夜も更け、日付が変わる頃――蝋燭に火が点された提燈の前に立つナタクは、腕組みしながら静かに月を睨んでいた。 陽之元から遠く離れた土地でも見上げる月は同じものだ。人によっては切ない郷愁を抱くことだろうが、 瞼の半ば落ち掛けている瞳に宿したのは、祖国への想いではなく懊悩である。眉間にも深い皺が寄っている。 覇天組局長はこの姿勢を既に一時間は続けていた。 「――この国が罹った病気を治すには、骨組みを全部取っ替えるくらいの荒療治が必要なんだよ。 血と肉は変えようがない。病原体で冒された脳もね。しかし、脳の命令を実行しているのは何処だい? 肉体を実際に動かしているのは骨だよ。頑丈な筋肉を纏っていても骨が折れてしまったら、どうしようもない。 肉体を国に喩えるなら、そこに生きる人たちは骨の一本一本だ。 ……ナタク君、俺は自分が小指の骨の、その一欠けらだろうと、間違った命令には逆らい続けるつもりだよ」 或る男の声が脳裏に蘇り、その言葉が持つ意味を噛み締めるようにしてナタクは双眸を瞑った。 覇天組局長はそれを「骨の教え」とも呼称し、常日頃から意識している。 この世で最も尊敬する師匠の言葉であった。 ナタクより一回り年長の者で、名をフゲンと言う。 一言で表すならば、フゲンと言う男は「自由闊達」。この四字を絵に描いたような人物であった。 政治や貿易、軍事など『国』を動かす為に必要な知識を知り尽くし、 これを最大の武器とする思想家――フゲン本人はこのように呼ばれるのを忌み嫌っている――なのだが、 気取ったところが全くない。すぐ隣に居る近所の兄貴分と言った親しみ易さがあった。 何事にも興味を示し、それを全力で楽しみ、誰よりも大きく笑う男なのだ。 反面、意外と喧嘩っ早くて情に脆い。人間味に溢れ、一緒にいるだけで楽しい気持ちになれる―― その人柄を慕う者は数限りない。 ナタクの目には、まさしく天才を具現化したようにしか見えなかった。 子どもの頃、フゲンが著した書物を読んで深く感銘を受けたナタクは、 私塾すら開いていなかった彼のもとへ半ば押しかけるような形で弟子入りしたのだ。 勢い任せの弟子入りではあったものの、フゲンはナタクのことを疎んじることなく本当に可愛がっていた。 自身が学んできた知識を噛んで含めるように授けていったのである。 鞄ひとつを提げて世界各地を歴訪したこともある。 他国の優れた物を貪欲に学び、自ら試していくことをフゲンは愛していた。 染髪が流行っていると聞くと、やや撥ねた後ろ髪の先まで薄茶色に染め、 木製のヘッドフォンは独特の音≠ェ楽しめると聞くと、生活費を切り詰めてでも上等な品を試してしまうのだ。 こうした具合に、興味が引かれたら即行動。天の頂きだろうと地の底だろうと、サンダル履きで駆け付ける為、 ナタクは誰よりも頼もしい用心棒であった。 無論、ナタクも師匠の行くところは何処までも随いていく。 各地の民族武術とも交流し、武芸を嗜む人間としても得るものが多かった。 それはナタクの人生に於いて最も充実した日々である。 ただ瞼を閉じるだけで、師匠との旅は昨日のことのように想い出せるのだ。 クリッターが徘徊する危険地帯で野宿したときのことは、最高に愉快な想い出として残り続けている。 夜を徹して師匠を守ると息巻くナタクに「一晩中、気を張ってたら、結局、明日動けなくなるだろう?」と 朗らかに笑いかけたフゲンは、頑丈そうな木を見つけると、その枝の上に腰を下ろしたのだ。 一先ず高い位置に逃れておいて、人類の天敵たるクリッターをやり過ごそうと言うわけである。 「死ぬときゃ死ぬんだから、ここで慌てたって仕方ないさ。休めるときに身体を休めておくのが吉。 それよりも、ホラ――木の上、枝葉の間から眺める星空ってのは見事なもんだよ。ナタク君も早く上がっておいで」 身の危険をも笑い飛ばしてしまえる師匠の肝の据わりように、ナタクは心の底から敬服したものである。 フゲンが語ったように、その夜に眺めた星空は格別だった。 そのときの出来事も、フゲンは後に著した書物の中で触れていた。 意図的に危険な場へと身を置くことで、初めて気付かされるものは多いのだ、と。 愉快な旅の想い出と言えば――行く先々でフゲンは年齢を間違われていた。 彼はとにかく見目が若い。肌の色艶など齢を重ねるごとに増しているように思えた。 隣に在るナタクのほうが年長に見られることも多かったのだ。 フゲン本人曰く――好きなことを好きなようにやっているのだから、眉間に皺を寄せる理由もないとのことだ。 尤も、師匠が無責任で軽薄な人間でないことは愛弟子のナタクが誰よりも解っている。 手先も生き方も、何もかもフゲンは器用だった。思考も柔軟、豊かな発想力は、広がりに果てがない。 自他共に認める不器用なナタクには、師匠の存在は太陽の如く眩しかった。 この男の為なら自分の生命を捧げても構わない――そう思える相手なのだ。 覇天組局長となり、遠征などで多忙となった現在(いま)も、 時間の許す限り、フゲンのもとへと足を運んで時局を語らっている。 嘗て同じ思想家から異端児のように扱われていたフゲンも、現在では陽之元の要職に在った。 「――血肉と骨に喩えて国の仕組みを話したこと、まだ憶えているかな? 俺たちのしていることは、人間の身体では『神経』に当てはまるんじゃないかって思うんだよ。 骨を――いや、正確には筋肉なんだけどさ、そいつを動かす為に神経が働いている。 神経が刺激を与えて、初めて骨身は動き出す。……ナタク君、キミは陽之元の『神経』になれ。 キミの戦いが多くの人たちを覚醒させるんだ。それはキミにしか出来ない大仕事なんだよ」 後に『北東落日の大乱』と呼ばれるようになる陽之元史上始まって以来の革命に際して、 フゲンは「骨の教え」に新たな言葉を付け加えた。 祖国の『神経』となれ――その教えを反芻しながら、ナタクは双眸を開いた。 (世の中には『骨』を蝕む大病もある。……そうなる前に根っこを斬り捨てなきゃならねぇ……) 見据えた先の月には、小さな雲が掛かろうとしている。 「ジャージでこんなところに突っ立っておったら風邪を引くぞ。お主、寒暖の差には滅法弱いじゃろう」 「ん……」 ただひたすら月を睨み続けるナタクに声を掛けたのは、休憩室の扉を開けて顔を出したラーフラである。 何時までも戻って来ない局長を心配し、他の隊士を代表して様子を見に来たのだろう。 北方に所在する国と言うこともあって夜半は相当に冷え込み、ラーフラは黒いコートを羽織っている。 彼の面にも局長と同じように苦悩が滲んでいた。 明らかに酔っ払っているらしいホフリの声が漏れ出す扉を閉め、ナタクの傍まで歩み寄ったラーフラは、 ひとつに束ねた長い髪が垂直に流れる背をじっと見つめている。 総長による特別研修≠燒驍ェ更ける前には締め括られ、ホフリら三人も屋根から下ろされていた。 そうでなかったなら、ナタクは夜天の月ではなく振り子の如く風に揺られる問題児を眺めていただろう。 「――『艮家(こんけ)』のことを憂えておるのか?」 「他に何があるんだよ。