6.MONY MONY



 アルフレッドから緊急の召喚を受けたフィーナとムルグがシェルクザールに到着する頃には、
夕陽はベルエィア山の向こう側へと暮れようとしていた。
 今はまだ顔が半分ばかり隠れたところだが、山間の村へ夜の帳が落ちるのは平地より更に早い。
それほど待たずに薄暮を迎えることだろう。
 早朝に召喚の電話を受けたにしては、だいぶ遅い到着だ。
 クラップの弁ではないが、片道十キロの道のりはグリーニャに近接しているとは言い難い。
言い難いものの、さりとてたっぷり道草を食っても十時間はさすがに掛かるまい。
 花も恥らう年頃のフィーナだけに支度に時間を費やしたのかも知れないが、
それを勘定に入れたとしても盛大な遅刻と言えよう。

 ところが、この遅すぎる到着に対してアルフレッドが目くじらを立てることはなかった。
 それどころか、夕方近くの到着を労ってさえいる。むしろ、フィーナのほうがむくれているくらいだ。
 彼女は背中に担った大きな大きなリュックサックをアルフレッドの前に下すと、
「フツー女の子にこんな重い荷物頼む? デリカシー以前の問題だよっ!」と肩が張ったようなゼスチャーをして見せた。
 残念ながら当のアルフレッドはフィーナが担ってきたリュックサックに収められている
分厚いフォルダやハードカバーの書籍へ意識が一直線に向かっており、
これ見よがしのアピールには全くの無反応である。
 先ほどまでは心から発していた労いの言葉も、今では適当な相槌ばかりとなっていた。

「コォォォ―――カッカカァァァァァァ―――ッ!! コッカカカカカカカカカカカカッ! コッカァッ!!」

 無神経にも配慮を欠いたアルフレッドの態度に激怒したムルグが、
今こそ絶好の機会とばかりに天敵の喉笛めがけて突撃していく。
 いつもならすぐさまに仲裁へ入るフィーナも、今日ばかりはムルグの思うままにさせていた。


 アルフレッドとムルグが、サルーンに居合わせた全ての人をドン引きさせるような
壮絶な死闘――但し、どうしようもなくアホらしい――を演じている間、
フィーナたちが到着するまでにシェルクザールで起きたことへ触れておこう。

 アシュレイ率いるウィリアムスン・オーダー、次いでアルフレッドと
一本のえんぴつ亭で一悶着を起こしたガウニーであったが、黒服の秘書ことヒックスに促されて市役所へ駆け戻り、
突如出現したベテルギウスに臨むべく対策本部を設置。直ちに町内に非常事態宣言を発令した。

 ガウニーの指示により、ベテルギウスの出現した発掘予定地から半径一キロメートル圏内の住民は所定の避難所へ退避。
万が一の場合に備えて発掘予定地周辺は完全に封鎖された。
 この封鎖された区域へ立ち入り出来るのは、ガウニーほか一部の役員にのみ限られることも併せて発表された。
 汚染と言う最悪のシナリオに至ることを想定しての対処としては、考え得る限りの最善にして最速の方針と言える。
 ガウニーが発したこの非常事態宣言は、シェルクザールの町民に賛同をもって快諾された。

 更に付け加えるなら―――
最初(ハナ)からベテルギウスを猛毒の塊のように扱うガウニーに向かってクラップは異論を唱えたものの、
その声は町民たちの上げる町長賛美によってあえなく揉み消されてしまった。

 このとき、アルフレッドが恐れたのは、
ガウニーの口からウィリアムスン・オーダーに対する批難や罵詈雑言が飛び出すことであった。
 堰き止めることのできない混沌に支配された群衆が、それを率いる者の号令によって暴徒化し、
標的と目された対象を徹底的に攻撃すると言う現象は、
恐怖や混乱のやり場が求められる状況に於いて最も発生し易いのだとアルフレッドはアカデミーで教わっていた。
 サルーンでぶち上げたようなことを非常事態宣言に織り交ぜて吹き込もうものなら、
町民たちはこぞってウィリアムスン・オーダーを襲撃するだろう。
 発掘事業の参加者とて、この狂乱から免れることは出来まい。
 そうなったら最後、シェルクザールの町は理性を失した暴徒が荒れ狂う修羅の巷と化すのだ。

 幸いにもガウニーは町民への避難指示を出すのみに留めたが、だからと言って油断は出来ない。
あの度し難い激情家のこと、何がきっかけになって攻撃命令を下すか知れたものではなかった。
 「知れたものではないと言うか、ガウニーその人が痴れた者と言うべきか。
一つだけ確かなのは、あの狸親父はとんでもない食わせ者と言うことだ。何を仕出かすかわかったものじゃない。
まるで火の点いた爆弾だよ」とはアルフレッドの吐き捨てた悪態だが、
これを聞いたクラップたちは言い得て妙だと何度も何度も頷いていた。

 ベテルギウスは自身の掘削してきた洞穴の内部へと引き下がったものの、
事態を重く見たらしいガウニーは、これを討伐し得るクリッターハンターのチームを近隣から呼び寄せ、
明朝にも総攻撃を仕掛けるとの決定を下した。
 偶然にも近くの村にクリッター退治を専門に請け負う冒険者の一団が滞在しており、
ヒックスを通じて交渉を行った結果、ベテルギウスの始末を承諾してくれたと言うのだ。
毒物…もっと言えば、クリッターの分泌する毒性の物質の処理に長けた人間も所属しているらしく、
 今回の一件を任せるには打ってつけのチームと言えた。渡りに船とはこのことである。
 冒険者のチームが今夜にもシェルクザールに入ると発表されて以降は、
町民たちの表情も幾分柔らかくなっている。安堵の溜め息を漏らす者も片手では数えられなかった。

 シェルクザールの住民にとっては、一時は絶望的とも思えた状況が運命の導きによって
好転していくことは望ましい限りであろう―――が、
穿った見方をすれば、あまりにも出来すぎた筋運びであり、不可解と言えば不可解だ。

「おかしいとは思わないんかね。発掘作業の初日にベテルギウスなんて大物が出てきて、
それを退治しに冒険者のチームがやって来る。そのチームも近くの村にたまたま滞在してたと来たもんだ。
今時、こんなご都合主義はメロドラマでだって通用しね〜よ」

 誰よりも真っ先にこの筋運びに疑問を呈したのはオットーである。
 マスメディアの世界を熟知しているだけにこうした状況には鋭い審美眼が働くらしい。

「テレビ屋がよく言うぜ。クソジジィの演説を一部始終撮影しといてよ。
あんたらにゃ視聴率稼ぎだけが大事なんだろうが。そんな連中が聖人君主を気取ったって
すこッしも合っちゃいねーぜ!」
「事件の記録ってもんがどれだけ重要なのかわかりもしないガキが偉そうなこと言うのと同じだな」
「おーおー、出たよ、飽きもせずにガキ呼ばわり。悪いんだけど、いい加減に慣れちまったさ。
返しに困るとすぐにガキ呼ばわり。それ使ってりゃ何でも押し通ると思うなよな、オッサン」
「粋がる割には大したことねぇな。ガキ呼ばわりが気に食わねぇのか? なら手前ェはどうだい? 
手前ェで詰ったやり方を人様に向けて、そいつで満足するなんてな。アホの極みだな、おい」
「て、てめーなぁッ! 屁理屈も大概にしやがれッ!!」
「結局、ガキじゃねーか。粋がるなら最後まで粋がって通せよ、クソガキ」

