その日、【ケーリュイケオン】の混乱は頂点を極めたといっても過言ではない。
廊下には殺気を漲らせるマント姿の一団が跋扈し、
【サミット】の会場には【フォルセナ】を焼き討ちにした漆黒の死神が屹立。
更にはホークアイの暗躍とそれに付帯される【鳳天舞】との死闘が加わり、
【三界同盟】の残党である道化師までもが姿を現した。
数え切れないほどの事件が、脅威が、【ケーリュイケオン】を舞台に唸りを上げて逆巻いていた。


「結論から述べさせていただく。
 旧態依然と【アルテナ】と【女神・イシュタル】の呪縛を受けたままでは、
 遠からず人類は滅亡するッ!!」


唸りを上げて………とはいささか過剰な表現だろうか? 
しかし、【サミット】へ重要証人として召喚されたロキの宣言は、
【フォルセナ】襲撃という目に見える脅威を伴っていただけに列席者の怯えを大いに煽り、
死神の動向と【マナ】への恐怖が会場全体に逆巻いた。
過剰ではない。極めてラディカルな危機として、人々へ逼迫しているのだ。


「ロキ・ザファータキエ君。
 貴方が滅亡を主張する背景を説明していただけますか」
「………よろしい」


喚問を行うナイトハルトと肩を並べたロキは、
歪んだ表情を収め、冷めた瞳で自分の背中を見つめる息子の視線に気付く事なく、
【アルテナ】とフェアリーを朗々たる大音声で糾弾すればするほど、
息子の視線から感情が削ぎ落とされていく事にも気付く事なく、
【イシュタリアス】に秘匿された謎を次々と暴き立てていった。


「今から十年前の事になる。
 私は【アルテナ】の命によってある民族の集落を攻め滅ぼした。
 ………お歴々の記憶にも新しい事だろう。
 そうだ、世に言う【ローラント】征伐の先陣を私は務めたのだ」
「【ローラント】と言えば太古の昔、
 滅びの種子と恐れられた【禁咒】を封印する民族の秘境ですね」
「【禁咒】とはいわば旧時代の隠し名。いまさら取り繕う必要もあるまい。
 【ローラント】が封じた滅びの種子のまことの名は【マナ】ッ!!
 そう、【女神】の創造した穢れの世界を駆逐する新世界の萌芽であるッ!!」


【マナ】―――【フォルセナ】襲撃を通じて殺戮の超常兵器と認識された
その単語がロキの口から語られた瞬間、会場中に動揺が走った。


「うえぇ!? ウチのご先祖が後生大事に護ってきたのって【マナ】だったのかよ!!」
「まさか、【ローラント】の末裔が、この事実を知らなかったのか?」
「知るもんか!! 初耳だよッ!!」


エリオットが【禁咒】の正体を知らずにいた理由は、
以前に【エルヴンセイファート】で語られた通りだが、
どうやらロキは封印者の末裔よりも【ローラント】の【マナ】について知識造詣が深いらしい。


「【ローラント】最後の族長、ジョスター・アークウィンド氏は
 首を討たれる間際、私にこう言い遺して果てられた。
 『夢想よりも遥かに喜びの苑へ広がる、
 まことの【未来享受原理】を無明なる双眸に焼き付けよッ!!』…と」
「まことの【未来享受原理】…とは?」
「【アルテナ】が征伐の大義名分に掲げた【禁咒】…【マナ】よ。
 彼の者は炎に包まれる神殿の最奥に【聖域(アジール)】への活路を拓き、私を導いた。
 まことの【未来享受原理】に刮目せよ、とな」
「その【聖域(アジール)】というのが、喜びの苑というわけですか?」
「―――――――――否ッ!!!!」


今の流れでは、【聖域(アジール)】とやらが“喜びの苑”であると
暗に説明しているかのような口ぶりだったが、語気荒く否定するあたり、
ナイトハルトの見当は全くの藪睨みだったようだ(あるいはこの見当違いさえも
ロキの発言を際立たせるためのシナリオなのかも知れないが)。