解決しなけりゃならねぇことが一気にふたつになっちまったんだぜ? その上、両方とも飛びっきり厄介と来たもんだ」 「ならば、艮家の捜索は鬼道衆に任せてもよかろう。ワシらに命ぜられたのはギルガメシュの討伐じゃ。 手柄ひとつくらい向こうに渡しても構わんじゃろう。……内乱の残り火を消して回ったところで、 教皇庁からは厭味を言われて終いじゃ。ワシらに何の得もない」 「お前みたいに割り切って考えられたら、どれだけラクかねぇ」 「褒め言葉と受け取っておこうか」 「……陽之元の脅威になりそうなモンは捨て置けねぇだろ」 ラーフラに応じながらも、ナタクは月を睨んだままで振り返ろうとはしない。 長年、戦い続けてきた宿敵の血族が外国に残されている――その報せは既にミカヅチから受けていた。 重大な情報を携えて訪れた鬼道衆の『肝煎』を迎え、先程までこの仮屯所でささやかな酒宴を催していたのだ。 「ささやかな酒宴」と言っても、それは持ち寄った酒と肴の量である。 ミカヅチはシュテンやアラカネ、ホフリとも古馴染みであり、 酒宴そのものは教会から苦情が出されるほどの大盛り上がりとなった。 旧友を囲んでの酒宴だけに楽しくない筈もないのだが、どうしてもナタクは顰め面を和らげることが出来なかった。 ミカヅチ本人と酒を酌み交わしている間も、気が付けば難しい表情(かお)になっていたのだ。 賓客たるミカヅチが自身の宿所へと帰った後も問題児三人を中心に酒盛りは続けられたが、 ナタクはそれに加わる気になれず、用を足すと言い残して屋外に出ていたのである。 「分かっちゃいたが、艮家は、アレだな、腸ン中の細菌みてーなモンだな。際限なく増えていきやがる。 ヤツらを潰すのは菌の宿主を、国そのものを殺すのに等しい――そう言ったのはお前だったな」 「左様。……真にキリがないわい。虱潰しのように何時までも戦いが続く。始末に負えぬとはこのことじゃ」 「それだけは避けてぇもんだ。長引けば長引くほど、このテの殺し合いは攻めたほうが不利になる。 アタマがおかしくなっちまわぁ。そう言う意味でも艮家のヤツらは細菌だな」 「……生命が惜しくなったか?」 まるで挑発でもするかのような物言いだが、ラーフラの場合、寧ろ局長に己の生命を惜しむよう願っている。 これは隊士全員の憂慮でもあった。近頃の局長は無謀な戦いばかりを繰り返しているのである。 さりながら、隊を死地に導いているわけではない。平隊士に先駆けて乱戦に飛び込み、 敢えて己の身を危険に晒しているのだ。周りからは死に急いでいるようにしか見えなかった。 旧権力と争っていた頃よりも遥かに激しい戦い方は、 他の隊士に規範を示そうと言う意思からは掛け離れているようにも思える。 「俺がくたばる分には一向に構わねぇさ。むしろ、標的(まと)にして欲しいくらいだ。 ……ただな、つまらねぇ後腐れで隊士に痛手が出るのだけは何があっても避けてぇ」 覇天組局長と言う立場から責任ある言葉を発する一方、自らの生命を投げ出すようなことを平気で口にするのだ。 ナタクを補佐する副長としては、このような放言は気が気ではなかった。 ナタクと言う男の半生は常に「戦い」と共に在った。 そして、その歩みを誰よりも近くで見つめてきたのは他ならぬラーフラなのだ。 今もラーフラはナタクの背を真っ直ぐに見つめている。 「さっき、ミカヅチの野郎も言っていたが、未だに『北東落日の大乱』の呪縛から抜け出せねぇのは、 内戦で死んでったヤツらに顔向け出来ねぇのとおんなじだって思ってよ。 艮家の影に怯え続けていたら、皆が無駄死にってことになっちまう。……そんなことは絶対にさせねぇ」 「……ならば、まずはお主が変わらねばなるまい。丁度良い機会じゃ。己を見つめ直すが良いわ」 「何を言ってんだ」 「永らえた生命を全うせず、中途半端にあの世へ行ってみよ。あやつらはお主を責めるぞ、局長。 こんな阿呆の為に生命を賭したのは無駄だったのかと、あやつらに悔やませて良いのか」 「俺を責めて気が済むんなら、サンドバックでも何でもなってやらぁ。俺みてぇな人間にはそれがお似合いだ」 「局長ッ!」 「だから、俺がおっ死(ち)ぬ分には良いって言ってるじゃねぇか。 局長として守らなきゃならねぇのは隊士の生命。先に逝った連中も含めてな」 「隊士の生命を預かる立場であればこそ、己が人生をよくよく考えよと申しておるんじゃ。 覇天組を率いることはお主の使命、隊士の生命に責任を持つことは義務。それは良(よ)う分かっておる。 ……されど、お主自身はどうなのじゃ? 生命を如何に使おうとしておる?」 「これでも覇天組局長に相応しい使い方をしているつもりだぜ」 「その戦いの中で何を幸せに思う? ……今、お主は何かに幸せに見出せておるのか」 ラーフラの声がナタクの背に鋭く突き刺さる。それでも彼は相棒を振り返ろうとはしなかった。 「振り返ってみると、お前とは本当に長ェよな、ラーフラ。 ガキの頃からずーっとつるんで来て、何時までこんなことやってんだろうと思ってたら、 何だか一生の付き合いになっちまった。……そんな相手はお前くらいだ」 夜天の月へと目を向けたまま、ナタクは昔日を懐かしむように語り始めた。 あからさまに話題を摩り替えられ、思わず険しい表情を作るラーフラであったが、 逸脱させられた話の筋を強引には戻さず、敢えて彼の追憶に応じていった。 「ワシだけではなかろう。付き合いの長さだけならば、ニッコウもシンカイも、ゲットもジャガンナートも、 お主との関わりはワシより深いじゃろ。ワシは後から交わっただけじゃからな」 「バカ、そんなことを言ってるんじゃねぇだろ」 「……そんな者ばかりじゃな、覇天組は。ワシらが初めて顔を合わせたときにはシュテンも居合わせておった。 アラカネとホフリ、ハクはお主のほうが良く知っておったかな。ルドラさんはちと事情が違うがの」 「どいつもこいつも十代の頃からのダチばっかりだ。そんな連中を巻き込んじまった責任は 何があっても果たさなきゃならねぇ。……手前ェのことなんか顧みてられっかよ」 「それはワシの台詞(ことば)ではないか。お主を担いで運命を狂わせた張本人はワシじゃ。 僧籍に身を置こうとしておったのを引き止めたのもワシではないか」 「そんなこともあったな。……あのままハハヤに局長を譲ってたら、俺はどんな風になってたんだろうなぁ……」 追憶の最中にナタクは微かに嘆息を漏らし、これを漏らさず聞き取ったラーフラは俯き加減となった。 「……ワシとしたことが莫迦なことを言うたものじゃ」 「お前のバカは昨日今日始まったモンじゃねぇだろ。十年以上も付き合ってりゃ慣れるさ」 「人並みに生きるチャンスをお主から奪っておいて、今更、幸せについて説教するなど阿呆の極みじゃ……」 「……またひとつ、バカが追加されたぜ」 「そうじゃ。ワシはどうしようもない莫迦なのじゃ――」 ラーフラの声には己を愧じるような色が混じっている。 「――恨むか、ワシを」 「感謝してる、お前に」 覇天組の局長に据えたこと――それが正しかったのか否かを改めて問うラーフラと、ナタクは静かに視線を交えた。 