 クラップとカーカスのいがみ合いは、毎度のことだと捨て置くとして―――
オットーの提示した疑問を、アルフレッドも同じように抱いていた。
 これは、偶然を装った作為以外に説明がつかない、と。

 発掘開始の当日に重なったのは偶然だとしても、予定地と目されているポイントにベテルギウスが現れ、
そのベテルギウスを討伐し得る冒険者のチームが近隣の村に滞在していたなど、
オットーの言葉を借りるならご都合主義としか言い表しようがない。
 そうなるとベテルギウスの出現自体も織り込み済みであった可能性が角を出す。
 織り込み済みである以上、どこにどのタイミングでベテルギウスが出現するかまで
計算されていたと見るのが普通ではなかろうか。
 ベテルギウス出現が突発性の災難でなく計算づくのものであると見なした場合に限り、
発掘予定地や作業スケジュールに至るまで全てを仕組まれたシナリオと疑えるようになる。
 そして、その可能性は推論を続ければ続けるほどに強まっていくのである。

「一応、確認しときたいんだけど、あの町長、発掘調査の日程にも口出してなかったか?」
「あ、ああ………我々が算出したのは作業に要する日数だけだよ。日程は町長の独断だ。
土の状態等を加味して、一番適している季節は言い添えた。土は気候にダイレクトに影響されるからね」
「作業スタートの日取りも?」
「そうだ、町長の一存だが………オットー、それがどうしたと言うんだ? 一体、何を考えている?」
「それを確認できれば十分さ。アッシュ、お前さんがシロってことはオレたちが証明してやるぜ」

 問われたアシュレイは、自分へ猜疑の眼が向けられているのではないかと怯み、
幾分声のトーンを落としているが、アルフレッドもオットーも―――
否、この場に居合わせた誰しもがアシュレイ以外の人物に作為性を疑っている。

 その人物とは、言うまでもなくガウニーだ。
 計算づくのシナリオを組み立てて何を企んでいるのか、その全容までは判然としないものの、
その陰謀へアシュレイを引きずり込み、何らかの災いをもたらそうとしていることは、
先ほどサルーンで見せた強引なやり口からも明白と言えよう。
 発掘調査が計画もろとも崩壊しつつある中、全責任をアシュレイへなすりつけようとしている…とそう見えなくもない。
有無を言わせぬ語気で発せられたのは、まさしく責任逃れの強弁であった。

 アルフレッドやオットーが見極めようとしているのは、ガウニーの腹の底である。
 トカゲの尻尾切りよろしく責任逃れへと走った恥知らずを装うガウニーが、
実際には腹の底で何を企んでいるのかを探ろうとしていた。

「俺の推理が仮に当たっているのなら、そう遠くない内に尻尾を出す筈だ。早ければ、今日明日にも決着がつく」
「へぇ〜、アル兄ィったらすごい自信だァ。いつの間に弁護士から探偵に宗旨替えしたの?」
「名探偵でなくても思いつくことだ。………いや、グリーニャに生まれた俺たちにしか閃くことができないことか」
「断言してくれたところ、恐縮なんだけどさ、アル兄ィの言うことって回りくどくてよくわかんないんだよ。
ボクにもわかるよう噛み砕いて説明してくれ」
「オレにも聞かせて貰いたいね。あのジジィの企みまではどうにも計り兼ねていたところだ。
ここは一つ、キミの推理に頼るとしよう」
「“グリーニャの名探偵、現る!”みたいな見出しを決して出さないと約束するなら聞かせましょう」
「あらら、欲がないねェ。スーパースターになれるチャンスなんて滅多にないってのにさ」
「生憎と俺は地味な仕事が性に合ってるんだよ」

 ガウニーが具体的にどんな陰謀を企んでいるのかまではオットーの推論は及ばなかったのだが、
どうやらアルフレッドには思い当たるフシがあるらしい。
 それを裏付ける為の資料をグリーニャから運んでくるようフィーナは早朝の電話で頼まれていたのだ。

 フィーナのシェルクザール到着が大幅に遅れた事情は、まさにこれにつきる。
 か弱い少女を掴まえて分厚いファイルや書籍を山ほど運ばせるなど鬼畜の所業と言うべきである…が、
家族の気安さからか、はたまた恋人ならではの無茶振りか、アルフレッドは少しの躊躇もなく
フィーナへこの大仕事を頼んだのだ。依頼に際して逡巡すら見られなかった。

 引き受けてしまったからには全力を尽くすとばかりに、
指定された資料の数々をリュックサックへ詰め込めるだけ詰め込み、
そこにも入りきらなかった分は紐やスカーフで束ねて台車に積み上げ、遠路遥々シェルクザールまで運んできたわけだ。
 恋人に頼られるのがよほど嬉しかったらしい…が、
背中と両腕、双方に超重量級の荷物がダイレクトに圧し掛かって来るのは、どこにでもいるような少女には相当に辛い。
 ふたつの荷物の重さに振り回されてバランス調整をしくじる事態は、ほぼ三分に一回の割合で起きていた。
 バランスの取り方に細心の注意を払うと亀の歩みの如きゆっくりとした前進しかできなくなる上、
腰や背中に大きな負担がかかってしまう。
 何時間もかけてようやくシェルクザールへ到着した頃には、フィーナの足腰は殆ど立たなくなっていた。
 ここには持ち込まれていないものの、店の表に停めてある台車には別な資料が堆く積み上げられており、
途方もないフィーナの苦労が忍ばれた。

「はい、フィーナちゃん。アイスはサービスだよ」
「わ、ありがと〜、カミュちゃん。………カミュちゃんだけだよ、私をいたわってくれるのはっ」

 テーブルに突っ伏したフィーナへよく冷えた濡れタオルとアイスティーを運んできたカミュは、
改めて彼女の苦労をねぎらった。
 顔を上げるのも一苦労らしく、しみじみとした嘆息と併せて返すことのできるリアクションは、
手を振るゼスチャーのみである。

 ひらひらと力なく振られるその手の平へカミュはそっとスプレータイプの消炎鎮痛剤を滑り込ませた。
 こうした類のスプレーは、立ち仕事のカミュには欠かせない商売道具で、
常に数本の缶をロッカールームにストックしてある。
 フィーナの疲労を案じたカミュからの心ばかりの進呈であった。
 わざわざロッカールームまで取りに戻ると言う敏速な対応は勿論、
無臭のものを選んだあたりにカミュの細やかな心配りが感じられる。
 客の食欲を減退させる湿布独特の匂いをサルーンで働く人間が漂わせるわけには行かないし、
何よりも女の子であるフィーナへ貸し与えるものとして無臭スプレーは最善のチョイスと言えよう。
 どこぞの鬼畜外道な銀髪とは大違いだった。

 度し難いほどに食いしん坊なフィーナが、バニラアイスやシャーベットを盛り付けたガラスの皿よりも
消炎鎮痛剤を優先させたと言うことは、それだけ疲労の蓄積が著しいと言う証しでもある。
 恋人が目と鼻の先で消炎鎮痛剤を使っていると言うのに、アルフレッドはなおも無反応。
持参して貰った資料へ没入する余り、とうとうねぎらいの言葉をかける気配りすら忘れてしまったらしい。

