「お疲れですか? 顔色が優れないようですが………」
「疲れっつーか………場所がココだって知ってりゃ来なかったっていう、ちょっとした後悔だよ」
「今更そう仰られても困ってしまいますよ」
「るせぇな、ボヤきだよ、独り言だ。気に留めねぇで案内しやがれ」



アルベルトに連れられるまま馬車へ乗せられ、そこからは更に海路、また陸路と夜を日についでの長旅。
ビュウ・シャムシールが匿われているという“追っ手から秘匿できる場所”へ
デュランが辿り着いたのは、召喚の声を掛けられてから丸まる三日経てからだった。


「でも、ホントに顔色悪いっスよ?」
「車酔いに利く薬なら持って来てますけど………」
「バカ、お前らまで余計な気を回すんじゃねぇって」


目的の場所へ到着してからのデュランは、確かに顔色が優れず、眉間へ皺が寄ったきりだ。
アルベルトも、従者として連れ立つシオンとリザも、長旅の疲労かと気遣ってくれるのだが、
傭兵時代に慣らした体力に人一倍自信のあるデュランには、この程度の道のりはどうと言う事も無く、
節々がなまった事以外は、体調自体はむしろ良好なコンディションをキープしている。


「―――俺は一度ここにブチ込まれてるんだよ………」


―――【グランスの牢城】。
政治犯や戦争犯罪者が収容される、古代遺跡を改築して作られた石造りの牢城だ。
一度入った者は屍以外に戻る術無し………つまり、死罪を待つ身の囚人だけが選り分けられて収容される、
まさしく人間社会の最終最後の断崖―――ここに件の亡命者が隠匿されていた。
逆転の発想とは言ったものだ。世間的には“政治犯”として追われているビュウ・シャムシールが、
まさかそれを収容する施設に隠匿されているとは、追っ手と言えど夢にも思うまい。


「ああ………」
「なるほど、それで………」


顔を見合わせ納得と言った風に頷き合うシオンとリザ。
つまり、デュランの表情が曇る原因は“場所”にあったのだ。
【ローラント聖戦】の直後、デュランはアンジェラが打った一世一代の大博打へ協力する為に
ここ【グランスの牢城】へ幽閉された時期があった。
もちろん全て飲み込んだ上で決断し、自ら囚われの身となったものの、
それでもやはり犯罪者呼ばわりされて禁固されるのは気分が悪かったのだろう。
かつて自分が押し込められた薄暗い牢城の回廊を一歩、また一歩と進めていく内にどんどん眉間の皺が深くなっていった。


「【草薙カッツバルゲルズ】時代………ってヤツっスか。
 俺らが【ローラント】に入ったのって丁度その後だから、いまいちよく知らないんですよね」
「それはアンタだけでしょうが。当時から有名だったじゃないの、【草薙カッツバルゲルズ】は。
 ですよね、御屋形様?」
「………俺に振られてもなぁ。自分じゃわかんねぇもんだぜ、有名だとかなんて」


石造りの牢が連なる直線をひたすら歩く、歩く、歩く。
時折どこかから低い呻き声が漏れる以外は鼠の威嚇さえ上がらないような静寂の回廊で
足音のアンサンブルが奏でられていた。


「すごかったじゃないですか、ここの中庭で行われた処刑の日なんて!
 世界中から抗議のデモ隊が殺到して! 私も参加したんですよ、あれに」
「へぇ〜、そんなに凄かったのかぁ。俺、その頃、御屋形様の事とか、全然知らなくってさぁ」
「その時決めたのよ、私。どうせ随いていくなら、こういう大将の下がいいって。
 ………まあ、新聞も読まないよーなシオンに講釈垂れても、垂れ流しの無駄骨でしょうけどね」
「てめ、この、リザッ!! 俺だって新聞くらい読むわッ!! バカにすんじゃねぇッ!!」
「4コマ漫画しか読まないってもっぱらの評判よ?」
「スポーツ欄も読むわッ!!」
「………自分で言ってて空しくならないわけ?」


不思議と耳に心地よい足音のアンサンブルだったが、売り言葉に買い言葉で口火を切ったシオンとリザの漫才によって
見事にメロディラインをへし折られ、コンサートの演目は、
厳しい空気にそぐわない喜劇的なラプソディへとたちまち早代わり。
あまりにもくだらない内容で口論するシオンとリザに呆れるやら、可笑しいやら、
腹を抱えるアルベルトに続き、とうとうデュランも堪えきれなくなって噴き出した。
部下の醜態をアルベルトに見られているだけに、多分に苦笑交じりではあるものの、
眉間へ寄っていた皺はこの一笑で柔和に解きほぐされた。


「す、すみません、こんなところで大声張り上げちゃったりして………」
「全くだぜ。リザのヒスには毎度毎度手を焼かされらぁ」
「シ・オ・ンッ!! アンタも同罪でしょうがッ!!
 ―――………って、あっ、私ったら、また………っ」
「ああ、いや、別に怒っちゃいねぇさ。
 懐かしの弟分に因縁の場所とブチ当たって、どうも俺ぁ感傷的になってたみたいだ。
 ちぃと昔の事を想い出しちまったよ」


悪びれずになおも冷やかしを挿んでくるシオンの急所(下半身の)を膝で一突きしながら恐縮するリザを見ていると、
デュランはますます昔の自分たちを想い出してしまう。
想い出として色褪せるにはまだまだ年月を重ねていないと言うのに、
当時とはまるで異なる環境・立場にいる自分へ感じたギャップがモラトリアムなノスタルジーを呼び起こしたようだ。


「【草薙カッツバルゲルズ】もこんな感じでしたものねぇ。
 何かにつけて誰かがボケて話が脱線して、本題がまるで進んでいかない。
 そう、ちょうど今のお二人の様にね」
「………ピーピングしてやがったてめえに同意されても、
 こっちとしちゃあ微妙なんだが………まあ、概ねその通りだ。
 邪眼―――じゃねぇ、カトブレパスの野郎も笑ってやがったな、そういや。
 話し合いの十割中八割がボケと脱線で無駄ばっかりだって」
「そう………なんですか?」
「とにかく話を聴かない人間の集まりだったからなぁ。
 ホークは普段のアイツを見てりゃわかるだろ? アンジェラも無駄口ばっか叩くし、
 ケヴィンは女性陣に弄ばれて、シャルとポポイに至っては脱線を更に焚き付けやがる。
 あいつ、フェアリーもフザケンナだったな。
 何が女神だよ。俺ら、あいつにまともに名前で呼ばれた事のが少なかったくらいだ」
「お、奥方様は、まさかそんな事はありませんでしたよね? あんなに聡明な人が………」
「リースだって、お前、何の因果か奥方様なんて呼ばれてるけどな、昔はひでぇもんだったんだぜ?」
「えぇぇっ!? ま、まさかっ! あの奥方様がですかっ!?」
「リザには申し訳ねぇけど、あいつが一番のトラブルメーカーだったな。間違いねぇ。
 人の話は聴かねぇわ、チームワークは無視するわ、玉砕覚悟の突貫ばっかりしやがるわ………。
 とにかく迷惑ばっかかけてくれやがったよ」
「そ、想像できない………」



