己の心に迷いや憂いが垂れ込めているときは舞踊(まい)も乱れると、 彼女≠ヘ技芸の師匠からきつく言い付けられて来た。 客は芸の前に人を見る。即ち、心を問われると言うことである。 それ故に心の伴わぬ技芸は誰にも届かない。見せ掛けの歌舞に美が生まれることなど有り得ない。 己の技芸(わざ)に一心を注ぐ覚悟が決まらない半端物に意味はないのだ。 人を魅せるのは、やはり人である――血の滲むような修練の最中にて授かった教えは、 彼女≠ノとって一生の財産となった。 嗚咽も止まるくらい厳しい叱声を浴びることがなくなって久しい。 師匠と死に別れて十年近くが経つが、それより前に彼女≠フ技芸は一本立ち≠フ域にまで達していたのである。 しかし、今は師匠の教えを全う出来る自信がない。天より叱声が落とされないことが不思議なくらいだ。 それは心に乱れを生じているからに他ならない。 自覚しながら正せないほど、彼女≠フ精神は揺れ動いていた。 こんなことは本当に久方振りであった。少なくとも、覇天組の一員となってからは初めての筈だ。 任務の遂行に不要な感情を尽く切り捨て、ただひたすらに「敵」を討ち続けてきたのである。 「難民救済」と言う美辞麗句を掲げつつ、暴虐の限りを尽くすエンディニオン不倶戴天の敵―― ギルガメシュと通じているらしい高利貸しの調査と壊滅が今回の任務であった。 件の高利貸しが所在する土地は、古来から教皇庁に対して反抗意識が強い。 かの組織を掌握した宗派と相容れない一派が根付いた土地の宿命とも言えよう。 秘密裏に多額の資金提供をしていると巷に噂が立った高利貸しも、 ギルガメシュを教皇庁への対抗手段と見做している様子だった。 「敵の敵は味方」と言う理屈が表す通り、都合の良い駒をぶつけて教皇庁の力を削ぎたいと言うのが 彼らの本心なのであろう。 事実、彼女≠ヘギルガメシュへ資金提供が行われた証拠を確認している。 土地の監査委員を差し向けて帳簿一式を提出させ、 幽霊会社と思しき場所へ莫大な「投資」があった形跡を発見したのだ。 この地を根城にして高利貸しと結託しているギルガメシュの小隊にどれだけの資金が流れたのか―― その額面は先に確かめてある。それは帳簿に計上されていた投資額とも完全に一致していた。 監査委員を送り込んだ時点では、まだ不確定な容疑≠ナあった。 緻密な裏付け調査を経て、高利貸しとギルガメシュを一本の線で結び合わせなくては、 例え教皇庁の命令を受けていようとも店内へ踏み込むことは出来ない。 尤も、裏付けそのものは何の苦もなく得られた。 監査委員が撤収するや否や、怪しい人影が高利貸しのもとへ駆け付けたのである。 彼女≠燻ゥ身の双眸で確かめたが、店に転がり込んだのは間違いなくギルガメシュの小隊長だった。 これを以って高利貸しをギルガメシュの手先と断定し、悪しきテロ支援を断ち切るのみ―― 覇天組の仲間たちの為、完璧に手筈を整えたのは他ならぬ彼女℃ゥ身であったのだが、 その最中に不測の事態が訪れた。 高利貸しの店に昔馴染みの女性が勤務していたのである。 覇天組は陽之元と言う島国を根拠地としている。彼女≠焉Aその昔馴染みも、共に陽之元の出身であり、 故郷から遠く離れた土地にて思わぬ再会を果たした格好なのだ。 入国管理局に問い合わせたところ、昔馴染みは半年ほど前に就労目的で この地に来訪したとの答えが返された。 異邦人からの問い合わせにも入国管理局が迅速に応対したのは、 当然ながら覇天組の背後に教皇庁が控えているからだ。 更なる委細を詳らかにするならば――この地を治める首長が教皇庁に高利貸しの件を通報し、 回り回って覇天組に出動要請が出された次第であった。 言わば、覇天組は首長の依頼を受けて遠征してきたようなものである。 監査委員であろうが、入国管理局であろうが、彼らの調査に協力する義務があるわけだ。 異邦人(こちら)の言い付けた通りに動く役人を目の当たりにする度、 彼女≠ヘ「恥は捨てたくないもの……」と胸中にて毒づいたものである。 そもそも、だ。この地は教皇庁と折り合いが悪かった筈ではないか。 通報者たる首長とてギルガメシュ支援を容認していた可能性が高い。 時勢に抗い切れなくなったのか、周囲からテロへの加担を咎められたのか、 内部の事情など調べようとも思わなかったが、覇天組が首長による教皇庁への胡麻擂りと 尻尾切り≠ノ利用されていることだけは確かだった。 直々に遠征の指揮を執る局長も覇天組の置かれた立場は解っている。 その上で、敢えて踊らされようと隊士たちを鼓舞して回ったのだ。 覇天組の目的はギルガメシュの討滅。これを果たせるのであれば、どんな好機でも利用しよう―― 如何にも局長らしい言葉に皆は納得していった。 しかし、彼女≠ヘ今回の屈辱を忘れないつもりでいる。 いずれは相応の償いをさせてやろうと腹の底で静かに念じている。 昔馴染みとの再会は、首長の醜聞でも全世界に暴露しようかと報復の案を練り始めた矢先のことだった。 以来、彼女≠ヘ煩悶し続け、解決の糸口さえ掴めないまま、現在に至っている。 任務に差し障りが生じるほどの悩みを己が抱くことに、彼女≠ヘ先ず愕いた。 己にとって不要と決め付け、過去に切り捨てた筈の感情が今になって蘇る意味さえ分からない。 驚愕の次に襲ってきたのは自責の念である。覇天組の監察方を取り仕切る長として有るまじき醜態と、 彼女≠ヘ心から己を愧じていた。 (――恥を知るのはお前よ、アプサラス。……こんな体たらく、誰に晒せるものでもないわ……!) アプサラス――それが彼女≠フ名であった。 古語で水の精霊を意味する名――尤も、その言語は遠国から陽之元に伝わったものである。 数多の文化や技術と共にその言語(ことば)を運び、遠い島国まで伝えたのはアプサラスの祖先だった。 覇天組にて総長を務めるルドラ、軍師の職に在るジャガンナートと共有するルーツとも言い換えられよう。 褐色の肌と銀色の髪を持つ遠国の民は、遥か昔に故郷を捨てて海を渡り、 辿り着いた先の陽之元へ根を下ろした――アプサラスも、ルドラも、ジャガンナートも、その移民の子孫であった。 肩に掛かる程度で切り揃えた銀髪を後方へ撫で上げると、毛先がやや反り返る。 内に秘めた気骨が表れていると周囲には見えるらしく、 シュテンには「見上げた根性じゃねーの。感心、感心!」と冷やかされたこともあった。 当人が気にもしていない髪質へ勝手に意味を当てはめられ、 これによって注目されるのがアプサラスには不快で溜まらず、今では帽子を常用するようになっていた。 頭部を覆うことによって髪質を押さえ込んだのである。 アプサラスの場合、力ずくで捻じ伏せたと言うほうが正しいのかも知れない。 監察の任務上、少しでも目立つ部位を隠す必要がある。 状況によっては使えないものの、帽子は実に有用な道具≠ネのだ。 それにも関わらず、艶やかな銀髪を夕陽に晒していると言うことは、 今日は帽子を使えない状況に在ったわけだ。 昼下がりのことである。アプサラスは外資系企業の社員と偽って自ら高利貸しの店舗へ乗り込み、 テロ支援の張本人と直接的に対峙したのだ。 これから襲来する先の状況を網膜に焼き付けるのが目的だった。 即ち、突入直前の総仕上げなのだ――が、事務員として働く昔馴染みを見つけた瞬間、 アプサラスの歯車が狂い始めた。 昔馴染みの顔を目端に捉えつつ、最大の標的を相手に起業資金の借り入れを 相談――無論、真剣に商談するつもりはない――し、それから何食わぬ顔で店外へと出たのだが、 こちらが気付いていることに向こうが無反応である筈もない。 店先まで追いかけてきた昔馴染みは、アプサラスの手を取って再会を喜び、最寄の公園へと誘った。 誘われた段階で固辞していれば、遣る瀬ない思いに七転八倒することもなかったのだろうが、 特別な親しみを感じていた人間の手は、どうあっても振り解けなかった。 アプサラスにとっては、同じ肌と髪を持つ同胞(はらから)である。 祖先(ルーツ)ばかりではなく技芸に於いても両者は通じ合っていた。 今でこそ覇天組の監察方を率いるアプサラスであるが、 幼少の頃は旅芸人の一座で働いており、そこで歌や舞踊などの技芸を修行していたのだ。 このときに学んだ技芸は、監察方の任務を果たす上でも大いに役立っている。 件の昔馴染みは別の一座の人間だったのだが、 賑々しい土地を求める旅芸人同士だけに旅先で落ち合うことが多く、 いつしか友人と呼べる間柄になっていた。年齢が近いことも互いの距離を縮める一助となったのだろう。 アプサラスが身を置いていた一座が或る事情から消滅≠オて以降、 顔を合わせる機会もなくなった為、両者が言葉を交わすのは実に十余年振りであった。 しかし、再会の喜びは間もなく霧散することになる。 近況報告――アプサラスの場合は大半が諜報活動用の捏造であるが――を終えるや否や、 昔馴染みは「此処は自分たちの狩場≠セから、黙って手を引いて欲しい」と、懇願し始めたのだ。 古い友人と縄張り争いをしたくはない、と。 記憶の中の彼女は真っ正直を絵に書いたような人間であったのだが、 現在(いま)では相手の出方を窺うような喋り方に変わっており、 アプサラスも話をしながら違和感を覚えていたのだ。 そして、脳裏を蝕んでいた疑念は狩場≠ニ言う二字によって明答へと導かれた。 早い話が同業者≠ニ誤解され、挙げ句の果てに旧友のよしみで警告されたと言うわけであった。 極めて典型的な強盗団のスパイである。 ギルガメシュと通じている高利貸しの店舗は、二階から三階までが居住区となっており、 社長の一家や出稼ぎの従業員がそこで暮らしているのだ。住み込みで働きながら内部情報を探り、 総がかりで押し入る際には開錠などの工作を行う――手馴れた強盗団が好む手口だった。 人の信頼を踏み躙る愚劣な謀略であり、捏造した情報をも駆使するアプサラスでさえ、 このような悪事に手を染める者を蛇蝎の如く忌み嫌っている。 その最低最悪の謀略に昔馴染みが加担していることを知り、 更には彼女の抱える家庭事情まで聞いてしまったアプサラスは、いよいよ苦悩を深めていった。 五年前に夫と死別した昔馴染みは、一〇歳にも満たないひとり娘を必死になって育てていた。 現在はその娘を生家に預け、ただひたすらに養育費を稼ぐ日々であると言う。 愛する我が子の為、どうしても金が必要なのだ――そうして行き着いてしまった先が、 強盗団の手引きだったのである。 酌量すべき事情があるにせよ、彼女が罪を犯し続けていることに変わりはない。 こうなった以上、ギルガメシュを支援する一味として始末するしかなかった。 それこそが覇天組隊士の務めなのだ――が、どうしても昔馴染みを敵と見做すことが出来なかった。 「初めて自転車に乗れた日の記念」と説明しながら娘の写真をアプサラスに披露したとき、 彼女は紛れもなく母親の顔であったのだ。 だから、アプサラスは迷った。迷いに迷った末、悪事を糾弾することさえ躊躇ってしまった。 ギルガメシュの支援者として討ち果たすと言うことは、写真の中の少女の人生を歪めることにも等しい。 覇天組の隊務を踏み止まらせるほど、旧友の娘は無垢な笑顔を弾けさせていた。 アプサラスの迷いは極めて深刻であった。 他者に名を呼ばれるまで追想の世界から意識を引き戻せず、 それどころか、外≠フ情報を悉く取りこぼしていたのだ。 気付いたときには目の前に監察方の一員であるヌボコが立っていた。 「――ヌボコ!? ……い、一体、何時の間に……」 「何時の間にって……。俺のほうがアプサラスさんより先に着いていたんですよ。 見つけたら見つけたで、何回、名前を呼んでも返事してくれないし……」 「い、いや、別にお前を無視していたわけじゃないんだ! 少し考えごとがあってだな!」 「見れば分かります。しかし、監察方の長ともあろう人が棒立ちと言うのは如何なものでしょうか」 「む、う……」 いくら声を掛けても暫くは反応が見られず、ようやく返ってきた答えも意味不明なもの。 そんな上役に呆れ果てたのか、ヌボコは眉間に皺を寄せながら両腕を組んでいる。 首から肩にかけて大きく開いた白いシャツにブラックジーンズ、 エアクッション付きのバスケットシューズと言う出で立ちの少年隊士は、 アプサラスとは別行動を取っており、つい先刻までギルガメシュの拠点を探っていたのである。 ふたりが合流地点として選んだのは、人影もまばらな町外れの公園であった。 尤も、アプサラスは己がどのように歩いてきたのかも憶えていない。 追想が途絶えたときにはヌボコが傍らに在った――ただそれだけなのだ。 改めて己の迂闊を省みたアプサラスは、頬が羞恥に染まっていくのを抑えられなかった。 彼女にとってヌボコは愛弟子とも呼ぶべき存在である。 監察方として務める為の基礎を一から叩き込み、現在ではパートナーとして扱うようになっていた。 そのような相手に粗忽を晒してしまったことが、アプサラスには情けなくてならないのだった。 (……この程度のことでおかしくなるとは、何の為に修練を積んできたのか、分からなくなるわね……) 各地を経巡る旅芸人の一座は、諜報員を兼ねていることが多い。 事実、アプサラスも師匠から技芸だけでなく忍術を授かっていた。 全く気配を絶って夜陰に紛れる隠形の術、別人に摩り替わる幻惑の技―― ありとあらゆる忍びの秘伝を使いこなす逸材であったればこそ、 『最凶』の武闘集団の中で監察の長が務まるのだ。 しかし、現在(いま)は忍びの者としての自信が自嘲へと変貌している。 如何なる事態にも屈することがないよう鍛え上げた筈の鉄の精神は、 昔馴染みを前にして簡単に揺らいでしまった。これでは師匠にも顔向け出来まい。 最初こそ怪訝な表情を浮かべていたヌボコも、アプサラスの面に煩悶を感じ取ってからは、 気遣わしげな眼差しを向け続けている。 「……あんまり私を見るな。失礼なんだぞ、そう言うのは」 「あ、……すみません」 「い、いや――別に怒っているわけじゃないんだが……!」 真っ直ぐな瞳で見つめられていると意識したアプサラスは、途端にそっぽを向いてしまった。 年少者の視線を受け続けることは、さすがに気恥ずかしいものがあるのだ。 心が乱れ、弱っている最中ならば尚更である。 平素は気を張っているアプサラスだが、今は纏う鎧もない生身の状態に等しく、 素肌を弄(まさぐ)られるようなものだった。気心の知れた相手だけに耐え難い羞恥が押し寄せてくる。 両の頬は、先程とは別の意味合いで紅潮していた。 「……でも、俺が力になれることなら何でも言って下さい。 口外しにくいことを悩んでおられるご様子ですが、誰かに話すだけでも気が楽になりますので……」 「相変わらず鋭いな、お前は……」 案の定、ヌボコには何事かを隠していると直ぐに見透かされてしまった。 今は控え目に協力を申し出るのみだが、アプサラスの懊悩が深いと見て取れば、 ヌボコはその理由を強く質すことだろう。年齢と不釣合いなくらい老成しており、 何事にも冷めているように見えるものの、根は人一倍優しいのだ。 師匠を標榜する身としては、年少の弟子から問い詰められる事態だけは避けたい。 任務のパートナーを欺くことも心苦しく、アプサラスは観念して全てを打ち明けた。 話をする内に浮ついていた思考も落ち着き、間もなく平素と同じ状態に戻っていった。 ヌボコが語った通り、誰かに話を聞いて貰うことは大切と言うわけだ。 すっかり気持ちを整理出来たアプサラスは、 ヌボコの肩に手を置くと、「他の者には黙っていて欲しい」と頭を下げた。 「隊に迷惑を掛けるわけには行かない。私の手で始末をつけるつもりだ」 「迷惑だなんて――ラーフラさんは渋い表情(かお)するかも知れませんが、 父様なら必ず手を貸して下さると思いますよ?」 「局長は一番ダメだ。相談など考えもしない」 「……相変わらず嫌われてますね」 「好き嫌いの問題じゃないんだよ、これは」 相談さえすれば、色々と便宜を図ってくれるのは分かっていたが、 だからと言って局長の手を煩わせるわけには行かなかった。これはあくまでも私事≠ネのだ。 第一、局長にだけは借り≠作りたくない。これもまた私情の範疇であるのだが、 「隊務に支障を来たす要因を排除する」と言う気構えとも合致しているので、 矛盾で雁字搦めとなることなく己自身を納得させられる。 道理や論理の破綻はアプサラスが最も嫌うところなのである。 「――分かりました。ならば、この件は俺たちだけで解決しましょう。俺も何とか知恵を絞りますので」 「いや、お前も気にしないで欲しい。これはあくまで私の事情だ。お前を巻き込むわけにはいかない」 「気にしますよ、アプサラスさんのことですから。 今までさんざん世話になった分、力になりたいのです」 「ヌボコ……」 恩返しがしたいと力説するヌボコの手を握り締めたアプサラスは、 「恩に着る……」と改めて頭を下げた。過干渉ほど煩わしいものはない筈なのだが、 彼の厚意だけは素直に受け止められるのだ。今や、最強の援軍を得たような頼もしさである。 見れば、ヌボコの頬も朱色に染まっていた。 「随分遅かったじゃないか。心配してたんだぞ」 仮屯所へ帰還したアプサラスとヌボコを真っ先に出迎えたのは、一番組を率いるハハヤであった。 他国に遠征時する際、覇天組は『屯所』と呼称される拠点を現地に置くようにしている。 殆どの場合、教皇庁管轄の施設――教会や礼拝堂と呼ばれる場所である――に間借りするのだが、 今回は町外れの廃工場へ屯所を据えていた。どう考えても寝起きには不向きであるが、 高利貸しの店舗やギルガメシュの隠れ家とも程近く、いざと言うときに迅速に対応出来るのだ。 その工場の入り口に立ったハハヤは、不安そうな面持ちでふたりの帰還を待ち侘びていた。 公園で話し込んでしまった為、ふたりが工場まで辿り付いた頃には、 帰還予定時刻を大幅に過ぎてしまっていたのだ。 任務を完璧にこなし、且つ、隊の取り決めも厳守する生真面目なふたりが 揃って遅刻することなど有り得ない。何らかのトラブルに巻き込まれたのではないかと、 一番戦頭は案じていたわけである。 「ふたりとも無事で安心したけど、遅くなるときには連絡くらいしてくれ。 キミたちの顔を見るまで気が気じゃなかったよ」 「遅刻は申し訳なく思っていますが、……でも、俺たちだって子どもじゃないんですから……」 「キミはまだ子どもだろう? ……アプサラスさん、貴女が一緒に居ながら、どう言うことですか」 「それについては一言もない。しかしだな、何だかハハヤさんは娘の門限に五月蝿いバカ親みたいだぞ。 衣類を一緒に洗わないで欲しいとヌボコから嫌われないよう、せいぜい気を付けるんだな」 「ぼ、僕とヌボコ君はそんな風にはならないよ!」 「そもそも同じ洗濯機なんか使っちゃおらんでしょう。そのあたりは出先でも個人管理ですし……」 ハハヤに伴われて工場内に入ると、シュテンが夕食を作っているところであった。 携行用のガスコンロを使い、フライパンで何かを炒めている。 身を持ち崩してマフィアの手先となり、その組織からも追われて逃げ場を失っていたところを 覇天組に拾われた形のシュテンは、ときに己自身を鼻つまみ者のように貶めることがある。 空虚な自嘲を零す際、「オレには何の取り得もねぇや」と決まって口にするのだが、 その実、彼は他の誰よりも優れた技術を身に着けていた。 生家が洋食店を営んでいたこともあり、コックとして抜群の腕を備えているのだ。 三番組に所属しながら物資の運輸と警護を司る『小荷駄方(こにだがた)』も兼任し、 尚且つ遠征先では料理番まで一手に引き受けている。 シュテン当人は己のことを救いようのない人間などと思っている様子だが、 覇天組にとって欠くべからざる人材であることは誰もが認めていた。 「――お、帰(けえ)ってきたか。今日の晩メシはカレーピラフだぜぇ〜。 市場でイイ豚肉が手に入ったんでな、期待して待ってろよ!」 フライパン全体にコンロの火が行き渡るよう器用に手首を返していたシュテンは、 アプサラスとヌボコの姿を見つけるなり楽しそうに笑った。 エレキギターを得物とし、隊務の傍らでバンド活動も行っているシュテンだが、 料理の時間こそが彼の心を最も豊かにするようだ。 鼻腔をくすぐる匂いにヌボコは思わず生唾を飲み込んだが、 シュテン特製のカレーピラフへありつく前に、ふたりにはしなければならないことが残されていた。 旗持のアラカネを相手に模擬戦を繰り広げていた局長――ナタクもヌボコたちの帰還に気が付き、 片手を挙げながら歩み寄ってきた。彼とアラカネにタオルを投げ渡したニッコウもそれに続く。 「おう、おかえり――んじゃ、とっとと仕事を済ませちまうか」 全身から噴き出した汗を拭いつつ、ふたりの監察方へ報告を求める局長の声は、 カレーピラフの完成を告げる料理番の声と物の見事に重なった。 結局、我慢していられないと言う一部の意見に押し切られ、 アプサラスとヌボコの報告は夕食の傍らで行われることとなった。 隊務に当たって己を厳しく律しているアプサラスにとっては、 この筋運びは不本意としか言いようがない。 仲間が集っての食事には歓談が付き物であり、覇天組の隊士はこれを生き甲斐としている者も多い。 今回の遠征には同行していないが、三番組のホフリや義手のハクジツソなどは、 シュテンと一緒になると際限なく喧しくなる。 そのように緩やかな空気の中で監察の結果を報告することがアプサラスには苦痛だった。 公私は完全に分けるべき。そこまで精神を研ぎ澄ませていなくては、 いざと言うときに気が緩んで大きな失態を犯すだろう――と、常々、彼女は危惧していた。 「そーいや、ふたり揃って遅いお着きだったんだっけ。な〜んかニオう≠謔ネぁ?」 案の定と言うべきか、いよいよ報告に移ろうと姿勢を正した直後、 ゲットが遅刻の件を持ち出して会話を脱線させた。 このようにして隊務を妨げられるのが、アプサラスには癪に障って仕方がなかった。 「さてはヌボコ、アプサッちゃんとデートでもしてたんだな? だったら、帰りが遅くなったのも納得ってもんだ。都市部(おまち)のほうは結構賑わってるし、 ショッピングには持って来いだよな、ここ。名所のアウトレットには行ってきたん?」 「なッ、……なんてことを言うんですか! そんなわけないでしょうッ!」 「憧れのお姉サマと一緒に居て、何もないなんてコトがあるかい。 それによ、ホレ、旅先じゃ解放的になるもんだべ? ……チューくらいしたんだろ? なぁ?」 「ど、どうしてそう言う発想になるのか、俺には理解出来ん! だ、大体! ゲットさんの妄想は、既にセクハラではありませんかッ!」 「何なら訴えても良いぜ〜。お前のノロケ話が聞けるんなら、出頭命令も喜んで受けちゃうし」 「自分の言っていることが何もかもおかしいとは思わんのですか!?」 真っ赤な顔で反駁するヌボコを見て取り、ゲットは一段と笑い声を大きくした。 カレーピラフが山盛りとなっている皿を両手で持ち上げつつ、 左右の足裏を打ち鳴らして囃し立てる有様だ。 下世話な連中が多過ぎることも覇天組の問題点だと、アプサラスは憤懣の溜め息を漏らす。 度々、女性と揉め事を起こすホフリはその代表格と言えよう。 先日も教皇庁の侍祭へ不埒な声を掛け、大問題になったばかりである。 『捨』の旗のもとに集う同志でありながら、アプサラスは彼のことを覇天組の癌≠ニ忌み嫌っていた。 「……そう言う遊び≠ヘ感心しねぇぜ、ヌボコ。お前にはれっきとした許婚がいるだろ」 「と、父様まで何を言っているんですか! 乗せられんでくださいよ、こんな下劣な与太話にッ!」 廃工場の高い天井にヌボコの悲鳴が響いた。 あろうことかゲットの話を信じ込んでしまったらしいナタクが、 カレーピラフの皿を置いて両腕を組み、顰め面を作っているではないか。 不埒者など言語道断だが、度を越した大真面目にも弱ったものである。 このような反応をされるのであれば、下品な冗談を飛ばされたほうがアプサラスには気が楽だった。 監察方として様々な揉め事を目の当たりとしてきたが、こうした誤解を正すときが最も難儀なのだ。 理路整然と潔白を説いても、相手には言い訳のように聞こえてしまうのである。 そして、ナタクのように生真面目な人間は特に厄介だった。 融通が利かない分、一度(ひとたび)、誤解を刷り込まれると再び意識が塗り変えられるまでに 相当な時間を要するのだ。 「センパイ、普通に考えてください。ヌボコ君がそんな不誠実な真似をする子に思えますか? そんな風に育てた憶えはないでしょう? センパイが一番信じてあげなくてどうするのです!」 「……まあ、アプサラス君を相手に変な気を起こすとは思えねぇけどよ……」 「それはそれでアプサラスさんに失礼です、父様」 「ほれ、見ろ。ヌボコにはその気≠ェバリバリじゃね〜の。 アプサッちゃんだって満更でもなさそうだしぃ? 手取り足取り年上の魅力を教え込んでたんだろ。 夕闇は人をイケナイ気持ちにさせるもんさ」 「黙って聞いていれば、随分と好き勝手言ってくれる。……今の発言、私は忘れないからな」 「……ホフリさんがいないから今回は安心してたのに、思わぬ伏兵ってコトですか。 ゲットさんには幻滅(がっかり)しましたよ」 「年上キラーだねぇ、ヌボコは。オトコもオンナも選り取り見取りかぁ。末恐ろしいコだよっ」 「父様、ゲットさんを何とかしてください。俺たちではもうどうしようもありません」 「……流れで、一応、確かめとくが、本当に年上キラーじゃねぇんだな?」 「ですから、父様がそんなんでは一向に話が進まないんですよっ!」 ハハヤもヌボコを加勢するが、依然としてナタクは眉間に皺を寄せ続けている。 端からゲットの戯言と見做しているルドラは、ナタクの顰め面にこそ表情を曇らせた。 「……ナタク君は、アレだね。人一倍頭脳(アタマ)が良い筈なのに、時折、とんでもないボケかましになるね」 「それはルドラさんの買い被りと言うもの。