「六連銭(むつれんせん)」とは、佐志の古い言い伝えで冥府の川の渡し賃を意味している。
現世と冥府を別(わか)つ川や、銅貨を受け取って死者の魂を運ぶ船頭の話は、
何も佐志に限定された民間伝承ではなく、マコシカにも諸説のひとつとして語り継がれている。
 何やら霊威に圧迫されてしまいそうなその名を、佐志で唯一の軽食喫茶兼スナックは看板に掲げていた。
冥府の川の渡し賃を店名にするなど縁起でもないことであるが、しかし、店内は何時でも大繁盛。
昼は老若男女が気軽に集まり、夜は赤ら顔の酔客で大いに賑わっている。
 そもそも、だ。この店に足を運ぶ客の中で、六連銭の本来の意味を解っている人間はどれだけいるのだろうか。
よくコーヒーを喫(の)みに来訪するアルフレッドも、守孝から由来を教わるまで六連銭の意味を理解してはいなかった。
 一度、極端に化粧が濃い女主人(ママ)へ六連銭を店名として選んだ理由を尋ねたことがある。
 するとこの女丈夫は、「この村の連中は、どいつもこいつも命知らずばかりだからねぇ。
くたばる前にココで一杯ひっかけていけってコトさ。どうせくたばるンなら、
悔しさよりも美味い酒の味を噛み締めながら逝ったほうが幸せじゃないかね」と、酒焼けの濁声で闊達に笑ったものだ。
 守孝や源八郎を見ても解るように佐志の好漢たちはいずれも勇猛である。
そして、その気骨は銃後を守る女性たちも備えているのだ。無論、佐志の武装漁船には女戦士の姿も少なくない。
 死地へと赴く戦士を見送るに当たって、情に流されて湿っぽくなるのでなく、
「思い切り死んでこい」と背中を叩こうと言う潔さには、アルフレッドも素直に感心したものである。

 食にこだわりのないアルフレッドは、これまで「行きつけの店」と言うものを持ったことがなかった。
有名店が犇めき合う大都会――ルナゲイトやフィガス・テクナーを訪れた際、
フィーナは「何度でも通いたくなるカフェ」なるものの開拓に勤しんでいたが、それを彼はミーハーと鼻で笑ったほどだ。
 アルフレッドにも好物くらいはある。香り立つスモークサーモンには本当に目がないのだが、
基本的には食事は栄養摂取の手段であり、食べ歩きをしてまでフィーリングの合う店を探そうと言う気にはならなかった。
 フィーナとの様々な“記念日”でさえ特別なレストランを予約することもなく、
周りから急かされた挙げ句、近所のパン屋で祝いのケーキを調達するような朴念仁である。
しかも、ケーキが見つからないから菓子パンで代用すると言う有様だった。
 趣味や趣向と言う事柄について破滅的に鈍感な男にも関わらず、六連銭には足繁く通い詰めていた。
 ここ以外に目ぼしい飲食店がないから――と言うわけではない。
女主人(ママ)が自ら挽くコーヒーは格別であり、また、新鮮な魚介類を使ったパスタやサンドウィッチは、
グルメとは言い難いアルフレッドですら飛び上がるくらい驚いたものである。
 しかし、飲食の好嫌だけでは朴念仁の心は動かない。アルフレッドは店内の雰囲気を心底気に入っているわけだ。

 スナックも兼ねているので、お世辞にも内容が落ち着いているとは言えなかった。
昼間は衝立でもって隠されているものの、隅に追いやられたカラオケ・マシーンの一揃いは、
ただそれだけで酔客の乱痴気騒ぎを想起させる。天井のミラーボールに至っては隠しようがあるまい。
 自警団気取りの叢雲カッツェンフェルズも六連銭を溜まり場にしている。
エスプレッソを供に新聞を読んでいれば、ハリエットあたりが喧しく擦り寄ってくるのだ。
 近頃、花嫁修業に打ち込んでいるマリスは、余暇には女主人(ママ)に厨房を借りて料理を猛特訓している。
その度、彼女お手製の創作料理――マリス曰く、家庭料理である――を押し付けられるのだが、
脇でタスクが目を光らせている為、どのようなキワモノであっても平らげる以外にアルフレッドには選択肢がない。
 贔屓目に見てもマリスの料理は失敗作ばかりである。本来のタスクの立場からすれば、
手際の悪さを注意して改善を促すべきではないのだろうか。
 このように辟易すべき事態が数多く待ち構えているにも関わらず、アルフレッドは六連銭へと通い続けている。
 アルフレッドの人生に於いて、それは大きな変化と言えよう。
思量をまとめるのに適した静かな空間を好む男であった筈なのに、今では六連銭の喧騒が最もリラックス出来るのだ。

