10.Splash



 “マカフィー”が倒れている―――フィーナを介してムルグからもたらされた窮状を耳にした途端、
クラップは飛び上がって驚いた。
 比喩でなく本当に飛び上がって驚き、岩壁の出っ張りに頭上を強か打ちつけてしまった。
 硬質な物体をカチ合わせたような鈍い音が狭い空間中に響き渡るほどの勢いで、だ。
 跳躍の速度や出っ張りにぶつかった際の音の大きさからして確実に瘤が出来るハズなのだが、
クラップ当人はダメージすら感じていないらしく、その場に蹲って痛みが引けるのを待つどころか、
地面を蹴って暗闇の中へと飛び込んでいった。
 ムルグが戻ってきた道を辿らんとする疾駆であった。
 我を忘れたように走り続けるクラップを見たカーカスは、
頭を強打した影響で混乱しているのではないかと一瞬だけ不安を覚えたのだが、
しっかりとした彼の足取りには意識の混濁と言った異常は見られなかった。

 フォグマシーンの具現化を一旦解除し、カメラを担ぎ上げたカーカスは、
遠ざかっていく背中を他の面々と共に追いかけた。
 ベテルギウスの掘削した穴とクラムボン・キャンプの洞窟とを貫通する“繋ぎ目”のところで
ようやくクラップの隣に並んだカーカスは、改めて彼の正気を確かめる。
 汗みずくの横顔には、ありありと動揺が浮かんでいる。目は血走り、歯を食いしばってもいる。
 しかし、忘我はしていない。理性を保ったまま、己の考えに基づいて行動をしている。
 唐突に駆け出して皆を驚かせはしたものの、クラップの正気は疑うまでもなく平常であった。

 彼の正気は、その足取りが如実に証明している。
 クラムボン・キャンプの洞窟内へ足を踏み入れてからと言うもの、彼は一度たりとも道に迷うことがなかった。
 クラムボン・キャンプの内部は、ベテルギウスが掘り返したと思しき無数のトンネルが
複雑怪奇に入り組んでおり、殆ど迷宮と言った有様である。
 件の都市伝説によって人が寄り付かなかったのは、ある意味では幸いだったのかも知れない。
クラムボン・キャンプへ足を踏み入れたが最後、侵入者は肉体が朽ちて果てるまで
この迷路の中を彷徨い続けることになるだろう。
 背筋が凍るような迷路の只中にあってクラップの足は僅かも逡巡することなく、正しいと思われる道を選び続けていた。
全力疾走しているにも関わらず、だ。
 まるで地図が脳内へインプットされているかのようにクラップの経路選択は鋭敏である。

 経路選択の速さもさることながら、人の手が入っていない洞窟を転倒することなく走り続けられることにも
カーカスは驚かされていた。
 なにしろクラムボン・キャンプは天然の洞窟である。
 整地が施されていないだけに足場が悪く、カーカスやカミュは何度か躓いてしまったのだが、
クラップは道中に突然現れる岩の出っ張りを一瞥すらせず飛び越え、ノンストップで走り続けている。
 それは、悪所の全てを周知しているかのような身のこなしだった。
 彼のように軽やかとは行かないカーカスとカミュはクラムボン・キャンプの悪路に苦戦を強いられてスピードを落としつつあり、
今やクラップに伴走できるのはフィーナだけになっていた。
 彼女もまたこの悪路に足を取られることがない。

 そう言えば―――と思い返せば、ムルグもベテルギウスのもとへ辿り着くのが随分と早かったように思える。
 立派な翼でもって飛翔できるムルグは悪しき地形に妨げられることはなかろうが、迷路はまた別問題だ。
 いかにムルグが動物的直感に優れているとは言え、こうも入り組んだトンネルが相手では、
選ぶべき経路に迷い、右往左往してもおかしくないのだ。
 にも関わらず、ムルグは神業のように敏速だった。
 ベテルギウスが倒れていると言う場所から一行のもとへの往復までに要した時間は、ほんの数分。
ベストラップとも言うべきそのタイムからも、一度としてムルグが道に迷わなかったと察せられた。

 現在、ムルグは他の面々と共にクラップの背中を追いかけているのだが、彼の選んだ経路に誤りを指摘することはない。
ムルグの通った道をクラップは完全になぞっているのだろう。
 それはつまり、複雑に入り組んだトンネルの正しい道筋をクラップとムルグが共有していると言う何よりの証拠でもあった。

「すっごいなぁ、フィーちゃんたち…。これがマラソンだったら、ぼくたち、きっと周回遅れでしたね」
「………あ、ああ。マジでな、すげえ…よな」

 都市伝説と言う隔壁によって侵入者を拒む―――
それがクラムボン・キャンプと言う天然の大洞窟の筈なのだが、グリーニャからやって来たふたりと一羽は、
複雑に入り組んだ迷路にも障害物が散りばめられた悪路にも慣れきっているではないか。
 成る程、クラップたちの様子は、溜め息交じりにカミュが漏らした通り、「すごい」の一言に集約された。

(こいつらにとっちゃ庭みたいなもんなのかもな、ココは………)

 フィーナが発した“マカフィー”なる呼称を耳にして以来、胸中に浮かんでいた疑念へ
カーカスはようやく確信を得ていた。

「マカフィー! どこだよ、おいッ! オレだ、クラップだ! 聴こえてんだろ!? だったら返事しろよ! 
寝てんならとっと起きろよ! マカフィー………マカフィーッ!!」

 声を張り上げて“マカフィー”と叫ぶクラップであったが、暗闇の向こうから呼応の鳴き声が返ってくることはなかった。
 背中を追っている状態ゆえに確認までは出来ないものの、呼びかけへの応答がないことに焦れるクラップは、
今頃、口惜しげに歯軋りしているに違いない。
 ベテルギウスの身を案じるかのように眉間へ皺寄せるクラップの姿を瞼の裏に描くカーカスは、
それすらも材料として取り込んで分析と推論を進めていった。

(“いつものように”、ね。いつもは“マカフィー”って呼んだら寄って来るってワケかい。
それをあの緑髪は識っている。おそらくお嬢ちゃんもニワトリも識ってるんだろうな)


