4.Prompt Report



 地下に眠ると云われる古代遺跡の発掘開始を翌朝に控えたシェルクザールは、
やがて迎える日の出の時刻まで暫しの安らぎに包まれている。
 夜風に吹かれた草木のざわめきやトタン屋根の軋み音が、
さながらシェルクザールと言う町が立てる寝息のように星影差す路地に響き渡るが、
それに耳を傾ける粋人の姿は、今宵はどこにも見つけられなかった。

 時計の針は既に日付変更線を越えている。
 酪農が盛んなシェルクザールで暮らす住民の中から夜更けまで飲み歩くような遊び人を探すのは至難の業だが、
皆無に等しいと雖も絶無ではない。
 官庁街の勤め人には家畜や農産物に合わせた時間割は不要であるし、
酪農家の中にだって遅寝早起きもへっちゃらな精力旺盛の豪傑はごく僅かながら確かに存在する。

 時計の針がもう一時間も進んだのなら、さすがに解散となってサルーンも店仕舞いを始めるのだが、
深夜0時を回った直後と言えば、スウィングドアの向こうから大盛り上がりのカラオケが
聴こえてきてもおかしくない時間帯であった。
 それが、いつものシェルクザールの夜なのだ…が、今夜はそのような乱痴気騒ぎをしている店は
どこを探しても見つからず、酒とタバコで焼けたダミ声のド演歌さえ聴こえてこない。
 祭り騒ぎの余韻のようにいつまでも賑々しいシェルクザールの夜に似つかわしくない全くの静寂だ。

 アシュレイから参加者全員に発せられた通達では、事務所として設置したプレハブ小屋の前へ早朝三時には集合し、
発掘の準備を開始する手筈になっている。
 一口に準備と言っても、調査に必要な道具の手配はアシュレイが経営するウィリアムスン・オーダーのスタッフが
事前に完了――ライアン電機の納品物もこの中に混ざっている――しており、
人員の点呼や作業エリアの割り当て、発掘開始のセレモニーがプログラムの大部分を占めているのだが、
町を挙げての大規模調査だけに、そうした式典めいた催しも不可欠なのである。
 セレモニーは、危険を伴う発掘作業を無事に完遂できるよう互いの意識を確かめ合う場になる為、
アシュレイとしても歓迎すべきものであった。
 それはオットーにとっても同じことが言える。発掘開始のセレモニーは、実にテレビ映えのする“美味しい画”だ。
撮影しない手はなかろう。

 いつもならまだまだ騒がしく、赤ら顔の粋人たちが行き交うシェルクザールは、
つまり翌朝の大掛かりなセレモニーに備えて早仕舞いした…と言う次第だ。
 七十歳を超えた町長も壮行の挨拶を行う為に列席することが決まっている。
 こうしたところからも、シェルクザールの住民たちが発掘調査にかける期待の強さが窺えると言うものである。
 誰しもが日の出と共に始まる一大事業へ夢と想いを馳せ、熱狂の夜明けをベッドの中で待ち望んでいた。


 実際に作業に当たる参加者にとっては、夜明けを待つ間の暫時は更に重要だ。
 しっかりと身体を休め、コンディションを万全に整えておくことも業務の一つであった。
疲労は集中力や判断力を著しく削ぐ悪因である。
 こと発掘作業ともなれば、平素の何倍も神経を尖らせるような状況に直面するだろう。
 集中力や判断力を欠くようなコンディションで作業を行い、万一に大きなミスでも犯そうものなら、
自分だけでなく参加スタッフ全員の命を危険に晒すような大事故にも発展し兼ねないのだ。
 落盤の崩落、貴重な遺跡の破損、命綱とも言うべき音信の不通―――
大事故の引き金は、疲労と言う悪条件と組み合わせると枚挙に暇が無くなるのである。

 そうした危険性を理解しているからこそ、
際限が無くなるのではないかと思えるくらい騒いでいたテレビクルーや発掘の参加者たちも
夕食を終えると早々に自室へ引き上げたのだ。
 彼らも今は夢の中であろう。
 十分な睡眠は言うに及ばず、夕食時にも過剰なアルコール摂取を控えており、
全く見事な体調管理と褒め称えるしかなかった。
 グリーニャからやって来たトリオのように今回限りのアルバイトも参加者には多数含まれているのだが、
そう言った面々にはアシュレイ自らが指導を行い、安全確保の為の休息を徹底させている。
 疲労を原因とする大事故の数々を聞かされて震え上がったのだろう、
寝酒を飲もうとしていた中年の参加者もオットーやカーカスらと共にすごすごと自室に戻っていった。

 誰もが安全を第一に考え、体調管理に努めている中にあって未だに休んでもいない人間は、
どうしようもない愚か者か、どうすることもできない事情を抱えた者のどちらかと言える。
 カウンターの上に置いたディッシュに向かい、
二、三メートルばかり離れたテーブルからトランプのカードを投げ入れているクラップは、
果たしてそのどちらだろうか。

 的に見立てられたと思しきディッシュの中では十数枚のカードが山積しているが、
それを遙かに上回る枚数がカウンター周辺に雑然と散乱していた。
 カードを切っている際に手元を誤って床下にぶちまけてしまったような有様だ…が、
周りがどれほど散らかっていようとクラップは気にした素振りを微塵も見せず、ただ黙々とカードを放り続けている。
 普通、トランプと言うものはジョーカーを含めて五十二枚前後で構成されているのだが、
床下に散らばるカードの枚数は、ディッシュ内の数を差し引いても到底四十枚には収まりそうにない。
 木の板を敷き詰めた床の全面を覆い隠すほどの散乱の仕方から見て、
少なくとも百数十枚ものカードがディッシュから外れたと考えられる。
 事実、クラップの腰掛けるテーブルの上には、カード一式の収められていた空き箱が何個も転がっている。
 トランプはサルーン備え付けの物であるらしく、箱には店のロゴステッカーが貼り付けてあった。
箱の右上にナンバリングが施されているのは、備品管理の一環だと想像できた。

