当事者なンてこだわってる場合じゃねぇだろッ!!
 二人の頭を揃えてなンか逃げれる方法を探すんだよッ!!」
「協力しろって言うのかッ!?」
「考えても見ろ、この状況で見つかったら、共犯と決め付けられて、今度こそ二人まとめて終わりだぞッ!!」
「………………………」


割り切れない物にほんの一瞬、頭を抱えたオルステッドだったが、確かにこの状況はマズい事この上ない、どう考えても。
いくら地団駄を踏もうと好転しない事態は、自ら動いて切り開く以外に道が無さそうだ。


「手は一つだな」
「どうするッ!?」


徹頭徹尾無反応を決め込み、半ば置物と化している原始人と丸っこい物体に背を向けた二人は、
ピクリとも動かない亡骸の前で不測の殺人事件を乗り越える妙策を相談し始めた。
火事場のナントヤラで腹を決めたオルステッドがイニシアチブを握っている。


「おぼろ丸氏は昼寝をしているだけだと無理やりこじつけるんだ」
「―――はぁッ!? 正気かッ!? ていうか、小学生の考えか、お前はッ!!」
「簡単な事だ。幸いここには椅子は腐るほど転がってる。そこへ適当に座らせておけばいい。
 案外バレないと思うぞ? 見た目は座って寝ている風にしか見えない」
「仮にズリ落ちでもしたらどうすんだ、椅子からッ!?」
「その時はアドリブだッ! アドリブで臨機応変に対応するッ!!」
「俺は役者じゃないッ!! ただのプロデューサーなんだぞ!? 演技なんかマトモに―――」
「演技は技術じゃない、魂の雄叫びだッ!!」
「魂の叫び………」
「パッションが赴くままに舞い踊れッ!! それが全身放出の魂の叫びだッ!!」
「お、押忍ゥァッ!!」


オディオ云々を叫んだ時と同じ過剰な芝居を見せるオルステッドだったが、
気の動転したアキラは先程の様に突っぱねる事が出来ず、立場は正反対。殆ど言いなりになっている。


「いいな、私は、具合が悪い―――って設定になってるおぼろ丸氏の隣に介抱係で付く。
 あんたは、いいか、いつも通りに審査を進めてくれればいい」
「たッ、魂の叫びでかッ!?」
「そうだッ! 叫べッ!! 台詞をトチッても大声さえ見栄え良く張り上げてれば、どうにでもなるッ!!」
「よ、よっしゃあッ!! 念ずれば通ずるド根性を見せてやンぜッ!!」
「二人の魂を一つに合わせて乗り切ろうッ!!」
「ああッ!! 俺たちゃ一心同体だッ!!」


人間のアタマというのは果てしなくゲンキンで、あれほどいがみ合っていたというのに
絶体絶命を前にすればピッタリ息を合わせられる構造になっている様だ。
なるほど、瞬間接着剤も真っ青な素晴らしく都合の良い結束力である。
しかし、二人揃って頭の回転が振り切れるほど追い詰められているのも、また、事実。
この場を演技で誤魔化せたとして、それから亡骸をどう処分するつもりなのだろうか。
先の事を考えるなら、芝居などに専念せず逃げを打つのが最善策だと言うのに、
動揺のあまり、これをツッコめるだけの思考回路がオルステッドもアキラ、双方ともにショートしていた。


「―――えー、お待たせしました。次の方、エントリーナンバー79番。
 サンダウン・キッドさん、どうぞォッ!!」


致命的な失念を見落とし、ついに招き入れたアキラ審査員。
エントリーナンバー79の名札を胸に付けたサンダウン候補生は、
数十分もの間、無為に待たされてすこぶる機嫌が悪かったが、目端にガクリと生気なく項垂れたおぼろ丸を捉えた瞬間、
顔面蒼白になり、彫りの深いダンディズムを粉々に壊して絶叫した。


「し、し、しッ、死んでるゥーーーッ!!!!」


いくら綿密に偽証の演技を凝らそうと、土気色の頭を呆けた様に投げ出し、
時間の経過と共に漂い始めた死臭へ蝿が集り始めたおぼろ丸を見れば、エレメンタリーだってそこに行き着く。
アキラが介抱役として付いたおぼろ丸は、当事者二人がビックリするほど死人らしい死人だったのである。