 カーカスの推論が核心に最接近した頃、一行はついにクラムボン・キャンプの深奥に位置する地底湖へと到達した。
 クラムボン・キャンプを横断する無数のトンネル内は、巨躯を誇るベテルギウスが掘り返した穴とは言え非常に空間の密度が濃く、
しかも外界から完全に遮断されている為に明かりらしい明かりが存在しなかった。
 有体に言えば、一寸先も見通せぬような真っ暗闇である。
 ライアン電機謹製のライトがなければ、走ることはおろか満足な歩行すら困難だったであろう。
 途中から全力疾走を余儀なくされた一行が躓きこそすれ大きな事故もなく悪路を渡れたのは、
アルフレッドとカッツェが夜なべして拵えたライトと、
その光源によって得られる恩恵を視界が届く範囲の隅々にまで行き渡らせることが可能なトンネル内の構造が合致したからに他ならない。
 密度の濃い空間ゆえにか細い光でも広範囲を照らすことが出来たのだ。これこそ僥倖と言う物である。

 しかし、クラムボン・キャンプ深奥の地底湖は、これまで通過してきたトンネルとは様相がまるで異なっていた。
 光だ。仄かな光が地底湖の所在する階層全体を包み込み、月夜のような明るさが一行の前に降り注いでいた。
 陽光に比べれば遥かに柔らかな明かりなのだが、
一行は、いつ電池が切れるとも知れないライトだけを頼りに長時間に亘って暗闇の中を彷徨っていたのだ。
眼が暗闇に慣れ切っていたところで明るい場所に急に飛び込んだカミュには、微かな光すら毒であったらしく、
思わずウッと呻いて立ちくらみを起こしてしまったほどである。

 階層全体を包み込む仄かに明るい光は、地底湖の底から水面へと至り、
そこから全方位に向かって輻射され続けていた。

 地底湖そのものは大した広さではなく、せいぜい溜め池と言った程度なのだが、深さだけは相当なものがありそうだ。
 深淵から水上までを一気に貫き通す光は、岩肌が直接露出しているだろう湖底の全体から発せられているように思える。
水圧にも水没にも強いライトが湖底に落下し、まるで助けを求めるかのように水上へと光を放ち続けている―――
そんなレベルのか細さではない。
 例えとしては極端かも知れないが、地底湖そのものが大きなスポットライトとなっているのだ。
楕円を描いているあたり、あながちスポットライトと言う例えも誤りではないかも知れない。
 いずれにしても鍾乳石を含む岩壁がライトアップされた様子は明媚の一言であった。
 成る程、ベルエィア山は鉱物を多分に含んでいる。発光性の鉱物が水底で露出している可能性は無きしもあらずだ。

 だが、危機的状況を迎えた現在、明媚な地底湖に見惚れ、溜め息を漏らす暇すら一行には許されなかった。
 暗闇のトンネルから急に明るい場所へ飛び込んだが為に動転してしまったカミュの眼が
地底湖より発せられる光にようやく慣れ始めた頃、階層全体を激震させるような悲鳴が上がった。

 悲鳴の主は、カミュだった。
 眩暈によって視覚の機能が乱れてしまったカミュは、一刻も早く自分の視界(せかい)へ彩(いろ)を取り戻そうと、
階層内を照らす光源である地底湖へと敢えて瞳を巡らせ、その光芒に慣れようと努めていた。
 その最中のことである。
 一時的に彩を失い、淀む視界の片隅にカミュは奇怪なオブジェを見つけた。
 堆く土が盛られた築山のようにも、巨大な果実の切り身のようにも見える不可思議なオブジェだった。
 そうして目を凝らしている内、徐々にではあるが視界へ彩が蘇っていく。視覚の機能が元の状態へと戻っていく。
 視覚の機能が回復するにつれて輪郭程度しか見えなかったオブジェの正体も判別できるようになり、
それが為にカミュは金切り声を張り上げてしまったのだ。

 カミュの視線が向かう先を辿れば、そこには大きな大きなモグラが―――ベテルギウスの巨躯が在った。

 半身を地底湖へ浸すような恰好で横たわるベテルギウスを発見したのは、
実はカミュよりもクラップやフィーナのほうが先であったのだが、
ふたりは地底湖の階層へ到着してからと言うもの、驚愕に目を見開いたまま硬直してしまっていた。
 ムルグから事前に報告を受けて気構えをしていたとは言え、
やはり実際に目の当たりにすると心が揺さぶられるのだろう。

 カミュの悲鳴によって意識が現実へと引き戻され、ようやっと硬直が解けたクラップは、
先んじて飛んでいったムルグの残像を追うように地面を蹴った。
 動揺からの回復に時間を要し、やや出遅れてしまったフィーナもすぐさまにベテルギウスのもとへ駆け寄っていく。
 まるでキズの入ったレコード盤のように“マカフィー”とだけ連呼し続けるクラップたちは
完全に動揺…いや、狼狽し切っており、正常な“診断”を下すのは極めて難しいように見えた。
 その取り乱し様を見兼ねたカーカスは、グリーニャの人々と“マカフィー”との関係性を探る推理を一時中断し、
ふたりと一羽に倣う形でベテルギウスの容態を確かめに向かった。

 「獣医じゃねーから期待はするんじゃねぇぞ」とわざとらしく前置きをしてはみたものの、
心を揺さぶられて正常な判断を欠いてしまうような主観的立場のクラップたちと比すれば、
客観的な視点でもってフラットな“診断”を下せるだろうとの自負がカーカスにはあった。

「獣医じゃねーっつったって………あんた、クリッターのことなんてわかんのか?」
「家庭に一冊の医学書レベルの知識しかねぇけどな、前にクリッターのリサーチ特集を組んだことがあるんだよ。
昔取った杵柄ってワケじゃねぇが、ド素人よりは役に立つんじゃねぇかな」
「そんなことねーよ! 今はあんたしか頼れる人間がいねーんだって!」
「あ? ………そう…か? おめーらはどうなんだよ。こいつとは親しいんだろ? 
おれなんかよりずっとこいつのこと、わかってんじゃねぇの?」
「親しいとかそうじゃねーとか関係あるかよ。………マカフィーを頼めるのはあんたしかいねぇんだっ」
「んー………、まぁよ、やれることはやってみるがよ」

 ほんの少しだけ皮肉を織り交ぜつつ、もったいぶるような物言いでクラップを挑発するカーカスだったが、
当人は自分たちが茶化されているとは少しも気付いていない。
 と言うよりも、彼らにとっては“マカフィー”の容態のほうが遥かに深刻で、余計な気を回せる余裕が皆無なのだ。

