1.桜 ―――時が巡り、風が巡り、四季を綾なすのと同じようにして、 歴史もまた潮流を織る中で万華鏡さながらに顔と貌(かたち)を変える。 人も、社会も、惑星(ほし)の巡りさえも、原始の時代より繰り返されてきた この永久連鎖からは逃れられない。 そこに生まれ育まれた人々が集まり、形作られた世界だからこそ、社会の総意たる顔と貌が特徴的に顕れ、 また、時代の流れ如何で千差万別する理(ことわり)は、まさしく永遠に連環し続ける自然の摂理である。 あるときは、夏。 烈日の炎と合わさり、真っ赤に染め上げられた時代の流れが 怒涛となって押し寄せる熱き躍動の機(とき)を 夏に喩えることへ異論を唱える声は少なかろう。 血沸き肉踊る宴の喧騒が、灼熱の時代とそこに生きる人々を盛んに駆り立て、 歴史と言う名の高壁を貫き、朝(あした)へと射通す光の矢を束ねるのである。 あるときは、秋。 宴の後に迎える一抹の寂寥と次なる流れの鳴動を間際に感じながらも 老いた落葉の無常に前進を踏み止まり、胸の奥底を吹き抜けていく薄ら冷たい風に 喩えようのない切なさを禁じえないのが、歴史の舞台に咲く秋だ。 前に進むことはできないが、だからと言って時代の流れに背を向けることも許されない――― ―――高くなった空と太陽が示す路は北方よりの風に吹き散らされ、 数多ある旅人たちの行く末を惑わせてきた。 あるときは、冬。 世界に息づく全ての人たちの悲しみと苦しみが真っ白な六花となって降りしきり、 惑星(ほし)の原野へシンシンと積もっていく。 どこまでも冥(くら)く、見果てぬ地平線の先まで黒と白とで塗り潰された冷たい世界では、 希望の萌芽がアスファルトの皹を押し破ることさえ許されていない。 四季に重なる時代の顔で現在(いま)を喩えるならば、百人中百人が次の通りに断言し、 ひねくれて異論を唱えようものなら「平和を否定する危険思想なんかこれっぽちも認めない」の 一点張りで押し切られるに違いなかった。 ―――春。 時代の潮流は、今まさに伝統的な歴史を覆して新たな扉を開く芽吹きの到来を迎えていた。 冥い空をも抱き締めるようにして輝きを取り戻した春の陽を一杯に浴びた希望の萌芽は、 抑圧されてきた分を取り戻すかのようにしてグンと背を伸ばし、胸を張り、 新たな時代の芽吹きを世界中に伝えるのが役割である。 数多の野を経巡った芽吹きの声は、この世界に生きる全ての生命へ祝福の露を降らせ、 凍てつく雪の時代が去ったことを世界中に報せて回るのだ。 窓の外に垣間見れる風景にも暖かな彩(いろ)が満ち溢れており、 風に吹かれて舞い散る花びらの乱舞など思わず足を止めて見蕩れてしまうほど美しい。 遮る雲の一つもない蒼穹を背景に春の色合いは、その時節と相俟って、 何かが始まる予感、新しい扉の開く期待、若草のような瑞々しさを見る者に印象付ける。 吟遊の詩を準えた比喩でなく、実際に舞い上がる花びらは、みな、若い。 木立が入植されてからまだ数年しか経ていない暖かい花びらには、 数十年、数百年と大地に根を張った古木が持つ荘厳な麗しさは備わっていないものの、 その半面、風と共にロンドを舞う若き躍動感が漲っていた。 桜色の風花も、春の露を帯びた若枝も、生命の自由を謳歌する躍動で弾んでいるのは、 この地の歴史が若いという何よりの証明でもあった。 何故なら数年前までこの地は、木々が生まれ変わる余地も無いまでに破壊を尽くされた 痛ましき焼け野原だったのだ。 今でこそ瑞々しい緑の絨毯が見渡す限りに広がる景勝の野だが、 戦火に巻き込まれて焼亡した前後の姿を知る人々――この地を故郷とする者――の瞼の裏には、 消したくても消せない想い出が刻み込まれており、 此処に遺した歴史の碑文と此処に築かれた新たな歴史の階(きざはし)との狭間に立った彼らは、 異口同音にして同じ呟きを漏らす。 「………何もかも変わり過ぎていて―――なんだか落ち着かないな。 