砲撃を受けた際に出火したのか、【ファーレンハイト】艦内は炎に包まれ、
右も左も不覚へ陥るほど、朱に塗りたくられていた。
部下に支えられながら、炎の回廊をパルパレオスは私室へ向けてひたすら歩き通した。
ドリスコルが最後に与えてくれた“遺言”を果たす為、無様を晒す事も恥と思わず、歩きに歩いた。
全てを焼亡せしめる炎の海が却って彼の心へ落ち着きを取り戻させたのだから、これもまた皮肉な事である。
炎は一時の太陽となって、パルパレオスの心に救った漆黒の影を拭い去っていた。


「………………パルパッちゃん」
「タカマガハラ殿………………」


灼熱に蝕まれていく【ファーレンハイト】から今まさに脱出を図ろうとしていた【LIVE・あ・ライフ!!!】の面々と
回廊で鉢合わせしたのはそんな時だった。
いよいよ事態が困窮へ至った今、見咎める必要は無いのだが、その中に人質として囚われていた筈のリースの姿を見つけた事から
彼らの間に微かな戦慄が走る。
こうなった以上、人質の一人でも見せしめとして磔にしよう―――身体を支える部下の誰かがそう呟いた。
最後の、本当に最後の抵抗である。人質のリースを惨殺し、せめて一矢を報いようと言うのだ。


「………………………」
「………………………」


――――――怒涛の勢いで炎が渦を巻く中、冷たい殺気を間近に感じながらマサルとパルパレオスが睨み合う。


「………よい………捨て置け………」
「し、しかしながら、パルパレオス様、この者は人質で―――」
「………これ以上、晩節を汚すのは忍びない………違うか………?」


先に眼を反らしたのはパルパレオスの方だった。
マサルの視線から逃れた彼は、なおも「天誅を」と食い下がる部下を「誇りを六門銭に変えて死のう」。そう柔らかく諭した。
そうして、マサルたちにリースを引き連れて脱出する様に促す。
それは、最期の最後まで公明正大な騎士として潰える決意の表れでもあった。






(………………そうか、彼らこそ密偵だったか………………)






【賊軍】の敗北が決した際に危害を加えられる事が予想される人質・リースを救う為、
【官軍】側から密偵が潜り込んでいるとは薄々勘付いていたが、まさかそれがマサルたちだったとは想定外である。
だが、冷静に考えてみればリースと親しく、かつ芸人でありながら無類の強さを備えた【LIVE・あ・ライフ!!!】ほど
その任に打ってつけの逸材はいない。なにしろ興行と称して艦内を自由に動き回れるおまけ付きなのだ。
こんな初歩的な事さえ失念していたとは………パルパレオスは改めて己の不届きに唇を噛んだ。






(………思えば、俺は至らない事ばかりであったな………敗れたのも必定かも知れぬ………)






狡猾な【バレンヌ】の罠を見破れずに大増援と歓喜し、甘受した自分の先見性の無さに苛まれる。
【ロアーヌ】はともかくとして、【アルマムーン】の裏切りを招いた一因は間違いなく自分にあった。
部下を労う為とは言え、もう少しでも自制の厳しさを持ち、興行さえ企画していなければセバスチャンの怒りを買う事も無く、
【アルマムーン】は本腰を入れて【獣王義由群(ビーストフリーダム)】と戦ってくれたかもしれない。
セバスチャンを敵に回した事が大なり小なり影響していたに違いない戦局を振り返り、
パルパレオスは、結果的に信頼を裏切ってしまった【アルマムーン】の人々へ心の中で頭を垂れた。






(――――――これで良かったとも思えるな。俺は、愚直なままで良かったのだ、と………………)






満足などはしていない。納得など出来るわけがない。心の中には後悔しか浮かばない。
だが、部下にも礼節をもって接し続けたからこそ、今、こうして傷ついた身を支えて貰えるのだ。
戦には敗れた。しかし、せめて最期は人間らしく終われる―――それだけでパルパレオスは【官軍】に、
否、人間を止めて修羅と化した【ジェマの騎士】ランディに勝てた気がした。


「パルパレオスさん、私―――」
「………マッちゃん殿、彼女の事をくれぐれも頼みます」


何かを言いかけたリースを遮る様にしてパルパレオスは初めてマサルを愛称で呼び、最後の願いを託した。
マサルは、ほんの一瞬、やるせない哀しみを瞳に浮かべ、持ち直し、答えを待つ彼へ、
努めて明るく「合点承知」とサムズアップで応じた。