リザにとってリースとは、精霊戦士としても、一人の人間としても心の底から尊敬できる人生の師匠である。
決して荒れる事の無い穏やかな笑顔は誰をも分け隔てなく慈しみ、幸福な静けさを与えてくれるリースは、
常々こうありたいと願う、まさに生涯の目標と言ってもいい存在―――のハズだったが、
デュランの昔語りによると、ほんの数年前まではどうも自分の憧憬からはかけ離れていた様で、
泡を吹いて悶絶中のシオンを無惨にもサッカーボール扱いで蹴り転がすリザの表情は、激しい動揺に引き攣っていた。


「そういうアークウィンドさんだって、ウジウジ悩んで当り散らしてたじゃないですか。
 これを迷惑と言わずに何と呼べばいいんでしょうねェ?」
「………余計な事を言わなくていいっつってんだろ、てめぇ」


自分の事を棚に上げ、【草薙カッツバルゲルズ】メンバーの問題点を、さも迷惑そうに話し続けるデュランに
アルベルトから鋭いツッコミが入る。
確かにデュランも、最大の壁として立ちはだかったロキとの軋轢に悩み、苦しみ、
脱出口を見出せないまま積もり積もった鬱屈を無慈悲にも仲間たちへ叩きつけてしまった経験があった。


「お・や・か・た・さ・ま?」
「う………………………」
「ケッケッケ、奥方様に言い付けてやろーぜ―――………っつうか、おい、リザ、お前ッ!!
 そろそろ蹴りくれんのやめやがれッ!!」


デュランが自分の過ちに気付いた事で解決へ向かい、友情が崩壊する危機は護られたものの、
アルベルトの言う通り、仲間たちに多大な迷惑をかけたのは言い逃れの出来ない事実。
本来は真っ先に「いや、俺も昔はなァ〜」と懺悔しなくてはならないところを、
部下の手前、棚に上げて取り繕って誤魔化したのだが、無粋に突き入れられた横槍によって彼の体裁は脆くも崩れ去った。
ジト目で送られる二つの冷ややかな視線が何よりの証拠だ。


「はっはっは、良かったじゃないですか。
 今のやり取りで皆さんの中にますます親愛が湧いたと思いますよ、アークウィンドさん。
 ああ、御屋形様も人間なんだなーって………」
「いい加減黙りやがれ、タコスケッ!! 次フザケた事抜かしたら、即刻帰るからなッ!!」


とは言え、デュランの精神をそこまで追い詰めた一因にはアルベルトが仕掛けた卑劣な策略が
影響していたのも、また、間違いない事実の一つ。
そのクセ、自分の失敗だけ棚に上げるのはお門違いと非難するのだから、
当事者の分際でよくもまあ抜け抜けと言ってのけたモノである。


「―――そう言えば、これから落ち合う【ジェマの騎士】ってのも
 【草薙カッツバルゲルズ】のメンバーだったんですよね」
「そうそう、私もその頃のランディ・バゼラードってよく知らないのよね。
 デモの時だって、結局、遠巻きにしか見れなかったし」
「ンだよ、さんざ俺の事をコケにしといて、自分もよく知らねぇのかよ。
 それでよくデモクラシーに参加してたとか胸張れるよな。ビックリだぜ」
「デモクラシーとデモンストレーションを履き違えるバカにだけは言われたくないわッ!!」
「はいはい、今のお前に何を言われてもちーっとも堪えませんよ〜だ。
 どーせまた知ったかぶってんだろ? 信憑性の無いネタに踊らされてんだろ?」
「このアホッ! どこまでも救いようが無いわねッ!! 今度こそ本気で蹴るわよッ!?」
「本気で蹴られてるわッ、既にッ、割と危険な人体急所をッ!!」


痛めつけられた急所を抑えながら立ち上がったシオンは、報復とばかりに早速リザとの第2ラウンドへ突入した。
喧々諤々、いつ取っ組み合いになってもおかしくないくらい、双方共に頭に血が昇っている。


「ほ〜ら、また始まりましたね、アークウィンドさん。
 いよいよ貴方のお若い頃にそっくりじゃありませんか」
「………………………」
「………成る程。ジョークが喜ばれる心境ではないようですね。
 まあ、私にも思うところがありますけども」
「スクラマサクス………」


だから、シオン自身も気付かなかったのだ。
彼が放った何気ない一言によってデュランの表情が微かに曇った事を、目端にも入れられなかったのだ。
彼の心に差し込んだ陰に共感するところのあるアルベルトただ一人が、デュランの肩を叩く権利を持っていた。


「現在(いま)の姿しか知らない彼らには、バゼラードさんはどの様に映っているのでしょうか………」
「【鬼神】―――じゃねぇのか、世間一般で叫ばれてるように、よ。
 そこら辺は補佐役のお前が一番知ってるだろ?」
「………………………」


全世界を巻き込む戦乱を【官軍】が優勢に勝ち進められる背景には、他ならぬ【ジェマの騎士】の存在がある。
【女神】の名のもとに超国家的な同盟を取り成し、それによって得た大軍をどこに配し、
【賊軍】のどの勢力へどの様にぶつけるかと言う大まかな割り振りは、全て、総大将・ランディの手によるもので、
十手百手先をも予測する彼の下した指示に従った軍勢は常勝無敗を手にしていた。
繊細にして苛烈な戦略を授ける事で【官軍】を勝利に導くランディは、いつしか【鬼神】と畏敬されるようになっていた。


「………【鬼神】とは言い得て妙ですよ。
 あの人が考案する作戦は将軍から末端の兵士に至るまで、全ての戦士に人間の限界を強要するようなものばかりだ。
 何万もの軍勢に一夜で険しい峠を二つ越えろだの、………敵国に攻め入れば女子供を問わず殲滅しろだの―――
 ―――敵味方問わずいたずらに犠牲者を増やす戦いを続けていれば、
 人の皮を被った鬼の神と恐れられるのも無理はありません」
「鬼と化してるのは戦い方だけか?」
「………………………」
「………経験者は語るってヤツだよ。
 俺も一度は修羅の道へ堕ちた身だからな、大事なモンを拾い落として【鬼】になるってのがどういう事か、
 少なくともお前よりは知ってるつもりだぜ?」
「………バゼラードさんは、あなたが堕ちた修羅道よりも遥かに深い底に或ります。
 二度と後戻りも出来ないくらい畜生の吐息に塗れた………」
「………心が………イカレたって………か?」
「心も表情も、決して溶ける事の無い氷結に彼は―――」
「―――己の性情を他人に何と評価されようと知った事では無い。
 勝つか、負けるか。喰うか、喰われるか。今の僕に重要なのは、ただ、それだけです」