こやつは昔から人一倍の阿呆じゃよ」 ルドラの嘆息にはラーフラも真顔で頷いている。 悲しいくらい愚直な部分はナタクにとって最大の弱点であり、同時に一番の美徳でもある。 仲間の為には己が身を捨てることも厭わない誠実な人柄に皆が惹き付けられ、 覇天組と言う大きなうねりを生み出しているわけだ。 尤も、ナタクの人柄に引き寄せられたわけでもないアプサラスには、 煩わしく感じられる機会が多かった。自らの首を絞めるような振る舞いに対して、 幾度、歯痒い思いをしたか分からない。 (……本当にうんざりする……) 潔白を証明するようにアプサラスが厳しい眼光を叩き付けると、ナタクは慌てて視線を逸らした。 気まずげな面持ちで頬を掻くあたり、ようやく自身の早合点を悟ったらしい。 またしてもアプサラスは大きな溜め息を吐いた。憤懣に満ちた吐息であった。 他の隊士と同じように彼女もまたナタクとは長い付き合いである。 覇天組が誕生するに至った背景も、彼が局長として起った経緯も――全てを間近で見届けてきた。 『北東落日の大乱』と言う陽之元最大の内乱を経て、 人の上に立つ者としての貫禄は十二分に備わったと思うが、些細なことで容易く動揺してしまう辺り、 肝が据わり切っていないのではないかと疑う瞬間も多い。 (打たれ弱いからこんなザマになったのだけど――) 半ばまで瞼が落ち、瞳にも生気と言うものが宿らない局長の双眸を一瞥したアプサラスは、 人の情に寄り添うことも善し悪しだと胸中にて毒づいた。 そこまで考えたとき、アプサラスは急に己が情けなくなってきた。 今、この場に於いて誰よりも私情に溺れ、心乱れているのは自分自身なのだ。 「――はいはいはいはい、口喧嘩なんかご飯時に持ち込むものじゃないわよ。 ラーフラ君もナタク君が困ってるなら助けてあげないと。誰かが仕切らなきゃ永遠に終わらないよ?」 堪り兼ねて自己嫌悪に陥りかけたアプサラスを救ったのは、ミダと言う名の女性隊士であった。 ナタクたちよりも少しばかり年長者――正確な年の差を答えられる者はいない――であり、 覇天組では隊士たちの相談役も果たしている。 廃工場に居並ぶ他の隊士と同様に彼女も現在はプロテクターを纏ってはおらず、普段着姿である。 淡い象牙色の生地に草花の模様を散らしたチュニックには身体の輪郭が直接的に浮かび上がり、 各所が女性らしい主張≠見せていた。 長い黒髪を頭頂部からやや下がった場所で団子状に纏めている。 前髪は激しい動きの妨げとならないよう眉の上で切り揃えてあるが、 右側面の髪だけは他の部位と比して長く垂らしている。これが彼女にとって一番のこだわりであった。 胸部の双丘へ対応でもしているかのように大きな瞳には、穏やかな光を湛えている。 立ち居振る舞いのひとつひとつにも良好な品性が滲み出ているように感じられた。 可憐な佇まいとは裏腹に、ミダは『遊撃隊』の別名を取る三番組の長―― 即ち、覇天組の三番戦頭を務めている。シュテンやホフリと言った問題児たちが集められた組を 率いていると言うことだ。 ルドラのように笑顔の裏側から凄味を発して他者を圧するような真似はしないが、 代わりに高い知性と鋭い機転、何者をも受け止めるような包容力でもって 荒くれ者たちの手綱を巧みに捌いている。 稀有な気骨の持ち主を力ずくで押さえ付けるのではなく、その荒ぶる魂を生かせる環境を作りたい―― 局長から期待された三番戦頭の役割をミダは完璧に果たしていた。 「アッちゃんも言ってたでしょ、キミが誰よりもヌボコ君を信頼してあげなきゃダメだって。ね、お父さん?」 「……返す言葉もねぇです」 ナタクもミダには頭が上がらないらしく、注意された内容にも素直に頷いていた。 ミダはアプサラス以上にナタクとの付き合いが古い。ラーフラやルドラとも昔から面識があり、 途中から覇天組に加わった身でありながら、荒くれ者のまとめ役を任されたのは、 三者が彼女の器量を高く評価していたからに他ならない。 嘗て陽之元に巣食っていた旧権力のもとでは官僚として働いており、 下野を決意するまでは極めて高い階梯に在ったのである。 ニッコウに勝るとも劣らない気配り上手の取り成しによって一先ず仕切り直しとなり、 咳払いをひとつ交えた後、副長のラーフラが改めてアプサラスに監察の結果を報告するよう求めた。 流石は隊の運営を司る副長と言うべきか、質問も機械的で一切の無駄がない。 何事も隊務優先で、人によっては冷淡な応対にも見えたのだろうが、 アプサラスとしては今までよりも遥かに話し易かった。 ラーフラの隣にて報告へと耳を傾けていたルドラの表情が変わったのは、 アプサラスが件の強盗団に触れた瞬間である。 無論、店舗に潜入したスパイが昔馴染みであることは伏せている。 この中でただひとりアプサラスの思いを知るヌボコとて、 ナタクらに不測の事態の発生を気取られないよう無表情を貫いていた。 「――不逞の輩のことは分かりましたよ、アプサラスさん。 しかし、これで余計にこんがらがってしまった。わざわざ引き込み役≠潜らせてまで 金庫を破る理由がどうにも見えない。……ラーフラ君はどう思うかな?」 「そこそこの都市部とは雖も、所詮はそこそこ℃~まり。しかも、個人経営の金貸しじゃ。 ギルガメシュにカネを都合してやるくらいじゃから羽振りは良かろうが、 首都に在るような老舗と比べたら雲泥の差よ。リターンに対してリスクのほうが余りにも大きい」 「そのココロは?」 「どうしたって採算が取れぬ。割に合わぬ商売と言うものじゃよ」 ルドラもラーフラも、互いの顔を見合わせながら首を傾げている。 「強盗団とやらはその引き込み役≠ノ生活費の工面もしていたんだったね?」 「そう……です。会社の給金と強盗団からの援助を両方受け取っていたそうです」 「やはり、ラーフラ君の言う通りだ。そこまで手を尽くすだけの旨味があるとは思えない」 ルドラが口にした疑問は、実はアプサラスも不可解に思っていたことだ。 話を聞く限りでは、昔馴染みは強盗団に雇われているに過ぎなかった。 金庫を破った後の分け前とは別途に、ひと月ごとに一定額の金が支払われていると言う。 こうした計画強盗の場合、成功後に分け前を配ると言う約束が普通であり、 一般会社員に於ける賃金のようなものが支給されることは極めて稀である。 活動費用ならばともかく、だ。 彼女の抱える事情を憐れんだ強盗団の頭目が施し≠与えたとも考えられるが、 さりとて潜入中も無賃金と言うわけではない。高利貸しからはきちんと給与が支払われているのだ。 「そこまでして仕込み≠整えなきゃならない理由(ワケ)があるってことかな」 カレーピラフを咀嚼しながら、ジャガンナートが自身の推論を語る。 隊の勘定≠司っている為、金銭の話題に人一倍敏感なニッコウも脳裏に何事かが閃いたらしく、 ジャガンナートへ目を転じると、「カネ目当てじゃないってことか」と首を頷かせた。 「ボクもそう思う。カネ目当ての強盗団にしては羽振りが良過ぎるよ。 そんなカネがあるなら、そもそも押し込み強盗なんてする必要もないし。 ラーフラさんの言葉を拝借するなら、リターンに対してリスクが大き過ぎるね」 「例の金貸し、カネにも換えられねぇとんでもねぇモンを隠してる可能性があるな。 それなら、はした金をバラ撒いても回収≠ナきる」 ニッコウから「そんなような話は聞かなかったかい?」と訊ねられたアプサラスは、 無言で首を横に振った。彼女が調べた範囲では、特別な何かを隠している事実には行き当たらなかった。 昔馴染みも金庫を破ると言うことしか口にしてはいない。 強盗団の側に金銭以外の狙いがあったとしても、雇われ者には告げられないのだろう。 「――押し込み自体が目的ってセンはねぇか?」 三者の会話に加わったのはシュテンである マフィアの使い走りをしていた彼も、過去の経験から金銭以外の目的を考えたようだ。 「金貸しの店って二階から上は居住エリアだろ。一階のオフィスとも繋がってるんだっけ?」 「そうだ。最上階の三階から一階まで階段で繋がっている」 「んで、社長の一家が三階住まい――こりゃ社長の生命(タマ)が狙いだと睨んだね、オレは」 「……計画強盗ではなく計画殺人だと言いたいのか? いや、しかし――」 アプサラスは言葉を失った。もしも、シュテンの推理が正しければ、 昔馴染みは計画殺人の駒として利用されたことになる。これほど憐れな話は聞いたことがない。 だが、強盗団の本当の狙いが計画殺人だと仮定すると辻褄も合ってしまう。 余計な金銭を支払ってまでスパイを送り込んだのは、標的を確実に仕留める為の布石であろう。 高利貸しと呼ばれる生業は、程度の差こそあれ人の恨みを買うものである。 強盗団――今となっては本物の強盗団なのかも疑わしいが――との間に 何らかの遺恨が生じていても不思議ではなかった。 そして、金銭が絡む遺恨と言うものは殺意にまで拗れ易い。 「カネってのは付き合い方をしくじると正気をなくしちまうからねぇ。 そーゆーモンで恨みを持たれたら、どう頑張ったって笑えねぇオチが待ってらぁ」 「……恨みじゃねぇかも知れねぇぜ?」 肩を竦めるニッコウに異論を唱えたのは、子分を引き連れてナタクたちに合流した別働隊の長―― 四番戦頭ことナラカースラである。早々にカレーピラフを平らげ、 今はブリキの容器に詰められたスコッチウィスキーを呷っている。 「なんでェ、ナラカッちゃん。オレの名推理にダメ出しかよ」 「いんや、シュテンの見立てはあながち間違っちゃいねぇさ。カネ目当てじゃないのはビンゴだろうよ。 でもよ、金貸しを殺すだけなら他に幾らでもやり方があるじゃねーか。 引き込み役≠ネんて回りくどいコトをしなくてもよ」 「……確かにな。スパイを使うくらい知恵が働く輩なら、相手を誘き寄せるくらい造作もなかろう。 敢えて店舗の中で始末しなくとも良いと言うわけだ。……今度の一件、手口としては暗殺に近い」 二番戦頭のシンカイもナラカースラの考えが分かったようだ。 「シン君、冴えてるねぇ。……でも、オレは暗殺じゃないと思うんだ。 皆殺しだよ。社長一家も住み込みの社員もまとめてね」 住み込みの社員もまとめて皆殺しと言う突飛な推理には、さしものアプサラスも表情を曇らせた。 傍らに在ったヌボコも気遣わしげな眼差しで彼女の様子を窺っている。 「……どうもアプサラス君は、とんでもねぇ事件(ヤマ)にブチ当たったみてェだな」 何事もない素振りを取り繕いながらも、内面が激しく揺らいでいるふたりは、 局長から凝視されていることにも気付いてはいなかった。 張り詰めた空気は忽ち他の隊士を飲み込み、ミダもゲットも、皿を床に置いて神妙に聞き入っている。 「皆殺しが狙いでありながら怨恨以外に動機がある。……そんなことが有り得るのか?」 「発想の逆転だぜ、シン君。恨みでもねぇのにヤツらを皆殺しにしなくちゃならねぇ人間がいるなら、 それはどんな連中か――これだけで選択肢は狭まるぜ?」 シンカイとナラカースラの会話を手掛かりにして正答へと行き着いたジャガンナートは、 「ヤツらの考えそうなことだね。犯人は最高に単細胞だよ」と鼻を鳴らして見せた。 「ボクからも少しヒントをあげようか。つまるところ、高利貸しに生きていられると困る連中って話さ。 ナラカースラ君が問題仕立てにしたってコトは、ボクらが絶対に分からない答えじゃないってコト」 「――ギルガメシュじゃ……」 ジャガンナートに続いて、ラーフラも正答を手繰り寄せた。 自分たちの追いかけている小隊こそが強盗団の正体だとラーフラは見抜いたのである。 先に正答を得ていたナラカースラとジャガンナートも副長の言葉を否定しなかった。 「このところ、ギルガメシュは内部でゴタついておるようじゃ。大規模な綱紀粛正も始まったと聞く。 ……成る程、高利貸しに生きておられては、確かにあやつらは大弱りじゃのぉ」 「元々、副指令のティソーンはその辺りに厳正だったらしーしね。 アコギな稼ぎがバレそうになったんで、慌てて証拠湮滅を始めたんじゃないかな」 「死人に口ナシとは良く言ったもんだぜ。事情を知ってる人間を根絶やしにする寸法だ。 ……そんな腐れ外道は許しちゃおけねぇよ。裏の社会にも守らなきゃならねぇ仁義があらァ」 「ナラカースラ君にそこまで言わせるとは、敵は正真正銘の畜生、……いや、畜生にも劣る。 ティソーン氏の手助けをするようで面白くないけれど、例の小隊は生かしてはおけないな」 「無論じゃ。一兵たりとも帰さん。ルドラさんも好きなだけ暴れて貰って構いませぬぞ。 全員の素っ首を刎ねて、ティソーンに送りつけてやろうかの」 「心が弾むよ。……私の見立てでは、おそらく敵は押し込み強盗に見せ掛けるつもりだろうね。 凡百な強盗殺人まではティソーン氏も目を向けないだろうから―― その薄汚い偽装工作も暴かなくてはならないな」 途中からルドラも交え、ラーフラとジャガンナートはナラカースラの推理を ギルガメシュに対する包囲網として具体化していく。 これは包囲網なのだ。