【グランベロス】を中心に結集した【賊軍】と【アルテナ】の属国を中心に結成された【官軍】が
大軍勢で睨み合う不穏な世界情勢の只中にあって、双方に引けを取らない国力を有しながら
どちらへも与せず中立の立場を保ち続けている大国【バレンヌ】の王都は、
その日、有史以来の大激震に見舞われていた。
半ば強制的に共を言いつけられたデュランがランディと【グランスの牢城】を経ってから十日後の事になる。


「大将ッ! 大将ォーッ!! 大ェ変な事になりましたぜッ!!」


折りしも【バレンヌ】は陸軍学校設立の準備に追われ、国全体が慌しい時節の事。
【イシュタリアス】の実に三分の一を領土に持つ大国の陸軍学校だけあって、
各地の部隊が特有する種々様々な兵法や軍学を編纂し、一つにまとめるだけでも莫大な労力がかかる。
その作業に誰もが追われていた。
“皇帝”ジェラールへ火急の用件を伝えに来たヘクターですら、
ひっきり無しに続く謁見者の人ごみを掻き分けてようやく玉座まで到着できたぐらいだ。


「………おやおや、大丈夫かい? 随分疲れた顔をしているけど?」
「そりゃ疲れますわッ! 火急の用件だってのに報告まで二時間もかかったらッ!!
 どうにかならねぇんですかねぇ、このゴミゴミとした城内はぁッ」
「ははは………、ボヤかない、ボヤかない。
 皆、陸軍学校を良い物にしようと頑張っているんだから」
「陸軍学校以前から大変な有様だったじゃありませんかッ! 領土が増えるにつれてッ!!
 俺が言いてぇのはそういう事でなくて、もうちぃーっとでも城を増築するとかして、
 人間の流れをスムーズにしろって事でッ!!」
「質素倹約こそ王道という物だよ。何度も説明しているじゃないか。
 倹約した分を町や各地への資材支援に充てるのだから、これ以上理に適った財産の使い方は無いだろう?」
「………のほほん大将に火ィ吹いても、暖簾に腕押しって事を忘れてたぜ、俺………ッ!!」


ヘクター・カーシモラルは、【バレンヌ】お抱えの傭兵部隊を率いる将軍である。
御歳55歳。【バレンヌ】にその人ありと謳われる猛将として長年ジェラールに仕えてきた彼にとって
王城などは庭のようなもので、玉座までの近道もしっかり熟知していたのだが、
慌しさを極める城内ではそれらを駆使しても満足に身動きが取れなかった様だ。
城門を潜ってから拝謁に辿り着くするまで二時間以上かかるのは、おそらく生まれて初めての経験だろう、
陸軍学校創立に携わる各セクションの責任者の報告を受けていたジェラールは
玉座へ駆け込んできたヘクターの疲弊し切った顔色を案じて侍従に飲料水を手配させた。


「―――じゃなくてッ!!」


ジェラールの厚意で用意された飲料水を侍従から奪い取って喉を潤すと、再び大きなダミ声を上げた。
世界の三分の一を領土に置く【バレンヌ】だったが、あくまで共和国の形式を取っており、
本来は“皇帝”という称号は相応しくない。相応しくないのだが、何人をも受け入れる包容力と
ボリューム感のある髭を蓄えた国王ジェラールは、穏やかな面持ちの中に磐石の覇気を滲ませ、
成る程、“皇帝”と畏怖されるだけの威容を備えていた。
ジェラール・アテルイ=アバロン。年代的にはヴァルダや英雄王らと同じ初老の域にあるのものの、
裏表が無く穏やかな気性の分、彼らより幾らか闊達している様に見えた。


「セルフツッコミをやるなら、せめて前振りにボケの一つでもやっといてもらわないと、
 私もリアクションに困ってしまうよ、ヘクター。
 キミももう歳なんだ。計算じゃなくて本気でボケたかと危ぶんでしまうしね」
「ウィットに富んだ切り替えしとかいいですからッ!!
 ―――それよりもッ!! 大将、ドえらい騒ぎになりましたぜッ!!」
「ドえらい騒ぎ? ふむ、それは参ったな。
 これから【アルテナ】の使節として来訪した【ジェマの騎士】殿を接遇しなくてはならないのに………。
 そっちの対処はヘクターに任せても構わないかな?」
「………………………」


