佐志には、「除夜の鐘」と言う独特の風習がある。
 一年の終わりと始まりに青銅の鐘を打ち鳴らし続け、この音色によって人間の煩悩を退散させると言うのだ。
 深夜零時を回る前に百と七回、年を越した直後に最後の一衝きを入れるのだと、
守孝は他の地方より身を寄せている人々へ熱心に説明していた。
 今も、耳に、そして、腹に響くような鐘の音が、佐志の町を駆け抜けている。
 一年の最後は、家族揃って過ごすのが一番である、とも守孝は付け加えている。
皆でその年にあったことを振り返り、来年はもっと良い一年になるようにと語らうのだ。
 除夜の鐘の風習はともかくとして、一年最後の日の過ごし方は、シェインにもわかっている。
 彼が一年の最後を過ごすのは、もっぱらライアン家である。
 アルフレッドやフィーナたちと年越しそばを食べながら
紅白ふたつのチームに分かれて歌唱力を競い合う大型テレビ番組を観る――
これぞシェインが思い描く、一年の総仕上げであった。

「……なのに、なんでこんなことになっちゃうのかねぇ〜」

 そのイメージが強いだけに、現在自分の置かれた状況がシェインにはどうにも受け入れがたいのだ。
 プレハブ小屋に何も不満はない。僅かばかり狭さを感じる間取りにも不服など持ち得ない。
それどころか、暖房機能まで整えてもらったことに感謝するばかりである。
 問題は、居を同じくする人間にあった。

「あァッ!? てめぇ、今、溜め息吐きやがったな、オラァッ!? ナメたことしてっと、冬空に放り出すぞッ!?」

 除夜の鐘をかき消すほどの大きながなり声を上げるのは、
その粗暴な口ぶりからも察せられるようにフツノミタマである。
 猛々しい怒声とは裏腹に、これもまた佐志の伝統だと言う割烹着に身を包む彼は、
現在、台所にてぐらぐらと煮立った鍋と格闘していた。
 コンロでは、ふたつの鍋が仲良く並んで火に掛けられている。
 右の鍋では、守孝が打ったばかりの生蕎麦が泳ぎ、
もう片方の鍋では、カラメルよりなお濃い黒色の蕎麦つゆが、
麺を迎えるその瞬間を今や遅しと待ち侘びていた。
 醤油と鰹出汁の良い匂いが、鼻と食欲とをくすぐってくれる。
 あと二十分もすれば日付も変わる。健康にはあまりよろしくないのだが、
胃袋が食べ物を求める時間帯でもあった。
  左腕を包帯で吊っている為、自由が利くのは右手一本なのだが、
そこはフツノミタマ、蕎麦を泳がせる菜箸を器用に使いこなしている。
 野郎ふたりの侘びしい年越しに溜め息を吐くシェインは、
彼とともに台所に立ち、長葱を刻んでいた。
 長葱を受け止めるまな板の隣には、冷水で満たされたガラス製のボウルが置いてある。
 やや硬い内に蕎麦を鍋から取り上げたフツノミタマは、すぐさまつゆとは絡めず、
一度、麺を冷水へと移した。
 身を引き締め、また生蕎麦独特のぬめりを取ろうと言うのだ。
 数秒をカウントした後、取っ手が付いた縦長のザル――所謂、“玉あげ”でもって十分に水を切ったフツノミタマは、
このまま食べても美味そうな生蕎麦を黒々としたつゆの中へと改めて投じた。
 つゆとの邂逅を果たした生蕎麦を一本ばかり味見し、会心の出来栄えに「出来上がりだ、オラァッ!」と唸ったフツノミタマは、
ふたり分のどんぶりへ蕎麦とつゆとを分けて移していく。
 そこにシェインが刻み葱を振りかければ、年越し蕎麦の完成である。