「“マッちゃん殿”―――か………、なかなか斬新な切り口で来たものだ。
 言葉遊びとしてはなかなかキテいると思うのだが………どうだ、貴様、我らと共に参って―――」
「―――ダメよ、貴方………」


さりげなく脱出を示唆した邪眼の伯爵だったが、傍らに控える美獣がそれを制した。
敗軍の将となった彼の気持ちを本当に考えるのであれば、安直な憐憫はご法度にすべきなのだ、と。
勿論、美獣に却下されるまでもなく、パルパレオスは首を横へ振るつもりでいたが。


「―――グッバイ、マッちゃん殿」
「グッバイ、パルパッちゃん―――」


ほんの僅かな時間ではあったものの、貴方たちと出会う事が出来て本当に良かった―――
―――最後に交わした茶目っ気たっぷりなやり取りには、そんなパルパレオスなりの感謝が込められていた。
だから、受け取る側のマサルも、精一杯明るく楽しげに答えたのだ。
見送られる人間が蟠りを残してしまわない様に、震える頬を力ずくで抑えて、ただひたすら、明るさ一杯の笑顔で。






(―――――――――まるで………これはまるで………あの日の【ローラント】と同じ………………………)






マサルとパルパレオスの永別を見ていられなくなって俯いたリースは、そこにかつて失われた故郷の幻影を見て、
自分で望んだ選択であるにも関らず、【官軍】の勝利が本当に正しかったのかどうか、自信を持てなくなっていた。
【官軍】の手の者によって着火された炎は、女子供問わず【ファーレンハイト】に在る全ての命を容赦なく焼き払う炎は、
地獄の悪魔の息吹と似て酷く冷酷で、同じ人間が成した所業とは感じられない。
リースは以前にもこんな炎を見た事があった。そう、【アルテナ】の理不尽な侵攻によって滅ぼされた故郷に渦巻いた炎が、
丁度【ファーレンハイト】を包んだそれと同じ様に、冷たく、黒く、獰悪さを燻らせていたのだ。


「………………………これが…私の選んだ―――【正義】………………………」


その呟きも、渦を巻く炎に焼かれ、消し炭となって何処かへ消えていった。















何発かの銃声をドア越しに背中で受け止める。【官軍】の討手が艦内にまで到達したのだろう。
反響の大きさからして、それほど遠い区画ではない。
とすると、的にされたのは、私室の入り口まで自分を支えてきてくれた部下たちか。
平然と裏切りをやってのけた【バレンヌ】などと異なり、最後まで忠義を尽くしてくれた者たちだけに、
無情の銃火へさらされたのかと考えると、心に苦く走るものがあった。


「………おかえりなさい」
「………………………」


そんな、やるせない思いを抱きながら私室のドアを閉めたパルパレオスは、そこに意外な物を見、
極限の状況だと言うのにも関らず、呆けた様に眼を見開いたまま硬直してしまった。
ヨヨが、妻がそこにいた―――いや、待っていてくれるとは思っていたが、まさか「おかえりなさい」などと
恭しく出迎えてくれるとは全くの意外である。
そもそも、きちんとした形で「おかえりなさい」と出迎えてもらったのは、彼女を娶ってから初めてだ。
意外と言うよりも虚を突かれた様な思いがパルパレオスの口元を綻ばせる。
嬉しさともせつなさとも取れる、それはとても複雑で感慨の深い微笑だった。


「………ただいま、ヨヨ」


彼女なりに何か想うところがあるのだな、と一人ごちたパルパレオスは、双頭竜をあしらった兜を乱暴に脱ぎ捨て、
礼儀正しい彼にしては珍しい粗野な行為に驚くヨヨの唇をまたも乱暴に、強引に奪った。
一瞬、身体を固くしたヨヨだったが、最初で最後の夫の“素”を察してか、痛いくらいに抱き締めてくるパルパレオスへ全てを委ねた。
炎の中の抱擁―――文字にすれば格調高い字面となるが、夫婦が抱き合う私室にも激しい勢いで火の手は回っており、
生と死の境目である事に変わりはない。


「………今日は随分と力ずくなのね、サスァ」
「痛かったか? ………痛みを残せたなら嬉しいな。
 そうすれば、最後の瞬間まで、お前は俺を一番近くに感じていてくれるのだから」
「詩的ね。変質的な匂いを感じさせる内容でなければ、どんな女性でも立ち眩みを起こすわよ?」
「茶化すなよ、今日くらいは。………どんな女性も俺には不要だ………お前だけでいい」
「ホント、今日のサスァには驚かされっぱなしね。
 いつもはこっちが欲しがっても言ってくれない嬉しい事を何度も繰り返してくれるんだもん。
 こんな時でなければ痺れてしまうわ」
「こんな時だからこそ痺れてくれ、な」