不倶戴天の大敵を――それも性根から腐った悪党を叩き潰すには、 蟻の這い出る隙間もない包囲網を展開させる必要があった。 「しっかし、ギルガメシュも間怠っこしいコトを企みやがるぜ。 そんなに粛清されんのがおっかねぇなら、スパイなんか使ってねぇで、とっとと討ち込みゃ良いのによ。 バカでビビリとか救いようがねぇな」 「話を聞いてねぇのか、話を理解するアタマがねぇのか。足が付いたらマズいっつってんだろうが」 「アラカネ、てめ――だから、死人に口ナシなんじゃねーか!」 「綱紀粛正ってモンは内部調査を徹底的にやるもんだ。 押し込みをやらかしたのがバレた時点で、ヤツらはもう投了なんだよ。 だから、証拠を残さねぇように面倒くせぇ計画が必要なんじゃねーか。 ……てめぇ、マジでマフィアの下に居たんか? 所詮は使い捨てのチンピラかよ」 「う、うるッせぇ! オレのいた組織じゃ、もっとスカッと手早くヤッてたんだよッ!」 ギルガメシュの小隊による偽装工作の理由を嘲り混じりで説かれたシュテンは、 負け惜しみのように喚き散らすと、そのまま地べたに寝転がってしまった。 裏社会の事情に精通するナラカースラもアラカネの説明に同調しており、 「ギャングだって表沙汰にならねぇように根回しするもんだぜ。 幾ら粋がったって、シェリフに取っ捕まったらお終いだからよ」と補足を言い添えていく。 ふたりがかりで責められ、言い返すことも出来なくなったシュテンは、 「洗いモンはてめぇらでやれよッ!」と破れかぶれに吼えるしかなかった。 「ここまで来たら、何でも一緒だよ。さんざん甘い汁を吸っといて邪魔になったら口封じなんて……! そんなヤツらには思い知らせてやらなくちゃねッ!」 義憤に燃えるミダも両の拳を鳴らした。 特権階級出身の淑女のようにも見えるが、彼女とて『最凶』の武闘集団の一員なのだ。 ましてや、三番戦頭を任される身。荒くれ者たちを従えるだけの戦闘力を秘めていなくてはならない。 ナタクたちが全幅の信頼を寄せるからには、戦士としての力量も確かと言うわけだ。 一方のヌボコは「皆殺し」に続いて飛び出した「口封じ」なる言葉に呻き声を漏らし、 またしてもアプサラスの様子を窺う。今度こそ彼女の瞳には動揺の色が表れていた。それも明瞭に、だ。 「……口封じと言うことは、引き込み役≠ノ使われたスパイは……」 「一緒に殺されるか、強盗の責任をたったひとりで被ることになるか、その両方か……。 雇われ者だろうが何だろうが、ギルガメシュを手助けしたのが運のつきさ。 場合によっちゃボクらで仕留めなきゃならないかもね」 ヌボコの問い掛けに対し、ジャガンナートはさも当然だと言わんばかりの語調で答え、 次いで弓矢を射る仕草を披露して見せた。 ギルガメシュに加担する者は一網打尽にする――それが教皇庁から覇天組に出された要請だ。 ジャガンナートが「当然の措置」と言い放つのは何ら不思議ではない。 「――して、アプサラス殿。報告は以上かな?」 身を強張らせたまま押し黙っているアプサラスへラーフラが次の言葉を求める。 報告が済んだのであれば、その旨を言明するものだ――が、 監察方の長は催促を受けるまでの暫時、呆けたように固まり続けていたのだ。 「……以上です」 「左様か。うむ、ご苦労じゃった――と言うても、もう一働きして貰わねばならぬかも知れんな。 些か、事態(はなし)が込み入って参ったでの」 「問題ありません。……それが覇天組の務めですから」 凛然たる声を張って取り繕うアプサラスであったが、ラーフラの隣に座している局長は、 胸中を探るような眼差しでもって彼女の面を――否、双眸を見つめており、 その瞳は「言い逃れは通用しない」と無言のうちに語っていた。 アプサラスにとっては、このような瞳が地上の如何なる存在よりも忌々しかった。 鬱陶しいことになりそうだと直感し、果たしてその予想は的中した。 「アプサラス君が話していたスパイとやらもカスのひとりってコトだな。そうだろう?」 「……どうして再確認するのかしら?」 「これでも俺も局長なんでな。覇天組が狙う標的は正確に絞り込まなきゃならねぇ。 ……金貸し共は一先ず生け捕りにするとして、ギルガメシュだけは根絶やしにしなけりゃよ」 高利貸しの店に引き込み役≠ニして潜伏していた者もギルガメシュの小隊の一味と見做し、 抹殺せしめると言う旨をナタクはアプサラスに確かめているわけだ。 そして、分かりきっていることを敢えて繰り返した意図は、 アプサラスからひとつの反駁を引き出す為である。 (……この男は何時になったら『大きなお世話』って言葉を憶えるのか……) 良かれ悪しかれ、付き合いだけは長い。数え切れないほどの死線を共に潜り抜けてきた戦友なのだ。 彼がどのような反駁(ことば)を求めているのかも解っている。 だからこそ、アプサラスはナタクの思惑には乗らなかった。乗りたくもなかった。 「――敵は全て殺す。それが覇天組の在り方でしょう、局長」 アプサラスの返答を受けて、ナタクは口をへの字に曲げた。 「素直じゃない」と呆れられたのかも知れないが、そのようなことは自分自身が誰より一番解っている。 ナタクからして見れば、内なる秘め事≠聞き出し、然るべき便宜を図りたかったのだろう。 だが、アプサラスにも覇天組隊士としての矜持がある。 如何に心が乱れていようとも、私情に囚われて覇天組の任務を捻じ曲げるほど落ちぶれてはいない。 「余計な真似はするな」と言いたげな視線からアプサラスの意思を悟ったナタクは、 溜め息をひとつ漏らした後、次にヌボコへと目を転じた。 「ヌボコ、お前はどう思う?」 「お、俺……ですか?」 「スパイの件、俺はどうにも引っ掛かるんだ。何か裏があるんじゃねぇかってな。 ギルガメシュのアジトを探ってたお前は何か気付かなかったか? どんな些細なことでも良いんだ」 「そうは言われても……」 口先では探索に当たっていた人間の見解を求めながらも、視線では我が子の偽りを戒めている。 誠の心を欠くようなことをしてはならないと、父として諭している。 これを見て取ったアプサラスは、心中にて「卑怯」と毒づいた。 ヌボコとの親子関係を利用してまでアプサラスの秘め事≠審問するつもりなのだ。 それはつまり、ヌボコとアプサラスが何事かを隠していると見抜いた証左でもある。 今やヌボコは答えに窮してしまっている。 父と師匠の板挟みに陥った状況を方便で切り抜けられるほど、この少年は器用ではない。 困りきった様子を見兼ねたハハヤから「そんな風に迫ったら可哀相ですよ」と諌められたが、 ナタクはこれを聞き入れず、眼差しひとつで我が子に誠の心≠問い続ける。 このような状況を放っておけるアプサラスではないこともナタクは見通している。 それ故にアプサラスは「卑怯」と言う罵倒を噛み殺したのだ。 覇天組局長として政治の表舞台でも活動するナタクのほうが腹芸は一枚上手―― 最早、彼女には観念する以外の選択肢が残されていなかった。 三者の様子から委細を読み取ったニッコウが「アプさん――」と声を掛ける。 声色こそ穏やかであるが、はっきりと自供を促されたのだ。 「父様、実は――」 「――もう良い、ヌボコ。……何もかも話す。それで宜しいな、局長……」 何とか言い繕おうとしたヌボコを制し、アプサラスは秘め事≠洗い浚い打ち明けた。 その上で、「ギルガメシュに与する敵は例外なく息の根を止める」と強く宣言した。 これは意固地の類ではなく、覇天組の隊士として絶対に守るべき一線なのである。 「――事情は分かった」 両腕を組みながら瞑目していたナタクは、アプサラスの自供に深く頷いた。 「改めて訊くが、アプサラス君は古い友人までヤツらの道連れにしても構わねぇって言うんだな?」 「隊務とはそう言うものじゃ。如何に過酷であろうが、残酷であろうが、例外は認めぬ」 アプサラスが答えるより先に横から口を挟み、覇天組の隊務を論じたのは副長である。 心中を見透かされたような気持ちになったアプサラスは、無粋な乱入者を一睨みするが、 当のラーフラは怯みもせずに「――じゃろう?」と同意を求めてきた。 決して否とは言わせない凄味が面に滲み出している。まさしく覇天組副長としての顔であった。 アプサラスとて既に覚悟は決めている。鬼副長と視線を交えたまま、 「言わずもがな」と淀みなく答えた。全てを白状した以上、尚更、私情に流されるわけには行かない。 「父様……」 「……センパイ」 先程までとは一変し、ヌボコはナタクに助けを求めるような視線を向けている。 温情派のハハヤもこれに続いた。 尤も、彼らから哀訴されるまでもなく、ナタクは件の引き込み役≠見捨てるつもりはなかった。 アプサラスの昔馴染みであれば、どうあっても救わなくてはなるまい。 「局長、判断を誤ってはならぬぞ。お主のお人好しが如何なる結果を覇天組にもたらすか、 よくよく考えよ。ワシらは教皇庁の命を受けてギルガメシュと戦っておる。 ……それに背けば、覇天組自体が立ち行かなくなるのじゃ」 「そんときゃ、力ずくでヤツらに分からせてやればいい。俺たちゃ教皇庁の犬じゃねぇんだぜ? 飼い慣らそうとするバカの手は咬み千切ってやれ」 「されど――」 「誰が敵で、誰が味方か――それは覇天組が決める。教皇庁にも口出しはさせねぇ」 その心中を察知した副長からは鋭く咎められたが、局長はこれを気概のみで封じ込めた。 誰が敵で、誰が味方かは覇天組が決める――ラーフラに向けられた言葉は、 アプサラスの心にも深く響いていた。そこに局長の思量が表れているからだ。 ラーフラが口を噤むのを見届けた後、アプサラスを振り返ったナタクは、 そのまま言葉もなく彼女と視線を交えた。 「敵は全て討ち果たすと言う気構えは感心するけれど、 ……アプサラスさん、貴女は本当にご友人を『敵』と見做すことが出来ますか? 敵として相対したとき、何の迷いもなく生命を奪えるのですか?」 局長と見詰め合う形となったアプサラスの心を、ルドラの言葉が一際大きく揺さ振った。 「察するに、そのご友人と長らく話し込んでいて、ヌボコ君と落ち合うのが遅くなったのでは? 遅刻の原因はそこに在るのではありませんか?」 「……仰る通りだ。長話は認める。だからと言って――」 「だから、お尋ねするのです。親しくもない人間と長々話し込むのは、 重要な情報を引き出したいとき。貴女はそれが抜群に巧い。しかし、今回はどうです? 覇天組にとって必要な情報(こと)ならば、最初の報告で全て話していたでしょう。 それなのに、貴女は黙っていた。……『話すタイミングを窺っていた』は通じませんよ」 紳士を自負するルドラは、女性と接する際には特に丁寧な口調となる。 品格に満ちた態度はアプサラスとて嫌いではないのだが、今日に限っては不気味な威圧を伴っており、 理路整然とした言行が早鐘打つ心臓を更に脅かしていく。 事実、アプサラスは反駁の材料をひとつひとつ摘み取られていた。 「そう言えば、引き込み役≠フ女性にはお子さんがいるのでしたね」 「……そう聞いています」 「『聞いています』と言うのは本当ですか?」 「この期に及んで嘘を吐く理由が?」 「写真でも見せて頂いたのではありませんか」 「それは……」 「古い友人と久しぶりに出会ったときは、専ら近況報告が中心になります。 家族を持った人間であれば、その衝動(きもち)は抑え切れるものではありません。 子どもの写真と言う物は、誰に見せても心が温まりますからね」 「……家庭を持ったことのないルドラさんがそれを言うの?」 「確かに私は家庭を持ったことはありません……が、生憎と家庭を持った知り合いに恵まれたのでね」 家族を持った人間は、そのことを話さずにはいられないと述べたルドラの言説に、 ハハヤとニッコウは揃って首を頷かせた。両名とも子どもこそ設けていないが、 歴(れっき)とした既婚者である。 「敵は全て殺すと宣言したとき、あなたの脳裏に何が浮かびました? ご友人とそのお子さんの顔を思い出したのでは?」 「母親が死んだら、その子はどうなるのか――説教のあらましは、こんなところでしょう? そこまで言い切るのは流石に傲慢ね。そんなことを言い出したら、 今まで覇天組が殺めてきた人たちはどうなるの? 敵の身内にまで憐れみを掛けていたら 戦争なんて出来やしなかった。だから、……敵は全て殺すしかない」 『北東落日の大乱』の折、最後にして最大の敵対勢力となった旧権力の象徴―― 『艮家(こんけ)』のことを持ち出せば、ルドラとて口を噤むしかなくなるとアプサラスは考えた。 今でこそ人としての情けを語っているが、嘗て覇天組は艮家にまつわる者たちを 老若男女問わず悉く撫で斬りにしていったのだ。所謂、『族滅』と言う行為であった。 如何に祖国の為とは雖も、それは悪鬼の如き所業に他ならない。 族滅をやってのけた瞬間から覇天組には人の情けを語る資格はないのだ―― アプサラスはその念(おもい)を胸に刻み、隊務を全うしてきたのである。 