「そこにあったのは喜びとは真逆の原野!!
 【ローラント】の地底深くに広がるのは絶望の都なのだッ!!」


熱弁に意気込む余り机を激しく殴ったロキの拳に呼応して、
無数の【映像投射光板(デジタル・ウィンドウ)】が会場内へ一斉に表示された。
列席者一人ひとりの目の前に現れたそれには、
過去1,000年分の【イシュタリアス】を捉えた衛星の観測データの他、
異質なビル郡、前衛的な風俗、ハイテクゆえに凄絶な戦争といった
【旧人類(ルーインド・サピエンス)】時代のフォトグラフが映し出され、
初めて【マナ】の威力を目の当たりにする首脳陣を釘付けにする。
デュランたちには見覚えのある【映像投射光板(デジタル・ウィンドウ)】だが、
人々のショックは計り知れず、また、表示された内容とあいまって、
どよめきはいつまでも止みそうにない。


「【聖域(アジール)】とは、その名の通り【マナ】の聖地。
 我が眼を疑ったよ。【旧人類(ルーインド・サピエンス)】の極めて優れた技術力に。
 そして、突き付けられた【女神】の呪縛に………ッ!!」


混乱を煽るかのように、ロキは表示された内容物についての説明を続けた。


「私が最初に目にしたのは、監視衛星からリアルタイムに送信されてくる、
 【イシュタリアス】の観察記録だった。
 全てを解析し、1,000年の呪縛を理解するまで丸々3年もかかったがね」
「カンシエイセイ?」
「満点の星の中に紛れた巨大なキャメラと考えてもらえば想像し易いと思う。
 キャメラで撮影された画像と数値は、常に地上の施設へ送られてくるのだ。
 これを監視衛星と呼ぶ。正式名称は【テトラポリトカ】と言うのだが」
「その監視衛星から貴方が見出したモノが、【女神】の呪縛だと?」
「左様。【旧人類(ルーインド・サピエンス)】が滅びた経緯は
 手元に配布した【デジタル・ウィンドウ】を見ていただければお解かりだろう。
 行き過ぎた傲慢は滅亡を呼ぶ。それ事態に意味は無い。
 ………問題となるのは、この後の1,000年ッ!! 【偽り】の新世界であるッ!!」
「つまり我々が住まう世界ですな」
「【女神】は人々が自ら【発展】していく事を恐れ、【魔法】などという進化の枷を埋め込んだ。
 成る程、呪文一つで何でも叶う力は、【マナ】の代替品としては最適ではある」
「その何が問題だと言うのだね?」
「まだ気付かぬのか、愚か者がッ!!」


ヴァルダの前で失態を晒してしまった【バファル】のコルネリオ代表は
汚名返上とばかりに【アルテナ】にとって錦の御旗である【女神】を擁護すべく、
恐る恐る反論に打って出る。
だが、生半可な弁論で勝てるはずもなく、ロキの一喝によって封じ込められてしまった。


「【旧人類(ルーインド・サピエンス)】時代の観測データも併せて資料へ含んだであろうがッ!!
 最後には道を誤り、滅亡こそしたものの、【女神】へ進化を埋め込まれる以前の人類は
 超常の神威へすがる事なく、己の技術を磨き上げ、【マナ】の頂へと
 自らの存在を【発展】させていったッ!! 1,000年の内に信じられぬほどの進化を遂げたッ!!
 ―――それがどうだ!! 【イシュタリアス】の1,000年はどうだったのだッ!!」
「………1,000年前、世界の全てがリセットされてから、
 【発展】の“はの字”もしていませんね………」
「まさしくその通りッ!! 生物としてあるべき【発展】の芽を【イシュタル】は刈り取ったのだッ!!
 自分で創造しておいて、意に沿わぬ【発展】を遂げてみたら無責任にも見限るッ!!
 そうだッ、【イシュタル】は人類をッ!! 世界を見捨てたのだッ!!」
「いっ、異議ありッ!!」


一方的に【女神】を貶めていくロキに対し、小さな全身をフルに使ったゼスチャーで
怒りを表しながらフェアリーが異議を唱えた。
いつもは高飛車に超然と構えているフェアリーが生の感情を剥き出しにして怒り狂う姿は珍しい。
それだけロキの言い分へ腹に据えかねる物があるのだろう。マグマは、口火を切った瞬間に爆発した。