 朴念仁が全神経を集中して読み漁っているのは、グリーニャの村役場や図書館に収蔵されていた官報である。
 官報と一口に言っても種々様々だが、アルフレッドがフィーナに持参を頼んでいたのは、
グリーニャに於ける過去数年分の土壌データが記録されたレポートだった。

 必要とする資料は限定されているのだが、「言うは易し、為すは難し」とは良く言ったもので、
膨大な量の資料が保管される資料館や図書館から一冊一冊を順繰りに探し当てる労力は筆舌に尽くし難い。
 規模こそ小さいけれども農村である。土壌に関する記録はそれこそ星の数ほど蓄積されているのだ。
 “『ベテルギウスの悪夢』に対する考察が添えられたものを最優先する”と言った細かな指定も
探すほうとしては極めて厄介であった。
 提示された注文を作業の工程に含めた場合、時間的な負担は通常の何倍にも膨れ上がるのだ。

 時間的な猶予が殆どなく、尻に火が点いたような逼迫した状況で指定された必要資料をかき集め、
且つ、その膨大な書物をシェルクザールの町までひとりで運んできたわけである。
 ムルグも探索や運搬を手伝ってはいたのだが、それにも限界があり、
結局は八割以上の負担がフィーナの細い肩へ圧し掛かっていた。
 恐ろしく過酷な労働であったにも関わらず、依頼主は彼女の労苦に殆ど無関心だ。
 一応、ねぎらいめいた言葉を掛けることは掛けるのだが、それも適当な相槌に等しいものばかりと言う有様。
これではあまりにもフィーナが報われない。

 労働に見合う対価を支払う気配の感じられないアルフレッドへ真っ先に逆上したのは、
当然ながら彼の天敵であるムルグだった。
 フィーナがこき使われたと言うことすら許し難く感じていたムルグにとって、
彼女の気持ちを踏み躙るかのような鬼畜の所業は、殺意を爆発させる引き金としては十二分に足るものである。
 いつも本気でアルフレッドを殺しにかかっているムルグだが、
今日のクチバシは平素に比べて数段は鋭さを増しているように見える。
 ただ殺すだけでは十分とは言えない。身体の部位々々を順番に破壊していき、
生まれてきたことを後悔するほどの惨たらしい目に遭わせなければ気が鎮まらない―――
けたたましい嘶きからは肌身へ突き刺さるような殺意が迸っていた。

 普段は誰にも分け隔てなく接する温厚なフィーナとて今日ばかりは怒りが慈愛を塗り潰しているらしく、
ムルグの猛攻を受けたアルフレッドの額を一筋、二筋…と鮮血が流れるようになっても仲裁へ入る素振りを一向に見せない。
 アルフレッドが劣勢に陥っていく経緯を静観するその双眸は完全に座っていた。

「アル君とムルグちゃんは放っておいていいの?」
「ムルグはちゃんとアルの目ん玉を抉り出すつもりでヤッてるからね。あれでOKなの」
「何をどう解釈すればOKって結論になるのか、わかんないよっ!?」

 普段のフィーナからは考えられないような物騒な台詞が飛び出し、
これに勢いを得たムルグのクチバシは、いよいよアルフレッドの喉笛にまで迫ろうとしていた。

「フィーナちゃんの言う通りよ。アルちゃんったらイケナイ子だわ」
「先ほどから黙って聴いていれば、誰も彼も俺を悪党扱いしてくれる。
俺に非があったことは認めるが、しかし、今は優先すべきことが他にあるんだよ。
償いも埋め合わせも、後で必ずするつもりだった」
「そう言うことじゃあないのよ、アルちゃん。―――ううん、そんなことを考えるからイケナイ子なの。
乙女心と言うものはね、そんな簡単には取り返しがつかないのよ? それがハートと言うものなの。
アルちゃん、学校で何を学んできたの? もっと人生勉強していらっしゃいな」
「生憎と俺が通っていたのは、マスターが言う人生勉強とは正反対のことを教える学校でね」
「あららン―――アルちゃん、また減点よ。言い訳しないで素直に謝っていれば、
フィーナちゃんの機嫌もきっと直ったのに………これでアタシの出せる助け舟はなくなっちゃったワ」
「………ちなみにこの場合の取り返しは―――」
「人生勉強―――したばかりでしょう?」
「………復習するまでもなく答えが出たか………」

 今まさに喉笛を噛み切られようとしているアルフレッドではあったが、
生死を決するほどの窮地へ立たされたにも関わらず、どうやらサルーンのマスターすら味方についてはくれない様子だ。
 仮に本当にムルグにやられてしまったとしても「乙女心を弄んだ罰だ」などと吐き捨てられた挙句、
ろくな介抱も施されないまま店の隅に捨て置かれる可能性もある。

 さしものアルフレッドもこれには背筋が寒くなり、慌ててマスターの様子を窺った。
 どうやら先ほど発せられたのは彼なりのジョークだったらしく、
顔を引き攣らせて硬直するアルフレッドへとからかうような眼差しを向けている。

 戯言に翻弄されただけだと知ったアルフレッドは、ひとまずは安堵の溜め息を吐いたものの、
全面的に自分に非がある以上、事態がどう変転するか予想もできない。
 何しろ自覚があるくらいの朴念仁なのだ。
 当人が気付かないうちにフィーナの気分を再度損ねてしまうとも限らなかった。
 今はまだからかわれるだけで済まされているが、
次にフィーナを傷つけたときこそはマスターにも本当に見捨てられるであろう。

 ………何事も深刻に考えすぎるのはアルフレッドの悪癖だが、
自身のパーソナリティを客観的に分析すればするほどに最悪の事態の想定が必要になるのも揺るがし難い事実ではある。
 本来不要な筈の気まで回すこと自体が杞憂だと人は呆れ、笑うのだが、
こればかりはアルフレッド本人にも変えられない性分であった。

「フィーナちゃんさ、もしかして埃っぽい場所に何時間もいたの?」
「役場の資料室がもうホントにカビ臭い場所でね。何年もまともにお掃除がされてない―――って、
どしてわかったの? 私、もう話したっけ?」
「髪の毛がちょっと痛んでるよ。フィーナちゃんの髪って人一倍デリケートだもん」
「うそ、ホントに!? わー………、言ってもらって良かったよ。一段落したら椿油補充だね」
「髪は大事にしてあげてね。ボク、フィーナちゃんの髪に憧れてるんだよ〜。
お日様みたいにキレイなんだもんっ!」
「いやいや、そうまで誉められると照れちゃいますなぁ。………でも、ホントによく見つけられたよね。
私、自分でも髪の痛みはわかんなかったよ」
「フィーナちゃんとはもう長いお付き合いだもん。髪のコンディションまでよ〜く知ってるさっ」
「嬉しいこと、言ってくれるなぁ、カミュちゃんっ! 正直、お嫁に貰いたいっ!」
「………………………」
「………………………」

 周りのどこを見ても味方がいないと言う絶望的構図に置かれた――少なくとも、
本人はそう思い込んでいる――アルフレッドであったが、
仲睦まじくしているフィーナとカミュが視界に飛び込んできた瞬間、状況は一変した。
 正確には、視線の向かう先を彼と同一にするムルグの動きへ変化が訪れたと言うべきかも知れない。