自責の念に苛まれていた副長を振り返り、正面切って彼のことを見つめ返した。 局長の面からは艮家に対する煩悶は消え失せている。今は何者をも包み込むような深い慈愛を宿していた。 無論、そこには古くからの相棒に対する感謝と信頼も含まれている。 「お前に出逢っていなかったら、俺は今も不貞腐れた人生を送っていたと思うぜ。 それどころか、とっくの昔に気が違っていたかも知れねぇ。 ……そんなクソったれた運命をお前に変えて貰ったんだよ、俺は」 「ナタク……」 「自慢じゃねぇが、俺は戦うことしか能がねぇ。……ンなこと言い切っちまうとフゲン師匠に申し訳が立たねぇけど、 手前ェの性分なんてのは自分が一番解ってるし、なかなか変えられるもんじゃねぇ――」 ナタクが口にした『フゲン』とは、彼の学問の師匠である。 丁度、一回り年齢の離れた師匠のことをナタクは心から敬い、 陽之元で最も先進的な頭脳から様々な事由を学んでいたのだった。 覇天組結成以前――若かりし頃には師弟で陽之元中を旅して回ったこともある。 そのときに培った経験は、覇天組局長にとって何物にも代え難い生涯の財産なのだ。 そして、ナタクの財産は師匠より授けられた知恵だけではない。 ラーフラを筆頭とする覇天組の仲間たちは、局長たるナタクの生き甲斐そのものと言えよう。 「――だからよ、運命を狂わせちまったとか恨むかどうかとか、そんなシケたことを言うんじゃねぇよ。 ……アレだぜ、俺は今の人生が割と幸せなんだぜ?」 自分は不幸せではない――そう言いながら、ナタクは相棒の肩をどやしつけた。 それもまたラーフラの心を揺さぶった。両者は気が遠くなるくらい付き合いが長いのだ。 どこまでが局長の本心で、どこまでが副長を心配させない為の建前であるかも、すぐさまに見抜けてしまう。 そもそも、だ。己の人生を本当に幸せだと思っている人間が、半ば死んだような眼になるわけがあるまい。 「……『獅斗(シド)』――」 口を衝いて出た言葉に自らが驚き、ラーフラは右手でもって口元を覆った。 副長は目の前に在る局長に対して、ナタクではなく『獅斗(シド)』と、全く違う名前で呼び掛けたのである。 獅斗と呼ばれた瞬間、ナタクの面に虚ろな笑みが浮かび、これを認めたラーフラは思わず眼を逸らしてしまった。 「――父様? ラーフラさんも……何もこんな寒空の下で議論をする必要はないでしょう?」 ナタクとラーフラ、覇天組の局長と副長は、視線を交えないまま無言で立ち尽くしている。 暫時の沈黙を切り裂いたのは、局長の養子(むすこ)たるヌボコの声であった。 ナタクを呼び戻しに出向いた筈のラーフラまで帰ってこないことを心配したのであろう。 銀髪を後ろに束ね、ジャケットを羽織った姿を夜天に晒している。 寒々しい月明かりを跳ね返した銀の髪は、提燈から発せられる暖かい光と溶け合って不思議な趣を作り出していた。 「……俺はナタク≠セぜ。お前がラーフラ≠ナあるようにな」 ヌボコの呼び声に片手を上げて応じたナタクは、その手をラーフラの肩に置くと、 彼の瞳を真っ直ぐに見つめながら、己の名を繰り返した。己は『ナタク』である、と――。 それきりナタクは振り返ることなく仮屯所の中に戻っていった。 ヌボコも父に従ったが、扉を潜る寸前にラーフラへと目を転じ、「酒でも呑んで身体を温めて下さい」と再び促した。 しかし、ラーフラはその場から一歩も動こうとしない。先刻までの局長のように険しい表情で月を睨み続けている。 「何を話し合われていたのかは存じませんが――ラーフラさんあっての父様なのですから。 身体を壊されては覇天組そのものが立ち行かなくなるのです。……副長もご自愛を」 ヌボコの――局長の養子の言葉を背に受けたラーフラは、それでも彼を振り返らず、 ゆっくりと首だけを肯かせるのだった。 首肯に秘められた想いとは何か――公私に亘って父のことを支える副長の真意に少しでも近付きたくて、 その痩せた背をヌボコは静かに見据えている。 ヌボコの心は時間を数十分ばかり遡っていた。 ミカヅチが去り、次いでナタクが屋外に出て行き、その後をラーフラが追いかけた直後のことだ。 総長であるルドラは、副長と示し合わせて席を立つ――と言うようなこともなく、 その場に座したまま、酒宴で余った肴に箸を伸ばし続けていた。 それがヌボコには不思議でならなかったのだ。ナタクは――父は常日頃からラーフラとルドラのことを 己の右脳と左脳だと語っていた。覇天組の局長と言う重責も両雄の支えなくしては成り立たないのだ、と。 そこまで信任が厚く、また付き合いの古いルドラであったなら、 ラーフラと共にナタクの様子を窺いに出向くのが自然であろう。 総長と言う立場は覇天組に於いて副長と同格であり、何ら気兼ねする必要もない筈だった。 疑念を口にしても、ルドラはただ微笑むばかり。 「ナタク君とラーフラ君にはね、ふたりで話す時間が大切なんだよ。 あのふたりの歩みと言うのは実に複雑でね。……私だって立ち入ることが出来ないんだ。 私だけじゃなく、他の誰にも割り込めないと思うよ」 小皿に取り分けたチキンナゲットをヌボコに勧めつつ、覇天組の総長は静かに首を横に振るのだ。 「それはあるかも知れねぇな〜。何だかんだ言って、あのふたりは親兄弟より絆が深いもん」 シンカイの杯へ米酒を注いでいたニッコウが、ルドラの話に深々と頷いた。 ナタクとラーフラの歩み――その話に興味を覚えたのか、床の上で無軌道に転がっていたホフリが急に立ち上がり、 ニッコウに向かって、「なんだっけ、ナタクとラーフラのおっさんって最初は敵同士だったんだっけ」と、 大仰に首を傾げて見せたのだ。 次いで「おめーも、おめーも」と、シュテンとアラカネを順繰りに指差し、最後には腹を抱えて笑い出した。 「オイラもおんなじか! どいつもこいつもナタクの敵だらけじゃね〜か!」 さしものニッコウも、これには面食らってしまった。 ナタクとラーフラの間に何があったのかは、以前にもホフリに訊ねられて答えた憶えがある。 そもそも、長らく共に歩んできた彼が件の話を知らない筈がないのだ。 酔っ払って記憶が曖昧になっている証拠であった。 「それを言えば、俺だってナタクの敵≠ニ言うことになる。 道場での試合だったが、俺のほうから一方的に難癖を付けて無理矢理立ち合ったんだぞ?」 再び寝転がって笑い声を上げるホフリに応じたのは、意外にもシンカイであった。 渋味のある紺色の着流しを纏い、米酒の注がれた杯を端然と傾けている。 剣豪に相応しい胆力から常に冷静沈着であり、並大抵のことでは動じない男であるが、 酒が入って気持ちが大らかになっているのだろう。ホフリの酩酊を咎めようともしなかった。 若き日の記憶を紐解くことは、峻烈に研ぎ澄まされたシンカイの心をも解きほぐすようで、 平素なら厳つく釣り上がっている一本≠フ眉も、このときばかりはなだらかである。 「始まりは俺とニッコウ。それからゲットが加わって、最後にジャガンナートも入ってきた。 ……ナタクが俺たちの故郷にやって来たことから全ての縁が始まったのだ」 「あー、シンくん? ボクのことは抜きにしておくれよ。