うっすら面影はあるんだけど、私たちの知ってる『グリーニャ』じゃないみたい………」 大理石の敷き詰められた回廊を渡る女性も、そのご多分に漏れなかった様子である。 侵略と言う名の暴挙の犠牲となって焼き尽くされたこの地には、『グリーニャ』と言う名があり、 森林保護区に指定された現在では、静寂なる森の中心に一つばかり施設を構えるのみで 面影も見られないのだが、かつては人家の立ち並ぶ農山村であった。 林道と呼ぶには十二分に踏み均され、調えられた経路に昔日の残影を感じられる以外には 人の手の入ったものが殆ど見当たらない緑深き『グリーニャ』は、 現在、車での乗り入れも制限されており、政府主導のもとで徹底した保護が行なわれている。 高度成長を続ける社会の発展は、その弊害として森林伐採などの開発を必要悪に迫られているが、 政府も企業も、切り拓いた山々が惑星(ほしに)にとって掛け替えの無い損失であることを周知しており、 専門家が分析するには気休め程度にしかならないのだが、 保護区を設けるなどして可能な限りの野生の保全に取り組んでいるのである。 『グリーニャ』はこの政策の第一号案件であり、他の保護区に比べて格段に自然が多く、 政府が期待した環境保全のモデルケースとしての役割も十分に果たしていた。 政策の管理に置かれるのが遅く、もっとずっと若い保護区では、 春風と舞えるだけの花びらすら育っていないのだから、早期に指定を受けられ、 なおかつ入植などに多大な援助を受けられた『グリーニャ』は僥倖だったと言える。 辺り一面に生い茂る天然自然に包まれているのは、つまりこのためであった。 唯一、人造されたモノを『グリーニャ』に求めるならば、 必然的に保護区の中心に在るこじんまりとした施設に意識は向けられるだろう。 バリアフリーを全フロアに徹底した施設の外周には衝立らしい衝立もなく、 いつでも誰でも入館できそうだ。 玄関の看板には『グリーニャ平和祈念美術館』と名称が振ってあり、 その脇へ営業時間のインフォメーションが掲載されているものの、 これを見るに先ほどの喩えには一部誇張があったらしい。 午後七時を過ぎると全館閉鎖となる美術館内に、衝立が無いからという理由だけで “いつでも““誰でも”入館しようとする無遠慮――と言うよりも非常識――な振る舞いは 謹んで辞すべきであろう。 その観点で行くならば、『グリーニャ平和祈念美術館』の奥まった一画へ続く回廊に ハイヒールの音を響かせる女性は、非常識極まりないと断ぜられてしまうようだ。 現在、開館予定時刻の三十分前である。 時折、立ち止まって窓の外に想いを馳せる白いスーツの女性は、 面に穏やかさと柔らかさを兼ね備えており、とても上記したような悪事を働くとは思えない。 慌てずよくよく手元を見てみれば、首から提げたパスケースには入館証が納められているし、 薬指に銀のリングが輝く左手には特別展示店の招待が明記されたクリアファイルを抱えている。 どうやら『グリーニャ平和祈念美術館』の何らかのセレモニーに呼ばれた風な彼女は、 だからこそ会館前に施設内へ足を踏み入れられたわけだ。 入館証に記入された名前は『フィーナ・ライアン』―――フィーナは、 その会場に指定された区画へ向かうべく大理石の回廊をひたすら進んでいた。 「一番乗りを狙っていたんなら、悪かったね、枢機卿殿。 美味しいところはボクが貰っちゃったよ」 総合案内で貰ったパンフレットの見取り図と館内に散見されるスタッフの指示を頼りに壁伝いで歩き、 やっとの苦労を経て約束の場所に辿り着いたフィーナを、 ユニセックスな声質が何とも言えない魅力を引き出している青年の皮肉が冷やかした。 冷やかしと言うよりは気心の知れた相手へのじゃれ合いに近い。 「も〜、シェイン君ったら………。プライベートではその呼び方はやめてって、 いつも言ってるじゃない」 予想した通りの反応を示すフィーナに“シェイン”と呼ばれた青髪の青年は 堪えきれなくなって吹き出した。 