時間がもったいない――あいつはそればかりを繰り返していた。
 その言葉通り、どこか、……いや、明らかに急いでいたように思う。
 何をそんなに焦っているのか。そもそも、どうして時間がもったいないのか。
俺には、あいつの考えが全然わからなかった。

 時間なんてものは、それこそ限りがないじゃないか。
 俺たちは何才だ? まだ十二才。エレメンタリーだ。慌てるような年からは掛け離れている。
 慌てるべき年齢の人間があいつの言葉を聞いたら、きっとカンカンになって怒り出すに違いない。
 俺なりにあいつの言っている意味を考えてみた。
ミステリー小説みたいな推理の真似事だってやってみたんだ。
 それでも、あいつが何を言いたいのか。どうして急いでいるのか、わからなかった。

 ひとつだけ確かなのは、こいつがエンディニオン中で最もアホだと言うことだ。
 俺の手を引っ張り――よくわからないが、俺たちを見てフィーは鼻血を垂らしていたな――、
庭先へ連れ出したあいつは、そこに停めてある自転車を指さしながらこう言ったんだ。

「チャリンコでエンディニオンを一周しようぜ!」

 ……どうして、このときにバカの手を振り解かなかったのか。
自転車を漕ぎ出してしまった今、つくづく自分の間抜けに腹が立って仕方ない。
 何か理由をつけて断るか、蹴りの一発でもくれてやれば良かったんだ。
 それなのに、こうしてバカに付き合ってグリーニャを出てしまったのは、
「家の中へ戻りたくなかった」。この一言に尽きる。
 すぐにUターンして家に帰ってみろ。あちこちに飛び散ったフィーの鼻血を見ることになる。
 下手をすれば、もう一回、鼻血を噴かれて、今度は俺に直接掛けられるかも知れない。
 とりあえず、それだけはイヤだった。断じて、イヤだった。
 その程度だったんだ、こいつに付き合って自転車を漕ぎ出したのは。
 気分屋なクラップのことだ。どうせすぐに音を上げるに決まってる。
夕方には「やめだ、やめ! もう帰ろうぜ!」と言い出すだろう。
 フィーのほとぼりが冷めるまで付き合ってやろう――本当に、その程度の考えしかなかった。
 ……まさか、別のエリアにまで自転車で来てしまうとは、
そのときには夢にも思わなかったんだ。

 気付いたときには、俺はグリーニャを離れ、隣のシェルクザールをも通り抜け、
見たこともない街道に居た。街道の途中に見つけた廃屋の中で、シュラフに包まっていた。
 厳密には、“廃屋”と言う例え方は正しくないのかも知れない。便宜的に俺はそう呼んでいるだけなんだ。
 道沿いには高原野菜を栽培する為の農地が作られてあり、
田畑を耕す道具や資材を仕舞っておく為に建てられた、トタン造りの小さな物置きなのだ。
 一台分のリアカーしか収納できそうもない小さな小屋は、長期間、使われた形跡が見られなかった。
 資材を整頓しておくような棚などどこにもなく、せいぜい錆びてボロボロになった空気入れが
一番奥で転がっている程度。まともな農具は一つも見られない。
 持ち主の身がどうなったかは知ったこっちゃないが、廃棄されて相当な時間が経っているはずだ。
 空気入れと同じ経年の劣化を感じられるトタン屋根は、三分の一ほど剥がれ、めくれ上がってしまっているが、
壁や柱はまだまだ頑丈そうだ。ちょっとやそっとの強雨にはビクともしないように思える。

 この廃屋には何ら不足はないのだが、ビバークをするにはあまりにも準備が足りない。
寝具だけは確保したものの、それ以外は壊滅的と言っても過言ではなかった。
 なけなしの寝具…シュラフは、バカが自転車の荷台に括りつけていたものだ。
 子ども用の物と、それから大人用の物。それぞれ一つずつ、こいつは持ってきていた。
 小さいシュラフはこのバカの物だが、もう一つのほうは、どうも親父さんのを勝手に持ち出したらしい。