しかし、この切り札≠以ってしても覇天組随一の論客を黙らせることは出来なかった。 「貴女の言うことにも一理あります。いえ、道理と呼ぶべきかも知れません。 しかしながら、それは覇天組全体のこと。貴女個人はどうなのです?」 「覇天組全体の罪は、隊士全員の罪に等しい……とでも言えば満足かしら?」 「――もう一度、訊ねましょう。貴女はご友人を『敵』と認められるのですか?」 真正面より突き入れられた問い掛けに心を穿たれ、アプサラスは今度こそ反論を失った。 昔馴染みが完全にギルガメシュの手先へ成り下がっていたなら、 何の迷いもなく『敵』として討ち果たすことが出来ただろう。 あるいは皆と合流する前に始末をつけていたかも知れない。 だが、彼女の話を聞けば聞くほど、『敵』とは思えなくなってしまうのだ。 何も知らされないまま忌まわしい計画に利用された『駒』に過ぎず、ギルガメシュの手先とは言い難い。 しかも、だ。悪事に手を染めてしまったのは、幼い我が子の行く末の為である。 それもまた利己と呼べるものであろうが、それでも卑しさと言うものは感じられなかった。 ルドラの指摘は何もかもが正しい。昔馴染みと、その子の顔が脳裏から離れないのも事実である。 『敵』として倒すことが正しいと思えない相手は、アプサラスにとって生まれて初めてであった。 「アプサラスさん、ここは父様を――いえ、局長を頼ってはどうですか?」 「意地を張り続けたら、絶対に後悔するよ。……失った物は二度とは取り戻せないって、 覇天組(わたしたち)は誰よりも痛感(わか)ってるじゃない」 ヌボコとミダから諭されたアプサラスは、総長から局長へと目を転じた。 ナタクは今も彼女のことを見詰め続けている。気高い矜持に隠された本当の心を見極めようと、 決して視線を逸らさない。ほんの僅かな揺らめきさえも見落とすまいと考えているのだ。 煩わしいとしか思えなかったその瞳が、今のアプサラスには唯一無二の救いとなっていた。 「――答えは変わらない。いや、変えようがない。『敵』は殺す。……それが覇天組よ」 覇天組隊士としての矜持から搾り出された声は、今にも消え入りそうなくらいか細く、 何を以って『敵』と見做すかにも迷っている。 ナタクとアプサラスの対峙が続く中、何を思ったのかラーフラは自身の荷物を纏め始めた。 正確には十文字槍を脇に抱え、プロテクターの一揃いが収納された鞄を背に担おうとしていた。 「……まさかと思うけど、早退(はやび)きするつもりじゃないよね? 『付き合っておれん!』とか言ってさ……」 「付き合い切れんと言うのは正解じゃが、それで隊務を投げ出すほどワシも餓鬼ではない――」 ゲットから委細を訊ねられたラーフラは、鼻を鳴らしつつも「準備を整えるまでじゃ」と答えた。 「――どのみち、ギルガメシュの小隊は全滅させねばならん。 奴らが実際に動き出してからでは後手に回ろう。その前に戦支度を済ませるのよ」 「そりゃ分かるけど、何で急に――」 尚も疑問を繰り返そうとするゲットの声を遮り、覇天組の軍師は「そうか、今夜かッ!」と己の膝を叩いた。 「ガンちゃんまでどーしたん?」 「例の引き込み役≠ェこのまま黙ってると思うかい、ゲット? 自分たち以外にも店を狙っている人間がいると頭目≠ノ報せるハズさ。 計画強盗自体はでっち上げだけど、そんなことは引き込み役≠ヘ知らないからね」 「同業者が昔馴染みの顔ってコトは伏せるとしてもね」と言い添えながら、 ジャガンナートは説明を続けていく。 「向こうだって生きるか死ぬかの瀬戸際だ。絶対にしくじるわけには行かない。 そんな報せを受けたら頭目≠ヘ――いや、ギルガメシュの小隊はどうする? 大慌てで飛び出して来るんだよ」 「左様。本物の強盗が先に押し込んでしまえば、奴らの計画は台無しよ。 店にはシェリフが張り付くじゃろう。そのような事態になってみよ? 最早、正体を知られずに始末をつけるのは不可能に近い。 最悪の場合、自分たちの引き込み役≠ェ尋問を受け、そこから足が付きかねん」 「チャンスは今夜しかないってワケね。何だか忙しくなってきやがったっ!」 事態(こと)は急を要すると認識したゲットが残りのカレーピラフを掻き込んだ直後、 ナラカースラのモバイルが電子音を奏で始めた。言わずもがな、着信を告げる音色である。 通話の相手から何事か報告を受けた様子のナラカースラは、 ジャケットの胸ポケットへとモバイルを仕舞いながら一同の顔を見回した。 「……ビンゴだぜ、副長。連中、アジトの武器をかき集めてるみてェだ」 夕刻までヌボコが探っていたギルガメシュの拠点には、 現在、四番組の構成員――『御雇(おやとい)』と呼ばれる準隊士たちだ――が張り込んでいる。 果たして、ラーフラとジャガンナートが予測した通り、ギルガメシュの小隊が蠢き始めたようだ。 「――ヌボコ、例の店は繁華街に面している筈だけど、人気(ひとけ)がなくなる時間帯はあるのかい? それとも、人通りは絶えないのかな?」 「いえ、午前三時から四時までの一時間――特に三時半までは殆ど人影がありません。 それ以降は新聞配達や路上清掃が見え始めます」 「翌朝(あした)の日の出は?」 「午前五時少し前。……三時前後に押し込んだとしても、引き上げには十分に間に合います」 『御雇』よりの報告を受け止めたジャガンナートは、 高利貸しの店舗が所在する地点の人通りについてヌボコに――監察方に委細を訊ねた。 ジャガンナートが求める情報は、抜かりなく調べ上げている。 当初の標的たる高利貸しは、繁華街から細い脇道へと入った場所に店舗を構えており、 その付近は酔客の途絶える朝方近くになると完全な無人と化すのだ。 小汚い雑居ビルと軒を並べている為、身を隠す場所も多い。 おそらくギルガメシュは裏路地を突っ切って店舗への侵入を図る筈である。 「……成る程のぉ、それが狙い目≠ニ言うわけじゃな?」 「早めに支度を済ませておくに越したことはないけど、 多分、押し込みは朝方になるんじゃないかな。人通りのある夜間は向こうも無理は出来ない筈だ。 足音が聞こえなくなる一瞬がギルガメシュにとってチャンスってワケ。 ……奴らは腐っても武装組織さ。奇襲の定石くらいは弁えていると思うよ」 「高利貸しのほうにギルガメシュの情報を流して潰し合わせるのも面白そうだったけど、 今夜中に片が付くなら、そう言うお遊びも出来ないね」 「……ルドラさんらしく趣味の良いゲームじゃな」 「お褒めの言葉と受け取っておこうかね」 副長と総長、そして、軍師――三者の議論に触発でもされたのか、 ニッコウとシンカイが同時に立ち上がった。 「何じゃ、お主ら?」 「ラーフラさんひとりだと大変じゃん。実際、色んな手配が要るんだからさ。 勘定方が居なきゃ始まらないっしょ」 「万一、ギルガメシュが早くに攻め寄せたら、迎え撃つ手も必要では? 副長の技量を疑う理由はないが、数が多くては難儀する筈」 気早にもシンカイは深紫の着流しの帯へと愛刀を差し込んでいる。 今すぐにでも出発出来ると言う意思表示であろう。 その様子を見て取ったラーフラは、「阿呆」の一言でこれを押し止めた。 「武具を担いだ人間が徒党を組んで闊歩しておれば、いたずらに敵を警戒させてしまうわい。 店舗の近くに見張りを置いておるやも知れぬ。こうした場合は少ない人数で徐々に動くのが常識。 よもや忘れたとは言わせんぞ、シンカイ」 「……些か焦り過ぎた」 シンカイに暫時の待機を言い渡した後、ラーフラはニッコウにだけ手伝うよう持ち掛ける。 「……俺は役立たずかっ!」 さしものシンカイもこの扱いには機嫌を損ね、不貞腐れた調子で腰を下ろした。 何事にも我武者羅なシンカイを茶化し、弄ぶことが一番の楽しみと公言して憚らないジャガンナートが 腹を抱えて大笑いしたことは、改めて詳らかにするまでもあるまい。 ニッコウを伴って廃工場を発つ間際、一度だけアプサラスを振り返ったラーフラは、 「ことここに至って悩むくらいであれば、つまらぬこだわりなど捨てよ。 大事な決断も下せぬ半端者など覇天組には要らぬ」と、厳しい口調で言い放った。 それもまた覇天組副長としての言葉である。 副長の訓戒(いましめ)を背中で受け止めたアプサラスは、ほんの一瞬だけ肩を震わせた。 (……つまらないこだわり――) 俯き加減で立ち尽くす彼女へと正面から歩み寄ったナタクは、その右肩に己の掌を置いた。 「真の『敵』は何か――全てが終わっちまう前に答えを出しな」 * 午前二時過ぎ――ナタクたち覇天組は、廃工場から場所を移して再集結していた。 高利貸しの店舗から一キロも離れていない地点に消防署があり、 ニッコウとラーフラは事情を説明してその一角を借り受け、新たな拠点に据えたのである。 流石に署員たちは迷惑そうであったが、首長からの要請を受けて渡海した覇天組を無碍にも扱えず、 表面上は隊士たちを快く迎えた。迎えざるを得なかったと言うべきかも知れない。 敵の見張りを警戒し、数名ずつに別れて廃工場から消防署に移った隊士たちも、 今や総員がプロテクターを着込み、各々の得物を携えている。 アプサラスは肩のパーツを外した上で同色のロングコートを羽織っている。 これは随所に忍びの道具が仕込まれており、歴(れっき)とした武装のひとつであった。 何時、号令を発せられても飛び出していけるだろう。 現在までに局長から下された指示はただひとつ―― 店舗へ侵入する前にギルガメシュを討つと言うことだけである。 件の引き込み役≠ェ扉を開けて招き入れる前に全滅させることが厳命されていた。 敵を狭い屋内に押し込め、退路を塞いだ上で攻め掛かろうと提案したジャガンナートは 自らの策を却下されて不満そうだが、局長直々の厳命ばかりは覆しようもない。 代わりに意気盛んなのはハハヤだ。 作戦に応じて柔軟に配置を変更する覇天組は、これによって頭抜けた機動力を生み出しているのだが、 例えば、屋内での戦いでは母衣を担うハハヤには突入が許可されないときがある。 閉所にて母衣が引っ掛かると、それだけでも命取りとなるからだ。 こうした場合、先鋒を任された一番戦頭であるにも関わらず、 シンカイへ斬り込み隊長を譲らなくてはならなかった。 あるいは一番組の隊士のみを戦場へ送り込むこともある。戦頭だけが屋外に取り残される恰好で、だ。 これらは『魁(さきがけ)先生』の名折れとも言うべき事態であろう。 しかし、屋外での戦闘であれば、存分に働けると言うもの。 いにしえの軍略が金字で記された母衣を揺らしつつ、入念に身体を解している。 「……夜中だっつーのに元気な野郎だぜ」 勢い余って腕立て伏せまでまで始めたハハヤを鬱陶しそうに見やりつつ、 アラカネは隊旗の支度を進めていた。 掲揚に適した長い旗棒を組み立て、そこへ旗の本体を通していく。 黒地に『捨』の一字を銀糸で刺繍した旗である。 内乱の時代から使い続けてきた覇天組の象徴であり、至る所に激闘の痕跡が見て取れた。 銃弾によって貫かれた部位は数知れず、旗の下半分などは大きく裂けてしまっている。 銀糸の刺繍にも綻びが目立ち、焼け焦げた箇所とて少なくはない。 頑強そうな旗棒にさえ接木が当てられていた。 これらの損傷には覇天組の歴史(あゆみ)が顕れているようであった。 『北東落日の大乱』から現在に至るまで旗持として覇天組の象徴を護ってきたアラカネは、 一度として隊旗を取り落としたことがない。それが彼の誇りでもある。 隊士一同が出撃のときを待ち侘びる中、ナラカースラのモバイルが再び電子音を奏でた。 「局長――いよいよ敵サンも準備を終えたみたいだ。ぼちぼち攻めてくるんじゃねぇかな」 「奴らが腹ごしらえをしたのは何時頃だった?」 「丁度、一時間前だな。腹ごなしも終わって、身体も温まってきた頃合だ。 コンディションだけなら、今が一番充実してるだろうぜ」 「万全の状態でやって来たら、待ち構えているのが覇天組(オレたち)だもんな。 奴ら、胃の中のモンが飛び出すんじゃねぇか? ビビると先ず胃に来るからよ」 「違ェねぇや。集団でブチ撒けるトコは、出来りゃ見たくねぇけど」 ナラカースラを通じて『御雇』から続報が届けられた。 今回の標的――ギルガメシュの小隊も出撃準備が完了したと言う。 四番組の調べによって敵側の武装も判明している。カーキ色の軍服こそ着用していないものの、 それぞれギルガメシュ特有の光線銃を携えているようである。 間抜けと言うより他なく、ラーフラなどは「頭隠して尻隠さずとはこのことじゃ」と鼻で笑っていた。 唯一の例外は小隊長の装備だ。光線銃などは一切持たず、赤い布切れを首に巻き付けるのみだと 『御雇』は報せて来た。マフラーにしては異様なほど丈が長く、先端が地面を擦っているそうだ。 「太ェ野郎だな! 他人様のシンボルをパクりやがって! 見てろよ、ボッコボコにしてやらぁ!」 己の装飾と似通っていることが気に食わず、堪り兼ねて喚き声を上げたシュテンには、 誰ひとりとして相槌を打とうとはしなかった。皆、黙殺を決め込んでいる。 「……どう思う?」 「ん? 