5.灰色の猫



 廃棄物の異臭に包まれているとは言え、処理施設はガラハッドにとって我が城に等しいものだった。
百人近い従業員を切り盛りし、日夜汗水を垂らすスマウグ総業は人生そのものだった。
 当初吹聴した業務内容との違いに不服を訴える地元民との諍いは絶えないが、所詮この世は弱肉強食である。
 法による統率の効力が薄く、利害の関係が極めて強い意味を成す過酷なエンディニオンで
生き残っていくには、他人に蛇蠍の如く忌まれようとも敵を制して勝利を収めなくてはならず、騙しも裏切りも常識の範疇。
誰もが行なっていることだ。
 泣きを見る弱者に対し、甘い言葉に騙されるほうが悪いと吐き捨てる人間までいる。法が何の力も持たないエンディニオンで
生きていくと言うことは、それほどまでに過酷なのだ。

 勿論、ガラハッドも人間なので、純朴な人々を騙すのに良心の呵責を覚えなくもない。だが、醜い詐欺行為も全ては生き残る為。
自分と従業員の生活を守る為に必要な手段だ―――そう心を鬼にしてここまでやって来て、ようやく築き上げた牙城が、
今、目の前で焼け落ちようとしている。
 ほんの数時間前まで磐石と思えた牙城が、ガラハッドの目の前で崩落しようとしていた。

 プレハブ小屋に毛の生えた程度の事務所へ回った炎は留まるところを知らず、安普請が祟って焼け焦げるスピードも早い。
外装などは早々に焼け落ち、早々に鉄筋と言えるほど丈夫な物ではない骨組みを晒した。
 残った社員らの消火作業によって辛うじて工場への延焼は食い止められているものの、恐るべき火勢を見る限り、
そう遠くない内に引火するだろう。
 アルフレッドたちの想い出の池を腐らすほど大量の重油を含んだ廃棄物が何トンも敷き詰められた工場だ。
引火したら最後、手持ちの消火剤などでは手に追えない大火災に発展する。
 当たり前のことだが、放火の張本人であるグリーニャの人間が消火活動を助けてくれるとはまず考えられない。
火の手が工場へ回ったその時にガラハッドの全てが終わるのだ。

「消火器足りないぞッ!! こっち回せッ!! バケツでもホースでも何でもいいんだよッ!! 水だ、水、水、水ッ!!
なんでもいいから火ぃ消せるもんは全部ぶつけろッ!! ボサッとしてんなッ!! 消火器無いなら砂でも泥でも放り込めッ!!」

 やっとの思いで築いた牙城を守ろうと泥まみれになって消火活動に努めるガラハッドの面は何とも言えない悲哀に満ちており、
フツノミタマに抱えられたままそれを目にしたシェインにまで憐れみを抱かせた。

「なんか………ちょっと可哀相になってきちゃったな………」
「人間なんざ追い詰められたらあんなもんだぜ。守らなきゃならねぇもんが多いヤツほど必死にならぁ」
「守りたいヤツが大勢いるなら、余計にアコギな仕事をしなきゃいいだろ。悪はいつか滅びるのが世の常だし」
「漫画か? ゲームか? 何に影響されてっか知らねぇが、てめぇら、ガキの考えはラクでいいな」

 私怨を忘れてガラハッドの必死さに憐憫を覚えたシェインの呟きをフツノミタマはせせら笑った。

「な、なんだよ、それッ!? ボクの言ってるコトが間違ってるってのかよッ!! 悪さしたヤツの最期は大体バッドエンドだろッ!?」
「守りたいヤツが大勢いるから、アコギで薄汚れた仕事にまで手ぇ染めなきゃならねぇ。そうでもしなくちゃ生き延びられねぇ。
ガキのてめぇにゃわかんねぇだろうがよ、人種の世の中にゃな、そういうのがごまんといるってんだ」
「そんなわけあるもんかッ! そんな世の中めちゃくちゃじゃんよッ!! ガキだと思ってデタラメ言うなよ、クソオヤジッ!!」
「けっけっけッ!! だから、てめぇはガキなんだよ、クソガキ! めちゃくちゃなわけがねぇってか?
そう思うなら、一歩でもこのヘンピな村から出てみろや。これでもかっつーくらいクソッタレた世界がお出迎えしてくれらぁ」
「偏屈オヤジのひんまがった目にはそう見えるだけじゃないのか? 心の底からねじくれてそうだもんな、あんた。
おかしいだろ、世界中、悪党しかいないなんて理屈。どこにも正義がナシってんなら、どうやって世界は回ってんのさ!?」
「正義とか悪とか、そういうんじゃねぇんだよ―――クソッタレたエンディニオンで生き延びるってコトはよ」

