夜半を過ぎた【ケーリュイケオン】の人影は漫ろで、警護に当たるロイヤルガードや業務が残った徹夜組の政務官らと
廊下ですれ違う回数も決して多くはない。
とは言え、デュランとマサルにすれ違えば誰もが直立不動し、緊張ながらに一礼するのは昼夜同様だ。
先の大戦で最大の功労を挙げた、ともすれば雲上の二人であるならそれも無理からぬ事ではあるが、
周囲の人々を緊張させる要因は彼らの格式以外にあった。


「思えばあれだな、お前もすっかり立派な政治家になったもんだな、御屋形様よォ?」
「お前にしちゃ随分ストレートな皮肉じゃねぇか。そのテの読本で予習でもしてきたか」
「皮肉を皮肉で返すのも政治家には必要だわな。一種のパーティージョークってヤツか」
「元気よく言い掛かりを付けてくれてるとこ、悪ィんだがよ、俺は為政者に成り下がった覚えは無ぇぜ」
「こないだの大合戦からこっちまで、お前ェが取ってきた行動を振り返ってみやがれ。
 全部が政治家サマのご英断じゃねーか」
「そのココロは?」
「“人の命を政治の道具にしやがった”。お後なんざまるでよろしくねーぜッ」
「………本格的に言い掛かりだな、こいつは」


直立不動する人々など眼窩にも入れず、周囲を憚らずに喧々諤々と討論する様子を見せ付けられれば、
何事かと緊張してしまうと言うものだ。
怒り・憤り・反骨、語気のいちいちへ二人は剣呑さを込めていた。


「それじゃ訊くぜ、御屋形サマ。
 大将がやられて【ガストラ】の兵士たちが混乱してる時にお前はどうして真実を語ってやらなかった?」
「レオ将軍を殺めたのが実はランディだと語って聞かせてやれば良かったってお前は言いたぇわけか?」
「人の道ってのは、そういうもんだと俺は考えてるぜ。政治家と脳みその造りが違う俺はよ」
「寝言ほざくんじゃねぇ、このバカッ! 大将やられて混乱し切ってる部隊をこの上更に逆上させてどうなるんだッ!
 正々堂々と戦えば良かったって言うのか? それこそ人の道とは思えねぇ虐殺になってたろうぜッ!」
「混乱に付け込んだ政治家サマに騙されて味方へ嗾けられるより、ずっとも上等な道じゃねーの」
「上等だろうが何だろうが、死んじまえば元の木阿弥だっつってんだよ。
 確かにあいつらは騙されて寝返った。けどな、いち早く【官軍】へ寝返った功績を認められて、
 【社会】に乱を起こした罪は一切の赦免だ。【ガストラ】は晴れて領土安泰。兵士たちも家族のところへ無事に帰れる。
 大勢の命を拾う為の判断だ。俺は誤ったとは思わねぇ」
「騙されたけど生き残れて御の字―――そんな風にうまく事が運ぶと思うか?
 どんな理由があったにせよ、味方を手にかけちまった痕は、この先、一生消えねぇよ」
「………生きて残ってさえいれば、痕はいつか必ず癒える。
 泥に塗れた生の大切さを、華々しい死に方で隠そうとするんじゃねぇ」
「みんながみんな、お前みてぇに強い人間にはなれねぇんだよ。
 ………それにな、お前の言ってる事をさっきから聴いてっと、アレだ、アレ。
 計算式ばっかじゃねーか。寝返ったから生き残れただの、判断は誤ってねぇだの」
「バカはバカなりに考えて行動してんだよ」
「そういう考え方が政治家サマだっつってるわけよ、俺はよォッ!」


一体この二人はどこへ向かおうとしているのだろうか。
おそらく目的とする部屋があるものと思われるが、【ケーリュイケオン】を右へ左へ進むデュランとマサルは
エントランスに立ち入る前からこうした討論を繰り広げており、正直、そこで業務に励む人々には良い迷惑だ。
直立不動で一礼する誰もが、「早く目的地へ着いて静かにしてくれ」と心の中で声高に抗議していた。


「それにな、ちゃあんと耳に入ってるぜ、お前の悪行は」
「………俺も叩けば埃の出る身だからな。
 思い当たるフシが多過ぎて、どれが該当してんのか分からねぇぜ」
「寝返り組の【ガストラ】を生き残らせようと奔走したのは他ならないお前だそうじゃねーか」
「俺は口添えしただけだ」
「悪ィな、お前んとこと同じ様に俺も上等な密偵を世話しててね、お為ごかしは通用しねぇぞ。
 ………寝返り組の中でも主戦力として歯向かってきた【ガストラ】を
 ハナからランディは助けるつもりが無かったそうだな。見せしめに全員処刑台へ送るとかなんとか」
「それを止めただけだ、俺は―――」
「―――ヨヨ・サンフィールドの処刑を引き受ける代わりに敗残兵を生き残らせろって要求すんのが聖人君子の務めか?
 “止めただけ”ェ? オブラートにも包み切れてねぇんだよッ! 命の差し引きをカッコつけんじゃねぇッ!!」
「カッコなんかつける気はさらさら無ぇ。
 ………ヨヨ・サンフィールドを処刑した事実は未来永劫、【ローラント】の汚点として残っていく。
 俺はそれを自分の原罪として受け止める覚悟だ」