「カミュちゃんの髪だって羨ましいよ。私のクセッ毛、なかなか言うこと聴いてくれなくて………。
毎朝、すっごい戦うもん。その点、カミュちゃんの髪質はフワフワでモコモコで―――」
「も、もう、くすぐったいよ、フィーナちゃん。あんまりいじらないでね〜」
「………………………」
「………………………」
「おおお〜、手のひらに吸い付く髪って何!? 一度で良いからこの感触を自分でも堪能したいよ」
「それを言うならボクだって同じだよ。フィーナちゃんのサラサラな髪質は最高だよ?
最高級の絹糸みたいで………いつまでも触っていたくなっちゃう」
「ほ、誉め過ぎだよ〜。何も出ないよぉ? ………でも、ありがと。お世辞でも嬉しいっ」
「お世辞じゃないよ。ボク、真剣にそう思ってるもん」
「カミュちゃん―――やっぱウチにお嫁においでっ!」
「………………………」
「………………………」

 当然、ムルグの視線の先にも仲良さそうにじゃれ合うフィーナとカミュの姿が在るわけだ。
 お互いの髪を撫で合う姿などは“仲の良い友達”と言う域を踏み越えているようにしか見えず、
ふたりの関係を知らない人間の目には恋人同士と映るに違いない。

「………ケッ………コカ―――コッココ?」
「通訳がいないことには不便で仕方ないが、言いたいことは俺にもよくわかるぞ。
―――ああ、大丈夫だ。命さえ取らなければ、ある程度のムチャは許されるだろう」
「コォォォォォォォォォォォォ―――ケッコッコゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!」
「張り切り過ぎて、五臓六腑を飛び散らせるような真似はするなよ。後片付けが大変なんだ、臓物は」

 恋人さながらの甘やかな空気を醸し出しているふたりから互いの顔へと視線を移したアルフレッドとムルグは、
何事か確認でもするかのように二、三度と頷き合うと、次いで世にもおぞましい笑顔を満面に貼り付けた。
 歯を剥き出してニタリと笑ったアルフレッドの姿は、
悪さをする子供のお仕置きの為にいずこからともなくやって来ると民間伝承の中で語られている、
“ナマハゲ”なる精霊を彷彿とさせた。
 目が全く笑っていない点も“ナマハゲ”のそれに通じるものがある。
これで包丁を持たせれば、少なくとも外見だけは“ナマハゲ”の完成だ。
 ただし、“ナマハゲ”が地響きのような声で「悪い子はいねぇか!?」などと吼えるのに対し、
アルフレッドはしきりに「それはそれ、これはこれだ」などと意味不明なことを繰り返しており、
完全なる一致には今少し足りなかった。

 結果に至るまでの経緯がすっぽりと抜け落ちている為に傍観者の目にはさっぱり理解できないものの、
何時の間にやらアルフレッドとムルグは和解を済ませていたようだ。
 唐突とも言うべき両者の歩み寄りと「それはそれ、これはこれだ」なる謎の呟きには何らかの因果関係があるかも知れない。
 薄汚れた眼差しでカミュを見据えるアルフレッドが「それはそれ、これはこれだ」と口にする度に
ムルグは力強く頷き返しており、これを歩み寄りの論拠に挙げたとしても全くの見当違いではあるまい。

 ただ、現在論じるべきはアルフレッドとムルグの急な歩み寄りではない。
 むしろ互いに歩み寄ったアルフレッドとムルグが雁首を揃えて痛烈な敵愾心――と言うほどに
悪意の込められたものではないが――をカミュへ向けている点にこそ注意を払う必要性が感じられた。

「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「コ…カ?」

 “ナマハゲ”さながらの形相でカミュを睨み据えたアルフレッドとムルグが、
今まさにターゲットに向かって進撃の一歩を踏み出そうとしたそのとき、
思いも寄らない人物が両者の出鼻を挫き、物騒極まりない行動を水際で食い止めた。

「………アッシュ? どうしてあんたがそこにいる? フィーに何の用だ?」
「いや、その―――なんと言うか、並ばなきゃならないような雰囲気だったから………」
「どう言う雰囲気だ、どう言う」

 ―――アシュレイだ。
 つい十秒前までウィリアムスン・オーダーの社員らと善後策について協議していたアシュレイが
なぜかアルフレッドたちと肩を並べて屹立し、歩調を合わせようと身構えていたのである。

 アシュレイの思いがけない行動には、さすがにアルフレッドもムルグも目を見開いて驚いた。
 改めて説明するまでもないことであるし、細かく掘り下げて論じようものならアルフレッドの“男”や、
ムルグの評価を落とすばかりなのだが、両者が怨恨を捨てて歩み寄ったのは、
フィーナとカミュが仲睦まじくしているのを見て嫉妬に駆られ、これを邪魔すべくいきり立ったからに他ならない。
 最低のコンビとしか言いようがなく、実際、度し難い無粋を働いていることにはアルフレッドにもムルグにも自覚はあった。

 それでも両者は立ち上がらざるを得なかった。
 恥と外聞を投げ捨ててでもフィーナとカミュの間を引き裂く―――愛する者を死守せんが為、
捨て身の覚悟をアルフレッドとムルグは共に備えていたのである。
 ………覚悟などと気障に言い表しはしたものの、結局はヒステリックな嫉妬以外の何物でないのだが。

 だからこそ、アシュレイの不意の登場には驚きを隠せないのだ。
 ヒステリックな嫉妬に基づく醜さ全開の行いへ手を染めようとしている自分たちと肩を並べる人間がいるなどと、
どうして予測出来るだろうか。
 “水際で食い止めた”と言う表現は些か大袈裟だったかも知れないが、
直立不動で固まってしまうほどの衝撃を頭に血が昇っているアルフレッドたちへ与えたと言う意味では、
アシュレイの行動が一種の楔となったのには変わりがなかった。

「あんたもカミュをシメたいのか? ………気持ちはわからんでもないが、しかし、さすがに三対一で挑むのは憚られる。
俺とムルグが先にシメるから、あんたは次にしてくれ。順番に挑むならリンチにはならない」
「コッ!? コココーコッコッコッコッ!! コケケーコッ!!」
「お前が数の暴力大賛成なのは解せたぞ、ムルグ。フィーに嫌われたくないなら、今すぐにその卑怯な考えを改めるべきだ。
それから涎を拭け。いくらなんでも興奮し過ぎだ」
「―――ちょっと待って! ………カミュ!? どうして、そこでカミュが出てくる!?」
「コッ………?」
「どうしても何も………」
「キミたちだってあのド腐れ金髪泥棒猫を―――」

 フィーナとカミュが仲睦まじくじゃれ合っている様へと鋭い眼差しを向けたまま
アルフレッドたちに応対するアシュレイだったが、
“ド腐れ金髪泥棒猫”なる身も蓋もない暴言を吐き捨てようとした寸前になって重要なことへと考えが至ったらしく、
刹那、電流でも走ったかのように全身を硬直させた。
 暴言に代わって口をついて出たのは、アッと言う素っ頓狂で間の抜けた嘆息だ。
 その嘆息を引き摺りながら首を激しく振り動かし、アルフレッドとムルグ、
フィーナとカミュと言う二組のコンビを交互に見比べる面には、
左右へ流動する視界を一往復させるごとに焦りの色が濃くなっていった。