ヘクター、開いた口が塞がらない。


「って、おやおや? どうして固まってしまうんだい?
 私、また空気の読めないボケをやらかしてしまったかな?」
「い、いや、その………」
「???」
「おそらくヘクター将軍がお話になりたかった火急の用件というのが、
 陛下がこれより臨まれる【ジェマの騎士】殿の来訪だったのではないか、と」
「そ、そうだッ!! それだよ、それッ!!」


玉座の脇に直立不動するインペリアルガード(近衛兵)の一人に助け舟を出してもらった事で
ようやくヘクターは二の句を継ぐ事が出来た。
今の援護射撃が無かったら、良い歳をして呆けたままずっと立ち尽くすハメに陥っていただろう。
絶妙のタイミングだ、と目配せでヘクターが感謝の念を送る。
今の様なコンビネーションや、一将兵に過ぎないヘクターがジェラールとくだけて会話できる柔和な雰囲気からも
いかに【バレンヌ】が人と人との繋がり、絆の深い国家だと言う事が見て取れた。


「大将、どうすんですかィ!? 【アルテナ】め、いよいよ本腰入れてきやがったッ!!
 【官軍】を選ぶのか、【賊軍】に下るのか、どっちに就くのか、
 こりゃとうとう決断せにゃならない機(とき)なんじゃないッスかッ!?」
「んー、そうだねぇ―――腐っても相手は【ジェマの騎士】。【女神】に選ばれた英雄殿だ。
 今度の会談は、これまでとは重みが違う。使節を通してのやり取りと違い、【官軍】への直接的な返事になる。
 ………ここでの選択如何で【バレンヌ】の今後が決まるだろうね」
「………恐れながら申し上げます。これこそまさに国家の一大事。
 まずは重臣の皆様を集めて話し合い、慎重にお決めなされる事こそ肝要かと」
「いやー、私としてもそうしたいところなんだけど、いや、どうも今度は時間が無さそうだよ。
 【ジェマの騎士】は即決を求めているようだし、キミも周知しての通り、
 ジェイムスもベアも、皆、あちらこちらへと飛んでいる―――身内で相談するのも難しそうだ」


先程ヘクターを助けたインペリアルガードに慎重論を説かれたジェラールは、
それを主君に対する冒涜と聞きとがめる事なく、一個の意見としてきちんと受け止め、答えを返す。
形式だけの【民主社会】を掲げながら専横の限りを尽くす【アルテナ】首脳陣と異なり、
国家の風潮たる“共和”の精神を彼は自ら体現していた。


「………どちらを取るつもりなんスか、大将」
「それを見極める為に謁見へ臨もうというわけさ」


これから臨む会談は、間違いなく【バレンヌ】の行く末を揺るがす歴史的な席になるだろう。
重臣として同席を要請されたヘクターは思わず足元がふらつくプレッシャーを感じた。
このプレッシャーは、国家を背負う重みだ。肩を食い破り、骨身にまで襲い掛かる重責には
数え切れない激戦を勝ち抜けてきた猛将ですら同席を躊躇する様な不安に駆られる。
相手は【官軍】の総大将。返答を一つでも誤れば【社会悪】の烙印を押される事になりかねない。
緊張するなと言うのが土台無理な話だった。


「そういえば【ジェマの騎士】殿とは初対面だったな。
 ヘクター、キミはただでさえマナーが出来ていないのだから、くれぐれも粗相の無い様に頼むよ」


ヘクターがこれだけガチガチになっているにも関らず、
国家の命運を担う筈のジェラールだけは、席を立つのも、立ってからの足取りもいつも通りを保っている。
何事にも揺さぶられる事無く超然とした余裕を保てる鋼の心臓も、“皇帝”と畏怖される証しなのだろうか。






(―――やれやれ、情けねぇ。俺も大将見習ってシャンとしとかなきゃな。
 【バレンヌ】の将軍は骨が無いなんてウワサ立てられちゃ、末代までの恥になっちまわぁ)