「じゃあ、ミセス・ライアン? ………変わらないなぁ、あんまし。 ていうか、今更、フィー姉ェをミセスで呼ぶのも、ちょっとゾッとするしなぁ〜」 「女性相手にゾッとするなんて、ちょっとデリカシーに欠けるんじゃないかなぁ。 そーゆー気配りが不器用だから、いつまでも妹を任せられないんだよ」 「ベ、ベルは関係ねーだろ、ベルはっ!」 「おまけに無茶ばっかり。キミにかけられた懸賞金、ま〜た上がった気がするんだけど? そーゆーのは、お姉さん、感心しないなぁ。………ベルも心配してたよ? このままじゃ婚期逃すかもって」 「心配すんの、そこかよッ! べ、別にボクだって好き好んで待たせてるわけじゃなくて! なんつーか、こうタイミングとか色々―――って、かッ、関係ねーだろ、フィー姉ェにはさぁ! ボクとベルがど〜なったって、そりゃこっちの勝手だろッ!」 一番乗りを果たしてフィーナを出迎えた“シェイン”の胸元でも入館証が揺れている。 『シェイン・テッド・ダウィットジアク』―――彼のを知らぬ者は今やこの世界にはいない。 遠い地の果てから見果てぬ空の高みまで功績を轟かせる稀代の冒険家にして――― ―――懸賞金一億を超える賞金首である。 ここ『グリーニャ平和祈念美術館』へ足を踏み入れる装いはワイシャツにスラックスという 比較的フォーマルなものだが、普段の彼を包むのは『』と呼ばれる神器だ。 故あって懸賞金をかけられてしまってはいるものの、伝説の英雄にのみ許される称号、 『ワカンタンカのラコタ』と共に授かった神器が彼を見限り、その身より離れぬところから察するに、 どうやら悪党へ身を窶すような腐敗の魂でもって賞金首となったわけではなさそうである。 ………彼がどのような経緯を経て賞金首となったかを語るのは、また、後の機会に譲るとしよう。 神聖なる衣を纏い、冒険家の本分とそれに準ずる範疇に留まるどころか、 西に泣く子があれば、東に苦しむ人があれば疾風を纏って駆けつけ、 光剣とハンドカノンを相棒に災いを取り除くおよそ賞金首らしからぬシェインだったが、 今日は着慣れぬ衣服のせいで身のこなしがどこかぎこちない。 スラックスに変な折り目を付けないよう余計な気を遣って身じろぎするあたりにも フォーマルな恰好への不慣れが透けており、目敏く見つけたフィーナは 口に手を当てて喉を鳴らした。 いつもは自由の道を颯爽と駆け抜けるシェインが見せるギクシャクとした動きと、 “妹”のことでドギマギする様子が、可笑しくて仕方無かった。 「コカカッ! コケケッ! コケコッコォーッ!!」 「お! ムルグじゃねーか!」 フィーナとシェインの頭上を一羽の鳥――正確に表記するなら見事なニワトリ――が舞う。 久方ぶりの再会を喜ぶかのように甲高く嘶いたニワトリは『ムルグ』と言い、 フィーナの長年のパートナーである。 彼女と同郷であるシェインもムルグのことは幼少の頃から良く見知っており、 胸に飛び込んできた白羽の塊を抱き留めると愛しそうに撫でつけた。 「お前もお前で老けねーのな。フィー姉ェに少し若さを分けてやったらどーだ?」 「ちょ、ちょ、ちょっと、シェイン君っ。今のは聞き捨てならないなぁ〜。 この間も統合参謀本部議長に『十代後半で通じますな』って言われたんだからね、私」 「スツーカのオッサンが? それはきっと頭ン中がって言いたかったんだよ」 「違うッ! 絶対に、絶対にッ、絶対にッ! 違うッ!! 肌年齢も含めて全部だよッ!! ………そりゃ、三十入ってから、めっきり水を弾きにくくなったけどさ………」 「自信無いんじゃん」 お肌の曲がり角をウジウジと悩む様子をシェインは面白おかしくからかうものの、 初めてフィーナと会う人間は、誰も彼女が三十代半ばとは思わない。 十代後半と言うのは確かに厳しく、どう取り繕っても身の程知らずだが、 それでも外見年齢のほうが実年齢より十歳は若く見えるのだ。 