【鬼神】の横顔をつまびらかにするべくアルベルトが搾り出した二の句を、
暗い回廊の向こう側から響いてきた新たな声と足音が踏み潰した。
石造りの床板を踏み鳴らす靴音は、押し迫ってくるかの様に狭苦しい回廊へと跳ね返り、
無機質な反響を立てるが、耳を突いた第三の声は、それ以上に生気と言うものを感じさせず、
どこまでも果てしない冷たさで聴く者全てに戦慄めいた緊張感を走らせた。


「な、なんだ? 誰だっ?」
「か、看守か、誰かじゃないの?」


カツン、コツン…と足音が徐々に徐々に近付いてくる。
足音が大きさを増すにつれて、シオンとリザの心へ巣食った言い知れぬ不安も強まっていく。
人を喰らう悪魔が、闇の向こう側から這い出してくる―――在りもしない疑心暗鬼ではあるものの、
思考を恐怖に焦げ付かせる二人は、そんな戦慄に駆られていた。


「………あまりに遅かったので、こちらからお迎えに上がりましたよ、デュランさん」
「ランディ………………………」


さして感情に動きのない声を掛け、デュランでもない、アルベルトでもない、第三の男が立ち止まった。
蝋燭によって微かに光差す場所へ身を晒した事で淡く彩色を取り戻した輪郭は、
つい今しがたまで側近に無謀な戦い方を指摘されていた【ジェマの騎士】―――
―――いや、修羅の道を独り往く最凶の【鬼神】、ランディ・バゼラードその人の物だった。















「【ジェマの騎士】って言うからには、もっと聖人みたいなのを想像してたけど………なぁ?」
「ええ、なんか………恐い」


後ろへ従えたシオンとリザがこぼした【ジェマの騎士】への評価を聴き取ったデュランは、
右隣に肩を並べて歩くランディを横目に溜め息を噛み殺した。
批判とも取れる指摘をあろう事か本人に直接聴かれ、左隣で肩を落とすアルベルトの耳にも
二人の呟きは届いていたらしく、気まずげに眉を顰めている。






(恐いと言われても仕方無いか、このザマじゃ………)






合流してからのランディと言ったら、久しぶりの挨拶も省いて「騎馬軍の総数はどの程度になりますか」、
「戦支度は進めていますか」などと言った具合に来たるべき決戦へ関連する事柄しか口にしていない。
天下分け目の決戦へ向けた調練の一切はエリオットとウェンディに任せてあるし、
万が一の場合を想定してホークアイに後見も頼んである。これについては少しの不安材料も無かった。
代わりに差し込んだのは、ニコリともせず、久闊を叙す事もせず、飽かず戦う力を求めるランディへの不安だ。






(………“頼れる兄貴分”と再会しても変化ナシ………と来たもんだ。
 ………アンジェラたちが言ってた様に、やっぱりこいつ―――)






【官軍】の寄り合いへ参加した際にも、首座にて冷徹に指示を下すランディをデュランは何度か見ていたが、
厳しい態度も大軍を率いる総大将としての気負いに違いないと考えていた。
冷徹なくらいで無ければ、いかに【ジェマの騎士】と言えど、何十万もの軍勢を統率するのは難しいだろう、と。
しかし、今はどうだ。公的な役目に違いは無いが、久方ぶりに兄弟分と肩を並べて歩いていると言うのに、
ちょっとした世間話や雑談も拒絶し、それどころか視線すら全く合わせてくれない。
デュランが目端に捉えられるのは、まるで過去を知る人間を否定する様な態度を滲ませる冷たい横顔だけだった。





(―――“あの悲愴(こと)”をまだ引き摺っているのか………)






―――“あの悲愴(こと)”とは如何なる物なのか。
苦しげに口元を結んだデュランから明かされる可能性は、【官軍】と【賊軍】が和睦するより低そうだが、
一つだけ確かなのは、「気負いでなく、心そのものが壊れてしまったのではないか」という彼の危惧が
現実の物となってしまった事である。


『ええ、なんか………恐い』


戦いが、争乱が、軍勢が………と血を好む言行を壊れた様に吐き出し続けていれば、先程のリザの怯えではないが、
命を貪る戦闘狂に見なされても仕方が無い。
明るく前向きなランディを、少しだけ情けないけれど、誰よりも努力家で、本当は一番頼りになる自慢の弟分を、
………心が壊れる以前の【ジェマの騎士】を見せてやりたかった。
【鬼神】と畏敬する人々に「これが本当のランディ」だと胸を張りたいが、
かつての勇姿が哀しみに風化した今となっては、それは望むべくもない虚像である。


「………開錠を」


かつて自分が陥ったのと同じ…いや、アルベルトが言う通り、それ以上に心を凍てつかせた【鬼】の豹変に
苦い思いを巡らせていたデュランは、看守に命じるランディの声でようやく意識を現世へ戻し、
無意識に投げていた自分の足が目的の場所へ到着した事に気付いた。


「―――つーか、ココ、俺が入れられてた独房じゃねぇかッ!?」


意識が戻るのと同時に不可思議な既視感に襲われたデュランだったが、眼を凝らしに凝らして薄暗い辺りを観察し、
目の前に張り出された巨大な鉄格子に触れる内に、そこが見覚えどころか、
ある意味で馴染みの深い場所である事を想い出して驚きに眼を見開いた。


「………また会えたこの僥倖を誰に感謝すれば良い………ッ?」
「どぅえッ!?」


そうこうしていると、今度は背後からシオンの奇声。
慌てて振り返ると、腰を抜かしてへたり込んだ彼のすぐ後ろに不気味な幽鬼が、
ケタケタとおぞましげに哄笑(わら)いながらユラユラと揺らめいていた。


「ろ、牢城に漂う死霊か、てめぇッ!?」


驚いての尻餅という屈辱を挽回するかの様に瞬時に体勢を立て直したシオンが
ブロードソードを鞘から引き抜き、得意の上段に刃を翻した。
隣ではリザも油断なくリース仕込みのロングスピアを構えている。


「待て、そいつは生霊でも幽霊でも無ぇ。れっきとした人間だ、一応」
「はぁ? んなわけないでしょッ!? 御屋形様、いつから霊能力者になったんスか?
 こんなんどう見てもバケモノで―――」
「………バケモノと呼ばれて、まあ、否定するつもりは無いがな………」


デュランが制止の声を飛ばしている内に定めた狙いから幽鬼の姿が掻き消え、シオンとリザは激しく狼狽した。
視覚できる範囲から消失した以上、どこから狙われるかわからない危機へ攻守が逆転したと言える。
どこに消えた、どこにいる、とブロードソードを、ロングスピアを暗闇へ差し向ける二人を嘲笑う幽鬼の声は、
護衛すべきデュランのすぐ近くから聞こえてきた。