「「―――この男が殺しました」」


恐怖に駆られて取り乱し、抜かした腰をへたり込ませたサンダウンを前にして
互いの顔を指差して罪のオルステッドとアキラが罪の擦り付け合いを再開させた。
あんなにも協力を誓い合った筈なのに、相手を指差す表情は白々しいもので、
“「二人の魂を一つに合わせて乗り切ろうッ!!」「ああッ!! 俺たちゃ一心同体だッ!!」”という熱いやり取りを
全否定した上に後ろ足で泥を引っ掛けた恰好である。
人間とは、かくもゲンキンな生き物か。少なくともこの二人に限って言えば、保身の為なら一瞬で結束を
反故にできるアタマの構造になっている様だ。


『―――さっきのは思っくそウソかよッ!!!!!!』


呆気に取られるくらい華麗な変わり身には、誰もが堪り兼ねて総ツッコミ。
何十何百の人々が異口同音し、裏手でビンタを入れる様な仕草を、とうとう殴り合いにまで発展したバカ二人へ向けた。















「―――あー………、ダメだ。メンツをまるっきり生かしきれてねぇわ。
 なんだよ、あれ、ポゴとキューブ、死んじまってんじゃねぇの。
 ………やっぱり台本任せるのは早かったかなぁ………」


木片と書割を組み合わせて特設された丸いステージ上で殺人事件だの、お前がやっただのと
取っ組み合うバカ二人を鋭い眼差しで観察していたフンドシ姿の男が呻き声と共に頭を振った。
脂汗が滲む額には赤地のバンダナがきつく締められている。
やや厚手のシンボリックなバンダナは、相当使い込まれているのか、色落ちもひどく、ところどころ薄汚れていた。
しかし、彼は、たったの一度でもこのバンダナを外そうと考えた事は無い。
彼には―――マサル・フランカー・タカマガハラには、これこそ一番の誇りであり、生き甲斐でもあるからだ。


「そう冷たくしてやるな、マッちゃん。我らにも責任があるのだぞ。
 あやつらの前に『フンドシHIGEリンボー』のネタをやってしまったのは、やはり失策だ。
 笑いこそ生まれたものの、良い形で後進にパスをしてやれなんだ………演目の順番を再考しなくてはな」


それを理解しているからこそ、同じくフンドシ姿の彼―――貴族めいた風貌にフンドシ一丁という出で立ちが
実にシュールな邪眼の伯爵(本名・カトブレパス)も、決して新しい物への交換を勧めたりしなかった。
三つ目が表す様に魔族の一員である彼が、人間を下等を嘲る種族に属している筈の彼が、
人間であるマサルの気持ちを理解して受け入れるのも不思議な話だが、この一座にとってはさして珍しくはない。
人間であろうと、魔族であろうと、カラクリ人形であろうと、『笑い』を愛する心があれば分かり合える―――


「いいえ、アナタは甘過ぎるわ。ハングリーな環境に身を置くからこそ、『笑い』のセンスが磨かれるんじゃないの。
 労わりは必要だけど、厳しさが無くては【LIVE・あ・ライフ!!!】は大きくなれないわよ。
 “言葉はいらねぇ、『笑い』が答えだ”………それがこの一座のキーワードじゃない」


―――伯爵の妻にして一座のマネージメントを務める美獣(本名イザベラ)が言う通り、
それが、お笑い集団【LIVE・あ・ライフ!!!】の唯一絶対の合い言葉だった。


「イザベラ、マッちゃん。いくらお前たちの意見でも、こればかりは譲らぬぞ。
 笑いは楽しまなければ笑いではない。観客とメンバーが一体となって楽しんだ時にこそ、
 笑いの女神が降りてくると私は信じている」
「おッ! カッちゃん、今、良い事言ったッ!!
 そうそう♪ 辛い顔の演技で笑ってくれなんて、お客さんに失礼だわなぁ〜ッ!!」
「ヒラヒラと意見を翻すのはマッちゃんの悪い癖よ、気を付けなさい。
 ダンナが言ったのは、あくまで芸人としてのスタンスであって、具体的な方針ではないわ。
 ダメを出すところはダメを出す。コメディにも厳しさは必要よ」


