2.カミュとクラップ



 アルフレッドたちが生きて暮らすこの惑星―――エンディニオンの自然環境は、
お世辞にも良好とは言い難く、現在の状態はむしろその真逆と言える。
 かつて先史時代に於いては、ルーインドサピエンス(旧人類)と呼ばれる民が惑星(ほし)の全土を掌握し、
現代の水準では決して辿り着けないであろう超科学をもって栄華を極めたとされるのだが、
そうした煌びやかな成果とは、何らかの代償を払わねば迎えることが出来ないと古来より定められている。
 ルーインドサピエンスの栄華も弊害を免れることは出来ず、
超科学を開発及び運用する段階で吐き出された廃棄物がエンディニオン上にばら撒かれる結果となった。
 問題なのは彼らより後代になってエンディニオンに直接害を及ぼすようになったことだ。
 廃棄物の多くが有害物質を含んでおり、これらが遺跡や遺産と同じように採掘される始めてからは、
より汚染の速度が早まったように思える。
 言わば、現代人たちは去っていった祖先のツケを払わされているようなものであった。

 無論、ルーインドサピエンスの存在は伝承の域を出ぬものであり、全てを鵜呑みにすることは難しいが、
彼らが残した足跡の虚実はともかく正体不明の有害な廃棄物は現実として世界各地に点在し、
母なる大地を少しずつ蝕みつつある。これだけは確かだ。
 汚染が劣悪な地域ともなると、生態系の破壊に基づく樹木の畸形化や、植物そのものの死―――
つまり砂漠化が深刻な状態で進行している。
 いにしえの時代に起こったとされる事象の爪痕に蝕まれ、緩やかながら着実に死滅へと向かっていく惑星、
それがエンディオンなのである。

 アルフレッドやシェイン、クラップの生まれ育った故郷が属するロイリャ地方は、
死滅への道をひた走るエンディニオンの中でも比較的環境破壊のダメージが少ないエリアであり、
グリーニャとシェルクザールが背にしたベルエィア山は、湧き水を始めとする天然資源を豊富に含有していた。
 先に述べた通り、グリーニャもシェルクザールも、共にベルエィア山の麓に所在しているのだが、
それぞれ山岳を跨いで反対側に村落を構えており、行き交うには山を半周分迂回する必要があった。
 グリーニャとシェルクザールとを直通できる峠道でも切り開けば交通の便は更に良くなるのだろうが、
ベルエィア山で共有している水源や自然の保護を第一に考える双方の住民たちは、
開発に必要な森林伐採等へ首を縦には振らず、それが為に往復二十キロもの道のりを
徒歩で渡ることを余儀なくされているのだ。
 クラップのような若者の中には、迂回などせずとも山を突っ切れば早いと言う強引な意見もあるのだが、
それでも実行に移せていないでいるのは、幼い頃から教えられてきた山河への感謝の念が
本人の知らぬ内に働いているからであろう。

 “おいしいミルクの郷へようこそ”―――と記された看板を潜る頃には、
家畜の鳴き声が遠く聴こえる牧歌的な町並みはもう間近だ。
 シェルクザールへ辿り着いた旅人を最初に出迎えるのは、なんと言っても要塞のように長大な防壁である。
 万が一にもクリッターやギャングに襲撃されたときのことを想定し、
敵の侵入を跳ね除ける為にセメントで打ちつけた防壁が町全体を囲むようにして設置されているのだ。
 内部に鉄筋も打ち込んであると言う防壁は、数メートル級と桁外れに高く、
壁の付近に建つ家屋には陽の光すら差し込まなくなっている。
 景観を妨げかねない無味乾燥な防壁を背にしても誰ひとりとして不満を漏らす住民がいないのは、
ギャングやクリッターの恐ろしさを周知しているからであろう。
 ことギャングに対する警戒には並々ならない力を注いでいる。
 牛馬が高値で売買されることや、麻薬を栽培するのに適した自然環境であることが裏社会では知れ渡っており、
既に多くの組織が狙いをつけている…とまで囁かれているのだ。

 そうした世情の混乱を鎮めるべく、町の人々は高い壁のてっぺんに槍の穂先を模した突起を設置して防御を固め、
更には壁自体も上に行くにつれて侵入者を阻むようにアーチを描いて前へと迫り出している。
 壁面には小さな隙間が設けられており、万が一にも大軍勢によって攻め入られるような事態が発生した折には、
そこから矢やライフル弾で狙撃することになっているのだった。

 幸いにして、現在までにこの隙間が使用されたことはないものの、
槍を模した突起とアーチを描く壁が侵入者を防ぎきってくれるからこそ、牧歌的に酪農生活を謳歌することが出来るのだ。