自分が仕える主の底知れない器に、ヘクターは改めて身震いした。
















実に世界の三分の二以上を同盟の名のもとに支配下に置く【アルテナ】へ拮抗し得るのは
【バレンヌ】を置いて他に無く、【グランベロス】側は再三に亘って反アルテナ陣営への引き込みを打診していた。
当然、これを指を咥えて【アルテナ】が見過ごすわけもなく、【賊軍】を征討する【官軍】陣営への参加を呼びかける。
表立った武力衝突の水面下では、【バレンヌ】を挟んでの情報戦も熾烈を極めていた。
精鋭だけでも五万以上の兵力を誇る【バレンヌ】を味方に引き入れた方がこの大乱を制するという寸法なのだが、
単純な武力の強化だけでなく、誇りある中立を保っていた大国を傾けさせたという事実が世論へ時の権勢を示す錦旗にもなる。
だからこそ、両陣営共に説得へ躍起になるのだ。

しかし、甘言と恫喝を織り交ぜて交渉へ当たってきたものの、【官軍】・【賊軍】どちらも効果は皆無。
まずジェラールの放つ“皇帝”の威風によって気圧され、次いで繰り出される巧みな言葉であしらわれていた。
さすが世界の三分の一を治める“皇帝”だけある。政治手腕の基盤とも言える対外交渉術も老練された物だ。


「随分とお待たせして申し訳ありませんでした」
「………アポイントも無く突然訪ねたのはこちらの方です。
 お相手をしていただけるだけでも幸いなのですから、いくらでも待たせてください。
 我らは何時間、いえ、幾夜とてお待ちさせていただく所存でおりますので」
「誉れ高き【ジェマの騎士】様にご足労をいただいた事こそ恐縮、いや、光栄。
 本来ならば、私から馳せ参じなければならないところをお出ましくださり、
 このジェラール・アテルイ=バレンヌ、感動で言葉もございません」
「そう仰っていただけるなら、私としても気を晴れやかにして会談へ臨めるというものです」
「しかも、名参謀と名高いアルベルト殿に【ローラント】のデュラン殿もご一緒とは。
 年甲斐も無く告白しますと、いや、私、皆さんの大ファンでして、ええ」
「恐悦至極です」
「私の様な地方領主にまでお気をかけていただきました喜び、痛み入ります」


【バレンヌ】の行く末と“天下分け目の決戦”―――いや、【イシュタリアス】の趨勢を左右する歴史的会談は、
二時間という空白によって相手に生じた懸念の探り合いと固い握手によって口火を切られた。


「さて、お出ましいただきました今回の用件は―――――――――………と、
 改めて確認するまでもありませんでしたね」
「ええ、失礼を承知で何度となく使節を送らせていただきました件への返答を伺いに参上しました」
「ふぅむ………」


“今回の用件は”の後に作られた、長くわざとらしいタメに堪り兼ねて自分から用件を切り出す事なく、
静かにじっとタメの末尾を待ったランディを見るジェラールの口元が微かに綻んだのを
デュランは見逃さなかった。






(まずは様子見ってところか………)






貴賓室へ設けられた円卓には、ランディの両隣にデュランとアルベルト、
ジェラールの両隣にヘクターと【バレンヌ】軍師のシゲンが控えている。ちょうど3対3の構図だ。
用件のみを伝えて足早に【ローラント】へ取って返したディーンと異なり、シオンとリザも王都までは同行していたのだが、
やはりに首脳級の会談にまで陪臣が顔を並べるのは憚られ、今は円卓の部屋とは別個に用意された控え室で待機している。