私に聞いてる?」 「ミダさんじゃなくて――アプサラス君、小隊長とやらの布切れ≠どう思う?」 「どう――と訊かれても……」 ミダと一緒に待機していたアプサラスに向かって、ナタクは小隊長の武装について意見を求めた。 今もまだ迷いが晴れずにいるアプサラスへ寄り添っていたミダは、 目配せにてナタクの意図を探ったが、当の局長は首肯を以って応じ、 心配するようなことはしないと無言で示した。 「……顔を隠すだけなら丈の長さは要らない。却って邪魔になる」 僅かな逡巡の後、アプサラスは自身の見解を語り始めた。 「そうか――なら、『戦布術』の一種かも知れねぇな」 「センプジュツ? ……あ、ついつい割り込んじゃったけど、大丈夫だった?」 「問題ねぇさ。そうか、ミダさんは知らねぇか」 「私も聞いたことがないのだけど。センプ――って斧ではないの?」 「戦に用いる布って書くんだ。『乗星(じょうせい)』に伝わる武術のひとつでな。 ……噂じゃギルガメシュの副指令も使うらしい」 『乗星』とは陽之元と海を隔てた隣国である。武術の研鑽が盛んな国でもあり、 『戦布術(せんぷじゅつ)』もそうした風土の中で育まれた伝統武術だとナタクは語った。 ニッコウから長めの布切れを借り受けると、これを用いて技術の一端を再現して見せる。 相手の手足に布を巻き付けて横転させるほか、素早く振り抜いて眼球を掠め切る技もあるそうだ。 一瞬にして首の骨を圧し折るような殺傷の術をも内包しているとナタクは解説を続けた。 「『副指令も使うらしい』って――ナタク君も普通に使いこなしてるじゃない。 あれ? そっちの界隈じゃポピュラーな流派なの?」 「俺だって基礎しか知らねぇんだけどね。前に乗星まで出張ったこと、憶えてます? そのとき、向こうの武術家にツテが出来て、ちょいと教わったんですよ」 「いやぁ、私には自由自在に見えたよ。ねぇ、アッちゃん?」 「……局長は小器用だから」 他国の伝統武術をも容易く実演してみせるナタクに、アプサラスは大きな溜め息を漏らした。 この男が修めた武術――小具足術は武芸百般を真髄とする実戦主体のものである。 体術を骨子としながら武器術にも精通しており、双方を融合させた技も数多い。 小具足術の一派である『聖王流(しょうおうりゅう)』の宗家を引き継いだナタクは、 「小器用」どころではなく、地上のありとあらゆる武器を使いこなすことであろう。 アプサラスは嘗ての師匠より秘伝を授かった『杖(じょう)』と忍具を併用しているのだが、 本気になればナタクはどちらも彼女を上回るだろう。 過去に一度だけ、アプサラスは本気でナタクに挑んだことがある。 彼の双眸が獅子の如き猛々しさを宿していた頃に、だ。 模擬戦ではなく生命の遣り取りを繰り広げたのだ――が、 そのときは為す術もなく返り討ちにされてしまった。 現場に立ち会うことが出来ず、後から委細を知ったラーフラには、 「殺されなかっただけ御の字じゃ。あれは人間ではないからの」と苦笑いされたものである。 まさしくその通りだと思う。立ち合った日のことを振り返るだけで、 アプサラスは心身の震えが止まらなくなるのだ。 どれだけ素早く杖を突き込んでも弾き飛ばされ、 猛毒が塗布された短刀や口に含んだ針で不意打ちを狙っても掠めることさえ叶わない。 持ち得る限りの身体能力を振り絞り、最大速度で翻弄しようと試みても、 ナタクはそれを苦もなく凌駕してしまうのだ。 打撃を放つ度、己の浅慮を後悔させられた。 二本指で双眸を抉ろうとしたときは眼球へ到達する寸前に躱され、迎撃の頭突きで眉間を割られた。 わざと蹴りを撃たせておき、特殊な防御法で受け止めて相手の足を壊す―― このような技を神速の中で精密に繰り返すのである。ただ一度の誤りもなく、だ。 体格差などではなく、生物としての次元の違いとでも言うべきものが、そこには在った。 その上、ナタクは打撃しか使っていない。得物たる軍配団扇はおろか、 投げ技も組み技も一度として繰り出さずに終わったのだ。 聖王流に於いて、投げや関節技は『組討(くみうち)』と総称され、 技術体系の中でも特に重要視されている。 ナタクはこの『組討』を大の苦手としており、仲間同士の模擬戦では殆ど使おうとしない。 さりながら、上手く使いこなせないのではない。打撃と比して殺傷力が格段に高く、 用いれば確実に相手の生命を奪ってしまうので、仲間へ用いることを禁忌と定めているのだ。 手加減を差し挟む余地もない殺傷の術――それが聖王流の『組討』であった。 生命の遣り取りと言いながらもアプサラスはハンデ戦で応じられたようなものだった。 尤も、屈辱など感じている余裕もない。全身の骨が砕けるような衝撃に飲み込まれ、 朦朧としている間に上方から踵が降り注ぎ、気付いたときには病院のベッドに寝かされていたのである。 中空へ跳ね飛びつつ踵を浴びせる『爪燕(そうえん)』なる足技が止(とど)めの一撃だったと言う。 終わってみれば、本復まで半年も要するような重傷だった。 攻防の内容も断片的にしか憶えていない。 腕を取って肘関節を極めようとしたときは筋力のみで耐えられ、 膝裏に杖を引っ掛けて投げ飛ばそうとしたときは逆に背後へと回り込まれ―― 武技も忍術も何ひとつとして通用しない絶望感だけは脳に刻まれていた。 乱戦の最中に筋肉を弛緩させる毒霧を噴き、身動きを封じようともしたのだが、 それすらもナタクは凌ぎ切った。おそらくは毒そのものが通じていなかったのだろう。 隙を作ろうと放った手裏剣は指先で掴み取られ、逆に投げ返された。 しかも、アプサラスの投擲よりも遥かに速い。 忍術を修めた者が己の手裏剣で右腕を抉られると言う失態を演じてしまったのだ。 (……我ながら、よく生き残ったものだわ……) ナタクと言う男は、世に生まれ落ちた瞬間から凄絶な修練を積んできたと噂されているが、 あながちそれは誤りではないように思える。 彼と同じ聖王流の使い手は化け物揃いだった。直弟子たるハハヤは覇天組最強との呼び声も高く、 道場こそ違えども同門であるニッコウは、足技に於いて右に出る者がいない。 ヌボコも聖王流を体得しているが、彼の場合は養父が独自に編み出した喧嘩殺法に強く影響され、 更にはアプサラスの忍術も伝授されている為、小具足術とも異なる体系で完成されつつあった。 そうした化け物の中に在って常勝を誇るナタクこそが世界最強だと推す声もある。 彼に戦布術を教えたのは隣国の武術家であったが、 そもそものきっかけは文化交流の一環として開かれた両国共催の武術大会である。 陽之元代表として出場したナタクと立ち合ったのが、件の武術家であったのだ。 乗星が送り出した当代最強の拳法家――名を顕聖と言う――をもナタクは破っている。 相手の奥義を正面から迎え撃ち、捉えられた顔面を赤黒く染めながらも、 ナタクは迫り来る死の兆しを愉しんでいた。 突き込まれた拳を掌で受け止め、ただそれだけで相手の手首を圧し折ってしまうなど人間技ではない。 彼のことを世界最強と呼ぶ声にも、アプサラスは肯かざるを得なかった。 尤も、ナタク当人は「ハハヤには敵わねぇ」と常々語っている。 百年に一度の天才とまで謳われる直弟子を素直に認めているわけだ。 しかし、それも道場に於ける仕合≠ナのこと。生命の遣り取り――即ち、死合≠ノ於いては、 ナタクに勝てる者など居ないとハハヤ自身が話していた。 そのナタクが厄介だと語る『戦布術』の真髄が、アプサラスには全く掴めない。 傍らに在るミダも想像が追いつかないらしく、頻りに首を傾げている。 「ギルガメシュの小隊が動いた」とナラカースラが声を張り上げたのは、 三者の会話が途切れた直後のことである。『御雇』からの急報であった。 アプサラスにとっては、局長に問われた『答え』を見出せないまま刻限が訪れたと言うことである。 今や気を張り詰めることさえままならない彼女は、 気遣わしげな眼差しを向けてくるミダやヌボコへ震える声で「大丈夫だ」と返した。 か弱く返事をした後は、ただひたすら俯くのみだ。 他の隊士たちが武具を手に取る中、自身の得物を掌中より落としてしまったアプサラスを ラーフラは厳しい目付きで睨(ね)めつけ、 「ここでワシらの帰りを待っておれ。今のお主など使い物にならぬわ」と嘲笑を飛ばした。 「……見縊られたものね」 「粋がるな、木っ端(こっぱ)が。敵は、所詮、端役に過ぎぬが、今のお主はそれ以下じゃ。 お主の旧友(とも)、ワシが見つけて心臓を一突きにしてくれる。 ……その様をお主はどう見る? 黙っておれぬであろう。身を挺して庇いもしよう。 それは覇天組隊士にあるまじき振る舞いぞ」 「隊士にあってはならないことだから、私も一緒に刺し殺す、と? ……思い込みでそこまで喋れるとは、何時もながら感心する。 隊務を疎かにつもりはないと、何度も言っている筈ですが?」 「心の働きは御し難きものよ。それは今のお主が一番良く分かっておろう。 故に居残れと申しておるのじゃ。血を分けた肉親の屍をも踏み越える覚悟―― それが覇天組には欠かせぬ。そして、それをお主は置き忘れてきた。生温い昔語りの彼方にの」 「何度でも言おう。見縊るな……!」 精根尽き果てたかのように見えたアプサラスも、ラーフラの嘲笑を受けて徐々に昂ぶり始めた。 覇天組隊士としての魂に火が熾った。 副長の意図を察したヌボコがナタクを窺うと、彼は薄く笑みながら首肯を返す。 周りの者たちが呆れ返る中、アプサラスとラーフラは平行線とも言うべき口論を続けている。 その様を一瞥したナタクは、次いで隊士一同を順繰りに見回し、 どよめく消防署員へ一礼した後、白外套を翻して出撃の号令を発した。 (……最後の一線だけは守らなくてはならない。そうでなくては生きている価値もない……!) 未だ心の乱れを鎮められずにいるアプサラスであったが、 副長の嘲笑と局長の大音声によって覇天組隊士としての矜持を想い出し、 身を引き剥がすようにして仲間たちの後を追い掛けた。 杖を握り締める力は、今までになく強い。 * ヌボコが下調べを行った通り、午前三時を過ぎると町のメインストリートから人の気配が絶えた。 高利貸しの店舗が所在する区画は街頭も少なく、常闇の世界と化している。 足元さえ判然としない暗闇の中、息を殺して二十余名の人影が蠢いていた。 各々が携えた光線銃や先頭を切る男が風に靡かせる赤い布切れからも察せられる通り、 高利貸しを狙う強盗団――否、ギルガメシュの小隊であった。 メインストリートから脇道へと滑り込んだ一党は、今や標的たる店舗に辿り着こうとしている。 店先で引き込み役≠ノ合図のメールを送信すれば、最早、目的は達成されたようなものだ。 万事(こと)は首尾良く進んでいると、小隊の誰もが確信していただろう。 それが崩れ去ったのは、暗闇の向こうより不可思議な音色が聞こえてきた瞬間である。 幾つもの鈴を同時に鳴らしたような音色であった。 金属の擦れ合う独特の音が、水面を渡る波紋の如く常闇の世界を震わせていた。 虚無の空間へ響き渡る音色には、小隊の誰もが肝を冷やしたことであろう。 それは間違いなく人の気配を伴っているからだ。 今日に限って、どうして脇道などに人の気配が在るのか――薄汚い賊徒が困惑にどよめいた瞬間、 雑居ビルの狭い隙間をすり抜け、死を告げる者たちが一斉に飛び出した。 「な、なんだ、こいつら――」 賊徒のひとりが悲鳴を上げている間にも、包囲網≠ヘ加速度的に展開されていく。 狭い路地へ駆け込んで来た三十名ばかりの一隊が賊徒を前後から取り囲み、逃走を封じる壁≠築いた。 皆、片手に小型の提燈を構えている。薄紙に『捨』の一字が記された提燈を、だ。 賊徒と共に壁≠フ内側に在るのは、言わずもがな覇天組の隊士たちであった。 即ち、『捨』の提燈を構えた一隊は、ナラカースラのもとで四番組を構成する準隊士―― 『御雇』の者たちである。 恐慌状態に陥った賊徒を正面から見据えるのは局長のナタクだ。 手斧の如き鋭さが備わった軍配を右手に携え、傍らに副長のラーフラと総長のルドラを伴っている。 三者のもとには旗持のアラカネも在る。 彼の掲げた隊旗(はた)には『捨』の一字が銀糸でもって刺繍されており、 これを見て取った小隊長が「こんなところに、何故……」と呻き声を上げた。 「何故もクソもあるかい。ギルガメシュは地の果てでも追い掛けてってブッ潰す。誰ひとり逃がすもんか」 器用にも指先でもって鳴杖を振り回していたニッコウは、 これを中空に放って掴み直し、更に柄の底にて地面を突く。 鳴杖の先端には輪形の金具が取り付けられており、そこに小振りな鉄の輪を六つばかり通してある。 柄の底が地面を叩くと、先程まで響いていた音色が繰り返された。 鉄の輪を打ち鳴らした音色には、邪悪なものを破る霊力が宿っているそうだ。 「陽之元国所属、覇天組である――教皇庁の命(めい)によりギルガメシュの一党を成敗する」 「壁や道路を抉る程度であれば構わないが、一帯を廃墟にするようなことだけは慎んでくれよ。 