―――お笑い集団【LIVE・あ・ライフ!!!】。
マサルと邪眼の伯爵、そして美獣を加えた三人組のお笑いトリオ『ギョロ眼de鬼不動THEテンプテーター』を母体に
結成された大衆演劇の一座だ。構成員は役者に裏方を合わせて総勢20人。
先程から特設されたステージ上で寸劇を演じているオルステッドやアキラもこの一座のメンバーである。
一応の触れ込みには“大衆演劇”とあるものの、やはりお笑いトリオが前身だけあって、演目にはコメディや落語、漫談が多い。
中でもコメディには定評があり、役者のボケ倒しに観客がついついツッコミを入れてしまう独特の持ち味は、
『ギョロ眼de鬼不動THEテンプテーター』の時代から脈々と受け継がれたお家芸とも言われている。


「………これはコメディやのうて完全にサスペンスやないか」


愛すべき後進たちへの指導について熱い議論を重ねる幹部会三人の背中へ
苦笑混じりのツッコミが絶妙のタイミングで入った。
ステージを踏む演者、舞台袖で待機する出番待ち、大道具に小道具と慌しく働く裏方の総勢が
特設ステージへ回っている為、【LIVE・あ・ライフ!!!】のメンバーという可能性は考えられない。
となると、声を掛けてきたのは全くの第三者という事になる。


「………いや、失敬。合いの手と言うよりは単なる皮肉になってしまいましたな。
 訛りも痛々しかった………慣れない事はする物ではありませんね」
「なんだ、アンタだったのか! よッ、大将! 楽しんでもらえてるかい?」
「マッちゃん、失礼が過ぎるわよッ!!
 ………申し訳ありません。スポンサー直々にご挨拶へ見えられるとは恐縮至極です。
 本来ならこちらから伺わなければなりませんのに………」
「いや、お気遣い無く。皆さんは興行でお忙しいでしょう?
 私などに気を回さず、どうぞステージへ専念してください」
「滅相も! スポンサー様から激励を掛けられて光栄の極みです」


一座の庶務を取り仕切るマネージャーらしく丁寧な口調でイザベラが一礼した相手こそ、
今しがた声を掛けてきた人物にして、このステージをお膳立てしてくれたキーパーソン―――
―――と呼ぶにはいささか物々しい通り名が付きまとう御仁、サスァ・パルパレオス・ヴァン・デル・サンフィールド。
【アルテナ】へ反旗を翻した【グランベロス】帝国で将校を務め上げた武人である。
もしかしたら、今日の【イシュタリアス】では、こう形容した方が把握し易いかもしれない。
【官軍】と敵対する最大の反乱勢力【賊軍】の総大将―――と。


「ははは―――いや、参った参った。
 スポンサーなどと呼ばれると背中が痒くなってしまいますよ、イザベラ嬢。
 私は兵の慰安の為に皆さんを招かせてもらっただけの事。礼を申すなら私こそです。
 遅ればせながら、この度は【ファーレンハイト】までご足労いただき、誠にありがとうございました」


もうお気づきの方もいらっしゃると思うが、今、【LIVE・あ・ライフ!!!】が興行へ訪れている場所とは、
【賊軍】が最後の砦として構える【グランベロス】の空中空母、【ファーレンハイト】の内部である。
時にして、【官軍】勢が【ウェンデル】を出発した翌日の事。
エンジントラブルから【バハムートラグーン】と呼ばれる潟湖近くの荒野へ不時着した【ファーレンハイト】は
世界中から結集された反【アルテナ】体制の【賊軍】二十有余万騎に守護され、静かに決戦の機(とき)を待っていた。
翌朝には【官軍】の先鋒がこちらと正面切って向き合う様に着陣し、睨み合いを始めるだろう。
そんな極限状態の中、【LIVE・あ・ライフ!!!】は特別興行の為に【ファーレンハイト】へ招待されたのだ。


「そう申していただけると大きな励みになる。
 これがもしつまらないとの憤慨であったなら、我ら、一名たりともこの戦艦より生きて出る事は叶わなかったな」
「ウィットに富んだジョークとはますます恐れ入る。
 安心なされよ、あくまで皆さんは興行の為に招かれた者。
 土台無理な依頼にも関らず応じてくださった義に、このパルパレオス、必ずや報いましょう」


