2.笑顔の村の危機



 取り留めの無い談笑を交しながら、グリーニャの北西に拓けた林道をクラップの誘うがままに随いていくアルフレッドだったが、
こんな僻地へ自分を引っ張ってきたクラップの真意を掴めずにいた。

 ギブアンドテイクを了承した以上は無言で随いていこうと決めてはいるものの、この林道の先にあるのは
グリーニャを一直線に貫く小川の源流と、村を見下ろすベルエィア山の頂きへと通じる山道のみである。
 人気どころか何一つクラップの喜ぶ物は無さそうだ。
 「まさか雑木林にでも捨ててあったアッチ系の本を見せようってんじゃないだろうな」と唯一の例外を想像しては見たが、
もし仮説の通りだとしたら、親友として、また一人の男としてどう取り繕うべきか、
彼の肩でも叩いて慰めの言葉でもかければ良いのか、アルフレッドにも判断が困るところだった。

 そんな不埒な仮説に答えを得る必要もあり、目的だけでも聞き出そうと試みるものの、
矢継ぎ早にクラップが話題を振るものだから、探りが途中で寸断されてしまい、行き先の判明さえままならない情況だった。

「小父貴のアレ、なんとかなんねぇの? 行く度会う度ブルーベリー勧められても困るんだよなぁ」
「あれはもう一種の病気だから俺にもどうしようもない」
「病気って………まさか眼の?」
「眼ではなく心の、だな。要約するなら、ブルーベリー依存症」
「医者に相談したらその場でサジ投げられるぜ、そんな病気」

 作業着姿の人間と肩を並べて歩くのを嫌がったクラップに強制されて仕事用のツナギから
ジーンズにボア付きのフライトジャケットと言うカジュアルな服装に着替えさせられたアルフレッドは、
パーカーにカーキ色のワイドバギーパンツを着こなす親友が隣へ並ぶと如何にもアクティブな印象である。
 望遠する限りでは、まるでスポーツ選手のコンビが一枚のポートレートに写ったかのような印象を与えるものの、
近付いてよくよく観察してみると、アルフレッドの鋭い目とややお調子者めいたいたずらっぽさが宿るクラップの垂れ目は好対照で、
なかなか面白い画となっていた。

 アルフレッドの胸では灰色の銀貨をあしらったペンダントが木漏れ日を反射して鈍い輝きを放っており、
彼が喉を鳴らす度に上下左右自由かつ忙しなく揺らいだ。
 冷静沈着なアルフレッドの喉を何度となく鳴らすことが出来るのだからクラップは大したもの。
 長年の付き合いから彼の笑いのツボを押さえてあり、時にオーバーリアクションを取って絶妙のツッコミを誘う様は
今すぐ芸人デビューが出来そうなくらい堂に入っている。
 今度も今度で、カッツェが喜々として切り出したブルーベリーの食品にまつわる話題でアルフレッドから笑いを一つ引き出してみせた。

 …ちなみここからは全くの余談。今の会話にも出てきたが、カッツェの三白眼にもちゃんと理由がある。
 日常生活に支障を来たしはしないのだが、カッツェは人よりも視力が弱く、遠くのものがボヤけて見える症状に
長年悩まされていた。
 『世界最恐の電気屋』と揶揄される三白眼は、物体をよく把握しようとする際にどうしても出てしまう藪睨みなのだ。
 それが持って生まれた厳つい面構えとあいまって異様な威圧感を周囲に与えてしまい、
不名誉極まりないニックネームを頂くハメになってしまったのだが、カッツェもこの藪睨みを深刻に悩んでおり、
改善に向けてあらゆる改善策に努めて来た。
 不運なことにコンタクトレンズも眼鏡もカッツェの体質に合わず、上手く効果を発揮してくれなかった。
 外的な補正が意味を成さないのであれば眼に良い食べ物や運動を取り入れることで視力そのものを回復させようとの
逆転の発想に辿り着いたカッツェは、特にブルーベリーを好んで摂ってきた。

 しかしながら、過剰なまでに摂り続けてきた影響でブルーベリーを手放せない体質となってしまい、
今では視力回復目的で摂り始めたブルーベリー関連の食品の虜。
 息子のアルフレッド曰く“依存症”と吐き捨てられてしまうほどの重病で、クラップが引っ掛かりかけたのと同様に
会う人会う人にブルーベリー関連の食品を勧め、まかり間違って食いついてしまった者には最長三時間にも及ぶ
ブルーベリー談義を始める有様だ。

 改めて詳説するまでもないが、比類無き愛情をブルーベリーへ注ぐカッツェの想いと裏腹に視力は一向に戻らない。
回復の傾向さえ見られない。
 にも関らず、自分を裏切ったブルーベリーを偏愛するカッツェには、合掌、とさめざめ泣いてやるよりほか無かった。

