仕事にせよ、趣味のことにせよ、何事も許容範囲を超えるほどやり過ぎてはいけない。 オーバーワークは過労の原因であるし、ストレスを発散する為にあるべき趣味でさえ、 行き過ぎれば身の破滅を招くのである。 破滅型の好例は、とにかく金の掛かる趣味を持ったアルフレッドだ。 彼はシルバーアクセサリーのコレクションに大枚を叩いた挙句、貯金まで切り崩すようになり、 ついにはフィーナから大目玉を食らった経験がある。 かく言うフィーナも“趣味”が高じて、色々と手酷い――手遅れとも言えよう――醜態を晒し続けている為、 本来ならば、アルフレッドに説教する資格はない筈だが、それはまた別問題であるようだ。 勿論、フィーナの趣味も破滅型の一例に数えて差し支えはあるまい。 先に挙げた二例は、どちらも性根が腐りかけていると言えるのだが、共通するのは「行き過ぎた点」である。 生活に影響が及ぶほど過剰にさえならなければ、コレクションと言う趣味は、むしろ高尚と言っても良い。 朴念仁、不感症、「頭が良いように見えて実は脳の回転が止まっている」などと さんざんな陰口を叩かれるアルフレッドだが、シルバーアクセサリーに関しては、 銀の細工師にまで細かなこだわりを持つほど造詣が深い。 まだ出会って間もなかった頃、ニコラスがアルフレッドに趣味の話を振ったことがある。 まず自分のほうからオフロード走行と趣味を紹介し、胸襟を開いた上でアルフレッドを話題に誘ったのだが、 結局はこれが大失敗。二時間休みもなければ途切れる間もないアルフレッドの独壇場へ付き合う羽目に陥ったのだ。 ほんの世間話程度のつもりだったニコラスは、アルフレッドが嬉々として語るディープな講釈に随いていけなくなり、 たまりかねてフィーナに助けを求めたこともある。 自分の趣味を語るときだけ饒舌になる迷惑な男へ律儀に耳を傾ける内に、 ニコラスはBのエンディニオンのシルバーアクセサリーに詳しくなり、 今ではアルフレッドとの会話が以前にも増して弾むようになっている。これこそ怪我の功名と言うものであろう。 そのニコラスは、アルフレッドとローガンのトレーニングを見学しようとオノコロ原、 すなわち佐志の背骨とも言うべき山間の平原へと繰り出し、 そこで改めて「行き過ぎた趣味」の危うさを体験することになった。 ギルガメシュから再び佐志へと戻ったニコラスの監視役は、彼とは浅からぬ縁のあるヒューが担っている。 それどころか、ニコラスはヒューの家、つまり、ピンカートン一家が住まいとする仮設住宅に身を寄せていた。 グリーニャの戦災者やマコシカの疎開者の為に源八郎が腕を振るった仮設住宅は、 設備そのものは極めて優れているものの、長屋状態で密集していることもあり、 一戸ごとはコンパクトにならざるを得ない。大人数を限られた区画内へ収容するには、 作り手の妥協と居住者の譲歩がどうしても必要なのだ。 ピンカートン一家に割り当てられたのは世帯用の住宅で、 単身用よりも遥かに広いとは雖も三人で暮らすにはやはり狭い。 さりとて文句などあるわけもなく、ヒューは愛する者たちと身を寄せ合い、 仕事を理由に疎かにしがちであった家族との時間を満喫していた。 その幸せをブチ壊しにしたのが、ニコラスと言うわけだ。 監視役の責任として彼の身柄を預かるだけならば、過剰なほどにフラストレーションが溜まることはない。 しかし、四六時中、愛娘とニコラスが睦まじく触れ合う様を見せ付けられたなら、どうだろうか。 精神的な苦痛はマッハのスピードで跳ね上がることだろう。 おまけに愛妻のレイチェルは気早にもニコラスを娘婿のように扱っており、家族に味方などひとりもいない。 幸せな団欒から一転、孤立無援の生き地獄に陥れられた状態である。 お父さんならではのストレスが深く重く蓄積されていったのは、想像に難くない。 ニコラスに随行してオノコロ原にやって来たとき、ヒューの鬱憤は爆発寸前であった。 