「―――恋人を奪われるかも知れないからと言って、暴力に訴えようとするのは感心しないな!」

 何から何まで理解し難い謎の行動に目を丸くするアルフレッドとムルグであったが、
アシュレイの奇行はそれだけに留まらず、今度は数秒前まで肩を並べていた筈の両者の前に啖呵を切って立ちはだかった。
 しかも、だ。自分の行動を棚に上げてアルフレッドとムルグを批難し始めたではないか。
 これには事態(こと)の成り行きを傍観していた周りの人々も盛大にズッコケてしまった。
 ほんの数分前まで理路整然とウィリアムスン・オーダーを指揮し、
善後策を主導していた人物と同一とは思えないほどの支離滅裂ぶりである。

「さっきまで肩並べてた人間の台詞か? 今更言うか!?」
「コカッ! コカッ!!」
「だってそう言う空気だったから………―――あ、あるだろう? 自分としては本意じゃないんだけど、
空気に流されてなんとなくおかしな方向に転がっちゃうケース」
「言いたいことはなんとなくわかるが、あんたの場合はどう考えても違うだろう? 
流されただけの人間がどうして凶器を持っているんだ。あんた、その手の栓抜きで何をするつもりだ?」
「コッ? ケッ!?」
「頭カチ割―――みんながカリカリしているから、ジュースでもご馳走しようと思って………」
「頭カチ割るつもりだったのか。頭カチ割るつもりだったんだな。
今時、栓抜きを凶器にしようと言う人間も珍しいが………」

 サルーンの備品である栓抜きを手のひらの内へ忍ばせていたのを目敏く見つけたアルフレッドは、
そのことでアシュレイを問い詰めていく。
 邪な心を持たざる一般人にとって栓抜きとは、文字通り瓶ビール等の栓を開ける為の小道具に過ぎない。
しかし、悪用を企図する人間の目には、栓抜きも立派な凶器として映るのだ。
 一見、何の攻撃力も持たないように見えるのだが、
取っ手の先端部分で突きを入れると地味ながらもなかなかのダメージを与えられる。
 一昔前の悪役レスラーはよくリングの上に栓抜きを隠し持っていったものだ。
 攻撃する意思がなかったと言う当人の言い訳を覆すには、手のひらに滑り込ませていた栓抜きのみで十分に反証足り得た。

 アルフレッドとムルグ、フィーナとカミュ―――二組のコンビを交互に見比べる内に急な心変わりが生じ、
前言を翻したと推察されるのだが、凶器まで持ち出すほどの強硬な態度を一転させたきっかけまでは
傍観者の目では探り当てることが出来なかった。
 カーカスもオットーも、勿論、ウィリアムスン・オーダーの面々も
デバガメ精神旺盛にアシュレイの奇行へ自分なりの推論を立てているものの、
いずれも正答として確信を持つには至っていない。
 ほんの一瞬だけ角を出してすぐに引っ込められた“ド腐れ金髪泥棒猫”なる暴言が
何らかの手がかりになるのかも知れないのだが―――

(ああ、そう言うことか―――標的はフィーナか………。まぁ、………あんたの立場なら、そうなるだろうな)

 ―――“ド腐れ金髪泥棒猫”と言う不届きにも程があるフレーズを胸中にて再度反芻したアルフレッドは、
そこでようやくアシュレイの真意を理解した。
 アシュレイが何を思って自分たちと肩を並べ、過剰とも思えるくらい仲睦まじくしているフィーナとカミュへ
鋭い視線を向けたのか―――遅ればせながら全ての奇行に得心がいった。

 “ド腐れ金髪泥棒猫”と言う暴言が誰に向けて発せられたものなのか。
 どうしてターゲットは“ド腐れ金髪泥棒猫”とまで扱き下ろされなくてはならなかったのか。
………それら全てが“ド腐れ金髪泥棒猫”と言うフレーズに集約されていた。

「―――だ、大体だね! こんなかよわい女の子に重たい荷物を運ばせること自体、非常識じゃないか、ライアン君。
男として恥ずかしくないのか?」
「………アッシュなァ、話題を変えたい気持ちは理解できるんだが、あまりにも露骨過ぎるだろう。
それに、あんた………“ド腐れ金髪泥棒猫”とまで言った相手を急にかよわいって………」

 バツが悪かったのか、はたまたこの状況をウヤムヤにしたい事情もでもあるのか、
呆れ返るアルフレッドに対してアシュレイは強行に軌道修正を図った。
 無理で無茶だと言う自覚はアシュレイにもあるらしく、額へ噴き出した冷や汗が無数に玉を結んでいる。

「―――そうだぜ、アルッ! 見損なったぜッ!!」
「………なに?」

 別段、拘り続ける理由もない瑣末な事柄ではあるのだが、
アシュレイの放つ強弁が論理としてことごとく破綻しているのが何故だか妙に愉しく思え、
からかい半分で混ぜ返してやろうとアルフレッドは異論を唱えるつもりでいた。
 あくまでも言葉遊びの範疇で、だ。
 ところが、喉元まで出掛かっていた反論は、横から飛び込んできた第三者の闖入によって図らずも封じ込まれてしまった。

 闖入者の正体とは、クラップである。
 嫉妬に煽られたアルフレッドとムルグが愚挙に出るのを見て取った彼は、
彼らの魔の手からカミュを庇うべく我が身を盾にしようとした………のだが、
いざ駆けつけようと身構えた直後、アシュレイが両者の間に割って入ってイニシアチブを握った為、
完全にタイミングを逃して出るに出られなくなってしまっていた。
 アルフレッドとカミュの会話が一区切りつくまでの間、走り出すつもりなのか、
それともジャンプするつもりなのか、判別もつかないような中途半端な体勢を維持していたのだが、
これは律儀や健気ではなく阿呆の範疇であろう。

 動くに動けなかったクラップにとっては、ようやく巡ってきた出番は何物にも替え難いのであろう。
 アルフレッドの異論を封じ込めた声は、溜め込んできた鬱憤を爆発させるような溌剌としたパワーが漲っていた。
 ………尤も、中途半端な体勢のままでいたのが仇になったらしく、
意気込んで飛び出した直後に脹脛のこむら返りを起こして悶絶し、筋肉の痙攣が鎮まるまでの間、
クラップはサルーン中を転げ回った。

 しかし、ただでは転ばないのがクラップだ。
 悶えて転がる間、彼は密かにカミュの足元にまで接近し、どさくさに紛れてその細い肩へと自分の腕を回していた。
 抜け目が無い上にセクハラ以外の何物でもないクラップの行動を間近で見せ付けられたフィーナは、
自分の労苦を彼がフォローしてくれているのにも関わらず、どうしても感謝の念を抱けずにいる。
 むしろ、満面が引き攣るくらいにクラップの行動へ目を丸くしていた。

「おめーよ、アルよ! カミュちゃんの気遣いを見たか!? フィーに対するなぁッ! 
鎮痛剤なのかな? 薬用のスプレーっぽいのを渡す! 髪のトリートメントを心配するッ! 
お前、一回でもカミュちゃんみてーなことを言ってやったか!? 言ってやってねーだろッ!? 
そーゆーところがダメだっつってんだよ、おめーはッ! カミュちゃんを見習いやがれ、このド根暗ッ!」