 悪の栄える道は無いと言い切るシェインの首根っこを掴んで自分の眼前まで引き寄せたフツノミタマは、
最初こそ彼の真っ直ぐな心根を挑発するかのような口調でからかっていたが、シェインの信じる善悪が通用しない
エンディニオンの過酷な現状を説く頃には嘲笑を打ち消していた。
 ただでさえ鋭い眦を更に吊り上げて凄味を利かせているものの、先ほどまで見せていた血の気の多い怒りとも違い、
表情は真剣そのもので、どこか幼い子供を言い諭す厳しい父親のようにも見える。

「バッカみたい。そーやって現実の厳しさを突きつけてりゃ大人に見えると思ってんのかい、このクソオヤジ。
ボクに言わせりゃ、大人ぶってるダメ人間にしか見えないね。つーか、見ててイタい」
「なッ、てめッ!! オレのどこがイタいってんだッ!? あぁッ!?」
「全部だよっ!! いっぱしの大人ってんなら、厳しさの前に世界の良いトコを挙げてみろよ。………出来ないんだろ?
子供に夢いっぱいな未来も教えないで、な〜にが大人だよ。ホントにバッカみたい」
「世の中夢いっぱいと思い込んでるのがガキの証拠だってオレは言ってんだよッ!!」
「よくある漫画とかゲームに影響されて、世の中、スレた目でしか見えなくなってんのは、あんたのほうじゃないの?
あれだろ、ヤバい組織とか借金の取り立てに追われる系の漫画ばっか読んでんだろ。
それで『世の中汚い人間ばっか! イヤイヤイヤ〜』って病気になっちゃってるってワケね、ハイハイ」
「いー加減にしやがれ、コノヤロッ!! ベラベラベラベラ好き放題言いやがって―――キレたッ!! もーキレたぜッ!!
表出ろや、コラァッ!! やっぱてめぇは一度シメてやらぁッ!!」
「ここはもう表だろうが、バーカッ!!」

 いきなり口調を変えたフツノミタマにシェインは戸惑いを隠せないが、彼から講釈を受けることへの反発がそれを上回り、
態度の豹変の真意を探ることを忘れて文句を吐き散らしてしまう。
 悪態を吐かれればフツノミタマも負けてはおらず、一秒前の真剣な表情はどこへやら。悲壮な面持ちで消火活動を続ける
スマウグ総業の社員やガラハッドを尻目に、火災現場におよそ似つかわしくない口汚いバトルが再び勃発した。

「シェイン君っ!」
「シェインッ!!」

 ―――尻に火がついた状況を全く省みずに年下の子供と口論するフツノミタマにはさしものガラハッドも頭に来たらしく、
本来の役目を思い出すよう一喝するつもりで身を乗り出した…が、そこに二つの黄色い声が割り込んだことで事態は一変。
 ギクリとしたガラハッドは、声のした方角へ「最悪のシナリオでありませんように」と願いながら少しずつ首を回し、
そこに待ち構えていた予想通りの悪夢に目の前が真っ暗になった。

 最悪の事態はいつだって最高に望ましくないタイミングで訪れる。誰の言葉だったか忘れたが、なんと的を射ていて、
この上なく憎らしい言葉だろうか。
 消火活動に全力を尽くさなければならない時だと言うのに武装したグリーニャの村民たちが処理施設へと大挙して来たのだ。
そう、シェインの身を案じた叫びはフィーナとクラップの物である。

「ば、バカなッ!! なぜお前たちがここにッ!? ガードマンは………、うちの社員はどうしたんだッ!?」
「貴様の仕向けた者が見当たらず、俺たちがここにいると言う事実が答えだ」

 あれだけの手勢が投入されたのだからグリーニャの反対派など撃滅されいてて然りとガラハッドも考えていたのだが、
眼前に突きつけられた結果は、希望的観測を粉々に踏み躙るものだった。
 武装したグリーニャ村民の中央に立ってガードマンたちの全滅を暗喩したアルフレッドの言葉を、
最初はガラハッドも信じられずにいた。
 というかが理解できない。戦いのプロがあれだけ揃っていて、また腕っ節の立つ社員があれだけいて、
どうしてズブの素人に負ける方程式が成り立つと言うのだ。手練の護衛を雇ったとは聞いたが、
たった一人で数十人を相手に勝てるわけもない。
 ガラハッドにとって、アルフレッドの言葉はあらゆる面であり得ないものだった。その筈だったのだ。

 だが、アルフレッドの左脇に立つクラップの姿を捉えた時、半疑は絶望の確信へと換わった。
 スマウグ総業の制服に身を包みながらもグリーニャの部隊と一緒に処理施設へ雪崩れ込んできたその顔に
ガラハッドは見覚えがあった。
 見覚えどころではない。ついさっき自分に援軍を献策した男だ。彼に言われるがままに先鋒のガードマンを援護するべく
社員を差し向けたのだ。

