やっと目が覚めた。 太陽はいつものようにさんさんと輝いている。むしろ大地を赤く染めるほどに傾いているような時間であった。 もっと早く起きられないのか、と聞かれるだろう。しかし、仕方ないのだ。 今日だって夜が明けることまで、自室に篭もりきってネットゲームをやっていたのだから。 毎日毎日、夕暮れ時に目を覚まし、何をするでもなく1,2時間を費やすと、 日課のように机の上にあるパソコンに向かう。そして眠気が襲ってくるまでネットゲームだ。 今の彼女にはそれしかやることが無いし、そもそもやる気が無い。 外出することもないし、第一に外に出る必要も無いのだから。 名前は水無月撫子、職業はまだ無い。 ――いつからだろうか、こうなってしまったのは―― 時々やってくる自分への問いに答えるすべを彼女は持っていなかった。 今日もその問いを無視するかのように、無気力、無感動にネットゲームが作り出す虚構の世界へと 身を任せていたのだった。 そんな時、玄関のチャイムが鳴った。 そこまで歩いてくのも面倒なのだがしょうがない、行かねば生きていけないのだから。 「こんにちは、撫子ちゃん。いつものやつを持って来たよ」 「――ああ、源さんか…… いつも悪いな」 「なに、ワシにとっちゃ孫娘みたいなもんだからな。好きでやっているのだから気にしないでくれよ」 そう言って、源さんと呼ばれている老人は、妻が作った煮物が入ったタッパーを撫子に渡して笑顔で帰っていった。 ドアが閉まるやいなや、彼女は手づかみで今日最初の、そして最後の食事をとった。 買い置きの食料は無い、もちろん自炊はしていない。 外へ出ないのだから食材を買うことは無いのだし。 ――いつからだろうか、こうなってしまったのは―― 再び彼女の胸中へ思いが去来した。やり直せる機会はいくらでもあったはず。 それに今だって自分が求めていけばやり直せる、道は開かれるはず。 だが、彼女は何度も何度もそのチャンスを自ら捨てて、今に至るのだ。 ニートでいることが100%正しいとは決して思えない。だが、それ以上に働くなんて事はありえない話だ。 誰が好き好んで全く見ず知らずの赤の他人と係わり合いにならなければならないのか。 同じ時間を共有しなければならないのか。 どうせ共有するならば、ツールを使って動画でも何でもファイルを共有している方がはるかにましだ。 そもそもなんで働かなくてはならないのだ? どうして世間の人間は何かに取り付かれたかのように、ルーティンワークともとれる単調な日々を過ごしている? 理由を聞けば「働かなくては食っていけないから」とでも答えるだろう。 ならば逆説的に考えれば、食っていけるのならば働く必要は無いって事じゃないのか? それならば自分は食っていけている、幸いなことなのか、 運動するとすぐに息が切れるくらいに余分な肉が付くほどに。 食わせてもらっているだけではないのか、という考え方もあるだろうが、それは他人の好意だ。 言い換えればあっちが勝手にやっていることだ。長い年月の間、自分が他人の援助を求めたことは無いはずだ。 働くことが当然の事だと言う奴もいることだろう。 職を持つことが全うな人間であるおそらく唯一の証明なのだと、でも信じているに違いない。 そんな事で立派な人間であるかダメ人間であるかを区別するならば、自分はダメ人間で結構だ。 立派な人間でありたいだなんて思うはずが無い。 ダメ人間が努力して(努力してなれるのだと仮定した話で)立派な人間になる必要は無い。 ダメ人間はダメ人間のままでいいはずだ。 自分がダメ人間であることを認めてしまえば後は簡単だ、 余計な見栄も、下らないプライドも持つことなく生きていけるのだから。 重い荷物を背負い込んで生きていくなんて真っ平だ。 他人の評価なんぞはクソ食らえ、だ。誰が何を考えていようとそれは人の自由だ。 法の下に保障されているではないか「思想、信条は自由だ」と。 自分にだってその程度の権利はあるはずだ。 他人に迷惑をかけていないのだから、どう生きようがそれは本人の勝手ではないのか? それから、他人からまともな人間と見なされたいから働くなんてのは本末転倒だ。 