 痙攣より回復した頃からクラップの饒舌は加速度を増し、アシュレイの言葉尻へ乗って以降は、
自分なりの論理を並べ立て始めた。
 無論、話の内容そのものには何ら問題がない。それどころか、実に理にかなったものである。
 とてつもない苦労を強いられたフィーナへのいたわり――残念ながら、今のフィーナには、
幼馴染みの気遣いも素直には受け取れなくなっているのだが――も十分に込められてはいる…が、
公然とセクハラ紛いの行為をしながら熱弁を振るったところで誰も耳を傾ける気など起こすまい。
 当のクラップは聴衆の無反応に自身の醜聞を感じ取るどころか、
「カミュちゃんが教えてくれたんだよ。真実ってヤツを」などと意味不明なことを口走りながら
胸元へカミュを抱き寄せるなどセクハラ行為を次第にエスカレートさせていく始末。
 過剰なまでにフィーナを擁護、アルフレッドを批難するあたり、カミュの好感度を稼ごうと言う魂胆が見え見えでもあった。

 もしも彼の父が息子のこの醜態を見てしまったなら、何と嘆くであろうか。
一つだけ確かなのは、半殺しの刑はまず免れないと言うことだ。
 常軌を逸したクラップの行動を見兼ねたのか、フィーナはモバイルに備え付けられたカメラ機能を使って
幼馴染みのセクハラ行為を無言で撮影し始めた。
 当惑の表情を浮かべるカミュへと鼻の下が伸びまくっているクラップとを交互に捉えているのは、
セクハラ行為を追及するに当たって動かぬ証拠を突きつける為なのかも知れない。
 フィーナは写真ではなくビデオ機能を使ってクラップの行為を撮影し続けている。
 このビデオがガーフィールド家の大黒柱の手に渡ったときが、即ちクラップの命日となることだろう。

「まさかここでクラくんとカミュちゃんのカップリングとは………ッ!! 
これはこれでアリッ!! アリっていうか、ごちそうさまッ!!」
「あ、あの、フィーナちゃん………?」
「こ、こんなにイイ表情を隠してるなんてッ! 出し惜しみは良くないゾ、カミュちゃんッ!!
ちょっと強引なクラくんには、き、きッ、鬼畜のような攻め攻めを期待していいのでありましょうかッ!?」
「………………………」

 ―――これが仮にフィーナ以外の人間であったなら、
証拠となるビデオと共にクラップを彼の父の前へ引き据えていたに違いない。それこそが至極真っ当な判断だからだ。
 しかし、フィーナの場合は、レスポンスが極めて特殊なものになる。
 カミュを抱き寄せるクラップを見て目を丸くしたのは、セクハラ紛いの行為にドン引きしたからではなく、
思いがけないシチュエーションに巡り合えた感激と恍惚の体現に他ならない。
 荒い鼻息と赤い雫を同時に噴出させつつふたりの様子をじっくり―――
いや、むしろねっとりとカメラに収めるフィーナであるが、これはセクハラ糾弾の証拠を作っているのではなく、
あくまで個人的な観賞用の撮影なのだ。
 やっていることはクラップと何一つ変わらない下卑たものであった。

「まさかと思うけど、フィーナちゃん………ボクを妄想のネタになんてしてないよね………?」
「ひどいよ、カミュちゃん。私がそんな人間に見えるの?」
「すっごい棒読みなんだけど! 目が笑ってないんだけど! いや、ある意味、笑ってるけどッ!」
「グふふふ―――カミュちゃん………大人になろうよ。むしろ、大人にして貰いなよ、今…今ッ!!」
「やめて、その笑い方はホントにやめて! トラウマになるからッ! 心が折れるからッ!!」

 鼻血と涎を同時に垂れ流し始めたフィーナの様子に満面を引き攣らせるカミュの頭部へやおら燐光が宿った。
 それは、トラウムが具現化される際に爆ぜて散るヴィトゲンシュタイン粒子である。
 やがて燐光が霧散し、次いでシルクハットを彷彿とさせる形状のトラウムがカミュの頭部に現出した。

「本っ当にぼくでヘンな妄想とかしないよねッ!?」
「もちろんでありますッ!!」

 改めてフィーナに発言の真偽――本来なら口に出したくもない事柄であろう――を確かめたカミュだったが、
その直後、シルクハットのてっぺんが開き、中から“×”の一文字が記されたパネルが飛び出した。
 ………つまり、これがカミュのトラウム『ダックスープ・フレーバー』の持つ特性だった。

 一言で喩えるなら、カミュのトラウムはウソ発見器である。
 対象の心理的動揺等をスキャン及び分析し、嘘を吐いているか否かを“○”か“×”のパネルで判定すると言う、
一種珍妙なトラウムであるが、今はそのようなことは問題ではなかった。
 わざわざトラウムを具現化させてフィーナの真意を問うカミュであったが、
彼女の弁明が口から出任せであることは、心理状態を分析するまでもなく察せられると言うものだ。
自分の弁明に対してダックスープ・フレーバーが“×”を示したにも関わらず全く動じることがなく、
それどころか、微妙に怯え始めたカミュへ「いただきッ! 今の表情はなかなかレベル高いよ!」と
更ににじり寄って行けるのがフィーナの恐ろしさであり、この場に於ける最大問題なのだ。
 開き直ったと言うわけではない。迸る鼻血を拭うことも忘れてクラップとカミュの絡み合いへ全神経を集中するフィーナは、
既に恥や外聞と言ったものを超越してしまっているのだ。

 例え話として引用するには、あまりにも状況がバカバカしいのだが、
それでもカミュからして見れば「前門の虎、後門の狼」としか言いようがない窮地ではある。
 精神的に追い詰められたカミュは縋るような眼差しで助けを求め、それをキャッチしたアシュレイは、
半ば衝き動かされるようにしてバカの渦中…もとい、異常なる空間へと飛び込んでいった―――

「なるほどな、お前の言い分には確かに納得できる部分も多い。それは認めるよ、クラップ」

 ―――のだが、その動きはまたしてもアルフレッドによって堰き止められてしまった。
 もう何度目になるかをカウントするのも億劫になるが、今度もアシュレイの進路を妨げたのは、
両者の間に割って入ったアルフレッドの背中であった。
 アルフレッドが動くと殆どの場合に於いてアシュレイにはその背中を見送る役目が割り振られる。
 しかし、不同意と言いたげなアシュレイの顔をアルフレッドが振り返ることはなく、
それが為に彼は他人に貧乏くじを引かせていることにも気付いていなかった。

 アルフレッドの目下の使命は、世にもバカげた行為でもってカミュを怯えさせるに至った
幼馴染みふたりを沈めることにある。
 ………そう、“鎮める”の間違いではなく、“沈める”のだ。

「フィーに苦労をかけたのは本当に申し訳ないと思っている。ひとりでここまで運ばせたのも俺の配慮不足だった。
しかしだな、俺は一つとして無駄なことを頼んではいない。
フィーに集めてもらった資料は余すことなく全て活用している」

 クラップから向けられた批難への答弁のつもりなのだろう。
改めてフィーナへ多大な苦労を掛けたことを陳謝し、彼女の功績を素直に賞賛した。
 クラップに批難されたから取り繕ったと言うわけではない。
いずれフィーナへ掛けてあげようとアルフレッドが胸中にて温めていた、偽らざる感謝の言葉であった。
 資料へ没頭していたが為に後回しとなっていたその言葉が、ようやくアルフレッドの口から飛び出したのだ。