「【女神】はっ!! 先代も、その前の代の【女神】もそうだけどっ!!
 誰も人間の【発展】を刈り取ってなんかないっ!!
 根も葉もない言いがかりはやめてくんないかなッ!?」
「ふざけるなッ!! 【魔法】を与えた事こそ何よりの抑圧ではないかッ!!」
「どうしてキミはそんなに【魔法】を悪し様に言うわけっ!?
 この1,000年の間、【魔法】を使って世界が滅びたとか、そんな物騒な事件があった!?」
「どこまで蒙昧なのだッ!! 造物主の思い上がりが悪因であるとなぜ気付かぬッ!!
 …そう、蒙昧ッ!! 世界に動乱一つも勃発しない停滞こそ、【発展】の抑圧であるッ!!」
「思い上がってなんかないッ!! なんなの!? 動乱が勃発しない停滞!?
 平和が一番なのに、キミは何が不満なんだよっ!?」
「平和と停滞の意味を履き違えるなッ!! ―――否ッ、履き違えるのも無理は無いッ!!
 そもそも貴様、【女神】の後継者などと嘯いているが、先代からどれほどの記憶を継承されている?
 造物主を自負するだけの権威が貴様は持ち合わせているのかッ!?」


【社会】を滅ぼさんと目論む死神と、世界を創造した【女神】の後継者の死闘は
神代の戦役を象る絵画からそのまま抜け出したかのような緊迫感で周囲を圧し付け、
あのヴァルダやナイトハルトまでもが息を呑んで見守っている。


「調べはついておるわッ!! 貴様ら【女神】の系譜は先代より禅譲を受ける際に
 最低限の記憶しか継承されない事をッ!!
 嘲笑わせるわッ!! 不完全な存在が造物主を標榜して壮語を騙るのだからなッ!!」
「最低限の記憶は、人間と一緒に歩いていく証なんだっ!!
 私たちの想い、キミみたいな人にわかりっこないッ!!」
「不完全を自ら認めたわ、この愚か者はッ!!
 未熟な存在が【発展】の抑圧へ介入するなど前代未聞ッ!! 未曾有の【悪】であるッ!!」
「なッ!!」
「つまり我らが課せられしは【ネオテニー進化説】ッ!! 人類は歴史規模の幼生成熟を強いられたのだッ!!
 自ら【発展】する可能性を奪われた人類は、いわば天敵のいない箱庭へ投げ込まれた幼虫ッ!!
 【発展】無き世界にどれほどの価値がある!? 価値など無いッ!! 断じて無いッ!!
 ヒトは自ら【発展】していく生き物ッ!! 足掻き、喜び、【発展】してこその人間なのだッ!!
 にも関わらずッ!! 腐敗の温床を用意して無限の可能性を奪う邪悪が存在するッ!!
 己を脅かすヒトの可能性を恐れ、呪縛を投げかけた【イシュタル】ッ!!
 あえて言おうッ!! 貴様は創造の女神ではないッ!! 時の彼方より来る災厄の邪神だッ!!
 貴様のような不完全な存在に弄ばれる世界にッ!! 価値はッ!!! 断じて無いッ!!!!」
「………………………………………………………………………」


例えば、山椒魚の仲間にアホトールという名前のものがいる。
【旧人類(ルーインドサピエンス)】の地名で言えばメキシコへ棲息する種だ。
山椒魚は通常エラを失ってから陸へ上がり、肺呼吸する変態を経過してから成体となるが、
この進化は生息地である陸が熱波によって乾いてしまうと正常に階梯を登る事はできなくなる。
そこでアホトールは自ら水中で性成熟を行う進化の方法を編み出した。
アホトールを類例の一種として取り上げたこの進化の経過が、【ネオテニー進化説】である。

幼生成熟とも呼ばれるこの仮説は、その名の通り、
幼形段階の機能がそのままの状態で発達・成熟していく進化を指す。
【発展】無く停滞したまま1,000年の時を経た人類をこの【ネオテニー進化説】に当てはめ、
ロキはフェアリーを糾弾しているわけだが―――