「―――と、悪ィな、こんなヘンピなトコまでご足労願っちまってよ」
「ああ…いや、別にそれはいいんだが………」

 そう言ってクラップが足を止めたのは、小川から分岐した水が窪みへ流れ込んで池となった場所だった。
 どうやらここが目的地らしいのだが、見渡す限り仮説に登場したおピンクな雑誌などが落ちている気配は察知出来ず、
どこからどう見ても何の変哲も無い小さな池である。
 いよいよもってクラップの真意を暗中に取り落としたアルフレッドは、隣に立って何事かキョロキョロしている彼へ
怪訝な視線を巡らせようとした―――その時、目端にある不可解な物を見つけて思わず釘付けになった。

 今ではさすがに小さ過ぎるが、幼い頃には十分に遊泳を楽しめた想い出の深いその池の水面が
鈍い輝きを発しているような錯覚を覚えたのだ。

(………どう言うことだ………?)

 念の為に眼を擦り、更に凝視を強めてみたのだが、水面に浮かぶ不可思議な輝きは錯覚ではなかった。
玉虫の色とも、虹の色彩とも言えない七種の鈍い輝きが池の水面のあちこちで散見されるではないか。
 顕著なのは波紋である。何かの拍子に生じた波紋が水面で弾ける度に七種の毒々しい光彩も爆ぜた。
 木漏れ日を反射した燐光とは明らかに異質な、何とも言えない気色の悪い輝きが池全体に広がり、
まるで魔女の呪いのようにその清廉さを蹂躙し、屈服させていた。

「おぅい、ゴミ屋さんよ。はかどり具合はどうだい?」
「ゴミ屋………?」

 池に生じた奇怪な変化に呻くアルフレッドの隣でキョロキョロと忙しなく首を振り、池の周りを探っていたクラップが
唐突に素っ頓狂なことを口走った。
 彼は池を囲うかのようにして群生した草むらへ“ゴミ屋さん”と呼びかけた。
 「おっかしいな」と頭を掻いたクラップが、続けて二度、三度と同じことを繰り返してみたが、
草むらは吹き抜ける風に揺らめくばかりで、気まぐれに山彦でもって応じることすらない。

 それでも諦めずナントカの一つ覚えのように“ゴミ屋さん、ゴミ屋さん”と重ねて呼び続けるクラップの様子に
「え? こいつ、まさか人気の無い場所で脳内に花火でも上げたのか!?」などと不穏な疑問を抱いたアルフレッドが
恐る恐る彼の肩へ手を伸ばそうとした直後、事態はようやく一つ先のステップへ移行した。

「ゴミ屋さんじゃなくてリサイクルショップだって、何度もアピールしたつもりなんだけどね。
悲しいかな、まだボクらの間に認識の隔たりがあるみたいだ」
「――――――ッ!」

 クラップの呼びかけに応じる返事が、彼の注視した正面でなく全く見当外れの背後から上がったのだ。
 予想を覆す場所からの返事にクラップは「あっ」と叫んで驚き、アルフレッドは警戒するままに身構えてしまう。
 電光の如き機敏な身のこなしで旋回するなり腰を落とし、前方へ突き出した左の拳と胸の手前で曲げた右の拳を
交差させるかのようなポーズを取る。素人目にも格闘術のファイティングポーズと分かる体勢だ。

 背後の草むらから顔を出した人影は、相当な手練だと言う事が容易に判定できるアルフレッドの臨戦体勢へ完全に怯んでしまったらしく、
ちょうどバンザイするような恰好で両手を上げ、顔を引き攣らせながらジリジリと、思いっきり腰の引けた姿勢を維持しつつ
二人の前に進み出た。

 ビクつきながらやって来たのは、寝惚けたように瞼が閉じかかり、瞳さえ見えないくらいの細目が印象的な痩身の青年だった。
 身の丈以上のリュックサックを背負っており、あちこちの隙間から鉄パイプやスプレー缶、珍しいところでガードレールの
断片が飛び出している様子は見た目にもインパクトがある。
 どうやらリュックサックの中身は主に何処ぞで拾ってきたゴミであるらしい。とりわけ目を引くガードレールに至っては
白い塗装が剥げて赤錆が散見された。

 ゴミを背負っている男など、どう考えても怪しい。この上なく怪し過ぎる。
 闖入者と親友を困った様子で交互に見比べるクラップを尻目に、アルフレッドは目の前の男を油断ならないと判断して
警戒心を一層強めていく。拳に入る力がギリギリと骨身の軋む音さえ上げ始める。

