その日、配達の途中でカレー屋を見た。

ルートが悪かったのかその日だけで十四回も。チェーン店もあるが全て別の店舗。
何度も見てしまうとうんざりを通り越し、好奇心が湧き上がる。
特にそのうちの一店は今日オープンしたばかりで人だかりが出来ていた。


「あーあの店いいなぁー」


呟いたのは誰にだか。



「申し訳ないが…」
…と、アイル。

「悪ィな、帰って可愛い息子にメシ作ンねぇと」
…と、ディアナ。

「学校のレポートがあるので…ごめんなさいっ!」
…と、トキハ。

「残業押し付けといて誘うんすかぁ?」
…と、ニコラス。

「いやー無理っすねぇーそもそも――…」
…と、サムの無駄な弁舌に一時間…

『アルバトロス・カンパニー』終業時刻、今日も配達が無事に終わった面々は早々に帰り支度を始めていた。
ただ、ニコラスだけは些細な配送ミスの罰則として残業を言い渡されていた、
細かい事は気にしない、が気風のカンパニーだが、顧客第一と言うボスの意向もあり、
客から酷いクレームを貰った場合は罰則としてその日の残業を割り当てられるのだ。
残業といっても事務処理ではなく、翌日配送予定の荷物の整理、
一人でやるには少々どころか大分時間がかかってしまう地獄の作業だ。
今回のニコラスへのクレームはさほど酷いものではなかったが、
単に荷物の整理が滞っていたため無理矢理押し付けたようなものだ。
細かい事は気にしない、押し付けられるのであれば問答無用で押し付ける。

このカンパニーの社長ことボスはニコラスにその仕事を言い渡し、
もはや仕事モードではない社員達に今日オープンした隣の区のカレー屋に行こうと誘ったのだ。
今夜は愛する妻子が知人のコンサートでいないので淋しさを紛らわせようとも思ったのだ。

しかし一人で行くのは流石に恥ずかしいというボスの意向を汲めないのか、タイミングが悪いのか、
全員が全員答えは「NO」、次々と事務所を出て帰って行く中、最後にサムを誘ったが、
サムの長ったらしい弁舌に一時間もつき合わされるという最悪の疲労もあり、
ぐったりと事務所の自分専用椅子に深く座る、特注のそれは社長の体格に合わせて作られており、
座り心地は最高だ。
その座り心地に思わずうとうとしてしまったボスの鼻は敏感に何かの匂いを察した。
鼻につんとつく刺激的な辛味を含んだ匂い、これは間違いない。


カレーの匂いだ。


急いでその身を起こしてどかどかと慌てて事務所を出る、
配送業を営むのその敷地は広く、外は特に社員らの得意とする乗り物が行き来するため
そこらの道路よりも広いコンクリが敷き詰められているのだ。
その中央の庭を挟み奥には規格外の大きな車庫があり、
左手にはこれまた規格外の配送されてきた荷物が収められている倉庫がどっしりと構えており、
こちら側にある事務所とその裏手にある社員寮と社長の自宅は
彼らに気圧され肩身狭くちょこんと可愛らしく置いてある。

そんなちょこんとした事務所を出たボスは庭の中央にあるものに気をとられる。
いつもなら通行の邪魔だと滅多に物を置かないそのコンクリの庭には
ほぼど真ん中に大きな鍋がコンロやガスボンベと共に設置されていた。
その脇にはアウトドア用のテーブルが数個に椅子、炊き出しにしては本格的だった。

「ああ、ボスが気づきました」

目ざとく鍋の横にいるアイルが事務所の入口でまだ突っ立っているボスを目で示す。
彼女の隣にいたカレーを調理中のディアナは鍋に集中しているのか気付かなかったようで、
ちらりとボスの姿を自分の目で確認するとすぐにまた調理を再開した。
カレーの匂いはもう出来上がっているのだから、完成はもうすぐなのだろう。

「もーちょい遅けりゃ完成してたのになぁ」

先ほどまで長ったらしい弁舌をボスに向かって垂れ流していたサムは
頭の切り替えが早いのか苦笑しながらテーブルにサラダや取り皿を乗せている、
そのテーブルにはディアナの息子らしき子供も座って楽しそうにサムのそれを手伝っている。

