私が“その男の子”に初めて出会ったのは、ラスさんとサムさんが消息不明になる少し前のことでした。

「――昼間、休憩中にマックスから聞いたんだけどよ、フィガス・テクナーに少年探偵とやらが出没してるらしいぜ。
ジャスティンくらいの年齢(トシ)って話でさ、妙なことを尋ね回ってるんだってさ」

 直接的な発端(はじまり)は、ラスさんが同業者から伝え聞いたひとつの噂と言うことになるでしょうか。
噂と言いますか、都市伝説に近いですね。「少年探偵」なんて児童文学におあつらえ向きのキャッチフレーズです。
 私なりに想像力を働かせては見たものの、やっぱりそんなファンタジーな人間が実在するなんて信じられません。
私と同い年くらいの子どもに、一体、何が出来ると言うのでしょうか。
作り物ではない現実の探偵がどう言う仕事か、まるで知らないわけではありませんから。
 オトナ顔負けの推理力で事件を解決? そんなコは小説や漫画の世界だけで十分です。
 ……と、“その少年”に出会うまでは私も思っていました。子どもには子どもの領分と言うものがあって、
オトナの代わりは絶対に務まらないんだと。
 狭い世界で完結していた常識が覆ったのは、キャロラインさんからお使いを頼まれた日のことです。
 用事を済ませて事務所に帰る途中、ゴロツキたちに裏路地まで連れ込まれる男の子を目撃してしまいました。
 偶然なのか、必然なのか。噂が飛び交っている少年探偵のように私と同い年くらいの子――
ショルダーバッグを下げていましたが、この町では見たことのない顔でした。
 旅行でフィガス・テクナーを訪れたのでしょうか。工場見学くらいしか観光のしようもない殺風景な町なのですけど……。
 事情はともかく、その男の子は親御さんとはぐれたときにタチの悪い連中と出くわしてしまったように見えました。
ゴロツキにとって旅行者は格好のカモ。金銭を強請り取られるのは避けられません。
 悲しいことですが、フィガス・テクナーにも腕力に物を言わせて社会に迷惑を掛ける不逞の輩は少なくありません。
ですから、お使いに出るときなどは護身用として鉄線を持ち歩くようにしています。
私の手に馴染むようにカスタマイズした取って置きの得物、『百識古老』です。
 これさえあれば、ゴロツキ風情など容易く仕留められるのです。私の自慢の一品です。

 その鉄扇を握り締め、私はゴロツキたちの後を追うことにしました。
 連れて行かれた男の子には何の義理はありません。絡まれるようなことをするほうが悪いとも思います。
だけど、目の前で起ころうとしている悪事を見過ごせるほど私も“器用”ではありませんので。
 裏路地を抜けると建物の隙間に小さな公園。そこはフィガス・テクナーでも有名なゴロツキの溜まり場です。
そこに男の子を連れ込んで身包み剥がす算段だったのでしょう。歯向かえば私刑に掛けて殺してしまうかも知れません。
 本当にタチの悪い連中です。ここまで来ると、もう保安官を呼んでいては手遅れ。
乗りかかった船と言うこともあって、私が何とかするしかありませんでした。
 気配を殺しつつ裏路地を進んでいくと、やはり奥から聞こえてきたのは悲鳴です。
 ……でも、子どもの声にしては随分と野太い。それにいくつもの悲鳴が同時に聞こえるではありませんか。

(これってもしかして――)

 私刑が行われているであろう公園まで辿り着いたとき、私は信じられないものを目の当たりにしました。
ゴロツキに捕らわれていた筈の男の子が猛然と反撃に出ていたのです。
 それどころの話じゃありません。自分より二回りは大きいようなゴロツキたちをたったひとりで叩き伏せていくのです。
 ブロンドと言うには淡く、どちらかと言うとシルバーに近いプラチナ――
思わず見蕩れてしまいそうになる程の美しい髪を靡かせるのは、拳や蹴りが巻き起こす血腥い旋風(かぜ)でした。
 浅黄色の紐で結わえた後ろ髪は、四、五センチにも満たない長さと言うこともあって、
狼の尻尾のように忙しなく舞い踊っています。
 首から肩にかけて大きく開いた真っ白なシャツにブラックジーンズ、エアクッション付きのバスケットシューズや
車輪を象ったネックレスと言う小奇麗な身なりがゴロツキの目に留まったと推察されますが、
このときには強請りを働こうとした側が後悔していたでしょう。
 私はそこに羅刹の顕現(すがた)を見ました。人の血肉を好み、喰らうとされる羅刹を……。

 それほどまでに男の子が振るう業(わざ)は凄まじく、見ている私まで膝が震えてしまいました。
 タックルでぶつかり、足を取ろうとした男の顎を躊躇なく蹴り上げ、
身体を浮かせた瞬間に中段蹴りをお見舞いして吹き飛ばす――その動きも私の目には殆ど見えませんでした。
 子ども相手に棍棒を持ち出す輩もいましたが、男の子はひらりとかわして懐深くに潜り込み、
素早いパンチで鳩尾を穿ちます。急所を正確に捉えたのか、小さな子どものパンチにも関わらず、
男は見たくもないモノを吐瀉してその場に蹲ってしまいました。