「貴様、何者だ?」
「な、な、何者だと言われましてもっ!! ちょっと気の良い店長さんとしか肩書き紹介できませんであります、はいっ!
あ、一応付け加えるならリサイクルショップの店長さんです、はいィっ!!」
「ちょい待て、アルっ! その人ぁ悪いヤツじゃねぇっ!! オレが呼んだゴミ屋さんなんだっ!!」

 自称リサイクルショップの店長は、「だからゴミ屋さんじゃないってば」とでも言いたげな表情でいるのだが、
ここで下手な反論を打つよりも誤解を解き、いつ飛んでくるかわからない拳を下ろさせるのが先決と判断したのだろう、
腹這いになって地面へ従順に伏せながら、クラップが自分の身分を弁明してくれるのを待つことに徹した様子だ。

「呼んだ? お前が? ………どういうことだ?」
「昨夜隣町まで遊びに出かけたときなんだけどな―――そうだよ、アレだよ、美人秘書にナイトフィーバーしちゃったあの夜!
偶然同じ店でその人と一緒になってな」
「それで一緒になってフィーバーした、と?」
「いや、オレは美人秘書コースで、この人は“アナタのハートを三枚下ろし”的な女板前コースで―――って、
そうじゃなくてだなっ!! オレが言いたいのは、この人がゴミ集めのプロってトコなんだっ!!」
「ゴミ屋敷を作りたいなら三軒先のコマンチェロさんにでも弟子入りすれば良いだろう。
あの人の家はもはやロマンだ」
「ゴミ屋敷にロマンを感じる歳じゃねぇッ! つーかそれ言ったらコマンチェロさんに失礼なんだけど!?
ただ片づけが下手なだけかも知んねーじゃん!」
「………わかった。推論と予測に基づいてこちらで勝手に結論を出させてもらった。
新手の詐欺にでも引っ掛かったんだよ、お前は。どうせ“ゴミを金に変える秘密の錬金術、教えます”だの
なんだのと吹き込まれたんじゃないのか?」
「あー、まぁ、近いっちゃ近いコトを言われたような、そうでないような………」
「―――よし、これで裏付けは取れた。この裏付けをもって貴様を処断する根拠としよう。覚悟しろ、詐欺師め」
「ちょ、ちょ、ちょっとちょっとちょっとぉーッ!! 本人目の前にして何勝手気ままな結論出しちゃってんですかっ!?
“一見ゴミみたいな有価物をお金に換えるのがお仕事”とは言いましたけど、ペテンの類を吹き込んだ覚えなんかありませんってばッ!!」
「ち、ちくしょう、この詐欺師めッ! よくもオレのこと、騙してくれやがったなぁーッ!
アル…もとい、先生ッ!! いつもよりちょっとキツめにシバいちゃってくださいッ!!」
「あ、あ、あなたもあなたで自分で引っ張ってきた責任くらいちゃんと取ってくださいよッ!!
いきなりコウモリみたいな切り替えされたら、ボク、本当に詐欺師みたいじゃないですかッ!!」
「うっせぇ、詐欺師ッ!! ―――けっけっけ、オレを騙そうとするなんざ運が無いヤツだぜ。
こちらにいらっしゃるアルフレッドはコンクリの壁だろーが蹴りでブチ抜く超おっかない先生だ。
その薄汚い上っ面と一緒にブッ飛ばされちまえッ!! やーいやーい、間抜け野郎ォ〜♪」
「あ―――もォ―――ッ! 話にならないッ!!」

 ところがクラップの弁明(と言うか後半は弁明でなくて報復行為の扇動と化していたが)がよほど心外だったらしく、
的外れどころか他人の手によって立場が一層悪化するのを我慢できなくなってついに立ち上がると、
なおもファイティングポーズを解かないアルフレッドへ自分の身分を“正しく”証明する名刺を差し出―――
―――もとい、彼の眼前へと突き出した。

「『リサイクルショップ・ファーブル』店長兼有価物ソムリエ………ネイサン・ファーブル?」
「その通りっ!! さっきからゴミ屋ゴミ屋と、人のこと、さんざんに言ってくれてるけど、ボクはゴミなんか集めてないの!
リサイクルして販売できそうな有価物を鑑定するプロフェッショナルなんだからっ! ソムリエね、ソ・ム・リ・エ!」

 突き出された名刺には“ネイサン・ファーブル”と言う自称リサイクルショップ店長のフルネームと構えた店舗の住所や
モバイルの電話番号と言ったインフォメーションが列記されていた。
 よほど名刺の出来に自信を持っているらしく、情況が限りなく悪いにも関らず、背面に書かれた業務内容、売買の方法などを
見せつけようとご丁寧にも裏返してアピールを強める。
 「色の使い方も綺麗で見やすいな」「これどこの印刷会社の仕事? へぇ、自分で作ったの!」と言った好反応を
期待しているのだろう。細目がだらしなく垂れ、口元には自信と会心の笑みが浮かんでいる。

