8.巨人のコップ



 毒性の物質を喰らい、その毒素を周囲へ撒き散らすとの風評が流れるモグラ型のクリッター、
ベテルギウスの出現によって中断を余儀なくされているものの、
本来であれば、アシュレイは今朝から本格的な発掘調査に着手するつもりでいたのだ。
 ベテルギウス出現に限ったことではなく、セレモニーの大幅な延長と言ったイレギュラーな事態が連続してしまい、
参加スタッフに説明する間もなかったが、初日の工程に関する段取りは既に済ませており、
細かな作業分担もアシュレイの頭の中では出来上がっていた。
 発掘に要する物品は、携行用ペンライトなどライアン電機が納めた小道具だけではなく、
発掘の花形とも言うべき重機も一通り取り揃えてある。
 ………尤も、大掛かりな作業を行う重機は、ウィリアムスン・オーダーの社員のひとりが備えるトラウムだ。
 アタッチメントを換装することで掘削ドリルやパワーショベルを
一台でもってまかなうことのできる多機能型の重機のユーザーである社員を、
同僚たちはエース、ホープと持て囃し、上手い具合に操縦して大掛かりな作業を回転させていた。

 それは余談の域を出ないのだが―――発掘に必要な道具を積載した幌馬車は前夜の内に発掘予定地へと運び込まれており、
一晩の間、ウィリアムスン・オーダーの手を離れている。
 仮にガウニーの言う有害物質が積み込まれたとするのならば、おそらくはその幌馬車であろうとアシュレイは踏んでいた。
 当然ながら見張りなど置いてはいない。人目に触れることのない場所へ停めてある幌馬車は、
夜陰あるいは混乱に乗じて何らかの工作を企図する者にとっては格好の的と言えよう。
 侵入者の気配を感じて幌馬車を引く馬が嘶くこともあるだろうが、さりとて彼らに番犬の真似事を要求することはできない。

 果たしてアシュレイの読みは的中したらしく、ガウニーは少しも迷うことなく発掘調査地点へと脚を向けた。
 社の幌馬車は他にも何台かある。サルーンの脇にも小型の物を一台、
セレモニーの会場となった町役場にも数台停めてあった。
 疑惑のポイントが複数散らばっている中にあって、ガウニーは迷わず発掘調査地点の幌馬車を選んだのだ。

 その動きを見てアシュレイは嘲るように鼻を鳴らした。
 ウィリアムスン・オーダーの社員たちは幌馬車を停めてある場所を知っていて当然だ…が、
ガウニーがどうして知っていると言うのか。彼が調査地点に足を踏み入れたのは今朝が初めての筈である。
 また、幌馬車自体は奥まった場所に設営された休憩用テントの陰に隠れており、
ガウニーが気炎を上げていた調査地点からは完全に死角であった。

 彼が千里眼の持ち主であるのなら話は変わってくるのだが、そうした異能を持ち合わせた人間でない以上、
幌馬車の位置を確認することはどうやっても不可能なのだ。
 にも関わらず、彼の足は一直線に幌馬車へと進んでいく。迷うことなく向かっていく。
 当然ながらアシュレイも部下たちもガウニーには場所を伝えてはいないし、
そもそも彼から幌馬車のことを尋ねられた覚えもない。
 ………このような様を見せ付けられたのだから、アシュレイが鼻を鳴らしてしまうのも無理からぬ話であろう。

 ガウニーに従って村民たちも休憩用テントの方角へと歩みを進めているのだが、
彼らは町長が幌馬車の所在を周知していたことに何ら疑問を持ち得ない様子だ。
 有能な町長のこと、サルーンへ赴く事前に毒物の所在を調査していたのだとでも解釈しているのであろう。
なんとも都合の良い筋書きである。
 確かにベテルギウスの出現でシェルクザール中が混乱している最中であれば、
アシュレイたちの目に触れることもなく幌馬車の所在などを調査することが出来ただろう。
 しかしながら、それは幌馬車に細工を施していないと主張する為のアリバイが成立しないのと同義であった。

「緞帳が上がったら芸人はネタを全てこなすまで下りることはかなわんと聴いておる。
貴様はどうだ、アシュレイ・ウィリアムスン。貴様の場合は幕の向こう側に罪を隠しておるのではないか!?」
「なんとでも仰っていれば良いんです。罪が暴かれるのは町長ご自身でしょうから」
「―――この期に及んでまだそのようなッ! ………もう良い、その目障りなハリボテを壊し、
白日の下に忌まわしい野望を暴き出せぃ! やれィ、ヒックス! シェリフ!」
「………承知しました、町長」
「―――いやいやいやいや、なんで私がそんなことを!? 明らかに業務外ですよ、それ!」
「四の五の言わんとさっさとやらんかッ!! 正義の味方であろうが、貴様はァッ!?」
「え、えええぇぇぇ〜………そんなムチャクチャなぁ………」

 ベテルギウスがいつ顔を出すか知れたものではない発掘場所の大穴を避けるようにして遠回りし、
焦らすかのようにたっぷり時間を掛けて休憩用テントへと辿り着いたガウニーは、
ヒックスとマルレディのふたりにその撤去を命じた。
 シェルクザールから金銭、人材両面の援助を受けているとは雖もシェリフオフィスはあくまで独立機関であり、
ガウニーから下された命令に従う義務など持ち得ない筈なのだが、そこは気の弱いマルレディのこと、
凄み一発で腰が引けてしまい、殆ど言いなりのように撤去作業へと取り掛かっていった。

 アルミの骨組みを崩し、防雨用の天幕を取り外すと、死角に隠れて見えなかった幌馬車が
いよいよ村民たちの前に現れることになる。
 何とも芝居がかったことをするものだとアシュレイは鼻白むような思いで解体されていくテントを見つめていた。