「単刀直入に申し上げます。【官軍】へお味方いただけないと言うのであれば、
 我が【アルテナ】は【バレンヌ】を【社会不安】を煽る悪の枢軸………即ち【逆賊】として
 認定せざるを得ない―――と言うのが、我が主、ヴァルダ女王の思し召しにございます」
「………ランディ殿のご意見をお聞かせ願いたい。【バレンヌ】は【官軍】へ与するのが正しいのか、否かを」
「憚りながら言上仕れば、私もヴァルダ女王と同じ考えにございます。
 何分にも【バレンヌ】は巨大国家。【社会】に号令を掛ける程の力を持っておいでになる。
 それだけ【社会】に及ぼす影響力が強い【バレンヌ】が、いまだ態度を決め兼ねている事こそ
 社会不安を煽る一因になっていると私は感じております」
「それはまた………何故?」
「【官軍】と【賊軍】が一度戦場にて見えれば、両軍消耗戦となり、疲労困憊に陥るのは必定。
 勝利した国々が疲れきったところを横から喉笛に喰らいつく目論見ではないか―――
 ―――と【バレンヌ】の動向を危ぶむ世論を、
 まさかご聡明なるジェラール陛下がご存知ないとは思えませんが………?」
「俗説を鵜呑みにされるおつもりですか?
 ………【ジェマの騎士】ともあろう御方が冗談の過ぎる事を仰いますな」
「シゲン、口を慎みなさい」


辛辣な皮肉を窘めたジェラールだったが、腹蔵するところは会話に割って入ったシゲンと同じだろう。
ランディが並べ立てる羅列は、表現を変えれば言い掛かりにも等しかった。


「【社会】を安定させるには、どちらか一方に権勢を集中させるべきとランディ殿はお考えか?」
「【社会】の安定を望むのであれば、力のある国家が一枚岩となって事にあたり、
 世界人民を牽引する形が理想と存じます」
「成る程、正論だ―――」
「道理とお考えになられるなら、今こそ我らに―――」
「―――されど、理に適っているようには解せませんな」
「………理………?」
「貴方が今仰った道理に合わないのですよ、ランディ殿」
「………………………」


ビュウを見下ろす際にはあれほど冷酷な態度で接していたくせに、
ジェラール相手には昔の様な――けれど全く同じではなく、やはり作り物の――笑顔を向けるランディへ
初めて反論が跳ね返ってきた。


「貴方がお考えになる一枚岩の理論は確かに理想的な形でしょう。私にも思うところがある。
 しかし、過度に集権してしまっては、かえって【社会】のパワーバランスを崩すきっかけにはなりませんかな?」
「力が中央に集まる事が社会不安を招くと?」
「【官軍】と【賊軍】の戦力は五分と五分。非常に拮抗した状態にあると手前共の調べには出ています。
 【社会】を二分する見事なパワーバランスだ。
 中央集権を是とする者、否とする者が世界に半分ずつ存在するという表れだと私は思います」
「………………………」
「だからこそ我ら【バレンヌ】には中立の立場を貫く義務がある。
 天下分け目の決着によってあちこちに漏れ出す事が予想される意見の受け皿として、
 どちらにも就かない第三国が無くては【社会】のバランスは保てないでしょう」
「パワーバランス………か。
 陛下のお考え、この愚かなバゼラードにも理解できました。
 しかし、乱れた世を鎮めるには、まず絶対の中央権力を要石に据える必要があるのもまた事実。
 陛下は【官軍】か【逆賊】かのどちらかへ【バレンヌ】が加担する事で力の均衡が崩れるのを危惧されておられる様ですが、
 先程もお話しした通り、【社会】を牽引する国家が一枚岩となる事こそ、今の世に求められているのです」
「申し訳ありませんね、なにしろ【バレンヌ】は共和国。支配下に置くというやり方を知らないのです」
「支配ではありません。そもそも【賊軍】を討伐するのは侵略に非ず。
 【社会】に混沌を投げかけ、無益な乱を起こさんとする悪逆の徒を取り締まるのが、我ら【官軍】の目的とするところ。
 決して政敵を屈服させる裏心があっての挙兵にはございません」
「無益な乱と仰られるのであれば、義挙に及ばず対談による解決を貫くべきでしたね。
 どちらが戦端を切ったかは、今となっては霧中ですが、武力に武力で応じたなら戦乱を招くと予測できた筈です。
 非戦を貫いてさえいれば、今日の様な社会不安を醸造させるまでには至らなかったでしょうに―――
 ―――いや、これはただの愚痴ですな。失敬失敬」


