――――――ランディ・デュラン・マサルの三人が【ケーリュイケオン】で丁々発止のやり取りを繰り広げた三日後、
【バハムートラグーン】における『天下分け目の決戦』が集結してからおよそ一週間後の事である。
【ジェマの騎士】の執務室はいつに無く慌しい喧騒に包まれていた。


「………いささか騒々しいな………もう少し静かに出来ぬのか………」
「無理を言わないでくださいよ。今日はバゼラードさんの晴れ舞台なんですよ。
 こっちは昨夜から寝ずに最終の打ち合わせを繰り返しているんですから………っ」


戦没者の埋葬が遅々として進まない【バハムートラグーン】からこの日の為に急ぎ戻ってきたアルベルトが、
窓辺に立って陽の光を浴びたまま少しも動こうとしないランディへ口を尖らせて不満を漏らした。
書類の束やら何やらと格闘しているアルベルトは、しきりに忙しい忙しいと零し、
傍らに控えたパメラも彼の手助けに入った。


「ランディさんも少しは動かれないとプログラムが頭に入りませんよ?
 主役がトチッてしまったら、ちょっと洒落になりませんし」
「………必要無かろう………」
「そうは行きません。なんてったって今日は大事な勝利演説なんですからっ」


これはパメラの弁である。
―――勝利演説。そう、今日は【賊軍】を打倒した【官軍】諸侯や賓客を世界中から招いて行われる、
『天下分け目の決戦』の勝利演説の日なのだ。
【ケーリュイケオン】の中は勿論の事、窓の外に見下ろす特設会場にもスタッフら関係者が大挙し、
最後の打ち合わせを詰めている様子が見て取れた。
主にヴァルダら【アルテナ】首脳陣がイニシアチブを握るセレモニーだが、総大将として【官軍】を勝利したランディも
スピーチを披露する事になっており、アルベルトはこれについての作業に昼夜ぶっ通しで追われていた。


「皸…ですか?」
「………何故じゃ………?」
「いえ、指という指にバンソウコウや包帯が巻かれているので………」
「………余の事を目敏く観察するものでない」
「は、はぁ………」


後ろ手に組まれたランディの指先は、パメラが言い当てた様に何故かバンソウコウや包帯でぐるぐるに巻かれている。
パッと見でも分かるくらい、明らかに指という指を怪我していた。






(そう言えば、机にソーイングセットが転がっていたけど………)






なんとも不可思議ではあるが、あまり突っ込むと痛いしっぺ返しが来るのを、パメラは長年の経験から弁えている。
触らぬ神に祟りなしというヤツだ。今は亡き親友に決して負けないという宣言こそ出したものの、
やはりまだランディの超然とした態度には恐ろしいものがある。それならあえて黙っていよう、とパメラは自分の好奇心に蓋をした。
大事な一日だと言うのに不用意な言葉で心を掻き乱すわけにもいかないのだ。


「………それよりもそちはどうなのだ? まだ体調が優れぬのか………?」
「えッ!? しっ、心配―――してくれるんですか?」
「………前後不覚で倒れるなど職務の怠慢であると申しておるのだ。何を喜ぶ、たわけめ………」
「す、すみません―――でも、えへ…えへへ………っ」


アルベルトと同じく昨日職務へ復帰したばかりのパメラへランディが何の気無しに容態を伺ってみると、
彼女は最初、驚いた様に目を見開き、それからややあってから嬉しそうに笑い出した。
まさかランディから身体の具合を気遣われるとは思ってもみなかったのだろう。
いやはや、ニコニコと嬉しそうに笑うパメラを見ていると、もう「ごちそうさま」の一言しか浮かばない。


「―――はいはいはいはい、お惚気はそこまでにして!
 バゼラードさん、本当にこの原稿、眼を通しておいてくださいよ」


パメラまで骨抜き状態になってしまうと本格的に業務が滞ると懸念したアルベルトは、
二人の間へ割り込むのと同時にライティング・デスクの上に数ページからなる書類の一束を強めの音を立てて置いた。
これはつまり、ちゃんと読めというアルベルトなりのゼスチャーである。