 空き箱の真隣には呑みかけのビールとカシューナッツの皿も置かれているのだが、
こちらは長いこと手が付けられていない様子である。
 ビールの泡は完全に失せているし、ジョッキの結露も乾き切っている。
 カシューナッツの殻に至っては数えるほどしかなく、こちらは殆ど手付かずと言って良かった。

 起床までもう間もないと言うのに一向に休む気配の感じられないクラップではあったが、
昼間の出来事に不貞腐れ、意固地になっている…と言うわけでは無さそうだ。
 標的のディッシュへとカードを投げ続けるその横顔からは、怒りや憤りを感じ取るのは難しい。
陽気なクラップらしからぬ虚無感のような感情(もの)が、今は満面を塗り潰していた。
 ディッシュに向けられた双眸は不安や迷いで濁っており、それが為に的を外しているのだろう。
 “下手な鉄砲、数撃てば当たる”なる諺へほんの僅かも引っ掛かっていない床下の惨状がその証拠だ。

「あらら―――これは片付けるのに骨が折れそうだね、クラップ君?」
「―――カ、カミュちゃん!?」

 自分しかいないとばかり思っていたフロアから急に別の声が上がったのだから、
クラップが腰を浮かせて驚いたとしても、それは無理からぬ話である。
 ましてや声の主がこの場にいる筈のない相手であったなら尚更だ。

 散乱しているトランプを避けながらクラップの居るテーブルにまでやって来たカミュは、
彼の向かい側に腰掛けると、次に投げられる予定だったカードを自分の手元に手繰り寄せた。
 カミュの手元に滑り込んできたのはハートのエースである。
 絵札の面を指先で一撫でしたカミュは、次いで祈りを込めるかのようにハートのマークへ唇を落とし、
クラップに倣ってそのカードをディッシュへと放り投げた。
 カミュの放ったハートのエースは見事にディッシュの内側へと滑空したのだが、
その際、先にクラップが投げ入れていた物にぶつかったらしく、
さながらカーリング競技のように一枚のカードが白いフチの外へと弾き出されてしまった。
 ハートのエースに弾かれ、乾いた音を立てて床下に落ちたのはジョーカーのカードだ。
 道化師の装いの下に悪意を隠しているかのようにも見えるジョーカーの絵柄がハートのエースに弾かれた様には、
ある種の吉兆を感じられるのだが、カードそのものは暗がりに滑落した為、ふたりはこれを確認できなかったようだ。
 面白たがりのクラップならば、すぐに騒ぎ立てそうなシチュエーションであった。

 ジャックポット―――ジョーカーを弾き飛ばしたと知ってか知らずか、そう呟きながらカミュは忍び笑いを漏らす。
 嬉しそうに喉を鳴らすカミュを一瞥したクラップは、それから間を置かず顔を逸らしてしまった。
 それはそうだ。サルーンの従業員に店内を散らかしているところを見つけられては気まずいことこの上ない。
 けれどもカミュはそんなクラップを咎めようとはしなかった。
 逸らされた横顔に向ける眼差しは、険を帯びるどころか、帯びた冷気を溶かしてゆく春の日差しのように穏やかで温かい。

「どうしたんだい、こんな夜遅くにさ………?」
「それはぼくの台詞だよ。………早起きし過ぎたってわけじゃあないよね?」
「あー………―――うん、………寝つきが悪くってさ、オレ」
「そっか、寝つきが悪いんじゃ仕方ないよね」
「………あ、あぁ………」

 このサルーンには、アルフレッドを始め遺跡発掘へ従事する参加者が何人も宿泊している。
 どうせ発掘作業へ参加するのなら自宅から往復するよりも、他の面々と同じくサルーンで寝泊りしたほうが効率的だと考え、
マスターに一部屋用立てて貰ったとカミュは笑いながら話した。
 それは、先ほど投げかけられたクラップからの問いに対する答えである。
 カミュはその言葉尻に「同じ釜の飯を食うことで深まる信頼関係もある」とも言い添えた。

 クラップの問いに答えたカミュは、自分の言いたいことはそれだけだとばかりに口を閉ざし、
ただ黙々とディッシュの中へカードを放り続けている。
 それがカミュなりのサインであることは、理性を欠き気味のクラップにも察せられた。

 ………察せられはしたのだが、だからと言ってカミュの厚意へ甘えてしまうことがクラップにはどうしても憚られ、
どこへ向かわすアテがあるでもなく視線を泳がせたまま、彼はじっと押し黙っている。
 真一文字に結ばれた唇と、カードを摘むべきか否かを惑う指先が小刻みに震えており、
クラップの内包するものがそこに顕れているようにも見えた。

「実は今日ね、ぼく、レジを打ち間違えちゃったんだよね」
「………え?」
「夕飯時ね。会計と注文と配膳が集中して慌ててたってのもあるんだけど、
お釣りを二百ディプロ渡せば済むところを二千ディプロって打ち間違えちゃったんだぁ」
「初歩ミスしちゃうカミュちゃんも、けっこ〜可愛いぜ?」
「単純に預かった金額の入力を間違えたんだけどね。お客さんからは正しいお勘定でお金を預かってるんだよ。
でも、数値上はおかしい」
「千八百ディプロの誤差が起こっちゃってるな」
「そしたら、千八百って金額が頭の中でぐるぐる回っちゃってさ。
………ちょうど欲しいCDと同じ値段だったんだよね、これが」
「………カミュちゃん、もしかして」
「三年以上待たされてる昇給の代わりってヤツだよ―――これ、ボクとクラップ君だけのナイショだよ?」
「カミュちゃんと秘密を共有できるだなんて、オレは幸せモンだよ」
「えへへ、ありがと―――………はーッ、クラップ君に聞いて貰ったお陰で、なんだか胸のつかえが取れちゃったよ。
こーゆーことってさ、誰かに聞いて貰えると楽になるよね。いや、全っ然誉められたことじゃないけどさ」
「………カミュちゃん………」

