1.無垢でいられた時間



「光り輝く者が秩序を治めていけるのであれば、俺はその影になる。
法や理想が通じない無情の現実と斬り結ぶ黒い剣になる」

 不意にいつか誓った約束が脳裏をかすめたのは、世界に息づく全ての生命に祝福を与えんが為に
蒼穹にて光り輝く太陽を仰いだから、か。
 あるいは、眩いばかりに無垢な陽光と、これから自分が成そうとしている所業との間に
途方もない落差と一抹の呵責を感じたから、か。

 取り止めもなく頭を過ぎっては輪を描いて流れる無意味な自問を頭を振って払い、
今度はわずかな疑念も差し込ませないようにと強い意思をもって太陽を仰ぎ見る。
 炎の如く赤いその瞳には、自分を含めた地上の全てを祝福し、生きる希望を与えてくれる太陽にすら
叛逆を挑まんとする抜き身の闘志が静かに―――いや、昏く昏く、ゆらめいていた。

 その者は、謀略でもって破邪を成す軍神の神性を象ったエンブレムを背負っている。
 極東の島国において陣羽織と呼称されるなめし革のジャケットへ軍神のエンブレムを意匠した彼は、
背負った神性さながらに己が人生を戦いの中へと見出しているに違いない。
 修羅の道を往く者―――戦いの装束である陣羽織に身を包み、眼光と言う名の鋭く冷たい矢を
天へ目掛けて射掛けるその姿を見た者が、彼の生きる場所は戦場以外に無いと考えるのは
至極当然の事である。

「古の軍略に曰く―――」

 数秒ほど太陽へ闇より出でる闘志を投げた後、彼は一度後方を振り返り、そこに在る何かへ視線を走らせた。
 おそらくは求める物を見つけたのだろう。満足げに薄く笑うと、打ち跨った愛馬の鐙を蹴った。
 嘶きを抑えながら静かに栗毛の馬を進める途中、彼の口から古い時代の教えが漏れ出す。
小さな呟きは、無意識の内に漏れ出したものと思われた。

「一に、天の運を掴むこと―――」

 敵地を侵掠せしめる炎の如き闘志が漲った瞳と裏腹に、表情に不遜さは微塵も無い。
 太陽へ噛み付く叛意を見せるほどなら、そこに反骨の精神や己の技量を過信する愚かさも滲んで然りなのだが、
彼の面持ちは、そうした慢心を律するように極めて怜悧であり、むしろ感情は零に近かった。

 ふと一陣の風が吹き抜ける。彼の立つ草地を清涼に撫でていった。
 潮の匂いを微かに含んだ風になびく銀髪は、冷徹な知性と厳しさを称える端正な顔立ちに恐ろしいほど似合っており、
古代の彫像めいた、底の知れない美麗さを醸し出していた。

「二に、地の利を得ること―――」

 否応無しに漆黒の陣羽織と、陽の光を鈍く跳ね返す銀のエンブレムへ目が引かれる中、彼の胸元に氷のように
鋭い光を放つ何かを見つける事が出来た。

 ペンダントである。灰色の銀貨をチェーンで繋いだペンダントが首から下げられていた。
 一般に流通するコインと殆ど変わらないサイズである為、注意していないと漆黒の陣羽織に輝きを吸い込まれて
見失ってしまいそうになるものの、一度注意が引き付けられてからは、彼の胸元で意味ありげに光る銀貨を
気にせずにはいられない。
 時折、「リィィ―――………ン」と銀を擦ったような音が銀貨から聴こえてくるのは空耳だろうか。

「結びに、人の和を知り、それを味方と換えること―――」

 鞭声も粛々と歩みを進めていた馬の手綱を引いた戦いの化身は、古い時代より伝わる教えを結びの一句でもって
締めくくると、眼下に広がる光景へ獲物を求める猛禽さながらの鋭い視線を巡らせた。

「―――束ねて勝利を成すこと、即ち三陣と云う」

 視線の先に在る光景を油断なく観察する彼の耳へ、歩みを止めた自分の馬の物でない別の蹄の音が届いた。
 注意していなければ聞こえないくらい小さな蹄の音は、次第にその数を増しているようだ。
 蹄の音が増す度に彼の昏い眼差しが熱を帯びていく。赤い瞳と闘志に相応しい炎となって輝きを強めていく。

 眼下から視線を戻し、蒼穹に吸い込まれる蹄の音が響いた方角へ振り返った彼は、
「その位置で待て」と赤い瞳で語りかけながら、掌を押し出すゼスチャーで蹄の音色を静止させた。

「全員配置に付きました。………後は貴方の采配次第です、アル」

 シンと止まった音色に代わって穏やかながら強い意志を感じさせる声がどこからともなく上がった。
 蹄の音色、と一口に言っても、手綱を繰る者がいなくては馬も規則正しく奏でる事や合図に応じて止まる事は出来ない。
 今の声は、"アル”と呼ばれた戦いの化身へ追従してきた誰かが馬上よりかけたものである。
 見れば、十ばかりの人馬が"アル”から離れる事およそ数十メートル後方に息を潜めて控えていた。

「了解した―――ブリーフィングで打ち合わせた通りに仕掛ける。
各々、しくじる事が無いように万全の体勢を整えておけ」

 呼びかけに答えながら鞍より飛び降りた彼は、再び視線を眼下へと戻した。
 草地はそこで途切れ、彼の立つ場所から数歩先は峻険な崖である。
 それも、高所恐怖症の人間が見ようものなら、たちまち足が竦んでへたり込んでしまいそうな断崖絶壁だ。
草地から地の底まで目測でも百メートル近い高度差が見て取れた。

 彼の焦点は、先ほどからその崖下へと絞られているのだ。
 崖の下に広がるのは、四方を切り立った絶壁に囲まれる小さな入り江だった。
 見た目には何の変哲もない入り江――人は、レサ陵蒼壁(りょうそうへき)と呼ぶ――だが、
立地条件がすこぶる悪い。
 四方を囲んだ絶壁の間に街道へ出られる細い道があるにはあるのだが、崖から崩れたと思しき岩石が
辺り一帯に散乱していて、お世辞にも足場が良いとは言えない状態なのである。
 そんな場所へ誰が好き好んで船を着けるだろうか。
 人の手が加わった様子の見られないレサ陵蒼壁は、近隣の地方で生計を立てている漁民にも打ち捨てられたと
判断するのが妥当と思えた。

 しかし、今日は平素の静寂を踏み破る者がある―――と言っても馬を進めていた"アル”ではない。

「急げ! 敵軍が本営へ迫る前に、なんとしても物資を届けるのだ!!」

 滅多に使われないはずの入り江に人だかりが殺到しているのだ。
 漁師の一団かと思えばそうではない。二、三十人ばかりの人影は、総員が物々しい軍服に身を包んでおり、
それだけでも不穏な気配を醸し出していた。
 四振りの剣をあしらったエンブレムが目を引く腕章には、おそらくは彼らの所属する部隊名なのだろう、
『ギルガメシュ』なる文字が染め抜かれている。
 種類の異なる刀剣を組み合わせたエンブレムの中でも特に際立った存在感を発しているのは、
罪人の首を刎ねる為に用いられるエクシキューショナーズソードだ。
 ご丁寧にも刑を執行し終えた後に付着する血の痕跡までもが意匠化されていた。
 これによってギルガメシュと名乗る一団は自らのコーポレートアイデンティティを内外に示そうとしているようだが、
少なくともエンブレムや現在確認出来うる彼らの行動から感じ取れるのは、
ときに悪の枢軸とまで糾弾されるテロリズムのみである。

 恐怖的な威圧感を更に強めるのは、彼らが入り江に乗り付けたボートから運び出される荷物だ。
中型のコンテナからはライフルやバズーカと言った戦略兵器の黒光りする地肌が突き出していた。
 よほど乱雑に積み込まれたのか、あちこちに金属同士で摩擦した疵が見られた。

「………笑わせるな―――」

 レサ陵蒼壁に群がる人だかりを睥睨していた"アル”は誰に言うでもなくそう呟くと、
何の恐れも無く断崖の淵まで足を進め、

「―――お前たちにくれてやるのは、法さえ温い断罪の剣だ」

 跳梁の跋扈する入り江のみに焦点を絞りながら、蒼風の辿り着く地の底へと痩身を躍らせた。







 カーキ色の軍服に身を包んだギルガメシュは、皆一様に焦燥に駆られている様子だった。
 ボートでもって入り江に乗りつけるなり、足場も満足に確認しない内から荷物の運び出しを始める辺り、
彼らの焦りが異常値を示している事が窺えた。
 一団を率いるリーダー格のカールスナウトは焦りが頂点に達しているらしく、運び出しに手間取る部下を
見つけては小脇に抱えたライフルのグリップでその尻を叩いている。
 どこか内臓を悪くしたのでは、と心配になってしまうくらい発汗も夥しく、指示と檄を交互に飛ばす間中、
黄色いタオルを額に当てていた。