 そこまでは良かったのだ…が、言っていることとやっていることがアルフレッドは全くアベコベなのである。
 フィーナの後ろに回り込んだアルフレッドは、感謝すべき対象を抱きしめるのかと思いきや、
ほっそりとしたその首へと指先を這わせ、次の瞬間には彼女の意識を闇へと墜としていた。
 頚動脈を瞬間に敵に強く締め付け、意識をブラックアウトさせると言う荒業だ。
精神的な昂ぶりやこれに基づく過呼吸状態の相手には特に効果が発揮される。
 絵に描いたような興奮状態で写真撮影に没入していたフィーナは、
背後に立たれたことすら気付かないままキレイに崩れ落ちた。

 アルフレッドに背中を取られたことさえ気付かなかったのだ。
 朴念仁のアルフレッドが珍しく感謝を言葉にしたと言うのに、
おそらくフィーナの耳はそれを拾い漏らしていたことだろう。
 実に勿体無いことをしたフィーナだったが、
クラップの発する荒い吐息やカミュが漏らす嘆息の集音に聴覚機能を総動員したのがそもそもの誤りであり、
自業自得と断じざるを得なかった。

 白目を剥いてひっくり返り、泡まで噴いているフィーナの傍らへと降り立ったムルグは、
肩を竦めるかのように両翼を大きく広げると呆れ交じりの溜め息を吐いて捨てた。
 いつものムルグであれば、アルフレッドの仕出かしたことへ黙っている筈もないのだが、
今回に限っては仇討ちに走るどころか、これも已む無しと納得さえしている。
 ムルグもムルグなりにフィーナの奇癖には手を焼いているのだ。
 世間様へ披露するのが憚られるような暴走を食い止める点に関しては、
アルフレッドもムルグも意思の疎通が出来ていた。

 フィーナが墜とされたのを見たクラップは、これから自分に降りかかるであろう危険を瞬時に察知した…が、
この段階で彼は既に手遅れだったと言えよう。
 フィーナが地べたに転がった時点でアルフレッドの姿がクラップには視認出来なくなっていた。
次にアルフレッドの気配を感じられたのは、彼の意識が途絶える寸前のことである。

「手柄はフィー姉ェの独り占め? そりゃあえこひいきってもんじゃない? ボクのことも忘れないでくれよな〜」
「忘れてはいないさ。シェインの協力も不可欠だった。本当に助かったよ」

 視界がブラックアウトする寸前にクラップの鼓膜を打ったのは、
アルフレッドとシェインの間で交わされた他愛の無い会話であった。
 ふたつの声が交差する段階ではシェインの姿は確認できた。
 何やら忙しくモバイルを操作し続けるシェインは、
クラップと真正面に向き合う恰好で対角線上のテーブルに腰掛けていた。
 問題はアルフレッドだ。アルフレッドの声はクラップの頭越しにシェインへ届けられていた。
クラップと向かい合わせの位置に居るシェインへの返答が、だ。
 その声一つで十分であった。
 声の主が屹立する場所も、どう足掻いてもクラップに逃げ場がないことも、その声一つで同時に明らかになったのだ。

「何度、引き裂かれようともオレとカミュちゃんの絆は雲の彼方まで―――」

何者かの豪腕によってカミュと引き離されたクラップの意識は、
相手の顔を確認するより前に――尤も、顔など確認せずとも誰の仕業かは理解していただろうが――
闇の底へと沈んでいった。
意識が掻き消される間際までクラップはわけのわからないことを並べていたが、
彼の言いたかった意味を汲み取ろうとする者は、カミュを含めて誰ひとりとしていなかった。

「するってぇと何かい? さっき言いかけてたクソ町長の計画を暴く手がかりってのが―――」
「―――そうだ。シェインたちの集めてくれた資料の中に答えがあった」

 人がふたりも墜とされていると言うのに何事もなかったように話を進めるオットーに
カーカスほかサルーンに居合わせた面々は少し引いてしまったが、
さりとて蒸し返したところでどうにかなる問題でもない。
 足踏みしていてはいつまで経っても先には進めない。細かいことを振り返って立ち止まるよりも
少しでも物事を進めていくほうが建設的ではないか―――
足元に転がる白目のコンビを見て見ぬ振りでやり過ごす理由を自分に説いて聞かせたカーカスたちは、
雑念を捨ててアルフレッドたちの話へ耳を傾けることにした。

 ウィリアムスン・オーダーの進退に関わることをアルフレッドたちは論じているのだが、
白目コンビに怯えさせられたカミュを慰めていることもあってアシュレイ当人は
彼らの話に対して気もそぞろであった。
 この場に居る仲間たちは誰もガウニーの言を信じていないものの、
依然として濡れ衣を着せられたままであることに違いはない。それに自分は社を率いる立場なのだ。
 社員の為にも身の潔白を証明し、ガウニーが張り巡らせていると推察される陰謀を打ち砕かねばならない。
 自分の置かれた立場も状況もアシュレイは自覚し、把握もしていた。
現在の自分が何を優先すべきなのかも。

 しかし、それでもアシュレイは肩を震わせるカミュを放ってはおけなかったのだ。
 眉間に皺を寄せつつ「まさか友達から妄想のターゲットにされる日が来るなんてぇ………」などと
懊悩するカミュを優しく抱き締め、落ち着かせるよう頭を撫でてやることに
アシュレイは何も躊躇うことがなかった。
 心の命じるままにカミュのもとへと走ったアシュレイは、
自覚していた筈の立場や状況も思考の外へと弾き飛ばしていた。
 「これじゃ社長失格だ」と自嘲気味に苦笑するアシュレイだったが、
ウィリアムスン・オーダーの部下たちは、カミュへの気遣いを優先させた社長を
冷やかしこそすれ批難する気配は全く見受けられない。
 微かに悪ふざけを含んだその様子からも単なる雇用関係にはない信頼の強さと深さが垣間見えた。

 カミュは彼らの絆が我がことのように嬉しかったらしく、口元を優しげに綻ばせている。
 白目コンビに乱された精神状態は、アシュレイの胸の中で安らぐ内に
周囲の状況を把握できるまでには回復した様子だ。

「ひとつマスターに訊きたいんだが、町長の傍らに侍っているあの男―――
おそらく秘書だとは思うんだが、あの男はいつから町長の下で働き始めたんだ?」
「あらあら、アタシにも活躍の場面をプレゼントしてくれるの? 
ンフフ―――アルちゃんのそう言う気配り上手なところ、アタシは大好きヨ♪」

 ガウニーの企みを暴く手がかりを掴んだと豪語したきり本題を進めないアルフレッド目掛けて
カーカスは「勿体つけずに先に進めろよ!」と焦れったそうに悲鳴を上げた。
 「物事には順序と言うものがある。特に今回のケースは段階を踏んで説明する必要があるんだ。
ガウニーのことは順を追って話さなければならない」と論じ、逸るカーカスを落ち着けたアルフレッドは、
今一度、マスターにガウニーの秘書…つまり、ヒックスの経歴について尋ねた。