「この手の掃除は“任務”に含まれておらんが、下卑た物盗りは見過ごせん――」

 男の子はあくまでも冷徹でした。自分を強請ろうとした相手を返り討ちにする間、顔色ひとつ変えません。
怒りもしなければ、嘲笑を浮かべることもないのです。一瞬、感情と言うものが宿っていないのかと錯覚してしまいました。
 強打を浴びせられて蹲った男の頭を腋を右手で抱え、もう片方の手でズボンのベルトを掴んだ男の子は、
自分よりも体格の勝る人間を逆さに抱え上げました。
 これには周りにいたゴロツキたちも後ずさりして呻いていました。
それはそうでしょう。男の子の顔はあくまでも涼しげで、少しも苦労しているようには見えません。
そのまま尻餅でも突くかのように後方に倒れこみ、相手を脳天から垂直落下。
鈍い音がしたかと思うと、棍棒を持っていた男は泡を吹いて意識を失いました。
 身体を屈めた状態で足払いを繰り出し、一番近くにいた男を横倒しにした男の子は、
放物線を描くようにして軽く跳ね、その人の肋骨を思い切り踏み付けました。
何かが破断する音が響いたのは言うまでもありません。
 地面を転げ回るその男を踏み台にして再び飛び上がると、今度は空中で身体を回転させ、
別の相手の脳天へカカトを浴びせます。これもまた一撃必殺です。

「……『爪燕(そうえん)』。こんな蹴りは見たこともなかろう」

 遮二無二突っ込んできた、スピード自慢らしい小男には、水平に伸ばした右腕を首に打ち込み、
そのまま強引に押し倒します。この人も後頭部から落とされて、転げ回って苦しんでいました。
 攻撃ひとつひとつが的確に相手を仕留める――このように男の子は一瞬で何人ものゴロツキを薙ぎ払っていきます。

「数に物を言わせて弱い者いじめをしたければ、せめて統率くらいは取れるようにしてこい。
お前らのしていることはガキの遊戯(あそび)と変わらんぞ」

 最初は十数人いたゴロツキのグループも、男の子が見得を切る頃には僅か五人を残すばかりとなっています。
 ……恐ろしく強い。いえ、この形容(たとえ)も正しいようには思えません。
だけど、どう例えたら良いのかもわからなくて……。
 サムさんに付き合って格闘技のテレビ番組を見たことがありますが、こんな業は一度たりとも出てきませんでした。
脳天から逆落としにする投げ技と腕で首を引っ掛ける力技は、似たものをどこかで見たかも知れませんが……。
 男の子が体術を会得していることは間違いありません。
 ジュードーやカラテと近いように見えなくもありませんが、パンチも投げも、どちらも巧みに使いこなしています。
「使い分けている」のではなく、全ての体術が一体化しているように思えるのです。
 スポーツ競技では絶対に反則負けになるような危険度の高い業さえも、
この男の子は顔色ひとつ変えずに繰り出していきます。

 悪寒が走ったのは正面から組んだ投げ技のときです。
 逆上して殴り掛かってきた相手の腕を逆に掴み返し、そのまま懐まで踏み込んだ男の子は、
反対の手の平でその男の腹を突き上げました。下から掬い上げるようなイメージです。
 すると、どうでしょう――その男の身体が宙に浮いたのです。男の子と何十キロと体重の差があろうかと言うのに。
 掴んでいた腕を捻って放り投げ、手頃な位置に男の顔面が降ってきたのを見計らった男の子は、
もう一度手の平を突き出します。鼻の頭をその一撃で叩き潰し、続けて顎を掴むと、
相手の腕を一層強く引っ張りつつ硬い地面へと後頭部を叩き付けました。

「……少しは死の恐怖と言うものを味わってみるがいい――」

 このときには少年も前方へ飛び込むような体勢となっています。その一瞬の加速が業の要だったのでしょう。
脳震盪を起こしたのか、相手は白目を剥いたまま動かなくなってしまいました。
 その男がグループのリーダー格でした。残っていたゴロツキたちは蜘蛛の子を散らすように公園から逃げ出しました。
私の真横を通り抜け、裏路地にも何人かが飛び込んできましたが、誰もが顔を恐怖に歪めています。
乱闘の最中に肩の関節を外された者もいるようでした。

 ただひとり、バタフライナイフを持っていた男だけはその場に居残っています。
刃物を突き付ければ必ず怯むと踏んだのでしょう。最初の内は余裕すら残していました。
 けれども、男の子は冷たい眼差しを向けるばかりでバタフライナイフを恐れる素振りさえ見せません。
 逆にバタフライナイフを構えた男のほうが男の子に怖気付いて後ずさりし始めました。
切り札を持ち出したにも関わらず、まるで動じないのですから、そのような醜態も無理がありません。

「刃物の使い方がなっていないぞ、素人。突き刺す瞬間まで刃は隠しておけ。本気で殺すとは、そう言うことだ」

 次の瞬間、男の子の姿がいきなり掻き消えました。
 右足をくぐるようにして左足を前に出した――そこまでは私も目で追えたのですが、
気付いたときにはバタフライナイフを持った男に飛び掛り、眉間目掛けて右の拳を叩き込んでいました。
 その日、私は「目にも留まらぬ速さ」と言う概念(もの)を初めて実感したのです。
 一本の槍と化した拳に撥ね飛ばされた男は、公園の片隅に植えられていた木に叩き付けられ、
それ以降、立ち上がることはありませんでした。