“脱出不能に置かれた極限の状況は、普段は抑圧されていて表に出ない部分を吐き出させる”。
実しやかに囁かれる心理学の一片だが、その類例に当てはめるのであれば、現在のパルパレオスも丁度そうした状態なのだ。
普段は抑圧―――と言うよりは照れ臭くて伝え切れない想いを、愛する妻へストレートに語り聞かせる彼の頬は
炎の彩りよりも更にビビッドな朱色へ染まっていた。


「………ヨヨ」
「………ええ、解っているわ、サスァ………私は貴方の妻だもの。私たちは、永遠に夫婦よ」


いよいよ炎が全てを包み込もうとしている。【ファーレンハイト】の全てを焼き尽くそうと息吹を強めている。
最期の瞬間が、刻一刻と二人へ近付いていた。
その渦中にあって、パルパレオスとヨヨは向かい合ってテーブルへ腰掛け、やけに静かな面持ちで見詰め合う。
世俗の感情と言う物を落としきった、どこか浮世を達観した様な静けさの漂う眼下には、
揃いの意匠が凝らされた短剣が、それぞれ一振りずつ置かれていた。
ヨヨの手元にある一振りは、享楽半分にリースの眼前へちらつかせた物だ。
夫婦の護りとして買い求めたこの短剣で互いの喉を刺し違え、果てよう―――夫から告げられた言葉にヨヨは瞳を閉じて頷いた。


「―――その前に、最後の乾杯をしない?
 シェークスピアじゃないけれど、私、最期はワインを傾けて逝きたいと考えていたのよ」
「………別れの杯と言うわけか………気障には無縁のつまらない人生だったが、
 最期ぐらいは気取っても良いかも知れないな」


夫婦向かい合ったテーブルの片隅には、おあつらえ向きに葡萄酒と銀製のワイングラス二つ。
炎の中の抱擁に続いて、別れのワインを傾けると言うのか。パルパレオスは笑いに笑った。
ヨヨとのやり取りでも語ったが、堅物な武人として生きてきた彼にとって、
まるで映画のワンシーンの様に洒脱な遊び心は興味の対象外であったし、気難しさが前面に出る自分の顔つきでは
ヨヨに付き合って気障を決めてみても恰好がつかないと決めていたから、今日まで意固地に堅物を演じてきたのだ。
だが、最期の最後に恋愛映画のラストシーンめいた洒脱を遊ぶのも面白い。
ヨヨから葡萄酒の並々注がれたワイングラスを受け取りながら、パルパレオスはそんな事を考えていた。


「………さて、何について乾杯しようか………」
「私たちが来世でも夫婦になれる喜びに―――って言うのは、どう?」
「………一興だ」


抑圧から解き放たれた今なら、生きる事に突っ張らなくても良いのだと、溜め込んだ重い息を吐き出せた今だったら、
どんなに気恥ずかしい事でも云えそうな気がする。
しばしの間、資材の焼け付く不快な音以外は全てが静まり返った中で見つめ合い、
それからチン…とグラスの口同士を軽く付け合ったパルパレオスは、今生最後の杯を一気に傾けた。






(………………思えばヨヨは俺にとって最高の女だったな………………)






元々ヨヨは【カーナ】と言う小国の若き女王だった。
運気に恵まれず【グランベロス】の侵攻で故郷を焼け出され、帝国の捕虜となった彼女を哀れんだパルパレオスが
彼女を独房から救い出した事から縁が始まり、今日という日を迎えたのだ。
極めて奇妙な縁だった、と今になっても首を傾げてしまう。
敵国の将軍と亡国の王女という取り合わせ自体、どこをどう考えても異常であり、現に婚約をした際には
【グランベロス】内外から醜聞として袋叩きにされていた。
おまけにヨヨと来たら、【カーナ】時代の癖が抜け切らずに贅沢三昧。態度だってお世辞にも宜しいとは言えず、
談笑する相手に傍若無人な振る舞いを突きつける事など常である。
「私は強い男が好き」と公言して憚らない貞淑さを欠いた彼女と、ここまで夫婦としてやって来られたのは、
お互いの譲歩や愛を超えたところで何か別の力が働いているとしか考えられなかった。






(―――――――――それが縁という物なのかもしれないな―――――――――)






気品の良いパルパレオスとは絶対に反りが合わない筈だったヨヨと夫婦関係を維持し、
こうやって壮絶ながらも幸福な結末を迎えられる一番の原因を探っていくと、最後には“縁”という一文字へ行き着く。
人間の感情を超越して夫婦を結びつけるものがあるとすれば、それは“縁”以外に考えられない。
パルパレオスは、彼女と過ごした日々の答えをその一文字へ見つけた。






(ドリスコル殿、貴方が託してくれた“遺言”を果たせそ―――――――――………………………ッ!?)