「………………………原稿じゃと………………………」
「口にしてはならない禁則時効やらも書いてありますから、是非とも一度、読んでおいてくださいね。
 ―――ああ、それから、礼の弾劾状に対する返礼もそこに明記しました」
「………………弾劾状………………」
「ヨヨ・サンフィールドの処刑に対するヴァルダ女王からのクレームですよ、早い話が。
 あれはこちらが先走ってやってしまった物、と書いてありますが、ここのところはくれぐれも原文のままでお願いします。
 なんだかんだ言っても女王は世界最大の権力者なんですから、事構えたって良いコトは何一つありませんし」
「………………………………………………」
「ああ、そう言えば、ヨヨ・サンフィールドで思い出したんですけど、例のビュウ・シャムシールさん、
 合戦後すぐに保釈になったのはご存知でし―――」
「―――スクラマサクス、兼ねてより懸案のあった【バレンヌ】攻めであるが、いささか様式を変更するぞ」


やはり裁判や聴取も無しに独断でヨヨ・サンフィールドを磔刑にしたランディの専横は
【アルテナ】本国でも大きな問題になったらしく、数箇条からなる弾劾状がヴァルダ女王直々に叩き付けられていた。
複数の項目から構成される書状だが、要約すれば、「一臣下の分際で【アルテナ】の意向を無視するとは何事か」という訳である。
【ジェマの騎士】とは言え【アルテナ】の一重臣に過ぎないという立場をヴァルダは弾劾状という形で
ランディの頭へ刻み込もうと考えた様だが、彼は一切を読まずに捨て置いた。

とは言うものの、さすがに公式の場所へ赴く以上は、謝罪なり前言の撤回なりを入れるのが【社会】を生きる者の務めだ。
だが、しかし………それについてのアルベルトの説明を遮ったランディは、誰もが耳を疑う事を口から吐き出し―――



「………………旧態依然とした支配体制へ未だに幻想を抱く者など、既に【イシュタリアス】には無用の長物………………。
 ………………本日の勝利演説の席にて、余は【アルテナ】への宣戦布告を行う………………」


―――執務室を未曾有の危機へと追い落とした。


「………………………」


唐突の無さ過ぎるこの宣言を聞いた直後は、アルベルトの頭も何を言われているのか理解できずにいたが、
生気を全く感じさせないランディの無機質な瞳へ確かな狂気を見つけた事で
これが悪夢でなく現実の混沌なのだとようやく認識し、ショックの余り危うく倒れこみそうになった。
さり気ない心遣いに浮かれていたパメラも同じである。ほんの小さな幸せはその一言で脆くも崩れ去り、
アルベルトと二人、ランディの狂乱へ呆けた様に頭を振るしか無かった。


「ご、ごじ…、ご自分が何を言っているのか、り、理解なされているのですか、貴方は?
 貴方が言っているのは、貴方が自ら滅ぼした【賊軍】と同じ叛意なのですよッ!?
 弾劾によって昂ぶった一時の感情で反旗を翻されるとッ!?」
「………………スクラマサクス、貴様は【インペリアルクロス】を率いて待機せよ………
 ………………余が【官軍】の駒どもへ檄を飛ばし次第、兵馬をもってヴァルダめら古き化け物の首を奪れ………………」
「バゼラードさんッ!!」
「………………アンジェラ、ブルーザー、ヴィクターの三名は殺さず生け捕りにせよ………………。
 ………………あやつらはまだ使い道がある。それ以外は悉くなからしめるべし………………」
「そッ、そんな事をすれば最後、【イシュタリアス】は完全に崩壊しますッ!!
 有能な指導者なくして【社会】は立ち行かなくなるッ!!
 貴方は【ジェマの騎士】でありながら、世界に災いを振り撒こうと言うのですかッ!?」


――――――狂ったかッ!!
執拗に食い下がり、必死の説得を試みるアルベルトだったが、陽の光を背に受けて屹立するランディの双眸に宿る妖光は
留まる事を知らずに迸り、黒い瞳は既にこの世の物を見据えてはいなかった。
肉体は現世へあるのに、魂はもっと遠い別の世界にある様な………物質を超えた先にある虚数の空間を睨む眼差しの乱れから
人間としてあるべき理性を感じ取る事は難しい。いや、不可能だ。
【天魔】。常人に在らざるその姿を例えるには【天魔】という言葉をもってするしかない。