確かディアナは可愛い息子に夕飯を作るべく帰ったはずだ、その可愛い息子がいるという事は、
家族の夕飯もかねてディアナはここに来ているのだろう。

「なっ…どうなっているんだ?」
「カレーが食べたいンだろ?ボスのために皆で作る事にしたンだよ」

混乱しているボスにカレーの煮込み具合を見ているディアナがにやりと笑って手短に話す、
その話具合からしてきっとおそらくディアナがこの企画を立てたのだろう。
ディアナからすれば可愛い息子に夕飯も作ってあげられる、ボスのわがままにも付き合ってあげられる、
一石二鳥という事だろう、そしてほかの面々もそれに賛同したのだ。

「最後にデーヴィスに声をかけた時点で一時間は拘束されると踏んだ、
その間に準備を進めていたのだが、ここまで予測どおりとはな」

口調こそ雄雄しいが、女性らしい細い声で補足したのは真っ先に明日の朝が早いからと断ったアイル、
ディアナの傍で補佐を務めながらじとりとサムへ視線を投げる、
それに気付いたサムはアイルへと食って掛かっていた。

「おいおい、なんなんだい?その目は」
「ほぅ、私の目線に気づくほど観察力があったとは、驚きだ、
単純な回路しか持っていないと思っていたよ」
「きみこそ、『愛しの兄さま』に関しては単細胞じゃないか」
「お兄様は関係ありませんわ、お兄様は素晴らしい方です、
そんなことも解らないなんてやはり貴方は単純ですわね」
「お兄様お兄様ってなぁ、俺は面識が無いから解らないんだよ、そんな人を尊敬できるかい?いいや、できないね、
尊敬するって言うのはそもそもその人の行動を見て、憧れる事が尊敬だろう?
俺はきみのお兄様なんて見てないからね、素晴らしいもなにもわからないね」
「解らないんでしたら今から私が教えて差し上げます」

どちらも口調こそは丁寧で柔らかいがその裏には鋭い棘がある。

「こぉら!調理中にむやみにくっちゃべるンじゃないよ!つばが入ったらどうすンだい!」

すぐ隣にいたディアナの一声により二人の喧嘩は最短記録を樹立した、
ディアナの意見がお互い一番正しいと思ったのだろう。

ボスはホッとしながらニコラすが一人で作業してるはずの倉庫を見れば、影が二つあった、
どうやらトキハが手伝っているらしい。

「おい、トキハ、手伝っているのか?レポートは」

ボスは慌てて駆け寄ってトキハを心配する、卒業したらそのままこの会社に就職して欲しいと思っている貴重な人材だ、
このままレポート提出ができず留年となり会社への就職が遅れてしまっても困るのだ。

「あ、俺が後で手伝いますよ、大丈夫です」

積み上げられた荷物の上で更に何か整理をしているのか、汗だくのニコラスが軍手のまま挙手をする、
それを見上げてボスは再びトキハへ視線を落とした。

「ディアナさんの企画どおり、みんなでカレー食べたいですからね、
ぼくらはこうして共同戦線を張って、効率よく終わらせようと言う魂胆の班なんです」
「あー因みにディアナ姐さんとサムとアイルは炊き出し班っすよー」

そんなものは見なくても一目瞭然だが、ボスはそのまま頷く。
どうやらディアナの息子は戦力外通告を受けているらしい。

「でもやっぱりもう一人くらい手伝い欲しいかも…」

息がすっかり上がっているのはトキハ、頭脳明晰、運動神経抜群であるが
何でもかんでも要領よくこなしてしまうゆえに体力は短時間しか持たない、つまり持久力は無いのだ。
ニコラスもそれに気付いていたのか炊き出し班のほうを一瞥して大声を張り上げた。
広いこの敷地では大きい声が出せる方が動かずに済んで楽なのだ、今のところ一番声が大きいのはディアナであった、
ニコラスもそれに続いているがどうもディアナ以上の声を張り上げるのは無理らしい。