 不意にカミュの唇から滑り落ちたその言葉は、クラップを誘う呼び水として十分に足るものであった。
 さながら本心を映し出す水鏡へ晒されてしまったかのように、
クラップは、それまで固く閉ざしていた口を溜め息と共に開け広げた。

「―――オレ…さ、昼間にテレビ局の連中とちょっと揉めたろ? ………みっともなかったよな」
「みっともないって言うか、………んー、ちょっぴり怖かったかも」
「い〜んだって、自分のダサさは自分が一番わかってっからね。
………でもな、自分がどんだけカッコ悪くなったって、人から考えナシのバカって言われたって、
あのテの連中にだけはヘコヘコしたくねーんだよ、オレ」
「………………………」
「オレたちの故郷(くに)は―――グリーニャは、テレビのせいで一回ズタボロにされてっからよ」
「………その―――『ベテルギウスの悪夢』のこと…だよね?」
「………あんときはシェルクザールの皆様にもお世話になっちまったよなァ………。
その頃、オレはまだ鼻垂れのガキだったから、何がどうってトコはわかんねーけど」

 クラップの言わんとしていることを理解し、そこに穏やかならざるざわめきを感じたのだろう、
相槌を打つカミュの表情がにわかに曇った。

「信じられるかよ? 村の近くに毒性が強いってウワサのクリッターが出現したって、
たったのそれだけでグリーニャを汚染区域扱いだったんだぜ、テレビの連中はさ。
科学的根拠もねーってのに、あの野郎ども………ッ!」
「クラップ君………」
「笑えたのはそっから先だよ。グリーニャから卸した商品が一つ残らず毒物扱いされてなァ。
食い頃の野菜が焼却処分されてる映像見せられたときなんかブッ飛びそうになったもんだぜ。
また、バーナー使って焼いてるヤツが傑作でよ、滅菌だか何だかの防護服着てんだわ」
「………クラップ君っ」
「どこぞの誰かがワイドショーでポロッと口滑らせた地殻汚染って単語が一人歩きしてさ、
とうとうグリーニャ全域を隔離しようとか言い出すバカまで出てきてよォ―――」

 言葉を紡ぐ旅に憤怒が加速し、語気が荒くなっていくクラップをカミュが正面から抱きすくめた。
 夜鳴きする我が子をいたわり、あらゆる恐怖を拭い去ろうと両翼を広げた親鳥のように、
ただ無言でクラップの頭を己の胸の内に納めた。

「抑えられないくらいに気持ちが昂ぶったときにね、こうやって誰に抱きしめて貰うと落ち着くんだって、
ぼくの………大切な人から教わったんだ。だから――――――」

 一体全体、“大切な人”とは誰のことを指しているのか…と問い詰めようとしたところで、
クラップは自分が冷静さを取り戻していることに気付いた。
 血が昇り、逆上せた頭には、周囲へ気を配る余裕など持ち得ないのだ。
 それを思うと、成る程、カミュの試みによる効果はてきめんのようだ。

 ………誰からこのようなやり方を教わったのか、今度はそれに対する焦りが心中へ急浮上してきたが、
ひとまず個人的な感情の揺らぎは隅に置いておくとしよう。

「………事実を伝えようとしねぇテレビ局の連中にはいつだってキレそうだよ、オレ。
でもさ、それ以上に悔しいんだ―――」
「悔…しい?」
「―――ベテルギウスは、………あいつは悪質なクリッターなんかじゃねぇ。
それを悪者に仕立て上げやがった―――オレはさ、そーゆーのが何よりも許せねぇんだよ」

 カミュの胸から漂う甘い芳香に心を掴まれたクラップは、
自身を包み込んでくれる腕に全てを委ね、けれどもハッキリと冴えた声でもって確固たる宣言を呟いた。

「今のオレは何もわかんねー鼻垂れとは違うぜ―――オレがスーさんの代わりになってやらぁ………ッ!」

 呻くような彼の言葉の真意を察したカミュは、今一度、強くクラップを抱きしめた。
 強く、温かく―――聖母のような微笑を称えながら迷える子羊を抱きしめ続けた。







「アル兄ィさぁ、調べ物は結構だけど、いい加減に寝ないと、明日、身体保たないよ?」

 ―――まさか日付変更線を超えてから来客があるとは想定しておらず、
机上へ足を投げ出すと言う行儀の悪い姿勢で椅子に凭れ掛かっていたアルフレッドは、
ノックもなく突然に開け放たれたドアに驚き、危うく転げ落ちそうになってしまった。
 「うひょっほ!?」と言うおよそ彼らしくもない悲鳴を上げたあたり、よほど驚いたのであろう。

 両足を懸命にバタつかせることによってバランスが崩れかけた椅子の重心を前方へ振り戻し、
文字通り地に足を付けたアルフレッドは、安堵の深呼吸の後、シェインの不躾な訪問を舌鋒鋭く咎めた。
 勿論、深夜と言う時間帯に配慮して叱声のトーンは抑え目である。
 隣接する客室には自分と同じように翌朝から発掘へ参加する作業員が宿泊しているのだ。
このような時間に彼らを起こすことなど絶対に許されなかった。

 ………尤も、アルフレッドは作業員の安眠妨害を危惧したわけではない。
 何一つ始まっていない内から人間関係を損ねては、今後の作業がし辛くなるだろうとの打算が働いた次第である。
 なまじっか知恵が回るだけに胸算用と言う物がこの青年には多い。
 そして、長い付き合いのシェインは、そうしたアルフレッドの性情を見抜いている。
 過剰なくらい声のトーンを落とした小言で責めてくる兄貴分が可笑しくて我慢ならず、
とうとうシェインは噴き出してしまった。
 何かにつけて打算に走る腹の黒さとは裏腹に、どこまでも生真面目で優等生的。
二律背反とも言うべきそのギャップが、えもいわれぬ可笑し味を醸し出すのである。