「余の意に添わぬ世界であれば滅びるが良いわッ!! 余は【ジェマの騎士】であるッ!!
 【女神】に選ばれし―――いや、【女神】をも超越した余に矛先を向ける冒涜者には裁きの鉄槌を加えねばならぬッ!!
 滅びだッ!! 遍く滅びをくれてやろうぞォッ!!!!」


そして、極めつけの怒号。
【ジェマの騎士】が【天魔】へと堕ちる瞬間に意図せず立ち会う事となったアルベルトとパメラは、
目の前が真っ暗に塗り潰されるのを感じ、絶望した。
こうなった以上、実力行使を講じても押さえつけなくてはならないのだが、【天魔】の纏う鬼気は、
見る者全ての心臓を握り潰す程に凄絶で、触れたが最後、遺伝子が彼に近付く事を恐れて身体機能を発揮してくれなくなる。
本能や心理を超越した恐怖が、肉体を劈くのだ。
大仰に両手を広げ、怒号とも宣戦とも取れる雄叫びを上げたランディが勇往邁進して執務室を退出するまで、
誰一人として身体を動かす事が出来ずにいた。気の弱い者などは息を詰まらせ、意識を失ってしまったくらいである。
見間違いにしては鮮明だ。フロックコートを翻したその背中で【天魔】は―――地獄の災火を翼と換えて燻らせていた。
―――全ての魂を狂乱させる鬼気を滅びの翼へと象った堕天使が、そこにいた。


「追ってください………ッ」
「でも、アルベルトさん………」
「いいから追うんだッ!! 今のバゼラードを独りにするなッ!! 止められるとしたらお前しかいないッ!!」
「―――はッ、はいッ!!」


執務室の外へ消えていった【天魔】ランディの背中をパメラに追う様、強い口調で申し付けたアルベルトは、
彼女が走り去っていくのを見計らって自前の【モバイル】を取り出した。
番号を確かめずにコールしたところを見るに通信相手はメンバー登録されている様な人間なのだろう。
悲愴すら漂わせる表情を噛み潰しながら、コールに応答した相手へ口早に用件を伝えた。


「………アイシャ、聴こえるか? 私だ、アルだ………。
 ああ、うん………それよりも、すまないが一仕事頼まれてくれ………。
 ………これより【インペリアルクロス】総員を率いて勝利演説の会場を取り囲んで欲しい………。
 うん…うん―――いや、違う。ランディ・バゼラードが【アルテナ】への叛意を表明した瞬間――――――」


そこで一旦言葉を区切ったアルベルトは、苦しげに深呼吸し、眉間に脂汗を流し、
躊躇せざるを得なかった二の句と共に重々しい呼気を吐き出した。


「――――――………………一斉射撃で【天魔】を討て………………ッ」













【官軍】の旗印にも採用されている【アルテナ】王家の徽章が意匠化された陣幕が張り巡らされた【セントラルパーク(中央広場)】は
世の歓喜を一つへまとめた様にすら錯覚してしまうほど盛大な喧騒に包まれていた。
背にするのは【ケーリュイケオン】。【アルテナ】王都へ【官軍】諸侯を筆頭に世界中の要人らが結集しているのだ。
【バハムートラグーン】にて繰り広げられた『天下分け目の決戦』には名代を立てて直接参陣しなかった王族の姿も多く見られ、
居並ぶお歴々は【サミット】さながらの顔ぶれである。
雲一つない青天の今日、【官軍】の勝利を正式に宣言するセレモニーが【セントラルパーク】で開催されていた。
セレモニー自体は既に中程まで進行しており、上座へ用意された雛壇上のヴァルダ女王の演説が結びへ向かっているところだった。