そんなときに血沸き肉躍る格闘と接したなら、振り抜かれる拳に、轟音を奏でる脚に、 ストレス発散の期待を求めたとしても誰が責められるだろうか。 これから先のギルガメシュとの戦いの為、アルフレッドやローガンの技術を研究しようと意気込んでいたニコラスは、 真隣にて雄叫びを上げたヒューが、続けざまに繋いだ二の句の意味を最初は理解できなかった。 邪魔をしないと言う約束でトレーニングの見学を許されたにも関わらず、 このパイナップル頭は、あろうことか「俺っちも混ぜてくれや」と言い出したのだ。 当然、模擬戦を邪魔されたアルフレッドはお冠である。些か神経質なところのある銀髪の青年にとっては、 集中を断ち切られることが何よりも不愉快なのだ。 「煩い、黙れ。約束が違うだろうが。ラス、お前も聞いていたよな?」 「そこでオレに振るなよ。……確かに手ェ出さねぇって約束したけどよォ――」 「邪魔しねぇって約束したのはコイツだろ? 俺っちには、ンな話、関係ねぇもん。所謂一つの飛び入りってヤツさ。 乱入選手はルールなんて知ったこっちゃねぇんだぜ?」 「そんなトンチが通用すると思っているのか。冗談は髪型だけにしろ」 アルフレッドは不満も露にヒューの挙手を冷たくあしらおうとしたが、 彼と模擬戦を繰り広げていたローガン当人はそれを押し止め、 あろうことか、「ワイと戦りたいんなら、別にええよ」と気安く応じてしまったのである。 彼の弟子が銀髪を振り乱しながら猛抗議したのは言うまでもない。 昨日より一歩でも強くなることを望み、トレーニングに精を出していると言うのに、 師匠のほうからあっさりとそれを断ち切ってしまったのだ。 精神を統一して模擬戦へ臨んでいただけに反発がとにかく大きかった。 「おい、本気でヒューと闘うつもりか? こっちはようやく身体が温まってきたんだぞ。 ここで交代させられては、たまったもんじゃない」 「ンなギッチギチに根を詰めたって、なんも身に付かへんで? そこがお前の悪いクセや」 「尤もらしいことを言って誤魔化すな。始めて一〇分も経っていないだろうが」 「人のバトルを見て研究するのも大事な稽古っちゅーこっちゃ。そいつはお前も足りてへんのとちゃうか?」 「以前からそう思っていたが、やはりお前は阿呆だ。誤魔化せると思ったのか、そんな言い訳で。 いいから続きをしろ、ローガン。……師匠なら責任持って弟子の面倒を見ろよ」 「弟子は師匠の言うことを聞くもんやで」 不満たっぷりに喚き散らすアルフレッドを半ば強制的に下がらせたローガンは、 手首や拳を鳴らしながらやって来るヒューを満面の笑みで迎えた。 自分の闘いを目に焼き付けておくべしとアルフレッドに命じる姿は、 一見すると理想の師匠のように見えなくもないが、白い歯を剥き出しつつヒューと拳を突き合わせたあたり、 それらが方便であったことは明白である。どう考えても、規範を示す為にヒューと対峙したわけではなさそうだ。 良く言えば単純明快、悪く言えば考えナシと言うローガンの心中などアルフレッドにはお見通しである。 だからこそ、彼は眉間に刻まれる皺の数をセーブし切れなかった。 迫り出した岩の上にはタオルやスポーツドリンクを用意してあるが、 大して身体を動かしてもいない内にヒューと交代させられてしまった為、これらを使う必要もない。 本格的に手持ち無沙汰になってしまったアルフレッドは、眉毛をハの字にして出迎えたニコラスへ 「お前の義父は、いつでも誰にでも迷惑を振り撒くな。お前のほうからもきつく言っておいてくれ」と 溜め息混じりに言い付けた。 そうは言われても、ニコラス当人もヒューには大いに手を焼いているのだ。 トレーニングへ乱入しようとしたヒューの言い分をアルフレッドはトンチの一言で切り捨てたが、 これはニコラスとて全く同意するところである。 