「こりゃまた美味しい画に出くわしたもんだ。こいつは、面白いことになりそうだぞ」

 そのように実況を交えながら撤去作業をカメラに収めているのはオットーである。
 いつの間に準備したのか全く気付かなかったのだが、サルーンを出発したときには持っていなかった筈のカメラを慣れた手つきで構え、
彼曰く「美味しい画」とやらを丹念に撮影していた。

「見たか、我が住民たちよ! アシュレイ・ウィリアムスンめは静かなる我が町になんとも恐ろしいものを持ち込んだッ!
これがベテルギウスを呼び寄せたものだ! これさえなければシェルクザールの平和が乱されることはなかったッ!
このような兵器―――………貴様、何のつもりでこの町に持ち込んだァッ!?」

 ガウニーのダミ声が一際大きくなったのは、テントの解体を終えたヒックスが、続けて馬車の幌を取り外した直後であった。
 大方の予想通り、ウィリアムスン・オーダーの幌馬車には、
アシュレイたちが積んだ覚えのないモノが不気味な威容を称えながら鎮座ましましていた。

 赤茶色の錆がこびり付いた甕のような物体が馬車の荷台へ無造作に転がされているのだが、
丸みを帯びたフォルムや真ん中の空洞と言った特徴から推理した予想であって、正確な判別には至らなかった。
 金属製の器具あるいは機具であることは間違いないようだ。
 甕と思しき物体は幾つかの破片に分かれているのだが、その断面は陶器ではまず見られない鈍い光沢を放っていた。
 しかしながら、光沢を発している箇所は面積の内のほんの少しであり、
大部分は赤錆に侵食されて本来の彩(いろ)を失っている。
 錆と磨耗によってボロボロに崩れた表面を生乾きの泥が覆っており、
地中より掘り起こされてからそれほど時間経過していないことを如実に物語っていた。

 この謎の物体を幌馬車の荷台へ隠したのがウィリアムスン・オーダーだとするのであれば、
泥が乾き切っていない点は明らかに不自然だ。
 一晩の間、この場所へ幌馬車を放置していたアシュレイたちが何らかの細工を施すには前日の夕方が最後のチャンスであった。
 睡眠時間を削ってサルーンの一階でトランプ遊びに興じていたクラップもカミュも夜中に外出した者を見てはいない。

 仮に最後のチャンスと目される前日の夕方に幌馬車へ積み込んだとしよう。
 その仮説を採る場合、謎の物体の表面に付着した泥が生乾きと言うことは、いくらなんでも不自然であった。
 現在は夕間暮れと言った時間帯である。最後のチャンスから二十数時間を経ても生乾きのままの泥など
果たして地上の存在するのであろうか。
 無論、今日一日に降雨の記録はない。乾いた泥が再び水気を含んで緩くなる可能性は絶無である。
そもそも雨が降れば泥などは洗い流される筈だ。

(これだったのか、狙いは………)

 生乾きの泥を纏う物体が目に入った瞬間、ガウニーの腹の底に触れたような錯覚がアシュレイを襲った。
 その錯覚は、強い憤激をも孕んでいる。
 幌馬車の荷台に積み込まれた物体がどのような意味を持つのか、また、その正体は何なのか、
原形を保てぬほどに割れて砕けている為に推理を進めることは難しいが、
これをアシュレイに擦り付ける腹づもりなのは明らかだった。

 ベテルギウスの出現は、今回の発掘調査を主導した立場上、ガウニーにとってもダメージが大きい。
 そこで自分の経歴に傷がつかないよう原因に至るまで一切の責任をアシュレイに擦り付け、
失脚の窮地から英雄的活躍へと村民たちの印象操作を試みるつもりかも知れなかった。
 それにしては何とも手の込んだ仕掛けを施したものだが、いずれにせよ下劣な所業であることに変わりはない。

「―――あなたが何のつもりかは知りませんし、知りたくもありませんが、
私と私の仲間たちの為にも潔白だけはハッキリとさせておきましょう。
我々には何ら皆さんに恥じることはありません。………それを今から証明してやる!」

 自分の手で濡れ衣を張らそうと覚悟したアシュレイは、
凄まじいまでの怒りの眼差しを全身に浴びながらも決して怯むことなく幌馬車へと向かっていった。
正体不明の毒物が積載された幌馬車へ、だ。
 胸を張ったその堂々たる様子は、陰謀を暴かれて狼狽する小悪党にはとても見えなかった。
 てっきり恐れをなして逃げ出すとばかり踏んでいた村民たちは、正義は我にありと体言するアシュレイを見て、
一斉にどよめきの声を上げ始めた。
 胸算用が上手い具合に運んで満足しているらしいガウニーは気付いてもいないようだが、
批難の渦中にあって己の潔白に一片の曇りも持たぬアシュレイの姿は、村民たちの心へ確実に波紋を落としていた。

「待て。あんたは触るな―――」
「―――なッ…、ライアン君………っ?」

 幌馬車の荷台に積み込まれている見たことのない物体へと伸ばされたアシュレイの手を
アルフレッドが鋭い声が押し止めた。
 満足の行く取材が出来て興奮しているのか、鼻息荒くカメラを回し続けるオットーの傍らに立ったアルフレッドは、
無駄に熱気を放つ隣人とは裏腹にどこまでも怜悧である。
 アシュレイの傍らに侍って行動を監視――シェリフの役割上、疑いの目を向けられている人間を
野放しには出来ない為である――していたマルレディは、当惑したようにアルフレッドの様子を窺うものの、
彼は眉一つ動かさずに「現場検証をシェリフと被疑者の立会いのもとで行う」とだけ答えた。

「どいてくれ、ライアン君。私にも守らなければならないものがある。それを貶められた以上、黙ってはいられないんだ」
「それはできない。こうした場合、まず第一に行うべきは証拠の保全だ。
あんたを自由にしたら証拠が隠滅される可能性だってある」
「証拠…隠滅………ッ!?」
「あんたが本当にシロなら無理に動く必要もないだろう? 幸いにもここにはシェリフが居合わせている。
調査は任せておいても良いだろうに。………それとも何かあるのか? アレに触らなければならない何かが」
「………ライアン君、言って良い冗談と悪い冗談があるだろう………」
「生憎だが、俺は冗談が好きではない。無駄口もな」
「………………………」