 倒れ込んだまま動かなくなっているマカフィーの容態こそが彼らの最優先事項であり、
このクリッターを助けられるなら藁にも縋りたい心持なのである。
 あれだけ負けん気を尖らせ、何度となく張り合ってきたクラップがベテルギウスの登場によって豹変し、
カーカスから発せられる言葉の数々へ神妙な態度で頷くようになったのも、
マカフィーを救いたいと言う願いの為せる業であった。
 半ばケンカ友達のような関係へ発展しつつあったカーカスには、しおらしいクラップなどは拍子抜けも良いところなのだろが、
そうなる程に彼がマカフィーの身を案じていることは理解できたし、苦痛に歪んだ表情は彼の必死な思いを端的に表していた。

 そのような姿を見せ付けられては、“診断”を下すべき立場にあるカーカスとしても
なお一層の気合いを入れなければならなくなる。
 クラップたちの期待を背に感じながらおもむろに腕まくりしたカーカスは、モグラ型のクリッターへとそっと手を翳した。

 クリッターの中には表皮へ体毛が生えた動物に近いタイプも存在する。
とは言え、あくまでも“近い”だけであり、種として異なる動物とクリッターが同系の肉体を有しているわけではない。
 文字通りの薄皮一枚を隔てた先には、電気信号を全身へ送る為のケーブルや
体液代わりのオイルが流れるチューブが幾重にも走っている。
 ケーブルを辿れば電子頭脳に、チューブを手繰れば循環装置にそれぞれ行き当たる。
循環装置のすぐ近くではクリッターの心臓とも言うべきリアクターが休む間もなく稼動しているのだ。
 その最奥にあって肉体を支えるのは生体金属の骨格であった。

 これらは典型的なクリッターの例であるが、種によっては擬似的な筋肉を有し、
機械獣と言うよりも生体へカテゴライズすべき特殊なパターンも確認されている。
 ベテルギウスもその一例の中に数えられていた。
 全身の数割を機械から程遠い擬似筋肉で固めている為、脈拍のカウントや体温を測ると言った、
生体に対するのと同じ“診断”を行うことが可能だった。

 尤も、“マカフィー”に限って言えば、大仰に“診断”などと構える必要もなかったようだ。
 寝息でも立てるようにベテルギウスの上体は規則正しく動いており、素人目にも命に別状がないと理解できた。
 全身くまなく舐めるように観察したものの、どこにも損壊された箇所は見当たらない。
カーカスの目にはベテルギウスが半身浴のまま昼寝してしまったようにしか見えなかった。

 決して苦悶している様子ではなく、至って安らかなペースで身体を上下させており、
単に眠りこけているだけだと判ろう筈だ…が、それを狼狽する人々に求めるのは酷と言うものだ。
 動転した目に平静の判断力が働かないのは無理からぬ話である。

 呆れのため息を引き摺りながらクラップたちへと向き直ったカーカスは、
不安げな表情を浮かべる面々へどう診断結果を切り出そうかと思案していたのだが、
一同の顔を見回す最中に目端で驚くべきものを捉えてしまった。
 小さく細い鉄の串がベテルギウスの背中に刺さっているではないか。
 あまりにも自己主張の弱い物体だった為、ベテルギウスの背中から張り出したパーツと誤り、
看過してしまっていたのだが、改めて目を凝らせば、
成る程、本来在るべきものには覚えることのない違和がその鉄串には感じられた。
 体毛に覆われず剥き出しになっている部分も、そこへ突き立てられた鉄串も
同じように金属製の光沢を放ってはいるのだが、材質の違いは明らかである。
 注意していなければ判別ができないほどの微かな違いを精確に見分けられたのは、
カーカスの鋭い洞察力が為せる技と言えよう。

「コ、コカ?」
「カ、カーカスさん? ちょっと…どうしたんですか? マカフィーに何が………」

 ベテルギウスを診ていたカーカスの面持ちへ突如して緊迫の色が浮かんだのだ。
その様子を見てクラップたちが不安に駆られたのは言うまでもない。
 何事かあったのか…とカーカスが凝視する先へ瞳を巡らせたクラップは、そこに件の鉄の串を発見し、
それが為に息を飲んで絶句した。

「………俺はてっきり昼寝でもしてんのかと思っていたんだがよ、
こんな物騒なもんがブッ刺さってるってことは………」
「ああ、………ハッキリしたぜ。マカフィーは誰かにやられたんだ………ッ!」
「コイツが地上に出てから俺たちが地下に辿り着くまで…その間に悪さを出来るヤツと言えば―――」

 ―――ふたりの間で交わされる会話が核心へと迫ったその瞬間(とき)のことだった。

「――――――ッ!?」

 会話の途絶を図ったかのようなタイミングで、一陣の烈風がクラップとカーカスの間を吹き抜けた。
 地下の洞窟内へ風が吹き込むとは考えられない。何者かが意図的に起こした烈風(もの)と見て間違いなかろう。
 そう結論に至った瞬間、フィーナたちはそれぞれのトラウムは一斉に発動させ、
周囲へ極限的な警戒を張り巡らせた。
 地底湖の底から輻射される光によってトンネル内よりは数段明るくなってはいるものの、
四方八方の視界が劣悪なことは依然として変わっていない。
 奇襲を仕掛けるには好都合なポイントと言えよう。それはつまり、防ぐ側の絶対的な不利を意味していた。

「………コカ! ケェッ!」

 身の震える思いで周辺の状況を確かめるフィーナたちであったが、
先ほどの一回きりで烈風は止み、皆の頬を再び撫でるようなことはなかった。
 烈風の代わりに一行の頭上へ降り注いだのは、明確な怒気と殺気を孕んだムルグの鳴き声である。
 驚きに見開かれた目でもって鳴き声のした頭上を窺うと、
果たしてそこには、片方の翼を折り曲げて握り拳を作っているムルグの姿があった。

 構造的に鳥のそれと変わらない筈の骨格でどのように拳を握ったのかも不思議なのだが、
それ以上に一行を驚かせたのは、握り拳を作る為に片方の翼のみでホバリングをしている点だ。
 「いつ見ても器用と思うんだけど…あれって実際にはどーやってんの?」とはカミュの呟きだが、
片翼のみでの揚力維持は物理的には不可能であり、器用の一言では片付けられないことだった。

「そこに誰かいるの? 何と戦うつもりなの、ムルグっ?」

 ―――フィーナが喉奥より搾り出した擦れ声は、緩みかけた緊張感を引き締めるには十分だった。
 今はムルグの不思議――むしろ、ブラックボックス的な何か――を考察している場合ではない。
握り拳を突き出した彼女が何を行ったのかに注目すべきなのだ。
 ムルグの眼下には、ベテルギウスに突き立てられているのと全く同じ鉄の串が二本ばかり転がっていた。

