6.ひとつの結末、ひとつの予兆



 スマウグ総業側の詐称が露見したことに端を発するグリーニャの夜戦は終結した。
 従業員総出で取り掛かっても鎮火に至らなかった大火は森林火災や山火事へ発展する前に
グラウエンヘルツのシュレディンガーで消去され、グリーニャ側が損失を被ることは無かった。
 乱戦の最中に傷を負った人間はいるものの、当初懸念の示された死者は一人として出ていない。
 対するスマウグ総業はどうか。夜が明ける頃には社長を始めとする従業員――もちろんスズキくんもだ――もガードマンも、
ホウホウの体で村を逃げ出し、処理施設…いや、廃棄物の墓場は、人っ子一人いないもぬけの空と化した。
 尤も、閑古鳥が鳴こうが鳴くまいが、プレハブから工場から何から何まで全焼しているのだから、
施設にしがみ付いていても処理業務を再開させることなど望むべくもない。

 合戦はグリーニャ側の勝利をもって幕を閉じた。

 ………にも関らず、つい一、二時間前まで盛大に勝ち鬨を上げていた村民らも公民館へ戻ってからは
重々しい静寂と憂色に染まっていた。
 クラップの勝利宣言にあれだけ沸き立ったのだ。公民館へ戻るなり祝勝会に雪崩れ込んでもおかしくなかった。
 だが、処理施設から引き上げてきた人々の顔には、勝利の歓喜は浮かんではいない。
 戦いを終えた彼らを公民館で他の村民らの顔には、悲痛の色が滲んでいた。
 悲痛はそのまま沈痛に繋がり、公民館に垂れ込める空気を誰も口を開けずに俯く重圧へと至らしめている。

「………………………」

 確かにグリーニャ側には死者は出なかった。“グリーニャ側には”、だ。
 しかし、スマウグ総業には射殺という結果で落命した従業員が出てしまった。企業と村のトラブルの果てに死者が出てしまった。
 怒りに燃えて襲撃を企図したクラップや反対派も、口では汚く殺意に直結するような罵声を吐いてはいたが、
悪辣な業務に裁きの鉄槌を振り落とし、懲らしめるか、村から追い出す程度に留める気でいた。
 本気で命を奪うつもりは誰の心にも、それこそ毛ほどもなかった―――なのに、あってはならない過ちが起きてしまった。

「リトルなボーイをキルるつもりでアタックしてきたんだし、返りアウトされたってクレームはつかないっしょ。
なにしろお陀仏クンのやろ〜としたコトはド腐れもいいトコなんだよ? もっと気楽にシンキングしたら〜?」

 つまらなそうにその光景を眺めていたホゥリーのこの言葉は、確かに発言そのものは空気を読めていない不躾なものだが、
誰もが共通して同じころを胸に抱いていた。

 銃殺された従業員は年端も行かないシェインを本気で手にかけようとしていた。
 いくら乱戦の最中とはいえ、相手が許されざる敵とはいえ、小さな子供を殺めるなど考えることすらあってはならず、
それを成そうとした以上は非道の報いを受け、返り討ちに遭っても仕方が無い。
 道を外した愚か者の手にかかり、子供が犠牲になるのを天が看過するわけも無い。

 「お前のお陰でシェインは生き延びた」―――誰もがそう言葉をかけようとしたが、正義の報いを与えた当人であるフィーナの様子は
見ていられないくらい痛ましく、免罪符を受け取ることで疲弊した心が晴れるとは思えない。
 罪の意識から救われることは無いだろう。

 血の気の引いた青白い顔には生気が感じられず、瞬きすらなく開かれた双眸は亡霊に憑依されたかのように暗い。
 本当なら今すぐにでも投げ捨てたいであろうSA2アンヘルチャントを両手で包み込んだまま………罪の意識と重みを感じ、
苛まれたまま全身を小刻みに震わせる姿は、痛ましさを通り越し、フィーナ自身のみならずそれを見守る者にも
悪夢の只中へ取り残された錯覚を覚えさせた。

「うまく言えないけど…フィー姉ェが助けてくれなきゃ、ボクはあのとき、間違いなく殺されてたんだ。
フィー姉ェが、その………頑張ってくれたから、ボクはこうやって生きてられる」
「コカ! コカカカ!」
「………………………」
「ありがとう―――って、言っちゃダメ…かな?」
「………だからって、人を殺めていい理由にはならないよ………」
「………………………」
「コカー………………………」