「天ぷらは無ぇが、文句なんか言うんじゃねぇぞ!?」
「ンなこと、誰も、一言も言ってないだろ……」

 簡易式の電気こたつに蕎麦と茶を運び、向かい合わせに座ったふたりは、
どちらともなく「一年間、ご苦労さんでした」と一年の労を互いにねぎらった。
 妙なところで相通じているのか、それともシェインがフツノミタマの色に染まりつつあるのか、
どんぶりを手に取るタイミングまで、ふたりは一緒だった。
 狂犬のような見た目や言行に反して器用なだけに、フツノミタマが茹で上げた麺は、
それこそ食堂で出される物と遜色がない。守孝の打った生蕎麦の旨味を完全に引き出していた。
 ……ただし、つゆの味付けは、“男の料理”。彼の好みなのか、濃い味である。
 だからと言って、箸が止まるようなことはなく、守孝の生蕎麦とも確実にマッチはしているのだ。
 ライアン家の年越し蕎麦は、毎年、ルノアリーナがつゆを担当している為、
繊細にして奥行きのある味わいがあった。
 それに対し、フツノミタマが味付けをしたつゆは、良い意味で大雑把。
例えるのが難しいのだが、味覚を乱暴に刺激するような美味さなのだ。
 それは、シェインが初めて体験する味であった。
そして、どうやら彼の口には、繊細な奥行きよりも無骨な味付けのほうが合うらしい。
 ある意味でフツノミタマにしてやられた――その事実を素直に認めるのがどうにも悔しいシェインは、
胸中にて「健康に悪いもんは、大抵、味付けが濃いもんな。早死にしちまうぜ」と悪態を吐いたが、
如何せん二杯目に突入した彼には何の説得力もない。
 自分がシェインの胃袋を掴んだ事実など知るよしもないフツノミタマは、
テレビから垂れ流されるバラエティー番組をぼんやりと眺めていた。

「コレ、面白ぇな。一回笑うごとに一発ケツを引っぱたくってルールよ、うちでもやるか」
「ヤだよ、そんな落ち着かない家っ! そんなことやったら、家出してやるからなっ!」

 番組の内容に触発されたらしいフツノミタマから冗談めいた提案を投げられたシェインは、
即座に厳しい口調で拒否したものの、その表情(かお)は柔らかい。
 些細なことで笑ってしまい、たった一日で足腰立たなくなるまで尻を叩かれるフツノミタマでも想像したのか、
テレビから聞こえてくるコメディアンの悲鳴と呼応するようにして、
シェインは腹を抱えて笑い出した。
 何をそんなに爆笑することがあったのかと、シェインの様子を、小首を傾げて訝っていたフツノミタマだったが、
それも最初のうちだけで、やがて彼自身も釣られるようにして相好を崩した。

 生活に必要な物以外には殆ど何も置かれていない殺風景な部屋――人はそれを男所帯とも言う――ではあるが、
それにも関わらず愉しげな笑い声が生み出されるのは、
おそらく除夜の鐘によって浄化される類の煩悩が極めて薄いからだろう。
 これが、ライアン家であれば大変だ。
 フィーナが身の裡に宿した煩悩の数は、百八回の鐘撞きなどでは到底足りるまい。
アルフレッドもアルフレッドで、フィーナとは別の煩悩を宿している。
 カッツェのブルーベリー信奉を煩悩に数えて良いのか否かは、判断に迷うところだが、
そうしたモノがシェインとフツノミタマの住まいには殆ど見られないのだ。
 自分から進んで食事の後片付けをすると申し出るシェインも、
そんな彼の為に何も言わず茶を淹れるフツノミタマも、
世に言う煩悩とは全く無縁のように思えてならなかった。

 一年最後の瞬間は、刻々と近付きつつある。
 食器を洗い終え、フツノミタマが淹れて茶で身心を温めたシェインは、
次いでテレビの電源を消し、ハンガーに掛けてある厚手のコートへと手を伸ばした。
 フツノミタマもまた防寒用の外套を身に纏おうとしている。

「二年参りって、どーゆーモンなのかな? グリーニャにはなかったもん」
「オレの地元にだってねぇよ。行ってみりゃ、わかるんじゃねぇの?」
「下調べしてないの? オヤジのほうから行ってみようっつったんじゃん!」
「るせぇな、ガタガタと。ンなもん、下調べするほうが無粋だぜ。
楽しいってことを楽しむだとかウンタラカンタラと、てめぇ、いつも言ってるだろうが」
「それ、使い方まで全部間違ってるんだけど……」
「だから、細かいコトを気にすんなっつってんだろうが! とっとと出かけるぞ」
「へいへい」

 今もまだ除夜の鐘は鳴り響いている。
 煩悩を取り除く音色は、海と町とを一望できる丘の上の慰霊碑へ向かう大小ふたつの影にも舞い降りている。

「来年は、どんなもんがオレらを待ってんだろうな。今年以上にデケェ殺し合いかぁ?」
「一年のラストに血腥い話をすんじゃないっての」
「ガキと違って大人は考えなきゃならねぇことが山ほどあんだよ」
「自分で言ったばかりじゃん? 『行ってみりゃ、わかる』ってさ。行けば、わかるさ。
わかんなくなったら、自分で道を作ったらいいんじゃないかな」
「……ケッ、生意気(ナマ)言いやがる。そこまで吹くなら、とっとと一人前になりやがれ」

 軽口を叩き合って笑うふたつの影には、やはり煩悩が入り込む余地はなさそうだった。




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