「急げ! 敵軍が本営へ迫る前に、なんとしても物資を届けるのだ!!」

 カールスナウトとて、好きで部下を叩いている訳ではない。
 見た目自体は軍隊映画にありがちな鬼軍曹のようにいかついものの、人一倍部下を大事に扱う彼にとって
その尻を殴りつけるのは胸糞が悪くなるだけであり、自分たちの置かれた状況が緊急事態でない限り、
無闇に叱りつける事も無かった。

 ところが今がその緊急事態なのである。

 エンブレムに名称の記された集団・ギルガメシュは、いまだかつてない危機に瀕していた。
 軍隊に所属していれば危機的状況に陥る機会も決して少ない訳ではなく、現にカールスナウト本人も
死地と呼ばれる悪夢を数え切れないくらい経験し、だからこそ一部隊を任される立場となったのだ。
 しかし、現在置かれた状況は、今まで経験したどの修羅場よりも困窮しており、
部下の前では決して漏らさないものの、逆転の方法がたったの一つも見つけられない。

 四面楚歌の言葉そのままに、ギルガメシュは世界中から孤立していた。
 誰の手も差し伸べられない、誰もの指が自分たちを悪の枢軸と詰り、忌み、嫌う。
 これ以上無い絶望に叩き落されて、どうやって希望を一縷でも見出せと言うのか。
冷静に冷静を重ねて熟慮しても、導き出される答えは「絶望」。この一つである。

(これと言うのも全て上層部(うえ)の失策が原因じゃないか………。
尻拭いを下級の者に押し付けるとは、一体全体どうしてしまったと言うのだ………)

 焦りの原因が、絶望的な危機を産み落とした要因が上官にある事もカールスナウトの神経を逆撫でする。
 悪の枢軸と後ろ指を差されるだけの悪辣な所業を彼の上官はことごとくやってのけた。神をも恐れぬ所業を。
 その結果がこれである。それまで好意的に接してくれていた出資者に見限られ、隊内でも離反者が続出し、
半ば瓦解状態にまで陥ってしまったのだ。

(本来ギルガメシュの存在意義は、平和と治安の維持だった筈………それが、何故、何故、あんな………)

 誇りある戦いが存在意義であったからこそ、我が身を戦火の只中へと晒す事が出来たと言うのに。
 名誉ある任務だからこそ、愛して止まない部下を危険な戦地へ送り出す決断が出来たと言うのに。
 ギルガメシュの現状を思えば思うほど、そればかりが繰り返される。
誇りに思う全てを否定した上官への哀しみと憤りが心を乱し、千々に引き裂く。
 カールスナウトが生きる場として胸を張る事が出来たギルガメシュの姿は、最早どこにも無かった。

「畜生、この………ッ!!」

 離反する者に倣い、いっそギルガメシュを見限ってしまえれば、この辛苦とも縁を切れるのだが、
それはつまり自分を慕ってくれる部下を見捨てるのと同義である。
 万が一ギルガメシュが消滅した場合、戦う事しか出来ない彼らは生きる縁を失い、流浪の【難民】と化す。
 悪の枢軸を構成した過去を背負う人間を受け入れる場所などどこにも無く、無情の荒野に放り出されたが最後、
餓えて、病んで、死に逝くのみだ。
 そんな末路が待つ部下を、どうして見捨てられるものか―――離脱など、カールスナウトには
到底認められない選択肢だった。
 そこまで強く想いを巡らせてから、「かく言う俺だって戦う事しか出来ないじゃないか」と彼は自分を笑った。

「………………………?」

 ふと不可思議な音が耳を突いた。
 どうやらカールスナウトの幻聴ではなかったらしく、武器・弾薬の運び出しに勤しんでいた部下たちもその手を休め、
顔を見合わせて異音に首を傾げている。
 不可思議な音は段々とその強さを増し、何かが風を切って滑空する音であると、おぼろげながら判別できてきた。
 風切る音の正体を思い、誰ともなしに「隕石でも落ちてきてるんじゃないか」と仮説を立て始めた。

 本当に隕石が飛来しているのなら、風切る音など聞こえる前に地表へめり込むものだが、
正体が落石だったなら憂慮すべき問題だ。
 この入り江―――レサ陵蒼壁は落石が多いと言う調べもついている。
敵軍に悟られない秘密の搬入経路として選んだ理由もそこにあった。
 落石の頻度と足場の悪さから漁民も寄り付かない事を逆手に取ったまでは良いが、自分たちが落石に巻き込まれて
救援物資の搬入に失敗してはとんだ笑い種―――いや、少しも笑えない。

 風切る音の正体が落石でない事を心の中で祈りつつ、石質のせいか青みがかった絶壁の上層を仰いだカールスナウトは
そこに信じられないものを見て言葉を失った。
 風切る音の正体は落石などではなかった。
 人間だ。黒衣を纏った人間が絶壁の頂上からこの入り江へと身を投げ、
瞬き一つする内に地面と接する寸前まで迫っていた。

 カールスナウトの言葉を詰まらせたのは、身投げとしか思えない無謀な事態ではない。
漆黒の陣羽織を纏い、銀髪をなびかせ、赤い瞳でこちらを油断なく睨み据えるその人物の顔に見覚えがあったからだ。
 ………見覚えがあったどころの話ではない。
 その男とカールスナウトひいてはギルガメシュは、何度と無く死闘を繰り広げ、その都度煮え湯を呑まされてきたのだ。

「ア、アルフレッド・S・ライアン―――ッ!!」

 忌むべき名を絶叫したところで、カールスナウトの意識はブラックアウトした。
 飛来せし者――アルフレッドの掌から青白い閃光が放たれ、カールスナウトの胸を鋭角に刺し貫いたのである。
 自分の身に何が起きたのかさえ分からない内に意識を消し飛ばされたカールスナウトは、
ドス黒く、夥しい量の流血が流れ出る傷口を掻き毟りながら、砂浜とも呼べないゴツゴツとした地面へ崩れ落ちた。

 何が起きたのか理解できないのは彼の部下も同じだった。
 高空から人影が飛来してきたかと思ったら、次の瞬間には、自分たちのリーダーがどう言う訳か鮮血を流して横たわっている。
 あっと言う間も無く一変した状況を冷静に分析し、噛み砕ける者など、この場には誰一人として存在しなかった。

 しかも、だ。
 投身自殺でも図ったのかと思った人影は中空で身を翻し、大地へ叩きつけられる事なく鮮やかな着地を見せた。
 少なく見積もっても百メートルは高度差のある頂上から身を投げたにも関わらず、平然と降り立つなど
常人には成しえない事である。

 あまりにも多過ぎる意味不明な要素にギルガメシュの兵団の思考回路はオーバーフローを起こし、
呆けた表情(かお)を浮かべたまま、その場に直立不動する事しか出来なかった。

「部下…だけは………―――」
「………………………」
「逃げろ、逃げ………るんだ、お前た―――」
「逃げ場などあると思うか? 人殺しの道具を運ぶような外道が落ち延びる場所など。
………貴様の言っている事は希望的観測と言うより妄念だな………吐き気さえ催す」

 自身の胸を掻き毟っていた両手をアルフレッドの右足へ伸ばしたカールスナウトは
一秒でも長く彼が部下に手にかける瞬間を遅らせようと全身に残存した力の全てを注いで引き留めにかかる。
 だが、鮮血と共に流れ落ちる生命力はそれを許さない。
 最期の瞬間まで部下の身を案じて敵の足に縋り付いたまま絶命したカールスナウトの両手をアルフレッドは
無慈悲にも一蹴のもとに引き剥がし、自らが手にかけたその亡骸を感情の無い瞳で見下ろした。
 絶壁から身を投げる瞬間まで燃え盛っていた闘志は依然としてゆらめいているものの、それとはまた異なる、
氷雪を統べる悪魔よりもなお冷酷で残酷な闇が瞳の奥で胎動していた。