 永久に抜け出せない悪夢のようだった。
 慰めの言葉も、勇気を振り絞ってくれたことへの感謝も、果てしない闇に吸い込まれて無惨に砕け散っていく。
 どんな言葉も絶望に沈んだフィーナを陽の差す場所へと引き上げる救いの手にはならなかった。

「………………………」

 地上に生きる全ての生命の平和を願いながら、地上に生きる全ての生命を脅かす武器を手に入れてしまい、
それでも前を向いて歩こうと決意したのに、勇気の一歩を踏み出した結果に待ち構えていた答えは、
彼女が何よりも忌み嫌い、哀しく思うものだった。
 ………その悲壮を、自らの手で成してしまったのだ。

 絶望を希望に換えて進もうとしたその果てに逃れられない暗黒が訪れ、出口の見えない悪夢に囚われたフィーナの心を、
再び味わった絶望の深さを推し測れる者は誰一人としていなかった。

(………いっそ―――)

 絶望の根源たるSA2アンヘルチャントを見つめ、“ある結論”に達しかけたフィーナの指先を温かいものが包み込む。

「それだけは考えちゃいけませんよ、フィーナ」

 不意に与えられた温もりは指先を伝い、傷付いたまま凍結していたフィーナの心を溶かしていく。
 フィーナと同じブロンドの髪を三つ編みにしたその女性は―――彼女の震える指を握り締めて“ある結論”を戒めた女性は
フィーナとアルフレッドの母親、ルノアリーナ・ライアンである。

 スマウグ総業との一件には、夫のカッツェと二人で反対派の過激な行動を心配するしながらも見守る側に回ってきたのだが、
我が子が最後の決戦へ挑むと聴きつけてからはこの公民館に穏健派と集まり、無事を祈って帰還を待ちわびていた。
 そして、勝利者たちを出迎えて以降は、心の痛みに震える娘の傍をカッツェやムルグと共に片時も離れずにいる。

 絡め取られた指に視線を巡らせることも、戒めの言葉に首を振ることすらできないくらい憔悴しきった娘の横顔を
たんぽぽ色の瞳で優しく、けれど決然と見つめながら、ルノアリーナは言葉を紡いだ。

「今夜、あなたがしてしまったことは決して許されるものではありません。シェインくんを助ける為だからといって、
人の命を奪ってしまった罪は決して消えません」
「………だから、私は………私を………それで償いを………」
「それで本当に罪を償えると思いますか? 奪った命の分まで生きようとせず、途中で諦めることが償いになると?」
「………そんなの………言い訳だよ………」
「言い訳ではありません。あなたの罪を許す特赦でもありません。生きることが償いなのですよ、フィーナ。
奪った命の償いに自分の命を捧げる真似だけは絶対に間違っています、これだけはお母さん、断言できます」
「………………………」
「奪ってしまった方の分まで多くのことを見聞きし、精一杯生きて、生きて、生きて………人生を全うすることを
あなたは償いにしなさい」
「………………………」
「いいですか、フィーナ。それがあなたにできる償いなのです。命の重み、命が奪われる………いえ、命を奪う痛みを
世界中の誰よりも一番よく知るあなたにしかできないことです。自分よりも他人(ひと)の幸せを願っていたあなたにしか」

 穏やかな口調ではあるものの、フィーナの犯した罪を肯定するのではなく、拭い難い現実を受け入れた上で
生きるべきだと言い諭すルノアリーナの言葉には、何とも形容のし難い強さが宿っていた。
 優しさに道ながらも厳しく、迷い道で膝を抱えた我が子へ見るべき進路を示唆する、親としての言葉だ。

「………わかんない………わかんないよ………………………」

 ルノアリーナの示唆は理と情を備えた、この場において最も相応しい言葉だったに違いない。
 けれど極限まで追い詰められ、精神の袋小路で息詰まった現在(いま)のフィーナには、母が言わんとしていることの意味と重みを咀嚼し、
受け止めるだけの余裕が無かった。

 奪った命の分まで生きろと言われても、それは結局のところ、人を殺めた現実から逃れるための口実に過ぎないのではないか。
 罪から眼を反らして罰を免れるための言い訳ではないか―――罪の呵責と罰の意識に苛まれるフィーナの耳には
母の示唆すらどうしても欺瞞のように響いてしまうのだ。
 現実を偽り、事実から逃げ出す欺瞞の言葉なのだと心が歪曲してしまうのだ。