昔話とか最高に鬱陶しいんだ」 やはり仲間たちの輪から外れたところでグラスを傾けていたジャガンナートは、 自分の名前が挙げられた瞬間、シンカイの話を遮った。 馴れ合いを好まない彼には、こう言った類の話は頬がこそばゆくなるだけなのだ。 しかし、それを聞き入れるシンカイではない。大股でジャガンナートのもとまで歩み寄ると、 その首に腕を回し、「要らんわけがなかろう。お前も死線を共にした親友だ」と自らの杯を差し出した。 素っ気なく目を逸らすジャガンナートだったが、何時まで経っても退かないシンカイに根負けし、 彼の手から杯を受け取ると、並々と注がれていた米酒を一気に飲み干した。 その間に背後へ回り込んでいたゲットが空になった杯へすかさず酒を注ぐ。 一匹狼を気取って仲間の輪から外れがちな親友をこの場に留め置こうと言うのだ。 正面は肴を持つニッコウが押さえてしまった。 「色々あったねぇ〜。竹馬の友とは言うけど、命懸けの戦いまで分かち合うのはおれらくらいなもんだろうね」 「ナタクが来なかったら、あのつまんねー田舎で一生グダグダやってたのかもな。 何もかもおかしいと思いながら、何も出来ねぇようなクソ田舎だもんなぁ。 ま、ゲットは村医者に納まってたんじゃね〜の」 「そうかな。ジャガンナートに引っ掻き回されて、地図から村の名前が消えてお終いだった筈だ」 「……シンくんさぁ、酒を酌み交わしたいのか、喧嘩売りたいのか、どっちかにしてくれる?」 最初の内はジャガンナートも苦笑を浮かべていたが、間もなくそれは柔らかな微笑に変わった。 その様を見て取ったホフリは、「オイラんときとは反応が違うじゃねーか、ちっきしょ〜!」と拗ねている。 昼間、ジャガンナートへ親しげに接したときには思い切り疎ましがられたのだ。 同じ仲間なのに差を付けられてしまったようで寂しいわけである。 「僕がセンパイに弟子入りしたのもその頃なんだ。……他所の土地からやって来たセンパイのことが、 最初は気に入らなかったんだけど、シンカイさんとの試合を見て、一発でファンになっちゃってさ。 我ながら単純だと思うけど、それくらいセンパイの戦いはスゴかったんだ」 養父にまつわる話へ耳を澄ましているヌボコの肩をハハヤが優しく叩いた。 「敵味方と言うか――ラーフラさんの故郷と僕たちの故郷は古くから諍いが絶えなくてね。 合戦紛いの荒事もしょっちゅうだったよ。……この辺の話はセンパイから聞いているかな?」 「いえ、詳しくは。……父様は昔のことをあまり話したがらないので。 皆さんやフゲンさんのことは例外ですが……」 僅かに逡巡を挟んだ後、ハハヤは「それが全ての始まりだったんだよ」と昔語りを続けた。 例え差し出がましい真似だと叱られても、ヌボコにとって必要な話だと考えたのだろう。 それは兄貴分としての決意でもあった。 「ふたつの村の在り方を根本から変えようと立ち上がったのが、センパイとラーフラさんだったんだ。 センパイは僕らの代表として、ラーフラさんは片方の村の代表としてね。 ……争いの根を絶ち、和解を成立させるまで命懸けだったよ。 センパイが敵に寝返ったって疑心暗鬼になった連中もいてね」 「その急先鋒が俺の父だった。……俺は父を斬った。故郷の行く末をナタクに賭けて、な」 実の父を斬る――その一言でシンカイの選んだ道の過酷さを思い知り、ヌボコは息を呑んだ。 「……シンカイさん……」 「昔の話だ。……ヌボコ、悲しい出来事があったことだけを胸に留めておいてくれ。 そして、そんな虚しい戦いを終わらせたのがお前の父だ。ナタクのこと、大いに誇って良い」 そこまで語って、ハハヤとシンカイは口を噤んだ。 対立するふたつの村を取り静めるのは容易いことではなく、神経をすり減らすような日々が続いたのであろう。 ニッコウもゲットも神妙な面持ちで俯いていた。ジャガンナートですら憎まれ口を控えて押し黙っている。 その戦いに関与していたと思しきシュテンも杯を置き、何とも言えない面持ちで天井を見上げていた。 双眸には深い哀しみを宿している。 どれほど凄まじき戦いであったのかは、この沈黙が表していると言えよう。 「――ガムシンじゃねぇが、確かにこれほど不思議なことは他には知らねぇな。 アイツの首を狙ってた人間が、こうして顔を並べて仲良くツルんでやがる。 ……元々は縁もゆかりもなかった野郎どもがよ」 「オレなんか未だに居辛いもん。よりにもよって、何でこんなむさ苦しいヤツらと押し競饅頭しなきゃならないのか、 誰か教えて欲しいくらいだよ」 「よく言うぜ、チビスケが。スパッツ一丁で寛ぐヤツの台詞か」 ルドラを相手に酒を酌み交わしていたアラカネが仲間たちの静寂を破り、ハクジツソもこれに乗った。 「あるいは、ナタク君の導きと言うものかな。彼は人の宿命(さだめ)を大きく動かす何かを持っている。 もしかしたら、自分たちは生まれる前から魂の絆で結ばれた胞輩なのではないか―― 皆もそう感じたことはないかな? そのことに逸早く気付いたのは、おそらくラーフラ君だろう」 前世まで持ち出して熱弁を振るった後、「些かオーバーだったかな……」とルドラは恥らうように頭を掻いた。 彼もシンカイと同じように酒の力で気持ちが昂揚しているらしい。 「しかし、現実として我々はナタク君に導かれ、『捨』の旗のもとに集(つど)っている。 だからこそ、……悔いはない――」 そう言って、ルドラは壁際に飾られている古い黒装束へと目を転じた。 ヌボコも――他の隊士たちもそれに倣い、誰が呼び掛けるでもなく自ずから一礼を捧げていた。 (……魂の絆……) そして、黒装束を見つめていた双眸は、現在(いま)、ラーフラの背に向けられている。 魂の絆へ初めて気が付いたと言われている男の背に――。 * 日付が変わる境目と言うこともあって、往来を行き交う人の数も疎らになっている。 覇天組の仮屯所を出て自身の宿所へと向かう道すがら、急に寝酒が欲しくなった鬼道衆の肝煎――ミカヅチは、 行き先をジャガンナートと遭遇した酒場に変更し、更に一時間ほど手酌を繰り返していたのだ。 夜半に相応しい艶のある演奏を肴として、ボトルで頼んだエール酒を空にする間、 ミカヅチの脳裏には仮屯所で接した覇天組局長の顔が――、否、半ば死んだような双眸が幾度も蘇っていた。 陽之元国に於いて『四天王』に数えられる者同士、ナタクとは好敵手の関係であり、 戦場で顔を合わせる度に生命の遣り取りを演じたのだ。即ち、ナタクが最も溌剌としていた頃を知る人間とも言える。 それだけに生気の失せた様は見るに堪えず、闘志を奮い立たせようと露骨な挑発も試みたものの、 肝心のナタクは何処か遠くを見つめたまま、薄い笑みを浮かべるのみ。 魂と言う名の火種までもが潰えてしまったかのように思えたのだ。 だからこそ、ミカヅチは寝酒≠求めて酒場に足を向けたのである。 鬱屈を抱えながらの宵越しほど不愉快なことはなかった。 一先ず憂さが晴れるほどに酔いの回ったところでようやく腰を上げ、酒場を出た頃には月も東へと傾き始めていた。 