くれぐれもやり過ぎないよう注意してくれ」 局長による攻撃命令に隊士一同への注意事項を付け加えたのは総長である。 戦闘に際して手加減を求めたわけだが、覇天組隊内に於ける「手加減」とは 世間一般のそれ≠ニは些か意味が異なっている。 覇天組隊士はそれぞれが人智を超えた戦闘力を秘めており、 全力を発揮しようものなら、二〇にも満たない人数であろうと町ひとつくらい容易く消し飛ばしてしまう。 無関係の人間にまで損害を出さないようルドラは気を配ったわけだ ギルガメシュに手心を加える理由はない。鞘を持たず、抜き身のままで両刃の直剣を携えている総長は、 敵兵が攻め寄せてくると見れば、悉く首を刎ねるつもりである。 「いつもながら難儀なことだ――」 苦笑いを漏らしつつ、シンカイが黒鞘より愛刀を抜き放つ。 肉厚で重量(おもみ)があり、『打刀(うちがたな)』と呼称される種類の物にしては相当に長い。 『御雇』が携える提燈の明かりを跳ね返し、白刃が淡く煌く。 ナラカースラが得物とする鎖鎌も刃に提燈の明かりを吸い込んでいる。 短い柄の底より垂らされた鎖は、光を帯びると夜を舞う霊魂のようにも見えた。 「イイ感じにノッて来やがった――おめぇら、マジで運がイイぜ。 冥土の土産に、この世で一番おっかねぇモンを味わわせてやるからよ」 先端に分銅の付いた鎖を振り回すと、宵闇の風が鋭く切り裂かれ、乾いた音を響かせる。 時計の針が秒を刻む音にも似ていた。少なくとも、賊徒の耳にはそのように聞こえているだろう。 針が回り、ある刻限を迎えたとき、覇天組に睨まれた者は悉く血の海に沈むと言うわけだ。 絶対的な死を前にして身が竦み、賊徒のひとりが尻餅を突いた――が、 間もなく彼は恐怖から解き放たれた。その素っ首を光の矢が射抜いたのだ。 屍から生命力を吸い尽くすようにして明滅し、やがて光の粒子と化して掻き消えた一矢は、 上空より降り注いだ物である。 閃光が走った軌跡を辿れば、大弓を構えたジャガンナートが雑居ビルの屋上から身を乗り出していた。 別のビルにはミダの姿が見られる。下腕から手首に掛けて、輪状の武具を等間隔で四つ装着しており、 そこに黄金色(きがねいろ)の稲光を帯びていた。 「――行きますッ!」 ハハヤが駆け出すのと同時に乱戦が始まった。 あるいは、『乱戦』と呼べるほどのものではなかったかも知れない。 人間離れした隊士の力によって地上最強とまで謳われる覇天組と、 ギルガメシュの中でも末端の兵卒とでは、戦う前から勝負は着いているようなものであろう。 「張り切って連中をビビらせたけど、こりゃ、おれの出番はなさそ〜だ」 「隊が健康に機能してる証拠だよ。組長が四人も揃って苦戦なんてしてみなよ? 覇天組の株も大暴落ってトコさ」 肩を竦めながら『捨』の隊旗へ歩み寄っていくニッコウとゲットの背後では、 『魁先生』を筆頭に覇天組きっての猛者たちが次々と賊徒を駆逐していた。 四番組の構成員たる『御雇』は戦闘には加わっていないが、そもそも彼らの助太刀など必要なかろう。 彼らの長たる四番戦頭が鎖分銅と鎌を巧みに操る近くでは、 『ガムシン』の異名を取る二番戦頭が賊徒のひとりを一刀両断に斬り伏せている。 読んで字の如く、脳天から真っ二つにしたのである。 ハハヤは撃発された光の弾丸を掌で握り潰し、賊徒の動揺を一等煽っていた。 そうして恐怖に呑まれた者は、一番戦頭の拳によって頭蓋骨を砕かれるわけだ。 局長、副長、総長――三者は隊旗のもとに居並び、静かに戦況を窺っている。 一歩引いたところで静観するからこそ、各隊士の動きを抜かりなく把握出来ると言うもので、 シュテンがエレキギターを奏でようとした瞬間、 ラーフラは「『プラーナ』は厳禁じゃ! 特にお主のは被害が大きくなり過ぎる! 弁えいッ!」と、 すぐさまに制止の声を飛ばした。 「それなら出撃(で)る前に言えよ! 荷物になるだけじゃねーか! ギターだって軽かねぇんだぞ!」 「備えよ常に――と言うことさ。いざ使わなければならないと言うときに現物(もの)がなくては、 シュテン君も困ってしまうだろう? なくて困るよりは使わず荷物になるほうがずっとマシだよ」 「ンなこと言ったって、ルドラ先生よぉ〜」 「ガタガタ愚痴ってねぇで仕事しろ、ノータリン。ただでさえ使い道のねぇようなカスなんだから、 仕事くらいまともにこなしたらどうだ」 「るッせぇんだよ、デカブツがッ! てめぇ、結局、洗い物までオレにやらせやがって……! コレが終わったら、憶えてやがれよッ!」 ルドラから諭され、アラカネから虚仮にされた鬱憤を、シュテンは賊徒でもって晴らした。 遮二無二突撃して来た賊徒の頚椎をたったの一蹴りで破壊したのだ。 余りにも勢いが強過ぎたのか、頚椎を折られた者は顔面が背中側にぐるりと回ってしまっている。 使用を厳禁されたギターを肩に担ぎつつ、シュテンは蹴りのみで戦っていた。 ニッコウほど洗練されたものではないが、単純な破壊力だけならば、 間違いなく聖王流の足技にも匹敵することだろう。 起死回生を図り、局長を狙って特攻を仕掛けてきた賊徒は、 先ずラーフラが十文字槍で胸部を突き刺し、動きを止めたところへルドラが追撃を閃かせた。 総長の放った横一文字は瞬時にして賊徒の首を刎ね飛ばし、 これを見て取った副長は、残された胴体を乱戦の只中へと投げ捨てた。 首と胴体が時間を置いて落下した瞬間、 彼の仲間たちが聞くに堪えない悲鳴を上げたのは言うまでもあるまい。 気が狂ったかのような悲鳴が辺り一帯に轟けば、 如何に眠りの深い時間帯であろうとも強制的に覚醒させられると言うもので、 「お前らが一番ハデにやってるじゃねーか」とナタクが注意している間に 彼方此方の建物で電灯が点き始めた。 何事かと窓を開けて外の様子を伺った者は、地獄絵図としか言いようのない情景を認めると、 直ぐに卒倒してしまったようだ。 混乱の余り、建物の外に這い出した者も少なくない。 他の類例に漏れず、高利貸しの店舗からも人影が飛び出したのだが、 それは胴欲な社長などではなく妙齢の女性であった。 「――ア、アプサラス……?」 見慣れた筈の路地は今や血の海と化しており、身の毛が弥立つような情景を目の当たりにした女性は、 店舗の入り口でへたり込んでいる。 視界に捉えたものに対し、反射的に零れた呟きは、 その女性がアプサラスの昔馴染みであることを示していた。 彼女の視線が向かう先を辿れば、やや腰を落としつつ杖(じょう)を構えたアプサラスが、 強盗団の頭目≠ニ相対している。 昼間の再会の折とは掛け離れた姿である。漆黒のプロテクターと鉢巻を着け、 やはり闇を具現化したような彩(いろ)のロングコートを羽織っている。 今のアプサラスが纏っているのは、鍛え上げられた戦士の武装と一目で分かるものであった。 否、ここに集結したのが戦士であることは、アプサラスの出で立ちを見るまでもなく分かっている。 男性の声ではあるものの、覇天組と言う名乗りも聞こえていたのだ。 その名乗りに反応し、店舗から飛び出してしまったとも言える。 陽之元国に生を受け、『北東落日の大乱』と言う時代を体験した者にとって、 覇天組の隊名(な)は、死と言う概念を現世に具現化したものであった。 その覇天組が自分を雇った強盗団を追い詰めている。 旧友に至っては頭目≠向こうに回して攻め掛かる機会を窺っているではないか。 「しょ、小隊長殿が、なっ、何故……?」 やや遅れて高利貸しの一家も店舗の外へと這い出してきたが、 他の者と同じく惨状に怯えて立ち尽くすばかりである。 一体、何が起きているのか――最早、彼女の思考は限界を超えていた。 教皇庁が覇天組にギルガメシュ狩り≠命じていることは聞いたことがある。 だが、強盗の取り締まりはシェリフ(保安官)の仕事であろう。 更に付け加えるならば、ここは他国である。どう考えても越権行為であった。 しかし、覇天組であることを名乗った声は、同時に相対した者をギルガメシュの一党と謗っていた。 頭目℃ゥらが店舗に出入りしていたことも把握している。 それもまた押し込みの準備を整える為の仕込みであると聞いていた。 事態(こと)ここに至るまでの経緯を整理した瞬間(とき)、 アプサラスの昔馴染みは、ようやく己の置かれた状況を悟った。 自身の雇い主にして標的(カモ)である高利貸しを振り返ると、 小隊長の面を見詰めながら呆けたように口を開け広げている。 つい先程、この男は強盗団の頭目≠「小隊長殿」と呼んだのである。 その呟きが意味することは、ただひとつであろう。 上手いように転がされていた己の浅慮を嘲りたくもなったが、今はアプサラスのことだ。 己が頭目≠ニ信じ込んでいた相手と一対一の戦いを演じている。 彼女を狙って撃発された光の弾丸は、銀髪の少年が全て弾き飛ばしている。 左右の掌中に在る武具は黄金の稲光を帯び、これをアプサラスを守護する盾に換えているようだ。 「――『プラーナ』……」 銀髪の少年が持つ『金剛杵』と言う武具も、そこに宿る黄金の輝きも、 陽之元国に生まれついた者は良く知っている。 覇天組の隊士が纏う黄金色(きがねいろ)の輝きこそが、内乱の陽之元を新時代へ導いたのである。 「――ここは俺が引き受けます。思う存分、戦って下さい」 「恩に着る……!」 銀髪の少年――ヌボコはアプサラスの支援に徹している。余人に手出しはさせまいとしているのだ。 そして、アプサラスの支援はヌボコのみではない。彼女を狙撃しようと光線銃を構えた賊徒は、 上空から降り注いだ黄金色(きがねいろ)の砲弾に押し潰され、無残な肉の塊と化した。 着弾した箇所は隕石孔(クレーター)の如く抉れており、砲弾の威力を物語っている。 砲手≠ヘ三番戦頭のミダである。今し方の砲弾は、どうやら彼女の掌より放たれたものであるらしい。 突き出された右手と、その下腕に装着した輪状の武具には、余韻のように黄金の火花が爆ぜていた。 雑居ビルの屋上に陣取るミダを仰ぎ見たニッコウは、 「カンベンしてくださいよ。あんまやり過ぎると修繕費が覇天組(こっち)持ちになっちまうんですから」と 軽く悲鳴を上げたが、注意を促された当人は小さく舌を出して誤魔化すばかり。 溜め息を吐く勘定方を慰めつつ、局長も困ったように頬を掻いている。 「大目に見てやれよ。このところ、遠征はシュテンやホフリに任せっきりで自分は屯所を守ってたからな。 偶にはミダさんも思い切り暴れたいんだろうぜ」 「そんじゃ、ココの修繕費はお前のポケットマネーから出すってコトでいいな? アレを認めるっつーのは、そう言うことだぜ?」 「俺の財布(ふところ)なんかに頼らなくても余裕で賄えるじゃねぇか。 ニッコウお得意の財テクってヤツでよ」 「お前は財テクの使い方を絶対間違ってるっ!」 ナタクやニッコウのように見慣れた者にとっては、さして驚く程でもないのだろうが、 生身の人間が掌からエネルギーの塊を撃ち出す様など、一般人には衝撃以外の何物でもない。 暫時、地面の窪みとミダとを交互に見比べていた高利貸しの社長は、 いよいよ正気を失って逃亡を図ろうとした。甲高い絶叫を引き摺りつつ、 彼方此方を這い回ると言う無様な姿である。 世界各地でギルガメシュ狩り≠繰り広げる覇天組が現れたと言うことは、 かの組織に加担していた者も標的に入れられている――そのように直感し、 道連れにはなるまいと懸命にもがく右足を無情にも鎖が搦め取った。 改めて詳らかにするまでもなく、鎖を放ったのはナラカースラである。 「トンズラなんざ許されると思ってんのか? あッ? てめぇもギルガメシュの一味だろうがッ! 生きたまま土ン中に埋めて、薄汚ェ首をノコギリで裂いてやっからよォッ!」 四番戦頭より凄まれた社長は、見るに堪えない粗相≠仕出かして失神してしまった。 血塗れた鎌を携える威容(すがた)が冥府の死神にでも見えたのだろう。 社長とその家族が沈黙する頃には、ギルガメシュ狩り≠熄I息を迎えようとしていた。 直撃することのない光線銃を投げ捨て、軍用ダガーを抜き放って突撃してきた者を シュテンが踵落としで沈めると、賊の一党は小隊長を残すのみとなった。 薄汚い手口を使う外道にしては鍛錬が行き届いている。 無論、面には狼狽の色も滲んでいるが、配下が次々と殺され、孤立無援になろうとも正気を留め、 アプサラスと対峙し続けているのだ。 首に巻いていた布切れを両手に構えつつ間合いを計り、攻勢に転じる隙を窺っている。 ナタクが予測した通り、『戦布術』と呼称される武術の使い手であるようだ。 相対するアプサラスの面は、先程までの動揺が嘘のように生気を取り戻している。 周囲に断末魔の叫びが轟く度に心の乱れが収まっていった。 血腥い風によって迷いが拭われたと言うべきかも知れない。 この地獄絵図こそが、己の在る場所だと確かめた。 『北東落日の大乱』と言う戦いの時代に何を見出したのか、そのことも判然と想い出している。 