 ガウニー本人ならともかく秘書の職務経歴など今回のケースに何の必要があるのかと
カーカスはしきりに首を傾げているが、アルフレッドによれば、
むしろこの情報こそがシェルクザールに張り巡らされた謀略を暴き出す最後の鍵になると言うのだ。

 そこまで断言されては、マスターとしても懸命になって想い出すしかない。
マスターと同じくシェルクザールに在住するカミュも一緒になって記憶の糸を辿り始めた。
 カミュやマスターだけではない。発掘作業の為に雇われたシェルクザール在住のスタッフたちも
自分たちの知る限りの情報を記憶の彼方より手繰り寄せようと必死に頭を働かせている。
 彼らもまたガウニーの強硬な態度には釈然としない疑念を抱いたようだ。

「あれは町長が二期目の途中になるから―――そう、そうよ、十三年前になるワ。
………少ししてから『ベテルギウスの悪夢』が起こったのよネ。それは覚えてるわ」

 腕組みして考え込んでから二、三分を経た頃であろうか、些か時間が掛かったものの、
マスターの記憶がアルフレッドの求めるモノへと無事に?がった。
 ヒックスがガウニーへ仕え始めたのは十三年前―――
つまり、グリーニャの村で『ベテルギウスの悪夢』が発生する前後の雇用であったとマスターは語った。
 シェルクザールの在住する面々もマスターの話した“十三年前の雇用”がきっかけとなって記憶の扉が開かれたらしく、
自分の知り得る情報を続々と掲げていく。

 ―――ヒックスはガウニーが個人的に雇った私設秘書であること。
 ―――公設秘書は町役場に控えてデスクワークを中心に行っているのだが、
ヒックスだけは特別待遇で常にガウニーと行動を共にしていると言うこと。
 ―――この十三年の間、公設秘書は何度か代替わりしているものの、
ヒックスだけは雇用されて以来、一度たりともガウニーの傍を離れた試しがないこと。
 ―――十三年前にグリーニャで『ベテルギウスの悪夢』が発生した折には、
近隣のシェルクザールに影響が波及しないよう様々な措置を指導したこと。
 ―――その際に徹底した土壌汚染の調査が行われた。
騒動以降も時間の経過による変化を確認すべく毎年必ず土壌調査を行っているのだが、
これにはヒックスの斡旋した業者が深く関わっていること。
 ―――町役場には土壌汚染調査専門のセクションが設けられている。
採取された調査データは、一括してこのセクションが管理している。
『ベテルギウスの悪夢』に於ける功績を認められたヒックスがガウニーの肝煎りによって責任者へ就任。
 ―――シェルクザールの住民の中には、ヒックスのことを『ベテルギウスの悪夢』から町を守った英雄として崇める者が多い。
 ―――ただし、町役場の規定を上回る巨額な報酬が特例的に支払われていることや、
一秘書の領域を超越してキングメーカーさながらに権勢を誇るヒックスへ反感を持つ者も少なからず存在している。
 ―――今年で満五十歳。独身。趣味は携帯小説(読むほうも書くほうもどちらも嗜むとは本人談)。
ちなみに不治の病路線には滅法弱い。

「………これで決まりだな………」
「………コカ………ッ!」

 マスター始めシェルクザールの人々の声へ瞑目しながら耳を傾けていたアルフレッドは、
彼らより寄せられた数多の情報を通して何らかの確信を得たようだ。
 それはフィーナの傍らで羽根を休めていたムルグも同様であったらしく、
顔を見合わせた両名は、胸中に抱いた互いの確信を確かめるかのように低く、重く頷いた。

 「決まりも何も………イイ歳して携帯小説が趣味と公言するような男に女性は寄り付かないだろう。
独身をこじらせたまま一生を終えると思うが………」などとどうでも良い情報へ食いついた挙句、
素っ頓狂なことを放言したのはアシュレイだ…が、場の空気と全く馴染まないこの天然ボケには、
さすがにウィリアムスン・オーダーの部下たちも無反応である。
 依然として腕の中へと掻き抱いているカミュに反応を求めるアシュレイであったが、
カミュもカミュでどう返した良いものか考えあぐねており、
眉毛をハの字に歪めたまま口の端を引き攣らせるのが精一杯だった。
 なおも期待に満ちた眼差しを向けてくるアシュレイが居た堪れなくなってきたカミュの内心には、
何とも言えない侘しさが垂れ込めているのだが、これは全くの余談。

「自分たちだけで納得してないで、そろそろ種明かしを―――」

 なかなか結論を口にしようとしないばかりか、
自分ひとりで納得している様子のアルフレッドに業を煮やしたカーカスが、
再び抗議の声を上げようとした矢先のことである。
 何者かが猛烈な力でスウィングドアを押し開き、文字通りサルーンの店内へと飛び込んできた。
 並みの勢いではない。飛び込んだ際に着地をしくじって床へダイブした上、
壁に激突して止まるまで何度となくローリングしたのだ。
 余りにもインパクトの強い闖入に絶句したカーカスは、そのまま二の句を継ぐことが出来なくなり、
アルフレッドへ向ける筈だった抗議の弁をも飲み下すしかなくなってしまった。

「あらあら、いつにも増して派手な登場じゃないの、マルレディちゃん。
………ちょっと大丈夫? 鼻、折れたんじゃないかしら?」
「お、折れてない! 折れていないって信じてる。折れてないって念じれば、きっとへっちゃらだ!
そう何度も折ってたまるか!」

 常人には真似の出来ない強烈な登場の仕方でサルーンの注目を掻っ攫ったのは、
シェリフ・オフィス(保安官事務所)からシェルクザールに派遣されているシェリフであった。
 スラックスにワイシャツ、腰にはリボルバー拳銃を納めたガンベルトを締め、
胸ポケットには保安官バッジと言う至ってポピュラーなシェリフの装いだが、
頭に乗せている物体だけは異様であった。
 他が典型的な取り合わせである為、その歪さが余計に際立っている。
 パラボラアンテナのように幅が広く、また楕円状にカーブを描いた帽子を被ったこのシェリフ―――
マルレディとマスターはどうやら親しい友人同士でもあるらしい。
 ダイビングから大回転に繋げると言う曲芸も真っ青な登場を果たしたマルレディを捕まえて、
マスターは「子供の頃からず〜〜〜〜〜〜っと落ち着きがないのよネ、このコ」とからかい始めた。
 シェルクザール出身だと言うマルレディは、マスターが言うには、
去年この町で発生した酪農家の失踪事件を中心に調査しているようだ…が、
文字通り、サルーンへ転がり込んできた様子から察するに、
その件の聞き込み調査や日々の巡邏と言うわけではなさそうだ。
 自分で勢いを止められず転げ回るほどの助走をつけてきたくらいなのだ。
尋常ならざる危急を告げに訪れたと見て間違いあるまい。

「マスターも、カミュも―――皆、アシュレイ・ウィリアムスンから直ちに離れなさいッ!」

 普段であれば、自分に向けられた冷やかしをマルレディは苦笑混じりでやり過ごしたのであろう。
おそらくマスターもそのようなリアクションが返ってくると考えていたに違いない。
 しかし、マルレディから発せられたのは場を和ませるような談笑などではなく、
マスターの予想を大きく裏切る衝撃的なものであった。

「今しがたウィリアムスン・オーダーの幌馬車から毒物を押収した! 
ベテルギウスをシェルクザールに呼び込んだのはこいつらだったんだッ!」




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