「御屋形様ッ、伏せてくださいッ! 今すぐこのバケモノをッ!!」
「待って、シオン! 物理攻撃が利かないなら【アドナイ・メレク・ナーメン】の魔法で蒸発させるわッ!!」
「待ってられっかッ!! 御屋形様仕込みの【撃斬】で真っ向からブッ千切ってやらぁッ!!」
「………ロイド・タルワール氏はこの棟で看守の長をしている方だ。
 今回の面会では立会人をお願いしています………あまり無礼を働いてもらっては困りますね」


不覚を取られていきり立った二人が、デュランの肩へ腕を回した幽鬼めがけて繰り出そうとした全力の連携は、
今度はランディの冷たい一声で堰き止められた。


「………………………」
「………………………」


堰き止めた、と言うよりは、心臓を鷲掴みにする冷たい声に思考と肉体の双方を
凍てつかされたと表すのが正しいかも知れない。
感情のカケラも無い声に中てられた二人の額には、強制的に固められたまま脂汗が玉を結んでいた。


「なんだよ、アンタ、生きる事に執着が無ェとか言っときながら、えらく出世してんじゃねぇか」
「………領主様のお前ほどでは無いがな………ムフフ………お前の様に面白い人間を探して世話していたら、
 ………いつの間にかこんな立場になっていたよ………クク………尤も、お前以上に面白い瞳をした人間とは
 終ぞ出会えなんだがな………クファファファ………」
「………気持ち悪さも数段出世してるみてぇだな、オイ」


ロイド・タルワールの名前を、デュランは忘れた事が無かった。
そればかりか、時折夢の中にまで登場するくらいなのだ。忘れられるわけがない。
【グランスの牢城】へ幽閉された折に世話役を務めてくれたのが、至近距離で舌なめずりしてくるこの男、ロイドだった。
………世話と言っても、してくれる事と言えば軍人だった頃に亡くした恋人の昔語りくらいで、
実質聴きたくも無い長話を延々と続けられたデュランには迷惑以外の何物でもなかったのだが。

なので、登場すると言っても、もっぱら悪夢。デュランの深層心理には、ロイド・タルワールという人格は
ホラー作品のゾンビに同じとして認識されているらしく、何かに追い詰められる悪夢を視る際に
後ろから這いずってくる化け物は十中八九、この男だった。
現に、本人は思い出し笑いのつもりでいる様だが、ケタケタという不気味極まりない笑い方は
妖怪の絶叫にしか聴こえず、ゾンビすら縮み上がらせるに十分なホラーを醸し出している。
最初に出会った頃に比べていささか良くなった血行が、またおぞましい具合に白い肌をメーキャップし、
出世に比例してバケモノとしての水準を更に高めていた。


「お、お知り合いなんですか、アークウィンドさん………っ?」
「お前までビビッてんなよ。ランディも説明してくれただろ?
 ロイド・タルワール。れっきとした【グランスの牢城】の牢番だよ。
 なあ、ラン―――――――――」


初対面には衝撃的であろうロイドの不気味さはアルベルトをも閉口させる。
ちょっとした廃墟で出くわす妖魔や死霊より数段グロテスクな彼の動き、言葉遣い、肌の質感を
突きつけられて激しい動悸に見舞われたアルベルトの心臓を落ち着けてやろうと
ランディへ改めて身元の照会を頼もうとしたデュランだったが―――


「―――――――――………………………」


―――無駄口を叩いている暇は無いとでも言いたげに一瞥をくれただけで、
ランディはそれ以上何も言わず、看守が開錠した鉄格子の中へ独りさっさと入っていってしまった。


「………………………………………………」


視線一つで追い縋った彼の背中にすら、呆れや怒りといった感情はカケラも滲んではいなかった。
ただ無機質な冷たさだけが、投げかけられる視線や懸念の全てを拒絶していた。
痛いくらいに、哀しいくらいに、ランディの背中は、世界の全てを否定していた。













一筋の光さえも届かない深奥の水底を思わせる独房は、何度立ち入っても慣れる事が無く、
デュランの心へ息が詰まる様な重苦しさを落とし込んだ。
と同時に何とも言えない感覚が蘇ってくる。一際深い暗闇に目が慣れるに従って、短い間ではあったが、
自分はここで寝起きしていたという親しみにも似た感覚が押し寄せ、デュランは戸惑い紛れに苦笑した。


「………改めて照会を行う。お手前の名はビュウ・シャムシールに相違ないな?」
「………無い………」






(―――そうだ、今の俺は【ジェマの騎士】のお付きだったな………)






懐かしさに浸っている場合では無い事を想い出し、慌てて笑みを噛み殺す。
今の自分はあの日に置いてきた傭兵ではなく、極度の疲労に擦れた声の主―――【賊軍】からの亡命者、
ビュウ・シャムシールと【ジェマの騎士】、ランディとの会談に同席する【ローラント】領主なのだ。
公務の場で私的な感情に耽るなど持っての他。すぐさま領主たる者の気構えを取り戻し、
緊張した面持ちで二人の動静を見守った。


「では次に事実関係の確認だ………ビュウ・シャムシール。
 貴様は、戦闘の一切を取り仕切る身でありながら【グランベロス】を脱出し、
 我が【アルテナ】へ救援を求めて亡命に走った―――以上に認めざる点は?」
「………無い。全てそちらの言う通りだ………」


ランディの問いかけにビュウが答える事で今回の秘密会談は進められているものの、
見守る立場のデュランには拭い去れない疑念が浮かんで仕方が無かった。


「………お…御屋形様、これって………」
「ああ………意図はわからねぇ。だが、………亡命者との話し合いじゃねぇよ、こんなもん。
 捕虜から情報を聞き出してるだけだ」


机を挟んで話し合っている訳でもなく、ビュウは精魂尽き果てた様に座り込み、
ランディはそれを見下ろす形で問い掛けている。
シオンも密やかに耳打ちしたが、誰の眼にも対等の立場で“会談”している様には見えない。
しかも、投げかけられるランディの声は大いに糾弾の意味合いをはらんでおり、会談と呼ぶよりも尋問に近い状態である。

―――と、そこまで状況を整理したところで、デュランは最も怪訝すべき一つの事柄に行き着いた。
アルベルトはビュウの身柄を“匿っている”と話していたが、自分が押し込められた時と
何一つ変わりの無い牢屋の様子を見る限り、これでは隠匿ではなく幽閉そのものではないか、と。
よくよくビュウの足元を凝視すれば、足枷まで噛まされているではないか。


「………スクラマサクス、これは何の冗談だ? これのどこが会談なんだよ?」
「………わ、私に訊かれても困りますよ。
 と言いますか、私だって驚いているんですから、この筋運びには」
「何ぃ?」
「私だってあなた方が訝るのと同じく、机と椅子を用意しての会談だとばかり思っていたんですから。
 なのにこんな風な尋問だなんて………バゼラードさんは一体何を考えているのやら………」
「ランディが………コーディネートしたのか、これは?」
「私の仕事はあなたをお連れする事だけだと、何度も説明したではありませんか。
 残念ながらその先にはタッチさせても貰えませんでしたよ」
「………………………」