謳い文句を二十代半ばと訂正すれば、あと数年は通用することだろう。 さすがにあどけなさは抜けきっているので、言うなれば可憐な佇まいか。 当人の葛藤はともかく、フィーナは同世代の人間がハンカチ噛んで羨む“天賦”に恵まれていた。 「コケコココッ! コッココカッ! カコーッ! ケコッ!」 「パートナーはフィー姉ェに何て?」 「直訳すると―――『水も滴る良い女とは昔からよく言うが、 フィーナの場合はその更に上ッ! 水滴のほうからフィーナに惚れ込んじゃって、 離れたくないんだ』って。………ありがと、ムルグ」 「コケコッ! コカッ!」 「………そうだね、時々、髪の毛に白いものがチラつくのは、 太陽が私の美貌に嫉妬して髪の毛を焼いてるからだよね、うん………」 ムルグもムルグなりにフォローしているようだが、 如何せん年齢に関するフォローはされればされるほど、痛みに換わって降りかかるものである。 パートナーから向けられる心からの慰めを無碍にするわけにも行かず、 フィーナは限界ギリギリに引き攣った微笑で応じるのだが、 無理と無茶を何度も何度も重ね合わせた作り笑顔はフォローのしようが無いほどに道化じみていて、 シェインは腹を抱えて大笑いした。 「人の妻を笑い者にするとは、お前も随分趣味が悪くなったもんだな、シェイン。 いや、性根が悪くなったと言い換えるべきか。………いずれにせよ政治犯には似合いの性情だな」 打ちひしがれたように肩を落とすフィーナと、渾身のフォローにも関わらず気落ちしていく彼女に戸惑い、 困ったように「コカー………」と小さく鳴くムルグの滑稽さにアテられ、 込み上げる笑気を抑えきれずにいたシェインの背を 声に引き寄せられるようにして二人と一羽の振り返った先には、 暖色のスーツに身を包んだ一人の青年の姿。 スーツの襟元に黄金色に輝くバッジを付けた青年が、腕組みしてシェインを睨んでいた。 女神のレリーフをあしらったそのバッジは、彼の身分を政府上級職員として証明する物である。 「枢機卿、あなたの目の前にいる男は連邦政府に対して度重なる反抗を繰り返す政治犯です。 あなたと、あなたの率いる部隊には彼を取り締まる義務があると思うのですが、如何ですか?」 “睨む”と言っても怒りや軽蔑の赴くままに表れる負の情念の発露と言うほど 大袈裟で真剣なものではない。 “妻”を笑い者にされた抗議こそあれど、オーバーリアクション気味に口元をへの字に曲げる 彼の眼差しでは親しみとお可笑し味の双方が両立されていた。 「私たちの任務は弱者の為に戦う勇気あるヒトを捕まえることじゃないからね。 その点、シェイン君は免責の条件にピッタリじゃない。懸賞金を外してあげたいくらいだよ」 「それを決めるのは連邦政府だ。政府が政治犯と認識している以上、 個人の感情はどうあれ逮捕は止むを得まい」 「どうかな? 私たち『ローフルダーク』は基本的に連邦政府から独立した機関だからね。 判断基準も政府とは違うんだよ、うん」 物言い自体はシェインを許されざる反乱者として処罰するよう求める現実的かつ威圧的なものだったが、 それが彼なりのジョークであり、軽いおふざけだと心得ている二人は、 顔を見合わせ「困った困った」と大袈裟に肩を竦めるのみ。 シェイン本人の口元にはより一層の笑気が宿り、フィーナも軽口めいた答えを返すのみで 悪ふざけに乗る物言いを真剣に取り合う様子は見られなかった。 「ヘンッ! 反抗されたくなきゃ、もっと良い世界を作ってみろってんだい。それが政府の仕事だろ。 仕事サボッて給料泥棒していりゃあ、そりゃ反発食らって当然だっつーの」 「言うようになったな、お前も。だが、俺もその政府の一員だ。