ローガンと同じくらい好き放題に生きているヒューに代わってアルフレッドへ頭を下げたニコラスは、 パイナップル頭の“義父”――マコシカの疎開者たちには、早くもそのように認識されている――の耳へ入らないように 「ホント、オトナになって欲しいもんだぜ。これじゃ子どものお守りだ」とこっそり毒づいた。 「でも、こんなとこで道草食ってて良いんかなぁ。ヒューさん、レイチェルさんに買い物頼まれてたんだぜ? 夕飯の材料をひとっ走り買ってこいってさ」 「……お前ん家、今夜はさぞ大変だろうな。食事が不味くなるのは覚悟したほうが良い」 「二日に一度はギャーギャーやり合ってんだ。良い加減、オレだって慣れたさ」 「随分と逞しくなったな、ムコ殿」 「ミストなんかもっと逞しいぜ? 両親のケンカで箸を動かすリズムを取るなんて、 さすがにオレだって真似できねぇよ。なんかの拍子で物が散らかるとするだろ? ミストのヤツ、パッパと片付けちまうんだ。あーゆーのも場慣れって言うんだろうな」 「我が家には有り得ない光景だな。まず父さんが母さんの尻に敷かれているからケンカは起こりようもない」 「……マジ? 言っちゃ悪ィけど、すっげぇ強面じゃん、お前ンとこのオヤジさん」 「見掛け倒しだ。ゴキブリが出たときに真っ先に腰を抜かすくらい肝が小さい」 愚にも付かない世間話に興じるアルフレッドとニコラスだったが、 いざローガンとヒューが組み合い始めると、全く言葉を失って両者の格闘に引き付けられた。 ホウライの使い手と名探偵の模擬戦は、アルフレッドが想像していたよりも遥かに次元が高く、 確かに学ぶべきことの多いものであった。ニコラスに至っては、目を丸くしてヒューの技量に見入っている。 ヒューが強いことは、アルフレッドもニコラスも既に知っている。 かつて軍隊に所属していたと言うこともあり、身に着けた格闘術はアルフレッドのそれに近い。 ただし、あくまで「近い」だけだ。幼い頃から修練を積んだカンフーが下地であり、 またローガンとのトレーニングを通じてラフな戦法をも体得したアルフレッドのほうが幾分柔軟性に富んでいた。 アルフレッドに言わせると、ヒューの技術はマニュアル寄りであった。 教練で学んだ通りの技術を臨機応変に使いこなしていると言う。 精密ではあるが、半面で“遊び”がないともアルフレッドは分析している。 尤も、能弁を垂れるアルフレッド自身、未知の領域であった異種格闘つまりローガンとの模擬戦を繰り返す内に 柔軟性が開花したようなものであり、それまでは彼も精密機械の如く「マニュアル寄り」であったのだ。 「なんだかこんがらがるなぁ。お前のほうが柔軟で、ヒューさんのほうがガチガチ? マニュアル頼みって、どっちかって言うと、アルのほうがキャラに合ってると思うけど」 「何とでも言え。俺の場合は、元々、爺さん仕込みなんだよ。発勁も震脚も、アカデミーで教えるような技術じゃない」 ガンドラグーンを使いこなすニコラスも戦闘そのものにはそれなりの自負があるものの、 格技に関する知識や技術はアルフレッドに一日の長がある。 知識の不足が原因か、それとも親友の説明が足りない所為であろうか、 先ほどから説明に耳を傾けているが、「ハッケイ」や「シンキャク」が具体的に何を指す言葉なのかは、 いつまで経っても理解できなかった。 そんなニコラスを置いてきぼりにして、アルフレッドはヒューが使う技術を「フェアバーン・システム」と看破した。 これもまた格闘術に疎いニコラスには耳慣れないものである。 「大雑把に説明すると何でもアリの格闘術だ。それも接近戦に特化したものだな」 「お前だってそうだろ。手からエネルギー弾を出すとか、マンガのキャラクターかよ」 「意味が違う。と言うよりも、まずお前は軍隊格闘術をわかっていない。 フェアバーン・システムに限ったことではないが、本来は素手の打撃だけじゃなくナイフなど武器も併用するんだ」 「反則じゃねぇのかよ、それ」 「敵兵を殺傷する為の技術にルールブックがあると思うのか? 