デュランを【グランスの牢城】へ召喚するのに奔走したアルベルトにすら一切の口出しを許さず、
尚もランディはビュウを見下ろし続ける。


「………ランディ………」


低く呻いたデュランの唖然は、おそらくランディ当人の耳にも届いているだろう。
言うまでもなく、アルベルトとの間で交わされた会話も聞き漏らしているわけが無い。
だが、彼は眉一つ動かさなかった。
『己の性情を他人に何と評価されようと知った事では無い』と言ってのけたのはつい先程だが、
気負いでも虚栄でも無く、目の前に引き据えた“捕虜”以外の存在が眼中に入っていない態度だ。
全てを否定する背中は、伊達では無かった。


「亡命者を受け入れるのは【社会正義】を司る我らからしてみても吝かでは無い。
 だが、軍事の顧問たる役職を放棄してまで脱走を試みる動機が不明瞭な以上、
 貴様の身の安全は確保しかねる。これが現実だ。
 なぜ、逃げた? 【アルテナ】の戦力に臆したか? それとも別の―――………」
「―――ヨヨだッ!! ヨヨをッ!! ヨヨを救って欲しいんだッ!!!!」


人生に価値を見失っていた頃のロイド程では無いが、疲労に落ち窪んだビュウの瞳からは
生気という物が微塵も感じられなかった。
濁りきったその瞳が激動の瞬きを見せたのは、自らが呟いたその一言からだった。


「ヨヨ…? ヨヨ・サンフィールドの事か? 確かパルパレオス将軍の奥方の………………………」
「違うッ!! パルパレオスは横からかっさらった泥棒猫でしかないッ!!
 ヨヨと俺は愛し合っていたんだッ!! それを、あいつが…ッ、あの下種が………ッ!!」
「………僕は愚痴の相手をしてやる為にここへ来たのではないのだがね………」
「【ファーレンハイト】はッ、ヨヨのいるあの空母はッ、もうじき決戦の舞台になるんだろッ!?
 そうなればヨヨも戦いに巻き込まれるッ!! パルパレオスの外道と心中する事にもなりかねないッ!!
 俺はそれが耐えられないからッ!! だから亡命をッ!! 脱走をッ!!」


生気の薄い静けさから一変して狂乱の訴えを始めたビュウは痩せこけた頬を醜く歪ませながら、
ヨヨ、ヨヨと大事な幼馴染みの救出だけを声が嗄れるまで絶叫し続けた。
氷の刃の様に冷たく鋭いランディの眼光へ刺し貫かれるのも気に留めず、だ。


「………スクラマサクス」
「ヨヨ・サンフィールドというのは、【グランベロス】に所属するパルパレオス将軍の奥様です。
 ここは先程も説明ありましたよね。
 ………で、ここからが複雑なのですが、どうもシャムシール氏とは、
 結婚を誓い合った幼馴染みの関係だったらしくて」
「………別な男に盗られた女を助け―――いいえ、奪い返そうと亡命した風にしか聴こえないのは私の気のせい?」
「痴情のもつれで部下を見捨てたってのか…ッ! 自分の責任を捨てて女に走ろうってのか、こいつ………ッ!!」
「リザ、シオン………口を慎め」
「だって、個人的な理由で何千もの部下を見捨てたんですよ、この男は…ッ!!
 何が竜騎士部隊のエースだよッ!! 自分が抜けた部隊にどんな混乱が起こるか、予想もできないバカ野郎を
 助ける価値なんてあるんですかッ!?」
「亡命先が【アルテナ】だから手出しはできないのはわかってます。
 でも、純情を盾に国を捨てて安全圏に逃げ込むなんて、ちょっと信じられませんっ!
 自分は安全な場所にいながら手を差し伸べられても、危険な場所で今も待ちつづけてる相手の女性だって―――」
「―――一軍の将たる立場を私的な理由で捨てたシャムシールを詰るお前たちはどうだ?
 降って湧いた感情を飲み込めず、素直に口から出すのも、また、隊を率いる長として失格だぞ」
「………………………」
「………………………」


ランディの羽織るフロックコートの袖へ縋り付いてはで“ヨヨ・サンフィールド救出”を絶叫するビュウは
半ば発狂状態に陥っており、さしものデュランも鬼気迫るものを感じた。
主張するところも理論立っておらず、一から十まで妄執する幼馴染みの名前しか繰り返さないビュウには、
リザやシオンと同じくデュランも微かな怒りを覚えたが、だからと言って若い二人と同じ様に
思ったままを口に出すわけにはいかない。
一軍の将たる者という立場にある以上、発言の一つ一つに責任が課せられる事を自覚していなくてはならないのだ。
思うところはリザやシオンと同じである。しかし、社会的地位の高い領主が不穏当な罵詈を漏らせば、
ただそれだけで国家間の摩擦へ発展するケースが十分に考えられるのだから。


「愚痴は後で俺が幾らでも拾ってやる。だから、今だけは腹の底へ押し込めろ」
「御屋形様………」
「一軍の将という者は、いつ、何時、どこにでも密告者が張り付いているのだと思え。
 何か一つでも不埒に言葉を誤れば、巡り巡ってお前の築いた全てを壊す―――
 ―――そうならない為にも、自重を習慣づけるんだ………いいな?」
「「………御意………っ」」


シオンもリザも、【ローラント】の騎馬軍団では隊長格を任ぜられる技量の持ち主ではあるものの、
エリオットやウェンディと年齢の近い若年に変わりはない。思った事を素直に口に出してしまう年頃というわけだ。
しかし、“お年頃”だから仕方が無いと一度でも怠慢を許してしまえば、後はズルズル堕ちていくだけである。
眼をかけているからこそ、外道に堕ちる事なく実直に一軍の将となって貰う礎を作る意味でも
デュランは二人にあえて公的な場における心構えを厳しく言いつけた。


「ヨヨ・サンフィールドが救助できるかどうかは、全て貴様の行動次第だよ、シャムシール氏」


デュランの説教の熱さと対照的に、冷たい眼光が全身を悴ませてくれるランディの尋問は
いよいよ核心へ入ろうとしていた。


「敵艦【ファーレンハイト】の見取り図を引いて貰おう。
 手が利かないのであれば、監修でも良い。どこに何があるか、戦闘の配置まで全て提供して貰う」
「あれは今でこそ【グランベロス】属になっているが、もともとは俺たちの国の物だ………!
 機関部から何から、全部頭に入ってる………ッ!」
「それを全て、貴様が持ちうる情報の全てを我が【アルテナ】に捧げて貰ってからだ、正式な話し合いは。
 路頭に迷った貴様を保護し、愛人まで救援しようと骨を折る我々にもそれくらいの見返りを
 主張する権利はあると思うがね?」
「ヨヨを…、ヨヨを助けられるなら、なんでもッ…、なんだってするッ!!」
「………殊勝な心掛けに感謝するよ」