そんな人間がいるから、大企業の奴らは安い賃金で家畜を酷使し、 食いつぶして自分達だけが肥え太ることが出来るのだ。 残された労働者はその日その日を一生懸命に生きるだけだ、希望も持てないままにいずれ死んでいくというのに。 そんな風に他人に食われるために働くなんてごめんだ。 食うか食われるかと二者択一を迫られたら誰だって食う方に回ろうと思うはずだ。 食われる方に回る奴? そんな奴は欠格人間だ。 自分は食う方に回ろうと思っているのだから、こうやって生活保障をもらっている。 あいつらを食ってやっているわけだ。そもそも食われるような奴らを作り出し、さらに搾取している企業が悪い。 それを黙認しているお偉いさんも、それを受け入れているちっぽけな労働者達。 社会が悪い、システムが悪い、とどのつまりは全てが悪いのだ。 そこから作り出されている格差社会が諸悪の権現だ。そんな社会が良くなるまでは働くなんてもってのほかだ。 多くのニートたちと同じように、彼女もまた並べられるだけの言い訳を並べていた。 「オレは働かない。今までも、そしてこれからも――」 誰に言い聞かせるでもなく、彼女は呟くと椅子に座ってパソコンの電源を入れた。 * 「もうこんな時間か…… PKも飽きたし、そろそろ寝るか」 時計の針が7時を指す頃、散発的に「死ね」だの「うぜぇ」だのネガティヴな言葉を発する以外には、 終始無言であった撫子は一言もらすと、もう1週間は着たままのジャージ姿で布団にもぐり込んだ。 そして彼女は夢を見る。 20年以上も前の話だ。 まだ幼い自分がいた。両脇には父と母、親子3人で仲良く団欒のときを過ごしていた。 その頃は幸福だった。目にするもの、耳に入るもの、 五感全てから感じ取れるありとあらゆるものが楽しい思い出を形成する要素となっていた。 その幸せが永遠に続くかのように思えた。だが現実は往々にして残酷だ。 「お父さん―― お母さん――」 いくら彼女が語りかけても2人は返事をすることも、動くことも無かった。 ある日、唐突に両親は故人となった。理由は覚えていない。 悲しすぎる出来事のため、自分自身で記憶に蓋をしてしまったのか、 それとも誰からも教えてもらえなかったのか…… 今となってはどうでも良い事である。 ともかくとして、最愛の人を一気に2人亡くしてしまった彼女はその日以来、長い年月の間笑うことをやめた。 絶望の中にいた彼女を、親族は誰も面倒を見ようとはしなかった。 家々をたらい回しにされることすらなく、ただひたすらに拒否され続けたのだった。 自分は必要とされていない人間なのか? 幼いながらも親族の態度から、容易に察することが出来た。 そんな彼女を不憫に思った近所の人たちが、彼女を支えていくことにした。 それはとてもありがたい事だったし、またそうしてもらわなければ何一つ生きるためのすべを持たない彼女は 人生を終了していただろう。 彼女は他人の好意の中で生きていくことを選んだ、選ぶしかなかった。 周囲の暖かい援助のおかげで、彼女は順調に成長することができたが、それは見た目だけのことであり、 心の中では未だに晴れぬものがあった。 学校へ上がろうとも同じことであった。その内面と家庭環境から、よく同級生にバカにされることがあった。 子供のことだ、そんなつまらない事でもからかいの対象になるのだ。そんなバカガキを相手にしようとも思わなかった。 あんな辛い目に遭った自分に比べて、のうのうと何の悩みも無く――あったとしても 欲しいものが手に入らないだとかの下らない事である――生きてきたような奴らはなんてレベルの低い人間であろうか。 そう彼女は思い続けるようになった。 そんなレベルの低い奴らを相手にするほど、自分はつまらない人間ではない。 と、周りの人々を見下しながら生きるようになった。 稀にしつこくからんで来る奴もいる。 さすがに我慢も限界に達すれば、誰であろうが殴りかかったし、血を流している程度の低いバカを見るのは楽しかった。 周りの人々も、彼女の事情を鑑みてか、あまり強くは言えなかった。 それが理由であろうか、彼女は次第に自分が行なうことが正しいと表来るようになった。 