俺だってアカデミーで目潰しも習ったさ」 「……成る程な。確かにオレは“わかっていない”みたいだぜ」 「必ずしも理解する必要はない。お前にはガンドラグーンがあるだろう。 それに、……あまりこっち側には踏み込んで欲しくない気もする。スポーツのように爽やかなわけではないからな」 アルフレッドが「スポーツのように爽やかなわけではない」と解説したその意味を、 ニコラスはそれから間もなく実際に目の当たりにすることになる。 暫くの間、小手調べとばかりに単調な打撃を繰り返していたヒューの動きが、突如、激流に転じた。 それまでのヒューはと言うと、ローガンから打ち込まれるパンチを緩やかなステップで避け、 お返しとばかりに彼の内股へ抉るようなキックをお見舞いしてきた。 外側から太股を強打したかと思えば、両脚の隙間から捻じ込むようにして内股を狙ったこともある。 内股を蹴り付ける場合、相手と比して互角以上の技巧を備えていなければ成功は難しい。 ましてや相手が達人であるなら相応の覚悟をもって攻め入らなければならない。 言わば、敵の間合いへと自ら飛び込むようなものなのだ。 単調な打撃の術しか持たない者と闘う際には、万一、取っ組み合いに縺れ込むことがあっても 容易く捻じ伏せられるだろうが、ヒューと相対しているのはローガンその人である。 そう狙い通りに戦況を動かせる筈もない。 ホウライによる恩恵は言わずもがな、打撃専門ながら一通りの格闘術を体得するローガンに死角はない。 再三、再四に亘って内股を狙ってくるヒューのキックに対しては、鋼鉄の鎧の如く筋肉を引き締めて応じ、 これを跳ね返してみせた。ホウライを使うまでもないと、余裕を見せ付けた恰好である。 アルフレッドが師匠の技術を吸収してマニュアル寄りのスタイルから脱却したのと同様に、 ローガンもまた弟子と立ち合う中で身のこなしが徐々にシャープなものへと進化していた。 豪腕勝負に頼り切り、ともすれば乱雑でもあった体さばきが変わったことで、 ローガンの武技は本当の意味でパワーとテクニックを兼ね備えたと言える。 予想通りか、はたまた予想を上回っていたのか――ローガンの技を十二分に観察したヒューは、 正面切って突き込まれた彼の拳を真横に跳ねて避け、その刹那、足さばきを急激に変化させた。 この瞬間まではローガンを翻弄するようにステップを踏み続け、過剰に接近することを避けていたのだが、 急加速で間合いを詰めるや否や、彼の懐へと一気に飛び込んで行った。 両手の挙動から察するにヒューはローガンへ組み付こうとしている。 逮捕術にも含まれる投げあるいは関節技を試みるつもりなのだろう。 着用する胴着の襟を掴むか、それとも拳を繰り出して伸び切った腕を絡め取るのか。 いずれにせよ、ローガンの不利に変わりはない。 急激なヒューの変化にムッと唸ったローガンは、彼に組み付かれるのを阻止するべく 右の足裏でもって地面を思い切り踏み付けた。その反動をバネにして右膝が高く跳ね上がる。 ヒューの顎か、胸部に突き入れて動きを堰き止めようと言うのだ。 右膝とは、つまりローガンが突き出した腕と同じ側である。 右腕を引きつつ左の拳を見舞うか、あるいは左右どちらかの脚で前回し蹴りを振り抜くと言う選択肢もあるにはあったが、 いずれの技も現在の状態から試みるには、あまりにも動作が大きく、迎撃に間に合わない可能性が高い。 最速最短で迎え撃つ最善の一手として、ローガンは膝蹴りを選んだ次第であった。 下半身のバネと、地面を蹴ることで得られた反動に乗せ、矢か槍のように鋭さを増したローガンの右膝は、 しかし、ヒューを押し止めることはできなかった。 「おい、まさか――」 稲妻のようなヒューの技を目撃した瞬間、アルフレッドは思わず身を乗り出したほどである。 ヒューはローガンの右膝と右腕の間――ごく僅かな隙間をすり抜けたのだ。