「いっや〜、遥々来たぜ、シェルクザール! なんか妙にジ〜ンと来ちまうぜ。なぁ?」
「いや、『なぁ?』って同意求められてもさ………」
「お前は鳥頭か。俺もシェインも、しょっちゅう顔を見せていると話したばかりじゃないか」
「………おめーらにロマンを求めたオレがバカだったよ」
「一週間に一度は来てるような場所にどうロマンを感じろってのさ。
この町のことなら、グリーニャとおんなじように隅から隅まで知ってらぁ」
「ケッ、即物的なヤツだぜ。今からそんなんじゃ、お前、ロクな大人になんねーぞ」
「黙れ、エセ文系! ロクでもない大人の代表格に言われたくないね!」
「シェイン、それは言い過ぎだ。確かにこいつはロクでもないが、
大人として認定するには、ありとあらゆる条件を満たしていない。
大人で括るのでなくロクでもないダメ人間と言い直してやれ」
「エセ文系でエセ大人か。もうサイアクだね。恥ずかしいと思わないの? 
全世界の文系と大人たちに謝んなよ、土下座して」
「さっさと座れ、クラップ」
「そりゃもう良いっつのッ!!」

 防壁の真ん中にくり抜かれた正面ゲートを潜ったアルフレッドたちは、
行く先々で声をかけてくる知り合いたちに軽い挨拶で応じながらシェルクザールの大通りを突っ切り、
そのまま中央広場に隣接する小洒落たサルーンへと直行した。
 集会場としても使われる中央広場からは道路が二筋に分岐しており、
西を選べば官庁街へ、東を選べば歓楽街へそれぞれ通じている。

 言うまでもなくアルフレッドたちは東の通路を選んだ次第だ。
 歓楽街と言えば、何やら姦しい響きに聴こえるものの、宿場でもないシェルクザールでは
サルーンの数もたかが知れているし、官庁街――こちらもこちらで、大仰な名称とは裏腹に、
町役場や保安官事務所が軒を連ねた程度の簡素な構造である――が近いこともあって
いかがわしい店は一軒も見当たらなかった。

 そうでなければ、シェインがスウィングドアを開ける前にアルフレッドが後ろから食い止めていた筈だ。
 いくらヤンチャ盛りとは言え、子供にとって刺激が強過ぎるような店に入られては、
グリーニャの人々に合わせる顔がない。
 フィーナやルノアリーナに何を言われるか、想像に難くなかった。

 足を踏み入れた店が健全なサルーンであることは、
テーブルに着いて食事を摂っている人々の様子へと目をやれば、一瞬で理解できると言うものだ。
酩酊して周囲に迷惑をかけるような酔客は一人としておらず、皆、純粋に料理と談笑を楽しんでいる。
 正午を数分回ったばかりと言う時間帯に深酒をする人間は、普通に考えれば見当たらなくて当然なのだが、
不逞の輩が出入りするような店はこの限りではない。
 淫靡で背徳的な空気ではなく、笑いと活気に満ちた空間であるからこそ
アルフレッドもシェインを引き止める必要がなかったわけである。

「あ〜ら、早いお着きじゃないの、シェインちゃん。そんなにアテクシに会いたかったの?」
「マスターはど〜でもいいけど、マスターの作る料理には早くありつきたかったかもね。
特性の紫蘇ジュースも恋しかったよ」
「ンッフフフ♪ 素直じゃないコは大歓迎よン。将来、イイ男になるわネ、シェインちゃんは。
今のうちにツバつけとこうかしらン♪」
「うげ〜、マスターにツバつけられたら溶けちゃいそうだよ!」
「溶けちゃうくらい刺激的なのがオトナなのよン♪ いっぱい食べて、しっかり遊んで、
早くオトナになんなさい。そしたら、もっとイイこと、教えてア・ゲ・ル・ン♪」
「はいはい。早くオトナになる為にも、とびきり美味い昼メシ、お願いね!」
「ンッフ♪ 腕によりをかけて作らせてもらうわねン♪」

 旧知の仲であるらしいサルーンのマスターと親しげに話すシェインを目端に捉えながら、
アルフレッドとクラップは、窓際の一席へと腰を落ち着けた。

「予定より早く来ちゃったけど、部屋の準備はOKかな? 昼メシ食べたら、先に荷物だけでも部屋に入れたいんだよね」
「ベッドメイキングまでバッチリよン。シェインちゃんやアルちゃんが泊まってくれるって言うから、
アテクシ、楽しみで楽しみで、昨夜は寝付けなかったのよン。
お肌に悪いのに………アテクシをキズモノにするなんて、シェインちゃんったら悪いコねン♪」
「借りは出世払いで返すよ」
「ンッフ♪ 楽しみにしてるわン♪」