人道を外した背任の罪に問われ、処断されたヨヨの極刑の裏側に秘された超法規的取引を指摘されたデュランは
鋭い糾弾でもって睨みつけてくるマサルと視線を交え、静かに反論を並べ始めた。
――――――足並みだけは、なおも先を目指して進む。


「お前が言った通り、俺はヨヨ・サンフィールドの処刑を引き受ける代わりに【ガストラ】を救う様、ランディへ掛け合った。
 ………そうだ、これはお前が言う命の差し引きだよな。
 否定はしねぇ。キレるんならキレろ。殴るんなら好きに殴れよ」
「開き直ろうってワケかッ! 今度はッ!!」
「そうじゃねぇ―――向き合うんだ、俺は………自分の下した判断に」
「………向き合う………だぁ?」
「俺は今でも自分の判断が誤りだったとは考えてねぇ。自信を持って正しかったと胸張れるよ。
 あの時―――ランディがレオ将軍を手にかけた時の事だ。
 【ガストラ】を向こうに回して決闘する事だって考えたさ………なんつったって、元・【狂牙】だからな。
 一度刃を交えた相手は、何があっても全力を傾けて倒すのが礼儀ってもんだ」
「じゃあ何でそうしなかった? 言葉で騙すやり方なんざらしくねぇッ!!」
「それが無念の中で死んじまったレオ将軍への、俺なりのケジメの付け方だと思うからだ」
「………………………」
「お前は直接【バハムートラグーン】の有様を見てねぇから理解に苦しんでんだろうが、
 あそこは阿鼻叫喚の地獄そのものだった。
 誰が味方でどいつが敵かの区別も付かねぇ。レオ将軍がやられた直後は特にこいつが酷かった。
 ―――狂気しか無かったよ」


ホークアイの一声で瞬時に狂乱へ塗り変えられた【ガストラ】敗残兵の姿を思い出すと、
今でもデュランの背筋には冷たい戦慄が走る。
一旦暴走を始めた歯車を相手に正論を説いて聞かせたところで元に戻す事は出来ただろうか?
顔面を修羅の形相へ歪めて息巻く逆上の徒を平静に鎮める事など出来ただろうか?
何度自問しても、どれだけ別の選択肢を模索しても、弾き出される答えは『NO』だった。


「騙して扇動して、元の味方へ【ガストラ】をぶつけるのは確かに非情だ。
 頭のネジが壊れた外道のやる悪行(コト)だよ、ああ、認める。
 だがな、言い訳をさせてもらえるなら、俺はあんな狂乱の中で【ガストラ】の兵士たちに死んで欲しくなかったんだ」
「大した偽善者―――とか言われそうだぜ、お前のその口上」
「自分でもビックリするぐらいふざけた偽善さ。
 でも、俺はあんな狂った戦場で【ガストラ】の勇者たちと戦いたくなかった。
 正々堂々が通用する場所だったなら、俺は喜んで真正面から突っ込んでいったぜ」
「戦場に違いがあるもんかよ。命と命が軋みと悲鳴をない交ぜにしてぶつかる場所に違いなんて」
「お前は【バハムートラグーン】を知らねぇからそういう事が言えるんだ」
「ナメんなよ、デュラン。俺だって傭兵あがりなんだぜ? 戦場ってもんを知らないわけじゃ―――」
「―――俺たちが渡り歩いた戦場とはまるで違ったんだよ、【バハムートラグーン】はッ!」
「………………………」


思わず強い口調でマサルの反論を遮ってしまったデュランは、その事を悪く思いながらも、
彼が黙りこくっているのに乗じて苦々しい声色を続けた。


「裏切りに扇動に心理の操作、情報工作―――武力の裏側でやり繰りされる駆け引きは
 大なり小なりどこの戦場でもあるもんだ。【キマイラホール】ん時だってまんざら無縁だったわけじゃねぇ。
 ところが【バハムートラグーン】はこいつが表に出てきやがった。
 ………裏側に隠されてなけりゃならない戦の醜さってヤツが、前面に押し出してきやがったんだよ」
「………………………」
「戦場は命と命がぶつかり合う極地。だからこそ、お前が言う様に正々堂々としてなきゃならねぇ。
 そうでなけりゃ、勝った者には誰も随いてこなくなる。
 上手な策略で、今度は民衆を陥れるんだろうと疑心暗鬼を生み出す。
 民衆を惑わせる醜い部分は裏側に押し込めておかなきゃならねぇってのに、【バハムートラグーン】は………」
「爪弾きにしてくれるなよな。俺だって【ファーレンハイト】で戦況を見守ってた傍観者なんだぜ?
 直接戦場に立ったわけじゃねぇけど、大体の事は把握してるぜ。あくまで“理解”じゃねぇけどな」
「………なら、話は早ぇよな、あの戦場がどれだけ惨いもんだったのか。
 魂でなく策謀が物を言わせたあの戦場で………あんな狂った場所で志を持ったヤツらを死なせていいわけが無ぇ―――
 ―――正当化にしか聴こえねぇだろうけど、俺はあの時、本気でそう思ったんだ」
「―――ああ、正当化にしか聴こえねぇな。哀れな兵士たちを助ける為に無抵抗な女を惨殺した悪行の正当化にしか、よ」
「………………………」
「自覚が無い様だからもういっぺん繰り返してやるけどよ、お前の言ってる事は、
 全部ッ! 丸ごとッ!! 命の差し引きを美化してるだけにしか聴こえねぇッ!!」