魂で結ばれた“縁”は未来永劫に消え果る事は無いに違いない。俺たちは永遠に夫婦だ。
ドリスコルが残してくれた道は、武人として果てる勇猛な末路には繋がっていなかったものの、
その代わり、夫婦としてこれからもずっと共に生きようと誓う永遠への門出を拾い上げる事が出来た。
逝って、往こう、この先も、永遠に―――――――――婚礼の日に【女神】へ誓った時と同じ想いで
改めて妻と約束を結び終えたパルパレオスは、ワイングラスを置くと、静かに短剣へと手を掛けた。


「―――――――――あ………ゥ………が………グ………ッ!?」


――――――短剣を鞘から引き抜こうとしたその瞬間である。
幸福の一酔に浸ったままで逝けると思っていたパルパレオスは、突如として喉が焼ける痛みを覚え、
夢見心地から苛烈な現実へ急激に引き戻された。
自分に起こった異変の正体が判断できず、呻き声すら搾り出せないほど焦げ付いた喉と、
もっと奥底の―――火が点いた様に焼け付く胃の激痛を堪え切れず、ただただ身をのた打ち回らせる。


「愚鈍な男よね、ホント、どこまでも愚鈍。そんなんだからダサい連中に足元掬われるのよ」
「あぐ………ッ………ご………っ…ぎ………………ッ」
「ひゃっはははははは♪ 何言ってるか全然わかんないってば♪ バカ? ねぇ、バカ?
 今のサスァってば、どうしようもなくおっかしいわよ♪ 喜劇王にもなれるんじゃない?」


喉を、胸を掻き毟って苦しみだしたパルパレオスの目の前に、真っ赤な液体が滝を作って零れ落ちた。
それは、今さっき飲み干した物と同じワインだ。酷く霞む視界で必死に見上げると、ヨヨが自分のグラスを裏返して滝を作っていた。
苦悶のあまり瞳孔が開きつつあるパルパレオスの眼球が、輪郭線でも捉えきれたか疑問は残るものの、
見上げたヨヨの表情は、とうとうテーブルをひっくり返し、地べたへ這いまわって苦しむ夫の無様を
まるで喜劇でも観賞しているかの様に明るく輝いていた。


「青酸カリってホントに効果覿面なのねぇ♪ こうも簡単にくたばってくれると逆に面白みが無い気がするわ。
 折角なんだから、ホスゲンあたりを選べば良かったかなぁ〜」


視界が完全に閉ざされても聴覚はまだ微かに生きていたらしく、
狂った様に哄笑するヨヨから信じられない言葉を吐き捨てられたパルパレオスは、
慈悲も何もあったものではない妻の笑い声のする方へ手を伸ばした。
炎の勢いすら凍りつかせる様に狂々と笑いつづけるヨヨの腕を取ろうと必死にもがき、空を掴んで―――――――――力を失った。


「ずっと前から言ってたでしょ? 私は“強い男が好き”だって―――使い道の無くなったアンタなんかもう用済みって事なんだよ。
 死に顔を看取ってもらえるだけ感謝しなね………総大将サマ♪」


叫びたかったのは、果たして、あってはならない裏切りを犯した妻への怨嗟か、最後まで人間の裏を見通す事の出来なかった自分への悔恨か。
既に色素を失っている瞳を剥き「―――あぐぅッ!!」と天に向かって支離滅裂な断末魔を咆哮したパルパレオスは
全身を流動する全てを吐き尽くしたのではないかと思えるほど大量に喀血し終えると、
凄まじい形相を浮かべたまま固まり、それから二度と動く事は無かった。


「―――ンっふふ♪ これこれ、この顔♪ なんべん見てもたまんないわぁ〜♪
 絶対裏切られないって信じきってた人間に 踏みにじられて転落したバカの顔、サイコー過ぎて、ヨヨ、感じちゃうン♪」


絶命と引き換えに何かを訴えている様にも見れる夫の顔を乱雑に掴むと、その首筋へ短剣を押し当て―――――――――






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