往来の人影が疎らになるのも当然と言えよう。殆どの人間が翌日に備えて就寝している頃合なのだ。 同系色で埋め尽くされた絵画の中に一点だけ異なる彩(いろ)を加えると、 必然的に鑑賞者の意識はそこに注がれるものだが、この原理は様々な事柄にも当てはめられる。 つまり、深夜と言う時間帯は奇抜な風采が目に留まり易くなるわけだ。 「――随分と遅いお着きじゃねーの。ヤツら、もうグデングデンに酔っ払ってるぜ?」 宿所に向かって歩き始めたミカヅチは、前方からやって来る人影に向かって気さくに手を振った。 ミカヅチが声を掛けた相手は、顔面と言わず首筋と言わず、全身の至るところに刺青を彫り込んでいた。 年の頃はナタクたちと同じくらい――ミカヅチとも大して変わらないと言うわけだ――であろうが、 滑稽な面も見せていた彼らとは異なり、独特の容貌から近寄り難い気配を醸し出している。 蛇革のジャケットは刺青と相俟って威圧感を強めており、 黒地に髑髏が染め抜かれたシャツの裾は膝に達するほど長かった。 前髪は大きく左右に分け、切れ長の双眸は下睫の主張が強い。 見目は悪くないのだが、その面には常に殺伐としたものが漂っており、 相当な酔客でさえ彼のことは遠巻きに眺めるのみである。 冷やかしを飛ばす前に恐るべき風采だけで心を折られてしまっていた。 尤も、ミカヅチは相手の風采など少しも気にしない。 人々から『四天王』と畏怖されるだけに相応の自信も備わっているのだろう――が、 そうした裏打ちを求めるまでもなく、目の前に現れた顔は古馴染みなのだ。 恐れを抱く理由などは何処にもなかった。 些か大仰と言うか、人によっては姦しさすら覚えるミカヅチの声に対して、 昼間に落ち合ったジャガンナートは不快を露にして見せたが、 刺青の男は陽気に応じており、歩み寄るや否や、互いの腕を絡み合わせて舞踊の如くその場で回った。 振る舞いが実に軽やかである。いかつい容貌とは裏腹に内面は極めて明るいようだ。 外見から掛け離れた陽気な笑い声は、往来で萎縮していた人々にとって衝撃的でもあり、今や驚愕に目を見開いている。 「お前と呑んでるっつーのはニッコウからメール貰ったけど、あいつら、まだどっか飲み屋に入ってんのか? 局長がいるからには、おネェちゃんいっぱいの店じゃねぇだろうがよォ」 「いんや、さっきまでお前らの出張所≠ノお邪魔してたんだよ」 「またシケたとこで呑みやがったなぁ、オイ。美味くねーだろ、あんな場所で呑んでも。 神聖な場所で酒盛りなんざ一番つまらねーよ」 「お前がそれを言うのかよっ」 ミカヅチと言葉を交わす中でナタクを「局長」と呼んだことからも察せられる通り、 刺青の男もまた覇天組の隊士である。 名を『ナラカースラ』と称し、『四番戦頭』として一隊を率いている。 覇天組では役割に応じて幾つかのチームを編制しており、 各組のリーダーに『戦頭(いくさがしら)』なる呼称を当てていた。 四番戦頭の役職を務めるナラカースラは、つまり四番組のリーダーと言うわけだ。 敵陣へ真っ先に突撃を仕掛ける一番組は『先鋒隊』とも呼ばれており、 隊内でも指折りの武術家であるハハヤが戦頭を任されていた。 一本の槍と化して敵陣を突き崩すハハヤには、『魁(さきがけ)先生』なるあだ名が付けられたのだが、 受け持った任務にこそ、その由来が在ったのである。 一番組に続いて敵陣へと殺到し、最大の攻撃力を以って破壊の限りを尽くすのが、 『強襲隊』とも称される二番組の役目であった。戦局を大きく左右することから覇天組の要と目されている。 二番組の戦頭はシンカイが努めているが、我武者羅になって戦う男――「ガムシン」にとって、 これほど相応しい役職も他にはあるまい。何よりも彼が天下無双の剣豪だからこそ、覇天組の要も務まるのである。 遊撃の担い手は三番組であり、シュテンやホフリはこの隊に属して戦場を自由に駆け巡るのだ。 この『遊撃隊』には上役からの指示にさえ反発するような荒くれ者が多い。 寧ろ、三番組に集められたと言っても良かった。その逞しい気骨を力ずくで抑圧したくないと考えたナタクは、 彼らが思う様に実力を発揮出来る環境を整えたのである。 ナラカースラが戦頭を務める四番組は、覇天組の中でも異質な存在であった。 異名を『別選隊(べっせんたい)』――所謂、別働隊だ。 本隊と別行動を取り、覇天組の災いとなり得る存在を未然に封殺することが任務である。 祖国ではなく、あくまでも覇天組の為に、だ。 覇天組の楯を自負する四番組は、任務の完遂には手段を選ばない。 そして、そのような役目には自分こそが最も相応しいとナラカースラは喜んでいる。 四番組を構成するのはナラカースラ個人の子分であって正規の隊士でもなかった。 『御雇(おやとい)』と言う名称を与えられた者たちは、時代の闇≠ノしか生きられない人間が殆どである。 局長によって覇天組に編入されていなければ、誰にも必要とされることなく野たれ死んでいた筈なのだ。 陽の下に出られないような闇≠率いるだけに、ナラカースラに纏わりついた血の匂いは、 他の隊士と比しても格段に濃い。マフィアの使い走りまで経験したシュテンとも異なる意味で 裏の世界を熟知しているのだろう。 ある意味に於いて闇≠ニ同化しているような相手にも楽しげに喋り掛けるあたり、 ミカヅチもまたナラカースラの同類≠ニ言うことだ。 「それにしたって遅いんじゃねーの? もうどっぷり真夜中だぜ」 「ちょいと野暮用があってな。うちの若い衆がギルガメシュの隠れ家を探し当てたってんで、 様子を確かめに行ってたんだよ。後始末してる内にこんな時間になっちまったぜ」 「おめーらのド本命か? 確か、このあたりに秘密の工場があるかもしれねぇって言う――」 「おう、それそれ。あいつら、民家を改造して地下室に工場なんか作っていやがったんだ。 ……ったく、やることなすこと、いちいちジメジメしてやがるぜ」 本隊の指示を受けたナラカースラも『別選隊』を率いて異境に潜伏し、同地の調査に当たっていた。 闇≠も駆使した探索の末、遂に決定的な情報を掴み、 これを手土産として局長らの待つ仮屯所に向かう途上であったのだ。 「よくまァ、上手ェこと、嗅ぎつけたもんだぜ。ナタクの養子の――ほれ、監察方がいただろ。 あいつ、なかなか尻尾を掴めないって嘆いてたぜ」 「そこは、ホレ、『蛇の道は蛇』ってワケよ。……監察っつっても、何せあいつは局長の息子。 ド汚ェ仕事はさせられねーって不文律が、な。ヌボコ本人は不満みてーだが、そこは大人≠フ出番――だろ?」 「……んで? お前さんら、蛇≠ヘどんな毒を使ったんでェ?」 「大抵の人間は指を一本一本切り落とすって脅されたら震え上がるもんだぜ。 肝の据わらねぇ雑魚だって、機密情報のひとつやふたつ、知ってるもんだ」 「とびっきりの毒じゃね〜か。……そりゃあ、後始末も大変なワケだ」 「若い衆に任せっきりってのも性分に合わねぇんでな」 「ここで合ったのも神人のお導きだ。どこぞで一杯引っ掛けようじゃねぇか。 