 本当なら腹を抱えて笑ってやりたいところなのだが、
これから共に働く仲間たちの安眠を妨げるのはシェインとて望まぬところ。
仲間たちを起こさないよう笑い声だけは何とか堪え切った。
 尻を抓り上げて笑気を散らすと言った最大限の努力で急場を凌いだシェインであったが、
そのような無礼をアルフレッドが許容するハズもない。
 憤然たる皺を眉間に寄せ、咎めるような眼差しでシェインをきつく睨みつけた。
 改めて言うまでもないことだが、アルフレッドがいくら眦を吊り上げて睨みつけようとも、
彼の気質をよく見知っているシェインに対しては、一向に効果が上がらなかった。

 シェインがアルフレッドの気質を見抜いているのと同じように、
兄貴分のほうでも弟分の行動パターンと言うものは把握している。
 このまま意地を張り続けたところでシェインには全く通じまい。
 意地を張るだけ自分のほうが損をすると判断したアルフレッドは、
硬質な表情を緩め、肩の力を抜くようにして深い溜め息を吐き捨てた。

「…お前こそいつまで起きているんだ。子供の寝る時間はとっくに過ぎているぞ」
「トイレに起きただけだよ。そしたら、ココのドアから灯りが漏れてるのを見つけてね。
もしかしたらって思ったんだけど、ドンピシャだったみたいだね」
「だとしても、わざわざ顔を出す必要はないだろう?」
「釘刺しとこうと思ったんだよ。アル兄ィってば、何かに集中し始めると結構ムチャするし。
こんなに世話を焼いてくれる可愛い弟分、世界中探したってそうはいないよ?」
「本当に可愛げがあるヤツは、自分で可愛いとは名乗らない」
「―――あ、ごめんごめん! ホントに可愛いのアル兄ィのほうだもんね! 
『うひょっほっ!?』だっけ? あんな可愛い声出せるなんて、アル兄ィ、密かに芸を隠してるね」
「隠すか。黙れっ」

 口寂しさを紛らわす為にくわえていたタバコの火を、アルフレッドは部屋に備え付けてあったアルミの灰皿で揉み消し、
それからようやくシェインと向き合った。
 慌ててタバコの火を消したのは、彼に喫煙を見つかってバツが悪かったのが原因ではない。
ましてやシェインを通じてフィーナの耳に喫煙の話が入ることを恐れたわけでもない。
 未だに手足の伸びきらない少年の前で紫煙を吐くことを躊躇ったのだ。

 おかしなところで気配りの行き届くアルフレッドがまた可笑しくなってしまい、
喉の中ほどまで笑気が込み上げたシェインだったが、
一筋の残り香を立てる灰皿を挿むようにして何やら古びた本が机上の左右へ山積されているのを見つけた途端、
それらは腹の奥へと飲み下された。
 背に貼り付けられたラベルからアルフレッドの読んでいる本の内容を察したシェインは、
彼自身にも閃くものがあったらしく、それが為に表情へ影を落としていた。

「こっちの予想もドンピシャだったね。………例の事件のこと、調べてると思ったんだよ」

 人差し指をピンと伸ばして示した方角には、一部屋につき一つずつ設えられている簡易式のデスクがあったのだが、
およそ旅先で広げる量とは思えないほどの紙束やら分厚い本やらが堆く積まれているではないか。
 しかも、だ。机上一杯では済まず、本来なら観葉植物を飾ってある筈の棚にまで
ハードカバーの書物が食み出してしまっている。
 哀れなるかな一輪挿しの花瓶は、今では日が当たらず、人目にも触れないような足元へと下げられていた。
 そもそも客室に設けられたデスクと言うものは、旅の荷物を広げる為に作られているのであって、
デスクワークを行うのには全く適していない。
誰も幅の狭いデスクを使って資料やノートを広げたいとは思わないだろう。
 簡素なデスクの許容を遙かに上回る量の資料を山積させているアルフレッドは、そう言った意味でも非常識と言えた。
 無論、作業を翌朝に控えた深夜に資料と睨めっこしている点も非常識にカウントできる。

 クリップで一まとめにしてある紙束や、ハードカバーのくたびれが目につく書物には、
市役所のスタンプが押印されている。
 机上に広げられた資料の山は、全てアルフレッドが昼間のうちに官庁街を訪ねて借り受けてきたものだ。
 シェルクザール周辺の地質や、土壌の状態を年次ごとに記録した資料も含まれており、
発掘作業と全くの無関係ではなさそうである。

「お前はいつからエスパーになったんだ? 連続して予想が的中するとは、ただ事じゃないな」
「アル兄ィの行動パターンが単純なだけだよ。本人が思ってる以上に頭カタいから、
実はすごいわかりやすいんだぜ?」
「お陰様でな、お前の半分でも柔軟性があったら、人生どんなに楽しいことかと思うときがあるよ」

 シェインの表情(かお)へ陰りが差したのを見て取ったアルフレッドは、
机上に山積させていた資料の山から古い新聞を一部ばかり引き抜き、俯き加減でいる弟分の前に差し出した。

 日付は十三年前。シェインが生まれるより二年ほど遡った、イシュタル暦1467年早春の出来事の記された新聞だ。
 重要な記事を発見したアルフレッドが目印にしたのだろう。
紙束の中ほどに貼り付けられた真新しい付箋がシェインの目を引いた。

「………ベルエィア山を間に挟んではいるが、グリーニャとこの町は基本的には地続きだ。
いや、山を挟んでいるからこそ危ないのか。何しろあいつの根城はベルエィア山だ。
こちら側で起こした振動は、間違いなくベルエィア山に伝導する」
「ダイナマイトも仕込んでるしね。目覚ましどころか、カンペキな安眠妨害になるわな」