それを忘れて貰っては困る」 「そーゆー威し文句は、真剣な眼で言わなきゃ説得力無いぜ」 諌言を呈した青年も相手が悪ふざけと受け取るのを織り込み済みだったらしく、 予想した通りのリアクションを見るや、血色の良いフィーナやシェインと比べると些か色白で、 氷の彫像さながらに冷たい印象を与える横顔へ人間らしい感情が伝っていった。 命無き彫像や氷魔の類でなく、ちゃんと血の通う彼の口もとに浮かぶのは、 見る人の心へ仄かな温もりを落とす柔らかな微笑だった。 「―――四番目だね、アル」 「おせぇっての、アル兄ィってば。つか“政治犯”が一番乗りってのも問題あるんじゃね?」 「本当はもっと早く到着したかったんだが、仕事が押しに押してな。 ………と言うか、シェイン、お前、本当にどうやって入り込んだんだ? 俺たちに逮捕の意思が無くても、お前は国際指名手配されているんだぞ、一応」 「ん? いや、別に忍び込んだわけじゃねーし。すんなり入れてくれたぜ?」 「………無用心にも程があるな」 「みんな、ちゃあんとわかってるって証拠だろ。ボクらと政府のどっちに正義があるかをね」 「さっきからやけに視線が冷たいと思ったら、そう言うことか。 ………いいさ、政府の努力が鼻で嘲笑されるのはいつものことだ」 「ま、言い訳しながら首を洗って待ってるんだね。ボクらが正しいってこと、いずれわからせてやるさ。 ―――いや、きっと世界中のみんながわかってくれる」 「必ず出来るよ、シェイン君になら。だって、私たちの心には、もうちゃんと伝わってるもん」 「お前は、また、政治犯を煽りやがって―――………ったく、フリだけでもいいから、 少しは政府を擁護するなり信頼するなりしてくれよ。これじゃあ、俺の立場が無い」 「だって、アル兄ィだもんなぁ。ねえ、フィー姉ェ?」 「昔は憎たらしい二枚舌でよく悩まされたもんねぇ。信用しろって言われても、 ごめん、ちょっと無理だよ、アル」 「………煩い、黙れ」 真紅の瞳と銀髪が絶妙のコントラストを醸し出し、そこから漂う艶めいた空気を 暖色のスーツで包み隠した青年は、呼ばれたニックネームに片手を挙げて応えた。 ――――――アルフレッド・S・ライアン。 フィーナの夫にしてシェインの兄貴分は、入館証の名前欄へそう記入していた。 「コッカカカコッ!! コココココーッココココココココッ!!」 「………今更、変わるものとも思わんが、 人の顔を見る度に嘴を研ぐのはやめろ、そろそろサバくぞ、お前」 「どうして二人はいつもそーなっちゃうの? 大人げ無いでしょ、アル」 「薄情な奴だな。邪険にされている夫を庇う気が無いどころか、俺一人を悪者扱いか」 「首席補佐官もカタなしだな、こりゃあ」 ムルグただ一羽だけが、愛しのパートナーを横から攫われた悲劇の怪鳥――本人談にして フィーナ直訳――だけが、招かれざる客を追い立てるようにして低く威嚇の唸り声を上げ、 他の二人が顔を綻ばせて迎え入れたアルフレッドを、シェインは“首席補佐官”なる肩書きで呼んだ。 首席補佐官とは、政府の頂点に立つ大統領をまずサポートするチーフスタッフへ 授与される名誉ある肩書きである。 彼の名前は、シェインのそれに勝るとも劣らない威力を以って世界中に轟いているのだが、 『アルフレッド・S・ライアン』と訊いた人間は、瞬間的に二つの肩書きを脳裏へ想起させる。 その内の一つが――もう片方の肩書きを語るのは、やはり後の機会に譲ろう――大統領首席補佐官なのである。 もう一対の肩書きとその用途が人々の記憶から風化しつつある昨今、 アルフレッドに対する世論の評は“若き首席補佐官”に定着し、 彼自信、その職務に持てる限りの全力を尽くしていた。 枢機卿を務めるフィーナ同様、三十代半ばにして大変な重職を担い、 それを怜悧冷徹に全うするアルフレッドを人は“鉄の男”と認めている。 いかなる困難をも跳ね返す、政界屈指の“鉄の男”―――と。 その“鉄の男”をもってしても嫉妬に狂ったムルグは御し難く、 世論…とりわけ若い女性がイメージする首席補佐官像との滑稽極まる剥離に シェインの笑い声は一段高くなった。 