「よし、決めた! おまえにゃこっちのデカいほうを貸してやる! これ使って寝たらいいぜっ!」

 特別に譲ってやるんだからな、とかこのバカは偉そうに抜かしたが、
大人用と言うことは、俺たちエレメンタリーの体格に全然合っていないと言うことだ。
 寒いんだよ、さっきから。隙間から風が入り込んでくるんだ。
 何が特別だ。特別なのは、お前のバカさ加減だ。

「……あー、でも、しくったな。キャンプ道具は持ってきても良かったな、こりゃ。
かさばるからって諦めたんだけどよ、テントくらいは欲しかったな〜」

 バカはバカなりに反省点を見つけたようだが、
頭が足りていないだけに気付いたこともまたバカ丸出しだった。
 問題は、そこじゃないだろ。最大と言うか、そもそもの問題は、お前の腐ったアタマだ。
 第一、旅費すら持っていなかっただろうが、お前は。
 途中で立ち寄った辺鄙な村――ここだって俺たちは始めて訪れたんだ――でパンを買い、
それで夕飯は済ませたが、そのカネは誰が出したんだ。
 たまたま俺のポケットに財布が入ってたから良いようなものの、
高確率で野垂れ死ぬところだったんだぞ。

 こいつはわかっているんだろうか。
 自転車を漕ぎ出す前から「時間がもったいない」とバカの一つ覚えのように繰り返しているが、
俺たちのやっていることが、最悪に時間のムダ使いだってことを。
 ムダ以前に、頭が足りていないとしか言いようがないんだ、こいつは。
 自転車でエンディニオンを一周しようと言う閃きが、まずバカ以外の何物でもない。

 いや、専門的に訓練を積んで、必要な準備を整えた人間であれば、
もしかしたら達成できるかも知れない。
 そう言う人種と俺たちを比べてみろ。……比べることすら許されないだろ。
 俺たちは子どもだ。何の力も持たない子どもだ。
 エレメンタリーの最高学年にはなったけど、それが何だって言うんだ。
昨日今日の思いつきで自転車を漕ぎ出したバカふたりは、旅費はもちろん野宿の支度も殆どない。
 第一、こいつの自転車は、おばさんのをちょろまかした、ママチャリじゃないか。
 ノーパンクタイヤと胸を張るのは良いが、どう考えたって長距離移動には向いてない。
 ……六段変速の俺の自転車だって、この旅には絶対向いてないと思うけどな。

 一番、マズいのは、こいつがテントすら持ってこなかったことだ。
寝る場所のコトを考えたら、「荷物がかさばる」なんて、理由になるものかよ。
 今日は廃屋を見つけたら良いよ。でも、明日からどうするつもりなんだ。
 もちろん、こいつにもそのことは問い質した。そして、俺は問い質したことを後悔したんだよ。

「バッカ、お前……なに小さぇこと言ってんだよ。ンなもん、そこいらの木陰でビバークよ。
チャリの旅の醍醐味だろ?」

 これが、こいつの答えだ。清々しいくらいのバカっぷりだ。
 自転車を漕ぎ出した直後は、「そうだ、どこかでハンモック買おうぜ、ハンモック。
ぶっとい木の枝に引っ掛けてよ、優雅に昼寝しようじゃねーの」などと威勢の良いことを抜かしていたバカは、
今や「あー、やっぱ寝れねぇや。地べたに寝袋なんて寝れるわけねーんだよ。
明日はホテル行こうな、ホテル。ユースホステルくらいはあんだろ」と
自分で自分の計画をブチ壊しにしていやがる。
 そもそもホテルも宿泊代も、お前、一銭も持ってないだろ。