 まるで自分のことを犯人だと決め付けているような物言いに立腹したアシュレイは、
一連の流れに当惑しているマルレディを呼びつけ、検証の段取りを主導しようと図るアルフレッドへと食って掛かった。
 ほんの十数分前までガウニーへの敵愾心を共有していた同志が、第三者の説得があったにせよ
手のひらを返して自分のことを被疑者だのと言い始めたのだから、激昂するのは当然と言えば当然であった。
 何があってもアルフレッドだけは味方になってくれるだろうと深い信頼を寄せていたアシュレイにとっては、
失望もまた大きいのかも知れない。

「マルレディさん、大至急応援を呼んでくださいませんか。アッシュや社員のアリバイを洗う必要がある。
それに証拠保全をしなくては。証拠物件を誰かの手に渡してはなりません」
「応援を呼ぶのはやぶさかではないんですけど………しかし………」
「ライアン君ッ! 君は…君は、私たちが持ち込んだと本気で思っているのか!? そんなものをッ!?」
「そんなもの? 抽象的で何を指しているのかわからないな。………何のことを言っているんだ?」
「裁判官気取りか!? うちの社の幌馬車に載ってるものだよ! 容器だか何だからわからない―――
何か入れ物みたいなソレのことだッ!!」
「容器? これが?」
「いや、うーん………社長さん、これ、本当に容器ですか? 割れちゃってますけど………」
「シェリフまでそんなことを―――サイズは大きいが、どこからどう見ても容器じゃないか!? 違うと言うのか!? 
真ん中が空洞になっていて………巨人が使うコップか何かッ!?」
「巨人のコップとは面白い表現だが、それは被疑者が一番分かっているんじゃないのか? ………なぁ、アッシュ」
「き、君って男は………ッ!」

 怒り心頭に達した様子のアシュレイと、それを冷ややかに睥睨するアルフレッドの間には
穏やかならざる空気が垂れ込めている。

 住民たちを置いてけぼりにして始まった両者の衝突には、さしものガウニーも瞠目して驚いていたが、
やがてその口の端が吊り上がっていった。
 忌々しいことこの上なかったアルフレッドが、一転してアシュレイを糾弾する側に回ったのだ。
 しかも、だ。理論武装で責め立てるアルフレッドに対して守勢のアシュレイは明らかに分が悪く、
今にも押し切られてしまうそうではないか。
 願ってもない僥倖に恵まれたのだ。
 ただでさえ直情傾向の強いガウニーが込み上げてくる笑いを抑えるなど出来る筈もない。
高笑いをしなかったのは奇跡であった。

 そんなガウニーに向かって先ほどからヒックスが刺々しい視線をぶつけているのだが、
湧き上がる笑気へ従うのみに留まらず得意そうに鼻まで鳴らした男が、
身辺の状況を冷静に見られるわけがない。
 眼下に転がる硬貨へ気を取られるような意地汚い下衆と何ら変わらぬ状態であった。

 アルフレッドとアシュレイの間を満たす緊迫した空気をカメラに収めていたオットーは、
次いでウィリアムスン・オーダーの幌馬車に積載される毒性の物質へとレンズを向けた。
 破片の一つ一つに至るまで、じっくりと舐め回すように撮影していくオットーだったが、
ガウニーから制止の声が飛んでくることはなかった。
 どうやらこの映像がアシュレイの立場がより悪化させると判断したらしい。
 ガウニーから暗黙の撮影許可を得たオットーは、有毒物質が持つ情報を余すことなく拾い上げるべく、
時間をかけて丹念にカメラを回していった。

「―――待てよ、なんだよ、それは………そんなことして恥ずかしくないのかよ、オットーの旦那ァッ!?」

 オットーの行為に批難の怒声が上がったのは、アシュレイ曰く何らかの容器と予想される破片の一つへ
カメラがズームインした直後のことである。
 その破片には型番と思しきナンバーの刻まれたプレートが溶接されており、
オットーはこれに注目したようだ…が、ダイレクトに待ったを掛けられては、無視して撮影を続行するわけにも行かなかった。

 怒声が突き入れられた方角を見やれば、気絶から復活したクラップたちが勇んで駆けて来る様を確認できる。
 こんなときに誰よりも早く怒りの炎を燃やすのがクラップなのだが、訝るようなアルフレッドの視線に対し、
彼は肩を竦めて自分ではないとゼスチャーで訴えている。
 元よりアルフレッドはクラップのことを疑ってはいない。そもそも怒声が上げられた時点でその主が誰なのかは判っていた。
 オットーに噛み付いたのは、彼の部下であるカーカスその人だった。

 フィーナも、ムルグも、カミュも―――クラップと連れ立って一行の後を追ってきた人々には、
少なからず怒りや憤りが滲んでいるが、その中でも特に激しく面を歪めているのがカーカスである。

「お、おいおい、どうしたってんだ、カーカス。いつになく熱くなってるじゃあないか? 
んん? またクラップ君とやり合ったのか?」
「マリモ髪のガキんちょなんか関係ねーよ! あんただ、あんたッ! あんたにキレてんだよ!」
「………ほう? 俺もどーやら部下に嫌われる管理職ってのになっちまったみたいだな」
「すっとぼけてんじゃねーよ! ………あんたがやってることは、
マリモ髪のガキんちょが言ってたこととそっくり同じじゃねーかッ!」
「てめこら、黙って聴いてりゃマリモマリモって! 人の髪をなんだと思っていやがる!?」
「ガキは黙ってろ! こっちゃ大人の話をしてんだ! ―――なぁ、旦那よ、俺に教えてくれたじゃねーか。
人間らしい良心とカメラマンの魂は決して切り離すなって!」
「勿論だ。撮影する側が良心を失くしちまったら、そんな映像にゃ何の価値もねぇ」
「だったら旦那のやってることは何だよ!? 一個人を犯人扱いして、それを放送(なが)すなんて最低じゃねーか!
そこに良心があるのかいッ!?」