「サーム!!そっちはあらかた終わったろー?!こっち手伝えー!!」

ニコラスの近くにいたトキハとボスはその大声に思わず顔をしかめる、すると向こうから返事が届いた。

「りょーかぁーいぃ!!」

やや拡散してしまっているが、一応こちらにサムの声は届いた、
ニコラスとトキハはほっと肩をなでおろしてこれで手際がよくなると思っている、
おそらく向こうもいがみ合っているアイルとサムを引き離せたので要領が良くなり、安心しているのだろう、
見れば丁度炊き上がったご飯と、カレーを二人で盛り付けていた。
食器は恐らく社員寮にあるものを持ってきたのだろう、確かムダに大量に置いてあったのを覚えている。

助っ人のサムがやって来たことにより先ほどより寡黙に彼らは仕事ペースを上げていた。
邪魔をするのも悪いだろうとボスは再び炊き出しの方へ移動する。
テーブルにはもうカレーが人数分並べられ、準備は完了されようとしていた。

「おお、もう完成か?」
「もう、向こうの奴等呼ンでも大丈夫だね」

腰に手を当てて胸を張るディアナ、上司に丁寧な言葉を使う気は毛頭無い、
言葉遣いなんかよりも仕事で、彼への信頼を示しているのだからそれで十分だ。
第一、ボスも言葉遣いに関してはそれほどこだわってはいない、
みんな自分が使い勝手のよい話し方であれば伝達も疎通もしやすいだろうと思っている。
ただ、接客に関しては全くの別だが。

「おーい!出来上がったぞ!」

ニコラスよりも大きな、拡散もしない声ではっきりと向こうへ完成の旨を伝える、
流石社内ナンバーワンの大声を持つ女だ。
倉庫からはまだ終わってないと言う愚痴めいた返事も聞こえたが、
すぐに渋々とした動きでこちらに向かってくる三人の姿が目に入った、
派手にドツキ合いをしているが年齢も近い三人だ、じゃれあう事に等しい行為だろう。

「どおだ!このプログレッシブ・ダイナソーの懇親の作品!!」
「…だから、なんだよその名前は」
「さもお前だけの手柄のように言ってるが、これらは全てキンバレン殿と私が作ったもので
お前が作ったものではないぞ」

サムの言葉にニコラスとアイルのツッコミが双方から入る、その言葉に優しさは微塵も無い。

「わー美味しそうですね」

三人が喧々囂々ともめる中、穏やかに料理を褒めるのはトキハただ一人である。

「よし、メンバー全員だね?さっさと席について」

ディアナの指示通り、各々好きなように席に座る、ディアナはもちろん可愛い息子の隣にとっくに陣取っていた。
息子は息子で待ち切れなさそうにそわそわとしている。
トキハやボスも適当に座り、三人も空腹に負けて大人しく席に着いた、
もちろん椅子を少し離すという前時代的な避け方を各々しながら。

「はい、まず手元のお絞りで手をよっく拭いたら両手を合わせて――」

ディアナがまるで母親のように…実際一児の母親であるが、周りに指示する。これには全員が大人しく従った。

「じゃ、いただきます」

先行するディアナの言葉に合わせるように各々いただきますと口にする。
一口づつ、味を見ながら好みでテーブルに並んでいるスパイスを遣って辛さを調節する。
基本的に味付けはディアナが息子に合わせて甘くしているので全員スパイスを使用したが、
トキハだけは甘党ゆえかお酢をかけて辛味をマイルドなものにしていた。

「いやあ、まさかこんな楽しい展開になるなんて、言ってみるもんだな」

会話の中でボスが嬉しそうにこの企画を褒める、
元はといえば彼の「カレーが食べたい」という欲求により実現した企画だ、
彼が一番喜ばなければ報われない。

「どうしてこんな面白い企画を思いついたんだ?ディアナ」

息子の汚れた口をお絞りで拭いていたディアナはボスにそう言われて顔を上げる。

「ああ、この子にも夕飯作らなくちゃならなかったし、それならこっちで皆で炊き出しカレーにしたら
一石二鳥だなって思っただけだよ」

満足そうに再びカレーを食べ始める息子を見て言う。
そうして、ボスが知らなかった空白を掻い摘んで話し始めた。








信頼しているボスの誘いを断り、後ろ髪引かれる思いでディアナは事務所を急いで出る、
ボスも大事だが、可愛い息子はもっと大事だった。

「お疲れさまです、キンバレン殿」

先に事務所を出ていたアイルに声をかけられたディアナは
心ここにあらずのまま生返事をして会社の敷地から出ようとする、
夕飯のメニューはまだ決まっていなかった、
これから立ち寄るスーパーで考えるつもりだったが、先ほどのボスの話を聞いて思いつく。