「こんな物で一体何を証明するつもりなんだ、貴様は。いくらでも捏造できる紙切れ一枚にどんな効力があると言う?
大体、何だ、その“有価物ソムリエ”と言うのは。身分の証明どころか、不審人物が背負っていそうな怪しい肩書きじゃないか。
………『自分は胡散臭い人』と自白したに等しい行為だな」
「他所様の身分もろとも仕事へ注げる情熱までも打ち砕いてくれるキミこそ一体何者っ!?
ここまで懇切丁寧にパーソナリティを完全否定されたのは生まれて初めてだよ!」

 誉めて欲しくて仕方が無い様子のネイサンの目の前で、アルフレッドはあろうことか彼自慢の名刺を真ん中で折り曲げ、
「これは一応貰っておくとしてだな」と形だけ、本当に形だけズボンのポケットへ突っ込んだ。
 これ見よがしに乱雑に突っ込んだのだから、ネイサン渾身の名刺はおそらくポケットの中でグシャグシャに拉げ、
悲惨な残骸をさらしていることだろう。

 色合いから文字の配置から、何から何までこだわり抜いた快作を粉砕されて言葉も出ないネイサンへアルフレッドは
追撃の手を休めない。
 理論による解体でもって彼の肩書きや身分を一つひとつ突き崩し、進退窮まる逆境へ追い詰めようと
双眸に、言葉に、冷酷な輝きを宿していく。
 会って間もない人間のパーソナリティを全否定する酷薄なアルフレッドのやり方には「思い切りやれ」と煽った
クラップでさえ顔を引き攣らせてドン引きし、被虐するネイサンの細目へ汗とは違う水滴がうっすら浮かび始めた。

「なんだよ…なんなんだよ、コレ………。ココ、ちょっと見ない内にこんなになっちゃったのかよ………」
「え? えっ? えぇーっ? 去年の夏に来たときはキレイだったのに………これじゃ泳げないよぉ」

 見る者全ての肝を底冷えさせる恐怖を撒き散らし、執拗に詰め寄るアルフレッドの情け容赦ない攻撃からネイサンを
逃がしてくれる助け舟は意外な場所から差し向けられた。
 助け舟とは、三人の醸し出す剣呑至極な空気を蹴散らすようにカラリと明るく、けれどどこか焦りと憤りをはらんだ
シェインの黄色い声だ。

 悲鳴にも似た声で張り詰めた空気を壊しながら三人が対峙した池へと駆け寄ったシェインは、
その水面を覗き込んで落胆の溜め息を吐き、目の前に現れた光景が信じられないと言った様子で激しく頭を振った。
 あれから仲直りしたらしく、シェインの後を追ってトコトコと随いてきたベルもケミカルな光を放つ水面を見るなり目を丸くし、
肩を震わすシェインの後ろにへたり込んでしまった。

「シェイン、お前、どうしてこんなところに………」
「いつもとおんなじだよ。今日の冒険がてら、ひさしぶりにココへピクニックって思ったんだけど―――
―――くそっ! こんな…こんなコトになってるなんてっ!!」

 “今日の冒険”と話すシェインは、今よりずっと幼い頃、寝物語に聞かされた伝説的冒険者の逸話にインスパイアされて以来、
いつか自分も冒険者になりたいと夢見ている。
 世界を何周も巡り、前人未踏とされる数々の秘境や魔境を探検してきた“ワイルド・ワイアット”と言う人物は、
言ってみれば生きた伝説のようなものであり、その逸話を聴いて育ったシェインの中では自然と憧憬の対象になっていった。
 少年と言うのはヒーローに憧れるものである。
 シェインの心に深く刻み込まれたワイルド・ワイアットと言う生き様は、少年が将来に何かを期する初期衝動としては
とても身近なものだった。

 冒険者という夢の実現へ馳せられるシェインの想いは生半可なものではない。
 水筒や懐中電灯などの道具を詰められるだけ詰め込んだナップザックをお供に、“冒険”と称して毎日広大な山野を駆け回って
足腰を鍛えているし、ロープワークを始めとする冒険に必要な技術の習得にも余念がなかった。

 大好きなシェインといつも一緒にいたいベルもそれに付き合って“冒険”へ繰り出し、
読書好きが長じて年齢に適するレベル以上となった数多の知恵で彼を助けている。
 元気に楽しく明るい冒険が、シェインとベルの日課だった。