 なおも厳しく抗議の声を荒げるカーカスの手には、撮影用のカメラが握られているものの、
オットーが携えたそれとは違ってスイッチは入っていない。
 カーカスと対峙したオットーも撮影自体は中断しており、
アルフレッドとアシュレイの対立や“巨人のコップ”を捉えていたレンズは被写体から逸らされている。
 オットーの肩に担がれたカメラは、本来の被写体とはかけ離れたモノへとレンズが向けられる恰好になる。
 彼に担がれたカメラの対角線上には、ガウニーとヒックスの姿が在った。

 どうやらスイッチが入ったままの状態になっているらしく、撮影中を知らせる赤いランプは点滅したままだ。
 カメラの上部に設けられた赤いランプへ嫌な予感を覚えたらしいカーカスは、
それとなくレンズの有効範囲から身を逸らしたのだが、最早、自分を疑う者は誰ひとりもいないと
得意になっているガウニーはそうも行かない。
 レンズが一挙手一投足を捉えられる位置で仁王立ちしたまま、オットーとカーカスの衝突に高みの見物を決め込んでいた。

「犯人確保なんて滅多にありつけねぇビッグニュースだ。そりゃお茶の間の皆さんを独占できるだろうよ。
視聴率稼げて、スポンサーもニッコリだ。………でもよ、本当にそれで良いのかい!?」
「カーカス、手前ェの仕事を忘れちゃなんねーぜ? 俺らの仕事は全ての情報を世界中に“正しく”伝えることだ。
幸いここにはシェリフだって居る。それなら何も恐れることはねぇさ。
ココで起きたことを一つ残らず報道しようじゃねぇか」
「それがひとりの人間の人生を台無しにすることになってもか!? ………いや、ひとりだけじゃすまねぇ。
アッシュさんに疑いがかけられたら、芋づる式に社員さんの人生だって―――!」
「こらこら、個人名を出すんじゃあないよ。余計な疑いを吹っ掛けられたらどうするんだ? 
お前のほうが危ねぇ真似してるんだぜ?」
「そう言う旦那はどうなんスか!? 毒物を持ち込んだのがウィリアムスン・オーダーだって、
世間様に公表してるようなもんじゃねーっスか!?」
「誰が黒幕かなんて明言なんかしてないだろ、俺は。強いて言えば、証拠固めに協力しているだけさね」
「旦那ァッ!!」
「あー、こらこら………大声出すんじゃないよ、全く………」

 クラップがカーカスへ言い放ったものと全く同じ批難が、今度はカーカスの口からオットー目掛けて発せられていた。
 両者の対決に間近で立ち会うこととなったクラップは、驚愕を宿した眼差しをカーカスへと向けている。
 カーカスから発せられる言葉の全てが、いみじくもクラップ自身がその胸中に抱いていたものと同じだったのだ。
 ………そして、胸中に抱いた批難をクラップはつい数時間前にカーカスへ言い放ったばかりであった。

「ご協力感謝しよう、オットー君。それからライアン君もだ。
………キミらとは色々あったが、それは水に流そうではないか。我々が戦うのは共通の敵なのだからなぁ―――」

 オットーとの間で交わされる激論へそう差し出口を挟んだガウニーの口元には、明らかに笑みが浮かんでいる。
 怒りの形相へと満面を歪め、ダミ声を荒げているが故に違和感はより強く映し出されるものだ。
 僅かにでも笑気と言う異物が混入している以上、その人が昂ぶらせる怒気は信憑性を欠くものとして周りに受け止められる。
怒りに震える肩も、憤りをがなる大音声も、全てが人心を煽動する為の演技ではないのか、と。

「町長の言う通りだ………」
「やっぱりこいつが…こいつのせいであんな化け物が………」
「倒さなきゃならない敵はただひとりだ………」
「アシュレイ・ウィリアムスン………」
「その手先………ウィリアムスン・オーダーも生かしちゃおけねぇ………」

 ………しかし、ガウニーの真意を見極めるだけの冷静さを保つ人間は、今、この場には皆無であった。
 オットーとカーカスの間にて交わされた激論から、ガウニー曰く“共通の敵”を見定めた村民たちは、
標的の名を異口同音で呼び合っている。

「―――言い逃れは許されんぞ、アシュレイ・ウィリアムスン! 今日が貴様の命日と知れッ!!」

 極限まで高まった暴虐なる衝動は、ガウニーの号令をもって一気に濁流と化した。


 毒性が極めて強い物質をシェルクザールへ秘密裏に持ち込み、
それによってベテルギウスの出現を招いてしまったと言う嫌疑が掛けられているアシュレイ・ウィリアムスンにとって、
この状況は絶体絶命以外の何物でもなかった。
 シェルクザールで起こった前代未聞の大事件を分析する自称有識者は、
ベテルギウスが汚染物質を撒き散らす可能性があり、ただちに住民たちへ避難するようテレビやラジオの番組の中で繰り返し勧告している。
 自称有識者が醸成した風聞をそっくりそのまま信じ込むシェルクザールの住民たちは、
混乱のやり場を怒りと言う発散法に見出し、ついに攻撃の矛先を身近な標的へ求めるまでに至った。
 彼らにとって最も手っ取り早い標的は、言うまでもなくアシュレイその人である。

 ガウニーが仕向けた情報工作によってアシュレイに対する住民たちの心証はすこぶる悪化している。
 ウィリアムスン・オーダーの幌馬車から毒性の物質が発見されたこともあり、
殆どの住民がアシュレイを諸悪の根源と見なしていた。こればかりは致し方のないことであろう。
 アシュレイや、ウィリアムスン・オーダーの幌馬車を執拗にカメラで追うオットーと、
それに反発したカーカスの口論は、図らずも住民たちの怒りを更に加速させた。

 アルフレッドやアシュレイが指摘するように、
ウィリアムスン・オーダーの幌馬車から毒性の物質が発見された際の不自然なタイミングや、
発見された当時の不明瞭な状況、あまりにも都合が良すぎるクリッターハンターへの取次ぎなど、
不審を感じる事項は枚挙に遑がない。
 ………挙げ始めればキリがないものの、そうした不審点が多過ぎるにも関わらず、
暴力衝動で全て塗り潰してしまうほどに住民たちは冷静な判断力を欠いていた。

 ―――アシュレイ・ウィリアムスン、許すまじ!