「こっちはこっちで老けねーな。 てか、元々老けてたし、今更、フィー姉ェみたく老け込んだりしねーってトコか」 水を弾かなくなった肌はともかく、見た目にはまだまだ若々しい愛妻と対照的に 年齢相応の年輪を刻み、目端や口元に緩やかな老成の帯び始めているアルフレッドだが、 どうやら彼の重ねる枯れは、若かりし頃には既に散見されていたものらしい。 いわゆる老け顔と呼ばれるタイプであるアルフレッドは、ただでさえ生気が薄く、 あまつさえ三白眼気味でお世辞にも朗らかと言えない自分の人相を十代から気に病んでおり、 それを踏まえた上で冷やかしにかかるシェインをまたも睨みつけた。 ………今度は、ちょっとだけお腹立ちの気色(いろ)が含まれている。 「俺はフィーに若さを吸い取られているからな」 「イヤなこと言わないでよね。………しかも、ちょっといやらしいし」 「卑猥な解釈をされたものだ。心外だよ、フィー。 お前が苦労ばかり掛けてくれるから老け込んでしまうと、俺はそう言ったつもりなんだが?」 「へ? ………うぇぇぇっ!?」 「おピンクなことばっか考えてるから、そーゆー誤解しちゃうんだよ、フィー姉ェは。 枢機卿が聞いて呆れるぜ」 「で、でも、今の言い方は、だって、その―――って、 アルもアルで、ちょっとは奥さんのフォローしなさいよぉっ」 「数分前、お前が俺に何をした? 比例報復は許される範囲内の行為だ」 「ぬ、ぬうぅ〜」 シェインが口火を切れば、悪ふざけしたフィーナが必ず言葉尻に乗ると確信したアルフレッドは、 好きな放題茶化される未然に話題の矛先を別な人間へ向け、 妻の凹みと引換えに自身の窮地を切り抜けた。 突然に槍玉に上げられることになってしまったフィーナは、 話題が自分不利な状況へ摩り替えたことにも気付いていない。 弁論法のちょっとしたコツを行使して自分に降りかかるはずだった災難を フィーナになすりつけておきながら、そ知らぬ顔して彼女を言い含める アルフレッドの底意地悪く腹黒いこと。 果てしなくドス黒いアルフレッドの卑劣に勘付いたシェインも、 もっともらしい正論を吐いて追い撃ちを試み、サラウンドでおピンク呼ばわりされたフィーナは ますます立場を無くしていった。 「コケケケッ! カッコカッ!!」 「あだだだッ!? わ、悪ィ、ムルグ! ちょっと悪ノリし過ぎちゃったってッ!」 「フィーに苦労させられているのは事実だ。俺への攻撃は不当じゃないのか? 苦労人というのは、えてして老け込んでいる」 「………ムルグ、思いっきりヤッちゃって良いからね。 奥さんのお墨付きなら文句も言えないでしょ」 「コケェッ!!!!」 「お墨付きが出た途端、テンション上げ過ぎだ。この水炊きの材料が」 ちょっとした悪ふざけならまだしも、決定的に凹まされるような事態に陥ったとなると さすがにムルグも黙っていない。 フィーナの仕返しとばかりにアルフレッドとシェイン目掛けて滑降し、 さながら啄木鳥のように彼らの脳天を何度となく嘴で襲い続けた。 じゃれ付くのに近いシェインへの攻撃と比べ、 自分に対してのみ執拗かつ一定の殺意をもって際限なく襲い掛かるムルグを 払い除けんとするアルフレッドの左の薬指にも、 仕返し成れりと口に手を当てて喉を鳴らすフィーナの左の薬指にも、 銀に輝く物が見て取れる。 左手の薬指で銀の輝きを放つのは、揃いの指輪―――夫婦の証たる、銀の誓約。 ………ある事情からブランドもデザインも相違する“婚約指輪”と異なり、 今、嵌めている“結婚指輪”は、二人でデザインを考え、 銀細工を得意とするアルフレッドの恩人に作って貰った、 世界でこの夫婦しか持ち得ないオーダーメイドの逸品だった。 余談だが―――シルバーアクセサリーのコレクションを趣味に持つアルフレッドは、 第一案から髑髏やドリルをあしらった攻撃性の高いデザインを提案していた。 