そうだ、カレーを作ろう。


どうせなら、ここで炊き出しで。そのほうが息子の夕飯も作れるしボスの希望にも添えられる。
早速実行に移すための人員を確保しようと振り返ってみればアイルはまだ社員寮に戻る途中だった、
没落貴族で一家離散と言う憂き目にあっている彼女はここで寮に住みながら働いているのだ。
行動の早いディアナはアイルへすぐに駆け寄った。

「アイル!今からカレーを作らないか?」
「はぁ…」

未だに誇り高いままでその高飛車な性格ゆえのトラブルは内外共に絶えないでいる彼女であるが、
ディアナには、頼れる相談役として懐いていた。

「でも明日は朝早く…」
「そんなもン、メシ食ったら抜け出してからでも遅くないでしょ?」

確かに、二次会だの呑み会だのにならず、すぐに逃げ出す事ができれば間に合う。
返事をしないでいるとYesと都合よく解釈されたのか押しに負けて、気づけばうなづいていた。

「よし、じゃ早速アンタのジャイロで道具とか食材準備だよ」
「ええ!」
ディアナの愛機はスクーターで大荷物を一度に運ぶには不向きだ、
アイルは運搬要員としても必要とされていたらしい。

「それに、食材扱ってっからカオ、利く筈だよな…?」
「…はい」

炊き出しをするには必要不可欠な物を持ちすぎている自分に、アイルは諦めて溜息をついた。
こうなればどこまででも付き合ってやろう、そう心に決めたのだ。

「交渉は任せな、アンタ下手に出るのヘタだから」
「任せる」

ジャイロに乗り込むため倉庫へ向かう二人に後ろから声が掛かる。

「二人ともーどこに行くんです?」

ディアナの次にボスに声をかけられていたトキハだ。
二人ともボスの誘いを断ってそそくさと帰ったはずなのになぜか連れ立って車庫へ向かう事に疑問を感じたらしい。

「あー夕飯の買い物」

ディアナの声は五十メートル離れていてもはっきりと良く聞こえる、
しかしトキハは事情をよく聞くため自ら彼女らのそばに近づいた。

「夕飯って…?」
「カレーをここで作る事にした、その準備だ」

アイルの簡潔な答えにトキハは全てを理解する、頭の回転の速い二人の会話は
シンプルで時たま置いてかれそうになる。

「多分、最後に嫌々サムを誘うでしょうから…」
「一時間もある」
「サプライズには完璧です」
「乗るか?」
「いやー…そうしたいのは山々なんですが…」

何せレポートが、と続ける。
ディアナは二人の会話についていく気は無いので最初から傍観している、
後で二人とも噛み砕いて話してくれるだろう、そのくらいの優しさは持ち合わせているはずだ。

だが、最後のトキハがレポートに苦しんでいる、という事は解った、
人員はなるべく多く、できれば今日出社のメンバーは揃えたいと思っているディアナは事務所を何気なく見る、
すると事務所から倉庫へ移動中のニコラスの姿を捉えた。

「おい!ニコラス!!無視するンじゃない!」

ディアナの声にびくりと肩を震わせて静止するニコラスはゆっくりとこちらを振り返る、
その距離約七十メートル、もう少しで倉庫に辿り着く所だった。
そんな彼にずかずかと近づいてディアナはなにか話しかけている、
トキハとアイルはその場で傍観していたが、やがてニコラスの首根っこを捕まえてやってきたディアナを出迎えた。

「トキハ、ニコラスが後でレポート手伝うってさ」
「その代わり、調理中は残業の手伝いしてくれよ?」

不肖不精ながらディアナに押し負けて自分に不利な条件を飲んでしまったらしい。
なにか弱みでも握られているのだろうかとトキハとアイルは背筋を凍らせる。

「じゃ、あたしとアイルで調達してくるからその間二人はニコラスの残業手伝い、
あたしらが帰ってきたら炊き出しの設置準備と下ごしらえの手伝い、それが終わったらまた残業」