「俺の財布には、もう五百ディプロしかない。明日の朝飯を食ったらすっからかんになるぞ。
お前、その意味がわかっているか?」
「スカンピンになるってんなら、稼げばいいじゃねーか。バカだな、お前」
「……バカにバカって言われるのは、そうか、こう言う気持ちなんだな」
「なに言ってんだ。オレのバカは気持ちが良いバカ。おめーのはジメッとしたバカなの。
この違いがおめーにわかるかな? わっかんねーだろうな」

 シュラフに包まりながらモゾモゾと芋虫のように動くバカに蹴りを一発お見舞いしてやったが、
やっぱりこいつは自分が批難されているとわかっていないようだ。
 すまなそうにするわけでもなく、何を血迷ったのか、「そうそう、それだよ!」と目を輝かせ始めた。

「その辺に落ちてる木とか石とか、お前の蹴りで割ったり砕いたりしてさ、
それをお客さんに見てもらってだな――」
「――お前、今、人の蹴りを大道芸呼ばわりしたな? 大道芸かどうか、味わわせてやろうか。
それにさっきから聞いていれば、お前は何をするつもりだ? また他力本願か」
「オレは呼び込みで忙しいの! 忙しい予定なの!」

 祖父から教わった蹴りが大道芸でないことをこいつの体に刻み込んでやったが、俺に罪はないだろう? 
 バカは激痛にのた打ち回っているが、知ったこっちゃない。

(……やってられるか……)

 話すのも面倒になったし、いい加減、俺だってくたびれた。
 ひとまず今夜は寝てしまいたくて目を閉じたんだが、これまた大失敗だったかも知れない。

 目の前が暗くなった途端、考えなくてもいいことが次から次へと浮かんでくるんだ。
 人生まだ十数年しか生きていないが、人間ってのは、そう言う具合に出来ているらしい。

 バカバカしい話だが、学校の皆勤賞を逃したことが真っ先に頭に浮かんだ。
 たぶん、……いや、絶対に明日にはグリーニャには帰れないだろう。
つまり、学校を無断でサボることになる。
 六年間の無遅刻無欠席が、このバカのせいで台無しになったと言うわけだ。

(いや、待てよ。待て待て。……これはれっきとした家出じゃないのか?)

 ……自分でも間抜けだと思う。果てしなく間抜けだったと思う。
 こいつに引っ張られるまま、ほとぼりが冷めるまでの暇つぶしのつもりで
グリーニャを出発してしまったんだが、俺はそのことを誰にも話していない。
 父さんにも、母さんにも、言ってきてはいない。
 誰にも何も言わずにこのバカとエンディニオン一周の旅に出かけてしまったと言うことだ。

 もしかしたら、今頃、村はとんでもない騒ぎになっているんじゃないだろうか。
 子どもがふたり、急にいなくなった上に夜になっても帰ってこないんだ。
保安官事務所に捜索願が出されていることだって考えられる。
 このバカがおじさんかおばさんに伝言でも残していれば話は違うんだが、望みは薄いだろう。
 親の許可を得て自転車の旅に出たヤツの装備が、こんなに貧弱なわけがない。
 キャンプ道具一式を詰め込むように言いつけられるだろうし、ママチャリでの旅を誰が許可するものか。
 装備がどうこう言う前に、うちの両親にだって連絡が行った筈だ。

 ひとつひとつ頭の中を整理してハッキリしたが、やっぱり俺は家出をしてしまったようだ。
それも、人に巻き込まれる恰好で。
 家出する理由もないのに、大変なことを俺はやらかしてしまっていた。

(冗談じゃないぞ、おい……)

 家出を意識した途端、急に心細くなってきた。
叱られるのが怖いとかそう言うことではなく、村のみんなに迷惑を掛けてしまったことが、とにかくつらかった。
 フィーはきっと泣いてるだろうな。
 父さんと母さんも、今夜は寝ないで俺たちを探すんだろう。
 ムルグは、………あいつは、俺のことなんかくたばれとしか思ってないだろうが。

(……ごめんな、みんな……)