「聖王流小具足術――『飛龍撃(ひりゅうげき)』」

 今し方、吹っ飛ばした相手を睥睨する男の子は、何やら独り言を呟きました。
業の名称であることは察せられるのですが――ショウオウリュウ? ……コグソクジュツ? 
全く聞いたことのない格闘技です。それとも、流派と言ったほうが正しいのかな。

(……こんな化け物じみたことをやってのける子は、世界広しと雖も、そうはいませんよ、ね……)

 彼が――彼こそが噂の『少年探偵』であることは、もう疑いようがありません。
いえ、やっていることは探偵業とも全然関係ないのですけど。
 「自分と同い年の子どもにオトナの代わりは務まらない」と言う常識は、このとき、粉々に打ち砕かれていました。
ただただ目の前の男の子に圧倒されるばかりです。

「――で、何時まで盗み見しているつもりなんだ? こいつらの手下でないなら名前くらいは名乗って欲しいものだが」

 少年探偵が次に声を掛けたのは、他ならぬ私でした。と言いますか、先程の独り言も私に向けられたもので。
 ……公園の入り口と言う一番目立つような場所に立っていたから当然なのですけど、
どうやら既に見つかっていたようです。





「俺の名前はセシル。セシル・アイカワと言う。少しばかり調べ事があってフィガス・テクナーに滞在しているんだ」

 ジャスティン・キンバレン――と言う私の自己紹介に対して、少年探偵はそう名乗り返してくれました。
 偶然とは言え、戦いを盗み見してしまった私のことをセシルさんは咎めはしませんでした。
彼が言ったのは、「駄賃の代わりにフィガス・テクナーのことを教えてくれ」。
 あそこにいつまでも留まっていては危ないと言うこともあって、
現在は路地裏の公園から表通りのファーストフード店に場所を変えています。
 ふたりして飲み物だけ注文し、ひとまず腰を下ろしたわけですけれど――

(……なんだか不思議な人だなぁ……)

 随分と大人びていると言うのが、私のセシルさんに対する第一印象でした。
私自身、人から若さが足りないとかジジむさいと良く言われていますが、
セシルさんの場合、達観しているようにも見えます。時々、遠くを見つめている気もしますし。
 良くも悪くも、「浮世離れ」と言う言葉が似つかわしい人です。
 ……ええ、そうです。悪い意味でも浮世離れしていると言えるかなぁ。 
 ゴロツキの返り血が白いシャツに斑模様を作っているのですが、セシルさんは少しも気にしていません。
遠目にはそう言う柄のようにしか見えませんが、
その模様が付くまでの一部始終を見てきた私としては気が落ち着きませんよ。
 間近で見て気が付いたのですが、窓から差し込む光を吸ってプラチナに輝く髪は、おそらく地毛がシルバーなのでしょう。
それをゴールド系の染料で色を変えているように見えました。頭の上や毛先なんかは不自然な銀色ですし。
 少年探偵らしい変装なのか、それとも趣味なのか。どっちにしても中途半端と言うか、はっきり言ってガサツです。
 多分、「セシル・アイカワ」と言うのも偽名でしょう。

「なんだ、人の顔をジロジロと……何か付いているか?」
「いえ、睫が長いんだなぁと思いまして」
「お前だって似たようなものだろう。最初に見たときは大した別嬪がいると驚いたぞ」
「言葉遣いが古めかしくなる瞬間がありますよね」
「ぬ――それは、……そうかも知れん。人にも良く言われている」
「ほらまた」
「……癖なんだ。お前の質問責めと同じだ」
「私のはただの探究心ですよ。セシルさんのことをもっと良く知りたいだけです」
「俺のことを? ……妙な趣味だな、お前」

 ……セシルさんが仰る通り、妙な空気になりかけたので、
場を切り替える為に先程使っておられた体術について、少しだけ質問してみることにしました。
 私だって男です。戦いの術を修練する身でもあります。あのような神業を見せ付けられては魂が震えると言うものです。

「聖王流小具足術(しょうおうりゅうこぐそくじゅつ)――分かりやすく言うと古武術の一種だ。
鎧を着込んだまま相手と組み合う状況を想定したものでな。“甲冑殺し”なんて異名(よびな)が付くこともある」
「“甲冑殺し”と言うのは、つまり相手の鎧まで叩き壊してしまうと言う意味ですか」
「聡いな。大体、そんなところだ。……鎧を着た相手を倒す為の業――と言うほうが、イメージを作りやすいかも知れんな」

 口外出来ない秘伝と言ってはぐらかされるかと思いましたが、
意外なくらいすんなりと、セシルさんは『聖王流小具足術』なる神業について話してくださいました。
 ……何と言いますか、世間話のように気軽に説かれるものですから、質問した私のほうが慌ててしまいましたよ。

「戦いの最中、不思議な投げ技を使いましたよね? 相手を投げておいて手の平で押し込む技を。
あれは奥義か何かなのですか? ジュードーでは絶対に考えられない技ですよね」
「不思議な投げ――ああ、『雷鳴波(らいめいは)』か。あんなのは初歩だ。
『組討(くみうち)』の中では大した業じゃない」
「クミウチ……?」
「相手と組んで、討つ。読んで字の如くだ。投げや関節、組んだ状態での打撃もここに含まれとるよ。
大雑把に言えば、うちの流派の神髄みたいなもんだな」
「……流派の神髄を初対面の私なんかに喋ってしまっても良いのですか?」
「構わんさ。理屈を教えたからって実践出来るとは限らん。第一、隠しておくようなものでもない。
色々あって、その辺りはうちの流派は緩いんでな」