 カウンター越しに交わされるふたりの談笑からも察せられる通り、
シェルクザールでのアルバイトが満了するまでの間、ここ『一本のえんぴつ亭』がアルフレッドたちの宿所となる。

 食堂――夜には酒場にもなる――のみならず、ホテルとしての機能をも兼ね備えているのが、
サルーンと言う施設の最大の特徴なのだ。
 『一本のえんぴつ亭』の場合は、一階の大広間が数十人を収容できる食堂となり、
ゲストルームは階段を昇った二階と三階に設けられている。
 木製のベッドとテーブル、小型のテレビが備え付けてある程度の簡易な部屋ではあるが、
食堂の喧騒に配慮して壁や扉には防音性に富んだ素材が使われており、
身体を休めると言うことに関しては、極めて優良な環境である。
 ベッドの質も高級ホテルのそれと遜色のない物であるし、清潔なシーツや毛布のお陰で寝心地は最高だ。
 宿泊者を最良の環境でもてなしたいと言うマスターの細やかな気配りが部屋全体から感じられ、
それがここ『一本のえんぴつ亭』の人気の秘訣でもあった。
 「イイ男三人、ご到着♪」と鼻歌混じりでマスターが開いた宿帳は、
向こう一週間分の予約がびっしりと埋まっていた。
おそらくは二週間分、三週間分と同じようなページが続くのであろう。
 そして、その中の何名かは、アルフレッドたちがこれから従事することになる発掘作業の参加者と思われる。

「アルちゃんのことも忘れたわけじゃないのよン♪ 心配しないで待っててねン。
後でた〜っぷりとサ〜ビスしたげるからン」
「お気持ちだけ受け取っておきますよ。どうせなら宿泊代をサービスして欲しいですが」
「ノンノンノン、男のコがそんなせせこましいコトを言ったらダメよン♪
チップを弾むくらいの気前の良さがなきゃ、女のコにモテないわン。
それとも、アテクシに貰って欲しいから、わざと冴えないシャイボーイを演じてるのかしらン?」
「モテなくても構わないとは思いますがね、とりあえず間に合ってますよ」
「色男発言ね、ンフ♪ フィーちゃんとも久しく会ってないわねン。
近いうちにまた連れてらっしゃいな。可愛い女のコも、アテクシ、大好きよン♪」
「そう言って貰えたら、あいつも喜びますよ。なにしろ出掛けに羨ましがられましたからね。
また納品のときにでも連れてきます」
「ンッフフフ♪ アルちゃんとフィーちゃんのお陰で、生きる楽しみがまた一つ増えたわねン♪」

 ウィンクしながら声をかけてきたマスターに会釈で応じたアルフレッドは、
しかし、彼と談笑に興じられるような状況ではなかった。
 納品の度に『一本のえんぴつ亭』へ立ち寄って喉を潤しているアルフレッドもマスターとは親密な付き合いがあり、
シェインに混じって談笑したい気持ちもあるにはあるのだが、
今はそれよりも正面に座ったクラップの様子が気にかかって仕方がないのだ。

 正面ゲートを潜った直後には「遥々来たぜ」などとご陽気だったクラップが、
サルーンへ入る前後から眉間に皺寄せ、難しい顔になっている。
 陽から陰への急激な落差である。
 双眸にはマグマのような怒気が煮え滾っており、単にテンションが下がっただけではなさそうだ。

「さっきまであんなに楽しそうにしてたのに、急にどうしたって言うのさ、クラ兄ィは。
ここは想い出がいっぱいある町じゃなかったっけ?」
「マスターのことなら気にするな。見た目とか、………喋り方とか、取っ付きは悪いかも知れないが、
すぐに打ち解けられるよ。中身はとにかく良い人だ」
「そうそう、ファンキーで楽しい人だよ。お姉ェ言葉が玉にキズだけどね」
「…そんなんじゃねぇって。ちょっとばかり、気分が悪ィだけさ―――」

 シェインもクラップの異変には気付いていたらしく、マスターから受け取ったグラスをふたりに差し出しながら、
それとなくクラップの様子を窺った。
 ちょうどふたりの間に挟まれる位置へと腰掛けたシェインは、
自分と同じように気遣わしげな視線を親友に送り続けているアルフレッドと、
彼の心配を知ってか知らずか、グラスに注がれていた氷水を憮然とした調子で
一気に呷ったクラップとを交互に見比べて頭を掻いた。
 マスターに氷水のおかわりを頼んだクラップは、頭に血が昇っているせいで周りが見えておらず、
アルフレッドはアルフレッドで、詮索はせずに彼のほうから憤懣の理由を打ち明けてくれるのを待っていると言った状況だ。
 せめてアルフレッドが何事かと問いかけるなりしてきっかけを作れば良いのだが、
変に気を遣っている為、完全に平行線を辿っている。