 最早、その一念のみが住民たちを衝き動かしていると言って良いだろう。
 さながら暴走を始めたバイソンの群れのように集団で逆上した人間たちを諌めることは、
よほど強烈な牽引力が期待できる説教なりを用意しない限り、まずもって不可能である。
 頭へ完全に血が昇った状態では、五感が正確な機能を果たすことは考えられない。
それが集団で巻き起こっているのなら尚更だ。
 怒りと憤りは周囲の人々へ伝染し、やがては無数の狂気を束ねて一本の槍と化す。
 その穂先が狙うのは、言うまでもなく事件を引き起こした首謀者であった。

 証拠も証言も固められていない内にアシュレイは今回の黒幕と決め付けられ、
挙句の果てには罪人を嘲るのと同じ目でシェルクザールの住民たちから冷瞥される始末である。
 法律など全く機能していなかった。

 罪人扱いされたアシュレイの言葉に耳を傾ける人間は誰ひとりとしておらず、
絶体絶命としか言いようがない状況だ―――が、しかし、これら全てはアルフレッドが想定する範囲内であった。
 舌鋒鋭いアシュレイとガウニーの対決を目の当たりした段階で、彼は今回の首謀者が誰なのか見当を付け、
その疑義へ確信を持ったのだ。

「しかし、原始的な作戦もあったもんだぜ」
「あれが作戦なものか。自分の動かしやすいようにコマを動かしただけだ」
「おぉっ、言うねえ〜。まるで作戦参謀みたいなお言葉だ。………さては、キミ、腕に覚えがあるな?」
「これでも士官学校出身でね。………自慢ではないが、こう言った類の頭脳労働は得意なほうだ」

 サルーンを出る間際にオットーと交わした雑談がアルフレッドの脳裏に蘇る。
 今回の事件の首謀者が張り巡らせた計略は、評価に値しないほど稚拙なものとアルフレッドの目には映っていた。
胸中では粗略とまで吐き捨てている。

 怒りで我を忘れた住民たちを煽動して暴力の嵐を巻き起こし、これによって自身の不利となる証拠や、
根本的な疑いの芽を一挙に葬り去ってしまおうと言うのが首謀者の狙いだとアルフレッドは睨んでいる。
 史上かつてない大規模な証拠隠滅と表しても過言ではなかった。

 成る程、シェルクザールと言う町と、そこに住まう人々が持つコンサバティブな側面をも計算に入れた、
ここでしか通用しない天晴れな一計と言えなくもない。
 だが、アルフレッドやオットーと言ったシェルクザール以外の人間を大勢巻き込み、
尚且つ彼らの目でいとも容易く見破られているようでは、詰めの甘い粗略と言わざるを得まい。

 そもそも損害や犠牲を減らす為にこそ計略と言うものが存在し、その真価を発揮するのである。
 暴力に訴えて障碍となるモノ全てを破壊し尽くしてしまうなど最も愚かしい行為であり、
だからこそアルフレッドは「原始的な“作戦”」と放言したオットーに釘を刺したのだ。
 アルフレッドに言わせれば、首謀者の案じた一計などは作戦と呼ぶだけの質を満たしていなかった。

(さて、どうしたものか………)

 とは言え、ガウニーが煽りに煽った住民たちを食い止めるのは、なかなか骨が折れる。
 この状況から一気に挽回し、住民たちの狂気を霧散させるには、
彼らの間で伝播し続けている暴力衝動を覆すだけのインパクトが必要なのだが、
時間は殆ど残されておらず、悠長に謀略を案じていられる状況でもなかった。

「―――いい加減にしてくださいッ!!」

 いっそ首謀者を血祭りに上げて住民たちの前に引き据え、強引に目を覚まさせると言う手段も考えてはいたものの、
アルフレッドが実行しようとした矢先に飛び込んできた黄色い声が、彼にその動きを止めさせた。

 ―――カミュだ。
 暴徒と化した住民たちを掻き分けてアルフレッドたちのもとへと駆けつけたカミュが、
今まさにアシュレイへ襲いかかろうとしていた一団へ叱声と共に金属片を投擲した。
 それは、ウィリアムスン・オーダーの幌馬車に山積されている毒性の物質の一かけらであった。

 冷静な判断力を欠くあまり、その金属片を町の土壌を侵すような汚染物質と混同しているのか、
住民たちはカミュが投擲した小さな一欠けらにも過剰な反応を示した。
 長さ三十センチにも満たないほんの小さな欠けらにまで仰け反って悲鳴を上げるくらいだ。
 恐慌状態の深刻度は、末期的と見なすべきであろう。

「みんな、自分が恥ずかしくないんですか!? 恥ずかしいと思えないんですかッ!! 
ひとりをよってたかって悪者扱いして―――疑いとか毒物とか言うけれど、
どれもこれも町長の言いなりじゃないですかッ! みんなは自分で考えて結論出したんですかッ!? 違うでしょうッ!? 
………そんな人たちにアッシュを悪く言う資格なんかないよッ!!」

 暴徒が後退した隙に彼らとアシュレイとの間へと滑り込み、敢然と仁王立ちしたカミュから大音声の叱責が迸る。
 甲高く声を張り上げるカミュの双眸からは、憤激へ共鳴するかのように熱い雫が幾つも幾つも零れ落ちていた。