『―――デュラン、【アルテナ】はランディ・バゼラードの排斥を正式に決裁したぞ』
『………とても言いづらい事ではあるのですが、【イシュタリアス】のモラルを引率する【アルテナ】にとって、
 これ以上の専横を許すわけにはいかないのです』
『断っておくが、これはアンジェラの意志とは無関係だぞ。俺やヴィクターがヴァルダ女王へ上奏し、採択を受けた案だ』
『………アンジェラの事ですから、察しているとは思いますが………』
『………勝利演説の席で俺たちはランディを―――――――――【ジェマの騎士】を射殺する』


『天下分け目の決戦』における功績を妻共々に評価されたデュランはリースを傍らに
ランディやジェラールと肩を並べる最前列へ着席していた。
着席してから、いや、その前からずっと脳裏へリフレインするのは【アルテナ】の下した非情の選択だ。
友情のバンダナを分け合った同胞二人と【新しい国】を切り拓く道筋を模索し、その実現を約束した直後に
ブライアンとヴィクターから告げられた【暗殺】の二文字がぐるぐると彼の脳裏を巡り、全くセレモニーへ集中出来ないでいる。
当然、目の前で振るわれるヴァルダの雄弁の一字とて耳に入っていない。

――――――【暗殺】。
ランディが、死ぬ。絶対多数の幸福を採る【社会】の方程式に飲み込まれてしまう。
最悪の事態がいつ訪れるとも知れずに待ち受けているのだ。平常心を保てるわけが無かった。


「………デュラン」
「………大丈夫だ………」


苦悶の表情を崩せずにいるデュランを気遣ったリースが、じっとりと汗ばんだ彼の手へ自分のそれを重ねる。
いつもならこれだけで昂ぶった気持ちは鎮められるのだが、今日に限って耳に障って不安を駆り立てる心臓の早鐘が
治まってくれる気配は見当たらなかった。
気遣わしげなリースを心配させまいと作り笑いを無理に返したデュランだったが、乾いた声は思った以上に嗄れており、
心配を和らげるどころか余計に助長させる結果となってしまった。






(………離れる事、数メートル………壇上に上ったところを狙われても割って入る事は可能だ―――)






可愛い弟分を死なせるわけにいかない。いざとなれば自分の身を挺しても庇ってみせる。
リースを泣かせる結果に終わろうとデュランはランディを護る覚悟を固めていた。
彼は、悲愴な想いを抱いて、華々しい勝利演説の席へ臨んでいた。






(………なんか今日はいやに兵隊の数が多いな………やっぱしそれだけ厳重に固めてるってコトか)






炎に包まれた【ファーレンハイト】からリースを脱出させたものの、あくまで隠密として動いていたマサルの活躍が
公式に表彰される事は無く――勿論、事前にヴァルダ達から多大な感謝は受けている――今日も一般の観覧者として
セレモニーを遠巻きに眺めるに留まった。
伯爵や美獣を連れ立ってヴァルダの演説に耳を傾ける彼の目端に止まるのは、陣幕の内外へ敷き詰められた兵・兵・兵の数だ。
軽装の鎧を身に纏い、手に手にライフルを携行する兵団の数は膨大で、いくら各国首脳陣が集まっているとは言え、
警護目的に投入される頭数を明らかに超越していた。
先の【ローラント聖戦】の最中でさんざんに苦渋を呑まされた【インペリアルクロス】の面々まで混ざっている。

―――これはまるで戦の支度じゃないか。
緊張した面持ちの兵たちの様子を見るにつけ胸へ微かな焦燥が落とし込まれるが、
さりとてこうした祝賀の席で銃撃戦が始まるとも考えにくい。だが………だが、この拭い難い不安は何なんだ?