 この階層へ入った途端、横臥するベテルギウスが目に飛び込んできた為、
グリーニャの面々は前後不覚へ陥るくらいひどく取り乱してしまったのだが、
マカフィーと縁の浅いふたりは、驚きこそすれ狼狽するようなことはなかった。
むしろ、カミュはベテルギウスの横臥よりも視覚の動転のほうに難儀したくらいだった。
 しかし、それも一瞬のことで、視界に彩(いろ)が戻り、ベテルギウスと遭遇した動揺が収まってからは、
グリーニャの面々より遥かに冷静に周囲の状況を見極められていた。
 だからこそ言えるのだ。
 ムルグの眼下に転がっている二本の鉄の串は、ほんの数分前まではそこにはなかった筈だ、と。
 まるで手品のように、気付いたときにはそこに転がっていた―――カミュにはそうとしか言いようがなかった。

 鉄の串を眼下に睥睨するムルグは、地底湖を隔てた闇の先をジッと睨み据えたまま、重低な唸り声を上げ続けている。
 いつの間にやら握り拳を腰だめ――あえてそう形容する――に構え直していた。

「カーカスさんよ、こんなもんを撃ち出す武器なんて聞いたことがあるかい?」
「おめーが知らねーだけで世の中には物騒なもんはいくらでもあるんだよ。
………ボウガンよりも矢が短く小さい………こいつは武器っつーか暗器の類だな」
「暗殺御用達ってかぁ? ………田舎町には似つかわしくねーもんが飛び出したな、オイ」

 改めて質すまでもなく、誰もが事態を理解していた。
 鉄の串は何者かが射出した武器(もの)であり、ベテルギウスに続いて自分たちを狙って放たれた二発目を
ムルグは握り拳でもって撃墜していたわけである。

「コココ…コココ…コーココケ………ケコケーコケコッコ………ッ!!」
「………やっぱりそうなんだ………自分たち以外の気配を感じたと思ったら、
いきなりそれが殺気に変わったってムルグは言ってるよ」
「鉄の串みてーなのはそいつが投げてきたってことかよ。投げたのか、撃ってきたのか知らねーけどよ。
やっぱりボウガンみてぇなもんか?」
「そこまではわからなかったみたいだけど、クラ君の予想は、案外、当たっているかもね。
鉄の串が飛んでくる直前、バネがボヨ〜ンってなるような音がしたんだって」
「ボヨ〜ンなんて音を出すマヌケなもんにやられたんじゃ笑い話にもならねぇぜ。
………ま、これでハッキリしたじゃねーか。消しちまいたいくらいに
オレらを邪魔だって思ってるヤロウがいるってな」
「コカッ!」

 ムルグの嘴から漏れ出す低い呻き声は、どうやら明確に言葉を紡いでいたようだ。
それに感づいたフィーナは、仲間たちにも解るようパートナーの弁を要約し、翻訳していった。

「―――訂正して貰おうか。我々は貴様らが目障りであっても邪魔などと思ったことはないぞ。
何しろ、貴様らにはこれから存分に働いて貰わねばならんのだからなぁ………!」

 フィーナたちの会話に下卑た笑い声が割り込んできたのは、
ムルグが「そこまで来ていやがる。顔を確認したらソッコーでブチ殺せ!」と高く嘶いたのと殆ど同時だった。

 身震いするほど醜悪な高笑いに阻害されてフィーナたちの会話は途絶えてしまったのだが、
ふたりの間に土足で割り込んだ上、不躾にもイニシアチブを強奪したダミ声の主は、
「そうは言っても、用があるのは貴様らの死体なのだがな」と意気軒昂な調子だ。
 その脂ぎった声に聞き覚えのあるフィーナたちは、皆、面に憤怒の相を浮かび上がらせていった。

「しかし、仕留め損なうとは思わなんだぞ、ヒックス。これは減俸も考えねばならぬなァ」
「私のトラウムでは動物の本能に勝てなかったようですな。動物は人間よりも感覚が優れているそうですから」

 永い年月をかけて完成された、大きな大きな鍾乳石の柱の陰からふたり分の声が聞こえてくる。
 湖から溢れ出す光を真正面に受けているせいか、影の濃さが他の場所よりも一層強くなっており、
柱の裏側へ身を潜められてしまうと何者が潜んでいるのかを見通すのは極めて難しそうだ。
 身を潜めておくにはうってつけの場所であるが、そこから姿を現したと言うことは、
つまり柱の陰に隠れている理由が無くなった、と言うことであろう。
 影へ潜むのに飽いたのか、あるいは開き直ったのか、若しくは撃って出る算段をつけたのか―――
いずれにせよ、ダミ声の主とその取り巻きが先ほどから論じているのは、
フィーナとクラップの間で行われていたそれとは比べ物にならないような悪巧みであった。

 鍾乳石の柱の陰より姿を現した二人組に対し、フィーナたちが意外に感じるものは何一つなかった。
 無遠慮なほど喧しいダミ声を耳にした瞬間―――否、もっと前からいずれ対峙するものと予想はついており、
やはり現れたかと得心するのみである。

「ほう…? もう少し驚いてくれると思っていたのだがな。それとも最初からお見通しであったか?」
「どのクチが言いやがるんだ、クソジジィ。ヒーコラしながらやって来てみりゃ、マカフィーがやられていやがった。
やられちゃいたが、ウワサのクリッターハンターのやり口とは思えねぇ。
………だったら答えは一つだ。てめぇら以外に誰がいるってんだよ」
「ただのうるせぇジジィだと思ってたがよ、てめぇ、随分と足腰強ぇじゃねーか。
ビックリジィさんコンテストでも企画してやろうか? 体力勝負のヤツな。トライアスロンでもやってみっか?」
「それもテレビ業界の慣わしか? いちいち捻りの効いたことを言う。………別の道を使ったに決まっておろうが。
貴様らヒヨッコには体力しかあるまいが、ワシらには知恵と言うものがあるのよ、知恵がな。
汗水を垂らしておるうちは半人前よ」
「………町長さんって、カンニングしても開き直るタイプでしょ。物は使いようとか何とか言ってさ」
「フィーちゃん、鋭いね。ぼくもマスターに訊いたクチだけど、このジジィ、学校の成績だけは良かったんだって。
あくまで“成績だけ”ね。実際に仕事させたら、何にも知らなくて、そりゃもう目の当てられなかったってハナシだよ」
「それで町長なんて務まるの? グリーニャの村長も、結構、アレではあるけどさ………」
「お金だけは持ってたから、この人。大地主だったしね」
「ああー、そう言う………」
「だ、だだ、黙らっしゃいッ!! 学校は首席で卒業(で)ておるわァッ!!」
「だから“成績だけ”なんだろ。早速、自爆してんじゃねぇか」
「黙っとれ、緑カビッ!」