まるで軽業師である。 しかも、だ、ことのついでとばかり彼の右手首と肘の付け根をそれぞれ左右の手で掴み上げてしまった。 このとき、既にヒューの身はローガンの右側面に在った。 関節の可動へ逆らうように手首と肘に力を加えて捻り上げると、自然と相手の体勢は崩れ去る。 力の作用へ下手に抗おうものなら関節そのものが壊れてしまうからだ。 ローガンの場合、手首と肘を同時に破壊される危険性があった。 関節を無理な状態に反り返らせる――所謂、逆関節を取られたのだ。 続けてヒューは、接地しつつあったローガンの右足へダメ押し気味に蹴りを食らわせた。 先程来、膝関節を執拗に甚振っていたのは、この瞬間の為の布石である。 関節を筋肉の鎧で覆うことは不可能に近く、衝撃は必ず芯にまで浸透する。 当然、ダメージは蓄積されていく。あと一発でも強い打撃を受ければ崩れ落ちるような状態をヒューは作り上げたのだ。 その総仕上げが、逆関節を取った瞬間と言うわけである。 体勢が崩れつつある中で軸足を揺さぶられたなら、如何にローガンと雖も踏み止まれるものではない。 右足は膝から崩れ落ち、巨躯もまた引力の法則に従った。 絶好の機会を見逃すヒューではない。ローガンの肘から左手を離すと、すぐさまにこれを水平に伸ばした。 手刀である。さながらナイフのような形を作った左手は、トドメとばかりにローガンの首筋へと振り落とされた。 今もまだ右手首は固められており、逃れる術はない。 「おもろいやないけ! せやけど――なぁッ!!」 組み敷かれたまま、手刀を喰らってしまうだろうとニコラスも信じて疑わなかった。 無論、アルフレッドもニコラスと同じ気持ちで試合運びを見守っていたのだが、 彼の場合は、師匠を信じなかったことを後に恥じ入ることになる。 手刀を直撃される寸前、ローガンは左足一つで地面を思い切り踏みしめ、何と後方に跳ね飛んだのだ。 ただ跳ねただけではない。宙返り気味に身を回転させたのである。 これによって完全に虚を突かれたヒューは手刀を途中で止めてしまい、 おまけに固定し続けていた右手首の自由まで許すことになった。 巨体に似合わず軽やかに着地したローガンは、危うく奪われるところだった自由を満喫するかのように両腕を広げ、 「草のマットはごっつヤワいで。もちっと無茶してもええんとちゃうかな?」と闊達に笑った。 応じるヒューも不敵な笑みを浮かべている。お父さんならではのストレスを発散するつもりで 参加した模擬戦であるが、いつの間にやら心より楽しみ始めているらしい。 一方のアルフレッドは、ローガンとヒューが繰り広げた攻防を必死になって反芻していた。 「人のバトルを見て研究するのも大事な稽古」と丸め込まれ、不承不承、従っていたアルフレッドは、 内心で悔しさを噛み殺しつつも師匠の言葉を認めるしかなかった。 たった今、見せ付けられたふたりの攻防は、確かに学ぶべきことの多い。 これまでにも逆関節を取られた場合の対処法は幾つも習ったが、ジャンプを伴う物はさすがに初めてであった。 格技に熟達したアルフレッドの眼は、すぐさまに原理を分析し、それ故に驚嘆を禁じ得ない。 ローガンは宙返りをすることによってヒューを振り回し、あまつさえ強制的に自分と彼の位置を入れ替え、 “逆関節を取られた状態”そのものを解除してしまったのだ。 筋力とテクニック、何よりも勝負勘を兼ね備えていなければ靭帯を捻じ切られる可能性のある危険な外し方だが、 ローガンは難なくこれをこなした。そっくり同じことを真似するよう指示されてもアルフレッドには自信がない。 組み敷かれた状態からでも技を外せると判断した場合、相手の力が加わる支点を別角度から揺さぶり、 自由を取り戻す技法はある。機械によって締められているわけではないのだ。 膂力、握力または心理的な死角を的確に狙い撃てば、屈強な相手とて押し返せないことはない。 ローガンが愛弟子に示したのは、関節技を返す技術の応用であった。