 ………しかし、池の現状を目の当たりにした瞬間、元気に振る舞うことも、冒険を楽しむことも、
明るい笑顔までもがシェインの心から吹き飛んでしまった。
 いや、正確には溢れんばかりの元気が底なし沼さながらに毒々しい水面へ吸い取られたと言うべきかも知れない。
それは後から追いついたベルも同じである。
 シェインとベルもアルフレッドと同じように池のかつての清廉さを知っており、
想い出の中の清らかな水面と毒々しい現状とのギャップに対して声にもならない大きなショックを受け、息を呑んで絶句した。
 「畜生…」と呻くクラップもこの池への想い入れが深い―――と言うよりもグリーニャに生まれ育った子供たちは、
皆、この池への深い想いを共有している。
 山間部の農村に育ち、近隣に海や大きな川を臨むことの出来ないグリーニャの子供たちは、この池で泳ぎ方を覚えるのだ。
ここは言わば自然が生み出した天然のプールである。子供の頃から慣れ親しんだ、想い出の場所である。
 そんな想い出深い池が、魔女の呪いにでもかかったかのように濁り、穢れ、腐臭を漂わす場所へと塗り変わってしまったのを見て、
果たして誰が平常でいられるだろうか。
 シェインとベルのショック、クラップの憤激を見守るアルフレッドの赤い瞳にも、静かな、だが、烈しい怒りが宿っている。

 やがて怒りに燃える瞳は、鬱蒼と茂る森の向こう側に尖った煙突を覗かせる不気味な建物へと向けられた。
 アルフレッドに吊られるようにして、シェインとベル、クラップの視線もその建物へ集中する。
 天高く白煙を吐き出す煙突の下へ目を走らせれば判るのだが、木立のてっぺんから僅かに顔を出したその建物は
何かの工場だ―――と言っても数キロは離れたこの場所からでは、どんな作業が行なわれているかまでは探れない。
 ただ、煙突からもくもくと吐き出される灰色のスモークは見る人の心へ言い知れぬ不安を垂れ込ませた。
あの灰色のスモークでもってグリーニャが覆い隠され、いつか人の住めない村になってしまうのではないか、と………。

「胃がムカムカするこの匂い、目がシパシパするこの感じ………間違いない―――重油だよ、コレ。
それもけっこうヤバい濃度の」

 アルフレッドの注意が反れた隙に攻撃が届くことが予想される近接した距離から離れて鈍色の水面へ向かったネイサンは、
そこから発せられる胸焼けを誘発する異臭に危険なものを嗅ぎつけ、リュックサックから取り出したブリキのコップに池の水を汲み取ると、
特定の物質に反応する試験紙や溶剤などを用いて水質を分析し始めた。

 空を灰色に染め抜くスモークに強いられた強迫観念もその時までは漠然とした凶兆でしかなく、
ともすれば被害妄想にも近いアヤフヤな物だった。
 しかし、水質調査を終えたネイサンが導き出した答えによって、それは確かな質感を得てアルフレッドたちに襲い掛かってきた。

 池の水には重油が混ざっているとネイサンはきっぱりと断言した。
 清らかな源泉が直接流れ込んで生まれた池へ混入することなど、どう考えても有り得ない液体だ。
 水面に浮かぶ毒々しい物質の正体を知ったアルフレッドは悪い予感が当たってしまったと言わんばかりに顔を歪め、
クラップは受け止めきれないほど大きな苦い憤りを持て余し、獣のように低く吼えた。
 シェインとベルには重油がどんな物質なのか、よく理解できていなかったが、
かつてないほど深刻そうに表情を沈めるアルフレッドたちの様子から劣悪な事態を感じ取り、
また、池が汚染されていた事実に改めて肩を震わせた。

「全部あいつらが来てからだ…ッ! オレたちの故郷が、どんどん腐っていっちまう………ッ!!」

 灰色のスモークを吐き出してグリーニャを覆い隠さんとする工場めがけて、クラップが怒号を吐き散らした。
 決して届くことのない、叫ぶだけ己の非力を噛み締めることになる虚しい怒号―――心からの悲鳴を。

「『スマウグ総業』―――あの連中、とんでもないコトしているよ。キミ、ちょっとその辺りを掘り返してみて」

 あちこちを見渡しながら何事かしばらく考え込んでいたネイサンは、思い当たるフシがあったのか、
池を出てすぐの場所に広がる草原を掘るようにシェインへ声をかける。
 ハーフパンツの腰にスコップがぶら下げられているのが目に止まったのだ。
 ネイサンの真剣な表情に突き動かされたシェインは、言われるがままに指差された場所をスコップで掘り始め、
道具は無いが、クラップも素手でその加勢に入る。

 事情を知らない者が見れば宝物でも掘り返しているかのように見えるが、シェインの表情も、クラップの表情も、
ここへ眠っているだろう物体が脳裏に過ぎった最悪の予想を外していることを願う悲壮感に染まっており、
ベルなどは思わず両手で目を覆ってしまったくらいだった。