 セシルさんが言うには、聖王流と言う流派では投げ技や組み技は『組討(くみうち)』と総称されるそうです。
リーダー格の男を仕留めたのもその内のひとつ。『雷鳴波』と言う名前に負けない業ですね。
 ……正直、あれで初歩技と言うのが信じられませんでしたが、
組討の中には首を絞めながら投げる業もあると、セシルさんは事もなげに語りました。
 それって、相手の首を折るってことですよね……。
 セシルさん曰く、小具足術は殺傷を目的とした戦場武術なので首折りなどは当たり前のように組み込まれているとのこと。
 また、小具足術は武器と共に用いるのが常であるそうです。
 武芸百般の結晶にして、体術と武器術の融合――と私なりに解釈したのですが、
先程のセシルさんは体術しか使われなかったので、「武器術との融合」はあくまで私の予想です。

「聞けば聞くほど粟肌が立ちますよ。負け知らずなんじゃないですか、セシルさん」
「まさか。飽き飽きするくらいやられとるよ。俺なんかは兄弟子の良い玩具だ。
他流仕合で死にかけたことも一度や二度じゃない」
「……そう言うときって、大体、流派自体が不敗を掲げてるものじゃないんですかね」
「作家が好みそうな謳い文句だな。残念ながら、そんなに夢のあるものじゃない。
技を工夫するには未知の敵と戦わねばならんし、そうなったら負けるのも当然。
ひとつの負けからひとつの技を盗み、次の勝ちに繋げて幾星霜……と言うのを重ねてきた莫迦の集まりさ」
「それを繰り広げて負け知らずになった――と言うわけでしょう?」
「さっきも言っただろう? 飽き飽きするくらいやられている、と。勝率なんてものは数えるだけ無意味と言うものだ」

 ……セシルさんが妙に浮世離れしているのは、このような世界に身を置いているからでしょうか。
 古流の武術の格式とか歴史と言うものは、正直なところ、私には解りかねる部分が多いのですけれど、
それはセシルさんにしても同じことでしょう。お世辞にも一般的とは言えない戦場武術が身近な環境である為、
感性や感覚が私とはかなり違っているみたい。

(……面白い、面白い。面白いよ、この男の子っ。こんな人は初めてだ――)

 セシルさんの不思議さには、目が醒めるような思いで一杯です。
 もっともっとこの人のことを知りたい。常識と言う括りから飛び出した世界へ連れて行って欲しい――
いつの間にか、私は興奮して身を乗り出してしまいました。
 セシルさんからは「顔が近い」と注意されましたが、そんなのは関係ありません。

 セシルさんの側からも幾つか質問を頂きました。
小具足術見物の「駄賃代わり」と仰った、フィガス・テクナーに関する事柄ですね。

「例えば、お前の身の周りで急に人や物がなくなるようなことはなかったか?」
「……なくなる?」
「すまん、抽象的だったな。神隠しのように知人が失踪するようなことがあったか……と質問を変えよう。
建物も同じだ。昨夜まであったものが朝になったら消えていた――そんなことはなかったか?」
「怪事件ですね――」

 これもまた不思議な話です。てっきりフィガス・テクナーの案内でも頼まれるかと思っていたので、
意表を突くこの質問には心の底から驚かされましたよ。

「――私の知る限り、フィガス・テクナーではそう言った話は聴きませんね。
神隠しなんてことが起きれば、きっと大事件になったでしょうし……」
「……大都市だからと言って“消失(ロスト)”の影響が早くに現れるわけではないのか。
それとも、人目に触れないところで消えている? ……大都市の死角と言えば、そうなるが……」

 私の話を反芻し、理解を深めるようにしてセシルさんは独り言を呟いています。
 何だか話の流れがオカルトじみてきましたが、当のセシルさんは至って真剣。
思春期の男の子が好みそうな、「消失(ロスト)」と言う言葉を大人びた顔で呟くなんて、ちょっと面白いですね。
 超常現象とか心霊現象の類は信じないほうなのですが、セシルさんの口から言われると、
不思議と私までワクワクしてきます。
 全く、私をどうしようと言うのですか、セシルさんは。

 それにしても、少年探偵と言うのは怪奇現象の調査が専門なのでしょうか。
実は噂になっているような少年探偵じゃなくて、本当は怪奇ミステリーの雑誌から派遣されてきたとか?
 ……いずれにせよ、こんな小さな子どもを働かせている時点で法律違反だと思いますけどね。


 それから暫くの間、セシルさんはフィガス・テクナーに滞在されました。
シティーペンションを宿所にして、町のあちこちで聞き込みのような調査をしていました。
 もちろん、道案内は私の役目。最初は断られましたが、土地勘がなければ大変でしょうと言って押し切りました。
ちょっと強引でしたが、こうでもしないと、もうセシルさんと会えなくなるでしょうしね。

「物好きだな。小遣いなんか出してはやれんぞ」
「セシルさんと過ごす時間が一番の報酬ですよ。勉強以外でこんなに楽しいことは滅多にありませんからね」
「俺も人のことは言えんが、友達と遊ぶ時間を大事にしたらどうだ」