「………しばらくグリーニャを離れるのはどうだ、フィーナ」

 ルノアリーナの言葉を受け止めきれなくなって両手で蒼白な顔を覆い、上体をくの字に折って嗚咽し始めたフィーナへ、
彼女の前に立ち尽くして物思いに耽っていたカッツェが思いがけないことを口にした。
 グリーニャを、産まれ故郷の村を離れてみろ、とカッツェは娘に促した。

 フィーナの葛藤に何ら興味が無いホゥリーを除く全ての村民がギョッと眼を見開き、カッツェの真意を探る。
 村を離れろとの示唆は、聴きようによっては殺人を犯した娘を厄介払いするようにも受け取れるからだ。
 現にフィーナ本人も大多数の村民らと同じことを感じ取り、「私を捨てるの?」と今にも壊れそうな痛ましい瞳をカッツェに向ける。
 自分は親にも見離される愚か者なのかと絶望し、心が千切れてしまうかのような痛ましい瞳を。

 とても見て入られない悲しい瞳へ自分のそれを正面から合わせたカッツェは、「そうじゃない」と首を振り、
娘や村民らが抱いた最悪の結末をキッパリと否定した。

「母さんの言葉に償いを見つけられないなら、お前にしかできない償いを見つけるんだ」
「………お父さん………」
「お前にとって今のグリーニャはあまりに辛過ぎる。ならば一度ここを離れて、外の世界を回ってみてはどうかな。
外の世界に償いの答えを求めても構わないし、心を落ち着けて戻ってくるのも良いだろう」
「………………………」
「俺も母さんに賛成なんだ、フィー。生きることだけは何があっても諦めるな。それだけは絶対に許さん。
………すぐには答えを見つけられないと言うなら、生きることを見つめるんだ。自分はこれからどうやって生きるのかを」
「………生きる―――でも、私は………」
「焦るな。焦らなくてもいい。そこで躓いているなら、そこから歩き始めればいいんだ。外の世界にはきっとそれがある。
生きる意味を見出したとき、ここに一度封じ込めた死や罪と向き合いなさい」
「………………………」

 娘の肩に手をかけ、涙に濡れた瞳を真っ直ぐに見詰めながら、カッツェはルノアリーナと同じように生きることを示唆した。
 罪と向き合うために、まず生きることを考えなさい、と。
 妻のかけた示唆とは少し違うが、それもまた親としての言葉であり、望むものはやはり生きることである。

「コカ! コッカカカ! カカカーっ!」

 フィーナの膝の上に座り、心配そうに彼女を見上げていたムルグもカッツェとルノアリーナの言葉に相槌を打つ。
 人間の言葉に訳せるのはフィーナだけなので、何を言っているのかはわからないが、二人の言葉に賛成しているのは
ムルグの鳴き声の意味を通訳できない皆にも理解できた。
 遅い時間なので自宅に留め置き、寝かしつけてあるベルがこの場にいたなら、きっとムルグと同様にフィーナが
生きることを渇望しただろう。
 むしろ、生きることを諦めそうになった姉を必死で励まし、叱り付けたかも知れない。

「………お前はグリーニャの厄介者なんだよ」

 凍て付いたまま壊れそうだったフィーナの心が少しずつ溶け出した頃、これまでの家族の努力を水泡に帰すかのような
冷徹な言葉が突き立てられた。

 思わずクラップはホゥリーを振り向いてしまったが、空気を読まないことにかけては一流の彼の仕業ではなかった。
 と言うより彼はこの非常事態にも関らず、感知しない立場を貫いて既に公民館の一室を陣取って眠りこけている。
 もしも、ホゥリーがこの不躾な声を上げた犯人であったなら、殴り付けるなり蹴り上げるなりの解決法があり、
逆に考えると彼の仕業のほうが事態(こと)は速やかに片付いただろう。

「ア、アル………?」

 最もかけてはならない言葉をフィーナへ突き刺したのは、この場において最も彼女を気遣うべきアルフレッドだったのだ。
 戦闘が終結したにも関らず、未だにグラウエンヘルツの変身を解いていないが、立ち直りかけのフィーナを無惨に突き放したのは
紛れもない彼の声だった。