自分は正しいのだ、何をしても良いのだ。小さいながらもそう思うようになった。 多分、そうでも思わなければまだ未熟な精神は耐えられなかったのだろう。 こうして彼女は多感な幼少期を過ごしていくのだった。 それから幾年かが経過し、周りの人間が受験のためにあわただしくなってくる季節になった。 これから自分はどうするのか? 多くの生徒は高校へと進学することにしていた。 この土地の進学率は9割を超える。すぐさまに就職するような人は少なかった。 ならば自分も同じように進学するのか? だが、彼女には周りの大人たちがお題目のように唱え続けている「いい高校に入り、いい大学に入って、 いい会社に入って、いい人生を過ごす」という言葉が白々しく聞こえていた。 遡っていけば、いい人生を送るためにはいい会社に入り、いい会社に入るためにはいい大学に入り、 いい大学に―― という具合だ。 つまり高校も大学も本来の役割を担っていない、ただの就職斡旋センターか、 そうでなければ卒業するためだけに存在しているどうでもいいものに過ぎない。 彼女はそうとしか考えられなかった。 勉強は絶対にやりたくないと思うほどに嫌いではない。 しかし妄信的にいい生活のためだけにする勉強なんて真っ平ごめんだ。 そんなつまらない事をしなければならないほど、自分はつまらない人間ではない。 それに学校に行けばまた煩わしいバカどもと関わり合いにならなければいけない。 この先、何年もそんな生活を送ることは耐えられなかった。 それならば就職するか? しかし、例えば職が溢れている都会に出ようにも、学歴の無い人間を雇うようなところはそうそう無い。 「いまどき大学くらいは出ていないとね」 そういう大人が何人もいることも知っていた。 仮に働き口があるとしても、同僚や上司や客、そんな奴らと関わり合いになるのは苦痛でしかない。 カネを貰うからといったってそんなバカバカしいまねはできない。ということは就職という選択肢も消えた。 「そんなどうしようもない考えで良いのか?」 同級生の犬…… 何とかという奴が話しかけてきた。 他人の名前を覚えることも億劫だ、関わり合いになる気が無いのだから、覚える必要も無い。 いつものように適当にあしらう。 「うるせーな。どうだっていいだろ。オレはそんな下らねぇ事に気を使わねーんだ。 周りの奴らが全部やってくれるからな」 「なるほど、周りの人間が、ねえ…… どうやら君は自分が特別な存在であるとでも思っているのかな? だとしたらとんだお笑い草だ。どこでそんなに捻じくれたのか――ああ、両親を亡くしていたのだっけ。 まあそれはともかくとして、周りの人達が君の面倒を見てくれているのは 君のためなんかじゃない、自分達のためなのさ。ましてや君が選ばれた存在だからとか、 そんな神話のような荒唐無稽なものじゃない。君はただ単純に同情されているだけなのだ。 恐らくは薄々気づいているはずだけど君は敢えてそれから目を背けて生きてきた。 君はただ一言で言うと可哀想な存在なんだよ。幼い頃に両親を亡くして育てる人がいなくなってしまった、 それはそれは哀れで同情されるべき存在だったのさ。周りの人間はそんな君を見て何とかしてやろうと思った。 事実、君はそうやって他人の庇護を受けて生きてこられたわけだ。そこで一つのクエスチョンが生じる。 なぜ君はそうやって他人から援助を受けてきたのか? 言い換えればなぜ周りの人間は 他人である君を助けてきたのか?」 「いちいちうるせーな。さっきからテメェが言っているようにオレに同情したって事だろうが」 「御名答。ではその同情というものはいったい何ぞや、と。君は哀れみの対象なんだよ。 『ああ、この子はなんて不幸なのだろう』とね。そう思っている人間は、 不幸な人間を見ることで自分がそうでは無いことを再認識してほっとしているのさ。 君は比較対象なんだ、とでも言い換えられるかな。相対評価として周りの人間は幸福である、とね。 『こんな不幸な人に比べたら、自分はなんて恵まれているんだろう』とでも思われているのさ。 そして、そんな不幸な人間をより身近にすることで彼らは自分達の行為が正しいことだと思うことが出来る。 