―――――――――これだ。
この老獪な口八丁にこれまでの使節は悉く返り討ちにあっているのだ。
のらりくらりと返答をはぐらかしながらもズケズケと反論の手は緩めない。
かと言って【賊軍】を肯定するのでも無く、まして【官軍】を否定するわけでもない。
相手によって態度を使い分けるランディに恐ろしさを感じていたデュランだったが、
ニコニコと好々爺の様な笑顔を崩さないまま冷徹に相手を突き放すジェラールにも底知れない闇を垣間見て、
背筋へ悪寒を走らせた。


「………仮に―――」


失敬、という謝罪を最後に腕組みして考え込んだジェラールが新たな言葉を紡いでくれるのを期して瞑目したランディに
先程皮肉をぶつけたシゲンが話し掛ける。


「仮に当【バレンヌ】が【官軍】へお味方する事を決めたと仮定しましょう。
 【賊軍】の追討を果たした先に、【バレンヌ】は何を得られるのですか?」
「論功行賞の事を仰っているのですか?」
「取らぬ狸の皮算用と言うのもみっともないお話ですが、我らとて多くの民を養わなければならない国家。
 決して慈善団体ではございません。
 戦いに応じた見返りが判然としない以上、領民を危険にさらす決断は下せません」
「何か所望される物があるなら、私が責任をもってヴァルダ女王へ掛け合いましょう」
「………ちなみに【アルテナ】が【賊軍】と呼ばわる【グランベロス】の使者はこう申しておりました。
 『【アルテナ】を打ち滅ぼした暁には、国土の一切合財を【バレンヌ】に譲渡する』と」
「不埒な………」
「いかにも大変に不埒。我ら【バレンヌ】も【アルテナ】と同じく侵略者ではありませんからな。
 ですが、領民を養う国家としては、これほど旨みのある誘いを他に知りません」
「………………………」
「例えば………いや、これは私、シゲン・マウンテンブックの個人的な考えですよ?
 例えば、【官軍】が攻め落とした【グランベロス】が保持していた領有権の一切を
 譲渡していただけるのであれば、重い腰も多少は軽くなるでしょうが………」
「残念ながらそれだけはお受け致しかねます。我らは正義の部隊。侵略者ではない。
 国土の切り取りを論じるなど社会不安の火種以外の何物でもありません
「ならばそれ以上に価値のある報酬をご用意していただけると言うのですか?
 全国民を喜ばせ、パワーバランスを重んじる【バレンヌ】に考えを変えさせるだけの旨みを?」
「………………………」
「酷薄と思うなら詰っていただいて結構。我らはボランティアでは動きません」


「はい了解しました」とここで答えれば【官軍】はたちまち侵略者に変わる。
今しがたランディが宣誓した通り、【官軍】結成の名目はあくまで【社会悪】の誅罰にあり、
倒した敵国の領土を支配下へ加える報酬に期待するなど持っての他だ。
持っての他だが、シゲンは―――いや、【バレンヌ】は、それを望んでいる。
領土の拡張か、それ以上に価値のある報酬を寄越しさえすれば、協力しても良いと言っているのだ。


「………罠、か………」


どれだけ考えあぐねようと誰にも答えの出せない煮こごった空間に
アルベルトの呟きは重く鈍く通った。そう、これは罠以外の何物でもない。
迂闊な返答をすれば、総大将の手によって【官軍】の存在意義そのものが転覆され兼ねず、
むしろシゲンの口振りはそれを望んでいるかの様だ。


「―――【官軍】へ御助力頂けたなら、【バレンヌ】は何にも勝る正しき義を得る事が出来ましょう」


善戦空しくランディが答えに窮したその時、傍らで動静を見守っていたデュランが決然と立ち上がった。


「―――正しき義………?」


突如として会談のイニシアチブを握ったデュランへ興味を惹かれたのか、
物思いに耽っていたジェラールが腕組みを解いて訊き返す。


「【社会悪】の烙印を押された【賊軍】を追討すれば正義の称号を授けられると、
 そうデュラン殿は仰りたいのですかな?」
「【賊軍】は、どこまで行っても【賊軍】。【社会】に不全を成す悪党でございます。
 その悪党を正義の名の元に征討せしめれば、【バレンヌ】の名声はより一層覚えめでたくに高まる事でしょう」
「………お言葉を返す様で申し訳ありませんが、【官軍】【賊軍】と善悪を判別されたのは【アルテナ】。
 貴方がたが一方的に決めた価値観でまことの善悪が測れるとは思えませんね」
「世論調査を実施すれば一目瞭然となりましょう。【官軍】こそ頼るべき正義であると」
「そう断言できる根拠は?」
「敵方の妻女を人質に取って戦力を削ごうと目論む卑劣な輩に徳など無いからです」
「………は?」