「あんた、スマウグ総業を知っているのか? ………いや、愚問か。店長を自称するくらいならば、同業者の情報は把握していて然りか」
「心外だって何度も繰り返しているでしょ。こっちはリサイクル業。向こうはゴミ処理業さ。
………もっと言うなら、ゴミの不法投棄屋だけどねっ!」
「ヤツらが俺たちグリーニャへ提示してきたのもリサイクル業務だった」
「………………………」

 工場の煙突を睨む怒りの視線を外さないままアルフレッドが“スマウグ総業”なる会社について話を進める。
ネイサンがふと呟いたスマウグ総業と言う会社のことを。

「ちょうどヤツらは一年半前の話だ。慈善奉仕と抜かしてスマウグ総業がグリーニャへ踏み込んできたのは」
「それがあの会社のやり口だよ。ボクもウワサでしか聞いたことは無かったけどね」

 アルフレッドたちが住む蒼き惑星(ほし)、エンディニオン。
 なぜそのようなオブジェクトが散乱しているのか、その顛末・あらましを語るのは後の機会に譲るが、
エンディニオンの至る場所には、誰が投棄したとも知れない有機廃棄物が放置されたままとなっている。
 鉄クズやケーブル、強化樹脂と言った機械部品が人里離れた区画へ大量に、だ。
 そうした区画が指で数えられる程度の箇所であるなら、心無い企業がコスト削減のために然るべき処理を通さず
不法投棄しているものと予想もできるのだが、有機廃棄物の放置場所は世界中のありとあらゆる地域に点在し、
個人あるいは企業が手がけられるだけの範囲を大きく逸脱。
 また、棄てられた廃棄物の技術レベルも現在のエンディニオンに普及しているそれを遥かに上回っているため、
先史文明の遺産ではないかとする向きもあり、投棄者の所在については長年物議の対象となっている。

 自然豊かなグリーニャの懐に抱かれている村民には外の世界の出来事はあまり実感が沸かないことなのだが、
放置場所を中心に草木の生命力は衰え、荒野化あるいは砂漠化が急速に進行しているのも難題だった。
環境汚染が酷い地域になると樹木が畸形となり、草花も毒を有してしまうと言う。
 グリーニャの属するロイリャ地方から遠く離れたミキストリ地方では、そうした生態系の変質が顕著…と
アルフレッドも新聞で読んだことがあった。
 遙か遠くにあると言うグドゥー地方では砂漠化が人間の済む場所をも脅かすようなレベルにまで達したとも聞き及んでいる。

 「誰が持ち込んだかわからないゴミの山だが、誰かが処理しなくてはならない。だが、中には人の生活を助ける物もあり、
レストアして使い道を新たにし、リサイクル販売を行なう。そうでない物は過熱処理し、エンディニオンに優しい環境を作る」。
 無限とも言えるゴミの処理はエンディニオンの人類にとって命題だ…が、使命とは裏腹にこれを成すのには
莫大な費用と労力を必要とし、払っても払っても足りない支出の割に得られる実入りは雀の涙である。
 力を入れるほどに支出を増やす処理業務は、まさしく慈善奉仕と言えた。

 その慈善奉仕を率先して行い、エンディニオンから汚染物質を取り除きたい―――そう言ってスマウグ総業は
グリーニャの人々に土地の提供を依頼してきた。
 報酬の見込めない慈善奉仕に自ら取り組もうとする姿勢は尊敬に価するものだし、彼らが提示してきたゴミ処理のプランも
理に叶い、村の土地を汚染する危険性も少ないように思えた。
 膨大な有機廃棄物に悩まされる地方で環境との過酷な戦いを強いられる人たちの助けになれるのなら…と
スマウグ総業の説得に応じてグリーニャが廃棄物処理場建設の提携を結んだのが一年半前である。

 そして、その廃棄物処理施設こそ、アルフレッドが鋭い眼光を突き刺して止まない彼方の工場なのだ。

(………あの時、もっと深く熟考してさえいれば、こんなことには………)

 一年半前、スマウグ総業が甘言を用いて廃棄物処理施設を誘いかけてきた時にもっと彼らの内情や裏の顔について
深く調べておくべきだったと村の誰もが口にする。
 アルフレッドもご多分に漏れず、注意を巡らせずに村の決定を鵜呑みにしたことへの悔恨ばかりが胸を刺した。

