医務室から出て足早に本営へ戻ろうとするパルパレオスは憂色に染まっていた。
と言っても彼自身がどこかを悪くして医務室の世話になっていた訳ではない。
重傷を負いながらも再び戦場へ繰り出そうとするドリスコルをなんとか宥めすかし、医務室へ押し込めたところなのだ。
彼の表情を濁らせているのは、もっと別の何か―――そう、【賊軍】の陣営へ崩壊の足音が忍び寄っている事である。






(レオが討たれた後、一体何があった………何故、こうも悪い方向へ事が転がる………)






―――レオ、討ち死に。【ガストラ】勢は将軍亡き後、【官軍】に寝返り。
―――【アルマムーン】勢、食事を摂っていた隙を狙われ、【獣王義由群(ビースト・フリーダム)】の中央突破を許す。
―――【ロアーヌ】勢、間近にありながらそれを看過。未だ動かざる。






(【アルマムーン】と【ロアーヌ】に至ってはこちらからの通信まで遮断している―――
 ―――まさか、本当に【官軍】と内応を………)






磐石だと確信していた足元から脆く崩れ去る恐怖と憔悴は何とも表し難く、
阿鼻叫喚の死線を幾度となく潜り抜けてきたパルパレオスですら吐き気を催すほどの
プレッシャーとなって容赦なく彼の肩に圧し掛かってきた。
もう間もなく【バレンヌ】軍が加勢に入ると言うのに、崩れた陣営を持ち直せると言うのに、後から後から不安が湧いて染み出してくる。
そんな無間地獄の渦中に、今、パルパレオスは立たされていた。






(ジェラール公が到着さえなされば、裏切り者もろとも処断できるのだ………落ち着け、落ち着くのだ、サスァ………)






懸命に自分へ言い聞かせてみても、早鐘を打つ心臓の動悸は正直で、不安に駆られる以上は鎮まる気配を見せてくれない。
先行していた【獣王義由群(ビーストフリーダム)】と合流した【官軍】の先鋒部隊は、
両隊共同戦線のもと、【西】と【東】から覆い被さる様に【ファーレンハイト】へ総攻撃を仕掛けてきた。
【ガストラ】の造反組を含めた都合50,000以上の銃火に対する【ファーレンハイト】の防護は中衛と後衛合わせて30,000程度。
これがぐるりと艦の周辺に取り巻き、敢然と防衛網を張っているものの、倍近い上に有利の勢いに乗った軍勢へ攻め立てられては一たまりも無い。
中衛、総崩れ。命を捨てて力戦する後衛でなんとか保てているのみである。
このままあと1時間も攻められたなら、確実に【ファーレンハイト】は陥落させられるだろう。
「【アルマムーン】と【ロアーヌ】が撃って出てさえいればこんな事には………」と、気品ある彼にしては珍しく、
戦況悪化の原因を産んだ憎い顔を思い出し、歯軋りして苦虫を噛み潰した。


「あれは………」


けたたましい銃砲の炸裂音を近くで聴くにまで至った【ファーレンハイト】の回廊の途中、
パルパレオスは窓にへばり付いて外の様子へ眼を凝らす女性の二人組を見つけた。
一人は何故か喜々と顔を輝かせ、もう一人は唇から頬まで真っ青にして肩を震わせている。
言うまでも無く、前者がヨヨ。後者がリースである。






(またヨヨが勝手な真似をしたか………………………)






いくら防弾加工が施されているとは言え、大砲が撃ち込まれれば防ぎ切れるものではない。
いつ流れ落ちた砲弾がガラスを突き破って爆裂するとも知れず、
パルパレオスは二人に安全な場所まで避難する様に声を掛けようと手を差し出し―――その手を途中でピタッと止めた。
何故、リースが顔面蒼白になる必要があるのか? 生気の薄れた瞳で「デュラン…」と不安げに呟く必要があるのか?
デュランの率いる【ローラント】勢が中心戦力として【ファーレンハイト】間際まで押し出しているのだ。
喜びこそすれ焦燥に駆られる事は無かろう。では、一体何故そんな風に怯えているのか………………………―――――――――






(………まさか―――――――――)