「気落ちしなくても良い。この男と同じ黄泉路へまとめて葬送(おく)ってやる」

 そこでようやくカールスナウトの部下たちも理解した。
 情の欠片も見出せない冷徹な眼光を自分たちへ向けるこの男が、アルフレッド・S・ライアンが、
敬愛すべきリーダー、カールスナウトを殺め、次に自分たちを標的に絞ったのだ、と。

「こ、ここ、こいつ………す、枢機卿の―――………ッ!!」
「………我こそは新選枢機卿が軍師、アルフレッド・S・ライアン―――とでも名乗れば餞に足りるか………?」

 死神さながらの宣告がもたらされるなり、レサ陵蒼壁はたちまち恐慌渦巻く未曾有の混沌に達した。
 ある者はカールスナウトの仇を討つべくアルフレッドに襲い掛かって返り討ちに遭い、
ある者は神懸かった彼に恐れをなして逃げ惑い、またある者は許しを請おうとその場に平伏した。

 わずかでも情を持ち合わせた人間が相手であったなら、もしかしたら兵士たちは身柄を拘束されるだけで
済んだかも知れない。もっと根本的にカールスナウトですら命を落としはしなかったに違いない。
 だが、カールスナウトを不意打ちで絶命させ、あまつさえ殲滅を示唆したアルフレッドに情けを見出せる筈も無く、
実際、身一つで兵団の前に降り立ち、凄絶な体術を駆使して次々と敵を狩っていく彼からは、
“容赦”の二文字を感じ取る事さえ難しかった。
 とりわけ足技を得意とするアルフレッドは、肉を突き破って骨をも断つ死神の鎌が如き重い蹴りで、敵対者の首をへし折り、
胸を穿ち、胴を薙ぎ払い、脳天を打ち砕いては死屍累々を踏み越え、新たな獲物に追い縋る。
 追いつかれた兵士は、まるで餓えた狼に出くわした迷い羊のように人生最悪の恐怖を味わい、
あらん限りの絶望に抱かれたまま、生涯を閉じることになるのだ。

「ハイハイ、ご一行サマのお成ぁ〜りィ〜ってネ♪」

 肉体を武器として殲滅に駆られるアルフレッドの追撃を振り切った僅かばかりの兵が、
やっと逃げ出せると安堵したのも束の間、今度は高空から無数の火球が襲い掛かり、
やっとの事で得られると思った退路がことごとく隔絶されてしまった。
 流星をかくやと思わせる無数の火球は地面に触れるなり四方へ炸裂し、延焼を始める。
 その業火に巻き込まれて落命する者も後を絶たないが、火球の隙間を縫うようにして多量の手榴弾が混じっているのを
誰かが見つけて絶叫した事により、混沌は狂乱へ塗り変わっていった。
 青みがかった絶壁に反射される事で幻想的な光彩を入り江に落すレサ陵蒼壁だったが、
この日ばかりは火球と手榴弾の爆発で朱に染め上げられ、平素の静寂は怒号と悲鳴の交錯で蹂躙された。

「見破られていたんだ………最初からッ!!」

 誰とも無く迸らせた悲鳴が、レサ陵蒼壁で起きた全てを如実に表していた。
 絶壁の頂上を仰ぎ見れば、古代民族の衣装に身を包んだ恰幅の良い男性が火球を、
顔面の上半分を特徴的な前髪で覆い隠した青年が手榴弾を、入り江めがけて飽きる事なく放り投げる姿が確認される。
 コンテナを破棄するのもそこそこにボートに乗って海路へ逃げ場を求める者もあったが、そこでも先手を打たれ、
彼の一派の物と思しき武装船が行く手を遮る。
 更に、だ。爆発で混乱が頂点を極めた入り江へ十人ほどの白兵部隊が雪崩れ込み、逃げ惑う兵士へ容赦無く追撃を加えた。

「オラオラオラァーッ!! 尺取虫みてぇにウダウダやってんじゃねぇッ!!
逃げるなら逃げるでもちっとシャキッとしやがれってんだ、コラァッ!! オラァッ!! ウラァッ!!」

 黒塗りの鞘からドスを抜き放った剣士風の男が、喊声を上げて誰よりも獰悪かつ猛然と暴れ回り、
彼の吼え声を受けて白兵部隊も勢いを増していく。
 手にする武器が一様でない混成部隊ではあるものの、一部の隙も無いほど綿密に練られたコンビネーションの巧みさと
個々人の戦闘能力の高さが融合・昇華され、数で勝るはずのギルガメシュは成す術も無く駆逐されていった。

 「見破られていた」との誰かの絶叫が、再び戦場に木霊した。あまりにタイミングが良すぎる。話が出来過ぎている。
 アルフレッドが単身襲い掛かってきた段階では、偶然にギルガメシュの侵入を発見した彼が
身一つで飛来したと言う可能性もあるにはあったのだが、高空からの爆撃に海路を塞ぐ武装船、
果ては白兵部隊が斬り込んできたと来れば、もはや答えは一つしかない。
 この男は、ギルガメシュの一小隊がレサ陵蒼壁から武器・弾薬を運び込もうとする計画を見破り、
先回りして奇襲の体勢を整えていたのだ。計算された待ち伏せだったのだ。

 誰かの絶叫を耳にし、それを「見破られないと好意的に解釈できるその頭がいっそ羨ましい」と嘲ったアルフレッドの罵詈は、
高空から襲い掛かる火球と手榴弾へ新たに加わった爆雷の炸裂によって掻き消え、ギルガメシュの兵にまで届く事は無かった。
 ふと空を仰げば、戦闘機の両翼を模した飛行ユニットを背負い、蒼穹を支配するかの如く悠々と天翔ける同胞の姿。
 爆雷は彼が添えたトドメの一撃と言ったところか。効果のほどは抜群で、アルフレッドはその活躍へ満足げに頷いた。
 しかし、彼の口元は僅かばかりの笑気さえ宿すことがない。

「に、にに、逃げろッ!! 逃げろろォォッ!! 逃がしてくれぇーッ!!」

 白兵部隊による威力攻撃を受けるに至って、ようやっと自分たちが罠に嵌められていたと気付いたカールスナウトの秘蔵っ子部隊だが、
理解したところで戦況を好転させる事が不可能な程の劣勢である。
 絶壁の合間を抜けて街道へ出たところで、窮鼠を生け捕りにする網の如くアルフレッドの配した一団が待ち伏せており、
かえって絶対的に逃げ場が無いと言う失意と驚愕に苛まれるだけだった。

「ボクはアル兄ィと違って平和主義者だからな。黙って降参すんなら手荒い真似はしないぜ?」

 街道に待ち伏せた一団の中心に立つ十四〜五歳くらいの、空色の髪の少年が出した降伏勧告を飲む以外に
助かる道が無いと悟ったギルガメシュの兵士たちは、何もかも諦めたかのようにその場へへたり込み、真っ青になって突っ伏した。
 降伏勧告と言うよりも最後通告と呼ぶのが相応しい状況である。
 その少年は全長十メートルはあろうかと言う巨大な人型ロボットの肩に乗って地上を見下ろし、
ともすれば「降参しないなら、このまま踏み潰す」とのプレッシャーを暗にかけていた。
 前門の虎として巨大ロボットが、後門の狼にはそれ以上に恐ろしい戦いの化身―――進退窮まった直後に降伏勧告と言う
慈悲をかけられたら、誰でも無条件で飲んでしまうだろう。

「あっちは―――まだ続きそうだな………親父もハッスルしてるし………これじゃどっちが正義の味方かわからないよ」

 見事にギルガメシュ兵を降伏へ導いた少年だったが、勝利の歓喜に高揚していると思われた表情(かお)は苦々しさで曇り、
その視線は今なお吼え声と悲鳴が止まないレサ陵蒼壁の入り江へと向けられていた。







 アルフレッドが身を躍らせ、民族衣装の男たちが攻撃を続ける断崖絶壁の頂上では、
彼らの猛攻を静かに見つめながら、どこか物憂げな溜め息を吐く姿があった。
 物憂げなのは溜め息だけではなく、崖下で繰り広げられる戦いへ送られる眼差しは、その何倍もの憂いを帯びている。
 白馬に跨り、戦いの趨勢を見守る物憂げな人物は、銀糸で織り上げられた純白のローブと言う神聖にして高潔な印象と
正反対の物騒な殺傷武器―――拳銃を腰から提げていた。
 ローブの下はゆったりとしたワンピースで、これもやはり銀糸で織られているのだろう、金と緋糸の装飾以外は清らかな白一色。
 物憂げに歪んだ顔にはまだまだあどけなさが残り、そこから察するに、ようやく二十歳に手が届いたくらいだろうか。