いかにも苦渋の選択に違いない。だが、マサルにはそれを正論として飲み込めるだけの用意は無かった。
戦場に立った当事者とそうでない傍観者という立場の違いが少なからず影響を及ぼしている二人の“正論”は
どうやっても相容れないもので、デュランが言葉を重ねれば重ねるほど、
マサルには、彼が自己を正当化へ取り繕っている様にしか見れないのだ。
両者譲れない討論は、それから数分の間、沈黙の睨み合いが続いた。


「―――だけど、それでもお前は受け止めて行こうってのか?」
「………ヨヨ・サンフィールドの命を別の命の代償に使ったのは俺の判断だ。
 この先一生、いや、子々孫々罵られ続けるだろう汚点と、俺は向き合う覚悟だぜ」
「お前のやり方やそういう態度が許せねえから………俺はお前と縁を切る―――そう言ってもか?」
「………………それが、報いなら、俺はそこから逃げたりしねぇ」
「………………………」


と、その時、二人の歩みが止まる。
目の前には、何人も拒絶する様に冷たく聳える鉄製の扉。部屋の主のメンタルを象徴するかの様な扉――――――
――――――デュランとマサルは、ランディの執務室の前に立っていた。















「今日を限りに一切の官職を辞して隠遁しろ、ランディ」
「………乱入早々ご挨拶じゃありませんか、デュランさん。
 今は戦が終わった直後だ。行動に常識を伴ってもらわなければ【賊軍】の残党と間違われて
 銃殺されても文句が言えませんよ」
「重ねて要求する。今日限りで隠居しろ」
「………………………」


ノックや声掛けと言った配慮も無く、突然ドアを開けて入ってきた二人の無礼にはこれといった起伏は見せなかったものの、
執務室へ足を踏み出すなりデュランが突きつけてきた要求は無節操な行動の何倍も不躾なもので、
感情の乏しいランディもこれにはさすがに眉を顰めた。

現在、【ジェマの騎士】の為に特別に宛がわれた執務室にはランディ、デュラン、マサルの三人しかいない。
片時も離れないのが務めである秘書のパメラは、先の合戦で味わったショックが原因で体調を崩して休職しており、
アルベルトもアルベルトで【バハムートラグーン】に亡骸を野さらす戦死者たちの追悼を行う為、
ブライアンやヴィクターらと現地へ飛んでいる。
決戦の事後処理を部下へ任せ、自分だけ一足早く【ケーリュイケオン】に戻ってきたランディと
デュラン、そして、マサルはライティング・デスクを隔てて向かい合っていた。
二人が不躾の乱入を図った時、ちょうどランディはデスクの上に敷かれた世界地図と睨めっこしていた為、
【ジェマの騎士】とそうでない人間が文字通り線引きされた恰好になったわけである。


「ちょ、ちょっと待てよ、オイ! 隠居ってなんだ? お前、ランディをどうしようってんだ!?」
「【バハムートラグーン】の戦でお前が負うべき戦争責任が、それだ。
 【アルテナ】軍の階級を捨て、【ジェマの騎士】の聖号をフェアリーに返上し、隠居するのがお前の義務…いや、贖罪だ………ッ」
「敗軍の将ならいざ知らず、勝った側の人間がペナルティを課せられるとは前代未聞ですね。
 僕が目を通したどんな戦史関連の書籍にも類例が見当たりませんでしたよ」
「当たり前だ。お前は【イシュタリアス】全史を紐解いても類を見ない最低の【ジェマの騎士】なんだからな。
 お前と同じ道を歩んだ人間なんぞいるものか」
「………言ってくれますね、デュランさん………」
「無視をすんじゃねぇよッ!! この野郎、てめぇ、何様だッ!?
 どうしてランディに隠居を迫るかって聴いてんだよ、俺はッ!!」
「マサル、口を挟むんじゃねぇッ!!」
「るせぇッ!! 挟ませてもらうぞ、畜生ッ!! てめぇの指図を受ける筋合いは無ぇんだよッ!!」
「………火を吹くなら責任をもって最後まで吹いていただけませんか。僕も時間が有り余っているわけではないんですよ。
 マサルさん、貴方の様にエヘヘオホホと気楽にやっていられる仕事では無いんでね。
 だから、少し黙っていてもらえませんか? デュランさんとの話し合いが済んだら相手をして差し上げますから」
「―――あぁッ!? なんだその態度はァッ!? てめぇ、俺はてめぇのフォローをだなぁッ!!」
「………それが時間の無駄だと言っているんですよ。貴方は話が長く、すぐに脱線する。
 僕を援護したいのであれば、それ以上の無駄口を慎んでいただきたいものですね」
「てめッ!!」
「またそれか。そうやって何かに言い掛かりを付けて楽しいのか、てめぇ。
 【グランベロス】を潰したら今度はマサルかよ」
「………誇大妄想に等しい突飛さだな―――まさか、僕の性根の悪さだけを理由に、
 大した政治的理由も無しに、ただ気に食わないからと隠居を申し付けにいらしたのですか?
 だとしたら、貴方も大概お暇な方だな、デュランさん。
 ―――暇を持て余しているなら、ちょうど良い。【ローラント】へ依頼したい残務があるのですよ。
 しぶとくも逃げおおせた【賊軍】の残党狩りに各部隊も手間取っている様でしてね。
 そちらに当たってもらえませ―――」
「―――断る。これから隠居する人間の指図を【ローラント】が受ける謂れは無い」
「………是が非でも僕を隠居させたいらしいですね、貴方は」
「“させたい”んじゃねぇ。俺はてめぇが隠居するのを見届けに来ただけだ。
 誰よりも重い戦争責任をしょってるてめぇには拒否権は無ぇんだよ」
「………デュラン………」
「解ったらとっとと荷物まとめて故郷(さと)へなり何なりへと消えな。
 ………お前がそこでふんぞり返ってるのを見るだけで虫唾が走るぜ」
「………………………」