「死体はシュレディンガーで抹消しているから証拠は残っていない。逃げ出した連中が何を言ってきても、
物的証拠が残っていない以上はこちらとしてもやり易いな」
「お、おい、アル!?」
「………証拠隠滅の必要性も疑わしいがな、法律が軽んじられるこの世界では。ヤツらも法が有する権限の軽さを
逆手にとって悪行を続けてきたんだ。今度はそれを俺たちが利用するというわけだ」
「お前、自分が何言ってるか、わかってんのか………」
「理解していなくて、どうして弁証を説ける? 俺は今ある状況から導き出した事実を述べているまでだ」
「事実って、おい、アルっ!!」
「何考えてんだよ、アル兄ィ………どうしちゃったのさ………」
「お前たちこそ何を考えている? 事実から目を背けるな。………いいか? フィーナの殺人が罪に問われる可能性は
法律の権限が薄いエンディニオンにおいては限りなくゼロに近い。だが、それはあくまで司法上では、だ。
俺たちが撃退したのは何者だ? スマウグだ。弱い土地に寄生して金を巻き上げるチンピラと何ら変わらない悪党だ。
そんな連中がこのまま黙っていると思うか?」
「アル! いいから、お前、ちょっとそれやめろ!!」
「このままヤツらが尻尾を巻いて逃げ出すとは思えない。となると想定されるのは報復だ。今度こそグリーニャを潰すつもりで
頭数を揃えてくるだろう。………勝てるかどうかはわからないし、仲間を殺されたヤツらの士気は想像を絶する」
「アルッ!!」

 グラウエンヘルツの厳めしい装いはどこか無慈悲な裁判官を彷彿とさせ、次々と並べ立てられる数々の羅列は
被告人さながらに頭を垂れたフィーナへ下される刑の宣告のようにも見える。
 口元を覆うコートの襟越しに、漆黒のマスク越しに紡がれる全ての言葉は、フィーナを追い詰めるためだけに発せられていた。

 ………彼女の苦しみを案じ、慰めの言葉をもたらさなければならないはずの口が、誰よりも痛烈に、的確に彼女を追い詰めていた。

「………もう一度、繰り返さなくてもわかるだろう? お前は厄介者なんだよ、グリーニャにとって。
仲間を殺された連中の怒りは、お前がこのグリーニャにいるという事実だけでなお一層煽られる。
―――お前はグリーニャいてはいけない存在なんだよ」

 あまりにも、あまりにも非情な宣告だった。恋人として、また家族として、絶対に言ってはならない言葉だった。
 彼女の決意が人々に戦う勇気を与え、故郷を救う潮流を作ったと言うのに、アルフレッドはグリーニャにフィーナの居場所は
どこにも無いと突き放した。

「アル………てめぇッ!!」
「コッッッカァァァァァァーーーーーーッ!!!!」

 傍らで聴いていたクラップや震える膝の上でフィーナの苦しみを感じ取ったムルグが、
グラウエンヘルツの無慈悲な言葉を我慢していられるわけもなく、彼の胸倉へ掴みかかりながら前言を撤回して謝るように迫る。
 クラップたちの激怒を合図に他の村民たちもグラウエンヘルツへ圧し掛かり、激しく非難し、糾弾した。
 お前の考えは絶対におかしい。村のために戦った人間が、どうして村にいてはいけないのか、と。

 村のために戦って傷付いたフィーナから再起の希望をも摘み取ろうとするグラウエンヘルツの言葉を
誰しもが許せなかった。

「―――やめてっ! もう、やめてっ!!」

 重苦しい沈黙から一変して阿鼻叫喚の様へ変わろうとしていた公民館にフィーナの悲鳴が響き渡り、再びその場へ
痛ましい静けさが垂れ込めた。
 今すぐにでも泣き崩れてしまいそうな悲壮を宿した叫び声は、村民のみならずグラウエンヘルツの動きをも凍て付かせた。

 凍て付いたまま沈黙は数分の間、続いた。
 秒にして百も数えない程度の時間ではあったが、公民館に集った人々には永遠にも感じられるような、長く重い沈黙だった。

「お母さんの言葉も………お父さんの言葉も………ムルグの心配もわかったから………アルの気持ちもわかってるから―――」

 その沈黙を破ったのもフィーナ本人だった。
 真剣な面持ちでグラウエンヘルツとフィーナを…我が子を見守るルノアリーナとカッツェの前で、
怒りと心配をない交ぜにして立ち尽くす仲間たちの前で、フィーナはか細く、弱々しく、消え入りそうな声を絞り出した。