 だから、“そのつもり”で随いていくんですよ、セシルさん。
 こうして学校のある時間以外は夕方遅くまで少年探偵の助手として働くことになったのです。
 私とセシルさんはフィガス・テクナーを何周も何周も回りました。
お陰で知らなかった場所や興味がなかった物にまで詳しくなり、
セシルさんからは「お前はガイドとして食っていける」と太鼓判まで押されてしまいましたよ。

 新しい古書店を発見できたのは、個人的に一番の収穫でした。
 本当、穴場ってあるものですね。いつも通学路に使っている商店街の途中、
奥まった場所にひっそりと建っていたんです。縦に細長いし、左右が食堂だし、気付くわけありませんよ。
おまけに看板まで出していないのですから。
 世紀の大発見でしたよ。ずっと探していた理論物理学の論文集を、まさか自分の町で見つけられるなんて! 
 この古書店を見つけてくださったのはセシルさんです。何気なく通り過ぎようとしたときに急に立ち止まって、
それから亀の歩みになって……――そわそわしちゃって、なんだかちょっと可愛かったです。

「どうされたんですか?」
「ぬ……? 何がだ?」
「何がって――えっと、……ツッコミ待ちと言うものですか?」
「こう見えて俺はお笑いには一家言持っているぞ。ボケてもおらん内から合いの手を待つのはおかしいだろう」
「ある意味、体張ってボケてるように見えるのですけど」

 調査には何の関係もないのですが、あまりにもセシルさんが後ろ髪引かれてる感じでしたので、
ちょっとした息抜きとして立ち寄ることにしました。
 セシルさん、迷うことなく歴史書のコーナーに直行です。棚を上から下まで舐(ねぶ)るようにチェックし、
それからものすごく肩を落としました。
 もうお判りですね。私はすぐに判りました。セシルさんは部類の読書好きで、とりわけ歴史書マニアでした。
それも筋金入りだとお見受けしましたよ。歴史書コーナーに置いてあった本も三分の一は既に読んだことがあるとか。
 私も本を読むのは好きですが、セシルさんの読書量は驚愕の一言ですよ。

「セシルさんの意外な趣味を発見――なんちゃって」
「心外だな。暇さえあれば本ばかり読んでるんだがな」
「普通に意外ですって。趣味らしい趣味をお持ちでないと思っていましたから。
この年にしてすでに枯れた佇まいと言いますか」
「脳味噌まで筋肉と皮肉られるより癪に障るぞ、それは」

 どうやらセシルさんにはお目当ての本があったみたい。店主のおじいさんにも熱心に在庫の有無を尋ねていました。
 セシルさんが探していたのは、ある永世中立国の治水の歴史をまとめた書物。
かなり専門的な内容の本で、残念ながら店舗には置いていませんでした。
 けれども、店主のおじいさんにツテがあるらしく、入荷次第連絡を下さるとのこと。
 ……これはセシルさんにとってツラいことですよね。彼は異邦人。いつこの町を発つか判りません。
 ですから、入荷した本は自分が受け取って預かると約束しました。
いつまでも大事に保管しておくので、いつでも取りに来てください、と。
 最初、セシルさんは困ったように頭を?いていましたが、最後には頷いてくださいました。
 
(これくらいの“わがまま”を言っても罰は当たりませんよね……)

 ……叶うか分からない約束も、旅の想い出には良いものです。


 表通りを回り終えると、今度は裏路地へと踏み込み、光の当たらないような場所まで調べ上げていきます。
 先日、強請りを働こうとしたゴロツキのグループとも遭遇しましたが、さすがに向こうは腰が引けています。
大のオトナがセシルさんのひと睨みで逃げ出すのですから、面目丸潰れではないでしょうか。
 あちこち工場見学もしました。保護者もなく見学を申し込んできた私たちを案内役の方は怪しんでいましたが、
そこはセシルさんが巧みな弁舌で丸め込みました。怪事件の発生を確かめることも忘れません。
 本当に何でも出来るなぁ、セシルさんは。

(……でも――)

 オトナ顔負けの話術まで兼ね備えたセシルさんですが、自分が何を調査しているのかを具体的には明かしてくれません。
 セシルさんから信用されていない――そう言うわけではありません。
昼食を差し入れたときも躊躇うことなく口に運んでくださいました。これこそ信頼関係の証しだと私は思っています。
 本当の目的を話さないのは、それがセシルさんの優しさだからです。私はそう信じています。
セシルさんが背負う何かに他者を、私を巻き込まないようにとの心配りだったのでしょう。
 どこか浮世離れしているし、戦いの場では羅刹と化す人ですが、心根は本当に純粋で優しいのです。

「……明日、ここを発つ。お前のお陰でフィガス・テクナーの調査は滞りなく済んだ」

 フィガス・テクナーを去ると切り出したときも、どことなく気まずげな顔をされていました。
告げねばならないことがあるのに、相手を傷付けたくなくて、どうにも踏ん切りがつかない――そんな顔です。
 二週間程度の付き合いしかないような私にまでそんな気を遣わなくても良いのに。
私が勝手に随いていっただけなのに……。