 現れた二人組―――ガウニー町長とヒックスは、口ぶりから察するに先回りしてこの階層に隠れていたようだ。
一行が必ず地底湖まで辿り着くと踏み、件の柱の陰に潜んでじっと待っていたのだろう。
 涙ぐましいまでの地道な努力であった…が、どうにも計画性に乏しい行き当たりばったりの行動に見えて仕方がなく、
カミュに指摘された浅慮が顕れていると言えよう。

「半信半疑でいたのだが、まさか本当にこの化け物を飼い慣らすとはなァ。
そして、こうもうまく計画(こと)が運ぶのが我ながら怖くなる」
「計画ゥ? そう言や、さっき何かぶっこいてやがったな。オレらの死体に用があるとかどうとか。
頭の悪さに続いて、変態趣味まで暴露しようってのかァ?」
「いちいち阿呆なほうに持っていくでないわ! 貴様のその頭髪の色は! 脳に生えたカビから染み出しとるのかァ!」
「じゃあ、なんだっつーんだよ。死体集めてオバケ屋敷でも作る気か」
「フ、フンッ―――そうやって軽口叩いておれるのも今だけよ。貴様らはワシの踏み台になるのだからな!
貴様らが働いた不遜の分だけ、ワシの踏みしめる力が強くなると知れィッ!」

 フィーナたちの口撃によって些か毀損された感のある威厳を取り戻そうとでも言うのか、
ガウニーの態度はいつにも増して鷹揚である―――

「こいつの頭がカビだらけってのは誰もが知ってるがねぇ、あんたの場合はサビだらけじゃねーのか? 
どうなんだい、町長さんよ。………俺たちの死体を、誰がどう見つけるってんだ? 
そうそうてめぇの都合よくなんか行かねーと思うぜ?」
「はァ!? 話が飛び過ぎで意味わかんねぇよ! 死体の発見者ァ!? いきなり殺人事件かよ!?」
「ぎゃーぎゃー言ってねぇで、少しは考えろっつの。カビを落とさなきゃ考える力も出ないんか、てめーは」
「―――ンだとぉ!?」
「ベテルギウスに、てめぇの大好きなマカフィーを利用しようとしてんじゃねーのか、コイツら!」
「利用って、………何ィ?」
「発掘開始の当日にベテルギウスが出現した―――コレが偶然か、作為的かはわからねぇから一先ず置いとくがな、
そこから先を思い出してみろよ」
「思い出してみろっつったって―――社長ンとこに怒鳴り込んできて、発掘失敗をなすり付けようとした。
お次はなんだ、発掘予定地を閉鎖して、クリッターハンターを手配して―――次はなんだっけ? 
………次で来るんだな、有害な物質をアシュレイが持ち込もうとしたって話がよ」
「てめぇらがアッシュに濡れ衣を着せようとしてるのは明白だ。一体何の罪かはわからねぇがな。
次はベテルギウスだ。ここで俺たちの死体が見つかれば、当然、ベテルギウスが犯人と見なされる」
「怒りはマカフィーに向けられる。そこでクリッターハンターたちの出番だ。
犯人さえ殺っちまえば、オレらが何でここまでやって来たのかを調べる人間もいなくなるだろうな。
被疑者死亡のまま解決、みたいなもんか」
「民間人を殺したベテルギウス。そのベテルギウスが出現するきっかけを作ったアシュレイ社長。
………社長はますます立場が悪くなるぜ。誰も言い分へ耳を貸さなくなるくらいにな」
「濡れ衣作戦成功ってワケか―――………ケッ、みみっちい悪巧みしやがって!」

 ―――鷹揚であった分だけ、置いてけぼりにされた際の滑稽さも増すと言うものだ。
 彼自身の発した言葉を借りるなら、まさしく踏み台にされたに等しかった。それも、力一杯踏みしめられて、だ。

 さも自分の計画を誇るように胸を反り返らせたガウニーであったが、
クラップとカーカスは彼を隅に置いてふたりだけで論議を重ねていく。
 ディスカッションさながらに議論を重ねるふたりの目には既にガウニーなど映ってはおらず、
議論の要旨を占めているにも関わらず、当人の存在感は置物以下であった。
 少しずつ核心へと近付いていくクラップとカーカスの議論へ耳を傾けるフィーナたちもガウニーに対する扱いは同じだ。
人一倍自己主張の激しいふてぶてしい面を、今は目端にすら入れてはいなかった。

 議論の要旨でありながら本人が隅に置かれている状況は、滑稽と言うよりも、あまりにも侘しい。
 せめて、ヒックスだけは…と期待を込めて振り返ったガウニーであったが、
忠実な筈の秘書すら彼のことを見てはおらず、クラップとカーカスへ視線を向けたまま微動だにしていない。
 無論、ヒックスはクラップたちの交わす議論の内容を危ぶみ、注意・警戒をしていたのだが、
ガウニーはこれを黙殺されたものと捉えたようだ。
 秘書にまで無視されたことが相当に堪えたのだろうか、ガウニーにしては珍しく弱々しげに肩を落としている。

「カビのほうがサビより一枚上手だったな、クソ町長。オレの緑髪はダテじゃねぇんだよ!」
「カビってのはチーズを発酵させたりと生活の役立つからな。朽ちていくだけのサビとは違うさ」
「ク…クク…クハハ………クハァーッハッハッハハハハハァァァァ―――説明ありがとうッ!! 
貴様らがベテルギウスの後を追ったときはどうなるかと思ったがァッ! 
………私は実に良い秘書を持ってねェ―――ヒックスが窮地を好機に変えたのだよッ!!
貴様らがベテルギウスを追ったことが、まさか僥倖に変わるとはなァッ!!」

 ふたりのディスカッションが一段落し、ようやく自分の出番が回ってきたことが嬉しくて仕方がないらしいガウニーは、
これまでの劣勢を挽回し、存在感をアピールするかのように殊更大きな声を張り上げた。
 声が裏返るほど気合いを入れているのは良いものの、惜しむらくは、挽回すべき劣勢を履き違えている点であろう。
 ガウニーは自身の存在の軽さに危機感を覚えているようだが、
本来はクラップたちによって暴かれつつある悪巧みのほうこそ言い繕うべきなのだ。
 ゴマ擦りのつもりらしく忠実な秘書に対する賞賛をさりげなく織り込んでいたが、
当のヒックスはガウニーの勘違いぶりに呆れ果て、眉間に深い皺を寄せている。