 付箋で示してあるページを開いたシェインは、そこに記載されていた内容へ思わず顔を顰めた。
 まず見出しからしてシェインには―――いや、グリーニャの住民にとってはショッキングである。

 『汚染された農村グリーニャ・立ち入り禁止区域への指定を求める声』。

 十三年前の新聞には、悪目立ちとも言えるほど大きな文字でそう記載されていた。
ご丁寧にも一際目に付くような派手派手しい装飾まで加えてある。
 これでは否が応にも目に飛び込んでくると言うものだ。この記事を手がけたライターは、
よほど自分のネタを売り込みたかったのだろう。ゴーサインを出した上層部も上層部だが、
明らかにそのページだけが他の記事と比べて浮いていた。

 他のページには徹底的な推敲が施されているのだが、その記事に関しては練りこみ不足が顕著で、
裏づけのリサーチさえ為されていないのではないかと疑ってしまうくらいに全てが荒い。
 過剰に派手な見出しが示すように、ニュースバリューが先行してしまった印象しか読み手は持ち得なかった。
 それはグリーニャ出身と言う経歴を抜きにしても、だ。
 知恵が回るだけに物事の判断へ主観を含めない方法を周知しているアルフレッドは、
今にも新聞を引き千切ってしまいそうな弟分とは違い、
青筋立てることもなく冷静かつ客観的に記事の内容を分析していた。
 主観や私情を省いた視点で読んでみても、その記事はお粗末との感想しか浮かばないような代物だった。
低俗、と言う領域にすら到達していないともアルフレッドは見なしている。

 かいつまんで記事の中身を説明すると、以下の通りである。
 ―――有毒な物質を好んで喰らうと言うモグラ型のクリッターがグリーニャに出現。
グリーニャの村民たちはなんとかこれを退けたものの、時既に遅く、
村の土壌はそのクリッターが分泌すると噂される毒性の物質によって汚染されてしまった。
 汚染された土壌から立ち込める有毒ガスはグリーニャ全体を包み込み、
農作物はおろか工芸品に至るまでありとあらゆる物品がその価値を失った。
 専門筋からは水質への汚染を懸念する声も出ており、グリーニャで釣れる川魚にも警戒が求められている。
 ある機関の研究員は、グリーニャの住民を直ちに別の場所へと避難させ、村全体を封鎖すべきだとも提言している。

 クリッターの名称から引用し、本件を『ベテルギウスの悪夢』と名付けよう―――
そこで文章は結ばれているのだが、アルフレッドが堪えきれず失笑してしまったように
件の記事には真実味や信憑性が皆無に等しく、愚にもつかないゴシップと同レベルの胡散臭さが漂っていた。

 “有毒な物質を好んで喰らうモグラ型のクリッター”とベテルギウスなる機械獣を紹介し、
これが分泌すると言う毒物でグリーニャが汚染されたと件の記事では報じている。
 しかし、毒性の物質を好むと言う特徴以外の具体的な生態を詳らかにはせず、
尚且つ、ベテルギウスの分泌する物質を原因とする汚染についても、“噂”と言う不確定な可能性を提示するに留めている。
 これではベテルギウスの生態と土壌汚染の因果関係が不明瞭だ。
そもそも本当にベテルギウスが土壌汚染を引き起こしているのかさえ判別できない。
 因果関係を裏付ける科学的根拠や物証は、件の記事の中には見つけられなかった。

 ―――ベテルギウスに怯えたと思われるグリーニャの人々が掃討に乗り出した写真を数枚掲載してあるものの、
汚染に対する現実的な恐怖の指標は、せいぜいこれくらいだった。

 断定を避けた曖昧な表現は、外部からの指摘に対する最大の逃げ道だ。
反対論者が科学的根拠なり物証なりを示したとしよう。おそらく記事を書いたライターは、
「あくまで可能性の一つを掲げて警鐘を鳴らしたまでのこと」と煙に巻くに違いない。
それはつまり自身の手がけた記事への責任放棄でしかないのだが、
曖昧な表現によって開かれる“逃げ道”が幾つも散見されるあたり、ライターの意図がわかると言うものだ。
 “新聞屋”としてのプライドを持ち合わせていないのは明らかだった。

 汚染の向かう先を“商品”のみに終始している点も不可解だ。
 農作物や工芸品、川魚と言ったグリーニャ産の“商品”が汚染されているとくどいほど取り上げている割には、
人体への影響には一度たりとも触れていない。
 そこまで毒性の物質に蝕まれているのであれば、住民の健康被害も並外れたものである筈だ。
 何よりも真っ先に注目すべきは、人命の窮地である…が、該当の記事からは必須情報がすっぽりと抜け落ちている。
“ある機関の研究員”が村の封鎖を高説しているにも関わらず、である。

 その研究員とやらも相当に不思議な存在だ。
 グリーニャの汚染を本当に案じているのであれば、
新聞にて持論を展開するのでなくもっと別の形でアクションを起こせば良さそうなのだが、
いたずらに警鐘を鳴らすばかりで汚染を取り除く具体的な方策は一文字も書いていない。
実名も全く伏せられている。これで信じろと強いるほうが無理であろう。

 群衆の不安を意図的に煽動している―――そのような印象すらアルフレッドは件の記事から読み取っている。
 その読みが間違いなく当たっていると誰しもが頷くほどに『ベテルギウスの悪夢』から感じ取れる虚飾は
悪質極まりないものだった。

 アルフレッドと同じ感想を持ち、また義憤に駆られた先人がいたのであろう。
記事には赤ペンでもって添削や訂正が入っている箇所も少なくなかった。
 ベテルギウスの分泌物と汚染の関係を想起させるような箇所は丸ごと赤いラインが引かれているし、
“グリーニャに有毒ガスが垂れ込めた”としている段落には、
「有毒なのは、この記事を書いた大バカ者」との怒りの叱声まで書き添えられていた。