そんなリースの様子を見て脳裏に閃くものがあったパルパレオスは、彼女たちに倣って窓の外へ視線を凝らした。


「おぉ………おぉ………ッ!!」


その刹那、感嘆とも、感動とも知れない溜め息が漏れる。
窓の外には、待ち望んで待ち望んで、喉から手が生え出す程待ち望んだ光景が広がっていた。
【ファーレンハイト】から遥か後方、【官軍】後衛が陣取った【バハムートラグーン】の入り口付近に、何千何万もの新たな軍旗が挙がったのだ。
ここからでも見間違えるものか。あれは、あの旗は【バレンヌ】の軍旗だ。
【賊軍】の誰もが待望した150,000騎の増援が、野を越え、山を越え、ついに【バハムートラグーン】へその威容を現した。
目的はただ一つ、専横の限りを尽くす真の悪たる【アルテナ】を打倒する事―――正義の鉄槌が、今まさに決戦場へ足を踏み出そうとしている。
【タイクーン】の独壇場となっている潟湖にも、【官軍】の背後から【バレンヌ】の大艦隊7,000艘が銅鑼を鳴らして近付いていた。






(勝てる………勝てる………勝てる………ッ!! これで【官軍】を挟撃に滅ぼせるッ!! 裏切り者めらを一掃できるッ!!)






ヨヨとリースへ声を掛ける事も忘れて、パルパレオスは一心不乱に本営へ急いだ。
勝てる、勝てる、勝てる―――彼の頭には、今、この三文字しか浮かんでいない。
つい先程まで垂れ込んでいた不安は霧散して掻き消え、勝利への希望のみが胸を弾ませた。
回廊を走り抜ける途中で何度となく立ち止まり、待ち焦がれた光景を垣間見るが、
鈍して動かぬ【アルマムーン】や【ロアーヌ】と異なり、【バレンヌ】の大軍勢は順調に【バハムートラグーン】へ突き進んでいる。
最早、何も気に病む事は無い。今すぐ本営へ戻り、全軍に総攻撃の下知を出す機(とき)。
持ち得る限りの銃砲・兵馬を総動員し、【バレンヌ】150,000と【官軍】を挟撃、これを討ち滅ぼす好機が回ってきたのである。






(サウザー………レオ………見ていろ、新時代がやって来る………お前たちは新しい歴史の礎になったのだぞ………ッ!!)






今は亡き盟主へ、戦塵に果てた朋友へ、パルパレオスは繰り返し繰り返し、勝利の喜びを誓った。
本営まであと少し。モニターの光が漏れ出したあの大扉へ飛び込めば、そこには正義の勝利が待っている。
額に汗しながらパルパレオスは最後のスパートを掛けた。


『―――敵は【ファーレンハイト】にありッ!! 我ら【バレンヌ】は災厄の【賊軍】へ正義の鉄槌を振り下ろす者なり!!』


――――――そこに待ち受けているのが、駆け込んだ瞬間にモニターから突きつけられる言葉が、
勝利への淡い希望を打ち砕き、パルパレオスを、【賊軍】を絶望の深淵へ叩き落す悪夢だとも知らずに。















「ランディ殿、モニターをッ!! モニターをご覧になられよッ!!」


拿捕した翼竜でもって天空へ飛び出し、【グランベロス】の竜騎士を殲滅したランディが【ライトブリンガー】の甲板へ戻るなり、
慌てた様子のセシルが駆けつけ、しきりにモニターを見ろと指を差す。
【賊軍】の加勢として北上してきた筈の【バレンヌ】が、人質を取って敵方の戦力を削ぐという手段に出た
【グランベロス】の卑怯を善しとせず、【官軍】への参加を土壇場で表明したと言うのだ。
丁度、今、その旨を熱弁するジェラール公自らの大演説がモニターへ投射されていた。


「………あのタヌキが………恰好を付け過ぎだ………………」


空の上から【バレンヌ】の軍勢が雪崩れ込んできたのを確認したからこそ、【ライトブリンガー】へ戻ってきたのだから、
いちいちモニターを見る必要も無かったが、そこに映された老練なる“帝王”の顔を鋭い眼光で睨みつけ、
忌々しそうにその一言を吐き捨てた。
【ライトブリンガー】の乗員の中には安堵と感激のあまり、その場で泣き崩れる者もいたが、
彼らの様子を見下ろすランディはやはり無表情を崩さず、形勢逆転が決定的になっても尚、薄ら笑いさえ浮かべなかった。


―――『ランディ殿、我ら【バレンヌ】は一旦【賊軍】へ付くと見せかけて北上致します。
 時間を掛けて、ゆっくりゆっくりと行軍し、【官軍】と【賊軍】の戦況が拮抗した瞬間、撃って出ましょう。
 凝り固まった軍勢など赤子の手を捻る様なもの。【賊軍】めら、たちまちの内に潰走する事でしょう』―――