ハードなスケジュールに男二人は肩を落としてディアナとアイルを見送った。

「…なにか、弱みでも握られているのかい…?」

倉庫で残業手伝いを始めながら恐る恐る聞いてみる。

「…わかってるんなら聞くな」

どうやら本当らしい。


バラバラとジャイロの騒音をかき立てながらホームセンターに立ち寄り鍋など必需品をそろえる。

「食器は寮のものを使う、ガスもそこから運べばいい、テーブルも椅子も寮の食堂から失敬できる」

てきぱきと、無償で揃えられるものを羅列し、どうしても揃えられないものだけを手にしていくアイルの様子を見て、
ディアナは溜息をついた。

「…アンタ、貧乏性が板についてるじゃないの…」

貴族だとは聞いているが、頭に元、が付く事も知っている、そして復興を夢見ている事も。
その資金集めに奔走し、今のような貧乏性が板についてしまったのだろう、
今の彼女の姿も十分彼女らしいと思うが、本来は全く異なるのだろう。

「家のためには必要だからだ」

なぜかこの会社はそういうまっすぐで不器用な者が多い。

「うーん、ボスがああだから、かねぇ…?」
このときタイミングよくサムの弁舌につき合わされているボスがくしゃみをした事をディアナは知らない。
そしてそのままサムがくしゃみについて話題を変えた事も。


一方、倉庫で残業をしている男手はアイルとディアナからの連絡を受けて
寮の食堂からテーブルと椅子を失敬してコンクリの中央に並べていた。

「テーブルは二つで足りそうだな」
「椅子は…十もあればいいから…あと少しか」

時計を見るとあれから二十分経過している、
二人はこれから食材をそろえてディアナの息子を連れて戻るそうだから、ギリギリ間に合うだろう。

「サムには炊き出しの手伝いだな」
「アイルと一緒に?!それは…ディアナさん大変なんじゃ…」
「でも俺たち側に来て、作業が面倒だからって一人くっちゃべって楽されるの見るとムカつくだろう?」

さすが長年の付き合い、サムの行動をニコラスは予期している。トキハは参ったと両手を挙げた。

「それに二人にも『仲良し』って言葉覚えてもらわないと仕事に支障をきたすんだよ…!」

ニコラスは業を煮やしたのか二人の犬猿の仲解消に荒療治を導入する気でいるらしい、
マイナスに向かわなければもうどうにでもして、とトキハは心の中で何かを諦める。
自分が止めに入っても、個性の強い彼らは止まる事を知らない。ならそれに流されるまま傍観しているのが一番楽である。それを覚えて実行し始めたのは最近の事である。