「………………………………………………………………………」


―――【旧人類(ルーインドサピエンス)】時代にも一般に知られてすらいない仮説を
【イシュタリアス】の人類が理解できるはずも無いのだが、
独壇場に白熱するロキには、緊迫から一転して白けた円卓の空気が理解できておらず、
人々を置いてきぼりにして、轟々と持論を説くばかりだった。
相手のリアクションや理解度など、まるで読んでいない。


「なんだか、別な方向で大変な事になって来ちゃいましたね、パラッシュさん」
「………………………」
「………? パラッシュさん………?」


たった一人。デュランだけは違った。
意味不明な羅列を繰り返すロキの後姿を、冷めた視線で、しかし誰よりも真剣に見つめていた。
彼の主張に共感しているのか、そうでないのかも見て取れない無表情のままだが、
一字一句聞き漏らさないように全力で耳を傾けていた。















「―――打ち込みが浅いッ!!」
「―――うぉわッ!?」


それは、おぼろげにしか心に留めていない、セピア色の原風景。
現在では自然公園として整地されている郊外の一角もその風景の中では、
ブランコやシーソーといった遊具の影も形も見当たらない更地のままだ。
僅かに雑草の生えただけの荒地へ、小さな、エリオットよりもまだ小さな少年が
勢いよく投げ出されていた。


「前に教えたばかりだろう?
 考えナシに攻勢へ転じても返り討ちに遭うばかりだって」
「俺の剣はガムシャラな方がリキを出せるって、おばさんが言ってたんだッ!!」
「………ステラめ、またいらん事ばかり吹き込みやがったな」
「―――ボサッとしてんなよ!! 行くぜ!! 必殺ッ!! 【撃斬】だぁッ!!!!」


巧みに受身を取って反撃へ移った少年は、間髪入れずに訓練用の木剣で
一足飛びに目の前の男へ斬りかかったが………


「しゃにむに攻めるとこうなるぜ?」
「―――どぅわあああぁぁぁッ!?」


………結果は同じ。
振り落とされた斬撃を半身ずらして軽く躱わした男は、
付きすぎた勢いを制御し切れずつのめった少年の足を引っ掛け、前倒しに転倒させてしまった。


「………全く、自信満々で手合わせしたいと言ってきたから、
 少しは進歩していると思ったが、まだまだ甘いな、デュラン。
 技巧で言えば、ブルーザーの方がよっぽど上手いぞ?」
「くっそ〜………、今度はイケると思ったんだけどなぁ………」


これ以上続けて確かめるまでもなく、手合わせは少年の…デュランの完敗だ。


「今の動きは…まず腰を捻って右に避けて…それから左足を出して………」
「どうした? 何をブツブツやってんだ?」
「父さんは黙っててくれ。俺は、今、猛烈に反省してんだッ」
「反省、ねぇ」


汗拭きのタオルを投げて寄越した父に…、死神と化した現在と顔の形こそ寸分も変わらないものの、
比べ物にならないくらい明るい笑顔に満ちているロキに、
デュランは「あっち行けよ」と食って掛かる。
うんうん唸っているのは、今の手合わせから発見した反省点を振り返ってみたものの、
どうにも理解できないとこんがらがってしまっているようだ。


「…なぁ、さっきの反撃技、どうやったんだ?」
「なんだよ、黙ってろって怒ったばかりじゃないか、お前、今さ」
「う、うっせぇな。親は子供の質問に答えるのが仕事だろ!」
「子供の質問、ねぇ。………あッ、それで思い出した!!
 お前、コラ、デュラン、父さんの秘蔵本の隠し場所、母さんに教えただろ!?」
「ヒゾーボン?」
「『デラめんこい』って雑誌だよ! 前にちょろっと見せてやったろ?」
「あー…、裸のお姉さんが載ってるヤツ?」
「それだよ、まさしくそれッ!! あれ、お前、遠征から帰ってきてみたら、
 他のコレクションから何から、一切合切無くなってたぞ!?」
「俺がなんで知ってんだよ、隠し場所なんか。
 母さんに嗅ぎ付かれたんじゃねーの?」
「くっそう、シモーヌの奴、最近鼻が利くようになりやがっ―――」