「ベルエィア山とシェルクザールが?がっている以上、“あいつ”が顔を出すことも―――」
「―――そういやさ、さっきトイレに行こうとしたらさ、
クラ兄ィとカミュが抱き合ってんのを見ちゃったんだよ。あのふたり、ど〜なってんのかね」

 ―――と、不意打ち気味に話を遮られた挙句、強引に話題を切り替えられたアルフレッドは、
最初、訝るような視線をシェインへと向けたのだが、それから程なくして眼差しに帯びていた険を解いた。
 新聞を受け取った直後は肩を震わせるほど立腹していたシェインだったが、
先に挙げた赤ペンの添削に目を通して溜飲を下げたらしく、今や表情は清々しくさえある。

 シェインが納得したのであれば、これ以上、『ベテルギウスの悪夢』を論じていても詮ないことである。
精神衛生上、大変に宜しくないことだけに、アルフレッドとしても早々に忘れてしまいたかった。
 だからこそ切り替えられた話題へ乗ろうと決めたのだ。

「………どうもなにもないだろ。一体全体、何が気になると言うんだ?」
「いや〜、ボクが見たところ、クラ兄ィってば、かなりカミュに入れ込んでるよ。アレは完全に恋する目だね」
「まさか…冗談だろう? 入れ込むと言ったって、相手はあのカミュだぞ?」

 シェインの言葉に肩を竦めるアルフレッドではあったが、
しかし、クラップが昼間に見せた奇々怪々な行動からも思い当たるフシは多々ある。

「………仮にお前の予想通りだとしても、だ。クラップはあれでかなり思い込みが激しいからな。
今は俺たちが何を言っても聴こえないだろう。放っておくしかない。時間が解決するよ」
「万が一、カミュがその気になっちゃったら、ど〜すんの?」
「それこそ杞憂と言うものだ。第一、カミュには…いや、そもそもカミュは―――」

 クラップとカミュの関係が、ある種のラインを越えることは考えられないと
頭ごなしに否定の論拠を並べ立てていたアルフレッドは、その途中で声量が大きくなっていたと自覚し、
慌てて口を噤んだ。

 声のトーンを抑えるのでなく、口を真一文字に結んだあたり、本人が気付かない内にヒートアップをしていたらしい。
 無意識での振る舞いを収束させる際、人間と言うのは条件反射的に極端な行動を取るものだ。
それが人目を憚るものなら、反動は尚更強く働く。
 生真面目なアルフレッドの場合は極端も数倍増しである。真一文字に結んだ口元には、
今にも頬まで避けてしまいそうなくらい力が入っている。
 そんな兄貴分の顔をシェインは愉快そうに眺めていた。

「………アル兄ィ、ホントはクラ兄ィが気になって起きてるだけだよね? 
資料もさ、夕方にはもう全部読み終わってるんでしょ?」
「何をバカなことを。これだけの資料だぞ。調べ物をするにしても時間を要する。………俺はそんなにお人好しじゃない」
「ど〜だかね〜」
「な、なんだよ、その言い方は。なんだか引っ掛かるぞ」
「クラ兄ィをカミュに取られないかって心配?」
「言うにこと欠いて、お前と言うヤツは………。仮にカミュがクラップを欲しがるのなら、
リボンを付けて送ってやるよ。万が一にもそんなことはないだろうがな」
「その自信は、クラ兄ィは絶対に自分のトコに帰ってくるってわかってるから? 
やだやだ、熟年夫婦ですわヨ。出来上がってますワ。浮気性の相手を持つと苦労するね、アル兄ィ」
「だから、そう言うのはやめろっ!」

 気色の悪いことを言ってはからかうように喉を鳴らすシェインへ苛立たないわけがなく、
アルフレッドは見る間に仏頂面となっていく。

「………アル兄ィはホント余計な気ばっか遣ってるよね」
「お前らみたいのを幼馴染みに持てばな、イヤでも心配性にもなる」

 不機嫌を隠そうともせずに悪態を吐き捨てたアルフレッドの、
その子供じみた様子がたまらなく可笑しかったシェインは、今一度、小気味良く喉を鳴らした。


 時計の針は既に深夜二時近くにまで進んでいる。
 間もなくベルエィア山の頂へ来光する太陽も、アルフレッドとシェイン、クラップとカミュ―――
四者四様の思惑を見守る役目を今だけは月と星に譲っていた。







「お母さん! お姉ちゃん! 早くっ! 早くっ!」

 台所で朝食の後片付けをしていたフィーナは、弾みに弾んだ声でもって急かしてくる妹のベルに
「はいはい、ちょっと待っててね」と生返事をしながら、
自分と肩を並べてフライパンの油汚れと格闘している母と顔を見合わせ、困ったような微笑を浮かべた。
 しかも、だ。妹のお守りをしていた筈のムルグまで急き立てるような鳴き声を上げ、
自分たちのほうへ来るようしきりに促してくる。
 妹がはしゃぎ始めたら釘を刺して落ち着けるよう頼んでおいたと言うのに、
どうやらミイラ取りがミイラになってしまったらしい。

「………母さん、フィーナ。洗い物は後でいいから、一緒にテレビを見よう」

 ベルとムルグだけなら生返事のみでやり過ごせただろうが、そこに一家の大黒柱であるカッツェまで加わってしまっては、
フィーナたちとしても早々無視を決め込むわけにもいかない。
 家事を優先させると言って押し切ることも出来るのだが、二対三と数の上でも不利であるし、
強情を張ったが為に二人と一羽に同時に拗ねられては、それはそれで後が困ってしまう。

 こうなると、ふたりが採るべき選択肢はただ一つのみ。
 洗い物の進捗はまだ半分を残していたものの、
フィーナたち母娘は、渋々その手を止めて呼び声のする部屋へと向かっていった。
 大いに呆れを含んだ溜め息はシンクに流しておいたのだが、
カッツェの伴侶――つまり、フィーナとベルの母親でもある――ルノアリーナはそれでもまだ収まりがつかない模様だ。
 そっと呟かれた「お父さんも、いい加減に大人になって貰わなくちゃ困るわ」と言う愚痴が狭い廊下に反響し、
フィーナの耳にもはっきり届いている。