明日とも知れず天下分け目の決戦が勃発する直前の今、それも【社会】から悪の枢軸と後ろ指差される
【賊軍】の要請に誰が従うものか―――それがおそらくは一般的な常識を弁えた人間の判断であろう。
下手を打てば【賊軍】への加担を理由に裏切り者の烙印を押されかねず、
現に【賊軍】へ物資を売買した武器商人や薬屋が【官軍】によって数多く摘発されている事をマサルもよく知っていた。


「そこに笑いを求める人がいる限り、俺たちゃ地の果てだって出張するぜ?」
「うむ、それが我らが【LIVE・あ・ライフ!!!】のスローガンだ」
「もちろん、出張距離に応じて手数料も加算されてしまいますけど、ね」


一生涯付きまとう危険をも顧みずに【ファーレンハイト】へ飛び込んだ理由は、これ以上でも無ければこれ以下でも無い。
度重なる戦闘で疲弊し切った将兵を労う為に【LIVE・あ・ライフ!!!】へ出張興行を依頼したい、という
パルパレオスの要請を聞いたメンバーから懸念や不満はただの一度も出なかった。
これがもし、【草薙カッツバルゲルズ】と【三界同盟】の古豪が所属する一座に参戦を求める物であったなら、
反対の声が続出し、マサルもまともに取り合わなかっただろう。


『そこに笑いを求める人がいる限り、俺たちゃ地の果てだって出張するぜ?』


マサルたちの腰を上げさせた要因は、全てこの一言に尽きた。
戦いに疲れ果て、笑いで元気を貰いたがっている人がいるのなら、ここは俺たちの出番じゃないか。
笑いを求める人に応えるべく満場一致で【ファーレンハイト】入りが決定され、そして今日に至ったわけである。

悪く言えば身のほど知らずのアホという事になるかもしれないが、世間から何と言われても【LIVE・あ・ライフ!!!】は
世界に幸せを振り撒く笑いを心の底から愛し、同じ様にこれを愛する人が求めてくれる限り、
どこへなりとも駆けつけて笑いを提供する―――ただそれだけの純粋な想いで結成され、
今日まで順調に運営されてきた【LIVE・あ・ライフ!!!】がマサルにとって最高の自慢だった。


「お陰で兵たちの疲労もだいぶ癒されましたよ………あんな風に声を立てて笑う兵士を久しぶりに見ました。
 なにしろ、このところは息が詰まる緊迫の連続でしたから、皆さんのお陰で良いガス抜きになったと思います。
 ………かたじけない、本当に、かたじけない」
「泣かせる事言ってくれるねぇッ! それでこそ俺らも出張ってきた甲斐があったってもんだッ!!
 笑いは元気の源ッ!! 腹ぁ抱えて笑えたヤツぁ、例え今すぐ戦場にカッ飛んでっても死なねぇよ、保証する」
「おお、それは私も保証しよう。かく言う【草薙カッツバルゲルズ】は常に笑いの絶えないチームでな、
 何かにつけては阿呆が話を脱線させ、そこから笑いが起こる連鎖であったよ。
 厳しい軍人に言わせれば、こんなに甘ったれた部隊を戦場に放り込めば半日保たずに全滅らしいが………なぁ?」
「ほとんど全員が今もピンピンしているのが生き証人よ、何よりの。
 どんな状況でも笑える人間は強いわ。強い人間は死なない―――シンプルな理由ですわ」
「成る程―――さすが経験から出た人生訓は言葉の重みが違いますな。
 私も明日から笑う事を日課にしたいくらいですよ」
「明日と言わず今からだって良いんだぜ?
 いつでも笑って良いってのを、俺たちぁ【女神】に許されてんだからさっ!」


最高に嬉しい言葉を貰ったマサルがニカッと歯を見せて笑う。
もうじき三十路へ入ると言うのに微塵も屈託を感じさせない、少年の様な笑顔につられてパルパレオスも口元を綻ばせた。
不思議な男である。今では【ローラント聖戦】での活躍を評価されて無罪放免されているが、
かつて人類を裏切り、魔族である伯爵たちに加担してお尋ね者へ身を窶した人間、と訊いた当時のパルパレオスは、
魔族の力を利用して世界征服を企む野心家だろうとまずマサルの人となりを推察した。
ところが、どうだ。よくよく調べてみると彼は種族の垣根を越えたお笑いトリオを結成し、
芸能活動をしていると言うではないか。