 思えば何から何まで不釣合いである。
 僧侶が着用しそうなローブで身を包みながら拳銃を携行し、優しげな顔立ちに哀しみを称えている。
 腰まで伸びたブロンドの髪は穢れを知らない無垢な美しさを輝かせていて、
血腥い戦いの場に白馬を駆ってやって来るようにはとても見えない。
 何から何までちぐはぐだ。

「アルちゃんの勝ちですね、フィーナさん」
「マリスさん………」

 この戦場と最も不似合いに思えたのは、“フィーナ”と呼ばれたその人物が女性だった事である。
 女性が戦いの場へ出る事が不思議なのではない。崖下で血肉を滾らせるの人間の殆どが男たちだった為、
どうにも不似合いに思える違和感が生じたのだろう。
 彼女を“フィーナさん”と呼びながら栗毛の馬を寄せ、“マリスさん”と返されたのも女性だし、
崖下での戦いに参加した何人かの女性は男性以上の活躍を見せている模様だ。

 とすれば、やはり違和感の根本はフィーナ自身が宿している事になる。
 「アルちゃんの勝ち」と声をかけられて以降、違和感を催す一因である物憂げな眼差しと溜め息はますます強まっていた。
 巨大ロボットならではの全長を生かしたプレッシャーで空色の髪の少年が敵兵の命を奪う事なく降伏へ導いた様子に
幾分憂いが薄まっていたのだが、どうもにフィーナには「勝利」と言う言葉が苦いものであるらしい。

「逆落としに攻めた初撃でリーダーを倒して敵を霍乱。続いて崖の上から追撃を浴びせて、
退路を塞ぎつつ日章さんたちの接近戦チームを投入、一挙に勝負を決める―――アルが考えた作戦は、本当にすごいよ。
私じゃ逆立ちしたって思いつかないすごい作戦だと思う」
「それではどうして、そんな暗い顔をするのです? 枢機卿である貴女が…わたくしたちのリーダーが勝利を喜ばずに
一体誰が喜ぶのですか」
「私たちの目的は戦いに勝つ事じゃない。戦いを終わらせる事だよ、マリスさん。
………エンディニオンを悲しみで埋め尽くす、この戦いを」

 フィーナが駆る白馬の真横では、この場に居合わせる誰よりも暗く濁った目を持つ女性が、
赤地に白いエンブレムが染め抜かれた旗を掲げていた。
 この世界を創造したと伝承される唯一女神・イシュタルを象るエンブレムが意匠として凝らされた御旗である。
よくよく注視すると、ギルガメシュを向こうに回して戦う全ての者の腕には、女神のエンブレムを染め抜いた
青い腕章が付けられている。
 ともすれば、御旗はフィーナの控えるこの場所こそが本陣であると示す為のものに違いない。
潮の匂いを含んだ風に翻るその旗をそっと指で撫でると、フィーナはもう一度、深い溜め息を漏らした。

「アルの考える戦い方だと犠牲が増え過ぎるよ………この戦いだって武器の搬入を阻止できたら、
兵隊さんたちは逮捕すれば良いだけなのに………なのに全滅させる必要なんて………」
「フィーナさん、それはアルちゃんに失礼ですよっ? 一生懸命になって敵と内通を図って、
時間をかけて今度のルートを割り出したのではありませんか」

 マリスはよほどアルフレッドにこだわりがあるらしく、彼の講じた策略を否定するかのような発言を繰り返すフィーナに
食って掛かろうと思わず身を乗り出した。
 ランプブラックの髪を揺らがせながら、アルフレッドのそれと同系赤色の大きな大きな瞳でフィーナを睨みつけるマリス。
 二人のやり取りを周りで傍観していた者たちは気が気でないのだが、下手にこの一触即発の空気へ
横槍を入れようものなら、あらぬ飛び火が自分たちへ降りかかりかねない。

 それを考えると我関せずと視線を泳がすしか無くなるのだが、一団の中でも年長に類されるエプロンドレス姿の女性だけは
二人の諍いを看過せず、マリスの脇から彼女たちの前へ進み出ると「お二人とも意見はごもっともです」と
やんわり調停に取り掛かった。

「タスクさん…」
「タスク、お前はわたくしの侍女でしょう? それならどうしてわたくしの意見を………」
「仰せの通り、わたくしはマリス様の侍女でございます。………だからこそ、主の間違いを糾すのもわたくしの努め」
「間違い? わたくしの言っていることに、お前は間違いがあると言うのですかっ!」
「―――マリス様」
「………っ………」

 タスクと呼ばれたその女性――どうやらマリスとは主従の関係にあるようだ――は、主の語気に宿った微かな怒りと憤りを
言葉短く静かな一喝で制し、改めて二人の前に向き直る。

「フィーナ様は女神イシュタルより祝福を授けられ、教会からも認められた枢機卿にございます。
世の乱れに心を痛めて、果てしない戦いに苦しんでおられるのです。
そのような御方であれば、例え敵であろうと犠牲者を最小限に留めることを望まれましょう。
生けとし生ける全ての者を愛し、慈しむ新選枢機卿であればこそ、御心も大いなる慈愛へと働くのです」
「………………………」
「その御心は、生命の神秘を司るマリス様が誰より一番ご理解されていると存じます」
「………………………」
「―――とは言え、フィーナ様にも糾して頂かなくてはならない箇所が散見されるのも、
マリス様がご指摘なさった通りでございます」
「私の………?」
「アルフレッド様は他ならぬ貴女様の軍師。貴女様へ勝利をもたらす事を誓って万全の軍略を立てられるのです。
貴女様が真に望む形の結果でなくとも、それを否定する事だけはお控えください。
せっかく講じた策を貴女様に否定されたと知れば、アルフレッド様は軍師として戦う気概を失われましょう」
「………………………」
「最優先で糾して頂きたいのは、味方の前で戦いの結果を認めざる発言をなさること。
命を奪い合う戦いに悲しみを禁じえない無念さも、虚しさに痛められる御心も重々承知しております。
………ですが、貴女様は一団を率いる身。迂闊な失言は全軍の分裂にも繋がるのです」
「………………………」
「アルフレッド様がこの場にいらしたなら、わたくしの申し上げたものとそっくり同じことを言上なさるでしょう。
憂いは裡にお隠しになり、誰の目にも付かない場所にて零すよう心掛けてください。
―――必要とありましたなら、不肖このタスクがいつまでも、何時間でもお付き合い致しますので」

 侍女から説教を受けることをプライドが許さないのか、はたまた皆の前で貶められたと羞恥に駆られているからなのか、
引っ込みがつかなくなった様子のマリスは顔を真っ赤にしてなおもフィーナに食い下がろうとするが、
フィーナ本人はタスクの指摘が全く正しいものであると認め、「ごめんなさい」と二人に頭を垂れた。

「と、とにかく、わたくしはっ………その………えと………―――――――――」

 こうも素直に謝罪されてはマリスも振り上げた拳を落す機会と勢いを失ってしまう。
 途切れ途切れでも捨て台詞を吐こうとはしたが、それも上手く行かず、とうとう言葉に詰まってしまい、
憤りだけをその場に残すと馬首を返してフィーナのもとを離れていった。

 一礼して主の後を追ったタスクと、その先で馬を走らせるマリスの背中をしばし見つめていたフィーナは、
厳しくも慈しみのあるタスクの指摘を思い返しながら、再び崖下の戦いへ視線を戻す。
 ギルガメシュ兵の殆どが平らげられ、戦いそのものは終結に向かっているものの、彼らが運んできた爆薬にでも
引火してしまったのだろう、入り江ではこれまでにも増して激しい爆裂が頻発していた。

「私の知ってるアルは………あんな風に人を殺めることを何より嫌っていたから、だから――――――」

 レサ陵蒼壁そのものを崩落させ兼ねない凄まじい爆裂を見下ろしながら、ふとこの灼熱の烈光こそは
アルフレッドの裡から迸る、狂気にも似た闘志の具現ではないかとフィーナは錯覚を覚え、
今では虚像としてしか視ることの出来なくなったかつての彼を、不器用ながらも静かに微笑むかつての優しさを、
深紅の炸裂に重ねて瞳を伏せた。
 目の前に在る戦いの化身と、自分が最も良く知る姿とのあまりの落差をこれ以上視ている事が出来なくなり、
瞳を伏せずにはいられなかった。







 フィーナが狂気と危惧した飽くなき闘志は、果たしてその通りのものではないか。
 ギルガメシュ兵の運んできた爆薬が引火によって大爆発を起こし、レサ陵蒼壁は激しい熱風と業火に包まれた。
爆炎の勢いは留まるところを知らない。