 過剰なオーバーアクションに論旨の誤解まで加わっては、
風格を醸し出すどころか、逆に小物臭さが際立ってしまうと言うもの。完全なる裏目であった。
 「貴様らの亡骸は、ベテルギウスを仕留めにきたハンターのチームにでも見つけさせればいい。
貴様がこいつにやられたと言う事実さえあればいいのだからな」となおも不遜な態度を崩さないガウニーだが、
彼のことを睥睨するヒックスの目は冷め切っており、瞳の奥には侮蔑の念すら窺えた。

 フィーナたちもガウニーのことは物の数にも入れていないのだが、それは直接戦闘に限ってである。
 事態を収束させる為にもガウニーの身柄確保は最優先事項なのだが、
差しあたって厄介なのは、むしろヒックスのほうであった。

 ヒックスの右手には、小型拳銃と思しき武器が握られている。
 小型拳銃だと確定し得ないのは、銃口の部分から鉄の杭の先端と思しき物が飛び出しているが為だ。
頭を出した先端は、ムルグが握り拳でもって叩き落とした鉄の串のそれと全く同じ形状である。
 それはつまり、ベテルギウスの背に鉄の串を突き立てた犯人がヒックスであることをも意味していた。

「ピンチになったら目を覚まして助けてくれるとか、そんな展開なんて無いもんかなぁ………」

 一行の窮地など別次元の出来事のように暢気に寝息を立てるベテルギウスを一瞥しながらカミュはそう弱音を漏らした。
 主人公たちが絶体絶命のピンチに陥ったとき、やられていた仲間が復活して助けてくれると言うのは、
漫画や小説では王道的な展開であるが、現実はそう甘くはない。
 ご都合主義に満ちた物語の世界であれば、そろそろ覚醒の予兆でも見せるところなのだが、
半身を水に浸しながら横臥するベテルギウスは、カミュの呟きにも反応一つ示してはくれなかった。

 カミュが弱音を漏らし、夢物語のような展開に助けを求めてしまうのも無理からぬ話ではあるのだ。
 反射的にそれぞれのトラウムを発動させた―――とは前述したのだが、
クラップは懐中電灯、カーカスはフォグマシーンといずれも戦闘には全く不向きな物ばかりであり、
構えたところで威嚇にもなるまい。
 カミュに至っては、シルクハットから判定用のプラカードが飛び出すタイプのウソ発見器。
戦いようがなかった。

 唯一の例外はフィーナの持つリボルバー拳銃『SA2アンヘルチャント』だが、
しかし、フィーナには実戦経験がなく、それどころか射撃訓練すら受けたこともない。
 人を傷つけることを何よりも嫌うフィーナにとってリボルバー拳銃のトラウムとは、
具現化させてしまったことを嘆き哀しむ、言わば呪いの全てなのだ。
 危難に即する防衛本能に従い、反射的に発動させてしまったものの、
トリガーを引くどころか、撃鉄を起こすことさえフィーナは忌避している。
 つまるところ、四人が四人、まともな戦闘手段を持っていないのに等しかった。

「今更怖がらせたところで何の得にもなるまい。使い道は決まっておるのだ、そろそろ始末してしまえ」
「………かしこまりました」

 ガウニーがヒックスに命じたのは、言わずもがな抹殺指令である。
 一行の死そのものにこそ使い道があると宣言が為された以上、
得物を構えるヒックスに容赦や手加減を期待するのは無意味であろう。
 フィーナとヒックスは、得物の違いこそあれ共にトリガーへ指をかけた状態でいるのだが、
片方の指先は恐怖に震え、対峙する側の指先は明確な殺意が漲っていた。
 正反対なのは銃口の向きにも言える。
 人を傷つけることを最も忌避するフィーナが銃口を下方へ向けているのに対して
ヒックスは迷うことなく一行に狙いを定めていた。
 一行の中で最も戦闘能力に乏しいと見られるカミュへとまず照準を合わせたあたりからもこの男の恐ろしさが透けて見える。
 あまりにも慣れた手付きだ。小型拳銃のようなその得物で人を撃ち殺すのは、
おそらくはこれが初めてではあるまい。

「コカ………――――――」

 足手まといの一言で切って捨てるのは慙愧の念に耐えないところだが、
実際問題、フィーナのように強力な攻撃手段を有していない以上、
この中の誰よりもカミュが戦いに不向きであると見なされるのは当然の流れであろう。
 華奢な体つきと言うことであれば、フィーナの線のほうが更に細い。
 フィジカルな強さではカミュに軍配が上がるだろうが、
彼女にはそれを補うだけの武器が、リボルバー拳銃のトラウムがある。
 実際にトリガーを引けるか否かは別としてもリボルバー自体は非常に強力な戦闘手段である。
かたやカミュはシルクハット型のウソ発見器。どう贔屓目に見ても戦闘用ではなかった。
 総体で評価を下す場合、明らかにカミュのほうが弱卒だった。
 そして、弱卒から駆逐していくのが戦闘の常識でもあった。

 こうなるとムルグに打てる手はひとつだけだ。
 機先を制して飛び出し、ヒックスを秒殺する―――敵の得物が撃発されるより数段早く懐へと潜り込み、
その喉笛を掻っ切ることが出来れば、あるいはこの場にて決着をつけられるかも知れない。

 尤も、狙いを喉笛だけに絞る必要もなかった。眉間を貫いても、腹をブチ抜いても良い。
 要はフィーナたちに危害が加えられる未然にガウニーとヒックスを撃破出来れば良いのだ。

「………コ? ケ?」

 手始めに凶器を構えるヒックスから始末すべく臨戦態勢を取るムルグであったが、
その間際、眼下に見える地底湖の水面が異変を生じつつあることに気付いた。
 波である。地底湖の水面へ緩やかながら波紋が立っているのだ。風のないこの洞窟内で、だ。
 ホバリング状態を維持するムルグも僅かに風を起こしてはいるものの、
さりとて水上にて浮揚しているわけではなく、直下でもなければ彼女の羽撃きが湖へ影響を及ぼすとは考えられない。
 半身を湖水に沈めたまま眠り続けているベテルギウスの寝息か、
あるいは身体の細微な振動が原因だと考えられなくもないのだが、
水面に立つ波は、その巨体の横たわる位置からだいぶ離れた地点を中心として、
円を描くようにして湖全体へと広がっている。