「――またひとりかい? アル君ってば、最近、ますます枯れてない? フィーナちゃんくらい連れてきたらいいのに」

 アルフレッドが六連銭を好むのは、実はこの店で働くウェイターの存在も大きい。
女性と見紛うばかりの美貌で数多の視線を釘付けにするこの青年とは、古くからの付き合いであった。
 カウンター席に腰を下ろし、「いつものを」と女主人(ママ)に注文したアルフレッドは、
水が並々と注がれたコップをウェイターから受け取ると、彼の軽口に「放っておけ」とぶっきら棒に返した。
 ともすれば、機嫌を損ねたように見えなくもないが、昔馴染みだけにウェイターが慌てることはない。
アルフレッドが本気で腹を立てることは有り得ないと、その心根まで看破しているわけだ。

 「そーゆーのを甲斐性ナシって言うんだよ」と笑気で肩を震わせるウェイターの名は、カミュ・レイフェルと言う。
 『グリーニャ』と隣接する町、『シェルクザール』の出身者であり、
ギルガメシュの侵略に晒されて佐志まで落ち延びてきた戦災者のひとりであった。
 今は灰燼に帰したシェルクザールのサルーンでもウェイターをしていたカミュは、
自然と六連銭で働くようになり、少し前に結婚した愛妻と共に女主人(ママ)の家へ居候している。
 つまり、アルフレッドとは故郷で暮らしていた頃からの馴染みと言うわけだ。
あるいは、戦災と言う悲壮な境遇を共有し得る友人と言えるのかも知れない。
 但し、「共有」と言っても、その全てを分かち合えるわけではない。
アルフレッドの場合、カミュと違って戦地へと赴き、直接的にギルガメシュと相対している。
実際に質すことはないにせよ、銃後を守る人間と合戦する人間との意識の違いと言うものは確かに潜在している。
 カミュを雇うようになってからは女主人(ママ)にも変化が及んでいた。
故郷を焼き払われ、恩人をも殺害されたカミュに気を遣っているのか、
あるいは佐志の新たな住民たちに心情の面でも歩み寄ろうと言うのか、近頃は六連銭の由来を説くことも少なくなっていた。
「美味い酒を飲んでから逝け」と言う威勢の良い啖呵も滅多に口にしない。
 佐志に流れ着いて間もない戦災者たちにとって、「死」に直結する事柄は余りにも生々しく、
心に大きな負荷を与えるものであるのだ。
 六連銭の女主人(ママ)が、その豪放な気風を再び表に出すには、暫しの時間(とき)を要することだろう。
 だが、女主人(ママ)とカミュの間に本当の意味で遠慮がなくなるのも、そう遠くない未来の筈である。
 様々な葛藤の末、カミュは亡き恩人――シェルクザールで勤務していたサルーンのマスターだ――から
受け継いだレシピを守る道を選び、女主人(ママ)のもとで働き始めたのだ。
 たどたどしい足取りではあるものの、彼もまた己の進むべき路を見定めていた。

 サルーンのマスターが完成させたレシピの幾つかは、カミュの手を経て、女主人(ママ)にも伝わっている。
アルフレッドのもとに運ばれてきたサーモンのベーグルサンドはその最たる例であった。
 これは、件のサルーンへ立ち寄った際にアルフレッドが「いつもの」と注文していた一品である。
 遺されたレシピを通して、故人の味(たましい)が受け継がれていく――ベーグルサンドへ噛り付く度、
アルフレッドの胸には不思議な感慨が去来するのだ。

(材料の産地が違うから細かい違いはあるけど、やっぱりマスターの味だよなぁ……)

 六連銭を訪れると、失われた故郷や在りし日の原風景と言うものがアルフレッドの裡で蘇り、
戦いの日々で荒みがちな心を優しく包んでいく。彼はその幸せな時間を手放すことが出来ないでいるのだ。
 感傷に浸るなど自分には最も不釣合いと思っていた。
グリーニャを守りきれなかった自分には、そんな資格すらないと考えていた。
ある種の独り善がりとも言うべき自制は、しかし、カミュによって解き放たれるのである。
 「戦争によって傷ついた旧友のご機嫌伺い」と言う意識がアルフレッドの足を六連銭へと向けさせるのだった。
 それは自分を誤魔化す為の口実に過ぎないだろう。そして、何らかのきっかけでもなければ、
自分から幸せな時間へ触れていくことが出来ないくらいに彼は不器用なのである。

「こないだもテムグ・テングリの本拠地(おしろ)で大活躍だったみたいじゃない。
軍師――だっけ? そう言う大変な仕事を立派に務め上げたんだってね。
アッシュも『あのライアン君が……』って驚いてたよ。まさか、電器屋さんの跡取り息子がねぇ〜」
「……ローガンだろ、そんなことを話しているのは。あいつにも困ったもんだ……」
「ん? ぼくに自慢話をしてくれたのはフィーナちゃんだよ?」
「もうひとり、バカがいたか……。ローガンもフィーも、その場に居なかったくせに、よくそんなことを喋れるもんだな」
「それだけアル君のことを誇りに思ってるってことじゃないかな」
「ありがた迷惑だ」