「あ、次はご飯の準備だとさ」

そうしてニコラスに振り回されるトキハだった。

「つばは五メートルも飛ぶんですよ?五メートルも!そういえば小学校の頃体育の授業で立ち幅跳びをしましたらねぇ
五メートル飛んで新記録!賞賛の嵐が男女共に…」

くしゃみからなぜ立ち幅跳びの話になるのだろう、とボスは自分のくしゃみを後悔する、
しかし小学生で五メートルは結構飛んでいるな、と感心しながら。

「いやーあの時はモテましたねーしかし残念ながらバレンタインの数ヶ月前で、
当日になる頃にはとっくに沈静化していて…」

そりゃ残念だ。


「人参、ジャガイモ、玉葱、肉…」

そのうち人参とジャガイモと玉葱、他の食材も安価で、大量に手に入れて全てジャイロの中に積んである。
後残るは肉だけだ。

「ごひいきのお肉屋、閉まってたとはねー」

ディアナの知る限り一番安い肉屋に二人は肉を求めにやって来た。
近所のスーパーなのだが夕飯の買い物時を少し過ぎたにも拘らず人でごった返している。

「アイルー?はぐれるンじゃないよ?」

手を繋ぎながら後ろで人に押されながらも必死になってディアナについてくるアイルに声をかける、
彼女はもぐぐ…と唸りながらも返事を返した。

「ああ、あったあった!んーこりゃ豚肉がやっぱいいね」

パックを見比べながらいくつかカゴに放り込んでいく。手際はまるで主婦だ。
いや、主婦なのだが…

「手馴れてるな」
「そりゃ子供一人抱えてるからね」

事情はあまり聞いてないがシングルマザーだと聞く、一人で子供を育てるのは大変なのだろう。

「…失礼かもしれんが、ご主人は?」

初めて「人の事情」とやらを聞こうとしているのかもしれない、とアイルは内心どきりとする、
それがよい事なのか悪い事なのかは全く解らない。

「んーどうなんだろうね?もう何年も会っていないから…生きてるかどうかも解らないわ」

遠くを見てるディアナの表情からいつもの強気さは消えていた、
だが、後悔をしているようには微塵も見えない。

「ま、今は息子の方が愛してるからね」

ししっと笑いながら胸元からA5サイズのノートを取り出す、
表紙には「愛!息子☆成長日記No…」と銘打ってある事からあれが噂の育児ノートの延長戦、
愛息の成長日記なのだろう、残念ながらそれに続くナンバリングは見えない。

カゴにはいつの間にか大量の肉が積まれている、豚どころか足りない所為か牛も鳥も入っている。

「早くレジ通って息子迎えて戻ンねぇとな」

時計を見れば三十五分が経過している、すぐに戻らないと間に合わない。

「よっしゃ!急げ、走るぞ!!」
「ちょ…えええ!!キンバレン殿!」

女の子と大量の肉を抱えた主婦が猪のようにレジを通過したのはもはや伝説。


バババ…と言うやや勢いのあるジャイロの音が近づき、彼女等の帰宅を知らせた。
トキハとニコラスは迎えるべく作業を中断して近づく、着陸寸前にドアが乱暴に開かれ、
吐き出すように買い物の荷物が大量に降ってきた。

「ええええー!」
「何!なにこれ!!」

宅配人として荷物の損傷は許せない、
そんな仕事人根性と瞬発力で二人は何一つ傷つく事無く無事に荷物をキャッチする。

「あっ…危なかった…」

ほっとしながらもマイペースに受け取った食材をテーブルに並べている間にジャイロも無事着陸し、
中から残りの荷物をもったディアナとその息子が下りてきた。

「ディアナさん!危ないじゃないっすか!」

健気なニコラスの抗議にからからと笑いながら「でも無事に受け取ったじゃないか」と結果論だけ褒められる、
これでもし万が一にでも落としていたらどうなっていた事やら。

「んじゃーニコラスがコンロの設置してる間、アイルは人参、トキハは玉葱、
アタシは一番難しいジャガイモと肉の下準備、うちの子は見学ね」

ジャガイモの不規則な表面は手馴れているディアナがやはりやるべきだろうとその人選に文句を言わず従う。
三人とも一応一通りの料理はできるので、アイルが少し手間取った位ですぐに材料は原形とどめる事無く細かくなった。

「ディアナさん、鍋熱くなりましたよー」

ニコラスの言葉にディアナは頷いて調理を始める。

「じゃ、俺たちは残業にまた戻るか」

倉庫と敷地中央を何度も行き来してる彼らは慣れたように走って倉庫へ戻って行った。
アイルとディアナはそれを見送るなど無駄な事をせず、黙々と調理を始める。
油まではニコラスが引いていってくれたので肉と人参を先に入れる。
深い鍋なのでそれにあわせた長い菜箸を使い、手際よく、焦げ付かないようにディアナはそれらを炒めていく。

「おおーなんかすごい事になってるねー」

事務所からようやくボスを解放してサムが出てくる、まず中央にいる彼女等に気づいたようだ。

「なに?もうちょっと稼げばよかった?」

口は軽いがこの男も中々頭の回転が速い、
この状況を見てすぐ自分がどんな役目を知らないうちに任されていたかを悟ったのだ。

「そうだな」

切り口良くアイルの正直な感想に眉を少しだけ引きつらせる。

「いや、良くやってくれたよ、次は寮から人数分の手ごろな食器を急いで持ってきてくれると助かる」

アイルとサムが衝突する前に何とか回避しようとディアナはサムに新しく指示を出す。
サムはその指示通りに寮へと戻った。

「アイルは一緒に買ってきた野菜を外の水道の所で洗って適当に千切ってサラダに」
「解った」

車庫の前に設置してある水道へ野菜を持って洗い始める。
その間、ディアナは残るジャガイモと玉葱を入れてゴロゴロと少々やりにくそうに炒めていた。

「はい、食器お待ちどうー」
「丁度よかったサム、水を」

昔は水道から出る水をそのまま飲料としていたが、最近では販売されている水の方が安全だからと
調理や飲料に使われるようになっていた。
ディアナも例外ではなく、可愛い息子の安全のためなら、と水は買うようにしているのだ。
二リットルのペットボトルを逆さまにしながらサムはディアナの助手を上手く務める、
水が鍋にいっぱいになる頃、もう良いと片手でジェスチュアをしてサムを止めた。