「………カミュ、お前の気持ちはわかるんだが、しかし―――」
「―――しかしもカカシもないッ!」
「ぶ、物的証拠まであるんだぞ? 社長を疑わないわけには―――」
「―――そもそもアッシュが持ち込んだって言う証拠はどこにあるんですか!? 
まさか、調べてないなんてことはないですよね!? どうなんですか、マルレディさん!?」
「い、今はまだ事情聴取の段階であってだね」
「仕事が遅いッ!」
「そ、そんなこと言われても、事情聴取しようと思ったら、あれよあれよと言う間にこんなことになっちゃって………」
「シェリフの体たらくはひとまず置いといて―――でも、これではっきりしましたよね。
ちゃんと調べもせずにアッシュを犯人扱いしていたことが。………恥を知りなさい、クソ虫たちッ!!」
「そ、そこまで言うか………」
「仕事もせんとこんなところで油売って………マルレディさんはクソ虫以下ですね。
この瞬間からカスレディと改名してください、カス野郎」
「なんかキャラ変わってないッ!?」

 完全に逆上しているカミュを宥めるべく住民たちはおっかなびっくりと言った調子で説得の声を掛けているものの、
報復のように繰り出される鋭い舌鋒はそれらを容易く穿って砕く。
 相手が誰であろうと有無を言わせず言葉を飲み込ませるような迫力を帯びたカミュが相手では、
僅かな反論であっても、その一切が封殺されてしまうのだ。
 何人をも寄せ付けない威圧感たっぷりのオーラを全身から漂わせたカミュは、
恐?して固まった住民たちを順繰りに見回すと、もう一度、大きな声で「恥ずかしくないんですか!?」と繰り返した。

「なんだか、さっきからうるさいですね、カスレディさん。何か文句があるって言うんですか、仕事もしないくせに」
「待って待って待って待って………カメラ、何台か入ってるよね、今。そんなときになんてこと言うの、キミは。
お茶の間に今のが流れた時点で、私、クビになっちゃうから。クビにならなくても減俸間違いナシだよ」
「それならぼくのウソ発見器で確かめましょうよ。心から仕事してるって自信があるなら、
絶対に“○”の一文字が出る筈ですよね?」
「あたりきさぁッ!」
「―――はい、回答は“×”です。仕事してないことには自覚症状まで持ってます、カスレディさんは。
カスの分際で、随分とナメたことしてますね、ええ………」
「何の心の準備も出来ないまま嘘発見器にかけられたら、誰だっておかしな結果が出るだろ! 
え、冤罪だぁ。こんなの冤罪じゃないかぁ〜」
「うるさいって言ってんでしょ、このカス野郎。ウソ発見器にまでケチをつけるなんて腐れたド底辺ですね。
あなたの場合は生まれてきたことを恥じてください」
「だから、キャラ変わり過ぎてないッ!?」

 中でもとばっちりよろしくさんざんに扱き下ろされているのはマルレディなのだが、
彼の場合は中立の立場を一応は保っており、言ってしまえばカミュからさんざんに貶されるのは筋違いも良いところであった。
 ポリグラフや心拍数と言った正確なデータが採取できるかどうかも不明瞭の心理状態のまま、
カミュのトラウムであるウソ発見器にかけられるとは不幸と言うしかない。

 マルレディの心理状態を言い当てた――とはカミュの弁であって、マルレディ本人は全否定――
シルクハット型のウソ発見器を被るカミュは、首を思い切り振り回し、
これによって帽子の上部から飛び出している“×”のパネルをマルレディの横っ面へと叩き込んだ。
 パネルと接合されているポールは頑丈なアルミ製だ。パネルそのものはプラスティック製だが、
こちらも門を当てられれば侮れないダメージとなる。
 理不尽な物言いの末に思い切り横っ面を引っぱたかれたマルレディは、メンタルの面でも大きな痛手を被り、
とうとうその場にへたり込んでしまった。

「カ、カミュ…私は何もそこまで………」
「アッシュは黙っていてッ! ぼくもここだけは譲れないんだッ! 絶対に許せないッ!」
「は、はい………!」

 自分を庇ってくれている相手に気圧されるとは何とも締まらない話ではあるが、
悪化の一途を辿る暴走を見兼ねて仲裁に割って入ろうとしたアシュレイは、
思いがけずカミュから浴びせかけられた怒号によって完全に萎縮してしまった。

 これでは、カミュの激昂もアシュレイの為と言うより理由なき反抗のような様相を呈してくる。
 しかし、住民もオットーもアシュレイまでもが迸る凄みに圧倒されている現在、
カミュを止められる人間はシェルクザールには誰一人としていなかった。
 アルフレッドやフィーナら、グリーニャの村民たちは、他所の事柄へ口出ししてはならないと考えているのか、
事態の成り行きを一歩離れた場所から静観している。

「アッシュの無実はボクが証明してみせます!」
「―――よく言ったぜ、カミュ! 俺も付き合おうじゃねぇか!」

 カミュが自身の決意を語った直後、突如としてその足元から鈍色の煙が立ち上った。
 奇抜なライブパフォーマンスを彷彿とさせるその煙は、カミュの太腿に絡みついたかと思えば、
次の瞬間には、誰彼問わず居合わせた全ての人々をも包み込んでいた。
 鈍色の煙は吸引した拍子に鼻や喉を微かに刺激し、噎せ返る人間も少なからず居たものの、
さりとて呼吸系を痛めつけるほどのものではない。
 無論、アルフレッドのトラウム『グラウエンヘルツ』が発するガスとも類は異なり、こちらは何の変哲もない煙幕である。