 フィーナとて全く同感だった。
 いつも穏やかな母にしては珍しい父への愚痴に顔を顰めるどころか、
条件反射よろしくつい頷き返してしまったくらいである。

「早くってば〜。始まっちゃうよ、始まっちゃうよっ!」

 そう繰り返すベルの声は、明らかに先ほどよりテンションが上がっている。
彼女の言葉尻に乗って一層急き立てるムルグとカッツェの声も興奮の度合いが増していた。
 二人と一羽が昂ぶれば昂ぶるほど、これを聞かされるフィーナの口先はますます不満で尖っていくのだが、
穏やかならざる彼女の心中へ配慮できるベルたちであれば、そもそもこんな事態には発展していないのだ。
 気遣いを期待するだけ無駄だと自分に言い聞かせたフィーナは、その不毛とも言える努力を顧み、
シンクへ流しきれていなかった分の溜め息を吐いて捨てた。

 ベルたちが興奮するその気持ちは、満更わからないでもない。
 家族が参加している事業がテレビ番組の中で大々的に紹介される。それも全世界同時放送で、だ。
 特にベルは、大好きなシェインが、これまた大好きな『SUPERビャンプ☆ピッチdeぽん!』へ
登場するかも知れないと聞かされて以来、テンションが鰻登りでヒートアップし続けている。
 そんなベルを微笑ましいとも思える。自分だってアルフレッドがテレビに登場するかと考えると、
妙に浮き足立ってしまうのだ。

 しかし、だからと言って家事を疎かにする理由にはならない。
 番組開始の時間に間に合わなくては一生の損になるとばかりにベルたちは急かしてくるが、
やるべきことをきちんとこなしてこそ、心置きなく楽しめるのではないか―――
そうお説教したいのは山々であったが、興奮状態にある二人と一羽は、何を言っても耳を貸さないだろう。
 無駄な徒労に終わると解しているだけに、フィーナもルノアリーナも、
不服のやる瀬が見つけられないのだった。

 他の仕事を放り出してテレビに噛り付いていたと知ったなら、
間違いなくアルフレッドは「足りないヤツだ」と冷やかな蔑笑を浮かべるだろう。
 蔑笑に留まらず、父や妹の短慮を厳しく叱責する筈だ。常日頃からいがみ合っているムルグには、
ここぞとばかりにネチネチと皮肉を言い続ける。その姿も容易に想像できた。
 お調子者のクラップあたりは鼻高々とテレビ出演を自慢するだろうが、
シェインもアルフレッドと同じリアクションをするように思える。
 爆発的に溌剌としている普段の言行にも、年齢にもそぐわないようにも見えるのだが、
シェインもシェインで意外と常識人なのだ。

 溜飲を下げるのは、その機になるハズ―――
そう自分を納得させたフィーナは、一先ずはベルたちに対する憤りを胸の中へ仕舞うことにした。

「………遅いぞ、ふたりとも。家族の晴れ姿を見逃したらどうする。優先順位を考えなさい」

 ダメ押しよろしく投げかけられたカッツェの声にフィーナとルノアリーナが手を振って応じられたのも、
やがて彼らへ訪れるだろう叱責の嵐に期すればこそである。


 番組のスタート時間を五分後に控えたリビングは、さながらホームパーティー並の様相だ。
 テーブルの上にはポップコーンやブルーベリーのゼリーと言った菓子が広げられており、
ご丁寧に家族全員分の飲み物まで用意されていた。
 タンブラーコップに注がれているのはカッツェ特製のブルーベリージュースだ…が、
余計な洗い物が増えたと見て取ったルノアリーナは、夫の配慮を喜ぶどころか、口元を盛大に引き攣らせた。
 改めて詳らかにするまでもないが、目も全く笑っていない。
 テレビ番組の放送が終わった直後に相当な修羅場が訪れることをフィーナは予感した。

 両親の静かな緊張状態などどこ吹く風とばかりのベルは、手にクラッカーまで握っている。
 テレビ、ビデオレコーダー、時計…とあちこち忙しなく見比べているのは、
正確に録画がスタートされるかを案じているからだ。
 シェインやアルフレッド、ついでにクラップの晴れの姿を永久保存するつもりなのだろう。

 番組スタートまで残り一分を切ると、二人と一羽はカウントダウンをし始める。
愚にも付かないCM映像に焦れているのか、三十を数えた頃から急激に声が甲高くなった。
 カウントを刻む度に緊張も増しているのか、ベルの小さな指は興奮で震えており、
今にもクラッカーの紐を引っ張ってしまいそうで危うかった。

 五、四、三………カウントダウンもいよいよラストスパートに入った。
 もう間もなく待ち侘びた『SUPERビャンプ☆ピッチdeぽん!』が、家族の晴れ舞台が放送となる。
 席に着くまで文句を垂れ続けていたフィーナとルノアリーナも、
さすがにこのときばかりは固唾を呑んでテレビに集中していた。

「来た来た来た来た! シェインちゃんのテレビデビューが―――」
『―――この時間は一部内容を変更して、ニュースをお届けいたします。
本来予定していた番組につきましては、日程を改めて放送いたします。この時間はニュース速報をお伝えします』

 ―――ところが、CMから切り替わった画面は、手に汗握って食い入っていたライアン家の意表を突き、
絶句と瞠目を同時にもたらすものであった。
 カウントが最後の零を刻み、いざ『SUPERビャンプ☆ピッチdeぽん!』と意気込んだ矢先だけに
フィーナたちを襲った衝撃は極めて大きい。
 放送がスタートしたのは、『SUPERビャンプ☆ピッチdeぽん!』ではなく緊急報道特別番組だった。