「まさかとは思うが…」

テーブルで野菜と格闘していたアイルは恐る恐る手の空いたサムと鍋に夢中のディアナを交互に見比べる。

「そのまさか、二人でそれ、作って」
「えー!!」
「嫌です!!」
「不満は受け付けない、やれ」

ボスよりも、逆らってはいけない人物、それがディアナである。
二人は少しだけ見合って、サムはアイルより少し離れた場所に座っていやいやながらも彼女と同じ仕事を始める。
サラダは丁度二皿作る予定でいたので、各々一皿づつ取り掛かっている。

「あ、アイルー出来上がったらこっち手伝って」
「すぐ終わらせる」

よほどサムと同じ作業が嫌らしく、言葉通りすぐ終わらせ、サラダをテーブルに乗せてディアナへ近寄った。

「ルーを溶かすの、手伝って」
「解った」

おたまに乗せたルーを菜箸で二人係で溶かし始める。
その間にもサラダを作り終えたサムは取り皿を、ディアナに指示されるでもなく配り始めた。

事務所のドアが開いたのはその時だった。





「なるほど、時間との戦いだったのか」
「俺が引き止めてなきゃ成功しなかった作戦ですよー」

調子に乗ってボスの傍で笑うサムに全員が呆れる、彼は得意の弁舌で、いつもどおりの事をしただけだというのに。
いつの間にか食事は終わり、飲み物はアルコールへと変わっていた。
もちろん、買出しの際にディアナが購入していたもので、それまでずっとテーブル下の保冷バッグの中にしまわれていたのだ。
時間に余裕の無いニコラスもトキハもアイルも、少しならよいかと結局付き合っている。
ディアナの愛息は瓶入りの黒い炭酸を風呂上りの親父のように「っかーー」と唸りながら大変男らしく飲んでいる。
子は親の背中を見て育っているのだ。

「おーい、アーイル?」

隣に座っているアイルの様子がおかしいと気付いたニコラスが少し赤らんだ顔で彼女を揺する、
アイルは机に突っ伏したまま動かない。
片手にはアルコール。
酔っ払っているのかとほっとこうとした瞬間、アイルは無造作に起き上がり、
とろんとした目つきでニコラスを凝視する。

「ア…アイルさーん…?」
「お兄様…」

語尾にうっかりハートマークを飛ばしかねない勢いでニコラスを見る、
まずい、と思った瞬間にはもう遅く、アイルはニコラスを兄と間違えて盛大にハグをする。

「お兄様―お兄様―」
「アイル!違う!!俺違うから!!」

宅配人の腕力を侮ってはならない、
たかがアルバイター、されどアルバイター僅かな期間で鍛え上げられた腕力を持って締め上げられる。

「ぎぃぃートキッ…トキハ…っ!!」

アイルを挟んで反対側にいるトキハに助けを求めて手を伸ばすニコラスだったが、
その瞬間見たのは信じられないトキハであった。

「ああン?」

表情は険しく、今にもどこかのヤーさんに喧嘩を吹っかけてもおかしくないくらい
態度のでかいトキハがそこにいた。

「一人で何とかしろよ、クズ」

しかも言葉遣いも乱暴に豹変している。
普段地味地味言われ、その通り地味な彼の抑圧された何かがアルコールにより解放されたらしいが
こんなのトキハじゃない、と思う間にアイルの激しいハグは続く。

「おー?トキハ、いいんじゃねぇ?男前だなー」

ディアナはあまり変わってないように見えるが、そう見える人間こそ一番危ないのである。
座り方も椅子の上に胡坐をかく、と言う男前な座り具合に変化し、おっさんくさくなっている。