「―――むッ、いよいよ【ジェマの騎士】の出番の様だな」
「マッちゃん? どうかしたのかしら? とても怖い顔をしているけれど………」
「お、おう。ノープロブレムさ、ちょっと腹の調子がおかしいだけだよ」
「だからあれほど事前にトイレを済ませておけと言ったではないか。
 公衆の面前で粗相などという悲劇は笑い事では済まされん。我慢してくれよ」
「そういうんじゃないってのッ!! もっと、こう、精神的なモンがだなぁ〜」
「………マッちゃんの口からそんな言葉が出るとは思わなかったわね。
 デリケートとは一生無縁と思っていたのに………」
「ほっとけっつーのッ! 夫婦揃って失礼だな、チクショウめッ!!」


自問を繰り返しても見えてこない自答への焦燥は、ヴァルダと入れ代わりで雛壇へ上がったランディを見る内に
段々と強まっていく。形容の仕方が無い唐突な怖さが肝を冷やしていく。
傍から見るとコメディなやり取りを伯爵らと交しながらも、心の片隅ではドス黒い靄が育っていた。






(………? なんだ、あのボウズ?)






―――その時だ。
自分たちと同じ一般観覧に詰め掛けた人波の中に深々とフードを被った、見るからに不審な人間を見かけたのは。
僅かに覗いた顔立ちは年若く、青年と言っても差し支えの無い男性だったのだが、その輪郭には生気がまるで宿っておらず、
皺一つないのにひどく老け込んでいる様に見える不思議な印象が、周囲の歓声へ紛れ隠せない異彩を放っていた。

フードの青年は感情の無い瞳を、ある一点へじっと向けていた。
あまりにも不自然な様子に興味を引かれたマサルがその視線の先を探ると、そこにあったのは――――――
――――――【ジェマの騎士】ランディ・バゼラード。


「―――それでは只今より、【官軍】総大将を務め上げ、【賊軍】を殲滅せしめた【ジェマの騎士】こと、
 ランディ・バゼラードからお言葉を賜りたいと思います―――」


いつしかランディを見つめる瞳にただならぬ気配を、殺意にも似た怒気を宿らせていく青年を
マサルが誰何しようとしたところにアナウンスが割って入り、英雄の登壇にボルテージを高揚させた人々の渦によって
彼を捉えていた視界は飲み込まれてしまった。

何かが引っかかる。何か悪い予感がする。
不安に駆られたマサルは青年のもとへ辿り着くべく群がる人々を掻き分けようとしたが、
何百、何千もの人込みが一斉に押し寄せてきては、いかに豪腕自慢の彼と言えどもどうしようもない。
「英雄」を連呼する民衆の前に、成す術も無く立ち尽くすしかなかった。

そんな民衆を、戦に勝って従えた者たちをランディ…いや、【天魔】はどう見ているのだろうか―――――――――。






(………勝てば官軍とはよく言ったものよな――――――愚劣にして蒙昧な者どもが………)






フロックコートを翻して壇上へ上がったランディは、自分の事を英雄と称賛する屈託の無い人々を一瞥したが、
嬉しさや喜びといった感慨が沸き起こるわけでもなく、むしろ力ある者に追従するという極めて原始的な“ニンゲン”の習性に
辟易とした想いを抱いた。
と同時に、愚劣で蒙昧だからこそ、篭絡し、支配するに容易いとも考えた。






(………神たる余を追い落とさんとする画策、よもや気付いておらぬと思ったか………傲慢なる為政者どもよ。
 ………民衆の前に無惨な屍を晒すは貴様らであると、今よりとくと教えてくれようぞ………)






この場にてヴァルダら【アルテナ】のトップを撃滅せしめれば、力に追従する民衆は確実に自分の前に平伏す。
平伏し、誓うのだ。【ジェマの騎士】を元帥に据えた【新しき国】への奉仕を、隷属を。
ニンゲンの心など、思えば何と簡単な物なのだ。厳として根付く本能さえ揺さぶれば
いとも容易く傀儡に出来るのだから可愛いという他ない。
これを可能にするのは絶対なる武力である。そして、その武力を【官軍】という形で自分は掌握しているのだ。
そうなれば、旧態依然とした権勢へしがみ付いて離れられない【アルテナ】などは最早無用の長物。
【社会】に害を成し続ける老醜の残骸は粛清の刃でもって潰えてもらい、今日より新世界を樹立すべきなのだ。
【アルテナ】の次は【バレンヌ】だ。歯向かう者は悉く根絶やしにしてくれる。血祭りに上げてくれる。
武の威光を掲げれば掲げた分だけ民衆は畏怖の念を強め、天下安寧へ努めるであろう。
これこそ【ジェマの騎士】が天命とすべき覇業―――そう、【天魔】の頂きに登り詰めたランディは信じていた。