だが、その線引きもたちまちの内に断ち切られ、すぐさま三者入り乱れての睨み合いとなった。
これではまるでデュランとマサルが先ほどまで廊下を舞台に繰り広げていたやり取りの延長だが、
飛び交う内容は更に深刻で辛辣だ。殆ど口論に近い。


「戦争責任、戦争責任とバカの一つ覚えの様に並べ立ててくれますけど、じゃあ、僕が何をしでかしたとおっしゃるのです?
 適切な説明がなされない以上、こちらとしても受諾するわけには参りませんね」
「………まさか、この期に及んでヨヨ・サンフィールドの処刑を引き合いに出すんじゃねぇだろうなッ!?
 てめぇで屠っておいて、今更ランディに責任転嫁しようってんなら、まじで前歯捻じ切ンぞッ!?」
「ヨヨ・サンフィールドの一件は俺が責任を持つと宣言したばかりだろうがッ。
 これだから戦場を知らねぇ傍観者は察しが鈍くて厭になるッ!!」
「じゃあ何なんだッ!? てめぇが虚しいだとかほざいた寝返りってヤツか?
 ランディが話しつけて味方に引き入れたって言う【バレンヌ】のッ!!
 あんなもん、ランディに難癖付けたって仕方無ぇだろうがッ!!」
「マサル、お前はあの時、ずっと【バハムートラグーン】に居たんだろ?
 その時、何も感じなかったのか? 【バレンヌ】が姿見せた時、あの艦内はどうだった?
 これで勝てるとかっつって大騒ぎだっただろうッ!?」
「それがなんだってんだよッ!! 【バレンヌ】の動きなんか最後まであのタヌキオヤジの腹ン中ッ!!
 ランディに隠居を迫る理由になるかッ!!」
「なる。ならないと言い切れるのは、てめぇが何も知らない傍観者だからだ」
「………ですからそれをこの場でつまびらかにして下さいと、僕は要請しているのですがね。
 無為な会話がこれ以上続くのであればご退室を願いますよ?」
「命の差し引きなんてレベルじゃねぇ、このバカは大戦そのものを自分の好き勝手にこねくり回したんだよッ!!」
「バカじゃねーのッ!? 戦略家ってのはそういうもんだろッ!?」
「戦略家? バカ言ってんのはてめぇだ、マサルッ!!
 こいつはそんな可愛げのある人種じゃねぇ、戦争コーディネーターだぜッ!!
 【バレンヌ】があれだけ盛大に寝返り打ったのも、全部こいつの書いたシナリオだッ!!
 言っちまえば、あれは出来レースだったんだよッ!!」


脈絡も無くランディへ隠居を迫ったデュランの要求の是非を問う討論は、
先の【バハムートラグーン】にてランディが犯したという戦争責任の所在を明らかにする考察へ発展していた。


