「――仕方ないわねぇ。今日はあたしが晩メシを作るわ」

 「その一言が悲劇の始まりだった」と後になってトルーポは述懐するのだが、
このときはまだ我が身に降りかかる災難を予想だにしていなかった。
 挙手までして立候補したのは、ピナフォアである。
 彼女の料理の腕前は、トルーポのみならず居合わせたラドクリフも周知のこと。
互いの顔を見合わせたふたりは、早くも頬から血の気が失せている。
 世界最強の馬軍とまで謳われるテムグ・テングリ群狼領であるが、
実はエルンストの一極支配ではなく、幾つかの氏族が母体になっている事実はあまり知られていない。
 実質的にエルンストのカリスマ性によって率いられている為、
一極支配と言っても過言ではないのだが、それも氏族の連合と言う土台の上に成り立っていた。
 ピナフォアが生まれ育ったドレッドノート家は、その氏族の中でもとびきりの名家。
言わば、彼女は令嬢と言うことになる。
 無論、馬軍の娘であるからには「深窓の令嬢」と言うわけにはいかない。
名門に相応しい将士となるべく幼少の頃から徹底的英才教育を受けてきたのだ。
 十数年の生涯の中で彼女が培ってきたのは、戦(いくさ)、ただ一つである。

 戦以外のことを犠牲にして己の技を磨き上げたピナフォアは、長じて一門を代表する姫将軍となったのだが、
翻せば、料理や掃除、洗濯に裁縫と言った日常的な動作が、からきしダメと言うことに他ならない。
 この立派な姫将軍の料理がどれほどの腕前であるかは、
トルーポとラドクリフのリアクションを見れば一目瞭然であろう。
トルーポに至っては冷や汗まで滲ませつつある。
 普段であれば、このように失礼な態度を見せようものなら鉄拳制裁が振り落とされるところだが、
革鎧からエプロンへいそいそと着替えているピナフォアの目には、既に回りの情報は入っておらず、
ふたりとも九死に一生を得た次第である。
 ……尤も、これから間もなく七転八倒の状態へと陥るわけだが。

 本来、この日の夕食はラドクリフの担当であった。
 幼い頃から炊事に慣れている彼の料理は、いずれもプロのシェフが裸足で逃げ出すレベル。
夕飯にクリームシチューを作ると聞いたトルーポは、思わず舌なめずりをした程である。
 ところが、当のラドクリフが昼間の戦闘にて右手の甲を貫通すると言う重傷を負ってしまい、
料理などしていられなくなってしまったのだ。
 バッファロー型のクリッターの突撃をかわし切れず、猛々しい角でもって貫かれたこともあり、
ラドクリフの怪我は決して浅くはない。それでもなお分担された仕事をこなそうとする彼を
トルーポは力ずくで押し止めたばかりだった。
 幸いにして、非常食用のレトルトカレーがある。今夜のところは、それで我慢しよう――
そう思った矢先にピナフォアの立候補である。
 何をどう間違えたのか、タワシをコロッケ風に揚げてしまったり、
牛革の財布をステーキとして焼いてしまうなどピナフォアは数々の輝かしい戦歴を持っている。
常人には理解しがたいセンスの持ち主を炊事場に近づけてはならないと言うのが、
ゼラール軍団の不文律であった。
 何かと理由をつけ、ときに人海戦術――軍団員総出で壁を作るのだ――まで駆使して
ピナフォアに調理器具を持たせないようにしてきたのだが、
今日に限ってトルーポ、ラドクリフ、ピナフォアの三人だけの別行動。
 人海戦術には頼れず、それどころか既にピナフォアは鍋を火に掛けてさえいる。
自分がやると言って封じ込めれば良かったのだが、トルーポのその閃きは、
どうやら遅きに失したようだ。

「これで女らしさが増すってんなら、……良い兆候と言えるんかねェ」

 ゼラール軍団に参加した頃のピナフォアは、料理に興味を持つどころか、
テムグ・テングリ群狼領より引き連れてきた配下に何もかも丸投げしていたくらいである。
 炊事や化粧に興味を持ち始めたのは、ごく最近のことなのだが、
こうした変化は、やはりゼラールへの思慕が影響しているのだろう。
 彼女の心情を思うと、兄貴肌のトルーポも無碍には出来ず、顔を顰めながらも炊事を彼女に譲るしかなかった。
 兄貴肌どころか、普段からゼラールの寵愛を巡ってピナフォアと相争っているラドクリフには、
これは大変な迷惑である。

「女らしさに磨きって……。あの人にそんなものを求めてどうするんですか。
知ってるでしょう、あの人の料理の腕は。と言うか、あれは料理とも呼べない物体なんですけど」
「練習すれば変わる……んじゃねぇかな?」
「あの人に練習させたらどうなると思います? 劇物が毒物に変わるだけですよ? 何を期待しているんですか。
……いや、本当、トルーポさんは何を期待しているんです?」
「……なんだよ、そのジト目は」
「妙な期待をしているなら、お早めにどうぞ。とっとと引き取っていってくださいよ」
「引き取るだぁ? ……お前は、なんだ、うちを離婚の危機に追い詰めてぇのか」
「だって、そう言う風に聞こえるじゃないですか。奥さんだって、絶対疑ってますよ、浮気を」
「うちはラブラブだから、そんなことはありえね〜んだよ!」

