C大河ドラマということ
何を隠そうこの天河真嗣、南北朝時代を扱った『太平記』を小学生の頃に観て以来、
大河ドラマの大ファンでして。常々、生涯の夢は大河ドラマ(せめて原作小説)と
公言しております。
前作のときもそうでしたが、長編を構成する際にまず頭に思い浮かべるのは大河ドラマ。
何をするにも大河、大河です。殆ど大河病(笑)。
正味の話、<トロイメライ>も“萌えキャラで大河ドラマを作る”と言う目論見が
全くないわけではありません(その割には萌えキャラがどんな傾向を指すのか、
いまいちわかっていませんが…)。
ただ、ひとつだけ誤解のないように明言しておきますと、
チャンバラのある時代劇だから大河ドラマが好きと言うわけではありません。
確かにそれも理由のひとつではありますが、叙事詩的とも言える
壮大な人間ドラマである点に僕は最も心惹かれるのです。
勿論、一流の技術を結集した製作現場やスタッフにも物づくりに携わる人間として
魅力を禁じえません。
歴史的な人物や出来事をクローズアップし、しかもそれを全国のお茶の間へ
届ける使命を持った番組だけに、善悪や正義の定義づけあるいは解釈が
勧善懲悪の固定観念から解放され、主人公もその敵も平等かつクリアな視点のもとで
行動をジャッジされる点も大河ドラマの良さではないでしょうか。
例えば、主人公と敵対する人物を、その役割を果たさせる為だけに悪役と固定して
徹頭徹尾の邪悪に描いてしまったら、これはもう大問題。
主人公を賛美する為に登場人物を、しかも実在した偉人を一方的に貶めるのは、
全国的な注目を集める大河ドラマだけにご法度です(一部に例外もあるようですが…)。
つまり、時代劇では半ば固定化されている感のあった勧善懲悪のストーリーテリングから
解き放たれ、正義の在り方と求め方を平等にしたシナリオ作りが大河ドラマでは
大前提となるわけです。
大勢の観賞に耐え得る配慮と、その上に成り立つ、“主人公が掲げる正義の反対には、
また別の正義がある”と言うフラットな捉え方を僕は大河ドラマから学びました。
登場する人物の行動や主張は全て筋が通っていて、間違ったものなど実はひとつもない。
何故ならそれは、彼らが実際にひとつの時代を生き抜いた、生身の人間だったから。
それ故に争乱が起こるのだと言うことも大河ドラマを通じて覚えました。
突き詰めていくと大河ドラマのシナリオ作りって、ギリシャ悲劇に通じるのかなと
最近は思うようになりました。
時代のうねりや据えられた立場と言った外的要因、また利害の不一致によって
個人の感情を置き去りにした醜い闘争へと発展していくギリシャ悲劇のシークエンスは、
確かに大河ドラマのそれにオーバーラップします。
本作<トロイメライ>でも、ギリシャ悲劇を彷彿とさせる人間の葛藤と相剋、
個人の力では抗いようのない大きな波の中に飲み込まれていく
群像のペーソスと言ったものを強く意識しています。
そして、そのドラマツルギーを確かな完成へと導いてくれるのが、
大河ドラマを通して学んだ、“主人公が掲げる正義の反対には、また別の正義がある”と言う
フラットな捉え方なのです。
大河ドラマを通して学んだこととギリシャ悲劇とが融和した部分について語り始めると
枚挙に遑がありませんが、コアとなるのは生身の人間像を描くと言う一点でしょうか。
<トロイメライ>に限らず、基本的に僕の作品ってヒーローが登場しないんですよ。
あらゆることをひとりでこなせる超人ヒーローが颯爽と駆けつけ、
のっぴきならない事件を解決していくのは、古今東西問わず劇作に於ける王道的なパターンだし、
読み手としてもシンプルなほうが解り易いのでしょうけど、あえてそこから外しますね。
ひねくれ者と言われてしまうとそれまでなんですが(笑)、やっぱりヒーローには感情移入しにくい。
手の届かないような高みにいる超人はそれだけで魅力的ですが、
登場キャラクターと読み手の感覚をフュージョンさせる作風との相性は、
正直なところ、芳しいとは言い難いかな、と。
作品を通して伝えたいメッセージを読み手の心へ自分のことのように響かせるには、
すぐ隣に居るような、地に足のついた生身の人間像が最も適しているように思います。
人間臭い悩みを抱えたキャラクターたちが、それぞれの欠点を補いながら、
力を合わせて時代を動かすほどの奇跡を起こしてく―――これもまた大河ドラマで
学んだことなのですが、デウス・エクス・マキナなど起こるべくもなく、
また、ヒーローも不在と言う中で懸命に生き抜く群像と言う描き方は、
間違いなく現実社会にも通じるファクターです。
つまりそれは、よりエモーショナルなシンパシーを生み出すきっかけになるのではないかな、と。
神格化されていたヒーロー=偉人へ血肉を与えることでリアルな人間性を描き出す手法は
まさしく大河ドラマそのもの。
通常、大河ドラマは登場人物の成長や変遷を長いスパンで、しかも主人公のみに限定せず、
敵側も包括するような広い範囲で描いていきます。
当然、<トロイメライ>のお話もこのフォーマットに則って書かれています。
ライトノベルでは比較的珍しいであろう経年変化もしっかりと押さえつつ、
今は亡きビリー・ワイルダー監督が名作「お熱いのがお好き」の中で示された
「Nobody is Perfect(完璧な人間などいないさ)」と言うスタンスのもと、
生身の人間像を徹底的に描こうと激々極々くんとも打ち合わせをしました。
彼は彼で完全無欠のヒーローや情状酌量の余地もない悪を作るのが本当に上手い。
お互いの持ち味を生かし、かつ良い意味で共振しつつ、キャラクターたちの成長や、
それを取り巻く時代の変遷、イデオロギーの膨張などを掘り下げたいところ。
また、生身の人間像を描く上で避けては通れない負の側面からも僕らは逃げません。
所謂、ご都合主義の利く架空の世界の物語でならまだしも、現実では前後の行動や
掲げている理念との矛盾や剥離が起こることはしばしばありますよね。
目的を達成する為には本音と建前を使い分けるし、打算は常に付きまといます。
場合によっては相手のミスリードを誘うことも、罠に陥れることだってある。
人間の持つ狡さや醜さ、愚かしさは“生身”を描く上ではどうしても避けられません。
主人公もときに人間味を欠いた行動を取るでしょう。主人公らしからぬ不道徳なことも
やってのける………それら全てを前述したクリアなジャッジのもとで描きます。
でも、それが人間の悪の部分かと言えば、それはちょっと違うんじゃないかと思うんですね。
表層では我欲にまみれた恥ずべき行動であっても、
その内面には人間の原初的な美しさとでも言いますか、心に決めた目的を達成する為に
穢れることも厭わずひたむきに突き進む強さがあるのではないでしょうか。
穿った見方をすれば、我欲もまた正の指向性を持っていると言えます。
パンドラの箱の寓話ではありませんが、生身でぶつかっていく醜い群像が
心の奥に秘めた一握の希望を拾い上げることが出来れば、全ての登場人物を
平等に描いていけるのではないか。僕はそう確信しています。
チーフデザイナーのエビス丸さんは<トロイメライ>の全体像を捉えて、
“人間(ヒト)の物語”と評しました。
彼の感想に僕は“濃密な大河ドラマ”と言う解で応えてみたいと考えています。
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