「言うに事欠いて出来レースだァッ!? 【バレンヌ】が裏切るのは戦う前から決まってたってのかッ!!
 ヘソで茶ァ沸かしちまうぜッ!! 仮にそうだとすりゃ、ランディは稀代の大天狗ッ!!
 【官軍】二十万オーバー全員を騙してたって事になるんだぜ?
 ………てめぇは可愛い弟分をそんな風にヤブ睨みしてやがんのかァッ!?」
「………よく勘付きましたね。いや、ホークさん辺りに入れ知恵でもされましたか。
 何はともあれ、僕のトリックを言い当てたのは貴方が最初ですよ、デュランさん………」
「ほれ聴いたかッ!? ランディはそんなのは知らな―――………え? ………は?」
「貴方と二人で【アバロン】へ赴いた日の事を覚えていますか?」
「………てめぇが俺とリースを引き離す為に同行を無理強いした日の事だな」
「………………………」
「あの会談の後、【バレンヌ】からホットラインで連絡がありましてね。
 正式に【官軍】参加を受諾していただいたのですよ」
「時期的には【バレンヌ】がてめぇの脅しに腹立てて【賊軍】へ与すると表明した辺りか。
 必勝の構えが出来てからも、てめぇら、周到に騙まし討ちを企ててたってワケだ」
「………………………………………………」
「数で物を言わせれるのは簡単ですが、それは野人のやり方です。
 重要なのは【官軍】がどれだけ輝かしい形で【社会正義】の象徴と成り得るか。これに尽きます。
 一度は【賊軍】に協力した【バレンヌ】が、奴らの卑劣な人質作戦を知るに至って反旗を翻し、
 履行されるべき正義を指示した―――この事実が【官軍】、ひいては【アルテナ】が主導する正しい【社会】へ
 民衆が信認するに足る威光を与えてくれると言う仕組みですよ」
「ご大層に説いてくれたが、てめえのお題目は政治家みてぇな高尚なもんじゃねぇよ。
 俺に言わせりゃただのペテン師だぜ………ッ!!」
「………………………………………………………………………」
「真実はどうであれ、事実へ着眼すれば、結果は一目瞭然だ。
 完膚なきまでに【賊軍】を撃破し、【バレンヌ】という超大国をも従えた絶対なる【正義】を民衆は心の底から指示している。
 醜い真実を陵駕した素晴らしい事実が【エンディニオン】を未来へと導いてくれるのです。
 これを完全勝利と言わずに何と形容するおつもりですか、デュランさんは」
「“試合に勝って勝負に負けた”」
「………これはまた手厳しい。
 負けた側の人間に罵られても何とも感じませんが、同じ志を掲げた同胞に云われると存外に答えますね」
「てめぇのした事はそういう事なんだよ。………同じ志? 寝言ほざいてんじゃねぇぞッ!!
 その志をさんざんに踏み躙ったてめぇが俺たちを同胞と呼ぶんじゃねぇッ!!」


背中を預け合った弟分に限ってそんな卑劣をするわけが無いと信じていたマサルは、
二人の会話によって暴き出された真実に言葉を失い、今にもランディの胸倉を締め上げそうなくらい
怒気を迸らせるデュランを抑える事も忘れて、目の前の剣呑をただ呆然と傍観していた。
この場合、思考の止まった頭では傍観しか出来ない、と説明するのが正しいか。
考えるというシステムがエラーを起こしてしまうくらい、真実を叩き付けられたマサルのショックは深く、大きかった。


「なんで俺たちに通達しなかった?
 【バレンヌ】が攻め入ってくる前に決着をつけなきゃならねぇと死に物狂いで戦った俺たちの立場はどうなる?
 バカを見せられて、十万もの犠牲を無駄に出して、“勝ったから良し”に流せると思うかッ!?」
「“敵を欺くにはまず味方から”。兵法の常ですよ、こんな事。
 もしも味方に内通者がいたらどうするのですか? 必勝の構えが台無しになってしまい、【官軍】の正義も危うくなる。
 だからこそ僕はジェラール公と細心の注意を凝らしながら段取りを打ち合わせて―――」
「味方も信じられねぇ奴が、どんな未来を信じられるってんだッ!!」


ガタンッ、と大変な剣幕でデュランの拳がライティングデスクへ落とされ、
ランディが執務に使用している羽ペンや書類と言った机上の一切が弾け飛んでカーペットに四散した。
その際に放り出されたインクがデュランの上衣を黒く汚したが、逆上寸前の彼にはそんな瑣末など眼中にも入らない。


「結局、貴方は個人的な感情で僕に退任を要求しようと言うのですか―――
 ―――がっかりさせてくれますね、デュランさん。貴方ほどの男がそんなつまらない事を仰るなんて」
「俺は一人の武将として、人間として【ジェマの騎士】に公憤をぶちまけてんだよッ!!」
「だが、それだけで僕を隠遁へ追い込む事は出来やしない」
「どうかな? 【官軍】ってぇ目下の標的を失くしたてめぇが今後どういう行動に出るのか、
 それ次第でいくらでも引き摺り下ろす事は出来そうだぜ」


事務用品と一緒に飛び散った地図を摘み上げると、デュランはそれをランディの眼前へ突きつけた。
二人が乱入してくるまでランディが広げていた世界地図だ。


「………次は【バレンヌ】か。随分とまたゴチャゴチャゴチャゴチャ書き込んでるじゃねぇかよ」
「………………………」


【グランベロス】他【賊軍】の地名がバツ印で潰されてある世界地図へ視線を這わせてまず気付くのが
【バレンヌ】とその領国に黒いマル印が落とされている事だ。
そして、地名のすぐ下にはその国々が保有する兵力、主だった戦闘力が書き出されている。
また、地図上にはそれと別に【官軍】がどういう様相で布陣するのかを想定した赤黒いマーキングも見られる。
血を思わせる赤黒いペンのマーキングは、丁度【バレンヌ】と向き合う恰好でなされていた。
………誰がどう見ても、対【バレンヌ】戦を想定したシミュレーションである。