 奇襲とは言え数倍もの敵軍を撃滅した仲間たちが危険と判断して戦線を離脱する中、
アルフレッドはたった独りでその場に残り、味方にどの程度の損害が出たのか、敵を本当に殲滅できたのか、
目敏く観察を続けていた。
 「アル、早く逃げろッ!!」と仲間たちの多くがそう呼びかけてくるが、自分の身の危険よりも戦いの趨勢に興味を支配されたアルフレッドには
爆炎の危険など、さして気に留めるものでもなかった。

「………因果応報だ。貴様らが奪った命の怒りを―――あいつらが受けた痛みを死んでもなお味わい続けろ………」

 四方を爆発と業火に囲まれ、殆ど逃げ道を遮断されている絶体絶命の状況にも関らず、
自分たちの勝利へ口元を綻ばせる姿、ただそれだけを見れば狂気を憑依させた者と誰もが思うだろう。
 だが、口をついて出た呟きには、狂気に突き動かされた者の破壊の性ではなく、人間としての理性が
危うくも働いている片鱗を感じ取る事は出来た。
 ………ただし、そこに在るのは、正常な心と認めるには、あまりに哀しく、あまりに激しい衝動だったけれど。


 時にして、イシュタル暦1484年。
 風雲止まない世界を鎮めんと闘う新選枢機卿・フィーナの傍らへ常に控え、知略の限りを尽くして彼女を支える軍師がいた。
 類稀なる戦略眼を持ち、枢機卿と仲間たちを常勝無敗へと導いた天才軍師は、この時、まだ二十二歳。
 軍神の神性を背負い、胸に灰色の銀貨を煌かせるその軍師の名を、アルフレッド・S・ライアンと云う。



――――――これは、生きるべき場所を求め流離う数多の【難民】を巡りて激動する時代へ身を投じ、
一握の勇気と哀しみと、大いなる夢に彩られた戦いを、迅雷の如く駆け抜けた群像の物語である。
しかし、それを語り切るには、些か時を遡らなければならない――――――



 時にして、イシュタル暦1480年。
 山間部に位置する静かな、本当に静かな農村から全ては幕を開けた。

 『ライアン電気店』と洒落っ気無くペイントされたシャッターが開かれたのは、いつもと同じ午前十時ジャストである。
 シンプルに店名をペイントしただけで、アーティスティックなロゴマークも何も無いシャッターを見る人は、
みな「味気ない」と肩を竦めるが、「そんなものに力を注ぐくらいなら、ボルトの一つでも回した方が合理的だ」と言うのが
この店を営む父子の考え方なので、誰がどうアドバイスを送っても、今後ペイントに変化が訪れる可能性は皆無である。
 よく言えば、店のポリシーを守る頑固一徹。悪く言えば、ボキャブラリーや販促の仕方がわからない堅物。
好意的に解釈するならライアン電気店とそこで働く人たちの気風が端的に表される秀逸なアピール方法とも言えた。

 午前十時ジャスト――わざわざ腕時計を使って、コンマ0の乱れまで厳正――にシャッターを開くあたりにも
ペイントと同じように店員たちの堅物さが滲み出ていて実に滑稽だ。
 山間の農村であるここ『グリーニャ』には、スーパーマーケットやコンビニの類が進出してはおらず、店と言う店が個人経営。
 一応の開店および閉店時間を定めてはいるものの、時間の流れが緩やかなこの村では滅多に守られた事が無い。
開店時間が一時間も遅れる日があれば、閉店時間が一時間早まる事だって珍しくない。その逆もまた然り。
 店主の都合で臨時休業となり、必要なときに必要なものが手に入らなくなることもしょっちゅうある。
 そんな緩やかな農村の中で「約束の時間は守る為にある」と神経質に営業時間を厳守しているライアン電気店なので、
村の人々、とりわけ同じ商売人には「ライアンさん家のシャッターが、一日の始まりの合図」などと皮肉と共に苦笑されていた。

「アル兄ィさぁ、もうシャッターんとこの塗装ハゲかかってんじゃん? こりゃ塗り変えの時期じゃない? じゃなナイ?」
「“だからボクに任せてよ”とでも言うつもりだろう。塗り変えと塗り絵を間違えられたらたまらないからな。
現状のペイントの上からスプレーでも吹き付けておくとしよう」
「だーかーらぁ、ボクが言いたいのは、この際だからペイントと一緒に店のイメージも塗り変えちゃおうってハナシでさぁ〜」

 今朝も今朝で通りがかりの少年にこの味気なさを茶化されるが、シャッターを開けていた店員には取るに足らない話で、
どうして店の方針を他人にとやかく言われる筋合いがあるものか、といつものように右から左へ聞き流している。
 日常茶飯事となった今では他人の指摘や苦言へ付き合うのも面倒、と考えているのだ。

 「アル兄ィ」と呼ばれた彼はまだ十八歳という若年ではあるものの、自分が働く電気店の方針には確固たる信念を持っており、
いくら友人知人にツッコミを入れられても取り合うことは無い。
 つまり年齢の割に頭がカタいと言うことである。

「なんだ? ライアン電気店の運営方法に文句でもあるのか? ………これは立派な営業妨害だな。
出世払いで損害賠償起こしてやるぞ?」
「出たよ、オハコの屁理屈攻撃。そっちがその気なら、年下相手に精神攻撃しやがったってフィー姉ェに言いつけるからな」
「生憎お前の頼みのフィーもライアン電気店の一員だ。公判ではこちら側に有利な証言をしてくれるだろう」
「………もういい。朝っぱらからアル兄ィの屁理屈聞いてたら今日のテンションだだ下がりになっちまう」
「理解できないことを屁理屈と決め付けるのは良くないぞ。俺は正論を並べているだけだ」
「い〜やッ! アル兄ィのは屁正論なのッ!!」
「屁正論などと言う言葉はエンディニオン中のどこを探しても存在しない。辞書を引いて確認しろ」
「絶対ェだな!? 絶対ェどこにも無いんだな!? よォ〜し、探してやるよ!! 探し出してアホ面引き出してやっからなッ!!」

 頭がカタいだけなら、背伸びしているだけとも若くして老成とも捉えられ、まだ可愛げを見出せるのだが、
彼の場合、味気ないペイントなど店の方針に懸念を示した人間へ理論武装で反撃してしまう悪癖がある。
 一旦聞き流しておいて最後に反撃してしまうのは、結局、彼はまだまだ青二才と言うこと。
 なまじ弁が立つだけに相手の反感を買ってしまい、今朝も今朝とて売り言葉に買い言葉の応酬が始まった。

「だめでしょ、アル。シェイン君いじめちゃ。大人気ないって言うか、見ててちょっと恥ずかしかったよ」
「おっ! さっすがフィー姉ェ! 公正にお裁きしてくれるじゃん!」
「待て、フィー。恥ずかしいとはいささか心外だ。俺は我が家の利権を守るためにだな―――」
「………年下相手にそう言うケンカするのが恥ずかしいんだってば」

 腰まで届く長いブロンドの髪を襟足のところで結びながら店の奥よりやって来た少女を、二人は“フィー”と呼んだ。
 大輪のひまわりのように明るく元気な顔立ちには、身体を動かすたびピョコピョコと上下する後ろ髪がよく似合い、
淡い桜色のパーカーに青いミニスカートと言う着こなしがアクティブな印象をより強調していた。
 年齢は“アル”とそう変わらないのだろうが、堅苦しい口調や怜悧な顔立ちから年齢よりも老けて見える彼に並ぶと
抜け切らない幼さがあちこちに見つけられた。

 せっかくの愛らしい顔立ちをフィーは歪め、アルと、彼と口論していた空色の髪の少年、シェインを交互に見比べながら
それはそれは大きな大きな呆れの溜め息を吐き出した。
 綺麗に透き通ったエメラルドグリーンの瞳も苦々しそうに閉じられ、どうも眉間には皺まで寄っている様子だ。
 彼女が懊悩する理由はただ一つ。七つも年下のシェインを相手にアルが理論武装を振り翳して戦っていたことである。
 口調からもアルの頭脳が明晰であることは十分に分かるのだが、それならば年下を相手に躍起になるのが
どれだけ大人気ないのか彼は判断できて然り………にも関らず、たかだか店のペイントを巡って激論する始末。
 情けないやら恥ずかしいやら。両手で顔まで覆うフィーへアルはなおも自分の正当性を主張するが、
そうすればそうするほど恥の上塗りになっていることに彼は気付けておらず、我慢の限界を来たしたフィーは
呻き声と共に頭まで抱え出した。