(………一にも二にも“笑い”、か。本当に面白い男だな、マサル・フランカー・タカマガハラ)






魔族の有する力はあらゆる面で人間を遥かに凌駕している。
魔獣へ姿を変える異能を先天的に備え、膨大なまでの魔力は大地をも易々と打ち砕く。
邪眼の伯爵と美獣はその中でも支配階級に座する貴種中の貴種なのだ。
それ程までの威力を手に入れたなら、少なからず野望を抱いてしまうのが人間の性(サガ)だと言うのに、
この男はそんな俗物には一切興味を持たず、“笑い”という形で異種族間の共存を目指している。
政府転覆を成し遂げ、新たな世を築こうと願うパルパレオスから見れば、
世界を塗り替えるだけの力を持ちながらそれを行使しないのは酔狂と言うより不思議でしか無かった。

しかし、実際に会ってみて、不思議に傾いだ首は確信を得て縦に振られた。
生き様も、人柄も、何もかもが面白い男だったのだ、マサル・フランカー・タカマガハラは。
他人から見れば常軌を逸脱した生き様だろうが、異種族間から争いを無くす事を願い、
ついにはそれを実現してしまうバイタリティは尊敬に値するとさえ思った。


「………やはり、貴方たちを招いたのは正解だったよ。改めて感謝させていただきたい」
「感謝は形にして表していただければ幸いですわ。例えば、そう、報酬を二割増しにしていただくとか―――」
「よ、よさんか、イザベラっ! ………申し訳ない、妻は一座のマネージメントを担当している故に
 こうしてがめつい事を言ってしまうのだ。良しなに計らっていただきたい」
「ジョークよ、ジョーク。マネージャーならではのジョークじゃない。
 ………アナタはいつだって生真面目なんだから」
「その通り。私はいつだって生真面目さ。真摯な心を持たねばお前に誠の愛を語る口が嘘になってしまうだろう?」
「ば、ばかっ! みんなが見てる前で何を言うのよっ! ――――――う、嬉しいじゃないっ!」
「フッ………、嬉しい気持ちは私も同じだよ。私の言霊がお前のハートを熱くさせられたのだからね。
 愛する人に溢れる想いの全てを伝えきれたのが、私には何にも勝る幸福だ」
「ああ………、アナタ………」
「イザベラ………」
「………えーと、タカマガハラ座長、これは一体………………………」
「あー、初心者には眼にキツいだろうけど、とりあえずスルーしといてくれや。
 この万年ラブラブ夫婦、ちょいと脱線したら光速でイチャつくんだもんなぁ〜。
 ………やもめ暮らしの長い俺にゃ毒だぜ、毒。早く我が家に帰ってレイとイチャつきてぇーッ!!」
「旅の一座を取り仕切るのは、存外に大変な模様ですな」


どてらい勢いでノロケに突入した伯爵と美獣の天然夫婦ぶりには、マサルと二人、顔を見合わせて苦笑いしてしまうが、
生きる事に常に前向きな彼らと交流を持つことで兵たちに積もり積もったストレスを発散させ、
少しでも明日へ向かう元気を取り戻して欲しかったパルパレオスの期待は、どうやら大成功の結果を弾き出せたようだ。
寸劇の終わった特設ステージでは、死体役を請け負ったおぼろ丸が尺八を吹き、
サンダウンの弾き語るバンジョーに調子っ外れな音色で合わせては観客をドッと沸かせた。
アンサンブルと呼ぶにはあまりにお粗末な不協和音が、なんともいえない可笑し味を醸し出している。


「決戦を前にしてのこの騒ぎッ!! どういう了見かな、パルパレオス殿ッ!!」

尺八とバンジョーの組み合わせという前衛的なアンサンブルを踏みにじる様なダミ声が、
ご陽気にスウィングを始めたパルパレオスへ叩きつけられたのは、
ステージ袖からギター片手にアキラが転がり込んだ直後の事だった。






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