 氷水の入ったデカンタをマスターから受け取り、
どう状況を打破したものかと思案しつつテーブルへ戻ってきたシェインだったが、
ようやっとクラップのほうでもふたりが自分に向けて不安げな視線を送っていると感づいたようだ。
 本人としても大人気なかったと反省しているのか、頬を掻きつつふたりへ平謝りしたクラップは、

「―――あいつらが視界に入っちまって、どうにも腹の底のモンが疼くんだ………」

 そう言い加えると、不機嫌も露に別のテーブルをアゴでしゃくって見せた。
 クラップの視線の先では、黒いスタッフジャンパーを着込んだ一団がマスター特製のランチを美味そうに頬張っていた。
 スタッフジャンパーには『SUPERビャンプ☆ピッチdeぽん!』と白抜きされたロゴマークがプリントされており、
その響きからして発掘作業員では無さそうだ。

 言葉としての意味ではなく語感ありきでネーミングされたと思しきそのロゴマークに、シェインは聞き覚えがある。
 妹分のベル――アルフレッドとフィーナにとっては実の妹に当たる女の子――に
無理やり付き合わされた子供向けのバラエティー番組のタイトルが、
『SUPERビャンプ☆ピッチdeぽん!』なのである。
 スタッフジャンパーを纏っていると言うことは、件のバラエティー番組の制作スタッフであるのはほぼ間違いなかろうが、
子供向けのニュースバリューがこのような辺鄙な山間部のどこに転がっているのか…と言う疑念も残る。

 それにクラップがテレビ局のスタッフを目の敵にする理由もシェインはわからなかった。
 事情を弁えているらしくクラップに負けず劣らず顔を顰めるアルフレッドであったが、
先ほどと同様に自分からはアクションを仕掛けることはせず、目の前に座した親友の自制をあくまでも待つつもりのようだ。
 代わりにアルフレッドは重苦しい溜め息を一つ吐いたのだが、それによって閃くものがあり、
遅ればせながら兄貴分たちが懊悩する原因に辿り着いたシェインは、
声を潜めてクラップの短気を窘め、宥めにかかった。

「………クラ兄ィの気持ち、少しはわかるつもりだけどさ、ここで諍い起こすのだけはカンベンな。
マスターにも迷惑がかかっちゃうからさ。いよいよバイトだってのに、宿所から追い出されたらシャレになんないじゃん?」

 シェインが理を尽くした説得を試みても、クラップがスタッフジャンパーの一団へ向ける視線は、
刺々しさを保ったまま険の取れる兆候すら見られない。
 困り果ててアルフレッドへと視線を巡らせても、彼は首を横に振るばかり。
こうなってはシェインとしてもお手上げであった。

「―――はーい、日替わりランチ三人前、お待たせしました〜。
マスターからのサービスで、ごはんとおかずが大盛りになってま〜す」

 誰も何も言葉を発せられないような重苦しい空気を醸し出すに至った三人のテーブルを救ったのは、
絶妙のタイミングで差し出されたマスター特製の料理だった。

「んおォ? 誰かと思えばカミュじゃんっ! なんだい、今日、仕事だったんか! 
昨夜、メールしたときはそんなこと、言ってなかったじゃん」
「へへへ〜、驚いてくれたなら大成功、だよ。ひさしぶりにアル君とシェイン君に会いたくってさ、
わざわざこの時間帯にシフト入れたんだよ〜」
「久しぶりと言っても、一週間だろう? 懐かしむほどの間隔でもなかろうに。
………だが、嬉しいことを言ってくれる」
「アル君にはちょっと量が多かった? 食べ切れなかったら、残してもいいからね」
「いや、今日はしっかりと頂くつもりだ。なにしろこれから重労働が始まるんでね、
少しでも力を蓄えておかないとならないんだ。気の進まない仕事だがね」
「そかそか、アル君も発掘作業やるんだっけ。それじゃ、いっぱい食べてスタミナつけなきゃだね〜」
「フィーなら、これくらいの量は水でも飲むように軽く平らげるんだがな。
………サービスで大盛りにして貰ったってことはフィーには黙っててくれよ? 
この世の誰よりも食い意地張っているからな、あいつは。俺たちだけ美味しい思いをしてきたと言って
ブー垂れる姿が目に浮かぶ」
「ありえねぇもんな、フィー姉ェの食いっぷり。掃除機みたいって言うのかな―――
とにかく人間技じゃないよね。大食い大会で出入り禁止にされる女子なんてフィー姉ェくらいじゃないんかな」
「あー、………アル君には残念なお知らせかもだけど、
フィーナちゃんがうちに来るときは自動的に五倍増しの大盛りメニューになるよ? 
マスターもフィーナちゃんの食べっぷりを気に入ってるからね〜」
「………どうせ遊びに来るのなら、カミュから女らしさでも学んで欲しいもんだがな、俺は」
「またアル君はそんなこと言って………。いくらなんでもそりゃムリな相談だってば」