 煙幕の発生源へと視線を遡上させていけば、そこには四角い箱のような物体を脇に抱えるカーカスの姿があった。
 四角い箱の前面には、伸縮・柔軟する蛇腹式の筒が設けられており、
鈍色の煙幕は、その尖端から止め処なく溢れ出ているのだ。
 カーカスから撮影用のカメラを投げ渡されたクラップは、
その奇妙な物体が『スモーキング・ブギ・ウギ』なるフォグマシーン(発煙機)のトラウムであることを
後になって聞かされることになる。

「な、なんだ!? なんだい、こりゃあ!? てめぇ、何しようってんだ!? ど、毒ガスじゃねーだろうな!?」
「だったらどうすんだ? お前、イチコロだな」
「バッ―――や、やけのやんぱちになってんじゃねぇよ! 考え直せ! おふくろさんが泣くぞ!?」
「アホウ。おれの顔見ろ。ガスマスク着けてるか? マジで毒ガスなら、誰よりも早く俺がくたばってるぜ」
「じゃ、じゃあ、なんだってんだよ!? なんか、鼻とか目とか痛ぇんだけど………」
「ビビるようなもんじゃねーから安心しろ。それより、お前、カメラを落とすなよ。絶対だぞ」
「“絶対落とすな”―――だぁ!? ………なんだよ、やっぱりヤケ起こしてるじゃねぇか」
「前フリじゃねーよ! マジで落とすなっつってんだよッ!!」
「わ、わかった。地面に叩き付けるんじゃ面白くないから―――クソ町長のドタマでカチ割るか!?」
「ボケてんのか、テンパッてんのか、どっちだ!? ―――ンなの、どっちでもいい! 
とにかくバカな真似すんじゃねぇぞ!!」
「―――ピンと来た! アルに向かってブン投げて、あいつに蹴っ飛ばして貰うのはどうだ!? 
場外ホームラン間違いナシだぜ!?」
「てめぇ、実はわざとやってんだろ!?」

 しかしながら、現時点ではクラップはフォグマシーンだと説明を受けていないのだから、
蛇腹式の筒より吐き出される煙幕に混乱を来たすのは無理からぬ話である。
 彼の名誉の為に付け加えるならば、何の説明もないままこのような煙幕を焚かれては
誰であろうとも混乱すると言うものである。

 シェルクザールの住民たちも例外ではない。
 ベテルギウス、“巨人族のコップ”と立て続けに襲ってきた事件によって住民たちは
“毒”を連想させるモノへ非常に過敏になっている。
 ただでさえ危機意識が高まっているところへ喉や鼻をチクチクと刺激する煙幕が垂れ込め、
更にはクラップの口から毒ガスと言う不穏当な単語まで飛び出したのだ。
 全ては勘違いなのだが、彼らを恐慌へと追い立てるには、これだけで十分であった。

「この刺激臭―――いかん! 皆、急いでここから離脱しろ! これはホスゲンだッ! 
少しでも吸い込めば肺をやられるぞッ!!」

 住民たちの混乱へ拍車を掛けたのは、アルフレッドが上げたこの絶叫であった。
 “士官学校出身”と言う肩書きを持つアルフレッドが、顔を強張らせながら口にハンカチを押し当てる姿は、
軍事兵器の知識を持たぬ一般人には強烈な衝撃を与える。
 耳慣れない単語だが―――いや、耳慣れないからこそ住民たちは“ホスゲン”なる単語に
大量殺戮兵器の恐怖を想像してしまうのだ。

 こうなるともう誰にも混乱を収束させることは出来ない。
 我を忘れて逃げ惑う群衆へガウニーは落ち着くよう声を張り上げているが、
老人ひとりの怒鳴り声などでは、最早、太刀打ちのしようもなかった。

「コカッ! コカカカッ! コッケケコッ!!」

 煙幕に巻かれた為、思うように退路を取れないでいる群像をムルグが誘導する。
 高空を飛び交うムルグを頼りに住民たちが市街地へと逃げ遂せたのは、
カーカスがスモーキング・ブギ・ウギを発動させてから実に十五分もの時間が経過してからであった。

 その間にも状況は激動する。
 平素から冷静沈着なアルフレッドが取り乱して狼狽したのだ。おそらく本物の毒ガスと見て間違いあるまい―――
そう判断したカミュは、肺を侵される前にこの場から離脱すべくアシュレイへと手を伸ばした。
 この段階では住民たちもまだ周辺に数多く残留しており、
煙幕の向こう側では言葉にならない悲鳴が、ある種の狂詩曲と化している。
 恐怖と絶望とで織り上げた狂詩曲の途絶えたときが、即ち自分たちの最期の瞬間でもあるのだ。

「こんなところでグズグズしてちゃダメだよ! 早くこっちにっ!」
「―――へっ!?」

 死に至る毒ガスから逃れようとアシュレイに手を伸ばしたカミュではあったが、
しかし、その手首を絡め取ったのは、本来の対象とは全く異なる別人であった。

「えっ…なっ―――フィーちゃん!?」

 アシュレイへと伸ばされていたその手を横から割って入って掴んだ張本人とはフィーナだった。
 さしものカミュもこれには目を見開いて驚いてしまった。
 てっきりアルフレッドに伴われてこの場を退避しているとばかり思っていたフィーナが、
理解に苦しむタイミングで飛び込んできた上、自分とアシュレイとの間に割り込んだのである。

「ま、待って待って!? い、一体、何なのさ!? 何をするつもりで………」
「ベテルギウスのとこまで行くんだよ! カミュちゃん、あの人たちの悪事を暴きたいんでしょ?
真実を解き明かすんでしょうっ?」
「それはそうだけど………、でも、なんで、ベテルギウス………?」
「行けばわかるよ。………カミュちゃんには知っておいて欲しいし」

 しかも、だ。ガスの行き届かない市街地まで逃げるのかと思いきや、発掘調査地点に開いた大穴、
つまりのベテルギウスの巣窟へと自分を引っ張っていこうとする。
 状況を把握し兼ね、呆気に取られた面を晒して立ち尽くしているカミュに対して、
フィーナはその手を引きながら、アシュレイの為にも真実を解明するようしきりに訴えかけていた。