 ……家族のことを考えたら、胸の奥がめちゃくちゃ痛くなってきた。

 本音を言えば、今すぐにでも帰りたいところだが、
クタクタになって、それも夜中になって動くのは危な過ぎる。
専門に自転車の訓練を受けていない俺にだって、それくらいのことはわかる。

 今夜は寝るだけ寝て、明日、日の出になったらすぐに帰り支度をしよう。
 このバカはゴネると思うが、問答無用ってヤツだ。
 いざとなったら、シュラフごと縛り上げて荷台に括りつけてやる。
手も足も出なければ、こいつだってどうしようもないんだ。

「明日はなんとか距離稼ごうや。今週中にはルナゲイトに入っちまおうな。なっ?」

 頭を抱えたくなる俺とは正反対に、このバカはどこまでも能天気。
悩みをコケにされているような気持ちだよ、こっちは。
 こいつには、村の人や家族に迷惑を掛けていると言う認識が全くないようだ。

 ここまでふざけた真似をされて黙っていられるほど、俺はオトナじゃない。
腹くらい立つさ。当たり前だろう?
 ムチャクチャなことに付き合わされ、振り回された挙句の果てに家族までバカにされては、
もう黙っているわけにはいかない。

「お前な――」

 二、三発蹴りを喰らわせながら叱ってやる――そう考え、シュラフの中で体勢を整えた矢先、
信じられない…と言うか、信じたくもない事態が発生した。
 剥がれかけたトタンの屋根が、突如として鼓笛のように軽妙な音色を奏で始めたんだ。
 物叩く音を頭上から立て続けに降らされていると、
まるで太鼓の内側に閉じ込められたような気持ちになってくる。
 そして、トタンの屋根を打つ音は、次第に大きくなっていった。 

 そのときだ。俺の頭にイヤな予想が湧き起こったのは。
 ……いや、トタンを打つ音の正体なんか本当は最初からわかっていたハズなんだ。
それなのに誰に聞かせるでもなく言い訳をしてしまったのは、
ビバーク中の人間にとって最低最悪の事態を認めることになるからだった。
 心のどこかに留めておくのは良いものの、現実として目の前に現れると気持ちが折れてしまうような、
そんな言い知れない恐怖が容赦なく襲いかかってきた。

「ア、アル、これってまさか――」
「――まさかも何もあるか! 雨だッ! シュラフから出ろ、クラップ! 非常事態だ!」

 唯一のキャンプ用品がズブ濡れになっては、引き返すにしたって大変なことになる。
 ましてシュラフ。身体を休めるのには欠かせない道具だ。
こいつが使い物にならなくなったら、あとは新聞にくるまって寝るしかなくなる。
 公園のベンチか、橋の下か……。どちらにしても、一種のプライドは捨てなきゃならなくなる。
 こんなところで一線を超えるなんてゴメンだ――それはバカもおんなじだったらしい。
 と言うか、こういうときばかり行動が早くて、俺があれこれと指示するより前に速攻でシュラフから這い出し、
外に停めてある自転車を廃屋の中へと運び込んでいた。

 自転車が濡れるのは構わないが、問題はむしろ俺たちのほう。
リアカーを収納しておくような廃屋に上等な床なんてあるわけもなく、
雑草で覆われた地面がモロに剥き出しになっている。
 侵入してくる雨水で靴がびしょ濡れになったら、足下から身体が冷えて風邪を引いてしまう。
路銀もないような旅先で病気に罹るのは、それこそ最悪の事態だった。
 自転車の座椅子に跨って、足下を流れる洪水から逃れようと言うのが、
俺たちの秘策…と言うか、精一杯の浅知恵だ。
 尻は痛くなるが、背に腹は代えられない。
 最悪の場合、朝までこのまま自転車の上に座り続けることになるだろうな。

(天罰ってものなのかも知れないな。みんなに迷惑をかけた俺たちへの……)