酔っ払いどもの中にシラフで飛び込むのはシマらねぇし」と、ミカヅチを酒場に誘うナラカースラであるが、 さしものミカヅチもこればかりは首を横に振った。 既に何時間も呑み続けている状態にあり、これ以上のアルコールの摂取は正常な判断力を損ね兼ねない。 覇天組にとって極めて重大な情報を携えている男を引き止めてはならないと憚った面もある。 ナラカースラにもミカヅチの遠慮が伝わったのであろう。無理に腕を引っ張ることもなく、 「打ち上げには顔出せよ。覇天組も鬼道衆も兄弟みてぇなもんだからよォ」と直(じき)に引き下がった。 「そうだ。出張所に行きゃあ、ジャガンナートあたりから聞かされるだろうけど――」 「――艮家のコトか? ……切っても切れねぇナントヤラってヤツになってきたよなぁ」 一応、艮家の件を伝えておこうと耳打ちの体勢になるミカヅチであったが、既にナラカースラも把握していたようだ。 「あんなゲスどもとの腐れ縁なんざ真っ平なのによ」と、大仰に肩を竦めている。 「……なんでェ、もう知ってたのか」 「何せうちの若い衆は優秀だからよ、耳よりなネタは誰よりも先に運んでくるのさ――なんて、 威勢よくカッコつけられたらシマッたんだろうが、何てことはねぇ、ニッコウのメールに書いてあっただけだよ」 「さすがの『別選隊』もヤツの気配り上手には敵わねぇってワケだな」 「違ェねぇや」 勘定方のニッコウは覇天組でも一番の気配り上手。情報の伝達にも抜かりはない。 艮家残存の報は本国の隊士たちも伝わっていることだろう。 「おめーンとこの与頭(たいしょう)にも確かめてみな。覇天組も鬼道衆と一緒に捜査に当たるって、 そんなハナシが決まってるかもだぜ。気配り上手は根回し上手だからよォ」 「……ったく、仕事がやり易いんだか、やり辛ェんだか!」 自分の与り知らないところで重要な決定事項が進行するのは確かに面白くないが、 ニッコウが相手では競うまでもなく白旗を揚げるしかない――そう言ってミカヅチはナラカースラの背中を叩き、 往来の人々から奇異の目で見られるのも構わず大いに笑った。 * それから間もなくナラカースラは教会の敷地内に在る休憩所――覇天組の仮屯所に到着したが、 酩酊状態の仲間たちを相手に駆けつけ三杯≠ニは行かなかった。 彼と四番組の調べ上げたギルガメシュの拠点へ、その夜の内に踏み込むと決まったのである。 ギルガメシュが民家の地下に設けた秘密の工場は、夜を昼に継いで作業が進められており、 現在ならば主だった人材(にんげん)も集まっていると言うのだ。 標的を一網打尽とするには絶好の機会なのである。そして、このような好機を逃す覇天組ではない。 ナタクの号令のもと、隊士たちは即座に出撃の支度を整えた。 三分も経過する頃には総員が漆黒のプロテクターに身を包み、最も得意とする武器を携え、 屋根付きの台に掛けられた提燈の前にて待機している。 改めて詳らかにすることもないが、シュテンやホフリ、ハクジツソと言った問題児たちも 手抜かりひとつなく支度を済ませていた。何時間も乱痴気騒ぎを繰り広げていた人間とは思えない身のこなしだ。 平素と変わらない顔色を見る限り、全身に回っていた筈の酔いさえも瞬時にして醒ましたようである。 教会を取り仕切る司祭のもとへ事情の説明に赴いているニッコウが戻り次第、覇天組は出撃するのだ。 「……せめて、討ち入りでは名誉を挽回せねば……」 「ヌボコ君?」 「……俺、ここに来てから何の役にも立っておらんので……」 不意にヌボコが口惜しげな溜め息を吐いた。実の兄のように慕っているハハヤに対して、 偽らざる悔しさを吐露したのである。 隊内一の堅物と呼ばれる『ガムシン』に匹敵するほど生真面目な少年隊士は、 父に同行しておきながら監察方の本分を果たせなかったことが情けなくて仕方なかったのだ。 手柄を四番組に奪われたことが許せないのではない。 それどころか、別の任務を帯びているナラカースラたちの手を煩わせてしまったことを申し訳なく思っていた。 ヌボコが抱いた自責の念は深く、得物である金剛杵を――槍の穂先を彷彿とさせる刃を備えた独鈷杵を右手に、 三叉の爪を持った三鈷杵を左手に――握り締めたまま、暗澹たる表情(かお)で俯いてしまっている。 弟分の肩へプロテクター越しに手を置いたハハヤは、 「君は自分に出来る最大限の力を尽くしている。誰もがそれを認めているよ」と言葉でもって悩める少年を励ましつつ、 双眸をナラカースラへと向けた。 ふたりから余り離れていない場所で待機していたナラカースラの耳にも今し方の呻き声は届いている。 ヌボコが己自身の至らなさを悔やんでいることは、苦悶に満ちた溜め息を聞いただけで判ると言うものだ。 得物として用いている鎖鎌を指先で弄んでいたナラカースラは、寄せられた視線に対して言葉なく頷いた。 彼はプロテクターの胸部に小さな穴を穿ち、そこに得物の予備であろう鎖を通している。 ひと繋ぎの鎖でもって輪を結び、一種の装飾のように垂らしているのだ。 「若≠ェ気に病むことじゃねぇって。今回みてーな仕事はどっちかっつーとオレらがやるべきもんなんだから。 早い者勝ちってワケじゃねぇが、気付いたヤツが対処するって具合で丁度良いと思うぜ。 別の部署へ引き継いでる間に取り逃がしたら、それこそ最悪ってモンだ」 「――しかしっ! ……それでは監察方の負担を貴方たちに掛けることになる。 そんなこと、俺自身の良心が許せんのです」 「……ハハヤぁ、ちょいと若の肩ぁ揉んでやってくれや。 これから敵に乗り込むっつーときにカタくなられちゃ堪らねぇぜ」 「今から……ですか? しかし、それは如何なものでしょう。 マッサージをするにはプロテクターを外さなくてはなりませんし、 その間にニッコウさんが戻ってきたら絶対に出遅れてしまいますけど……」 「天然ボケすな! 誰がマジに肩凝りほぐせっつったよ! ニュアンスだろ、ニュアンスっ!」 ナラカースラは局長の養子であるヌボコのことを『若』と呼んでいる。 覇天組の『影』とも言うべき『別選隊』は、課せられた役目の性質から監察方と連携を取る機会が多く、 また局長個人へ恩義を感じていることもあり、何かにつけて四番戦頭(かれ)はヌボコを気に掛けているのだ。 しかし、ヌボコを励ます一方で、心中では「領分の違いってもんは弁えねぇとよ」と苦笑いを噛み殺している。 仮にも覇天組は公的な警察組織である――が、凶悪なテロリストを取り締まり、破壊活動を未然に防ぐには、 万国公法(ほうりつ)で認められた行為だけでは不足する場合もある。 今でこそ国外にも活動の場を広げているが、あくまでも覇天組の第一義は陽之元の守護である。 テロリストの魔手から祖国を護り切るには、法律や道徳、ときには倫理にも背かなくてはならないのだ。 真っ正直に『良心』と口に出来る人間は、やはり本当の『闇』にまで踏み込むべきではなく、 またそのような領域まで局長の養子(むすこ)を近付けさせてはならないとナラカースラは考えている。 そして、その為にこそ四番組、『別選隊』は存在しているとも――。 「キミらしくないな、ヌボコ君。