 ランチを運んできた配膳係とアルフレッドたちが顔見知りだった点も、沈鬱な空気を吹き飛ばすきっかけとなった。
 ショートボブの髪を揺らして明るく笑う配膳係は、あどけなさの残る面を喜色に染めている。
アルフレッドとシェインがこのサルーンへ訪れたことが嬉しくて仕方ないと言った様子だ。

 可憐の一言である。
 化粧気は全く感じられないものの、そもそも美しい地肌がメーキャップを必要としていない。
 きめ細かく、また一見しただけで弾力が確かめられる張りの良い頬などは、女性からは羨望の的であろう。
 この場には同席していないものの、共通の友人関係にあるフィーナは、
アルフレッドに対して「あの肌は反則だよね。なんか立場なくなっちゃう気がするもん、私」とさんざん溜め息を零していた。

 友人たちからカミュと呼ばれたその人が笑うと、何やら場が華やいだように思えるから不思議だ。
 …否、華奢な肩を快活に揺らして笑う満面からは、見る人を明るい気持ちにさせる魔力めいたものが発せられており、
テーブルに垂れ込んでいた沈鬱な靄は瞬時に霧散していった。

「カ、カカッ、カッカカ、カミュちゃんッ!」
「は、はいっ!?」

 三人の会話に割って入るタイミングを失して黙りこくっていたクラップが唐突に素っ頓狂な声を挙げたのは、
仕事に戻る為にカミュがテーブルを離れようとしたそのときであった。
 踵を返したカミュを引きとめようと声を絞り出すまでの間も、クラップの挙動はどこか不自然だった。
 つい数分前まで眉間に皺を寄せて難しい表情(かお)を作っていたと言うのに、
アルフレッドとシェインが振り返ったときには、どう言うわけか満面をだらしなく崩していた。
 何に照れているのかは見当もつかないのだが、指を組んだ左右の手でもってしなを作り、
「え? うそ…! そんな…運命!? いきなりこれって…運命としか言いようがないよ!」などと
呟きながらモジモジしている。
 時折、上目遣いでカミュの顔色を窺うのは、何か不安を抱いている証なのだろうか。
 いずれにしても、大の男が恥らったように肩をすぼめ、身を縮める様子は気持ち悪いとしか表現のしようがない。
 ティーンエイジャーが好む恋愛小説にでも出てきそうな台詞を暗唱するだけならばまだ良いのだが、
紅潮した頬も、荒い鼻息も、無駄に輝きを発する瞳も―――全てが普段のクラップとかけ離れたもので、
それがアルフレッドとシェインの生理的嫌悪感を煽った。

 カミュもカミュで、クラップから声をかけられて以来、驚いたように目を見開いたまま彼の顔をじっと見つめ続けている。

「―――えと、もしかして、クラップ…君? クラップ君だよね? 昔、一緒に遊んでた?」
「あ、あはは―――やっぱりカミュちゃんだぁ。覚えててくれたんだぁ………うひっ!」

 カミュから返って来たリアクションに感激したらしく、
花が咲くような笑顔を零したクラップに堪えきれなくなったシェインは、
とうとう「うわ! キモッ!」と吐き捨ててしまった。

「ちょっと待て。お前たち、どうやって知り合ったんだ? 接点など無かったんじゃないのか?
クラップ、お前、言っていたよな。シェルクザールに来るのも久しぶりだと。
子供の頃から一緒にいるが、お前とここまで来た覚えもない。矛盾してるじゃないか」
「―――へへっ、カミュちゃんに覚えててもらって、オレ、すげぇ嬉しいよ。
暫くぶりって言うか、もう十年以上会ってないんだもんな。
でもさ。オレも一発でわかったんだぜ、カミュちゃんがいるって!」
「クラップ、おい………」
「初めて会った頃と少しも変わらないんだもん。………変わってたとしてもね、
カミュちゃんのことなら、オレ、絶対に見つけられたと思うよ。な〜んちゃって、ちょっとクサかったかな?」
「………話を聞けッ」
「でも、マジだぜ? ずっと離れ離れだったけど、オレ、カミュちゃんのことは
片時も忘れたことがなかっ―――たわびゅゥッ!?」

 辛うじて吐き気を堪えたアルフレッドは、ふと脳裏に過ぎった疑問をクラップへ投げかける。
 カミュと言葉を交わすのが嬉しくて仕方がないらしく
鼻の下を伸ばしきってデレデレになっているクラップの耳に声を届けるのは容易ではなかった為、
尻の穴に爪先をめり込ませるような鋭い蹴りを加えて強制的に振り向かせた。
 興奮するあまり、テーブルへ身を乗り出したのが仇となったクラップは、
椅子から浮いて無防備だった尻へ横蹴りを直撃され、悶絶して転げ回った。
 悲鳴すら上げられずにいるのが、尻の穴に被ったダメージの激甚さを物語っている。