 確かにそれはカミュ自身の望んだことだ…が、今は状況が状況である。
ガウニーたちとの対決へ拘泥していては、双方毒ガスに肺を冒されて共倒れになり兼ねない。
 そもそも、カミュの求める真実はガウニーの醜い腹の底にあるのだ。
 それなのに、どうしてベテルギウスの名前が出てくるのか。その因果関係がカミュには全く解せなかった。

「ま、待って! アッシュを! アッシュも一緒に―――」

 我に返ってアシュレイを振り返るカミュであったが、最早、目当ての人は完全に煙幕に巻き込まれてしまい、
シルエットすら確かめられなくなっていた。

「………大丈夫だから。コレ、本当にただの煙だよ。さっきのはアルのお芝居」
「だ、だって、ホスゲンとかって………」
「町の人たちには解散して貰わなきゃいけなかったから、アルが機転を利かせたんだと思うよ。
………わかるんだ、アルってウソつくとき、ちょっと声の感じが変わるんだよ」
「おノロケは後でいいから。………もしかして、フィーちゃん、これって―――」
「―――ついさっき言ったでしょ? ………アルが機転を利かせたって」

 フィーナの耳打ちがあとほんの少しでも遅れていたら、彼女の手を強引に振り払ったカミュは、
いずこかへと消えてしまったアシュレイの捜索に当たっただろう。
 落ち着くよう促すフィーナの耳打ちによって久方振りに気持ちを落ち着けたカミュは、
彼女に引っ張られながらもここに至るまでの状況を整理していく。

 アルフレッドはスモーキング・ブギ・ウギから吐き出される煙を指して、
肺を冒され、死に至らしめられる毒ガスだとシェルクザールの人々に吹き込んだ。
 困惑の極みにあったカミュも一瞬だけそれを信じそうになったのだが、
冷静になって分析してみれば、そもそもカーカスには住民たちを皆殺しにする理由がないのだ。
 ガウニーを妄信して、第三者の言葉を聞き入れようともしない住民たちへ少なからず憤りを抱いてはいただろうが、
それだけの理由で虐殺に走るような人間には見えなかった。
 それに本当にカーカスの撒き散らす煙が猛毒の類のガスであれば、
今頃はダイレクトに身体が危険信号を出している筈だ。悠長に思考など巡らせてはいられまい。
 何度か吸引してしまっているが、せいぜい噎せ返る程度で、とても死に至る病に罹ったとは思えなかった。

「穴倉に乗り込むんだろ? ………ここまで来たんだしよ、最後まで付き合うぜッ!」

 スモーキング・ブギ・ウギを小脇に抱えたカーカスが追いかけてきたことによって
カミュが胸中に抱いた仮説は確信へと塗り替えられた。
 本来、カーカスの口元は自滅を防ぐ為のガスマスクなどで覆われていてもおかしくないのだが、
給食を配膳するエレメンタリーが使うようなガーゼ式のマスクすら彼は持ち合わせてはいなかった。

「安心してオレに任せなよ、カミュちゃん。オレが責任もってお嫁に貰―――
あ、いや、違…、オ、オレが責任もって送っていてやるからよ!」

 まるで張り合うかのようにカーカスと肩を並べたクラップは、
未だに少し戸惑いの色を浮かべているカミュをそう鼓舞した。
 丁度良い具合に肩の力を抜いているクラップにしては、この熱い鼓舞は異例中の異例と言えるのだが、
それもやはりカミュへ並々ならぬ気持ちを抱いているからであろう。

「まッ………さか、こやつらァ―――!?」

 カミュの手を引くフィーナの瞳が何を見据えているか、
また、クラップのこの吼え声でもって彼らがどこに向かおうとしているのかを悟ったガウニーの顔から
血の気が一気に引いた。

「ヒックスッ! ………わかっておるんだろうな。あの小僧っ子どもの始末をせねば―――」
「―――言われなくともわかっています。そちらへ移行する為の作業なんですよ、これも」

 つい数分前までの増上漫はどこへやら。病的なまでに蒼白となった頬を震わせるガウニーは、
殆ど縋りつくような恰好でヒックスのスーツの袖を何度も何度も引いているが、
当のヒックス本人は雇い主からの命令であるにも関わらず、随分とぞんざいな返答である。

 威勢の良さが失せた擦れ声を慮って振り返るようなこともしない。
 ………正確には、ガウニーを振り返っていられるような余裕をヒックス自身も持ち合わせていなかったと言うべきか。
先ほどからアルフレッドへと焦点を絞ったまま微動だにしないのが何よりの証拠である。

「論拠よりもあんたには地獄を見せてやったほうが良さそうだな、黒服さんよ」
「………………………」

 スモーキング・ブギ・ウギの煙幕に包まれる間際、
何を思ったのか、アルフレッドはオットーを庇うよう我が身を盾に見立てて彼の前に仁王立ちした。
 視線の先にはヒックスがいる。冷たい殺意を全身から湧き立たせるヒックスが、だ。
つまり、アルフレッドはヒックスとオットーの間に割って入った恰好なのである。

 アルフレッド当人が癪に障るのか、それともオットーとの間に屹立していることが目障りなのか―――
ついに殺意を解放させたヒックスではあったが、さりとて彼の真意を探る気などアルフレッドにはさらさらない。
 問い質したところで何の解決にもならない無駄骨であるし、仮に真意を引き出すことが出来たとしても、
そんなものは、今から始まる計略(コト)に何ら影響を与えるわけでもなかった。

「重ねて言おう。貴様らには地獄を見せてやる―――己の罪深さを知るのだな………!」

 腰だめに拳銃を構えるような体勢のまま硬直するヒックスを、軽蔑の眼差しでもって睨み据えたアルフレッドは、
鈍い色の煙幕が両者の間を隔絶する寸前、改めてこの黒服と、彼の背後に在るガウニーへ宣戦を布告した。




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