「何か実りはありましたか、少年探偵さん?」
「なんだ、その時代錯誤な呼び方は。……まあ、悪くはなかったよ」

 目的に対する成果は殆ど挙がらなかったそうですが、
この二週間は「悪くなかった」そうなので、それが聞けただけでも私には嬉しかったです。
 突然に別れを告げられた恰好ですが、不思議と寂しくはありませんでした。
 本当、不思議な感覚です。何しろセシルさんは異邦人。お別れしたら、もう二度とは会えないでしょう。
その筈なのに、いつかまたどこかで交わるんじゃないかと言う予感が胸の中にあるのです。
 超常現象も心霊現象も信じなかった私なのに、浮世離れしたセシルさんと一緒にいる内に心変わりしてしまったのかな。
今なら運命と言うような曖昧なものも信じられるような気がしています。

 調査は、これでおしまい。最後くらいはフィガス・テクナーの町を一回りしようと、
私とセシルさんはふたりで散歩に出掛けました。
 どうせなら、ラスさんやトキハさんも紹介したかったな――そんなことをぼんやりと思い浮かべていたとき、
急にセシルさんが私の手を引っ張り、「町外れの建設現場に行こう」と誘ったのです。
 そこは数日前にも調査に訪れた場所です。オフィスビルを建設する予定なのですが、
土地の権利を巡って問題が生じた挙げ句、半年以上も休工中。
高所作業用の足場を組んだところで無人のまま放置されています。
 そのときにも目ぼしい手がかりなどは見つけられなかったと記憶していますが、何か気に掛かったのでしょうか……。
 思い当たるフシもなく首を傾げてばかりでしたが、無人の建設現場へ入り込んで間もなくその疑問は解消されました。
 いつの間にか、私たちは不審な人影に後を尾行(つ)けられていました。
私には気配を察知することさえ出来なかったのですが、セシルさんはそのことを見抜き、
“おあつらえ向き”なこの場所へと不審な人影を誘い込んだと言うわけです。

「……貴様、『覇天組』の者だな……」

 不気味な声に驚いて後ろを振り返ると、そこにはひとりの男性が立っていました。
年の頃は四十歳くらいでしょうか……。ロングコートを羽織り、その手にはアタッシュケースを携えています。
一見すると旅行者のようですが、それにしては目付きが尋常ではありません。
 もうひとつ、気になるのは、セシルさんを睨みつけながら言ったあの一言――

(……ハテングミ……?)

 ――どこかで聞いた憶えがあるのですが、はっきりとは思い出せません。
 ただひとつ、確かなのは、その男性が完全なる敵愾心をセシルさんに浴びせかけていることです。
 その激しい情念を真正面から受け止めるセシルさんの顔も、いつしか冷気を帯び始めています。

「その身なり――この町に潜伏していた工作員か? 出発前に害虫駆除をさせてくれるとは、なかなか良いサービスだ」

 冷気と言うか、これは殺気――セシルさんがここまで感情を露にするのは初めてかも知れません。

「……こいつは俺の“敵”だ。お前は関係ない」

 携行していたバッグから鉄扇を取り出そうとした私に向かって、セシルさんはそう言います。
加勢は要らない。自分の手で始末を付ける――凛と張った声からも彼の覚悟が伝わってきました。

「――唯一世界宣誓の大義、貴様らに邪魔はさせんッ!」

 それがキーワードだったのでしょう。ロングコートの男性が携えていたアタッシュケースが突如として変形し、
前方に向かって鋭利な角のような物が迫り出しました。
 日用品に偽装させた隠し武器のひとつとお見受けしましたが、……目立ちすぎじゃありませんかね。
鋼鉄の角で突き刺すにしても、元がアタッシュケースなので振り翳すのにはまるで向いていません。

「厄介なものを持ち出してくれる。面倒と言ったほうが合っているかな」

 ですから、セシルさんの呟いた意味が私にはよく分かりませんでした。
 そのセシルさんはショルダーバッグから短い棒状のような物を取り出し、左右の手に構えています。
上段に振り翳した右手には独鈷杵(とっこしょ)、前方へ突き出した左手には三鈷杵(さんこしょ)と呼ばれる武器を
それぞれ握っておられます。
 これらは棒状の取っ手の両端から刃に相当する部分が飛び出していました。
独鈷杵は槍の穂先を彷彿とさせる鋭利な刃を、三鈷杵は日輪を描くかのような形状の爪を二本備えていました。
この爪の根元からは一本の刃が垂直に屹立しています。“三叉”を意味する言葉が当てはめられた所以ですね。
 独鈷杵も三鈷杵も、元は『メルカヴァ』に攻め滅ぼされた古い国の武器であり、
『金剛杵(こんごうしょ)』と総称されていたと、物の本で読んだ憶えがあります。
それが亡国の民と一緒に『陽之元(ひのもと)』まで伝来したとか……。

(陽之元……ハテングミ――覇天組……ッ!?)
 