 素っ頓狂な芸風で元気に明るくタイトルコールを行うコメディアンが、
いつもと同じように登場するとばかり信じていたフィーナは、
唐突に映し出されたキャスターたちの姿に完全に面食らってしまった。
 ベルなどはクラッカーの紐を引っ張ろうとした体勢のままで硬直してしまっている。

『ロイリャ地方に所在するシェルクザールの町で非常に毒性が強いと思われるクリッターが出現しました。
シェルクザールでは本日早朝より古代遺跡の発掘作業が行われることになっていましたが、
発掘予定地を掘削したところ、ベテルギウスを呼ばれるクリッターが地中より現れたとのことです。
安全確保の為に現在は作業が中断され、総員が発掘予定地から避難しています。
―――繰り返しお伝えします。ロイリャ地方に所在するシェルクザールの町で
非常に毒性が強いと思われるクリッターが出現しました』

 緊張した面持ちのキャスターが現在の状況を説明し終えると、報道フロアからまた別の映像へと画面が切り替わった。
 次に映し出されたのは、グリーニャから数十キロと離れていないシェルクザールの町並みである。
 画面の端に“中継”と表示されていることから、これが現地のライブ映像であることは判った。
 “中継”の二文字に並列表記された緊急速報と言う報道が不可視のフィルターになってしまったのか、
見慣れた筈のシェルクザールが全く知らない場所のように見えてならない。
 また、そのことが言い知れぬ不安をライアン家の人々に植え付ける。
 動揺の余り、手元を誤ったベルは、自分を膝の上に乗せて抱きかかえてくれていた父の顎へと
クラッカーを炸裂させてしまった。

 火薬の匂いと威力に身悶えるカッツェ――それでもなおベルを放り出さずに耐えたのは父親の鑑と言えよう――はともかく、
矢継ぎ早に伝えられるシェルクザールの窮状には、フィーナの心臓も早鐘を打って動揺を訴えている。

 発掘予定地に目されていると思しき山裾の方角へ険しい眼差しを向けるシェルクザールの住人たちを
カメラはずっと捉え続けている。
 事件が起きた場所を確かめることすらできず、不安げな面持ちで身を寄せ合う人々も多い。
 直接画面には映り込んでいないのだが、異常事態に慄く子供たちの様子を集音マイクが拾っており、
スピーカーからは幼い泣き声が幾つも漏れ出していた。

 毒性の強いクリッターが出現したと言う第一報以降、土砂の崩落と言った発掘作業中の事故は現在までに確認できていない。
 無論、徹底した分析に基づく詳報はこれから伝えられるのだろうが、
少なくとも犠牲者の発生と言う最悪の事態にまでは発展していないように思えた。
 ………フィーナはそう信じたかった。
 アルフレッドたちの安否は言うに及ばず、子供たちの泣き声がこれ以上大きくなることが彼女には耐えられないのだ。
 混乱による動転が流させる涙と、喪失による慟哭は全く違う。
 この一時に流すだけの涙で済んで欲しい―――フィーナはそうイシュタルへ乞い願った。


 不安を抱える群像の次にカメラが追ったのは、発掘作業へ従事する面々だ。
 アシュレイを筆頭にする発掘作業員だけでなく、
土砂との格闘には似つかわしくないスーツ姿の人間も数人ながら散見できる。
 彼らは発掘開始に際して催されたセレモニーの出席者であった。
 町を挙げての一大事業だけにセレモニーには各方面からのゲストも招かれているのだ。
 辺鄙な片田舎にまで出向いたと言うのにこのような大事件に遭遇し、
セレモニーそのものが台無しになってしまったとあっては、まさしく災難の一言に尽きる。

 テレビは再び報道フロアに切り替わったものの、
画面端に設けられた小さいウィンドゥの中では引き続き現地の中継が放送されており、
これによって多元的に状況を把握することができた。

 報道フロアではシェルクザール町長への電話インタビューが始まろうとしている。
 古代遺跡の発掘と言う一大事業をお膳立てしたガウニー町長だけに、
今回起きてしまった不測の事態には、余人には解せぬほどの憤りと悲しみを抱いている様子だ。
「入り口で作業が止まってしまうのは残念でならない。もっと深い場所に遺跡は眠っているのだ」などと
人目も憚らず歯軋りするのは無理からぬ話であろう。

「―――え…? あ、あれってもしかして…クラ君………?」
「………いかん。あれはいかんぞ。アルフレッドはどこにいる? すぐにクラップを止めなければ…っ!」

 お茶の間の意識は、ガウニーのインタビューへ集中している。
 小さく表示された画面端のウィンドゥには、シェルクザールの情景が映し出されているのだが、
ある人影をカメラが捉えた直後、事態は再び大きく動いた。
 シェルクザールの情景を伝えようとするカメラが拾ったのは、
レンズの中心を睨み据えたまま微動だにしないクラップである。
 カメラ目線を意識する目立ちたがり屋はどこにでも居るものであるし、
平素であればクラップもそう言った類に数えられるのだが、
果てしなく険しい表情を見る限り、自分の存在感を世間にアピールしようと言うわけではなさそうだ。

 やがてクラップは群像を掻き分けて歩みを進め、一直線にカメラへと近づいていく。
 シェルクザールの様子をライブ中継にて捉えていた画面をクラップの掌が完全に覆い隠し、
フィーナたちがアッと声を上げた次の瞬間、小さなウィンドゥ内に表示されていた映像が暗転した。

『やっぱりてめぇらテレビ屋はカス以下だぜッ! 撮っていいもんと悪いもんがあるだろうがッ!』

 映像が消える直前に集音マイクが拾ったクラップの怒声によって全てを察したフィーナは、
すぐさまポケットからモバイルを取り出した。
 ワンプッシュで登録した相手にコールできるショートカットを使ったのだろう。
液晶ディスプレイには既にアルフレッドの電話番号が表示されている。

 アルフレッドから応答があったのは、ルノアリーナがガーフィールド家へと走った直後であった。




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