「アル君は知らないかもしんないね。ぼくとクラップ君のこと」
「物心つく前からこのバカとは腐れ縁だが、お前と一緒にいるのは見た記憶がない」
「物心つく前にもあるんじゃないかな、想い出ってものはさ。
………アル君のそーゆーおカタイところ、フィーナちゃんも愚痴ってたよ」
「余計なお世話だ。今は俺のことは関係ないだろう?」
「はいはい。ま、物心つく前か、ついた後かって言ってもさ、
ぼくとクラップ君が会ってるときは、アル君はいなかったから、
接点知らないのはどのみち同じだけどね」
「なら気を持たせるようなことを言うなよ。人が悪いな、お前も」

 脂汗を垂れ流しながらもんどり打つクラップに代わって、カミュが自分たちの関係について詳らかにしていく。

「我が家はクラップ君ん家のお得意様―――こう言えばわかるかな?」
「もしかして、クラ兄ィのオヤジさんが間に入っちゃったりなんかしてる?」
「ふたりしてクイズみたいに言うな。………親父さんが時計の納品に出向いたときに
クラップも随いてきて、それで仲良くなった―――そんなところか?」
「大正解。まだ本当に小さな頃だけどね。多分、キンダーガートゥンにも入ってなかったんじゃないかな」
「それで“物心つく前の想い出”、か。そりゃ俺が覚えているわけがないな。
お前と遊んだこと、話には聴いたかも知れないが、物心つく前ではなぁ………」
「でも、クラップ君は覚えててくれたよ、ぼくのこと」
「けっこ〜カミュに入れ込んでるみたいだね、クラ兄ィ」
「ふふっ―――光栄って言えば、光栄かな」

 クラップの家系は代々時計職人を生業としている。
 ガーフィールド家の時計と言えば、その道では名品を拵えることで知られており、
大枚をはたいてでも手に入れたいと願う人が後を絶たなかった。
 ガーフィールドの時計の後継者に目されるクラップの腕前も、時計職人としてはピカ一であった。
落ち着きが足りず、毎日バカな真似ばかりしているような印象のあるクラップではあるものの、
成人を前にして一人前と認められる程に時計職人としての技術は卓越しており、
“期待の超新星マイスター”と注目を集めてさえいるのだ。

 クラップとカミュの出逢いは、彼が世間を騒がせるようになる十年以上前まで遡るようだ。
 父親の背中を追いかけて時計の納品先を回っていた頃にカミュと知り合い、
シェルクザールを訪れる度に遊ぶくらいの仲良しになったと言う。
 「もうずっとご無沙汰だったし、ぼくのことなんか忘れてると思ったんだけど、
そうじゃなくて安心したよ。すごく嬉しいね」とも付け加えたカミュは、
尻の穴を手で押さえながら転がり回るクラップへ向ける瞳に喜色を浮かべた。

 一定の顧客を頼みにするルートセールでは、この先、食べていけないと分析したクラップのアイディアで、
ガーフィールド家ではインターネットを駆使した販売・商談や、顧客の確保にも力を入れ始めている。
 納入は専門業者に委託しており、わざわざ現地まで足を運ばずに済む体制を整えたのもクラップだった。
 これは時計作りに専念する時間を少しでも増やそうと言うアイディアだ。
納入に費やしていた時間を作業に回せると言うことは職人にとって極めて大きい。
 アフターケアーとしてヒアリングによる顧客リサーチこそ行うものの、
より実作業に時間を注げるようになったガーフィールド家の時計職人たちは、
それまで以上の名品、逸品を作り出すことにも成功し、クラップが関わるようになったここ数年で
飛躍的に業績を伸ばしていた。

 今回はそれが原因でカミュとの久しぶりの再会となった次第だ。
 時間の全てを注ぎ込める為に作業能率は上がったかも知れないが、
納入先へ赴くのが仲介の運送業者と言うことになると、時計職人が工房から出る必要と機会が全くなくなるのである。
その結果が、これだ。インターネット上でのやり取りと工房での作業に終始することから
マイスターと顧客を繋ぐラインは相対的に希薄となった。
 そうした流れの中でクラップもカミュとの交流を深めるチャンスを失したと言うわけである。

「ぼく! 今、“ぼく”って言ったよね、カミュちゃん!? ぼくっコって、オレ、弱いんだよね〜ッ!」

 カミュの一人称に何か駆け巡るものがあったらしいクラップは、
彼が「ぼく」と発した途端に悶絶から復活し、盛大にガッツポーズを取った。
 ガッツポーズに留まらず、サッカー選手が得点を入れた後に披露するダンスの真似事までし始めた。
 振り付けも何もあったものではなく、両手を大袈裟に振り回しているだけなので見るに堪えないのだが、
とりあえずクラップの興奮の度合いだけは表されていた。