 ……そこで私の記憶の糸が繋がりました。
 ロングコートの男性が口走り、そして、セシルさんが否定しなかった『覇天組(はてんぐみ)』。
それは、かの陽之元国最強、いえ、最凶の武闘集団の隊名(な)。
 群雄割拠する戦乱期にあった陽之元国へ平和をもたらした最後の戦いでも覇天組は大活躍をしたと聞いております。

(確か、覇天組の隊士は一騎当千……)

 もしかして、セシルさんは――

「目障りなのはお互い様だ。俺も――“俺たち”も“お前たち”を捨て置くつもりはない」

 ――私の推測が当たっているとすれば、羅刹の如き強さにも納得が行くと言うものです。
 ロングコートの男性が用いる武器は、確かに私の見立てよりも遥かに厄介な物でした。
前方に飛び出した角は突き刺すのが目的ではなく、レーザーを照射する為の装置――
変り種の狙撃銃と言うのが、アタッシュケースの正体だったのです。
 ケースの内部には標的の座標などを修正する電子頭脳が組み込まれていることでしょう。
照射されたレーザーは僅かな誤差もなくセシルさんを狙っています。
 それにも関わらず、セシルさんが直撃を受けることは一度もありませんでした。
三鈷杵の先端をレーザーに当ててその進行方向を反らすと言う離れ業をやってのけたのです。
 弾かれたレーザーは一種の流れ弾となって野ざらしの工具やドラム缶に当たり、その表面をドロドロに溶かしていきます。
殺傷力は十分。一撃でも喰らえば人間の肉体など簡単に焼き切れてしまうでしょう。
 それでもセシルさんは怯むことなく二種の金剛杵を構え続けています。
レーザーから庇うようにして私の前に立ち、三鈷杵による絶対の防御を固めています。
 何度、レーザーが正射されようとも光の進行を瞬時に見極め、三鈷杵の先端で反らしてしまうのです。

「……これで何度目か分かりませんが、粟肌が立ってきましたよ、私。どうすればこんな業が身に付くんですか」
「小具足術は戦場武術と言っただろう。そう言う場にいれば、銃口を向けられることにも慣れていく。
あとは敵の動きさえ見逃さんでおれば、自然と身体が動いてくれる」
「今のでまたゾクッと来ましたよ……」

 このような芸当、果たして覇天組以外の人間に出来るでしょうか。かの隊は誰もが人間離れしていると言いますからね。
 高性能――私の予想ですけれど――な武器を用いていると言うのに、セシルさんを掠めることさえ出来ません。
さすがに攻撃者の側も焦り始め、歯噛みしながら「小癪なガキめッ!」と狼狽しています。

「な、なぜ当たらんッ! どうしてこんな……」
「分からんのかよ。……お前が一芸も持っていないってことだ。
武器に頼りっぱなしでは、武器の真価(ちから)を引っ張り出すことも出来ん」
「この……小僧ォッ!」
「ひとつ得物(あいぼう)との語らいと言うものを見せてやる――」

 鼻先で笑ったセシルさんは、大上段に構えていた右手の独鈷杵をその場で鋭く振り下ろしました。
風を切り裂く音が放置された骨組みに反響します――が、セシルさんと攻撃者の男性は遠く離れており、
どんなに腕を伸ばしても、切っ先の届く距離ではありません。
 ……少なくとも、私の知る“常識”では届かないはずでした。
 けれでも、セシルさんは浮世離れした人。私の“常識”では推し量れないことを平気な顔でやってのける人なのです。
セシルさんが独鈷杵を振り抜いた直後、その視線の先にあったアタッシュケースが縦に真っ二つになってしまいました。
 これって、漫画に出てくるような真空の刃? 原理が何だか分かりませんけど、とにかく凄いです、セシルさんっ。

「――聖王流小具足術、『断空刃(だんくうじん)』」

 奇跡のような業の名を呟いたセシルさんは、次の瞬間には攻撃者に向かって駆け出していました。
一気に畳み掛けるつもりのようです。
 役立たずとなったアタッシュケースを投げ捨てた男性は、続けてポケットからハンドガンを引っ張り出しました。
少しでも離れていれば、銃器で迎え撃てると思ったのでしょう。
 結局、その思い上がりは思い違いへと性質を変え、自らを苦しめることになります。
 残像さえ伴わない速度で男性の懐まで潜り込んだセシルさんは、二種の金剛杵でコートの生地を巻き込み、
体勢を崩しに掛かります。これはそう、ジュードーの選手が相手の袖を掴む恰好と良く似ていました。
 おそらく同じような力の作用が男性の身体に圧し掛かっているでしょう。
ここから雷鳴波のような投げ技に移ろうとしているのかも知れません。
 攻撃者の身体が浮き上がったのは、次の瞬間のこと――と言っても、投げ技を試みたのではありませんでした。
 ……私の目にはそこまでしか分かりません。正面から向かい合ったまま担ごうともしていないのに、
どうやってセシルさんは相手の身体を浮かせたのか……。
 そこまで観察したとき、私はひとつの異変に気が付きました。
見間違いかもしれませんが、三鈷杵が攻撃者の右の脇腹にめり込んでいるような――

「……『仁王徹(におうてつ)』……」

 ――いえ、やはり、目の錯覚ではありませんでした。三本の刃が脇腹深くまでめり込んでいます。
出血は見られないので串刺しにしたわけではありませんが、肋骨の陥没は免れないでしょう。
 『組討』には、相手と組んだ状態での打撃もあると仰っていましたが、
仁王徹と言うこの業もそのひとつに数えられているに違いありません。