この時を待っていたと言わんばかりにビュウの宣誓に喰らいついたランディは、改めて彼に司法取引を持ちかけた。
パルパレオス将軍に軟禁されている幼馴染み“ヨヨ・サンフィールド”を救い出す代わりに
【官軍】の勝利へ貢献しろと言うのが持ちかけられた取引の概要だったが、
ヨヨに対する執着は凄まじく、細かい内容も確認しないままビュウは二つ返事で了承の意志を表した。


「………ならば最後に忠節を誓え、ビュウ・シャムシール。
 今後一切、【アルテナ】へ逆らう事無く忠義を貫き、一度(ひとたび)陣営に入った折には、
 例え見知った顔だとも【賊軍】の鼠輩共を根絶やしにするまで戦い続ける覚悟を、今この場にて決めよ」
「………この………場で? いや…、しかし、俺にも考える時間を―――」
「―――貴様に選択の余地が残されているとでも? 【アルテナ】の庇護を受けねば生きる事すら出来ない貴様が?」
「………………………」
「………重ねて訊ねる。【アルテナ】の靴を舐めるか、舐めないのか、どちらだ………?」
「………この命………【アルテナ】を第二の故郷として育み、大地にこの血を捧げます」


ヒエラルキーの最下層にお前はいるのだと言う権勢症候群でも植え付けようと言うのか。
終始見下ろす立場と見下される卑屈の立ち位置はそのまま二人の権力図にも置き換えられ、
ビュウの前にランディは絶対的な君臨者として立ちはだかっていた。
押し寄せる権勢に逆らえばヨヨを救い出す事は叶わず、目的を達成する前に首を跳ねられるのが眼に見えていた。
死ねない、死ぬわけにはいかない。
もう一度、愛するヨヨを迎えるには、屈辱とは言え潔く【ジェマの騎士】の軍門に下り、
無様に這いつくばりながら助けを乞うしか道は残されていない―――とビュウは僅かな逡巡の果てに答えを出した。


「………………………………………………」


とうとうビュウ・シャムシールという人格を押さえつけて隷属する立場を勝ち得たランディだったが、
殊勲賞ものの活躍にもさして興味が無さそうに一瞥だけを這わせると、
額をこすりつけながら「ヨヨを、ヨヨを」と相も変わらずうわ言の様に繰り返す哀れな亡命者へ
ありったけの軽蔑を込めた一言を吐き捨て、労をねぎらうロイドを無視したまま無表情に牢を出て行ってしまった。


「………女に現を抜かして堕落するか………どこまでも救えない下種だな」
「………………………―――――――――ッ!!」


牢からの出際にポツリと呟かれたランディの侮蔑まみれの一言が偶然にも耳へ入ってしまったデュランは、
さんざん部下をたしなめておきながら、表情(カオ)を怒りの赤色へ瞬間的に染め上げるなり、
何もかもが許され、思い通りになると勘違いしているだろう弟分の高慢な首根っこを掴みに掛かっていき―――――――――。















約束を取り付けてしまえば暫くは用も無いとばかりにビュウの“隠匿”されている牢を出たばかりのランディが
首根っこへ違和感を感じた時には、頚動脈を後ろから締め付ける掌に力ずくで引き倒されていた。
大して掃除も行き届いておらず、どこからか水が漏れ出しているのか、水気の多い【グランスの牢城】は
モルタルや石造りの壁の至るところにコケが生息しており、壁の表面に着衣を擦ってしまうと
たちまちモスグリーンの不自然な模様パターンがペインティングされるのだが、
そこ行くと床へ壁へと叩きつけられたランディのフロックコートは、
黒を基調にした迷彩柄を牢城からコーディネイトされたと言えなくもない。
首から引き倒され、ビシャッと言う水音を立てて派手に横転したランディは、果たして頬にまで深い緑のペイントが施されていた。


「………何か気に障る事を言いましたかね、僕は………」
「………今、何と言った………ッ」
「………何か、とは?」
「お前は、今、シャムシールにどんな言葉を吐き掛けたッ!!」


ランディの胸倉を掴んだデュランは身体をくの字に曲げて咽る彼を無理やりに引き起こし、
鼻息が直接掛かるくらいの距離までにお互いの顔を据えると、血走った眼を正面から叩きつけた。
脇で見守るアルベルトや従者の二人が固唾を飲んで硬直するほど、
彼らに向けられたデュランの背中には剣呑な怒気が滲んでいる。


「………その程度の瑣末に気を取られるのですか、デュランさんは。
 たかだか悪言にいちいち目くじらを立てる矮小さこそ、一軍の将として詰られるべきでは?」
「ああ、そうだッ!! 部下に自重を促しときながら、俺が今している事は領主にあるまじき短慮だッ!!
 だがなッ、そうと解っていても、俺はお前の首を締めなきゃならねぇッ!!」
「こちらとしても息苦しいのに変わりはありません。
 どうせ締め付けるのであれば、せめて理由を仰ってからにしてくれませんか?」
「理由? ………そんな事も自分で察せられねぇほど、てめぇは堕ちたのかぁッ!?」


ジメジメとした狭い空間にデュランの恫喝が轟き、安普請の石壁全体を壊れる程に震わせた。
しかし、どれだけ烈火の如き怒りを浴びせられようと凍てついたランディの表情が揺らぐ事は無く、
吹き付けられる灼熱を興味薄げに見つめるのみ。
デュランが怒りの炎を昂ぶらせれば昂ぶらせた分だけ跳ね返る冷たさは増し、
二人のやり取りは取り巻く人々の眼へひどく滑稽に映った。


「お前が大事なモノを喪(な)くしたのはよく知ってるッ!!
 深く深く心を傷付けちまったのもよく解ってるッ!!
 だからってなぁッ!! だからってお前がした事が正当化される理由にはならねぇんだッ!!」
「正当化するつもりなど無い。僕は思った事を口に出しただけだ。
 私的な情に囚われて人生を見失い、地位、立場、人間関係の全てを放棄した者を愚かと嘲笑って何が悪いのです?
 大局的に物事を測れない下衆を下衆と蔑んで何がおかしい?
 ………部下の手前、取り繕おうとする気持ちが働いたのでしょうが、貴方だって同じ事を考えたはずだ」
「………いいか、人間には、思い浮かべても決して口に出しちゃならねぇ事があるんだよッ!!
 てめぇは何様だッ!? 人生を懸けても大事な女性(ひと)を護ろうとするシャムシールを
 侮辱する権利がてめぇにはあるってのかッ!?」
「そう言う貴方は何様のつもりで【ジェマの騎士】に説教してくれているのですか、デュランさん。
 地方領主の分際で意見するなど言語道断。身の程を弁えなさ―――」
「―――いつからてめぇはそんな事をほざく人間になりやがったぁッ!?」


顔を見合わせ「まずい」と察知し、アルベルトとシオンが二人がかりでデュランを羽交い絞めにした時には
既にランディの身体が跳ね飛ばされた後だった。


「プリムが死んだのがそんなに辛いかッ!? ええ!? 立ち直れないくらい痛いかッ!?
 一番大事な人を失っちまったら、すがるモノはもう権力しか無ぇってかッ!?
 ―――大事な人を失った痛みを、誰かに八つ当たりして、てめえ、満足かッ!?」
「………何を言い出すかと思えば、また古い話を持ち出しましたね………」