 山の天気は変わりやすいと言うが、何もこんなタイミングで振り出さなくたっていいだろうに。
 夜の雨ほど危険ものはないし、どうやら雨足のほうはどんどん強くなっているように思う。

 こういうときは、どの神人(カミンチュ)に文句を言ったら良いんだろうな。
 水を司るカトゥロワか、空のディーファなのか。
それとも、運を自在に操ると言うティビシ・ズゥを呪ってやれば、ムカッ腹も鎮まるんだろうか。
 ……俺たちを嘲笑うかのような神人に悪口の一つでも叩いてやりたくなったし、
そうでもしなければ、このイライラは解消出来ないんだろうが、
結局のところ、家族に心配を掛けたバカふたりに対するイシュタル様のお裁きと言うのが、
一番まともな落としどころなんだと思う。

 雨に降られたのは偶然――もしかすると、天の裁きと言うことで必然かも――だが、
トタン屋根の下で心細い思いをするのは、他の誰でもない自分たちの所為だった。

「かぁーっ……、急に降られて雨宿りなんざ、ラブコメの王道じゃねーか。
何が悲しくて、辛気臭いヤローと一緒にいなきゃならね〜んだよぉ」
「…………………」

 この期に及んで、隣の大バカ野郎はまだふざけたことを抜かしていやがる。
 もう我慢ならん。もう辛抱なんてしてやるもんか。

「――明日朝一番で引き返すぞ! 断る資格はお前にはないからな!?」

 雨の音でかき消えてしまわないように、大きな声で俺はそう告げた。
 いや、“告げた”なんて生温いもんじゃない。
有無を言わさない強い口調で、そう言いつけてやったんだ。

 今を逃したら、こいつを説得するチャンスはもう回ってこないとも思っていた。
 さっきの発言から事態(こと)の深刻さをどれだけ理解しているかは怪しいもんだが、
不意のアクシデントが堪えないわけがない。
このまま自転車の旅を続けるのは難しいと、バカなりに思い知った筈だ。

「計画も準備も、何から何まで足りなかったんだよ。
事前に提案を貰っていれば、それなりの支度は俺だって出来たし、……家族に心配かけずに済んだ。
旅に出る支度が何ひとつ揃っていない俺たちには、これ以上進むのは無理だ」

 だから、俺は一気に畳み掛けた。
 どうして旅の続行が不可能なのか、その理由を全部このバカに突きつけてやった。

 ……こいつだって、バカじゃない。
 いや、バカに違いはないんだが、頭の回転は人一倍早い。俺なんかよりずっと早いんだ。
 そんなヤツが、現実が見えていないわけがない。
 旅の続行が難しいことは、俺に言われるまでもなく絶対にわかっている筈なんだ。

「――ヤだね!」

 ……ところが、このバカは俺が思っていた以上にバカだったらしい。
 バカも、バカ。大バカ野郎だ。エンディニオンで一番のバカ野郎だ。

「雨が上がって朝になればまた漕ぎ出せるだろ? 諦めるなんてバカみてーだぜ。
いざとなったら、新聞紙を布団代わりにしたってオレは構わないぜ! 
駅とか公園のベンチで寝るのだってへっちゃらだい! 
案外、近くに住んでる人がメシを差し入れてくれるんじゃね? 一石二鳥じゃん!」
「……お前な、自分の言ってることが人として終わっているって、そろそろ気付よ」
「バッカ、お前、ハングリー精神って言えよ!」
「それは、お前みたいなバカが使っていい言葉じゃないぞ。思いっきり使い方を間違えてる」

 旅を終えることをコンマ一秒もなく拒否したかと思ったら、
テコでも動かないとばかりに強情を張り始めやがった。
 こうなると、もう誰の手にも終えなくなってしまう。

 自分で言い出した手前、引くに引けなくなっていると俺は考えていた。
見栄を張って、「やっぱ帰るか」と言い出せなくなっているんだって。
 助け船さえ出してやったら、きっと乗ってくるに違いない――
淡い期待なんてもんじゃなく絶対に上手くいくと確信があった……その筈だったんだ。