ガゴォンッ、と耳を覆いたくなるような打撃音が轟いたかと思えば、
底の焦げたフライパンがロキの顔面へ見事に突き刺さっていた。
続いて地響きを彷彿とさせる、大きく激しい足音。


「………あ、母さん」
「―――ッてぇな!! おま…、シ、シモーヌ!! ヘタすりゃ死ぬぞ、今のッ!!」
「一度死んでみるのはどう? バカは生まれ変わるまで治らないと言うし」
「………その表情(カオ)で言われると、ちょっとシャレになってねぇからな」
「シャレ? シャレに聴こえた?」
「え…? ちょ、ちょッ、ま、待…ッ!!
 落ち着け、ひとまず落ち着―――うわぁぁぁあああッ!?」
「どうして!! 貴方はッ!! 情操教育に悪いモノばかりッ!!
 デュランへ教えるのッ!! 息子を悪の道へ引きずり込むんじゃありませんッ!!」
「バッカ野郎!! これも立派な教育だッ!! 男児たるものいつでも野生を―――って、
 止せッ、それはマジで止せッ、厚底鍋は“硬い鈍器のようなモノ”に分類されるからッ!!」


いつもは天女のように穏やかな母・シモーヌは、
ロキが秘蔵するピンク本が暴きだされた時に限って羅刹と化すのを見慣れているデュランはまたかよと、
フライパンと厚底鍋の攻撃から這いずり回って逃げる父の情けなさを合掌して見過ごせるが、
見慣れていない人間には、この豹変はどうも刺激が強すぎたようだ。


「うぁぁぁぁぁぁああああああんッ!!!!!!」
「―――あ、あぁ、ごめんね、ウェンディ、怖がらせちゃったね。
 …ごめんね、パパがどうしようもないゲス野郎だからね」
「………赤ん坊の前でなんつー形容詞使ってんだよ、お前は。
 そっちのがよっぽど情操教育に悪ぃだろ〜が。
 おー、いて…、こりゃ腫れるな。
 いいか、デュラン、お前はこんなドメスティックバイオレンスなカミさんを貰うんじゃねぇぞ?」
「そりゃいいけどよ、母さん、すっげぇメンチ切ってんぞ?
 後で潰されんじゃねぇか、鼻の頭」
「ふぎゃああああああぁぁぁぁぁぁッ!!!!!!」
「ごめん、ごめんね、また怖がらせちゃって。
 パパは後できつく撲殺しておくからね」
「ウェンディ〜、お前は父の顔を知らないまま大きくなる事になりそうだぞ〜。
 結婚式で俺の遺影を片手にスピーチする時ぁ、
 父親がいない事でこっぴどくいじめられましたとか、
 ママへの恨みつらみを吐き出していいんだぞ〜」
「………夫婦揃って縁起でもねぇ会話すんなよ………」


シモーヌが胸に抱いた赤ん坊が、幼いウェンディが破裂したように泣き出した事によって、
あわや“硬い鈍器のようなモノ”で撲殺されるところだったロキは九死に一生を得た。
コミュニケーションと微笑むにはあまりに攻撃性が強いものの、
それは、誰の目にも温かな家族の肖像だった。

「ていうか、何しに来たんだよ、シモーヌ。
 まだ身体が良くなってないんだから、ゆっくり寝てなきゃダメだろう?」
「午後から仕事の入ってる事を忘れてるおバカさんを呼びに来てあげたのに、
 その言い方はひどいんじゃない? お昼を食べなきゃ出勤も出来ないし」
「だから、昼飯くらいは俺たちが作るって言ったじゃねぇか」
「時間を考えなさいな。もうとっくに正午を過ぎてるのよ?」
「えッ!? もうそんな時間ッ!?」


信じられないと驚くロキの視線を、人差し指でお天道様の位置へ促すシモーヌ。
手合わせを始めた時には東から昇ったばかりだった太陽は、既に頭の上でカンカン照りしていた。