「そして、これが『虎乱(こらん)』だ――」

 そう言ってセシルさんは両手の武器を空中高く放り投げました。
それは敵の意識を空中へ引き付ける為のフェイントであり、同時に次の業への準備でもあったようです。
 左右の拳を固く握り締めたセシルさんは、目にも留まらぬ速さで連続パンチを叩き込んでいきました。
中空より降ってきた金剛杵をキャッチしたときには、ロングコートの男性は見るも無惨な姿に成り果てていました。
 顔中、青痣だらけ。割られた眉間と潰された鼻からは止め処なく血が噴き出し続けています。
顎先には奇怪な歪みが生まれていますが、これはおそらく真っ二つに割れてしまったからでしょう。
 虎乱と言う業は、左右のパンチで全身の急所を滅多打ちにするのだそうです。
見た目では顔面にのみダメージが集中しているように見えますが、
実際には喉や鳩尾、心臓、胃、下腹部まで、差し向かいで狙えるところは全て打ちのめしたとか。
 ……一体、あの瞬間に何発殴り付けたのでしょう。私には怖くて聞けません。
 だって、目の前の男は小刻みに痙攣しているのですから……。

「あ、あの、セシルさん、もしかして……」
「心配するな。急所を撃ったが、手加減はしてある。死ぬことはあるまいよ」
「これで手加減……」
「本当なら金剛杵で突き刺すところだ。……さすがにお前のいるところでそんな危ないことはせん」

 ――私が、……いえ、人目がなければ息の根を止めていたのでしょうか。
 さらりと、「あとはこの男の生命力次第。そこまで俺は面倒を見切れん」と言い放つのも地味に怖いのですけれど。

「……すまんな、お前まで危険な目に遭わせた。俺ひとりで引き受けるべきことなのに」
「少しも危ない目には遭っていませんけどね。セシルさんが守ってくださいましたから。
……まったく、こんなゴロツキが出没(で)るなんてフィガス・テクナーの治安も悪くなったものです」
「そうではなく、この男は――」
「どこかから流れ込んできたゴロツキですよ。……私にはそれでいいんです」
「……わかった。そう言うことにしておこう」

 ……だから、私は必要以上に尋ねることはしませんでした。
 セシルさんが覇天組の一員であるかどうかも。「唯一世界宣誓」などと意味不明なことを口走ったこの男の正体も。 
 セシルさんから素敵な想い出を受け取った私にとっては、大きな意味など持たないのですから。





 お別れの場所は中央公園となりました。私としては町の外れまでちゃんとお見送りしたかったのですけど、
セシルさんに照れ臭いと言われて断られました。
 本人は言葉を濁しておられましたが、町外れに迎えの方が来るみたいです。
だから、「照れ臭い」のかも知れませんね。自分が同じ立場だったら、ちょっとくすぐったいかもです。

「……結局、間に合いませんでしたね、あの本……」

 セシルさんが注文した本の入荷連絡はアルバトロス・カンパニーの事務所に入れて貰う手筈となったのですが、
今朝の時点では古書店からの電話はありませんでした。フィガス・テクナーのお土産になったら一番だったのですけど……。
 当のセシルさんはすっかり本のことを忘れていたようで、私の話を聴いて暫く考え込み、
それから「あっ」と大声を上げました。
 ……完全に忘れていたんですね。それだけ調査に一生懸命だった証拠ですし、特に今日は色々なことがありましたから。

「いかんな、すっかり調子が狂っているようだ。……我ながら浮き足立っているのかも知れん」

 ご自分のうっかりを誤魔化すように前髪を掻きあげたセシルさんは、それから少しだけ笑いました。
耳を澄ませてようやく聞こえる程度ですが、小さく笑ってくださいました。

「……すぐに読めんのは残念だが、次の機会まで楽しみにしておくさ」
「なんだ、別に購入のチャンスがあるんじゃないですか。この間の古書店はキャンセルしておきます?」

 ……おや? 私の答えを聞いた途端にセシルさんから咎めるような眼差し。
 し、失言をしちゃいましたかね。そんなつもりはなかったんですけれど……。

「お前が預かっていてくれるんだろう、ジャスティン?」
「――あっ……」

 そう言って、セシルさんは右手を差し出してくださいました。
 ……私としたことが、セシルさんの旅の想い出を傷付けてしまうところでした。

「そうでしたね。次にお会いするときまで大切に預かっておきますよ」
「心配はしとらんよ。お前なら絶対大丈夫だ」

 いつかまた――再会の約束を確かめるように握手を交わします。
 初めて触れたセシルさんの手はとても温かくて――体温を通じて心根の優しさが伝わってくるようでした。

「お前のお陰で悪くない旅になったよ。……いずれまた会おう」
「いつでも歓迎しますよ、セシルさん。あなたと過ごした時間は本当に楽しかったです」

 それきりセシルさんは振り返ることなくフィガス・テクナーを去っていきました。
次に会うとき、セシルさんの髪の色はどうなっているのかな。プラチナの輝きが強くなっているのかな。
浅黄色の紐で結わえた後ろ髪は、もっとずっと長くなっているのかな。
 そのときまで歴史の本もたくさん読んでおこう。あの古書店にも通い詰めよう。
一晩語り明かせるようになったら、それはきっと素敵な想い出になるでしょう。

(胸躍るお別れなんて、今まで生きてきて知りませんでしたよ、少年探偵さん――)

 古書店から連絡があったのは、その日の午後のこと。
 五〇〇ページにも及ぶ革表紙の書物は、今も私の手元で大事に大事に預かっています。





本編トップへ戻る