何も知らない人間を下衆な企みに巻き込み、利用するだけ利用して口封じを図るような悪は 必ずや根絶やしにしてみせる――アプサラスには、ただそれだけで良かった。 血の匂いが、そのことを彼女に悟らせたのである。 「敵は全て殺す。……それが覇天組だ!」 アプサラスの吼え声で警戒心を強め、小隊長は杖の先へと意識を集中させた。 木製であることは一目瞭然。布で巻き取ってしまえば、無力化させることも不可能ではなかろう。 例え一撃二撃喰らった程度では致命傷には至るまい。 それが小隊長の見立てだ――が、鋭い踏み込みと共に胸元へと打ち込まれた一撃は、 予想に反して骨身まで響いた。 否、「響いた」と言うような甘いものではない。軋み音が耳にまで聞こえたのだ。 今のところ、陥没や破断には至っていないが、亀裂が入ったことは間違いなさそうだ。 激痛に苛まれながらも小隊長は膝を屈しなかった。 覇天組に包囲された時点で既に覚悟を決めているのだろう。 兎も角は杖を奪わなくてはならないと、自身が発揮し得る最速の動きでもって布を繰り出した。 それは速度重視の奇襲であったのだが、忍術を極めたアプサラスの目には児戯にも等しく、 軽やかに身を翻して避けるや否や、杖を振り下ろして左膝を叩く。 これもまた軽い打撲で済む筈であったが、降り掛かった衝撃は小隊長の想像を絶するほどに重く、 彼の左膝は二度と使い物にならないほど破壊されてしまった。 どれほどの気魄を備えていようとも、物理的に肉体を壊されてはどうしようもない。 堪らず屈み込んだ小隊長の左脇腹をアプサラスの杖が抉り、やがて一直線に貫いた。 ラーフラが用いるような槍ではなく、木材を削り出して拵えた杖が人体を貫通したのだ。 「……こ……こ……ま……で……と……は――」 覇天組隊士が人外の化け物であることをその身で確かめながら、 小隊長は最後の反撃とばかりに『戦布術』を繰り出そうとする。 しかし、腕を振り抜くだけの力は残されておらず、また反撃(これ)を許すようなアプサラスではない。 一切の容赦もなく、止(とど)めとばかりに延髄へ杖を振り落とした。 今度こそ小隊長は地に伏せ、そこに血反吐を零した。誰の目にも絶息していることは明らかであったが、 それでもアプサラスは入念に追い討ちを実行していく。こめかみと心臓を垂直に貫き、 二度と起き上がらないことを確認して、ようやく彼女は得物を引いた。 ここに至って乱戦は終結した――が、彼女にとってはここから先が本番である。 「……アプサラス……」 己の名を呼ぶ声に応じ、アプサラスは昔馴染みと視線を交えた。 旧友同士の再会ではない。覇天組隊士と、図らずもギルガメシュへ与してしまった者との対峙である。 アプサラスの動揺を案じてヌボコが歩み寄ろうとしたとき、事態は思わぬ方向へと転じた。 突如として十名程度の男たちが惨劇の場へと雪崩れ込んで来たのである。 全員、胸元に職務を示す星型のバッジを付けている。 彼らは警察権を担って犯罪の取り締まりに当たる者――シェリフ(保安官)であった。 「どこぞの誰かが通報でもしたのかな」 「そう考えるのが妥当でしょうね。路地裏でこんな殺し合いが始まったら、 普通の神経の人はまず混乱しますから。ギャングの抗争と間違われたのではないでしょうか」 「……抗争か。自分で言うのも何だが、当たらずとも遠からずだな」 シェリフたちの到着を遠巻きに眺めながら、シンカイとハハヤは戦いの後片付けに勤しんでいる。 「海を渡った先で、そこの迷惑も考えずに殺し合ってんだぜ? 『当たらずとも』じゃねぇよ、大当たりだ。ギャングもオレらも同類だぜ」 刃より滴る血を布で拭い、愛刀を鞘の内側へと納めるシンカイ、母衣を折り畳んでいるハハヤは、 シュテンの軽口に揃って苦笑いした。 「は、覇天組の皆さんでございますか?」 「如何にも。この区域を管轄される『シェリフ・オフィス(保安官事務所)』の方じゃな?」 「左様でございます。遅ればせながら、加勢に馳せ参じました」 「忝(かたじけな)い。しかし、この場は覇天組のみで何とか切り抜けられました。 今からお願い出来ることとなると――遺体の引取りなど後始末が中心となってしまいますが、 それでも宜しいのでしょうか?」 「検死も役目のひとつですので、我らにお任せをば」 「ありがたやありがたや――教皇庁の命を受けておるとは言え、ワシらは余所者じゃからのぉ。 こう言うとき、助けて頂けると何より助かるわい」 シェリフ・オフィスを取り仕切るリーダーと思しき男には、ラーフラとルドラが応対に当たった。 口振りから察するに、この地で覇天組が活動している件は承知していたようだ。 市民からの通報を受け、直ぐに覇天組の討ち入りと判断して加勢に出動したと言う。 ラーフラとルドラは視線を合わせて苦笑した。乱戦が終結した頃になって到着するとは、 余りにも筋運びが出来過ぎている。化け物の戦いに巻き込まれないよう物陰に身を潜め、 全てが終わる頃合を見計らって現れたに違いない。 「……覇天組の局長を務めている者です」 「おお、……お噂は以前より伺っております」 局長のナタクもラーフラたちと肩を並べ、シェリフのリーダーに一礼する。 「ギルガメシュの小隊は我らが討ち取りました。それより問題なのは、そこでノビている高利貸し。 密かにギルガメシュと通じて資金(カネ)を用立てていたようです。テロの支援者でした」 「なんと言うことだ……」 「出来れば、シェリフ・オフィスのほうで厳しく取り調べ、然るべき処置を取って頂きたい。 それが道理と言うもの。他国の人間に危害を加えることは我らとしても避けたいのです」 「りょ、了解しました!」 ギルガメシュに与した高利貸しは、本来ならば教皇庁の名のもとに殺戮しても構わない相手であった。 直接的に武力を行使しなくとも、テロ支援は国際社会を脅かす巨悪に間違いない。 しかし、ナタクは高利貸しの一件をシェリフ・オフィスへ委ねることに決めた。 テロ組織への支援を絶てるのであれば、必ずしも自分たちが手を下すことはない。 裁きの行方を当地の司法機関へ委ねても何ら問題はないわけだ。 それに、だ。首長からの依頼を口実にして、この地の公的機関へ幾度も迷惑を掛けてしまっている。 ひとつくらいは手柄を譲らねばなるまい。そもそも、覇天組は功名など欲してはいないのである。 「……いつまで経っても甘ちゃんじゃな、局長は……」 ラーフラは不服そうにしているが、ルドラから肘でもって脇腹を小突かれると、 不承不承と言った調子で引き下がった。 「――ただし、あの女は別です。あれは覇天組にて引き取り、直に尋問を行いたい」 「は……?」 早速、高利貸し一家の逮捕へ取り掛かろうとしたリーダーを押し止めたナタクは、 軍配団扇でもってアプサラスの昔馴染みを指し示した。 「我らが調べたところによれば、あの女はギルガメシュが送り込んだスパイだと言うことです。 ……そこに転がっている連中は、こともあろうに資金提供者の店に押し入ろうと企てていました。 そのときに内側から手引きする人間が必要でしょう?」 「それがあの女性……と言うことですか」 「あれは紛れもなくギルガメシュの兵士。尋問次第では別の拠点を掴めるかも知れない。 何としても覇天組で引き取らせて頂きたいのです」 「そ、それはそうですが、し、しかし……」 「我らが取り調べ≠する。……この意味がお分かりですな?」 『北東落日の大乱』に於いて覇天組が敢行した忌まわしい族滅は、 『最凶』と言う悪名と共に他国の地にまで知れ渡っている。 目的の為には手段を選ばず、非道な振る舞いも平然とやってのける悪鬼の群れ――それが覇天組なのだ。 その隊の局長から眼光ひとつで脅かされたシェリフのリーダーは、首を縦に振ることしか出来なかった。 アプサラスの昔馴染みに向けて、同情にも似た視線を送った後、 シェリフのリーダーは傍らに在った部下へ高利貸しの社長を逮捕するよう命じた。 彼の一家も、住み込みで働いていた社員たちも一旦は身柄を拘束されることだろう。 シェリフたちの散開を見届け、彼らを手伝うようラーフラたちに指示したナタクは、 次いでアプサラスの昔馴染みへと歩み寄った。 彼女は今も地べたに座り込んだまま、立ち上がれずにいる。 『最凶』の武闘集団が作り出した惨状に中てられ、腰を抜かしてしまった次第である。 「父様……」 不安げな声を掛けてくるヌボコへ「心配ない」と首肯を以って応じたナタクは、 白外套が汚れるのも構わず、立て膝となって女性と目線を合わせた。 相手は覇天組と言う名に――その隊名(な)が帯びる死の影にすっかり怯え切っている。 おそらく拷問にでも掛けられると思い込んでいるのだろう。 憐れに感じるほどの狼狽を宿して揺れる瞳を、ナタクはじっと覗き込んだ。 「お前さん、この道≠ノ入って何年だ? ……敢えて経緯は訊かねぇからよ」 「三ヶ月、ですが……」 「覇天組相手に下手な誤魔化しなんざ通じねぇってことは、 陽之元の出身者なら誰もが知ってると思ったんだがな」 「さ、三年……です……」 覇天組局長から一睨みされた女は、投げ掛けられた問いに対して「三年」と答えた。 彼が質したその道≠ニは、即ち盗賊紛いの仕事に手を染めてからの年数であった。 「三年足らずの経験で金貸しどもを手玉に取ったか。なかなか見どころがあるじゃねぇか。 ……そうだろ、アプサラス君?」 「局長、まさか……」 「お前さんの下で技を磨けば、きっと優秀な監察方に育つと思うんだが、どうだ?」 ナタクの意図を察したアプサラスは、双眸を驚きに見開いた。 己の昔馴染みに情けを掛けようとしていることは解っていた――が、 覇天組の隊士として引き取るつもりであったとは、さしものアプサラスも読み抜けなかったのだ。 ふたりのやり取りを呆然と見詰めていた女は、 我に返るなり、「それでは、アプサラスはやはり……」と恐る恐るナタクへ訊ねた。 「そうだ。覇天組では監察方の長をやってる。監察方ってのは、まぁ、お前さんの今度の働きと同じようなもんだ。 違いねぇか、アプサラス君」 「……概ね同じと言っておく」 昔馴染みの瞳に己の姿が映っていると感じ取ったアプサラスは、決してそこから逃れようとしなかった。 交えた視線を逸らさず、しっかりと頷き返した。 それが再会の折に身分を偽ったことへの償いであり、古い友人に対する礼儀だと考えていた。 「確かに覇天組(うち)は薄給だが、それでも家族を養っていけるくらい問題ねぇと思うぜ。 その内にゆとりも出てくる。……それによ、娘さんに胸を張れる仕事だぜ?」 覇天組局長の言葉から深い情けを感じ取った女は、静かに頭を垂れた。 双肩は小刻みに震えている――が、そこに顕れているのは恐怖や絶望ではなかった。 「さてと――後のことは任せるぜ。俺は向こうを片付けてくらぁ」 「局長……」 昔馴染みのことをアプサラスに託して立ち上がったナタクは、 ヌボコを促してラーフラたちのもとへと足を向けた。 その頃にはジャガンナートとミダも雑居ビルから地上に降りている。 高利貸しの社長の身柄をシェリフに引き渡したナラカースラもナタクに向かって手を振っていた。 この地で果たすべき任務は完了した。速やかに帰還の支度を整えなくてはならないのだ。 「……礼は言わないわよ」 去り行く局長に向けてアプサラスが声を掛け―― 「言われる筋合いもねぇさ。俺は貴重な人材が惜しかっただけなんだぜ」 ――その言葉をナタクは振り返ることなく背中のみで受け止めた。 真に大きな背中であった。覇天組と言う集団を担う背中であった。 今のアプサラスには、その大きな背中が少しだけ憎らしかった。 だからこそ、礼を述べようとは思わなかった。 (……憎たらしいったら、ありゃしないわ……) 心細げに見上げてくる昔馴染みに対して、アプサラスは深く静かに頷いて見せた。 それは、彼女が久しぶりに微笑みを浮かべた瞬間でもあった。 「……やっと笑ってくださいましたね」 一件落着したとは雖も、アプサラスのことが気掛かりであったのだろう。 父に促された後もその場に居残っていたヌボコが安堵の溜め息を漏らす。 またしても気恥ずかしいところを見られてしまったアプサラスは、 眉間に皺を寄せつつそっぽを向き、それから小さな声で「……お前のお陰だ」と感謝の言葉を絞り出した。 「俺は何も……何ひとつ、アプサラスさんの力になれませんでしたよ。 ふたりで解決しましょうって言ったのに、結局、足を引っ張ってしまって……」 「何を言う。あのとき、お前が促してくれなかったら、本当の過ちを犯すところだったよ」 改めてヌボコに向き合ったアプサラスは、その双肩へと手を置きながら、 彼の父――局長にも言えなかったことをはっきりと口にするのだった。 「古い友人を助けてくれて、ありがとう」と。 「顔が真っ赤ですよ、アプサラスさん」 「お互い様だ」 間もなく夜が明け、町に旭光(ひかり)で満たされる。 それは昔馴染みを誇りある未来へと誘う道標に他ならない。 眩いばかり旭光であれば、頬の紅潮も覆い隠してくれるだろうと、アプサラスは笑った。 本編トップへ戻る |