殴りつけられて鉄の味が滲んだ口元を拭って立ち上がったランディは、
一体なんと言い表せば良いのか判断に迷ってしまう様な………一言で形容するならば、
常人の域を越えて“壊れた”としか言い方の無い表情(カオ)を浮かべていた。
生気の無い瞳の事を、よく“死んだ魚の眼”と表現するが、感情の感じられない失笑で低く喉を鳴らせるランディの双眸を
その判例へ当てはめるのは難しい。
どこかを捉えている様で何も捉えていない虚ろな瞳は、“死んだ魚”とも違う汚い淀みに濁っていた。


「あいつが死んだ日、お前は子供みたいに泣いてたよなッ!?
 泣いて、泣いて、泣き散らして、心が干からびるくらい泣いて………ッ!!」
「………………………」
「それでもお前は立ち直ると宣言したッ!! 悲しみを乗り越えると俺たちに約束したッ!!
 あれから3年だッ!! 3年経って、プリムのいない人生を3年生きてきて、
 てめえが出した結論がこれなのかッ!? 心を棄てて、権力にしがみついて、
 それで強くなったつもりか、ランディ・バゼラードッ!?」
「やく………そく………?」


濁流となって決壊した“あの日の悲愴(こと)”を突き刺されたランディをもう一度睨み据えるべく
視線を合わせた瞬間、デュランの激情が凍りついた。


「………そんな約束………いつ、しましたか、僕………?」
「何………何だと………」
「ああ、そうか、デュランさんは初めてでしたっけ………すみません、驚かせてしまって。
 ―――………頭がね、壊れたみたいでね。最近、つとに昔の事を忘れてしまうんですよ」
「な………………………」


最初、立場が悪くなるのを避ける為にしらばっくれているのかとも訝ったが、
悲愴が舞い降りた日に交わしたという【約束】がデュランの口をついて出た時、ランディは本気で目を丸くしていた。
【約束】自体を初めて耳にする様な、困惑した様子で眉を顰めていた。


「プリム―――と言う名前は覚えています。
 彼女とどんな日々を過ごしたかも、なんとか原型を留めています。
 でもね、駄目なんですよ。段々と壊れていく、彩りが消えていくんです」
「………………………」
「彼女との日々を風景としては覚えていても、今ではそれを想い出した時に何も感じない。
 そうするとね、ビー玉みたいにパリン…と割れて砕けて、今度は風景としても想い出せなくなっている。
 その度、僕の中から、【僕】を組み上げるモノが抜け落ちていくんですよ―――
 ―――今では、プリムという娘がどんな声で話していたのか、どんな仕草で笑っていたのか、
 あー………、いや、そもそも、どんな顔形をしていたかも覚束ないくらいで………」
「………………………………………………」


昔の事を忘れてしまう、とランディは自嘲の微笑みを吹いたが、“あの悲愴(こと)”からまだ3年しか経過しておらず、
記憶から風化して潰えるには到底時間が足りない。
いや、時間の問題ではなく、永遠に忘れられるわけがないのだ、本来ならば。



―――【ジェマの騎士】とその従者として、【草薙カッツバルゲルズ】の仲間として背中を預け合い、
【アルテナ】へ仕官してからも生涯のパートナーとしてお互いを支え合い、
愛し合った想い出を、どうして忘れられると言うのか。人生に根付いた日々を、なぜ風化できるというのか。



だが、ランディは、それを忘れたと云った。
紙ごみをダストボックスへ捨てる時と同じ無感情で忘れたと云ってのけた。


「そんな深刻な顔をしないでくださいませんか。
 戦へ勝利するのに余計な感情は無用。むしろ思い返す枷が無くなる分、せいせいしているくらいなんですから。
 理屈はデュランさん自慢の騎馬軍団と同じですよ。身軽でなければ戦に遅れを取る。
 【ジェマの騎士】が見据えるは、切り開くべき未来一つで十分です」
「………………………………………………………………………」
「―――ビュウ・シャムシールに助力を取り付けた以上、この牢城へ残留する必要はありませんね。
 さりとて本国へ戻る余裕も無い………よし、この足で【バレンヌ】へ向かいましょうか。
 アルベルトさん、馬車を表に回してください。
 それともどこかで暫時休憩を取りますか、デュランさん?」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!?」


自分を【自分】として組み上げる想い出(モノ)を手放し、未来と言う名の狂乱に身を投じるランディに
何も言い返せなくなって俯いたデュランに代わり、今度はアルベルトが反論を挙げた。


「どういう事ですか!? これでは話が違うッ!!」
「………ビュウ・シャムシールを篭絡せしめた後、【バレンヌ】の説得へ回るというのは
 最初から予定していたスケジュールではありませんか。何をそんなに慌てふためくのです?」
「私が意見しているのはそこではありませんッ!
 アークウィンドさんはシャムシール氏との面会の立会い人として召喚したのです。
 ならば、ここで【ローラント】へお戻りいただくのが正しい筋ではございませんかッ!?」
「エリオット君とホークさんが兵の調練に当たっている以上、【ローラント】は万全に違いありません。
 ならば、デュランさんにはデュランさんにしか出来ない仕事―――そう、アルベルトさんと同じ様に
 僕の補佐をしていただくのが最良と考えたのですよ」
「私は訊いていないッ!!」


天下分け目の決戦へ向けて僅かな猶予も無いこの時期に無理を強いて引っ張ってきておきながら、
はっきり言って今回の会談について何ら出番の無かったデュランをこれ以上ランディの勝手で振り回すのは、
彼の説得役を務めたアルベルトの良心が許さなかった。
使者として馳せ参じた自分の面子を第一に考え、素直に同行へ応じてくれたデュランにこれでは申し訳が立たない。
かつて悪辣な手段で【草薙カッツバルゲルズ】陥れようと企んだアルベルトだったが、仮にも忠節と儀礼を重んじる一端の騎士。
礼儀には礼儀をもって返そうとランディへ懸命に喰らい付いていく。


「状況に応じて適宜人員の配置を換えるのも戦の倣い。
 まして今度は天下分け目の一戦だ。有効な手札は有意義に切らなくては勝ちを落とします」
「しかしッ!!」
「―――デュランさん、そういうわけです。
 ここより先も僕と行動を共にし、未だに中立を気取る【バレンヌ】皇帝の説得に力を貸してください。
 いえ、ここからが、貴方の存在が必要になってくるところだ………!」
「………………………ッ………………………」


正面の意見を避けて頭越しにデュランへ話し掛けたという事は、アルベルトの反論を黙殺するという意志の表れである。
言いたい事だけ言い放ったランディは、デュランの返事も待たずに常闇の回廊を歩いて行ってしまった。
後には唖然と口を開け広げて立ち尽くすアルベルトの姿があった。