(………【新しき国】などと笑える冗漫を言ってのけた欺瞞の走狗めらが―――
 ―――そこで指を咥えて見ておれ………真の【新しき国】がどの様な物か………)






神たる絶対者へ傲慢にも意見したデュランとマサルの姿を見下ろしたセレモニー会場に見つけた【天魔】は、
これから起こる旧き世界の粛清を目の当たりにした瞬間の彼らの絶望を想像し、醜悪に口元を吊り上げた。
世の摂理を懇々と説いて諭したつもりでいるのだろうが、自分に言わせれば、あんな紛い言葉は、
理想論に縋る事しか出来ない弱者の戯言だ。その様な身の程で【新しき国】を築くと吹くなど片腹痛い。
【新しき国】の在り処が、己の夢見る理想と真逆に位置している絶望を味わい、血の涙を流して新世界の礎とするが良い。
―――家族? ―――護るべき者? 【社会】を維持する為に欠かせない【戦争】の意味を理解もできない無知な種族が
口にするには体の良い詭弁だ…が、いくら言葉巧みに隠したところですぐに剥がれ落ちる。
剥がれ落ちた化けの皮の先に見えるのは、腐り切った世界の果てのみである。
心という不完全な回路を内包する弱き民衆を統率する最善の手段こそが武力なのだ。
絶え間ない【戦争】にて武力を行使し、絶対の威光を掲げる事によって、初めて民は一つに束ねられるのだから。









―――――――――………ランディ………っ―――――――――









まただ、また、あの声だ。神の心理へ土足で入り込み、掻き乱すという許されざる冒涜を重ねて働くあの声だ。
長い髪をポニーテールに結わえた幻影が脳裏を過る度に【天魔】は言い様の無い感情に揺さぶられ、
その都度、忌々しい幻影の破壊を望んで猛り狂った。
しかし、幾度咆哮しようとも影を踏み破るまでには至らず、今日という日までやって来てしまった。






(………あくまで余の妨げを致すつもりか………面白い………名も知らぬ幻影よ………。
 ………余の気が狂うが先か………貴様が霞むが先か………今日こそ決着をつけようではないか………)






今日と言う【イシュタリアス】のターニングポイントでこそ絡み付く鎖を引き千切り、
二度と浮かび上がる気も起こらぬほどに徹底的に破壊してくれる。
声も、後姿も、想い出も―――修羅が棲まう新世界には一切が不要の存在なのだ。
武力さえあれば良い。【ジェマの騎士】の名において振るわれる正しき武力さえあれば良い。






(………幻影よ………我が心を持っていくなら好きにせよ………心など要らぬ………。
 余に要るは唯の一つ………世界をも滅ぼし得る絶対の武力のみよ………)






デュランとマサルも繰り返し唱えたその名が、遥けき過去に壊れた『プリム』という忌み名が
ランディを【天魔】へと変質せしめ、更なる破壊衝動へ突き動かしている。
その極限が今日という日、【アルテナ】粛清をもって迎える【イシュタリアス】のインデペンデンス・デイだった。

――――――決着をつけよう。
湧き上がる民衆を見下ろしながら静かに呟いた【天魔】が粛清を合図する両手を、堕天使の翼が様に大きく広げた。











































―――――――――………………………パァンッ………………………―――――――――









































――――――青天へ酷く空虚な響きを投げる乾いた音が、セレモニー会場に轟いた。
どこかクラッカーにも似たその音は、1回、2回、3回………と回数を増やしていき、合計で13回鳴り続けた末にようやく止まった。






(………何事じゃ………)





いざ大演説という寸前で横槍を入れられた【天魔】は首を傾げて音のした方向へ視線を這わせた。
聞き間違えが無ければ、音がしたのは一般観覧の民衆が押し寄せた外周の席からだ。