 あらぬ疑いをかけられたトルーポは、げんなりした顔で「引き取るっつっても、せいぜいペットだ、ペット」と、
ラドクリフに負けないくらい失礼なことを口走ってしまい、思わず自分の口を両手で押さえた。
 万が一にもピナフォアに聴かれたなら、どのような罵詈雑言を浴びせられるか知れなかった。
 ピナフォアの鼻歌が途絶され、鬼の形相が沸騰する鍋の湯へ映し出されることを想像したトルーポは、
戦々恐々と彼女の様子を窺ったが、どうやら先程と同じく杞憂に終わったようだ。
 ピナフォアの顔面が歪むことはなく、愉しげな鼻歌も継続されている。
トルーポの悪態は彼女の耳には届かなかったようである。

 ホッと一息ついたトルーポは、ふとピナフォアがレトルト食品を手に取っているのを確かめ、
ラドクリフの脇腹を肘で小突いて、「……命拾いとはこのことだ」と耳打ちした。
 いくらピナフォアでも温めるだけのレトルト食品を毒劇物に変身させることはないだろう。
 ラドクリフはなおも「あの人のことだから、何らかのミラクルを起こしかねない」と半信半疑だが、
さすがにそれは考え過ぎだろうとトルーポは苦笑いを浮かべる。

「切って焼いて煮るわけでもねぇのに、それで芸術的な爆発をするっつーなら、
劇物でも毒物でも鼻から食ってやるぜ」
「……トルーポさんはピナフォアさんを侮ってますよ」

 ピナフォアへの疑念に揺らぎのないラドクリフに肩を竦めるトルーポであったが、
彼の苦笑いも次の瞬間には凍り付くことになる。
 暖まったレトルトパックの一つを鍋から取り出したピナフォアは、
それをガラス製のボウルの中へ移すと、間髪入れずに次のパックへと手を伸ばした。
 パックの封を切ったピナフォアは、一瞬の躊躇もなく同じボウルへ中身を移していく。
 レトルトの中身が同じであれば、トルーポの顔が引き攣ることもなかったのだが、
最初にボウルへ投下されたのはオートミール、その上に降り注いだのはチキンカレーである。
 間違っても混ぜてはいけない――と言うよりも、そもそも種類の違うレトルト食品を
同じボウルへ移すこと自体が、常人には理解の及ばない領域である。
 唖然としているトルーポと、やはりやったかと肩を落とすラドクリフの目の前で、
ピナフォアは鼻歌交じりに最後のレトルトパックを封切った。
 オートミールとチキンカレーが奇跡的なコラボレーションを起こす可能性も一応は残されていたのだが、
彼女が最後のパックを開けた段階で全ての望みは絶たれたと言えよう。
 三つ目のレトルト食品は、トムヤムクンである。
 補足情報となるが、これらのレトルト食品は、本来ならば各人に一つずつ割り当てられるもおだったのだ。
 トルーポはチキンカレーを、ラドクリフはオートミールを、ピナフォアはトムヤムクンを、
それぞれ食べる筈だったのだ――が、常人離れした天才は、やはり発想が違う。
 違うどころか、別次元と言っても差し支えはあるまい。

「ま、待て、ピナフォア。お前、何を……」
「――ビタミンも摂らなきゃダメよね」

 言うや否や、ボウルの中身をスプーンでかき混ぜたピナフォアは、
トドメもとい隠し味とばかりに大量のレモンを絞り、これを三人分の食器へと盛りつけた。
 なお、最終段階の盛りつけに至るまで彼女は一度たりとも味見をしていない。
味見もしていないのに、彼女は「今日も大成功。あんたら、感謝して食いなさいよ」と胸を叩いている。
 仮に丸皿の内側から漂ってくる香りが胃を刺激するものであったなら、
実際の味はともかく騙されたかもしれないのだが、いかんせんトルーポたちに纏わりつく異臭(におい)は、
胃ではなく鼻の粘膜を直撃するばかり。
 刺激は刺激でも、この場に垂れ込めたものは刺激臭の類であった。

「なによ? なにバカヅラ引っ提げて固まってんのよ。冷めない内に食いなさいよ」
「………………」
「切って焼いて煮るわけでもないのに芸術品が誕生しましたね」
「――んっ? なんか言った?」
「別になんでもないですよ。ええ、なんでもありません」
「………………」

 一言も発せられなくなったラドクリフは、同じように硬直しているトルーポの脇腹を肘で小突くと、
溜め息混じりにピナフォアへと語りかけた。

「ピナフォアさんへの感謝の気持ちとして、トルーポさんが余興を披露してくれるそうですよ」




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