アルフレッド本人にしか理解できない趣向が採用されるハズもなく、 「その発想自体がどうかしている」とフィーナを含む家族・仲間全員に袋叩きにされ、 あえなく撃沈した経緯がある。 最終的に飾り気のないごくごく普通のデザインに落ち着き、 アルフレッドも納得はしたものの、未だ野望の火は消えておらず、 金婚式にこそ髑髏の指輪を用意したいと今から策を巡らせている最中だった。 『政治家の皆さんには、常にモラルリーダーって自覚を持ってて欲しいからね。 外聞の悪いモンは避けとくのが吉じゃない? てか、アル兄ィ、趣味入りまくりだろ』 指輪のデザインを巡る紛糾を耳にした当時、呆れ果てたシェインはそう漏らしたのだが、 まさにドンピシャの言葉である。 プライベートで何を趣味に持つかは本人の勝手だが、市民の手本には趣向一つにも 一定のルールの遵守が求められる。 社会の規範となるべき政治家が髑髏の細工を結婚指輪に選ぶのは、いくらなんでもまずかろう。 「―――っと、ごめん、ボクのだ」 そのとき、シェインのズボンから電子音が漏れ出した。 軽妙だがどこか物寂しさを覚える無機質な音色は、彼のモバイルが電子メールを着信したのを 知らせるアラームである。 「ベルからだよ」と液晶画面に表示された送り主をアルフレッドたちへ伝え、 内容確認に次いでどこかの誰かへ電話を掛け始めた。 マナーモードにでもなっているのか、あるいは通話の始められない状況にあるのか、 無為なコールは何十秒と続く。 こうした場合、他人の会話を耳に入れないよう距離を取るのがエチケットというものだ。 一組の夫婦と一羽の鳥もこれを遵守し、ようやく通話が開始されたシェインに気を遣って それとなく彼の側から一歩引いた。 和やかな口調で談笑するシェインの通話が終わらない限り、彼の迷惑になる大きな声も出せず、 手持ち無沙汰となった二人と一羽は、館内の様子へと視線を巡らせた。 直前に迫ったセレモニーへ向けて急ピッチで作業を進める美術館スタッフの奮闘ぶりに 感心の溜め息吐く二人と一羽だったが、大理石の壁を飾る額縁が目に入った途端、 彼らの意識は美術館スタッフからもシェインからも切り離された。 自由を得た三つの意識は、やがて色とりどりに壁を飾る絵画や写真に引き絞られ、 そこに過ぎて去った歴史(きのう)の幻像を視た。 温かな陽だまりに満ちた春へ至るまでの四季を、激動した時代の潮流を、 視る者の心へ辛辣なまでに投影させた。 壁面に据え付けられた絵画や写真の殆どが、戦争の一場面を切り取った物である。 ある額縁には、熱砂の大地にて馬馬と軍用バイクの交錯する模様が納められ、 また別な額縁には、氷結の絶海に浮かぶ夥しい艦隊が描かれている。 とりわけ異彩を放つのは、寺院遺跡と思しき場所で同じ軍服に身を包んだ者同士が 悪夢のような銃撃戦を繰り広げる写真だろうか―――数多ある決戦の追想が、激動する時代の痕が、 まさしく“平和祈念”の名に相応しい形で展示されているのだ。 戦火の記憶…愚かを極める選択…政争と言う名の擾乱…犠牲への追弔を、 過ぎて去った歴史(きのう)の出来事として風化させてはならない、と。 今日(こんにち)、世界を満たす陽だまりが、無限を数える血と涙の果てに得られた未来であることを、 決して―――決して忘れてはならない、と。 「………………………」 「………………………」 「………………………」 『グリーニャ平和祈念美術館』に刻まれた戦いの記憶を、 アルフレッドたちはこの場所を訪れる他の誰よりも良く知っている。 ………生々しい感触を伴った記憶として、しかと胸の裡に留めている。 熱砂の大地の決戦も、氷海を往く艦隊も、炎に包まれる寺院遺跡も――― ―――想い出そうと目を瞑れば、たちどころに全ての戦いの記憶が心を掌握し、 瞼の裏に過ぎて去った歴史(きのう)の狭間を投影させるのだ。 