 結果はこのように惨敗も惨敗。
 俺も自分を過信していたかも知れないが、それにしてもヒドい結果になったものだ。
 何をそんなに意固地になっているのか知れないが、どうあっても引き返さないと言い張るこのバカは、
俺には「理由なき反抗」ってヤツにしか見えない。

 なんだ、思春期か? 思春期特有の反抗心と言うものなのか?
 意味不明な意地っ張りなんか、わかってやろうとも思わないが、
そんなもんに振り回されている俺の身にもなってくれないか。

「次があるだろ、次が。本気でエンディニオン一周をやりたいってんなら、今じゃなくたって良いだろう? 
しっかりと準備をしてから、もう一度、チャレンジしたらいい」

 本音を言えば、もう二度とバカげたことには付き合いたくないんだが、
そうでも言わなければ、きっとこいつは折れないだろう。
 甚だ不本意な口約束だが、今はこいつを宥めるのが先決だ。
 ぶっちゃけた話、ここを切り抜けられたら、後のことはどうにでもなる。
 とにもかくにも、頑なになってしまったこのバカを解きほぐしてやるのが、
今の俺には一番の急務だった。

 だからこそ「次」を餌にしてやったんだが、この作戦は大失敗だった。
 どこをどうしくじったのかは、正直、俺にもよくわからないが、
「次がある」と声を掛けた途端、こいつは血相を変えて睨みつけてきた。

「――次って、いつだよッ!?」

 口調からして俺が言った「次」に対する反発なのだが、
不思議なことにこいつの表情(かお)に怒りはなかった。
 きつい目で睨んできてはいるのだが、何故か、怒っているのではなく焦ったような顔なのだ。

 意固地になって「理由なき反抗」をしていたヤツの顔か、それが。
 俺より頭の良いヤツが言うことなのか、それが。
 何もかもが、支離滅裂じゃないか。

「次なんかないだろ!? 今しかないじゃねーか、チャンスなんて!」
「さっきから何をわけのわからないことを……」
「もういくつ寝ると、お前はどこに行く!? どこに行っちまうんだよッ!? 
アカデミーとか言う軍人サンのガッコに行ってよぉ……、どうせそれきりじゃねーか!」
「……はぁ?」
「なんだそのスカした顔? なんだそのスカした顔ッ! バカにしてんのか、お前ッ!?」
「バカにするまでもなく、お前は生まれたときからずっとバカだろうが。
今更、再確認する必要もないと思うんだが」
「くッあぁぁぁ――そーゆーのが、てめえ、バカにしてるって言ってんだよッ! 
そうやって裁判所でも犯人をバカにしていやがれ!」
「犯人? バカか、お前は。法廷では被告人と呼ぶんだ。そもそもシェリフ(保安官)だって犯人とは呼ばない。
容疑者、重要参考人とだな……」
「うるせぇ! うるせぇッ! うるッせェッ!! お前なんか、とっとと出ていっちまえばいいんだよッ! 
オレのことなんか忘れてよ……ッ!」
「クラップ……?」
「もう帰ってこねーだろ、弁護士サマはよぉッ! あんなヘンピな田舎なんかにィッ!」
「………………」
「都会にでも行って、それきりじゃねーかッ! どうせ、そうなんだろ、このゴミ溜めッ! 
……だから、オレは……」

 さっきので火が点いたのか、マシンガンのような早口でそんなことを捲し立ててきた。
 よくよく注意していなければ聞き漏らしてしまうところだが、
そこには俺の言った「次」への反発と、「次なんかない」と旅を急ぐワケが確かに含まれていた。
 双方の理由が、俺に向かって食いついてきたと言っても良いだろう。