「―――私………グリーニャを出る」







 ………公民館を出たグラウエンヘルツが睨んだのは、東の山間へ大きく傾いた月光である。
 グリーニャにとって最も熱く、最も長い夜がもうじき終わろうとしていた。

(………皮肉と言えば皮肉なものか………)

 月が落ち、朝が訪れれば、エンディニオンは新しい一日を迎えられる。
 昨日より素晴らしい世界になるはずの、希望に満ちた一日が始まるのだ。ほんの数時間もすればそのときはやって来る。
 それなのにグリーニャはこんなにも暗い。昇るはずの朝日は見えず、月光すら陰り、
進むべき道筋さえ明らかにならない暗闇に包まれている。
 スマウグ総業が逆襲にやって来る来ないに関らず、この先ずっとグリーニャは今度の一件で起きてしまった悲劇を
背負い続けるだろう。

 フィーナの胸にも、人を殺めた痕は癒されないまま残り続ける。
 多分に事故の要素をはらんでいるとはいえ、人を殺めた罪の意識は背負わなければならない罰であり、
弁護士を目指した身としてはそれこそ償いの一つであると考えられた。

 そこに闇は生まれる。希望の陽光を閉ざす暗闇はこの原罪から染み出し、永遠にグリーニャとフィーナを縛り続ける。
 贖罪を行なったからと言って、その闇が晴れるとは思えなかった。また、晴れてはならないとも考えた。
 罪を犯した人間は、その罪と一生涯向き合わなくてはならないのだ、と。

(例え一生涯向き合うことになっても、それでも………)

 ………だからこそ、せめてフィーナには罪と向き合い、償いに生きる路を選んで欲しかった。
 今はまだ哀しみから立ち直れなくても、外の世界にある様々な出来事に触れ、心が癒されて本来の強さを取り戻せば、
きっとフィーナは生きることに償いを見出せる。
 そのためにはグリーニャで膝を抱えていては駄目だ。再起の路は断たれてしまうに違いない。

 多分に荒療治だし、クラップたちが激昂したような誤解を招くかも知れないが、再起できるだけの強さと勇気が
フィーナにはあると信じたからこそ、グラウエンヘルツはあえて冷たく突き放して見せたのだ。
 家族の想いを無碍にするな。踏ん切りをつけて、新たな一歩を踏み出せ、と。

「難儀だなぁ、彼氏ぃ?」

 月を睨んで物思いに耽っていたグラウエンヘルツの背へ不意に茶化すような声がかけられた。
 振り返った視線の先では公民館の脇に設けられた掲示板へフツノミタマが凭れ掛っていた。

「………まだいたのか」
「そんな仕掛けまでしてよぉ。おっかねぇカッコであんなコト言われたんじゃあ、従わないわけにはいかねぇわな」
「………言っただろう、俺のトラウムは自分の思い通りにはならない、と。それは変身の発動も解除も、だ」
「そりゃまた難儀だな」
「それともう一つ、付け加えておく。フィーは俺に従ったんじゃない。あいつはあいつの意志で立ち上がったんだ」
「仕向けたのはてめぇだろ。背中を押したのはよ」
「………………………」
「オレの知ったこっちゃねぇが、策士も大概にしとかねぇといつか痛い目見るぜ」

 薄く吊りあがった口元からも、あえてフィーナへ辛辣な言葉をかけたグラウエンヘルツの真意を読み、
それをからかっている様子が見て取れる。

 厭味極まりないその笑みを無視していたグラウエンヘルツのマスクに淡い光が灯り、
絵の具が水に触れて溶け出したかのように霞み始めた。
 やがてその燐光はマスクだけでなくロングコートにまで及び、次の瞬間にはグラウエンヘルツを成していた全ての要因が
アルフレッドの身体から消え落ちてしまった―――彼のトラウムである変身が解けた証拠だ。