 ほんの数分前までテレビクルー相手に刺々しい空気を発していたとは思えない豹変ぶりに、
「あいつらに噛み付きたいのか、噛み付きたくないのか、どっちなんだ、コラ!?」と呆れ返るシェインだったが、
そこに含まれた挑発的な嘲笑さえも今のクラップには意味を為さない。

 奇怪な動きによって催された生理的な嫌悪感からつい罵詈雑言を吐いてしまうシェインではあるものの、
しかし、クラップの気持ちが満更わからないわけでもない。
 熱病にでも罹ったかのような浮かれ方は、今まで無為にしてきた時間を埋めたいと願う気持ちの表れなのだろう。
 それは、久闊を叙す過程に於いて必ず生じるものであり、何ら責められるべきことではなかった。

「マスターから聞いたけど、クラップ君たちも例の発掘調査に参加するんだよね?
しばらく泊まるって言うから、マスターってば張り切って支度してたよ。鼻歌も機嫌よさそうにね」
「シェルクザールに眠る古代の秘宝をさ、オレたちの手で見つけ出そうってんだ。
誰も知らなかった歴史を、だぜ? こんなに燃えることをオレは他に知らないね」
「おっ、クラップ君ってば、すごい意気込みだね〜」
「人生賭けてるって言っても過言じゃないね。いや、マジでさ。
………カミュちゃんに見せてあげたいんだよ、この村の歴史を―――誇りってヤツをさ!」
「誇り。誇り、かぁ。クラップ君って、詩的な言い回しするんだね〜。そーゆーの、ちょっとイイかも」
「へへっ―――ちょっとクサかった?」
「そんなことないよ。ステキだと思うな、クラップ君の考え。
『シェルクザールの誇りを見つける』だなんて、そこまで考えていなかったよ。深いね、クラップ君は」
「よ、よせやい。照れるぜ〜」

 さも自分で発掘調査を企画したような口ぶりでふんぞり返るクラップに呆れたアルフレッドとシェインは
互いの顔を見合わせ、次いで肩を竦めた。

「アル兄ィさぁ………クラ兄ィってここまでアホだったっけ? 
前々からアホだとは思ってたけど、ここまでアレだったっけ?」
「俺も薄々は感づいていたんだがな。お前の言う通り、こいつはアレとしか言いようがない」

 ふたりが辟易していることにも気付かないクラップの饒舌は、いよいよ加速度を増していく。

 立て板に水の如く朗々と語られる話を拝聴している限り、いつの間にかクラップは発掘調査のプロに転職していたようだ。
 当然、アルフレッドもシェインもそんなキャリアは初耳である。クラップは由緒正しい時計職人だとふたりは記憶している。

 一体、いつの間にそんなキャリアを積んだのかと追及したい気持ちもあるにはあるものの、
逆上せ上がっている今のクラップには何を言っても無駄であろう。
 問い質したところで意味不明な反撃を喰らい、余計に疲れるのが目に見えていた。

「かく言うぼくも発掘には参加するつもりだよ」
「お前が? ………おいおい、大丈夫かよ。トレイしか持ったことがなさそうなお前に
重いものなんか運べるのか? 発掘と言うことは、土砂だけじゃなく色々な機材も持ち運ぶんだぞ?
お前の華奢な身体でそんなことできるのか?」
「今の聞き捨てならねぇな、アル―――」

 強い風が吹けばどこかへ飛ばされてしまいそうな痩身をからかったアルフレッドへ
カミュは頬を膨らませて抗議の念を表した。
 そんな他愛のないやり取りに闖入し、“他愛のないやり取り”のまま終わる筈であったアルフレッドとカミュのじゃれ合いを
ややこしくしたのは、言うまでもなくクラップである。
 カミュが口を開くよりも先にクラップがアルフレッドに食って掛かったのだ。