覇天組は個人の手柄で成り立ってるわけじゃないだろう? みんなでひとつになって戦う、それが覇天組だ。今回、助けられた分、いつかどこかで四番組の力になれば良いんだよ」 「それはそうですが……」 「もう一度、言うよ。みんなで一丸となって戦うのが覇天組。自分ひとりの働きで隊が振り回されると思っているなら、 それは覇天組自体を見くびっているのと同じだよ。……理論を愛するキミなら僕の言いたいことが解るね?」 「……ハハヤさん……」 「ここから先が本番だ。キミの役目は探索だけじゃないハズだろう?」 「……はい」 ハハヤの励ましに力なく頷いたヌボコは、腰のベルトから小さな陣太鼓を提げている。 携行に適した厚みの枠へ獣皮で拵えた膜が張ってあり、その中心には九つの星を模った紋様が見られる。 戦いの場に於いては、この陣太鼓を打ち鳴らして隊士たちを鼓舞するのだ。 これこそが局長の息子≠フ本分である。ナラカースラが棲む『闇』とは対極に位置する、 『光』のもとに立つ者の務めとも言えよう。 「ハハヤの言う通りだぜ。若のことを買ってるから、今回だって局長は大役を任せたんだ。 あいつは身内を依怙贔屓するような男かい?」 「そんなことは有りません!」 「なら、その期待に応えてやらねぇといけねーぜ、若。覇天組の隊士としても、自慢の息子≠ニしてもな」 ヌボコと視線を合わせたナラカースラは、これを引き連れながら別の場所へと目を転じる。 彼の視線の先にはプロテクターの上から白外套を羽織った局長の姿が在った。 副長、総長、更には軍師も交えて討ち入りの段取りを確認している最中であった。 シンカイやゲットもこれに加わり、頻りに首を頷かせている。 軍議そのものは既に終わっていた。ギルガメシュの工廠が隠されていると言う民家を二手に分かれて囲み、 表と裏から同時に踏み込む――それがジャガンナートの立案だった。 秘密の拠点が見破られたことをギルガメシュ側が察知する前に討ち入るべきだと提言したのも軍師である。 副長も総長も軍師の案に異論はなく、局長もすぐさまに出撃の決断を下した。 正面から切り込む隊はナタクが、裏から攻め入る隊はヌボコが、それぞれ引率する手筈であった。 局長にはラーフラ、ニッコウ、シンカイ、ゲット、ジャガンナート、アラカネ――以上の六名が従うことになっている。 襲撃を受けて屋外まで逃れた者は、事前に潜伏させている四番組の『御雇』たちが仕留めるだろう。 「別に何かトチッたわけじゃねーんだろ。なら、気楽に行こうぜ、気楽によ」 三人の会話に聞き耳を立てていたシュテンが気楽な調子でヌボコに笑いかける。 彼はギターの調子を確かめるように弦を軽く弾いていた。黒鉢巻の上からゴーグルを引っ掛け、 烈火の揺らめきのようにも見える真紅のマフラーを夜風に靡かせていた。 「何かあったときにはお兄サンを助けてくれよ〜。自慢じゃないけど、お前と違ってへっぴり腰なんだからよ〜」 「ハクのついでにイガグリのお兄さんも頼まぁ。ナラカッちゃんのタレコミで頭が冷えた所為か、 今になって酔いが回って来ちまってよ。ご覧のように千鳥足なんだわ」 「フラフラしてんのはいつものコトだろ。酒なんか関係ね〜じゃんか」 「てめっ、ハク〜! それを言っちゃあ、お終ェってもんよぉ〜」 シュテンと一緒に無駄話をしていたハクジツソやホフリも能天気に笑っている。 ふたりともヌボコと共に裏口から敵地へ乗り込むことになっているのだが、 現地まで到着もしていないと言うのに、一回りは年齢の離れた少年に先頭の一切を任せるような放言を繰り返していた。 若い者の規範と成り得る大人の責任や矜持と言ったものなど持ち合わせてはいない様子であった。 ホフリは額に締めた黒鉢巻に一本の風車を挟んでいた。 わざわざ眉間の中央に差し込んでいる為、一等珍妙に見えるのだ。 腰部を防護するプロテクターの上から腹巻を着けているのも可笑しい。 左右の手首に嵌めた腕輪には中央部へ一筋の溝が走っており、そこに極細の鋼線を幾重にも巻き付けていた。 これこそが彼の得物か、あるいはそれに付帯する道具なのであろう。 他方のハクジツソは、肉饅頭を模した大きな帽子を頭に載せている。 「被っている」と言うよりは、「載せている」と表すほうが正確に思える程の物を、だ。 小柄な彼の頭よりも二回りは巨大なのである。 さりとて無意味に膨らんでいるのではなく、内部が鞄のような構造になっており、 技手の仕事に必要な道具一式を収納してあるわけだ。 「しっかし、マジで何時も以上に辛気臭いツラしてんなぁ。いっそのこと、景気づけにみんなで回し呑みでもすっか!? アレだ、ホレ、景気付けってヤツ! 脳味噌トロけりゃ、ヌボコもちったぁ柔らかく――」 「――ギルガメシュと戦う前にゲットさんのお世話になりたいようですね?」 悪ふざけとしか言いようのない調子でホフリが差し出した酒瓶は、ヌボコに成り代わってハハヤが払い除けた。 しかも、単に瓶を弾いただけではない。関節が軋み音(ね)を上げるほど強烈に手首を捻り上げ、 「冗談は程ほどにしてくださいって、言いましたよね」と凄んで見せたのである。 「いつもながらハハヤは良い兄貴してるねぇ。若のコトになると、いきなりキャラまで変わりやがらぁ」 「当然です。ヌボコ君は僕にとって大事な弟≠ネんですから。 そうでなくても、教育に悪い人ばかり蔓延ってるんですよ? ナラカースラさんにも見せてあげたかったですよ、昼間に起きた最低の出来事を。 ……あんまり酷いから、僕まで耳が腐りそうになったくらいです」 「もしかして、オイラのこと言ってる!? そりゃあ誤解だぜ、ハハヤちゃん。 いいコいいコで純粋培養されたお坊ちゃんほど、タチの悪いコトをしでかすってのがこの世の中だ。 少しくらいワルの味を教えといたほうがヌボコの為なんだよ」 「仰る意味は解りますが、ワルとクズの間には大きな隔たりがあると思いますけど?」 「……ホント、ヌボコのことだと容赦ないね、ハハヤってば。お兄ちゃん、今のはグサッて来ちゃったゾ」 拘束より解放された手首を摩りつつ後退りしたホフリは、わざとらしくナラカースラの背後に隠れ、 「触らぬ神人にナントヤラってか〜」とハハヤに向かって舌を出した。 余人の目――深夜の出撃準備に慄き、物陰から覇天組の様子を窺う侍祭たちだ――には、 緊張感がないように見えるのかも知れないが、命懸けの戦いを直前に控えながらも 平素と同じ調子で道化を演じていられるのは、ホフリたちの精神が人並み外れて強靭である証左だ。 潜り抜けてきた修羅場の数も、そこには顕れているのかも知れない。 如何なるときでも余裕の態度を崩さないホフリたちを見て安心感が湧いたのだろう。 極度に張り詰めていたヌボコも僅かに表情(かお)を和らげた。 普段は傍迷惑でしかない問題児たちに限って、極限にも近い状況では周囲の心を楽にさせるものなのだ。 「何も眉間の皺まで俺に似せなくたって良いんだぜ?」 「と、父様っ!?」 思い掛けない人物の声が飛び込んできたことで、ヌボコは反射的に身を強張らせてしまった。 