「………ほぅ………ビュウ・シャムシールか………」


目端に捉えたマサルから数十メートル離れた位置にその男はいた。
誰もが勝利の歓喜に酔いしれている中、被っていたフードを振り乱し、狂い切った形相と虚ろな瞳を向けてくる人間は
ただ一人だったから、くまなく凝視する労苦も無くすぐに判別できた。
無粋な音を鳴らした証拠に、その男の手には一筋の紫煙を立ち昇らせるライフルが握られていた。
痩せこけた輪郭に壊れた感情を宿したその顔とは些少ながら面識があった。



――――――ビュウ・シャムシール。



ヨヨ・サンフィールドの昔の恋人であり、利用されるだけ利用されて棄てられた哀れな男。
『天下分け目の決戦』後、半ば軟禁状態に置かれていた【グランスの牢城】から開放されたとアルベルトの報告にあったが、
まさかこの様な場所で再び見え様とは。






(………………成る程、余に一矢報いんと執念でやって来たか………………)






【グランベロス】を捨てて亡命してきたビュウに機密の漏洩を求める代わりにヨヨの奪還を約束したのが
遠い昔の事の様に思い出され、彼がこの場に現れた意味を【天魔】は悟った。
そのヨヨが公開処刑によって磔にされたのだ。当然、絶望と憤激の矛先は約束を裏切った【天魔】に向けられる。
怨恨は燻り、昂ぶり、やがて報復へと形を歪められた。その末路がこれだ。
ライフルを隠し持って来たところから見るに【天魔】を銃殺しようと目論んでいた様だが、
それもむべなるかな、憎き仇が命が絶たれるのを見届ける事なく、駆けつけた衛兵らの剣戟によってさんざんに刺し貫かれ、


「殺してやるッ!! 殺してやるあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーッ!!」


彼が愛した女と同じ様に断末魔の叫びを呪詛に換えて搾り出し、その場で首を刎ねられた。


「………哀れなものよな………己が身を弁えぬ弱者とは………」


降って湧いた惨状にたちまちセレモニー会場は恐慌に包まれたが、今更、人間が一人、首を刎ねられようと
【天魔】には興味の無い事である。
そんなものよりも一つ、二つ、三つ…と合計8箇所にも及んだ陣幕の弾痕を眺めて報われない男の悲哀を嘲笑う方がまだ面白い。
さしもの竜騎士隊長もライフルの扱いには不慣れだった様で、大きく軌道を外れた銃弾はあらぬ方角へ飛び去り、
ついに【天魔】を絶命せしめる事は出来ずに終わった。
命を賭けて挑んだ報復が惨めな末路を辿ったこの悲劇を、弱者の不運と嘲笑わずしてどうするのだ。






(………果たして誰の差し金か………【アルテナ】か、はたまたスクラマサクスか………)






彼らが自分の暗殺を企図している事など見通していたから、ビュウを嗾けたのはこの内のどちらかと考えたのだが、
該当するブライアンもヴィクターも、アルベルトでさえ驚愕に眼を見開いている。
これを見る限り、どうやら今の銃撃は本当にビュウの個人的な報復だった様だ。

―――チャンスだ、と【天魔】は心の中で高笑いした。
目の前で暗殺を失敗されてしまっては、殺意の火種を内包したまま残されたブライアンたちも動くに動けまい。
アルベルトに至っては、こうなった以上、後戻り出来ずにランディの命へ従うしか無くなるのだ。
勝った、とも喜んだ。【アルテナ】を粛清する手筈は万難を排した状態で整った。この上で誰が自分を止められるものか。
天すら自分に味方している。そうでなければ、こうも上手く物事が好転するわけがない。
天が、地が、人が英雄による統治を望んでいる―――【天魔】は自分が独り勝つ瞬間を確信していた。
「………これで心置きなく総仕上げに入れる」と。







(………………………今こそ新世界樹立の機(とき)である―――――――――)






今一度両手を広げた【天魔】が演説の為に右の足を、なおも恐慌する人々を正面から見据えて踏み出した――――――
――――――のだが、何の脈絡も無く急に足元がもつれ、その拍子に激突した演台諸共、
雛壇の床板へ無様に倒れ込んでしまった。