「………前に進むしかない。前に進むしかないんですよ、天下安寧の為には………」


悪戯を見つけられた性悪な子供みたく声を震わせたランディは、呻く様に「前に進むしかない」と搾り出した。


「守りに入るのが大事なんじゃねぇのか!? ようやく勝ち取った安寧なんだッ!!
 誰もこれ以上の戦いを望んじゃいねぇッ!!」
「望む望まないじゃないんだよッ!! 戦争の火種は害を及ぼす未然に揉み消さなければならないッ!!」
「俺がてめぇを表舞台から引き摺り下ろしてぇのは、まさにそこだッ!!」
「何がッ!? 平和の為に戦う意志がおかしいとでもッ!?」
「てめぇがいる限り、戦は終わらねぇッ!! てめぇ自身が戦争の火種を作って煽って熾しているんだッ!!
 てめぇは平和の為に戦ってんじゃねぇよッ!! 戦いを求めて戦場を渡り歩いてるハイエナと同じじゃねぇかッ!!」
「だが、世界が【ジェマの騎士】を欲しているのもまた事実ではありませんかッ!?
 【バレンヌ】を見てくださいッ!! あのタヌキが易々と【アルテナ】へ協力したのは、
 今はまだ天下に乱を起こす好機でないと看破したからですッ!! 奴らは【正義】を振り翳したわけじゃないッ!!
 【正義】の冠を戴く事で世論を味方につけたかっただけなんですよッ!! 来るべき【アルテナ】との決戦に備えてッ!!」
「それはてめぇの一方的な見方だろうがッ!! ―――もう誰も戦いたくは無ぇんだ………ッ!!
 家族を、恋人を、妻を、子をッ!! 平凡な営みの中で守って生きたいんだッ!!
 理想論でもなんでも無ェ、世界中の誰もがそう願ってんだよッ!!」
「先へ進む事を止めて、そこに何が待つッ!? 閉塞だッ!! 人間の魂を腐らせる温床しか無いッ!!
 ………守るってなんだッ!? 他人を守って何の意味があるッ!? 何を得られるッ!?」
「てめぇ………ランディ………」
「守りに入るだとか、戦はいらないだとか、そんなものは自分に折れた弱者の言い訳なんだよッ!!
 人間なんて生き物は前に進むしか出来ない人形だッ!!
 攻めて攻めて攻め抜いて、独りの力で攻め抜けなくて、どうして自分を保っていられるッ!?
 ―――お解りで無い様だからきちんと正しておきますがねぇ、人間は戦いを続ける事で初めて平和を維持できるんですよッ!!
 闘争本能を萎えさせたら、それは死ぬのと同義なんだッ!!」
「………………………」
「アンタみたいな人種が世界を腐らせているんだッ!!」


乱世を終わらせる為にあった筈の戦いが、次の戦いを買い求める為の灰色の銀貨になってしまっている。
永久に続くとも限らないこのサイクルを断ち切るには、戦いの先頭に立ち、次の戦場、新しい火種を追い求める不屈の英雄、
【ジェマの騎士】に時代の表舞台から消えてもらうしかない。
自ら手にかけたヨヨ・サンフィールドの骸と見詰め合う内、乱世の非情に打ちのめされたデュランは、今こそランディを説得し、
彼の心を安らぎの地へ導かなければならないと覚悟を決め、こうして【ケーリュイケオン】へ乗り込んだのだ。
しかし―――――――――






(………手前ェの理屈が世界で一番正しいと盲信し切ってる―――クソオヤジとまるで同じじゃねぇか………ッ!!)






―――――――――しかし、どんなに激しい言葉で叱正を試みてもランディの意志は、
捩れて歪んで壊れた心に響く気配が見られない。
己の考えが厳然たる正義として世に通じる者と盲信する姿は、そう、かつて【サミット】で同様の妄執を披露し、
醜態を晒す結果へ落ち込んだロキ・ザファータキエのそれにひどく重なった。
このままにしておけば、遠からずロキの二の轍を踏み、ランディは狂乱に暴走する。
今でさえ既にその兆候が顕著なのだ。ここで止められなければ、本当に取り返しが付かなくなるのは明白だった。




「―――がーーーーーーッ!!!! 四の五のカッコ付けんのはもうヤメだッ!!!!
 こんなんじゃいつまで経ってもお前を引っ張り挙げる事ぁ出来ねぇッ!!!!」


今日、止める事が出来なかったら、可愛い弟分を、ランディを失う―――そう考えた時、
デュランは【御屋形様】と畏敬される為に保っていなければならないプライドも
武将として領国を治める矜持もかなぐり捨てて、捨て身の説得にぶつかっていた。