 このバカが……クラップが何を考え、どう思って、意味不明な強情を張っていたのか、
ようやく俺も腑に落ちた。

 ……腑に落ちたからこそ、俺はクラップごとの自転車を蹴倒したんだ。

「――って、ちょっと待てぃッ!? いくらなんでもそのツッコミはねぇだろ!? 
今のはお前、涙ながらに友情を確かめ合うとか、そーゆーシチュエーションじゃねーのかよッ!?」

 足下を流れる洪水に飲まれて濡れネズミになっても、バカはバカらしくやかましい。
 ブリッジでもするかのように上半身を反り返らせて、
ピーチクパーチクと抗議にもなっていない抗議を並べてている。

 ……本当、勘弁して欲しいもんだ。
 こんなもんに振り回されていたとは、自分が情けなくて仕方がない。
 気が重いのはグリーニャに帰ってからだ。
 コレを村のみんなに説明しなくちゃならないなんて、その光景を考えただけで吐き気がする。

「そうだな――四月になったら俺はアカデミーに入学する。……しかし、それだけのことだろう?」

 ――そう。俺はもうじきアカデミーに進学する。
 ルナゲイトの御老公のお陰で、進学する目処が立ったところだ。
 軍人サンのガッコ…つまり、進学先は士官学校と言うことになる。
 と言っても、別に軍人を目指すつもりは毛ほどもない。
 最大の目的は、弁護士バッジを手に入れることだ。

 軍法会議と言うものが軍隊の世界にはある。軍のルールを破った人間がかけられる裁判のことだ。軍事裁判と呼ぶ場合もあるな。
 そうした事態に対応できる軍人を育てる為、士官学校では弁護士資格の取得も奨励していると言う。

 俺は、そこに賭けようと決めたんだ。
 ……うちのように小さな電器屋が工面できる学費でも弁護士の資格を取得し得る、
唯一のチャンスだとも思っている。
 高名な大学やロースクールに通わなくても良い。最小限の学費で弁護士を目指せる場所だって。

 アカデミーは全寮制になるから、親元を離れて暮らすことになるが、そんなのは大した苦ではない。
 身の回りのことを自分で全部やらなきゃならなくなるが、それがどうしたって言うんだ。
 ――小さな頃からの夢に、ようやく手が届こうとしているんだ。
 全寮制なんて、苦労のうちにも入らない。

「……で、俺が全寮制の学校に行ってしまうのが寂しくて仕方なかったと言うわけだ、お前は」
「なッ、ばっ、ばば…バカ言うなよ。オレがなんでそんな気色悪ィこと――」
「うるさい、黙れ」

 ……理解不能だった行動の種明かしはされたが、
なんてことはない、単なるバカの一人走りだった。
 どうしようもない妄想のなれの果てと言ってもいいだろうな。

 大方、俺が全寮制のアカデミーへ出発する前に、
ふたりだけの想い出みたいなもんを作ろうとでも考えたんだろうが、冗談ではなく良い迷惑だ。
 本当の本当に迷惑以外の何物でもない。
 シェインにでも知られたら、それこそ末代までコレで冷やかされ続けるぞ。

(『時間がもったいない』ってのも、そうか、俺が――)

 引き起こした自転車へ跨ろうとした瞬間、もう一度、バカを蹴倒してやったが、
盛大な水音と悲鳴を聴いても、腹いせにすらならなかった。
 身体張ってウケを取るキャラなんだから、こんなときこそ本領を発揮してみせろ。
 足りないヤツめ。

「てめ…、おいッ! アルッ!! 何度も何度もコカしやがって……! お前、バカじゃねーのッ!?」
「バカはお前だ。無意味に先走りやがって。都会で弁護士を開業すると俺が一度でも言ったか?」
「だって、弁護士って言ったらなぁッ!」
「だから、それはお前の勝手なイメージだ。好きな仕事に就いたら故郷を捨てる? 
……いつの時代の発想だよ。田舎者の中の田舎者だな、お前」
「じゃあ、おい!? “次”があるって、マジで約束できんのか!? トンボ帰りするってェ!?」
「当たり前だろ。弁護士の資格が取れても取れなくても、
アカデミーを卒業したらグリーニャに帰るつもりだよ」
「――へっ!?」