「………フィー?」
「知らない。も〜ホントに知らない。アルと家族って事実(コト)が、今、私の中ですっごい恥ずかしいよ………」
「―――なッ!? い、いや、その、待て、これはだなぁ………」

 鈍感極まりないアルもこのフィーの様子にはさすがに危うさを感じたのか、“恥の上塗り”を止めて彼女の機嫌を窺った。
 勝ち誇って「えっへん」と胸を反らすシェインが憎たらしいのは山々ではあるものの、ここで反撃に出れば事態が
泥沼化するのは明白で、苛立ちを腹の底へ無理矢理押し込んで、そっと睨むだけに反撃を留めた。

「シェインちゃん♪ シェインちゃん♪」
「うっわッ!? ―――ベ、ベルかっ!?」

 シェインの完全優勢で勝負が決まると思われたその時、ライアン電気店の奥から膠着状態を破るきっかけが
文字通りシェインの胸へと電撃的に飛び込んだ。
 あまりにも急な事で反応し切れなかったシェインは、突如飛び込んできた物体の勢いに絶え兼ねてその場に尻餅をついてしまった。
 その直後は自分の身に何が起きたのか理解できず、目をパチクリさせるしか無かったものの、飛び込んだ胸に自分の頬を
スリスリと擦り付ける物体の正体を把握した途端、村中に響き渡るかのような黄色い声を上げた。

「や、やめろよ、ひっついてくんなよっ!! うぜぇじゃんかっ!」
「? わたし、なにかおかしなコトしちゃった?」
「しちゃったんじゃなくて、おかしなコトしちゃってるの! わかる? 動詞だ、動詞!」
「“している”は、現在進行形だって、ご本に書いてあったよ、シェインちゃん。それに動詞って言い方はおかしいよ」
「お前ら兄妹はどこまでもこの………ッ。い、いいから離れてくれってっ!」
「??? わたし、おかしなコトしてないよね?」
「わざとだな!? なぁ、わざとなんだろ!? すまし顔で腹ン中真っ黒計算機か、コノヤロッ!?」
「お腹に計算機は仕舞わないよ。計算機って言うのは―――」
「もういいわいっ!!」

 一陣の春風のように吹き抜けてどんよりとした空気を払い散らした物体とは、シェインよりも更に幼く、
キンダーガートゥンに通うくらいの女の子だった。
 零れ落ちそうなくらい大きいたんぽぽ色の瞳でもってシェインを覗き込み、「ちゃんとご本読んで勉強しなくちゃ」と
えっへん胸を張って偉そうに講釈を垂れる様子はキンダーガートゥンにしてはだいぶ利発な娘である。
 年上相手に悪態を吐いて勝ち誇ってまでいたシェインがタジタジになっている辺り、
いつでもこんな調子でやり込めているのだろう。
 年齢にそぐわない理論武装でやっつけてこそいるものの、とりあえずは彼を「シェインちゃん♪」と
嬉しそうに呼ぶなど慕ってはいるようで、シェインを押し倒したまま離れようとせず、自分の頬と彼の頬に擦り付けている。
 どれだけ疎ましがられてもスリスリとその行為を止めないのだから、相当シェインのことを気に入っているのだ。

 微妙に険悪な空気になりかけていたアルとフィーも二人の微笑ましいやり取りを見る内に、自然、笑みがこぼれ、
フィーなどはとうとう堪えきれなくなって噴き出してしまったほどだ。

「ちょ…、何笑ってんのさ、ふたりとも! こいつの兄貴&姉貴だったら、こ〜ゆ〜迷惑行為をやめるように注意してくんないかな! 
…いや、注意じゃ温い! バシッとビシッとしつけといてよねっ!!」
「そうかな? 俺にはお前が迷惑しているようには見えないぞ。逆に喜んでいるんじゃないか?」
「バッ―――ちょ、な、なにわけわかんないコト言いやがるんだよ、この若白髪はッ! バッカじゃないのッ!?
誰がこんなヘチャムクレに抱きつかれて喜ぶってんだッ!」

 「俺のは白髪じゃなくて銀髪と言うんだ」と抗議するアルの髪の毛の色は、確かに白髪と表現するのは相応しくない
美しく仄かな光を放っている。
 フィーのブロンド、シェインのスカイブルー、また、ベルのレンガ色の髪と並ぶと、アルの銀髪は際立って映え、
烈火を彷彿する赤い瞳が一掃銀の輝きに独特のコントラストを与えていた。

 フィーのことをシェインは“ベルの姉貴”と呼んでいたが、なるほど、よく見るとフィーの頭から二本ばかりクセッ毛が
放物線を描いて飛び出し、ベルの頭にはフィーのそれとよく似たクセッ毛がきっちり三本伸びている。
 この家系の遺伝らしく、二人の間に確かな血の繋がりがあることを窺わせた。
 シェインはアルのことも“ベルの兄貴”と呼んでいた。ところが、この二人はあまり似ていない。
 アルにはベルとフィーナに共通するクセッ毛は無いし、ベルのレンガ色の髪と銀髪は似ても似つかない。
たんぽぽ色の瞳と赤い瞳も、同系統の色彩と言うことを除いて共通項は見られなかった。

 何がしか因縁でもあるのか―――とアル・フィー・ベル三人の関係を勘繰る時間まではどうやら許して貰えなかったようだ。

「………ひどい…ひどいよ…シェインちゃん………」
「ぅあっ!? ちょ、ちょっと、ベル? 待て、待てよ、落ち着けよ、オイ………」

 たとえどんなに小さくてもベルだって女の子。慕う相手に「ヘチャムクレ」「抱きつかれても嬉しくない」と突き放されたら
深く傷付きもするし、涙も嗚咽も出てきてしまう。

「シェインちゃんのド鬼畜ゥ―――ッ!!」

 哀れ、愛しのシェインちゃんに冷たくされたベルは大粒の涙と盛大(プラス、聴く人によってかなりの誤解を招く)な泣き声を
引き摺りながら、村の南東に位置する大広場を目指して走り出してしまった。
 キンダーガートゥンらしく限界知らず底知らずの全力疾走はなかなかのもので、
「やっちまった」とシェインがしどろもどろしている内にもう影も形も見えなくなっていた。

 どうしたものか頭を抱えるシェインだが、泣かしてしまったベルをこのままにしておくわけにも行かず、
また、アルとフィーのふたりから何事か言いたげな視線を集中砲火浴されてしまったら、取るべき手段はひとつしかない。
 いくら「………なんでボクがこんな目に………踏んだり蹴ったりじゃん、ちくしょォ………」と嘆こうにも後の祭で、
肩を落しつつベルの後姿を求めて大広場へとトボトボヨボヨボ歩いていった。

 自分の半分にも満たない娘に手玉に取られ、あまつさえ泣きべそのフォローまで請け負わざるを得ないシェインの背中には
薄暗い哀愁が差し込んでいるようにも見えた。

「あいつらも…と言うかシェインはまるで進歩が見られないな」
「アルだって同じでしょ。シェイン君見てると、アルの奥手なトコとか、結構オーバーラップするよ?」
「………そいつは心外だ」
「昔、私のコトをよく泣かせてくれたのは、どこの誰だったかなぁ〜?」
「………別に俺はお前を困らせるつもりがあったわけじゃない」
「じゃあ、たった今、年下の子と大人気ない喧嘩して私に結構なショックをくれたのは誰だっけ?」
「だ、だから、あれは我が家の威信を守るためにとさっきも………っ!」
「大義名分にかこつけて、年下と恥ずかしい喧嘩をやらかして、私を情けない気持ちにしてくれたのは誰ですか、
もう一度だけ訊きますよ、ア・ル・フ・レッ・ド・君?」
「たとえ相手が年下でも引けないことがあるって、お前にも分か―――」
「不正解のヒトには、一週間キス抜きのペナルティが待ってマス」
「………ごめんなさい。俺が全面的に情けなかったです………」

 シェインの枯れた後姿に肩を竦めながらも溜飲が下ったような、晴れやかな気持ちが顔から滲み出すアルだったが、
フィーから思いがけない指摘を受けて口元をへの字に曲げる。「子供と一緒にされてはたまらない」とでも言いたそうだ。
 しかし、フィーの追い討ちを受ける内に段々と余裕と自信が薄まってきたのか、不満を表して吊り上がっていた眉が
逆さのハの字に垂れ下がっていき、抗議の睨みを利かせていた赤い瞳も居た堪れなくなって明後日の方向へ
泳ぐまでになってしまった。