「………俺はお前が可愛くて仕方が無ぇんだよ、今でもよォ………ッ!!!!」
「………………………」
「お前は俺の自慢の弟分だ、今も昔も変わらず。
 ………そりゃ色々と複雑ではあるけどよ、【官軍】の総大将として頑張ってるし、
 俺には逆さまになっても思いつかない様なバカデカい戦略をぶつけられるのは素直に尊敬してるよ。
 お前を弟分に持って誇らしいって、胸を張って自慢できる」
「………………………」
「お前が独断で【バレンヌ】と騙まし討ちの計画練った事にムカついたのだってな、
 ぶっちゃけちまえば、他の国の連中なんざどうだって良いんだ………ッ。
 ただ………兄貴分の俺やマサルに何の相談も無しにお前が一人で背負い込んじまったのが、
 どうにも寂しくって、悔しくってよ………ッ」
「………………………」
「言えよ、せめて俺ぐらいには………ッ!! お前の代わりに泥なんかいくらでも被ってやるんだぜ?
 頼れよな………何の為の兄貴分なんだよ、俺は………」
「………………………」
「………だからッ、だから俺はお前の前に立ちふさがるッ!! 兄貴としてこの先は見過ごせねぇッ!!
 これ以上、先に進めば、お前はもう二度と俺たちのいる場所へ戻って来れなくなる。
 ………いや、このままだと遠からず命を落とす―――わかってんだろ?
 お前の命を狙ってる連中がウジャウジャしてる事ぐらい………」
「………私も愚鈍ではありませんので………」
「だったらここらで一回休めッ!! お前は今日まで我武者羅に頑張ってきたんだッ!!
 ちょっと長い休みを貰ったって誰も文句は言わねぇッ!! 俺が言わせねぇッ!!」
「………………………」
「………生きてくれ、ランディ………ッ!!」


友情のバンダナが腕に締められた右の掌で強くランディの肩を掴み、感情の赴くままに本音としている部分を全て吐き出すデュラン。
スレたランディの瞳には、もしかしたらお涙頂戴の泣き落としに映ったかも分からないが、
それは、紛れもないデュランの本心。今も可愛くて仕方が無い弟分に生きて欲しいと願う心からの叫びだった。


「………だが………僕は進む事を止められない………【ジェマの騎士】として………悪は滅ぼさなければならない………」
「ラン―――」
「―――要はお前、ビビッちまっただけだろ………ッ?」


爆発させた感情をぶつけるデュランの熱い叫びを打ち消してしまう様な冷たい嘲りが執務室に轟き、
鋭い眼光をぶつけ合う二人は不意に視線を声がした方向へと流した。


「さんざっぱらゴタク並べやがって、このタコスケ………何だっけ? “前に進むのを止められない”?
 守るもんを置き去りにしたお前が一番進歩できてねぇんだよ、糞ッたれトンマッ!!
 てめえが世界で一番不幸だと勘違いして浸ってんじゃねぇッ!!!!」


果たしてそこには、直前まで呆然の朴念仁と化していたマサルが佇んでいるのだが、これまでとは少し様子がおかしい。
陽気なハートから声色へ表情へにじみ出す根っからの明るさは何故か影を顰めており、
その代わりに今までの彼からは想像も付かない、侮辱や嘲笑と言った冷たいオーラが噴き出していた。
初めて見るのでは無いかと思えるほどの冷徹さを纏ったマサルへ驚き、呆気に取られるデュランを押し退けると、
彼は自らランディと直接向かい合った。瞳には鈍くゆらめく闘争本能。戦う意気が衝天している。


「そうさッ! お前は忘れたんじゃねぇ………お前は自分のいっちゃん大事なもんを封印しただけだ。
 見て見ぬフリして辛い現実から逃げてるだけじゃねーかッ!!」
「………僕が見て見ぬフリを決め込む臆病者であれば、
 すぐそこまで逼迫してきている脅威からとうの昔に逃げ出していますよ………」
「守らなけりゃならないモノを………一番守りたかったモノを取り落とした苦しさを考えずに済むんだから
 戦場は楽しいわなッ!! ラクだわなぁッ!!」
「………………………」
「わからねぇのかッ!? てめぇのそういう態度が病気で死んじまったプリムをいっちゃん苦しめてんだよッ!!
 墓の下でまで、てめぇはアイツを苦しめようってのかッ!? 成仏だってできねぇだろうぜッ!!」
「……だ………………」
「プリムを亡くした事を受け入れられずに無理やり忘れて、そんでもって幸せそうにしてる奴らに八つ当たりッ!!
 前に進むだぁ? 止まれば追いつかれるからだろ!? 後ろから手ぇ出してくるもんから逃げてるだけだろッ!?
 想い出したら気が狂っちまう喪失感をどっかへやりたいだけだろうがッ!!」
「………ま………………」
「逆向きなんだよッ!! てめぇと俺たち世界人民の見てるモンってのはッ!!
 先の戦で家族を亡くした人間も、逃げずにその喪失感を受け入れてんだッ!!
 受け入れて、弔って、そこから平穏を守る努力を始めるんだよッ!! お前はどうだッ!? 逆向きじゃねーか、思いッくそッ!!
 失われた人たちが開いてくれた平穏を守ろうと頑張る皆の命を、失われた人を忘れる手段に使うんじゃねぇッ!!」
「…………………れ………」
「いい加減、ビビッてねぇで腹くくりやがれッ!! プリムを安心させてやれッ!!
 亡くした悲しみを受け止めてから、もう一度さっきの地図を開けッ!!
 デュランじゃねぇが、それくらいの荒療治でなけりゃ、ランディ、てめぇは本当にただの戦闘狂で終わるぞッ!!」
「―――黙れェッ!!」