「よぉし!ここに義兄弟の契りを交わそうじゃぁないかぁぁ」

やっぱり酔っ払っている、しかも男前な方向に。
ニコラスは呆れてディアナの息子を見るが、彼は淡々として自分のペースを保っている。
彼の、先ほどの親父くさい唸り声はこの酔っ払いバージョンの母親を見て真似ているのだろう、
微笑ましいが真似ている対象が問題だ。

そうこうしてる内、年齢的に俺が兄貴でお前が弟分だとトキハに命令しながら
ディアナは彼に新たに酒を注ぎ、着実に義兄弟への道を進んでいる。

「ボスー止めて!!止めてあげて!!」
「止めてくる…」

そう言ってボスは席を立つ、両手を口に当てて。
そういえば、この人お酒弱かった気がする、好きなんだけれど、弱くていつもどっかでゲロってた気がする、じゃなくて。

「止めるって義兄弟の契りじゃなくて吐き気かよ!!」

ニコラスがツッコミを入れたとき、タイミングよく事務所の奥のほうでなにかが口から出る音が聞こえた。
つられて気持ち悪くなったので耳を塞ぐ。
飲酒をしてまともでいられるのはニコラスとサムだけらしい。
サムはと言えばこの騒ぎの中一人で好き勝手に飲み続けている。

その自分勝手さに腹が立ったニコラスは片方の眉を上げて、アイルに無理に笑顔を作って見せた。

「アイル、俺だよ、ニコラス、間違えるんじゃない」
「ああ、本当ですわー」

酔っ払っているのか普段の話し方とはまるで違う。どちらかと言えば兄を賞賛する時と同じしゃべり方だ。

「アイルの大っ好きな兄さんは…あっち」

笑顔で指を差した方向にはプルタブを丁度開けたところのサムがいた。
ぎょっとしてこちらを見ている。

「え…おいおい…」

たじろぐサムをアイルは容赦なく追い詰める。

「お兄様…!お兄様―!!逢いたかったですわぁぁー」
「ぐぇあっ!!」

サムの胸に飛び込み、思い切り胸囲を締め上げる。
「今までどこに行っていたんですの」「淋しかったですわ」などと言うアイルの切なる声は
意識を手放したサムにはもう届かない。

二人はこれで片付いた、とほうっておく事にして、ニコラスは義兄弟の契りを交わし、
早速弟分を下僕扱いしているディアナを止める。

「ディアナさん!お子さんが淋しいって言ってます!」

もちろん嘘だが、ディアナには効果覿面だったらしい、
すぐにくるりと振り返り、マイペースにジュースを飲んでいた愛息に思い切り抱きつく。

「ごめんねごめんねー世界で一番愛してるから許してー!!」

息子は冷静に「ふーん」とこたえる、母親の酔い具合など見慣れているのか気にも留めないようだ。
トキハは性格が正反対になっているだけで無害なので放って置く事にし、
事務所の奥に逃げ込んだボスはどうしているかと目を凝らせば自分のゲロにまみれて突っ伏している。

「わー!!ボスー!!」

急いで駆け寄って助けおこす、前面は見事カレー色に染まっていた。
吐瀉物特有の異臭との絶妙なコンビネーションが汚物の錯覚を引き起こす。

「カレー…食べたい」
「さっき食べたでしょ!」

まるでどこかのコントのようなやり取りだ。酔っ払ってすっかり記憶が飛んでいるらしい。
放り出されているトキハはコンクリに横になりそのままおおイビキをかきはじめる、
寮で隣の部屋であるが、彼がここまでひどいイビキをかいたことはこれまで一度もない。

「ごがぁぁぁぁぁぁー…ぴしゅるるるぅー…」
「…酷い…」

穏やかと言われるトキハがここまで豹変してしまうのだから、アルコールの力は恐ろしい。
テーブルの方では酔いも冷めたのか、真っ青な顔のサムが必死にアイルの抱擁から逃れようとしている。
こちらのアルコールの力もある意味恐ろしい。

「…きっと…みんなこれ忘れてるんだろうなー…」

後片付けは誰がやるのだろう、そしてみんな明日の予定は大丈夫なのだろうか、
更に何より…

「残業、終わんなかったの、免除してくれっかなー…」



そこは、彼一人が生き残る戦場だった。





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