 地震による揺れでもなければ波立つことなどまず在り得ない筈の地底湖なのだが、
現にその水面はゆらゆらと不可思議な紋様を作り続けている。
 ムルグはその不自然な波紋とヒックスとを交互に注視しながら次に打つべき手を模索していた。
 フィーナたちの身の安全の為にもヒックスとガウニーを一刻も早く片付けなければならないのだが、
地底湖に起こった不自然な波紋にも警戒を払う必要があるとムルグは判断している。
 あるいは、そこに敵の伏兵が潜んでいるやも知れないのだ。

「………コォォォォォォ―――」

 しばしの逡巡を経て、再び攻撃態勢に入ったムルグは、今度こそ躊躇なくヒックス目掛けて鋭角に滑空していった。
 先手必勝を期して速攻を仕掛けるに至ったのは、湖中に鈍い灰色のような輝きを見つけたからだ。
 湖に落とした銀貨が光を反射している―――注視していなければ見落としてしまう程の微かな輝きではあったが、
ムルグが攻撃開始のきっかけとするには、それだけで十分である。

「―――カァァァァァァァァァッ!!!!」
「むッ、こ、こいつ………!」

 流星さながらの鋭さで急降下したムルグは、クチバシでもってヒックスの心臓を狙う―――かに見せかけて
懐を撫でるように垂直に滑空し、虚を衝かれてたじろいだ彼の股の間を、喊声を上げながら潜り抜けた。
 股の間を潜ったムルグは即座に身を翻して急上昇し、まとわりつくようにヒックスの周りを飛び交う。
頭部近くを過ぎる際には、洞窟内を震わせるようなけたたましい鳴き声のおまけ付きだ。
 敵の注意を仲間から自分へと引きつける為の挑発行為にも見えるのだが、
果たしてムルグの狙った通り、ヒックスは集中力を乱されてしまっていた。

 ムルグがヒックスの翻弄に成功したのと地底湖に最大級の異変が起こったのは、殆ど同時であった。
 立て続けに襲ってくるムルグの奇行によってたじろいでしまったヒックスの目には捉えることすら叶わなかったようだが、
水面に立つ波が一層高くなった瞬間、間欠泉のような水しぶきが地底湖にて上がった。
 天井へ届かんばかりの高さにまで達した水しぶきは、呆気に取られるフィーナやガウニーへと通り雨を降り注がせた。
 ヒックスもまた頬と言わず上体と言わず、全身に通り雨を浴びたひとりであったが、
湖水の冷気に身震いした直後には、ここに至るまでの一連の異変を視認できなかったことを悔恨する羽目になる。

 顔面を濡らした湖水を袖口で拭い取るヒックスであったが、
状況を確かめようと目線を上げたときには、何者かの足の裏が視界一杯に迫ってきていた。

「―――なッ!?」

 フィーナやクラップが「アル」と叫ぶのを耳聡くも集音したヒックスは、
自身の視界を泥まみれのフィルターでもって遮断し、また、眉間と頚椎に激痛をもたらした真犯人を
正確に割り出していた。
 姿勢だけでなく意識までのけぞり、吹き飛ばされそうになるのを必死に堪えながらの推察である。
 このような状況下でよくぞ冷静な分析力を働かすことができたものだと
ヒックス自身が感心してしまうほどに強烈な力で眉間をブチ抜かれ、
頚椎もその動きと連動するかのように後方へと挫かれている。

 跳ね飛ばされて転げ回りそうになるのを、歯を食いしばって耐え抜いたヒックスは、
泥まみれのフィルターが外れたことによって正常の彩(いろ)を取り戻した視線を、
自分の眉間に尋常ならざる力を加えた真犯人へと巡らせた。

「逃げられると思ったのか、裁きの鉄槌から―――」

 ―――アルフレッドだ。

 どこからともなく姿を現したアルフレッドが、ヒックスに向かって正面から冷瞥を浴びせかけていた。
 彼も間欠泉が降らせた通り雨に直撃されたのだろう、体中に水を被っているのだが、
その濡れ方は尋常なものではない。
 他の面々のように衣服が湿り気を帯びるなどと言う生半可なものではなく、全身濡れ鼠と言った状態である。

 通り雨どころか、土砂降りに見舞われたような風体のアルフレッドではあるものの、
しかし、彼が濡れ鼠になった理由を質している暇はどこにもない。
 アルフレッド自身、フィーナたちから一斉に寄せられる視線を引き剥がすかのように濡れそぼった身体を鋭敏に動かし、
肉弾となってヒックスにぶつかっていった。

「何故貴様がそこにいるッ!? 貴様はアシュレイと………ッ!?」

 ガウニーから投げかけられた問いかけも、疾風となってヒックスに向かって行くアルフレッドの耳には入っていない。
 ………尤も、仮に聴こえていたとしても返答するつもりは無かろう。

「―――身をもって思い知れ………ッ!」

 アルフレッドが間合いを詰めにかかったことで己の窮地を見て取ったヒックスは、
すぐさまに迎撃の体勢を整えようと試みたのだが、得物を構え直したときには既に一撃目が鼻先にまで迫っていた。

 ガードを試みようにも先んじて手首を掴まれ捻られ、更に上腕を交差させるようにして肘が打ち込まれた。
 右手でヒックスの手首を引っ張り、空いた左の肘を横殴りにぶつけると言う荒業である。
 横っ面を抉る激痛に気を取られている内に今度は追撃の膝が鳩尾を強打した。
 ヒックスの鳩尾を貫いたのは右膝だ。
 足裏が地面を舐めると、自然、アルフレッドの右脚はヒックスの間合いへ一歩踏み込んだ恰好となる。
これを軸足にしてアルフレッドは更なるラッシュをヒックスへと叩き込んでいった。

 速射砲のようなスピードで左の拳をヒックスの鼻の下へ突き込み、
彼が怯んだと見るや、スナップを効かせた手の甲でこめかみの辺りを打ち据えた。
 手の甲を使った強撃…裏拳から続く手刀は頚椎へと振り落とされ、
それでもまだ倒れないヒックスに向かってアルフレッドはトドメの一撃を見舞った。
 胸元で水平に構えた腕を内側から外側へと勢いよく振り抜き、腰のひねりを加えた肘鉄砲を浴びせたのだ。
 しかも、裏拳で叩いたのと同じ箇所を狙った痛撃である。
 こめかみに被るダメージは、ダイレクトに脳へと衝撃が伝達される。
それを立て続けに二度も喰らっては、さしものヒックスも耐え切ることができず、
額に脂汗を浮かべながら苦悶の呻き声を上げた。