数年前までは持ち前の不器用さから口に関しては後手に回っていたデュランが
大国の主を向こうに回して堂々と演説して見せる姿は、
感情をも臨機応変にコントロールして迫るランディの豹変同様に驚かされるが、
彼の発表にはそれ以上にジェラールを驚愕せしめるものだった。


「人質―――とは一体………」
「………我が妻、リース・アークウィンドです」
「な………ッ!?」


思いも寄らないデュランの発言を受けて、身内である筈のアルベルトまでもが驚きのあまり、椅子からずり落ちそうになった。
円卓の向こう側ではヘクターとシゲンも顔を見合わせている。



―――――――――リース、誘拐。



何の前触れもなく叩き落された青天の霹靂が場当たりのハッタリでなく事実だとすれば、
アルベルトはおろか、【バレンヌ】の諜報力を持ってしても掴めていない新情報だ。
さして驚いた風も無く平然と構えるランディは、どうやらこの情報を掴んでいた様だが、
それはさておき、確かに攻撃の手を鈍らせる為なら手段を選ばない【逆賊】の卑劣は
【社会悪】と憎まれてもやむを得ず、討ち果たせば間違いなく【社会】に対して正義を掲げる権利を授けられるだろう。
一方的な価値観による決め付けでなく、世論が認める誇り高い正義の御旗を。


「【ジェマの騎士】に協力すべく【ローラント】を離れた隙を狙われました。
 折り悪く我が騎馬軍が決戦場への遠征に出かけた直後。
 妻がいかに優秀な【レイライネス】であったとしても、一万の兵に囲まれては勝機を望むべくもありません。
 リースは………妻は、屋敷を取り囲んだ敵兵に対し、領民へ危害を加えない事を条件に降伏したそうです」
「それを知ったのはいつですか!? なぜ知らせてくれなかったのですかッ!?」
「事が事だけに裏づけが取れるまで公には出来なかったのですよ。
 ………残念ながら、この会談へ臨む直前に真相は悪い方向で判明しましたが………」
「バカな………ッ」


デュランへ投げかけられたアルベルトの質問は、怒りに頬を震わせて語る彼に代わってランディが受け取り、
「一体いつの間に?」と部外から疑問が投げ込まれるよりも早く、聞こえよがしに大きな声で答えを返した。


「シゲン、何か意見はあるかな?」
「………人質を取る様な悪党に加担したとあっては国家の名折れ。
 中立を気取って悪党の台頭を見過ごしたとあっては国家の恥―――かと」
「ヘクターは?」
「………ジジィになってから、ここまで頭に来るのは初めてでさぁ。
 俺ぁ、単独でも【グランベロス】をブチ破ってやりてぇな………ッ!!」
「―――などと部下の意見を拝聴する私こそ、今、【賊軍】の卑劣に怒り心頭の有様ですよ―――」


怒りと焦りに揺らぐデュランの瞳を見る限り、同情を引く為に三人で示し合わせて打った芝居では無さそうだ。
領主の名に恥じない演説はこなせても、そこは無骨物のデュラン、
生まれついて不器用な彼には、誰かを騙す演技までは出来ず、性根は真っ直ぐのままである。
だからこそ多くの領民から尊敬を集められるのだし、威風堂々たる言葉で正義を説けるのだ。
これが常に裏の思惑を隠している様なランディやアルベルトであったなら、ここまで真っ直ぐな言葉を発する事は出来なかっただろう。
デュランの説く正義には、ジェラールをも頷かせる力に満ちていた。