それも際立って上位の物である。 アルフレッドならば一目で術理を理解し、自分の物にするだろうと確信しているに違いない。 「……お前には心当たりねぇのか? ヒューさんが前にどこの軍で働いていたのかって」 「アルバトロス・カンパニーを辞めて、転職先のリクルートか? 残念だが、俺にはツテはないぞ」 「別に軍人になりたいわけじゃねぇけどさ、やっぱり気になるじゃねーか。 こんな化け物みたいなのがウジャウジャいるのかとか、さ。実際、とんでもねぇだろ」 「……全くだ。世界は広い。広いとしか言いようがない」 感嘆の溜息を漏らしたニコラスへ反射的に相槌を打つアルフレッドだが、その言葉に世辞は一切含んでいない。 ローガンを組み伏せに行ったヒューとて、恐るべき力量なのだ。勘の鋭さ、反射神経、動体視力――全てを備えている。 だからこそ、ローガンが腕を引くよりも先に攻め入ることができたのだ。 高次の力量を持っていなければ、今頃は右膝の餌食となって“草のマット”に沈んでいただろう。 あまりにも高度な技術の応酬にすっかり魅了されたアルフレッドは、 その熱狂を表すかの如く我知らず拳を握っていた。 「さっきのチョップ、アレ、ホンマはナイフでブッ刺すんやろ? ナイフの代わりにチョップとはナメられたもんや」 「おいおい、ムチャクチャ言うなよ。トレーニングでナイフ持ち出すバカがいるかよ。それもダチ相手に」 「ちなみにナイフが手元にないときはどないすんねん? 勿論、トレーニングやのうて実戦の話や。 ……チョップとちゃうやろ、ホンマに使うんは」 「二本指で喉を突くか、目を突くか。どっちも俺っちのキャラじゃね〜だろ?」 「そーゆーのがイヤで軍を辞めたっちゅ〜んかい?」 「さてね。だが、理由としては十分さ。短い人生、イヤなことやっても仕方ね〜っしょ」 軽口を叩き合うローガンもヒューも、昂揚は計り知れない。 両者に漲る闘志は模擬戦とは思えないほど熱く、灼熱の如く燃え滾っており、 さながら真剣勝負(セメントマッチ)の様相を呈してきた。 “草のマット”にて対峙した両者も、またこれを見守るアルフレッドとニコラスも、実力伯仲の接戦を望んでいる。 その熱き願望は、間もなく達成されるに違いない。闘う者も見守る者も、誰もがそう思っていた。 ――しかし、その昂揚は唐突に決着(おわり)を迎える。 「この穀潰しッ! こんなところで油売ってんじゃないわよッ!!」 対峙するローガンとヒューを揺さぶるほど大きな吼え声がオノコロ原に轟いた。 雄叫びのした方角を振り返れば、レイチェルが、ピンカートン家の真の大黒柱が、 鬼のような形相でヒューを睨み据えているではないか。 着用したエプロンは愛娘の手製であるのか実に愛らしく、全身から迸る怒気とは何とも不釣合いであった。 しかも、彼女は右手に包丁まで握り締めている。 「あ……っ」 凄絶な怒気に晒されて身震いしたアルフレッドは、そこでニコラスから聞かされていたことを思い出した。 模擬戦が始まる前、ニコラスはヒューの用事を語っていたのだ。 彼はレイチェルから夕食の材料の買出しを頼まれていたのである。 見る者全てを恐怖のどん底に陥れるような形相で仁王立ちするレイチェルから、だ。 ヒューを仰ぎ見れば、先ほどまでの勇ましさが嘘のように生気が抜け落ち、全身は小刻みに震えている。 今度はローガンではなく自分のほうが膝から崩れ落ちてしまいそうだ。 「――レイチェル、かんべんッ!」 そこから先のことは、あまりにも悲惨である為に列挙することはできない。 ひとつだけ確かなのは、何事も許容範囲を超えるほどやり過ぎてはいけないと言うことだ。 つまり、いくら楽しい時間であっても、興が乗るあまり本来の仕事を疎かにしてはならないと言う教訓である。 オノコロ原で一番の巨木の枝から逆さ吊りにされたヒューが、その末路を証明していた。 本編トップへ戻る |