(………………何じゃ………これは………………)






演台に用意されていた水差しが地面に落ち、ガシャンと耳障りな音を立てて粉々に砕け散った。
その音を聞きながら、つい数秒前までしっかりとしていた足取りがいきなり覚束なくなった事を不審に思った【天魔】は
満足に動かなくなりつつある身体を捩って左右の太腿を凝視した。凝視して、我が眼を疑った。


「――――――紅…い………」


黒い筈のスラックスが、フロックコートの裾が深紅に染まっていた。
ただ赤いのでなく、無窮の闇の深さを綯い交ぜにした禍々しい彩(いろ)だ。
うっすらと霞み始めた視線を下半身から腹部へ移すと、そこにも禍々しい彩が付着しているではないか。
いや、付着しているどころの話ではない。この彩は液状になって腹部から湧き水の様に溢れ出してきている。
後から後から止め処なく溢れ出し、フロックコートと言わず全身を禍々しく塗り潰していった。






(――――――………痛い………………………)






忌々しくも全身を染め上げていく液体の正体が自分の血である事に気付いた時、
【天魔】は腹部に、胸部に激烈な痛みを感じた。
意識をブラックアウト寸前にまで揺さぶる痛覚の刺激は、腹部に2箇所、胸部に3箇所―――
―――どうやら計5つの部位から発せられている様だ。
道理で全身が禍々しい彩へ染まるのが早いわけである、と【天魔】は笑った。自らを盛大に嘲笑った。


「………ビュウ・シャムシール………本懐は………遂げられたようだぞ………」


13発放った内の5発も致命傷を与えられたのだから、ビュウの狙撃の腕は、
スナイパーとまでは行かないものの相当な技量だと言える。
5箇所にも及ぶ致命傷から流れ出す出血によって急速に体温が失われ、それに伴って機能が廃れていく心身は
最早自由の利くものではなかったのだが、【天魔】は最後に残った生命力を総動員し、
うつ伏せの状態から仰向けに体勢を変換した。






(“痛い”………か………もう何年も忘れていた感覚だな………………………)






神へと至ったと嘯いておきながら、結局ニンゲン以外の存在になれなかった自分が滑稽で、滑稽で、
自分にもまだニンゲンらしい感覚が残存していたのがひどく可笑しくて、可笑しくて、
込み上げてきた喀血と共に自虐的な笑みを零す。
人生の最期に浮かべる笑顔が、己を見下す為にあるとは今日の今日まで想像もしなかった。
笑顔どころか、自分に、【死】という終末的な概念が適用されるとは思っても見なかった。

【死】は―――そこまで迫っている。あと数分もしない内に終末はこの身を捕らえて呑み込むだろう。
四肢は完全に活動の限界を来たし、肺や視力といった部位もその役割を静かに閉じようとしている。
だが、それでも良いと【天魔】は我が身の結末を甘受しようとしていた。遣り残した無念は数え切れない筈なのに心が―――
―――喪失した筈の心が安らかな寝息を立て始めていた。
それはまるで、赤子をあやす揺り篭の様に、静かに、静かに、慈悲深く【天魔】を眠りへと誘ってゆく。


「………………………余は―――――――――僕は………………………」


駆け付け、覗き込み、揺さぶり、何度も名前を呼びかけてくる人々の姿は、もう輪郭線のみしか映し込む事が出来ない。
僅かに残った視力が捉えられたのは、肩と思しき箇所に巻かれた真っ赤なバンダナと、また違う人物が額へ締めた同じ色合いのバンダナ。
夕陽を思わせる赤だ。とても懐かしく、でも、信じられないくらい遠い彼方へ置き忘れてしまった赤だ。
二つの赤が、震える声で自分の名前を呼び続けてくれる。
ランディ、ランディ―――と喉が嗄れるのも忘れて、何度も、何度も、何度も。


「………僕は………………これで………………………眠れるんだ…………………………………――――――――――――」



雲ひとつない空が、果てしなく広がる青天が、ゆっくりと瞼を閉じた【天魔】を―――
―――ランディを優しく包み込んでいた――――――――――――――――――――――――――――――――――――







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