「―――しかし、いや、困った。私個人の心情としては私財を投げ打ってでも
 【官軍】の皆様へご助勢差し上げたいのですが、如何せん、我ら【バレンヌ】は複数の自治領を抱える大所帯。
 一国の在り方を左右する選択は、各地の代表者を集め、この円卓で合議した上で決定するルールとなっています。
 まことに遺憾ながら、私の一存で【アルテナ】の進退を決する事は難しいでしょう」
「それにつきましては、陛下のお手を煩わせる事はございません―――」


ここで再びイニシアチブがランディへ戻る。


「―――【バレンヌ】が統治下に置く20有余の国々、既に説得は済んでおります」
「………説得………が?」
「ジェラール陛下がいつ首を縦に振ってもよろしい様に、各国代表者へ協力を取り付けてあります。
 皆様、とてもよく私の話を聴いてくださり、陛下さえウンと頷けば、いつなりとも馳せ参じる、と。
 正義を愛する心は同じだと激励までされてしまいまし―――」
「―――黙れ、小童ァッ!! てめぇ、誰の許可を得て勝手を働いたァッ!?
 てめぇのやった事は侵略行為だッ!! 説得ゥ? 調子こいてんじゃねぇぞコラァッ!!
 宣戦布告かッ!? 領民に謀反をたぶらかして【バレンヌ】を落とそうってのか、てめぇッ!!」
「ヘクター、こちらは何もそのような存念があって動かれたわけではないよ。
 優柔不断な私に代わって領民の意見を取りまとめてくれたんじゃないか―――ですよね、ランディ殿?」
「………御意」


デュランへの哀憐から一転、恐れを知らないランディの態度に激昂して立ち上がったヘクターを
努めて冷静にジェラールが制した。
柔和な笑顔こそ崩さないが、その瞳の奥には明らかにこれまでと異なる揺らめきが宿っている。
一切の断りも無く領内で不届きを働いたランディへの静かな怒りとも、
相手の真意を見透かさんとする疑念とも知れない大きな揺らぎだ。


「………」
「………」
「………………」
「………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………………」
「………………………………」
「………………………………………」
「………………………………………」
「………………………………………………」
「………………………………………………」


【バレンヌ】領内の代表者へ独断で働きかけを行った不届きを挟んでランディとジェラールの視線が正面からぶつかり合う。
長い間、とても長い間、ぶつかり合って微動だにしない。
互いの技量を推し量る様な鋭い視線の衝突は、永遠にも感じられる緊迫のもとで
いつ終わるとも知れずに続けられた―――――――――………………………。















「………どう見る、シゲン?」
「あの小童………もとい、ランディ・バゼラードの事ですか?」
「なかなか面白い子じゃないか。【アルテナ】の子飼いでなけば、【バレンヌ】で引き取りたい人材だよ」
「『返答は天下分け目の決戦までにお聞かせいただければ結構です』―――最後に交わしたこの言葉、
 これは暗に決戦場へ馬を引いて出撃せよと催促しているではありませんかッ!!
 なんたる傲慢ッ!! なんたる無礼ッ!! 陛下の馬の口を引くなど………ッ!!」
「あまりいきり立つとまた健康診断で引っかかるぞ。
 ただでさえ血圧高いんだから気を付けなさい」
「何をのんびり構えておられるのですッ!!」


一時間にも及ぶ睨み合いの末に一先ず閉幕した会談の後、休息の為に戻った自室でジェラールは
歯噛みして不満を漏らすシゲンを苦笑まじりになだめすかしていた。
ヘクターほど激情に駆られはしないものの、やはり彼にも腹にやる瀬の無い憤懣が渦巻いていた様で、
正論を皮肉で返す怜悧さはどこへやら、髪を掻き毟って地団太を踏む有様だ。


「私が最も腹立たしいのはッ、アレですよ、あの、最後のやり取りッ!!
 調べればすぐわかりそうなハッタリをぶち上げ、この歴史的会談に泥を塗ったあの態度が許せませんッ!!」
「―――ああ、【バレンヌ】領国の代表者を説得したっていう、アレね」
「片腹痛いとしか言い方がありませんな! その場しのぎのハッタリで我らを出し抜こうなどッ!!
 現に会談の直前まで陛下は【カンバーランド】のゲオルグ侯と面談しておられたではありませんかッ!!
 そうとも知らずにあの小童、代表者は全て丸め込んだなどと偽りを―――
 ―――ええい、思い出したらまた怒りが込み上げてきたッ!!」