打ち合わせを終えたものと思しきナタクが、腕組みをしたままヌボコのことを見つめているではないか。 その口元には苦笑いが浮かんでいる。 対するヌボコは、父にまで自分の弱みを晒してしまったように思えてならず、 余りの気まずさに心身を萎縮させていた。 「ダメダメ、こいつ、ヌボコのことが気になっちまって話し合いにならないんだもん。 聞こえなかったかい? ラーフラさんにもルドラさんにも、おまけにガンちゃんにまでイヤミ言われまくったんだぜ。 そーやってチクチクやられても、このバカ親、ヌボコをチラチラチラチラと……最後はもう呆れちまって、 誰も何も言えなくなっちまったよ」 「……余計なコトを言うんじゃねぇよ、ゲット」 「事実だろ。なんなら証拠の動画でも見るかい? 闇夜の撮影だし、モバイルしか道具もなかったんで、 まともな映像かどうかは自信ねぇけどさ」 「てめぇ、何にも喋らねぇと思ったら、ンなことしてやがったのかよ!?」 「当たり前だろ。強請りのネタは二十四時間アンテナ張ってねぇとな〜」 「堂々と強請りたかりとか言うなや!」 ゲットの揶揄が詳らかにした通り、相当に前から養子(むすこ)の雰囲気がおかしいとナタクも気付いていたようだ。 局長は若のことを認め、頼りにしている――そのようにナラカースラから諭されたことを想い出したヌボコは、 今度は気恥ずかしげに父から顔を背けた。 その態度から養子(むすこ)の心境を悟ったナタクは、一頻り頷いた後、彼の頭を些か乱暴に撫で回した。 相当乱雑に掻き回された為、髪型も寝起きの如く乱れてしまっただろう。 それでもヌボコは父の手を振り払うことはなく、手袋越しに感じられる体温を静かに受け止めていた。 「――なんつーか、アレだ。お前くらいの年齢(とし)のヤツに逸んなって言うほうが難しいのかも知れねぇな。 今はこんなに枯れちまったけど、俺だってガキの頃はもっとギラギラしてたんだぜ。 あの頃は、……そうだ、フゲン師匠から生き急いでるって、さんざん叱られたもんだ」 「……今の父様は死に急いでいるように見えますが……」 「こう言うときにヒネた返しをかますんじゃねぇよ。……良いか、ヌボコ。気持ちが逸るのは無理もねぇ。 心で抑えようにも身体が先に沸騰するような年齢(とし)だからよ。 ただし、焦りだけは禁物だ。実態のねぇモンに追い立てられたら、必ず判断を間違う。 普段なら絶対に避けてるハズの落とし穴にも簡単に落っこちる――」 やがてナタクは頭を撫で付けていた手をヌボコの肩へと転じた。 そして、息子の双眸をじっと見つめる。両者の身長には一〇センチ以上の差が開いている為、 自然とヌボコが父のことを見上げる恰好となる。あたかもその体勢は、父と子の関係を象っているようにも見えた。 「――それは心の弱さだ。覇天組の隊士としてあるまじき弱点だ。……何があっても乗り越えろ。甘えは許されねぇ」 「……はい」 「だからっつって、ひとりで悩めってワケじゃねぇぜ。何をどうしたら良いか、分からなくなったときには、 一番適切な助言をくれそうな相手を頼れ。先が読めねぇときはジャガンナートを、勇気が欲しいときはシンカイを、 女心に躓いたらニッコウを――ってな具合にな。分かっちゃいると思うが、ホフリどもは絶対シカトしろよ。 あんな連中の言うことに従ったら、絶対、好きな子にフラれるからな」 「最後のは余計ですけど、……まあ、ニッコウさんは一番手堅い相談相手だとは思います」 「冗談はともかく、覇天組は隊士みんなが家族みてぇなもんだ。 仲間が失敗したら本気で叱るし、成功したら自分のことみてぇに喜ぶ――そう言う集まりだからよ。 ……お前は誰よりも頭が切れる。こんな当たり前のこと、俺なんかに言われなくたって分かってるだろうけど、な。 それでも、何度でも繰り返すのが大人の務めってモンなんだよ」 「そんなことありません! 俺なんか……!」 「『俺なんか』って思ったときは、そうだな、人差し指でも突き出してみりゃいい。 そしたら、ラーフラなりルドラさんなり、誰かがお前のところに寄ってくる。何があったって訊いて来る。 シュテンやホフリは新しい遊びか何かって釣られるかもな。……誰もお前を放ってはおかねぇってこった。 そのとき、『俺なんか』って気持ちは『俺の為に』って感謝に変わるんだ。 こんなに頼もしいことなんかねぇだろ? いいな、ヌボコ――覇天組はお前の家族だ」 「――わかりました……ッ!」 覇天組局長であり、同時に父としての励ましにヌボコは力強く頷いた。 ナタクから掛けられた言葉は、ヌボコの懊悩を丸ごと包み込み、弱り切っていた心を奮い立たせるものだったのだ。 まさしくそれは子に寄り添う父にしか出来ないこと――そして、覇天組局長にしか紡げない鼓舞(こと)でもあった。 ヌボコの面に気力が漲っていく様子を、ハハヤとナラカースラも優しげな眼差しで見守っていた。 「――悪ィ悪ィ。ちょいと手間取っちまったぜ。結構、待たせたんじゃねぇかな」 教会への説明を終えたニッコウが戻ってきたのは、ヌボコの復調と殆ど同時であった。 隊内随一の気配り上手と謳われるニッコウのこと、絶妙としか言いようのない状況での合流には、 巧妙な計算を感じてしまうものだ。それもまた心に寄り添う計らいと言うものかも知れなかった。 「……して、教会のお歴々はどうじゃった?」 「さすがに震え上がってたよ。ギルガメシュの連中が仕返しにココを襲うんじゃないかってさ。 でも、そこは覇天組のネームバリューだよ。ネズミ一匹討ち漏らさないって約束したら、それで納得してくれたさ」 「納得したのか、ドン引きしたのか。ラーフラ君、キミはどちらだと思う? 私はドン引きのほうに明日――正しくは今日のランチを賭けよう」 「先に勝ちを取られてしまっては、賭けとして成立せんじゃろうがっ!」 ラーフラとルドラによる滑稽な掛け合いはともかく――ニッコウの合流を受けて、 覇天組隊士たちは一気に表情を引き締めていく。頼れる勘定方の合流は、即ち出撃の合図にも等しいのだ。 「そろそろ行くとしよう、……局長ッ!」 シンカイの呼び声にナタクは首肯を以って応じる。 「ヌボコ、頼むぜッ!」 「はいッ!」 息子の背中を叩くのと同時に、ナタクは覇天組局長の顔に戻った。 腰のベルトに差し込んでおいた軍配団扇を手に取り、平べったい香木で作った百と八の連珠を腕に巻き付けた。 その連珠は柄の底からひと繋ぎで結ばれており、半ばの部分には黒染めの絹糸で拵えた房が見られる。 局長の動きに呼応して他の隊士たちもそれぞれの得物を強く握り締める。 ヌボコは左右の掌中に在る金剛杵へ猛々しい戦意を通わせていった。 「アラカネッ!」 「――応ッ!」 局長の傍らに在った覇天組最大の魁偉が――アラカネが高々と隊旗を掲げる。 改めて詳らかにするまでもないことだが、旗棒は行軍に適した長い物へと差し替えられていた。 銀の糸で刺繍された『捨』の一字が月明かりを跳ね返し、夜天に煌く。 「いざ――」 大いなる決意の象徴とも言うべき隊旗(はた)のもと、 覇天組は宵闇の只中へと――腥風吹き荒ぶ死闘へと突き進むのであった。 本編トップへ戻る |