つまり、哀れな君の面倒を見ることで、もう一つの感情を手に入れることが出来るのさ、 『哀れな人間の手助けをしている自分はなんて良い人なのだろうか』という感じだね。 つまり他人は君を手助けすることで自分達が正義である、善であるとでも錯覚しているのさ。 人間、大抵は善人であると思われたがっているもの、自分自身でそう思われていると納得することは 難しいことだけれど、君のおかげで彼らはたやすく自己の正当性を認識できるようになっている。 ただそれだけのことなのさ、手っ取り早く満足がしたい人たちの道具なのさ。 さっき『君は特別じゃない』って言ったけど、ある意味では特別だったね、 なかなか他人の優越感を引き出させてくれるような人間はいないのだから。君の存在なんてものは――」 長々と語る彼の言葉を全て聞く前に、忌々しい夢は終わりを迎える。 * 「クソが、何であの夢なんか見る……」 半ばうなされるようにして撫子は眠りから覚める。 普段から閉め切っているカーテンの隙間からはまだ日光が差し込んでいた。 いつもに比べて早い起床であった。もう一眠りしようかと思ったが、珍しく目が冴えたのか、 横になったままでいても眠ることは出来なかった。 仕方が無いのでキッチンで水を汲んで一息で飲み干して、椅子の上でいわゆる体育座りをしながら考え事をした。 「あいつのせいだ。あいつが余計なことを言わなければ、まだオレは社会に出ていけていたはず――」 たまに訪れる「いつからこうなってしまったのか」という問いに対しての、 二つ目の答えとなる出来事を頭の中にめぐらしながら鬱屈とした面持ちで彼女は爪を噛んだ。 ストレスを感じると半意識下で行なわれる彼女の特徴的な動作である。 それはさておき――10年以上も前に聞かされた犬なんとやらの言葉は、 その後の彼女の人生に大きな影を落としたことは間違いない。 ただでさえ、内面に篭もりがちであった彼女の精神をさらに追い詰める結果になったのだから。 その日までは彼女はまがりなりにも外出することは出来た。下らない人間と関わり合いになろうと思わなければ、 周りの人間を見ていようが見られていようが気にならなかったのだし、 そんな奴らに何と言われようともどうでも良かった。 しかしながらその日以後、彼女は自らが最後の精神的拠り所としていたであろう自分の尊厳が 音を立てて崩壊していくような感覚を覚えた。 外にいる、自分を見ている人間が全て自分を嘲笑っているような気がした。 他人の優越感を与えるためだけに存在しているのか。 もしそうだとしたら、自分と言う人間はなんて下らない、取るに足らない人間なのだろうか。 下に見ていた奴らに見下されていたのか? それで良い、そういった存在を必要としているのだったら、あえて自分は他人のために道化を演じてやろう。 そこまで思えることは無かった。ほんの僅かに残っていた自尊心が、彼女にペルソナを与えることは無かった。 その日以後、彼女は自室に引きこもり、他人と係わり合いになろうとはしなかった。 たまに訪れてくれる近所の人たちとも、以前のように接することは出来なかった。 家にやってくるものは皆、自分を嘲るために来ているのか、 さもなければ優越感に浸りたいために来ているとしか思えなかった。 「どうしたのだい? 急に外出しなくなっちゃって。外に出てもっと他人と触れ合うべきだよ」 そんな意見に耳を貸せるはずが無かった。 大方、自分を外に連れ出して周囲の笑い者とでもするつもりなのだろう、 出なきゃ自分は引きこもりを更生させるために尽力している良い人だと、 周囲の人間にアピールするための偽善的行為だとしか思えなかった。 だから彼女は誰とも会おうとはしなかった。 だが、そうやっていては生きていくことはできない。 ライフラインは通じているが、だからといって植物でもバクテリアでもない自分が水だけで生きていけるはずは無い。 何か食っていかなければ生命活動を維持することは不可能だ。 再び他人の庇護の下に入るのか否か、生きるべきか死ぬべきか、それが問題だった。 回答はすぐに出た。このまま餓死だなんて真っ平だ。