「お前、なんでカミュちゃんの体つきが華奢だってわかるんだよッ!?」

 食って掛かったところまでは良かったものの、実際に発せられたのはカミュの代わりの抗議などではなく、
前後の脈絡を殆ど無視して明後日の方向へ吹っ飛んだ内容であった。

「『なんでわかるんだよ』と言われてもな………。体つきを見れば誰にだってわかるだろう?」

 飾り気のシャツにサロペットジーンズ、その上からサルーン用のエプロンを身につけると言う機能的且つシンプルな装いは、
カミュのボディラインを少しも隠してはいない。
 シャツは両肩が剥き出しになるデザインであり、サロペットジーンズの裾も仕事がし易いように今は捲り上げている。
 なだらかな稜線を描く肩も、色白な首筋も鎖骨も、太腿からくるぶしに至るまでの線も、
いずれもしなやかな筋肉を備えたアルフレッドに比べるとあまりに細い。
 否、細いと言うよりも貧弱と表すほうが正しいかも知れない。
 トレイしか持ったことがなさそうだと言う冷やかしが心外であったらしいカミュにとっては甚だ不服であろうが、
筋肉の付き方でシェインにも劣っているようにも見える細身が、
発掘調査と言う肉体的に非常に過酷な仕事をこなせるとは思えなかった。
 成る程、剥き出しになっている肩の細さを見れば、アルフレッドが指摘する通りにカミュの非力が察せられると言うものだ。

「直視できるわけないだろ、カミュちゃんの神々しい肩をォッ!
そんなこともわかんねーとか………お前、どうしようもねぇバカだなッ!?」
「………どうしようもない馬鹿者から『どうしようもない馬鹿』と罵られた俺はどうすればいい? 
蹴るか、蹴ればいいのか。叩けば少しはまともになるか、見ていて哀れなその頭は」

 如何せん、アホが極まっているクラップには、アルフレッドの唱える常識的な理屈は通用しそうになかった。

「アル君とは一緒にお風呂も入ったしね」
「誤解のある言い方をするなよ。店のシャワーを借りただけだ。そしたら、お前も入ってきて………」
「たまたま同じタイミングでさ、ぼくも転んだ拍子に頭からビール被っちゃって。
………あのときのアル君はすごかったよ。筋肉ガチガチで、見惚れちゃったもん、ぼく」
「ないものねだりと言うものか?」
「かもね。アル君のカラダ、ぼくには憧れだもん」
「なッ―――てめッ………み、見損なったぜ、アルッ!!」

 テーブルから身を乗り出したクラップは、「見損なったのはこちらのほうだ。それも一日のうちに何度もな」と
顔を引き攣らせているアルフレッドの胸倉を掴み上げると涙ながらに批難の言葉を並べていく。
 それら全てがアルフレッドには謂れのない糾弾ばかりであったが。

「カミュちゃんと一緒にお風呂だとォッ!? てめぇ、どう言う了見だよッ!! フィーっつーカノジョがいながらよォッ!!」
「納品のときに汗まみれになってしまってな。マスターが気を利かせてくれたんだ。父さんも一緒だったよ。
………と言うか、フィーは全く関係ないだろ。どうしてそこであいつの名前が出るのか理解できないが」
「待て、待て待て待て待てぇ!? 小父貴!? 親子ふたりでカミュちゃんとォ!? 
お、お、お前らッ! とんだド変態親子じゃねーかッ!!」
「………いきなり鼻血垂らし始める人間には絶対に言われたくない台詞だな」
「―――あ、わかった。クラップ君、自分だけ除け者になって拗ねてるんでしょ? 
あはは―――可愛いな、キミってば。裸の付き合いくらい、いくらでもしたげるよ?」
「―――へ? えっ? えええぇぇぇェェェッ!? じょ、冗談…じゃないよね?」
「モチのロンさ。洗いっこだってしようよ。ホントーに久しぶりに会ったんだもん、
ぼくだってクラップ君ともっと遊びたいよ」
「タ、タタタ、タオルは要らないと思うんだけど、それは、ど、どどど、どう思うかな? 
ほら、旅番組の温泉でよく使ってるようなアレは………」
「………? よくわかんないけど、前張りってコトかな? 身体洗う以外は要らないんじゃないかな?」
「―――ッしゃあぁぁぁァァァッ!! 湯けむりアッハン大勝利だあああぁぁぁァァァッ!!」

 涙の批難――された側のアルフレッドから見れば濡れ衣――から一変してガッツポーズを作ったクラップは、
満面を歓喜の色に染め上げていた。
 やりたい放題である。
 何がそんなに嬉しいのか解せないらしくきょとんとしているカミュことも、
眉間に手を当ててかぶりに振るアルフレッドのことも眼中には入っていないのだろう。
 周囲の客たちがドン引きするのもお構いなしにクラップは甲高い嬌声を上げ続けた。

「―――だから、単純に風景を撮りゃいいってもんじゃないんだよ! キャメラで画(え)を作れッ! 
俺たちの仕事はテレビなんだぞ、テレビッ!? トーシロじゃねぇんだからなッ!!」

 さすがに見るに耐えなくなったシェインが、ツッコミを放棄したアルフレッドに代わって
クラップを止めにかかったその瞬間、彼の出鼻を挫くかのように真後ろのテーブルからとてつもない大声が飛び込んできた。




←BACK ・ 番外編トップへ戻る ・ NEXT→