 文字通りに相手の出鼻を挫く初撃のジャブ、裏拳、トドメの手刀までを絶え間なく三連続で叩き込むラッシュ攻撃を、
アルフレッドは『バタフライストローク』と名付けていた。
 このバタフライストロークは、片手の振りのみで全ての打撃を終える為、体重を乗せての強打は望めない。
 最小限の身のこなしによって繰り出される三連発の速射砲だけに打撃の速度は電光石火であったが、
しかし、一撃必倒の重みまでは得られないのである。

 威力よりも速度を重視した技だけに三撃目の手刀まで打ち込んでもダウンを奪えない相手も当然現れる。
そうした手合いには、手刀からすぐさまに腕を引き、四撃目の肘鉄砲を加えるのだ。
 この肘鉄砲までセットにしたものについては、バタフライストロークではなくライトニングシフトと
名称にも変更がなされている。
 “電光石火の如き神速の変位”とは良く言ったもので、手刀から肘打ちに構え直すまでが凄まじく早い。
しかも、前方つまり肘を突き出す方向へ振り子の要領で全体重を傾ける為に威力も極めて高いのだ。
これはまさに一撃必倒の肘鉄砲である。

 手刀を水平に構えた状態からの打撃―――つまり内側から外側へと振り抜く肘鉄砲は、
喰らった相手を漏れなく悶絶させるほどの威力を秘めているのだが、
体勢を整え易いと言う点でも非常に大きなアドバンテージがあった。
 手刀の構えから水平に肘を旋輪させれば、自然、相手と正面から向き合う恰好になっているのだ。
 四撃全てがクリーンヒットしていれば、脳を揺さぶられて立っているのもままならないような状態の相手へ
万全の体勢で追撃を見舞うことができる。
 一方的なマッチメイクを演出することも可能になってしまうのだ。

 無論、その好機を逃すアルフレッドではない。
 遠心力と体重移動をたっぷり加えたライトニングシフトの直撃を被り、
今にもヒザをつきそうな状態のヒックスに対して、アルフレッドは容赦なくアッパーカットを叩き込んだ。
 下から一気に振り上げる拳でもって顎を跳ね飛ばされたヒックスは、もんどり打つように後方へと倒れ込んだ。

 ―――早い。背筋が凍りつくほど早い。
 シェルクザールの町中で対峙した時点からアルフレッドを手練と認め、
狼藉を働こうとした町民相手に繰り出された凄絶な蹴りを目の当たりにし、
その思いを一層強めたヒックスであったが、本気を出した彼の身のこなしは想定を遥かに上回っていた。
 しかも、達人級の技能をも兼ね備えている。
 おそらくガウニーの目には、膝蹴り以降のラッシュは、何が起きているのか全く確認出来ていないだろう。
現に、ぽかんと口を開け広げたまま、直立不動で立ち尽くしている。

 しかし、ヒックスとて雑魚ではない。
 アッパーカットで跳ね飛ばされながらも指先のみで得物を巧みに操り、アルフレッド目掛けて鉄の串を発射していた。
 当人の身体は後方へと吹っ飛ばされている最中である。言うまでも無く視認によって狙いを定めることは不可能だった。
それにも関わらず、鉄の串はアルフレッドの眉間を鋭角に狙っていた。
 ヒックスの反撃を察知したムルグが足の爪でもって鉄の串を掴んでくれていなければ、
今頃はアルフレッドの眉間に風穴一つ開いていたかも知れない。
 やぶれかぶれトリガーを引いたら、偶然、アルフレッドの眉間に狙いが定まった―――そんなことはまず有り得なかった。
 アルフレッドの立つ位置、自分が吹き飛ばされた地点の距離間を瞬時に把握し、計算出来る手練手管であればこそ、
このような無茶な芸当も実現可能となるのだ。

 鉄の串による奇襲がムルグに阻まれたと耳に聞く音のみで悟ったヒックスは、
地面についた片手を軸として身を翻し、即座に体勢を立て直した。
 改めてアルフレッドたちと向き合い、正面からこれを迎え撃とうと言うのだ…が、
この中で最強を誇るムルグを、その愛くるしい外見から単なる動物と見誤った時点で既に勝負は決していたかも知れない。
 自身の得物を巧みに使いこなすヒックスであったが、所詮は“手練手管止まり”と言うわけだ。

「舐めた真似をしてくれる。貴様、よほど死にたいらしいな」
「コォッカァァァァァァァァァッ!!!!」
「な、なァッ!?」

 並走してヒックスのもとへと急接近したアルフレッドとムルグは、
鼻先スレスレでいきなり横へと跳ね飛び、打ち込みが来ると予測して身構える彼の虚を衝いた。
 まんまと翻弄されたヒックスの足元を脅かすのはアルフレッドである。
 素早くヒックスの背面へと回り込んだアルフレッドは、彼の膝裏を思い切り蹴りつけ、
せっかく立て直したばかりの体勢を一瞬にして崩した。
 関節の裏側から強い力が掛けられては抗うことも出来ない。
 アッと小さく声を上げるヒックスであったが、その悲鳴すらも途中で遮断されてしまった。
 膝をついて前のめりに倒れかけたヒックスの顔面をムルグが足の爪でもって掴み、
球体を握り潰すかのように締め上げ始めたのだ。

 全長三十センチ少々と言うムルグの足は、お世辞にも大きいとは言えないものの、
そこに漲る握力はアルフレッドのそれを容易く凌駕している。
 アルフレッドとて握力は人並み以上に強い…が、対するムルグは岩石をも平然と粉砕するような握力の持ち主である。
そのような怪力でもって締め上げられては、どんな屈強の戦士でも一たまりもあるまい。

「うがっ…が…ッ、あッ………、うぐォ………はがぁ………ッ!」

 ムルグは二本の小さな足をこめかみあたりに引っ掛けて締め上げに掛かっているのだが、
ヒックスの顔面は既に流血で濡れそぼっていた。
 締め上げられた顔面には無数の血管が浮き上がり、今にも破裂しそうなくらいに膨張している。
 何者をも超越する怪力によって締め上げられるヒックスの爪先は、地面から完全に離れていた。

「―――あ………っ!?」
「どこを見ている、阿呆が」

 いよいよ身動きが取れなくなり、足をバタつかせてもがき苦しんでいたヒックスの爪先が再び地面と接したのは、
一切の慈悲なく加えられる圧によって意識が握り潰される瀬戸際のことだった。
 ようやく確かな足場を得たヒックスであったが、顔面からムルグの爪が離れたときには、
アルフレッドの『パルチザン』が、彼が最も得意とする後ろ回し蹴りが顎の端にまで達しようとしていた。




←BACK ・ 番外編トップへ戻る ・ NEXT→