【カンバーランド】とは北に位置する【バレンヌ】の領国の一つで、現在はゲオルグなる公王が統治の任に当たっている。
現在準備に追われる陸軍学校の創設にも携わっており、ヘクターが火急の用件と共に飛び込んで来るまで
玉座でジェラールと顔を突き合わせていた人物の一人でもある。
真面目一徹の律義者、とはゲオルグを評した周囲の声だが、それにも関らず顔を付き合わせた席で
ジェラールへランディの暗躍を耳打ちしないのはあまりに不自然。
これがまずシゲンには引っかかり、会談終了後に最寄の領地へ早馬を走らせ確認を取ったところ、
『各国代表者の協力を取り付けた』というランディの宣言は根も葉もないハッタリだと暴かれた訳だ。


「【ローラント】領主の話もどこまで本当かッ!! どうせ裏があるんじゃありませんかッ!?」
「いや、デュラン殿の奥方が【グランベロス】に落ちたという事は信じても良いと思うね。
 私は【草薙カッツバルゲルズ】時代から彼に注目していたが、成る程、実際に会ってみてより興味が湧いた。
 どこまでも真っ直ぐの男だよ、彼は。瞳を見れば解る………自分に対して何一つ偽っていない男の眼だった。
 そんな男に人を、まして一国の主を騙せるわけが無いよ」
「陛下は甘過ぎますッ!!」
「それにね、シゲン。ランディ殿は最初から私を騙し通せるとは考えていなかったよ」
「―――はッ!?」
「彼は【バレンヌ】を味方へ引き入れる為、なりふり構わずハッタリを使ったんじゃない。
 バレるのを前提に挑んできたんだよ」
「………………………」


たまらなく愉快そうに口元を綻ばせたジェラールの意図を量りかねて唖然とするシゲン。
暴かれるのを前提にしたハッタリなどあるものか。
よしんば存在したとしても、誠意を欲する相手の心証を考えるなら、交渉の場で切るべきカードでないのは明白だ。


「面白い男じゃないか、ランディ・バゼラード。
 『俺を敵に回したら後が恐いぞ』と言う度胸を示す為に、見え透いたハッタリをあえて仕掛けるなんて、
 そうそう出来るもんじゃない―――さすがは【ジェマの騎士】だな」
「まさかそんな………」
「どんな状況に陥っても揺るがない度胸と絶対の自信を見せ付けられた様なものだよ、先程の会談は。
 あんなに長い間、誰かと眼光を通わせたのは初めてだった………なんて言うと、
 王妃―――キャットに叱られそうだけど、まさか一時間もの間、僅かも視線を逸らさないとは、いや、恐れ入る胆力だ。
 ………手強い。実に手強いぞ、ああいった手合いが向こうに回ると」
「陛下………」
「かと言って、御し易い味方とも思えないがね。
 あの瞳―――奈落の底を思わせる昏いあの瞳は、一歩扱いを間違えれば世界を滅ぼす悪魔と化すだろう。
 下手を打って逆らおうものなら、果たしてどんな仕置きが下されるやら………考えただけで身震いしてしまうよ」


疲れた身体をベッドに預けていたジェラールは、寝転んだまま大きな深呼吸を一つ吐くとゆっくり起き上がり、
夕間暮れの灼光が差し込む窓辺へ近寄っていった。
ちょうど部屋にいる人間へ背を向ける恰好になる為、シゲンには夕陽にさらされるジェラールの表情が判別つかないが、
見つめる背中からは何か決然としたモノが立ち昇っている。


「………………………シゲン、全軍に下知せよ。明朝を期して王都に参集せし精鋭15,000騎を率い、
 天下分け目の決戦場へ、【バハムートラグーン】へ向かう、と。
 敵は―――――――――――――――――――――――――――」






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