もし仮に飢え死にでもしようものならば、 さらに無様な姿を晒すことになる。 その姿を見て、その事実を聞いて、様々な人間がさらに自分を哀れみ、蔑むだろう。 どうせ恥を晒すのならば、生きて笑われた方が死んで笑われるよりはましだ。 第一に死んだらお終いだ。だからこそ生きる。 こうして彼女は望めば手に入れられる死を拒否した。 周りの人々は今までと同じように彼女の面倒を見てくれた。その状況に彼女は甘んじた。 それが今までとは全く違う感情を引き起こそうとも。 長い年月が経った。一歩も外出していない彼女は、ネット上での掲示板だけが唯一の外界を知る手段となっていた。 パソコンを起動しても、ゲームか掲示板の閲覧しかしなかった。 そこで知るのだが、自分はニートとカテゴライズされる存在であったらしい。 学校へも行かず、働きもしない、そんな若者が増加しているということだった。 別段、同じような状況の人間がいるからといって、安心するとか危機感を覚えるとかは無かった。 他にニートがいようといなかろうと、自分はやりたくないことはやらないのだし、やらなくても生きていける。 他人なんぞはどうでも良い、自分が一番大事だ。 別のスレッドを覗いてみる。 働いている人間も大企業、中小、零細企業、どこに属していようとも彼女には 劣悪としか思えない環境、賃金で働いていた。 まるで現代に甦った奴隷制度だ。金のあるものが無いものを絞り、自分達だけが肥え太っていく。 弱肉強食の格差社会というものが歴然と存在しているのだった。 別に他人が絞りつくされて困窮しようが、路上に彷徨ってくたばろうがどうでもいい話であるが、 しょっちゅう掲示板に書き込まれる内容には色々思うところがあった。 毎日のように繰り返される労働者とニートたちとの論争、というよりは感情的な言い争い。 一方が「企業に食われているだけの奴隷、敗残者」といえば、 もう片方は「負け組みにすら入れないような人間社会のお荷物、ゴミ」と返すような有様であった。 ニートたちの自己正当化はさて置き、奴隷たちのニートに対しての蔑みようは非常に興味深かった。 彼らは自分達がおかれている悲惨な状況から目を逸らすべく、ニートたちを叩いているのだろう。 困窮する状況でありながら、いや、あるからこそ、すべからく自分達より下に見るべき存在を 誘蛾灯にひかれる虫の様に探しているのだ。 自分達が苦しんでいるにもかかわらず、のうのうと暮らしているニートたちが許せないのだろう。 働かないものは罪であるという考えが、この世界には蔓延しているだから、ニートたちは絶好の標的となる。自分達よりも下にある存在を叩くことで、彼らは心の平安を何とか保っているのだろう。 「奴隷から叩かれるような覚えはねえよ」と彼女は掲示板に書き込むと、ふと思った。 自分はダメ人間であると自覚しているが、だからといって他人からそう言われるのはムカつくことだ。 しかもその相手が企業から搾取されているような、ある意味では自分の意思すら持たないで、 考えるのをやめてその日を生きているだけのようになっている奴隷であれば尚更だ。 だからといって奴隷から叩かれて腹立たしいからという理由だけでそいつらの仲間入りをすることは、 勿論断固として拒否する。 それだけの理由でそんなバカバカしいマネなんてできるはずも無い、できたってやるはずが無い。 そもそも、働きに見合う賃金を払わない奴らが悪い。 他人と係わり合いを持たず、それでいて高級をもらえるような仕事があれば、自分だってそれなりにはやる気を出す。 だがそんな会社はどこにも存在しない、そこはまあ許容しよう。 だが、クソみたいな仕事をやらせておいて、まともに給料も払わないような会社ばっかりなのは問題ではないのか? 企業努力が足りないから、というよりは経営者の頭が足りていないから、企業が労働者に対して傲慢だから、 そんな奴らに飼われていることに反発も抵抗もしない奴隷であり続けることを選択しているような労働者がいるから、 ニートが減らないのだ。 この不毛な奴隷とニートとの争いは本を糾せば企業が悪いのだ。 諸悪の大本は格差社会なのだ。そんなものは作り出している奴らと一緒に粉砕せねばならない。 