「クラップ君に声をかけられた時は正直耳を疑ったよ。環境汚染の実態を調べたいから力を貸して欲しいって」
「餅は餅屋ならぬゴミはゴミ屋、か。………っと、すまない。あんたはリサイクル業務だったな」
「………な〜んか皮肉っぽい響きがあるんだよなぁ、その言い方」
「同じことを人によく言われるが、悪気があるわけじゃないんだ。その辺りは軽く聞き流してくれ」
「んー…まあ、じゃあ、引っ掛かる部分は大人の包容力でカバーして、ひとまず話題を戻すとするけど―――
こういう現象が起き始めたのはいつ頃からだい? 自然が汚染され始めたと思うのは」
「それはわざわざ答える必要がある問いなのか、俺のほうから聞きたいな」
「今の、ちょっとカチンと来たけど、うん、ボクもイイ歳してるしね。包容力でカバー、カバー。
キミの皮肉通りの愚問かな、こりゃ。一年半前、つまりスマウグ総業が処理場作った頃からね、ホイホイ」
「………重ねてすまない。別にあんたを皮肉りたいんじゃないんだ。ただその―――故郷が腐り出した時期を
改めて思い返すのは、なんと言うか―――平常心を失ってしまうかもしれないから………」
「………………………」
「………クラップも言っていたよな? ヤツらがやって来てから村はおかしくなったって。それが答えだよ、全ての」
「―――あいつらの運営する処理場のある村は、このロイリャ地方だけでも三つある。
ボクが知る限りでは、煙突から排出される煙を吸って喘息になったり、農作物が枯れてしまう被害が確認されてるけど………」
「手間賃代わりとは言えないが、誰かにそのことを話す時にもう一つ付け加えておいてくれ。
ヤツらは残しておくと約束した森林を処理場拡大の名目で勝手に伐採するコソ泥だ、と」
「………………………」
「大方、サイドビジネスとして木材店にでも流しているのだろう。………約束違反を訴えてはみたが、
土地の権利は譲渡された時点で総業側にある、と聴く耳すら持たない」
「そう言う連中なんだよ、あいつらは。詐欺師と少しの差もない、最低のゴミ溜めだ」

 てっきりグリーニャでのみ暴虐の限りを尽くしていると思ったスマウグ総業が他所でも悪事を働いていると知り、
アルフレッドの怒りは更に強く煽られたが、頭に残った冷静な部分では、グリーニャで暴虐を尽くす会社が
他所でおとなしくしている訳がない、と変に納得してしまう。
 もちろん結論は、ネイサンが吐き捨てたのと同様に「最低のゴミ溜め」という一点だが。

「アル! おい、アルッ! これ、これ………ッ!!」

 シェインとふたりで草原の一角を深く掘り下げていたクラップが地中で発見した物を取り上げ、
アルフレッドたちに見えるように高く掲げる。
 泥まみれでひどく汚れてはいるものの、それは紛れもない機械部品の一辺だった。
「こう言う廃棄物を集積するのです」と事前説明の席でスマウグ総業が持ち出したサンプルとそっくり同じである。

「………成る程………重油はここから染み出して池まで到達したのか―――」
「もう一度繰り返すけど、それがあの会社のやり口さ。言葉巧みに人を騙して土地を巻き上げて、
そこに廃棄物を不法投棄する。勿論、リサイクルなんて大嘘で、実際にはただ放置しておくだけなんだ。
………ヤ、投棄とか放置なんてもんじゃない。村民にバレさえなければこうやって地中に埋めることだって
平気でやってのけるんだよ、あいつらは」
「―――まさかと思うが、やられた畑の近くにも………」
「やられたのは工場から離れた場所にある畑かな? もしそうだとするなら、この事実がそっくり答えさ」

 シェインとクラップが機械部品を掘り当てた穴へ駆けつけたアルフレッドは、隣で呟かれたネイサンの言葉と
穴の中に見下ろせる土へ埋もれたオブジェクトの持つ意味を交互に噛み締め、湧き上がる憤慨を無意味に暴発させないように噛み殺した。
 クラップが掲げた部品はほんの一辺で、穴の中には自然を侵す毒素の素たる重油塗れの機械片が
夥しい数の残骸を横たえていた。
 常識で考えて―――いや、非常識な人間だって、重油塗れの機械片など埋葬しては大地を腐らすと判断がつくだろう。
 では眼下に起こったこの情況は、一体、何なのか?
 道徳に反するとか、自然破壊とか、色々な言い方はあるだろうが、アルフレッドは「外道」と結論付けた。
結論付け、新たに湧き起こった怒りに身を震わせた。

「―――ざッ………、ざッけんじゃねぇぞ、あのヤロウどもッ!!」

 偶然から知り合いになったリサイクル業者のネイサンをグリーニャまで引っ張ってスマウグ総業の悪事を暴こうとしたクラップの怒りは、
白日のもとに曝された真実が予想通りの、いや、ある意味で予想以上の結果だったことに煽られて、計り知れないくらい強まっている。
 爆発寸前と言った様子で顔を痙攣させ、激情を押さえ込んでいるのが痛ましかった。
 爆発させるなら、然るべき場所で爆発させよう―――そう無理矢理激情を沈めるクラップの代わりに手にしていたスコップを
機械片へ叩きつけたシェインが大音声を張り上げて吼えた。