「―――何にでも真っ直ぐなトコ、私は大好きだけどね」
「え………っ――――――………………」

 凹み具合を如実に表す俯き加減だったアルの唇を、ほんの一瞬、甘やかな温もりが覆った。
 それと同時にやって来た鼻腔をつく何ともいえない薫り―――見張った眼の先にはフィーの顔があった。
 “あった”と言うどころではない。額と額が当たるくらい近くに彼女の愛らしい顔が、閉じられた瞳が、
………いたずらな唇があった。

「さ、掃除に洗濯、編み物っと♪ お母さんのお手伝いしなくっちゃ」

 額へかかったフィーの前髪に微かなこそばゆさを感じて、唇に熱いくらいの温もりを感じて、
文字通り、息さえ出来ないで入るアルへ小悪魔みたいにひとつウィンクを放ると彼女はハミングを引き摺りながら
ライアン電気店の奥へと戻っていく。
 機嫌の良さと太陽みたいな明るさがよく表れたハミングを耳に捉えながらもアルは、不意打ち気味に唇へ落された温もりと、
広がるその余韻を指でなぞり、気を抜くと緩みそうになる薄い桜色の頬を無理矢理引き締めるので精一杯だった。

 彼が普通の若者であったなら、可愛い女の子にこんな不意打ちを決められたら奇声のひとつも上げて
ハイテンションに小躍りしそうなものだが、そこは堅物で通っている自分への矜持があるのか、
子供が見たら泣き出しそうなくらい恐ろしい形相を作ってニヤケる口元を押さえ込んでいる。
 堅物と言う性情(もの)も、なかなか難儀であった。

「朝っぱらから見せつけてくれるねェ」
「な――――――ッ!?」

 冷やかしの飛んできた方向を冷汗まじりに振り向くと、そこでは苔色の長い髪を襟足のところで二房結わえた青年が
ニヤニヤと含みありげに口元を吊り上げ、これまた姦しい視線をアルに送っているところだった。

 思わずアルは口元を押さえた。一気に血の気が引いた顔は蒼白を通り越して土気色だ。
 人間、普通はキスシーンを他人に覗き見されたら平常心ではいられないだろうし、
ましてその様子に冷やかしなど入れられようものなら錯乱状態へ陥ってもおかしくない。
 一部には他人に恋人とのイチャイチャを見せ付けたがる人種もいるにはいるが、アルに限って言えば羞恥と常識、
何よりも倫理を弁えた人間で、だからこそ苔色の髪の青年の冷やかしを受けた瞬間、膝から崩れ落ちそうになったのである。

「い、いたのか、クラップッ!?」
「こ〜ゆ〜場合のお決まりワード、どうも。ただし一つだけ言っとくが、オレのデバガメがどうこうっつーより、
こんな往来でそんなイチャラヴシ〜ンをやっちまう方が問題なんだからな」
「………………………」

 “クラップ”と呼ばれたその青年は「今日の井戸端会議はこの話題で持ちきりだな」と更にアルを追い詰める。
 たまったものではない。生真面目を地で行くアルにとって、本来、自分とフィーの胸の内に収めておくべきことを
ワイドショーか何かの話題と同義に扱われた挙句、ご近所中から冷やかしの的にされるなど地獄以上の責め苦だ。

 冷やかされて初めて自分が極限に危うい状況へ立たされていることを自覚し、他に目撃者がいないかどうか、
グリングリンと首を派手に回転させて周りの気配を警戒する。
 時間の流れが緩やかなグリーニャなので、ライアン電気店に面した通路上にはクラップ以外の人影は見られなかった。
 普段は怠慢とも言える時間の緩さに焦れることが多いものの、今朝ばかりはそれに救われた―――これはもちろんアル個人が
主観による視認で弾いた自己への答えであり、実際には、焦りによって散漫となった注意では
捉えられなかった好奇の瞳(主にオバちゃんたちの)が窓の向こう側で一部始終を目撃していた。
 中には当人の気付かない内にモバイルに付属されたカメラ機能で決定的瞬間を激写した者までおり、クラップの予見した通りに
アルとフィーの刺激的なシーンはこの日から向こう一週間、オバちゃんたちの井戸端会議でトップを飾ることになるのだが、
それはまた別の話。

 そうとは知らないアルはクラップの肩へ腕を回すと彼の顔を引き寄せ、「何でも奢るから、このことは内密に頼む」と
再三再四釘を刺す。
 しなやかな筋肉で固められた腕は電気店に勤めている人間とは思えないくらい力強く、凄まじい膂力で引き込まれれば
クラップはされるがままになるしかない。
 と言っても“ネタ”を掴んで圧倒的有利な立場にあるクラップにはもともと抵抗するつもりもなかったが。

 グリーニャの時間の流れと同じように気だるげな垂れ目を厭味っぽく輝かせて友人の反応を楽しむクラップに対し、
アルの焦り方は尋常ではない。額には脂汗まで垂れ、つい五分前までクールさの漂っていた双眸は血走ってさえいる。
 ただキスシーンを目撃されただけでここまで必死になるのはいかにも不自然で、そこから察するにどうもパブリックイメージを
崩される怯えよりも根の深い問題が根底にはありそうだ。

「何でも奢るから、このことは内密に頼む! とくに父さんと母さんには駄目だぞっ!?
ベルにバレちまって以来、いつあいつが口滑らすか気が気じゃないし、これ以上不安要素を作るのはまっぴらなんだ」
「………………………」
「ど、どうして笑う? 親友が必死に頼んでいると言うのに………っ!」
「いや、血ィ吐くんじゃないかってくらい必死だなぁってさ」
「あ、当たり前だろっ! 義理とは言え、兄妹で付き合っているなどと知られたら、俺………」

 アルの苦みばしった呟きで全てに辻褄が合った。
 瞳の色も髪の色も、輪郭線もまるで似ていないアルとフィーがシェインからベルの兄・姉と呼ばれていた理由も、
キスシーンだけでこの世の終わりみたいな風情を漂わせた彼の絶望感も。
 “義理”と自称するからには血の繋がりは無いようだが、それでも関係は兄妹。交際が露見したなら両親に気まずく、
その日づけで食卓を囲む時間が羞恥心を揺らす拷問と化すのは間違いない。

 それでアルも先ほどの出来事の隠蔽にアルが必死になるわけだが、不意打ちとはいえ天下の往来で、
しかも自宅の前でキスなどしている時点で最早どうしようもない。
 にも関らず、鼻息荒く迫るアルの努力がクラップには不毛中の不毛に思え、どうにも可笑しくて仕方がなかった。

「じゃあ、交換条件でどうよ? そ〜ゆ〜ギブアンドテイクが結ばれてりゃ、お互いスッキリすんべ?」
「奢りか? なんでも構わないが………なるべく安く済ませろよ。
この間、ヴィンテージのチェーン買っちまったから財布が寒くて………」
「なァに金はかかんねぇよ。ちょっと付き合って欲しい場所(トコ)があるだけさ」

 ひとしきり友人の醜態を堪能したクラップは、掻き毟るあまり銀髪がボサボサに爆発する頃、
ようやく救いの手を差し伸べた。
 アルにとって待ちに待った言葉であり、もちろん異論を付けられる立場ではなく、クラップが何を求めているのかも
確認しない内に首を縦に振った。………必死にも程があると微妙にクラップを引かせるほど振り続けた。

 行為自体はメタルバンドのヘッドバンギング並にやや過剰なアクションではあるものの、提示された交換条件を
二つ返事で了承したのは、クラップが決して法外な要求をしないことを確信し、親友として信頼しているからである。
 アルから向けられる信頼を察したクラップは、それを利用することに若干の呵責を覚えたのか、
眉がへの字の困り顔になりながら頬を掻いた。

「………ヴィンテージのチェーンで今月の小遣い持ってかれて、俺もなかなか危ういんだ。
一時間いくらのサービスはちょっと―――」
「朝っぱらからそんなおピンク話持ち出すか、アホォッ! …何? お前、欲求不満なんか?
連れて行けってか、そんな店に」
「俺には必要ないが、お前には必要だろう? 一昨日もノボせてたじゃないか、『お姉サマ、最高ォー!』って。
スケベ自慢のためだけに夜遅く電話の相手をさせられた俺の身にもなれ」
「だ、だってあれはお姉サマの美人秘書コスプレがギンギン過ぎて―――って、ちっがァーうッ!
今朝のお誘いは健全爽やかッ!! 全年齢対象レーベルだッ!!
………つーか、オレがどんな眼で見られてんのか、よ〜くわかったぜ。覚えとけよ、マブダチぃ………」