 ……ものの見事にポカンとされちまったよ。
 俺がこんな風に思っているなんて、このバカ、想像もしていなかったと見える。
 俺のことを故郷を見捨てる薄情者みたいに言っていたが、それはどっちなんだ、一体。

「お前、弁護士がどういうことをする職業か、わかってないだろ」
「殺人事件の犯に――被告を裁判所で助けたり…とか?」
「それもある。だが、刑事事件だけが弁護士の仕事じゃない。民事の案件なんてどこにでも転がっているんだ。
裁判だけが仕事じゃないぞ。法律に則って民間のトラブルを解決することのほうがずっと多い。
普通のビジネスにも法律の相談は欠かせないからな」
「で、でもよ、そう言う仕事だってお都会(まち)のほうがやっぱし多いんだろ……」
「かもな」
「だったら、やっぱり――」

 必死の形相で食いついてくるバカを相手にした所為か、どうにも背中が痒くて仕方ない。
 本当に、こいつは薄情者だ。

「――『やっぱり』? 仕事の多い都会を選ぶと言うのか?」
「それが仕事だろ? いっぱい稼げるほうがいいじゃんか」
「……俺はな、クラップ。『弁護士になりたい』のであって、弁護士の仕事で稼ぎたいわけじゃない」
「………………」
「『弁護士』の仕事は、どこにでも転がっている。誰の力にもなれる。……俺にはそれだけで十分だ」

 納得したような、そうでないような――とにかくポカンとしているクラップの首に腕を回し、
そのままふたり一緒に洪水の中へダイブしてやった。
 ズブ濡れになった俺たちの後ろでは、二台の自転車が折り重なるようにして倒れたが、
今となっては知ったこっちゃない。何がどう濡れたって、全部おそろいってコトで話がつく。

 ……『風邪を引くのは最悪だ』って、あれだけ気を配っていたのは、全くどこのどいつだろうな。
 シュラフだって乾かすまで使い物にならないだろうに、弱ったもんだ。

「故郷って、そういうもんだろ」
「………………」

 “次”があるのか、それともないのか。
 そんなことをいちいちウジウジ考えているヤツなんて、あんまりいないと思うんだ。

 俺は、もうすぐグリーニャを出発してアカデミーに入学する。
 全寮制の学校だから、故郷から離れて暮らすことになる。
 だからと言って、「次に帰れるのは何時だろう」なんて考えることはないハズだ。
 意識なんてしなくても、いつか必ず帰る場所――それが故郷だって、俺は思っている。

 いつまでも傍にあるものへ『次』を求めるのは、それこそ弁護士の仕事の在処を問うのと何ら変わらない。
 全く建設的じゃないし、バカバカしいにも程がある。

「――そっか、そっか。アルってば、やぁっぱりオレがいなくちゃダメなんだな♪」
「……待て、どうしてそうなる。逆だろ。いや、逆でも気色悪いが」
「だってそ〜だろ? オレんとこにIターンしてくれるなんてよ、愛を感じるぜぇ〜♪」
「いい加減にしろよ、お前。脳にカビでも生えてるだろ、絶対」

 もう一発、今度は鼻っ柱へ蹴りを叩き込んでやったが、
このバカ、痛がるどころか鼻血をダラダラ垂らしながら大笑いしていやがる。
 いや、そもそも笑っていられるような状況ではないだろうが。
 少しは反省しろ。たくさんの人に迷惑を掛けていることを自覚しろ、バカめ。

「なにニヤけてんだよ?」
「ニヤけているのは、お前のほうだろうが」
「ケッケッケ――強情張るんなら、自転車のミラーで自分の顔、見てみろよ」
「……うるさい、黙れ」

 夜が明けて、雨が上がって――そのあとのことを考えただけで、……本当に頭が重くなる。




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