心の奥底に沈み込ませていた戦う意思の真意を的確に抉り出されたランディは
それまで微塵も変えずに来た感情を、この時初めて爆発させた。


「どいつもこいつもッ!! バカの一つ覚えの様にプリムプリムプリムプリムとぉッ!!
 知るかッ!! 名前さえ思い出せない様な過去帳の目録なんぞッ!!
 知らない人間の事を押し付けてくるなッ!! うざってぇんだよッ!!」
「今なんつったッ!? 今なんつったァッ!!」
「―――ああ、そうさッ!! 認めてやるッ!! 開き直ってやるッ!!
 僕は守るものが無いから先へ行く事しか考えられないんだッ!! 守りなんか必要ないから果てしなく戦えるッ!!」


天井を突き破る程に激しく渦巻く怒りへ表情(カオ)を歪め、
言葉の苛烈さとは裏腹に冷淡を塗りたくっているマサルの胸倉へランディが詰め寄る。
しつこいぐらいに連呼された“プリム”という名前に神経を逆撫でされた彼の瞳には泪まで浮かんでいた。
怒りが呼び込んだのか、悲しみが込み上げたのか、泪が意味するところまでは分からないが。


「何を認めたって!? あぁッ!? てめぇ、またお為ごかしかよッ!! 何も認めてねぇじゃねーかッ!!」
「戦いをやめられない事を認めてやったんだッ!!」
「戦って戦って、勝った先に何がある!? てめぇはそこに何を見つけるつもりでいるんだッ!?」
「戦いの先には何も無いッ!! 僕は戦いたいッ!! 僕は戦うッ!! いいじゃないか、それでッ!!
 平穏なんてものは所詮絵空事だッ!! 一時が平穏であっても必ずすぐにどこかで戦いは起こるッ!!
 そうやって人間は歴史を築いてきたんだッ!! だから僕が、【ジェマの騎士】が必要不可欠なんじゃないかッ!!
 戦いのある先に進んで駆けつけ、僕が一時の平穏をくれてやるッ!!
 “戦えない人々と戦いたい僕”の関係性は持ちつ持たれつの最高なモノだと思うがねぇッ!?」
「なんで戦いたい!? 人殺すのがそんなに愉しいかッ!?」
「当たり前だろうッ!! 戦う事だけに集中していれば余計な事を考えずにすむからねェッ!!」
「余計な事だぁッ!?」
「プリムの事に決まっ―――――――――………………………」


怒りに歪むランディの心から靄が立ち消え、そこから見晴らした自分自身の深層へ愕然と膝を折った。
それは、初めて目の当たりにした自分の本心―――自分の裡の出来事なのに気付く事さえ出来ず、
今日という日まで仄かに暗い水底へ封じ込めてきた想い。






(………僕は、今、何を口に出そうとした? 何を考え、何を想い出した………ッ!?)






抉り出された本心を慌てて元の奈落へ押し戻そうとする自己欺瞞の問いかけさえ、
気付いてしまった今となっては最早虚しい抵抗だった。
“プリム・ノイエウィンスレット”という名前を、辛い現実が押し寄せ、飲まれ、その苦しさに蹲ってしまう呪詛の言霊を、
ランディは一瞬とて想い出さない様に努めてきた。そうする事で自我を保ち、戦い、生きて永らえられたのだ。
だからこそ、他の誰かに“プリム”を引き合いに糾弾されても、名前と痛罵の内容が一致しないという
一種の記憶障害が生じていた。想い出の一切を封じ込めたからこそ、徐々に去りし日の事が頭から消え失せていた。
………だが、それは、裏返せば一瞬とて忘れず、プリムという存在を意識してきた事に他ならない。
本人さえ気付かない様な無意識の内に、どこかで失くした最愛の想いを意識してきた事に。


「………ったく、兄貴も兄貴だが、弟分も弟分で遅ぇんだよ………自分の気持ちってヤツを悟るのがさぁ」
「………………………」
「来い。こっからがバカ野郎啓発セミナーの仕上げだぜ」


想像も出来なかった心の怒涛に攫われて言葉を失い、目を点にして硬直するランディの肩を掴んだマサルは
カーペットの上にへたり込んでしまった彼を強引に引っ張り上げて部屋の外を目指した。
「随いて来るだろ?」とデュランに目配せするのも忘れず、グイグイとランディを引っ張っていくマサル。
いつの間にか冷淡な侮辱は鎮まり、彼の瞳にはいつも通りに全てを慈しむ太陽の様な輝きが甦っていた。






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