 と言っても困り顔はほんの一瞬で、復調によって精彩を取り戻したアルの理論口撃が炸裂する頃には
垂れ目をひん剥き、歯を食いしばり、前傾姿勢を作りつつ両手の人差し指を突き出し、全身の力を総動員して彼からぶつけられた
当てこすりに反抗してみせた。
 オーバーアクションで力む余り全身がプルプルと震えているのが、なんとも言えず滑稽だ。

 アルの冷徹な口撃に対してクラップのリアクション芸が冴え渡る様子は、まるでコントそのものなやり取りで、
事前に打ち合わせていたのかと疑ってしまうくらい息もぴったり。
 昨日今日では体得出来そうに無いクラップのポージングなど堂に入っており、こうしたやり取りが二人の間では
日常茶飯事であると窺わせた。

「………いいぞ、アルフレッド。行って来い」
「と、父さん!?」

 ライアン電気店からヌッと顔を出した新しい影に「まさか見られていた!?」と再び真っ青になるアルだが、
“父さん”と呼びかけたその人物の、子供が見れば泣き喚き、赤ん坊が見れば引き付けを起こすと噂される、
アル以上に鋭く怜悧かつ殺人鬼のように爛々と輝く眼行が、彼のことを別段冷やかすことはなかった。
 見た目はいかついが感情表現は貧困ではないと息子としてよく知るアルは、父にしてライアン電気店の店主である
カッツェが平素のままでいることから先ほどのキスシーンを目撃されていないと確認し、
気取られないようにそっと安堵の溜め息を漏らした。

 そんなアルの様子にクラップは意味ありげな笑みを浮かべるものの、もちろん精神的にいっぱいいっぱいなアル当人は
親友の厭味な顔に気付いていない。

「さすが小父貴! 話がわかるぜっ!!」
「しかし、今日はメンテの仕事が………」

 親しみを込めてカッツェを“小父貴”と呼ぶクラップは、彼の了解を得るなりアルの腕を掴んで早速目的の場所へ
引っ張っていこうとするが、今日の業務内容を思い出したアルは父の言葉に当惑するばかりだった。

 メカニック見習いとしてカッツェの下について汗水流すアルはライアン電気店が一日にこなす仕事量を
誰よりも把握していた。
 “電気店”と言っても商品を販売するだけでは食べてはいけないし、グリーニャ唯一の電気店なので、
冷蔵庫や電子レンジなど故障してしまった電化製品の修理を依頼されることも毎日である。
 必然的にメカニックとして腕を振るう業務が忙しくなり、その合間を縫って商品を買い求めにやって来た客を
応対しなくてはならない―――ライアン電気店は定休日を除いて朝から晩まで働きっぱなしなのだ。

 今日も今日とて村役場から依頼されたファックスを修理する予定が入っていた。
 なんとこのファックス、グリーニャにこれしか存在しない一点もので、役場の業務を滞りなく行なうためにも
早急な修理が求められてる。与えられた期間はたったの一日、依頼を受けたのは昨日の夜。
 つまり今日中に修理しなくてはならなかった―――二人がかりでようやく間に合うかどうかの、
考えられる最悪の奮闘が今日は求められるはずなのに、クラップへの同行を細かい事情も確かめず許諾した
カッツェの真意がアルには図りかねた。

「………仕事をするのは大人の役目。お前はまだ半人前の子供だ。
子供の特権は、仕事よりも友人の頼みを優先できることだよ。むしろ友情を温めるのが子供の仕事だ。
用件は知らないが、困っているようなら助けてやれ………」

 息子の困惑を見て取ったのか、レンガ色の髪の毛――ベルとおそろいの色だ――を掻きながらカッツェはアルへそう教え諭した。
 普段のカッツェは職人気質を地で行く寡黙な男で、こんなに饒舌になることは少なく、だからこそアルとクラップを驚かせ、
語る言葉の一つひとつに重みを感じさせた。

 見た目は確かに恐い。本当に恐い。短く刈り込まれた短髪と殺人鬼ばりの眼光、彫りの深い顔立ちが揃ったカッツェは
グリーニャ中の村民から『世界最恐の電気屋』と呼ばれているのだが、静かに語られたその言葉からは
息子を大切に想う親心が控えめながら表れていた。

 てんてこ舞いになるのを承知した上で息子の都合を優先してくれるカッツェの親心に反してまでここに残ると
駄々をこねる訳にはいかない。
 恐ろしげな眼光の中に優しさを称える父の視線へ自分のそれを通わせながら、感謝を込めてアルは頷いた。
 息子の意を汲んだカッツェもそれに応じて笑みを返そうとするものの、鋭過ぎる眼光が眼光だけに
“茶目っ気ある微笑”でなく“腹黒い策略を思いついた冷笑”になってしまい、自分でこのことに気付いて
微妙に吊りあがった口元をすぐへの字に戻した。
 への字口の角度が先ほどより急勾配になったあたり、笑顔が上手く作れずに落ち込んだカッツェの内心が透けて見える。
 常々恐い顔にコンプレックスを抱いている父には本当に申し訳ないのだが、無理してまで笑みを作ろうとしてくれる
その姿がアルには滑稽で―――とても嬉しく思えて、クラップと顔を見合わせて微笑んだ。

「………ところで、クラップ。どうだ、新しいブルーベリーのガムが手に入ったんだが―――」
「いや、ほら―――うち、ベリーの栽培やってっから、そう言うの間に合ってますんで!」
「………そう、か………」

 なにやらズボンのポケットからチューイングガムを取り出そうとしたカッツェをクラップは慌てて押し止めた。
 理由はわからないが、何故かカッツェの口から“ブルーベリー”と言う単語が飛び出した瞬間、
顔を見合わせるアルとクラップの口元が引き攣ったあたりに慌てふためく態度の真相が眠っているようである。

 あと一歩でパッケージが見えるところまで取り出された新作のブルーベリーガムを渋々元のポケットへ仕舞いながら
明らかに落胆した様子で店舗裏の小さな工場へ赴くカッツェの後姿は、『世界最恐の電気屋』という
印象とのギャップもあってかギャグのようにも見え、クラップはとうとう我慢しきれずに噴き出してしまった。

 それは、穏やかな時間の中で繰り広げられる、ちょっぴり騒がしくも平和な―――とても平和な時間だった。



 ―――物語は、枢機卿の軍師と称されるアルフレッドが逆落としにレサ陵蒼壁を攻めた戦いから四年を遡り、
イシュタル暦1480年の春…舞台へ上がる者たちが、まだ幸せな時間に包まれていた日々の中でその幕を開く。

 愛らしい面持ちに似つかわしくない銃を携え、『新選枢機卿』の称号を白銀の聖装と共に纏ったフィーナ・ライアンも、
この時は義理の兄との秘めた恋に花を咲かせる可憐な少女でいられた。

 レサ陵蒼壁の戦いにて巨大人型ロボットを操り、敵兵を降伏せしめたシェイン・テッド・ダウィットジアクに至っては
近い将来、苛烈な戦いに身を置くとは思えない元気いっぱいの幼い少年で、アルフレッドとフィーナの妹である
ベル・ライアンに振り回される毎日を送っていた。
 ベル自身、これから待ち受ける激動の日々など知る由も無く、目一杯シェインに飛びついては、幸せな時間を謳歌している。

 アルフレッドとフィーナ、シェインの三人とは共通の幼馴染みであるクラップ・ガーフィールドも、
やがて来る運命の予兆を感じ取る手段は無く、親友とくだらない話で盛り上がり、こんな日々がずっと続くと信じて疑わなかった。

 そして、アルフレッド・S・ライアン―――。
 四年の歳月を経た後に、一介のメカニック見習いが、何故、常勝無敗を成し得る軍師となったのか。
 ただひたすらに戦いを求め、狂気をはらんだ修羅と化すまでにどんな路を辿ったのか―――彼と、彼に係る者たちの
運命を知る者がいるとするなら、果たしてそれはこの惑星(ほし)―――エンディニオンだけかも知れない。


 エンディニオン………太古より伝わる御名なのか、歴史学者が勝手に刻んだ物なのか、それを明かす術は
地上のどこにも見つからないけれど、その懐に抱かれて、その温もりに見守られて生きる人々は、
母なる惑星(ほし)を、そう呼んだ―――――――――。




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