ここで形勢逆転が成される事など、側近にさえ知られぬ水面下でジェラールと直々にやり取りし、
密約を取り付けたランディ自身が一番良く知っていたからだ。
確定されていた事項を取り上げて大袈裟に喜ぶ方がおかしい、とランディには今更何の感慨も湧かなかった。
デュランと王都【アバロン】へ出向いた次の日には、今日の勝利は約束されていたのである。


「………ランディ殿、ご気分でも優れぬのか? まるで嬉しそうで無いのだが………」
「………部屋をお借りします。返り血で塗れた服を着替えたいので………」
「………………………………………………」


どれだけ戦況が苦しくなっても、【バレンヌ】が【賊軍】へ付いたと聴かされても、ただ一人、勝利を疑わなかったわけである。
ただ一人、そう、ランディただ一人だけが【バレンヌ】の内応を知っていたのだから―――――――――













【バレンヌ】が【官軍】の加勢に入った時点で、『天下分け目の決戦』の勝敗は決したと言って良い。
中衛・後衛を守っていた【ローザリア】他各国も【バレンヌ】150,000の軍勢と共に最前線へ押し出し、
先鋒部隊の非ではない極大な塊となって【ファーレンハイト】に総攻撃を仕掛けた。
デュランたちが先導する先鋒部隊およそ30,000でさえ手一杯だったと言うのに【バレンヌ】・【官軍】の全軍まで加わって、
【賊軍】に押し返せるだけの余力が残っているわけもない。
最後の守りまで総崩れとなった【ファーレンハイト】はついに丸裸になり、矢や雨の様に降り注ぐ銃撃砲弾を無防備に浴び続け、
半ば崩落を待つのみの残骸と成り果てている。
潟湖に至ってはもっと凄惨で、【バレンヌ】7,000艘の情け容赦無い砲撃を前に【賊軍】の艦隊は爆発四散。
生存者が残っている見込みも探せないほど、無茶苦茶に破壊させられた。

大勢が【官軍】に決した頃には、【賊軍】内部の寝返りも相次いだ。その最たる例が【アルマムーン】と【ロアーヌ】だ。
【バレンヌ】が【逆賊】追討を表明した瞬間、両国は旗幟を翻して【官軍】へ下った。
これが引き金となったのだろう。決定的な劣勢を見て取った小国が次々と【アルマムーン】と【ロアーヌ】へ続き、
打倒【アルテナ】の志を誓って集結した【ファーレンハイト】を強襲、【逆賊】陣営は、内から外から破滅し、
ついに落日へ至ったのである。






(………………終わった………………何もかも………全て………………………)






【ファーレンハイト】は今や風前の灯となり、数千からなる兵団の襲撃を食い止めるべく、
甲板ではパルパレオスを始めとする本営詰めの諸侯らが最後の抵抗へ命を燃やしていた。
しかし、勝敗は既に決しており、散発的な抵抗など無意味でしかない。
一番乗りを果たした【黄金騎士団】銃士隊の狙撃によって一人、また一人と壮死を果たし、
満足に剣を振るえているのはパルパレオスくらいなものだ。


「口惜しくはジェラールの首を上げられなんだ事………義を棄てし反逆者め………、
 最後の最後で寝返りを打った【バレンヌ】を、私は未来永劫許さぬ………冥府魔道に堕ちた後は………、
 必ずやかの国に祟りを成してくれる………ッ!!」


銃撃に晒されたある国の将軍が断末魔と共に呪詛を吐き棄てて逝ったが、それすらパルパレオスは鼻で笑っていた。
鼻で笑ったのは将軍の哀れさではなく、己の浅はかさだ。
あれほど期待させながら土壇場で裏切った【バレンヌ】に対して、彼は最早憎しみや怒りと言った感情を浮かべる事すら無い。
崩れ落ちた心を虚ろな空気が吹き抜けるだけだった。頭で考えられる事の全てを、この状況は突き抜けていた。






(“寝返り”か………あるいは最初から決められた筋書きだったのかも知れんな………。
 【ジェマの騎士】とジェラール公が書いたシナリオ通りの………………)