「今のも偶発的なのかよ」
「何度も言わせるな。“猫”が振り返るのも、過ぎ去っていくのも運次第だ、と」
「なるほど、な」

 グラウエンヘルツからアルフレッドに戻ったのを見届けたフツノミタマは、鼻を鳴らすなり凭れていた掲示板から上体を起こした。

「てめぇもそんな調子だ。ケリを付けるのは預けておいてやる。………次に会うときゃ首と胴が離れると思いな」
「………待て―――」

 グラウエンヘルツの変身が解けたことで完全に興が削がれたらしく、次回こそ決着をつけると逆襲の誓いを立てたフツノミタマは、
言いたいことを一方的に並べ終えると踵を返してその場から立ち去ろうとした。
 自分がどれほどグリーニャに害を齎したかを省みることもなく、何ら悪びれていないフツノミタマの態度が
アルフレッドにはどうしても許せず、今まさに宵闇の中へ消えようとしていたその背中に向かって憤怒を迸らせた。

「―――お前は性根が腐りきった相手であろうと金さえ積まれれば力を貸すのか? 
法を破って至福を肥やすような人間に与することを恥ずかしいとは思わないのか!?」

 堪り兼ねて爆発した激情は、村民たちが等しく抱いていた憤慨に他ならない。
 グリーニャの総意とも言うべきアルフレッドの難詰を黙って背に受けていたフツノミタマは、
気色ばんだ彼の面を肩越しに見やり、「オレにだって仁義ってもんがあらァ」と野太い声で返した。

「てめぇがオレをどんな目で見てるかは知らねぇがよ、仁義を外した下衆には、いくら詰まれたって手なんざ貸さねぇぜ。
そんなナメた真似をしやがるヤツぁ、裏の世界の掟に従って死んで貰うだけだぜ」
「よく言うな。それなら、あの池のことはどう申し開きする? お前たちが不法投棄したゴミに汚染されたあの池―――
俺たちの想い出の場所を………!」
「あァん!? なんつった、今!?」
「不法投棄と言ったんだ。それ以外に言い方があるものか。慈善活動? エンディニオンの大地を救う? 笑わせるなよ。
確かに廃棄物処理場を受け入れた俺たちにも非はある。だが、慈善活動と詐称したのはお前たちのほうだ。
………お前たちは俺たちの善意も何もかも裏切―――」
「―――ンなこたぁ、どうだっていいんだよッ! 不法投棄ってのはどう言うコトだ? ノーマンはてめぇらが―――」

 何度となく反復される廃棄物の不法投棄へ訝るような表情を浮かべていたフツノミタマだったが、
アルフレッドの言葉に閃くものがあったらしく、刹那の当惑の後、それまでと表情を一変させた。

「―――そう言うことか。………そう言うことかよ、あのクソ社長………」

 見れば、フツノミタマの満面は烈火の如き怒りで、赤熱の色に染まっていた。
 双眸は血走り、 両の頬は身の裡より沸き起こる絶対的な殺意に煽られて絶え間なく震えている。並大抵の怒り方ではない。
眉間にクッキリと浮かび上がった青筋が、はち切れんばかりの怒りを如実に表しているように思えた。
 修羅の形相を作りながらアルフレッドを一瞥したフツノミタマは、「………必ずケリをつける」とだけ言い残し、
今度こそ夜の帳の中へと姿を溶け込ませていった。

 「必ずケリをつける」。彼の残したその言葉が何を示すのかは、アルフレッドにはわからない。
 思わぬ邪魔が入った為に中断を余儀なくされてしまったアルフレッドとの戦いに決着をつけると言うことのか、
それとも、“裏の世界の掟”とやらを意味しているのか。
 フツノミタマが夜陰へ消えた今となっては、その真意を探ることは出来よう筈もなかった。

 スマウグ総業との合戦も、フツノミタマとの死闘も―――夜の闇に飲み込まれ、全てが終わったのだ。

(いや、全てはここから始まるんだ。ここからが本当の―――)

 ………“全てが終わった”などと言う甘えた考えを浮かべる自分自身に対して侮蔑混じりの嘲笑を見舞ったアルフレッドは、
夜の闇が飲み込んでいった未来へと想いを馳せ、そこに感じる凶兆へ面を曇らせたまま沈黙のうちに天を仰いだ。

「―――陽はまた昇る。必ず昇る」

 長い長い夜が明けることを心から祈るけれど、長い長い闇の晴れる日が訪れる瞬間(とき)はまだ遠い。
 これから迎える揺らぎの予兆を感じながら、アルフレッドは願いを込めて月光へ呟いた。



 時にして、イシュタル暦1480年。
 のちにエンディニオン全土で巻き起こる大動乱へとその身を投じていく運命の申し子たちは、
やがて激動に至る予兆を感じつつも、今はまだ無垢でいられる時間の中で―――――――――




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