 難儀な生き方しか選べない昔馴染みの心根を察し、少しでも旧友へ寄り添おうと言うのか、
カミュはアルフレッドの“務め”について――ギルガメシュとの争乱について興味深そうに尋ねた。
 無血開城を経て佐志に帰還して以来、アルフレッドはカミュを相手に外の世界の戦争を説く機会が増えていた。
鉄火によって故郷と恩人を失ったカミュは、ギルガメシュの名を聞くだけでも相当に辛かろう。
 それでもカミュはアルフレッドに寄り添おうとしている。
同じ境遇に身を置きながら、似て非なる心を抱えた旧友との距離を少しでも埋めようと努めていた。
 ベーグルサンドの最後の一切れをエスプレッソで流し込んだアルフレッドは、カミュの質問には答えず、
代わりに彼の頭を鷲掴みにし、ふんわりと盛り上がっていたブロンドの髪をグシャグシャに掻き乱した。

「ちょっともー、何するのさぁ〜」
「変な気を遣うな。……六連銭(ここ)でまで鬱陶しい話をしたくない」

 アルフレッドの物言いは、またしてもぶっきら棒である。今度こそと機嫌を損ねてしまったのではないかと、
他の客に料理の皿を差し出しつつ女主人(ママ)はちらりとふたりの様子を窺った。
 しかし、アルフレッドは席を立とうとはしない。カミュもエスプレッソを啜る旧友を微笑ましそうに眺めている。
争乱の話を「鬱陶しい」と吐き捨てたとき、アルフレッドの心にどのような想いが浮かんでいたのかも
カミュは看破していたらしい。

「電器と言えば――この間、表の電灯の調子が悪いと言っていなかったか?」
「そうそう、電球を取り替えてもダメだったんだぁ。ママはそのままでも気にしないって言うけど、
六連銭が五連銭になっちゃってるのは、さすがに恰好つかないからねぇ」
「……俺で良ければ見てやるぞ。一応、道具も持ってきたが……」

 場の空気もろとも話題の摩り替えを図るアルフレッドの足元には、何やら古びた工具箱が置かれている。
そこには“嘗て”の仕事道具一式が納められているのだ。

「え〜、おじさんじゃなくて大丈夫なの? アル君、暫くそっちの仕事から離れていたし、腕、鈍ってるんじゃない?」
「侮るな。一度、身に着けた技術と言うものは、そうそう抜け落ちるものではない」

 エスプレッソを飲み干し、女主人(ママ)に礼を述べたアルフレッドは、早速、工具箱を携えて表に出ていく。
その背中を「メシ代はお駄賃ってコトにしとくよ」と言う濁声が追いかけた。

「美味いメシをタダで食えるなら、お安い御用だ。何時でも呼んでくれ」
「嬉しいコトを言ってくれるじゃないか。婿にでも来るかい? 毎朝、味噌汁を作ってやるよォ?」
「いけませんよ、ママ。アル君ってば女癖悪いってウワサが立ちまくってるんですから。
ママまで参戦したら収拾つかなくなりますよ」
「……後で風評の出所を尋問するから、そのつもりでいろよ、カミュ」

 カミュ、そして、女主人(ママ)へと受け継がれたレシピによって、アルフレッドは在りし日のシェルクザールと再会し、
その先に原風景(グリーニャ)を見出している。望郷を噛み締めている。
 カミュとて、それは同じことであった。彼も旧友との語らいを通じて失われた故郷を間近に感じているのである。
 佐志に流れ着いた戦災者にとって、六連銭とは憩いの場であるのと同時にグリーニャであり、
またシェルクザールでもあるわけだ。
 六連銭(ここ)でまで鬱陶しい話をしたくない――不意に漏れ出た一言は、
あるいは戦災者たちの心の最も深い部分に根ざした想いの吐露なのかも知れない。

「――表にアルがいたけど、あいつ、メカニックに戻ったのかい?」
「おや、いらっしゃい、ニコラス君。ミストちゃんも一緒なんだ。
……まったく……表のメカニックくんにキミの爪の垢でも煎じて飲ませてやってよ」
「お、同じようなことをフィーナちゃんにも言われました……」

 六連銭は今日も千客万来で大繁盛だ。喉の渇きを潤したい者も、腹を空かせた者も、
どうにもならない想いを抱えた者も――この店は分け隔てなく受け入れる。

「さて、おふたりとも、今日は何にする? 日替わりランチはシーフードハンバーグ定食だよ」
「それも捨て難いけど、メシはいいんだ。とりあえず、アイスティーをひとつ」
「私もラス君と同じ物を……」
「はーい、承りました〜。女主人(ママ)、ビッグサイズのアイスティー入りま〜す。ストローは二本ね」
「なッ、ば――そ、そんなん頼んでねぇよッ!」
「わ、わた、私、ちょっとやってみたい――かもです……」
「あ〜らら、ミストちゃんってば大胆!」

 佐志唯一の軽食喫茶兼スナックは、今日も明日も、何時までも賑やかである。





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