どう考えてもタイミングが良過ぎた。【バレンヌ】が不義を感じたという【賊軍】の人質作戦自体、
【ジェマの騎士】による騙まし討ちの画策だと決戦の幕が開く前から公然の秘密と化していたわけだし、
何よりあの老獪なジェラールが事実関係を把握していないわけがない。不義を罵るなら【官軍】こそである。
それをこの期に及んで【賊軍】の卑劣という誤った情報を大義に採るとなると、
ランディと打ち合わせた通りに【賊軍】を騙まし討ちにしたとしか考えられなかった。
最初から踊らされていたのだ。偽の同盟を信じ込まされ、ランディとジェラールの掌の上で踊らされていた事に
気付いてしまったパルパレオスは、義の心を最悪の形で踏みにじられた【賊軍】総大将は、敗北を前にしても何の感慨も湧かない。
終わった―――ただ、それだけだった。


「………【黄金騎士団】総隊長、ブルーザー・K・ジャマダハルだ。
 サスァ・パルパレオス・ヴァン・デル・サンフィールド殿………この上は悪戯に犠牲を増やす事なく縛に付かれよ」
「………………【黄金の騎士】か………………………」


どこまでも皮肉なものだな、とブルーザーを前にしてパルパレオスは自嘲の笑みを浮かべた。
ジョスター・アークウィンドの号令のもと、【アルテナ】への反逆を企てた旧【ローラント】も
終焉は先代【黄金の騎士】ロキ・ザファータキエにもたらされたと言う。【社会悪】を挫く【黄金の騎士】に、だ。
今まさに自分もジョスターと同じ結末を迎えようとしている。
そうか、民への義を貫かんとした自分は【社会悪】なのか。【悪】として罰せられるべき罪人なのか。
なんとも皮肉で、どこまでも滑稽で、絶望ではなく笑いがこみ上げて仕方が無かった。


「―――――――――【悪】ならば………民より誹りを受ける【悪】ならばこそ、
 我一人になろうとも無様に抗って見せよう………【正義】を纏う貴殿らにとっても、【悪】は醜悪であればあるほど宜しかろう?
 討ち果たした栄誉は、相手が無様であればあるほど輝くものだ………」
「黙れよ、この外道ッ!! こんなにもたくさんの犠牲を出す乱を仕掛けておいて、今更ご大層な口を叩くんじゃねぇッ!!」


ブルーザーの脇に控えていた緑髪の騎士が、不遜とも取れるパルパレオスの自嘲へ激昂し、
肩から提げていたライフルでもって彼の腹を2発、3発………と銃撃した。
「止せ、ユリアンッ!」とブルーザーが止めるまで続いた銃撃は、腹、太腿、肩と都合6ヶ所を射抜き、
パルパレオスから戦う力を殺ぎ落とした。
利き手を打ち抜かれ、反対の肩も骨をやられた。騎士として剣を取る力まで奪われた今、彼の胸に去来するのはただただ“無”。
正にも負にも揺らぐ事のない、一切を超越した“無”の境地にパルパレオスは跪いていた。


「退けッ!! 退けェッ!!!!」


【賊軍】総大将の無様な姿を苦々しそうに睥睨していたブルーザーだったが、やがて意を決した様に二刀を翳し、
餞の一撃を振り落とした―――その時、パルパレオスの背後から何者かが猛然と駆けつけ、
交差して閃いた断罪の刃を受け止めた―――身を挺して受け止めていた。

「………ドリスコル殿………」
「お前にはお前の死に場所があるだろうッ!?」


医務室で安静にしていた筈のドリスコルが、ブルーザーの二刀を正面から刻み込まれながらも
仁王立ちして立ちはだかる最後の猛将の姿がそこにあった。


「死に場所を選べる者は戦場でなど逝かず、あるべき場所で果てろッ!!
 還れッ!! 待つ者のいる場所へ還って、そこで果て―――――――――」
「この野郎ッ!! 撃てッ! 撃てェッ!!」


肩口へめり込んだ二刀を最後の渾身でもって押さえつけたドリスコルは、そのまま振り返る事無く、
パルパレオスに退けと訴えかけた。どこまで届いたかは分からない。
それでも彼は血ヘドを吐こうとも諦めず、声を嗄らして絶叫し続けた。退け、還れ、と。
絶叫の最後は、数人の銃士から一斉に浴びせ掛けられた銃撃の炸裂音によって揉み消され、
何を伝えたいのかも分からなくなっていた。






(………………………運命は武人として死ぬ場すら俺から奪おうと言うのか………………………)






呆けた様に腰を抜かしたまま立てずにいるパルパレオスは、僅かに残った部下たちに艦内へと引き摺られていく最中、
初めて真っ暗な絶望に満たされた。
虚ろに惑う視線の先には、武人として勇敢に果てながらも100に近い銃弾を浴びてズタズタに引き裂かれ、
無残な末期を晒す事になったドリスコルの骸が―――――――――………………………。






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