「待て、シェイ―――」
「待ってられっかッ! 待ってて何がどうなるんだッ!? ここまでやられてまだ待とうだなんて、どうかしてるよ、アル兄ィッ!
………こうなったらイチかバチかだッ! 村がやられる前にスマウグをブッ潰すッ!!」
「おい、シェインッ!」

 卑劣極まりないスマウグ総業のやり口に対する怒りが、知らない内に最低の方法で汚染されていたグリーニャの自然に対する悲しみが、
とうとう限界点を突破したシェインは、慌てて抑えようとするベルやアルフレッドを跳ね除け、
元来た道を全速力で戻り始めた。

 …いや、正確にはただUターンした訳ではない。血走った瞳や、「やられる前に潰す」という絶叫から
彼の行き先は容易に察知できた。
 木立のてっぺんから煙突を覗かせた廃棄物処理場へ、スマウグ総業の懐へシェインは特攻を仕掛けるつもりなのだ。
 無謀としか言いようがない特攻である。シェインが別の目的で駆け出したものとアルフレッドも考えたかった…が、
この期に及んでは特攻以外の可能性は考えられなかった。

「シェインの言う通りだぜ―――」

 “冒険”でもって足腰を鍛えたシェインの脚力は大人顔負けのもので、アルフレッドの制止を擦り抜けたと思ったら、
次の瞬間には影も形も捉えきれないくらい遠くまで走り去っていた。
 自分の脚力をもってしても彼がスマウグ創業へ特攻する前に追いつけるか、冷静に分析して自信の足らないアルフレッドを
更に悩ませる事態がここで発生してしまう。

「―――完璧な証拠が挙がってんだッ! もう我慢ならねぇッ! 我慢してる時でもねぇッ!!」
「クラップ、落ち着け! 落ち着いて考えろ! グリーニャの、こんな農村の半端な戦力であいつらに勝てるわけがない!
向こうは一流の訓練を受けたガードマンを雇っているんだぞ? 戦い馴れした人間がこっちに何人いると思っているんだ!?」
「戦力がどうのとか、そんなんじゃねぇんだよ、これはッ!! 村の未来のためにも、やらなきゃならねぇんだッ!!」
「クラップッ!」
「………合戦だ―――村の連中集めて合戦だぁッ!!」
「クラップッ!!」

 暴発しないように、短慮に走らないようにと必死に堪えてきたクラップの堪忍袋の緒もとうとう引き千切れてしまい、
シェインに負けず劣らず激しい怒号を発するに至ったのだ。
 単身特攻を仕掛けようというシェインの無謀も厄介ではあるものの、クラップがスマウグ総業への攻撃の意志を
固めたことはそれ以上に厄介で、どうあっても制止しなくてはならなかった。
 スマウグ総業の悪事を暴く為に積極的に働くクラップは、廃棄物処理場に反対する一派のリーダー格でもある。
ネイサンを召喚したのもその一環と言うわけだ。
 厄介なのは、グリーニャの若い世代をまとめあげ、全面戦争の機会を窺うほどの過激派だと言う点だ。
 彼が「合戦」と叫べば、スマウグ総業へ腸煮え繰り返る村民はこぞって呼応し、一致団結して攻撃を仕掛けるのは
火を見るより明らかだった。

 村を愛する想いは十分に理解も同情も出来るものなのだが、暴力に訴えての解決は最悪のシナリオであって、
何があっても選ぶべき手段ではない。
 対話による解決を模索すると言った平和主義的な考えでなく、戦闘の訓練を受けていない村民が
スマウグ総業を警備するガードマンを相手に戦いを挑むなど、それこそ素人の生喧嘩。
 どちらも無事では済まず、下手を打てば村民側から死傷者が出る可能性も大いに考えられた。

 だからこそアルフレッドも焦って自重を促すのだが、逆上したクラップを押し止めることは最早不可能に思われた。
 廃棄物処理施設を目指すシェインと同じように居住区画へ全力疾走していくクラップの背中を途方に暮れた様子で見送ったアルフレッドは、
狂乱めいたふたつの怒声に怯えるベルの肩を抱いたまま、大きな大きな溜め息を吐き捨てた。
 友人二人を止められず、また、戦うほかに解決策が見出せない苦渋と悔恨に満ちた溜め息だ。
 小刻みに震えるベルを安心させてやろうと言う気遣いは、余裕を焦りで押し流されたアルフレッドには出来ないことだった。

「………かくして扉は開かれた―――ってね」

 ふたつの激情の板ばさみに遭い、天を仰いで肩を落としたアルフレッドの耳には、
不可思議なネイサンの呟きなど届くべくもなかった。



 ………………その呟きが持つ意味を、今は、知る由などなかった。




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