在野より出でし常勝の軍師として、新たな時代を拓く枢機卿として、死闘の渦中に身を投じた日日が、 手に余るほどの戦う力を取り、敵と断じざるを得ない悲憤の容(カタチ)へ挑んだ瞬間が、 未来を託された者の裡に甦るのだ。 戦歴の隙間を埋めるようにして張られた、セレモニーの内容を詳報するポスターが目に留まる頃、 アルフレッドとフィーナの手は自然と繋がれていた。 受け止めるにはあまりにも哀しい追想の痛みを、互いの体温で慰め合っているのではない。 体温感じる手を握り締めることは、互いの裡に甦った歴史(きのう)の重みを 確認し合う儀礼に他ならなかった。 「“ロード・オブ・レフュージ”。………【難民】の歩んだ道か………」 「コ………カ―――」 「それに………―――」 ポスターに記入されたセレモニーの名称と、………作品提供者の名前を見止めた二人は、 体温感じる力を骨が軋むくらい強める。 「………トリーシャ………」 ――――――トリーシャ・ハウルノート。 ………それは、『ロード・オブ・レフュージ』に添えられた名。 『グリーニャ平和祈念美術館』で催されるセレモニーの主役の名………。 「………“ロード・オブ・レフュージ”……」 耳元にリフレインした底抜けに明るい声と、脳裏に浮かんだ好奇心の塊のような笑顔と。 共に焼き付けた幾つもの足跡を噛み締めるようセレモニーの名称を、 アルフレッドは、もう一度、呟いた。 「―――ベルに掛けたんだけど、もうそろそろ『グリーニャ』入りするって。 途中で落ち合ったらしくてさ、他のみんなも一緒みたいだよ」 「あ………ああ、そうか―――」 『トリーシャ・ハウルノート』の名と共に想起された、 何とも言い表せない感慨に浸るアルフレッドたちのもとへ通話を終えたシェインが やって来た…のだが、先ほどと明らかに異なっている二人と一羽の様子に キョトンとして目を瞬かせた。 ほんの数分前まで和やかに過ごしていたのに、どうしてうっすらと涙を浮かべているのだろう――― ―――けれど、シェインに浮かんだ疑問符はすぐに氷解された。 「そっか………そうだよな………うん………」 アルフレッドたちと顔を見合わせたシェインは、一握の悲しみを含んだ微笑を浮かべ、 想いを共有する仲間たちへ静かに頷く。 二人と一羽が視線を向けた先に答えを求めたとき、 シェインの胸の裡にも彼らと同じ感慨が想起されたに違いない。 「ん―――今度は俺のか」 にわかに垂れ込めたしめやかな空気を静寂と併せて裂いたのは、 アルフレッドの胸ポケットで鳴り響いた電子音―――モバイルの着信音だ。 偉大なる作曲家、エドワード・エルガーの行進曲『威風堂々』第一番のメロディが 『グリーニャ平和祈念美術館』の回廊に響き渡った。 彼が胸ポケットから取り出したモバイルはストラップ等で飾られておらず、 ブラックメタルのカラーリングと合わされば、厳正さを求められる首席補佐官の職責を 如実に表すアイテムとなる。 派手な転調を繰り返してもどこか物寂しく感じてしまう無機質な着信音も、 アルフレッドと組み合わさると粛然とした響きに変わるから不思議だ―――………これは全くの余談か。 「五番目の到着は、どうも大統領のようだな」 アルフレッドの除きこんだモバイルの液晶画面には、 メールの送り主として“POTUS”という名前が表示されていた。 “POTUS(ポータス=President Of The United Star)”―――つまり、この世界を統括し、 正義のモラルリーダーとして社会を導く大統領の略称である。 「あ、お出迎え? 一緒に行くよ?」 「いや、いいよ。お前はここでシェインたちとみんなを出迎えてやってくれ。 『首席補佐官一人で来い』って大統領直々の命令もあることだしな」 この世界の―――血と涙の果てに安寧を得、いっぱいの陽だまりを享受する惑星(ほし)、 【エンディニオン】の先頭に立つ旗頭を、市民は『大統領』と呼ぶ―――――――――。 本編トップへ戻る ・ 次ページへ |