「昔の事を忘れるって………」
「………アルツハイマー―――って事なのかしら………」
「………いや、違う。アレは病気とは違うな………」
「―――ひゃわっ!?」
「またてめぇはオバケみたいな出方を―――って、アンタにゃ、判別できんのか?
 アルツハイマーじゃないって」
「………俺を誰だと思ってる。人間社会の最終最後の断崖で長年牢番を勤めて来た男だぞ。
 ああいう具合に想い出を壊していく人間をごまんと見てきた………断言してもいい。
 【ジェマの騎士】は病気になど罹ってはいない………」
「病気じゃないなら、何だって言うわけ?」


またしても急にヌッと首を出したロイドに迷惑そうな視線を向けながらも、
擦れた声で語られる言葉にはシオンもリザも素直に耳を傾ける。
二人とも記憶を喪失していく病気については家庭の医学程度には知識を備えていたが、
アルツハイマー等の病気でないとすれば、昔の想い出が壊れていくこの症状の正体は一体何だと言うのだ。
多分に好奇心混じりで不躾ではあるものの、非常に興味を惹かれる語り口である。


「………否定しているのだよ…彼は…自分を組み上げる想い出を………」
「ひて………い?」
「………そう、否定・拒絶・拒否………。
 過去の自分を棄てる事で現在の自分を組み上げるといった方が解り易いか?」
「いや、解んねーって! つか、何でそんな事する必要があるんだよ。 
 意味無ぇどころか、想い出を捨てるなんて、心と身体に毒なだけじゃねぇか?」
「―――そうでもしてなけりゃ、気が狂っちまうからだろうぜ」
「………御屋形様………」


俯き加減に言葉を失くし、重く沈んでいたデュランが継いだ言葉によって
徐々にランディの罹った症例が解き明かされていく。


「………なかなかイイ線だ、マイ・フレンド………ズバッと俺もそう分析した。
 ………ランディ・バゼラードは、哀しい想い出もろとも古い記憶を消し去ろうとしているのではなかろうか。
 ………【過去】を記憶に留め、囚われていたなら、そう遠くない内に精神が崩壊するだろう、とな。
 ………俺にも記憶がある………動物的防衛本能と言うべきなのか知らんが、失った存在が大事であればある程、
 弱い人間はそれを切り捨てて自我を保とうとする………」
「そんな難しい事じゃねぇんだよ………………………」


ロイドの指摘があまりに正しく、デュランがグッと唇を強く噛む。
薄く滲んだ血を舐め取り、何とも言えない鉄錆の味と一緒に悲しみを飲み下すと、
痛みや悔恨が苦さとなって口と心一杯に広がっていった。


「プリムを亡くしちまった………ただ、それだけだ。
 最愛の人を亡くしたランディが最後に選んだのは、何もかも忘れられる戦いなんだよ………ッ」


やがて苦さは口内から心臓へ脳へと至るまでに全身を巡って感染し、
領主らしからぬ行為を働いてしまったデュランへ己の醜態をイヤと言う程に刻み込む。






(………ランディ………)






親愛の情を優先させて義憤してみても、明らかに暴走するランディを窘めるために殴りつけても、
一度蝕んだ毒素が中和される可能性は皆無という事実を突きつけられ、かえって失意の底へ落ち込む。
あんなに素直で優しかったランディが【ジェマの騎士】以外に生きる縁を喪失していく様を
逐一傍眼から見てきたデュランは、もはや彼の迷走には手を差し伸べても歯止めがかからないのだと
この時初めて冷静に実感し、悲哀の混じった嘆息を一つ吐き捨てた。


「………俺よりも遥かに深手の様だな………【ジェマの騎士】とやらは………末期と言っても良い。。
 あれに近い状態になったのを、俺も何人か見てきたが、あのままの無理を許せば、
 近い将来そいつらと同じ様に重圧へ押し潰されてポーンと狂うぞ」
「風体と言い恰好といい………とてつもんなくいけすかねぇアンタにゃ言いたか無いけど、
 どうも今度ばかりは借りを作っちまったみたいだなぁ………」
「………クックック………お安い御用だ………いや、お返しと言っても差し支えない。
 デュラン・パラッシュに出会わずにいたら、俺は今も牢の中で堕ちていく人生最狂の悲鳴を
 堪能するだけのつまらん人生だっただろう………ククッ…人生に張りを生んでくれたお前たちの領主には
 心から感謝しているぞ………」
「そっ、そんな感謝があるわけっ!? 訊いた事が無いわよっ!」
「………願わくば、どんな運命が待ち受けていようとも、
 お前だけは心を変えないでいてくれ、デュラン・パラッシュ。
 お前まで心を変えてしまったら、面白い人間を心待ちにする俺の楽しみが無くなってしまうからな………」
「………………………黙れ………………………ッ」


ロイドの放った問答を短く一言で切り捨てるデュラン。
文章に変換すればたった二文字の言葉だが、湿り気を帯びた声色から、呻く様な吐息から、
重苦しく曇る彼の心根が痛切に感じ取れた。


「―――御屋形様」


―――と、その時である。
シオンでもリザでも無い第三者の声がデュランへ“御屋形様”と呼びかけた。

二人の従者以外にデュランへ声を掛ける人間といえば、ロイドを除けば一人しかいない。
顔面を真っ青にして――目端に微かな怒りと殺意を浮かべながら――立ち尽くすアルベルトではないかと
消去法で弾き出されはしたものの、震えた唇を噛み締める今の彼に言葉を紡ぐは難しそうだし、
なにより御屋形様と呼ぶわけがない。


「………ディーン………か。いつ潜り込んできた?」
「………今さっき」


気配を感じ取って後ろを振り向くと、そこにはライトブラウンの軽装で身を固めた青年が
いつの間にか恭しく片膝を付いて控えていた。
暗がりでは輪郭まで完全に捉える事は出来ないが、どうやら年齢的にはシオンとそう変わりが無い様に見える。
この突如として姿を現した青年をデュランは“ディーン”と呼んだ。


「急にドロンと現れやがって………! コソ泥時代に培ったスリの癖が治らねぇな、お前は」
「口を挟むな、シオン。
 ………しかし、どうした? お前には【ローラント】詰めを命じた筈だろう?」
「勝手に持ち場を離れるのは心苦しかったのですが―――
 ―――是が非でもお耳へ入れなくてはならない報告が発生しまして」


シオン、サーレント、リザと合わせた騎馬軍団四部隊の隊長格にして、
【ローラント】四天王に数えられる最後の一人、“ファントム”の通り名持つディーンが、
叱責されてむくれるシオンを尻目にデュランへそっと火急の知らせを耳打ちする。

“ファントム”の通り名に相応しく隠密行動に長けたディーンが早馬を飛ばしてもたらした情報は
戦乱の時代に風雲急を告げる事になるのだが、見る間に表情を強張らせていくデュランの混乱した思考では、
そこに勘付く余裕はまだ足りなかった―――――――――………………………。






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