いつからか彼女はそう思うようになった。自分をニートたらしめているのは格差社会なのだと。 勿論、こんな考えは言いがかり以外の何物でもない。だが、それでも彼女はそう思い続けた。 目的も何も無い人生に張りが出たような気がした。 とはいったものの、社会そのものをぶち壊すには自分はあまりにも無力すぎた。 爆弾を腹に巻いて企業に特攻したところで、どう上手く転んでも1社が潰れるだけだ。 滅ぼすべき存在は星の数ほどある。全てを破壊しつくすには圧倒的に力が足りなかった。 彼女はずっと引き篭もった。今度は格差社会への怨嗟をつのらせながら。 来る日も来る日も彼女は願った。 たった一人で、彼女が考える社会悪と戦う力を。 そして後に、彼女は力を得た。無尽蔵にミサイルを発射できる能力を。 原理は良く分からないが、一心に望み続けていたからそうなったのだろう。 自然発生的になのか、それとも誰が力を授けてくれたのか、神でも悪魔でも良い、とにかく事実に感謝しよう。 力を試すために久しぶりに家の外へと出てみた。 行きかう人間どもは相変わらず自分のことを蔑んでいたかもしれないが、もはやそんな事はどうでも良かった。 運動不足がたたってか、歩くだけでもすぐに疲れてしまったのには少々参ったが、そんなこともどうでも良かった。 海岸まで行き、水平線に向かってミサイルを発射してみた。 上手く表現はできないが、とにかく凄まじい威力だった。 衝撃波とそれによって生じた波が、自分のところまで押し寄せた。太陽がもう一つ出てきたような光量だった。 調子に乗って何発も試してみた、連射もしてみた。やはり素晴らしい威力だった。 これで忌々しい社会を粉砕できるかと思うと嬉しかった。 長い間笑っていなかったが、なぜだか腹の底から笑いがこみ上げてきた。 声を出して笑った。ミサイルの爆発音には負けるが、それでも大きな音だった。 ずっと腹の底に沈殿していた、凝り固まった鬱屈している感情が徐々に溶かされて吐き出されるように、 長い間笑いっぱなしだった。 幼い頃とは全くベクトルは違うが、彼女は幸せだった。 その後、彼女は再び自宅に引き篭もるようになった。 あれほどまでに願っていた、格差社会を大本から粉砕できるまでの強大な力を手に入れたのに、 なぜだろうか。あれほど憎んでいた社会を、忌むべき世の中を自分の力で変えていこうとは思わなかった。 ずっとネットかゲームで遊ぶ日々が続いていた。 まあ良くある話なのであろう、自分が願っていたものが手に入ったときから、 急速にそれに対して興味が無くなるというのは。 予約までして購入したゲームが、三日もすると積みゲーになっているなんて事はザラだ。 つまりはそういう事だ。言うならば強く願えば願うほど、それが得られればその反動でどうでもよくなるものなのだ。 あのような下らない社会はいつでも壊せる、自分がその気になれば365日24時間いつでも好きなときに。 実質的に世界を手にしたのだ、世の中は自分の掌の上にあるのだ。奴らの命運は全て自分が握ったのだ。 確かに格差社会は滅ぼすべき存在なのだが、いつでも滅ぼせると分かると、実行に移すのが面倒くさくなった。 自室でネットでもしている方がはるかに気楽なのだし。 よくよく考えたら、ネットもゲームも企業があるからこそできていたのだった。 そいつらを粉砕してしまったら退屈で退屈で耐え切れなくなるだろう。 あれほど憎々しい社会であるが、自分もまた剥き出しの資本主義社会の中で生きざるを得なかったのだった。 まあそんな事はどうでもいい事だ。格差社会もニート問題もどうでもいい事だ。 暫くは自分の好きにやらせてもらおう、社会にも好きにやらせておこう。 全てが嫌になるまでは、社会の命運を預かっておいてやろう。 とまあ、結局彼女の生活はある一点を除いては全く変化はしなかった。 周りの人々は彼女の変化に気づくよしも無かった。 今までと同じように、時間はつつがなく刻まれ続けていくかに見えたのだが―― 「どうしたってんだよ、源さん。こんなに朝早くから」 「大変なんだよ、『テムグ・テングリ群狼領』が――」 本編トップへ戻る |