「あっちゃー、ま〜たやっちまったぜ。興が乗ってくるとどうもダメだな。
 すぐに周りが見えなくなっちまわぁ………」
「それじゃ今度は一直線にお昼を食べて、猪突猛進に働いてきなさいな」
「………悪ィな、シモーヌ。約束破っちまってさ」
「私の健康を気遣ってくれるなら、むしろあなたには台所へ立たないで欲しいわ。
 【黄金の騎士】サマは、剣には滅法強くてもナイフの扱いはダメダメみたいだから」
「ど〜せ俺ぁ目玉焼き作るのに台所半焼させる豪快料理人だよ。
 ………おし、デュラン。今日の手合わせはここまでにしよう。
 昼だって聴いたら、途端に腹が減ってきちまったぜ」
「なっ、ま、待ったッ!! 話が途中で止まっちまってるってばよ!!
 さっきの反撃技、どうやったんだッ?」


食い意地の張った虫たちが合掌する腹を撫でつけながら帰り支度を始めた
ロキの背中を慌ててデュランが引きとめる。
そうだ。ピンク本とシモーヌの襲撃で大きく反れてしまったが、
父が見せた軽妙な技巧に対してデュランが質問したところで話題が途切れてしまっていた。
これを聴かない事には、デュランも帰るに帰れない。


「………チッ! 覚えてやがったか」
「はぐらかすつもりだったんかいッ!!」
「そんなに知りたいか?」
「ああ、強くなりてぇからな、父さんよりも!!」
「へえぇ、言うじゃねぇか! 俺を超える宣言しやがったな!!」
「だから、恥を忍んで教えてもらおうってしてるんじゃねぇか」
「だったら、なおの事、教えられねぇな」
「―――って、おい!!」
「………頭で考えるな、デュラン」
「え………?」
「人間ってのはな、それほど器用に出来ちゃいねぇ。
 考えれば考えるほど迷っちまう生き物なんだよ。
 だから、まずは身体を動かして、何にでも飛び込んでみろ。
 頭を使うのはその後だっていいんだ」
「考えナシのバカじゃダメだって、言ったじゃねぇか、さっき」
「それとこれとはまた違う話だよ。
 ………二つの意味の違いも、身体一つで走っている内にいつか見えてくる。
 立ち止まって考えるのは、頭を働かせられるだけの情報が揃ってからでもいいって事だ」
「うまく説明できねぇからってテキトーに誤魔化してんじゃねぇぞ、このバカ親父」
「あれーッ!? ここは感動のシーンじゃないのかッ!? なぜに俺、ボロカスだよッ!?
 こら、おい、シモーヌ、お前が物騒な事ばっか言ってっから、
 こいつ、こんなにひねくれちまったじゃねぇかッ!!」
「自分の教育力の無さを棚に上げないでくれる、このトーヘンボク」
「だから、お前のそ〜ゆ〜罵声がだなぁ………………………―――――――――


原風景が記録された日付は、ロキが【ローラント】征伐へ出兵する僅か十日前。
幸せで、ずっとずっと幸せでいられるはずだった肖像はそこで彩りを失い、
輪郭が薄れ、やがて霧のように掻き消えていった―――――――――















不意に脳裏へ蘇った原風景と現在の状況の差異を照らし合わせると、
ますますロキ・ザファータキエという男が解らなくなる。
このようにベラベラと喋る多弁な男だったか? 理想を人に押し付ける不遜な男だったか?
何が、彼を、真反対の人間へと歪めて変貌させていったのか?


「………エロ本の隠し場所、バラしたの、実は俺なんだけどな………」
「―――ん? 何かおっしゃいました?」
「………アンタには関係ねぇ独り言だ。いちいち気にすんな」


思い出したくも無かった原風景が蘇った事が気に障って仕方の無いデュランは、
独り言へ反応したアルベルトを物憂げに切り捨てて瞑目した。
これ以上、過去の原風景を想起させるロキの後姿を見ていられなかった―――


「―――先ほどから聴いていればペラペラペラペラと、
 手前勝手な考えを押し付けてくれるじゃないかッ!!
 国士気取りか? あんた、何様のつもりだッ!!!!」


―――のだが、閉じられた瞳は突然張り上げられたこの檄によって即座に見開かされた。


「ヴィ…クター?」






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