「さしずめ陽動作戦ってトコだな。社長サンよ、あんたぁまんまと引っ掛けられたぜ、ヤツらに」
「せ、先生?」
「あの緑髪のガキ、変装して潜入しやがったのさ。で、あんたを騙して自分たちの有利な場所まで敵を引っ張ってった。
………見ろよ、ヤツらのしたり顔。こりゃあ、ガードマンもろとも、今頃ぁブチのめされてらぁな」
「………………………」

 謀られた―――フツノミタマに指摘されてようやく自分の失態に気付いたガラハッドだが、
計略にハメられたことへの怒りは不思議と涌かず、代わりに激しい自己嫌悪に苛まれた。
 どうしてあの時、落ち着いて状況を判断できなかったのか。社員の顔を判別できなかったのか。
状況を悪化させる全ての原因が自分にある気がしてならないガラハッドは、とうとう頭を抱えてその場にへたり込んでしまった。

 まさか敵が本拠地にまで攻め入って来るとは夢にも思わなかった残りの社員たちも
クラップの号令に応じて襲い掛かる村民らに押さえ込まれ、次々に倒されていく。
 それはつまり消火の手が失われることでもある。そして、その先に待ち構えるのは牙城の消失しかない。
 何も見たくないし、何も聴きたくない………きつく眼を閉じ、耳を覆ってしまうような最悪の事態にガラハッドは陥っていた。

「………ガキ連れて下がってろや。引き受けた仕事はキチッとこなしてやるからよ」

 視界が閉ざされたガラハッドの顔面に何かが投げ付けられたのはその時だった。
 何が起きたのかと慌てて眼を開けると、自分の鳩尾へ頭突きするような恰好で突っ伏したシェインの姿がある。
 どう言うことか問い質そうとフツノミタマを仰げば、彼は腰のベルトに差していたドスを抜き放ち、
グリーニャの人々を向こうに回して臨戦体勢を整えていた。

 引き受けた仕事をこなすとの言葉通り、自分を庇って反対派の村民らと戦ってくれるのだろう。
 フツノミタマの腕を一流と見込んで雇ったのだから、これでひとまずは身の安全を確保できる。
安堵感で落ち着きを取り戻したガラハッドだったが、その途端に今度は村民への憤慨が鎌首をもたげてきた。
 理由はどうであれ、必死に働いて築いた牙城を田舎臭い連中に潰された悔しさ、怒り、憤りがガラハッドの心をドス黒く塗り潰していく。
心の中で呪詛を吐くだけでは、頭のてっぺんから爪先まで駆け抜ける恨みを発散することは出来そうに無かった。

「………ブッ殺してやる………切り札、出してやらぁ………」

 恨みと怒りが一つに合わさり、破壊的な衝動が頂点を迎えた時、ガラハッドは胸ポケットから携帯電話を取り出し、
いずこかへとコールし始めた。

「………誰の入れ知恵なのか、ヘンピな田舎にそんな頭の回るヤロウがいるのか。今の今までわからなかったが、
そのツラ見て確信したぜ。………てめぇが裏で糸を引いてやがったな」
「何故そう思う? 初対面の人間の技量を見抜けるほど貴様が達観しているようには見えないが」
「達観していなくても一発でわかるぜ。てめぇの瞳を見ればよ」
「………瞳?」
「村の連中の呑気な瞳とはまるで違う、オレたちのいる世界に近い瞳だ。戦い方…いや、人の殺し方をよく知ってる瞳だ。
それでいてオレたちみてぇな穢れがまだ見られねぇ。珍妙っつーか面白い瞳してやがらぁ」
「………………………」
「兎ン中に殺り方熟知した虎が混ざってんだぜ? 消去法で判りもするぜ。陽動作戦で戦力差をカバーするなんざ、
トーシロにゃ思いつかねぇ上等な策だしよ」

 火災が彩る朱色でもって得物の白刃を照らすフツノミタマは、持ち手を胸元に引き付けながらドスの切っ先を
アルフレッドに向けて微動だにせず、眼光にも油断や隙と言ったものが感じられない。
自分が戦う強敵をアルフレッドに絞り、かつ、彼が相当な技量を備えた者と見抜いている様子だ。
 それが証拠にリボルバー拳銃を構えたフィーナにも、いつでも突進できるように両翼を激しくバタつかせてアップするムルグにも
一瞥すらくれない。
 対するアルフレッドも自分一人に目の前の男の焦点が絞られていることを察知し、両拳を交差させる独特の構えを取ってこれに応じる。

 利き手と思われる右手にドスを構えるのはまだ解るが、包帯で吊る不自由な左腕をフォローする為の物なのか、
鞘を口に銜えたスタイルは士官学校でも習ったことがなく、過去に閲覧した武芸書の類にも載っていなかった。
 得体の知れない戦闘スタイルと、口元に浮かんだ肉食獣を思わす笑みが不気味に混ざり合い、
アルフレッドへ言いようの無いプレッシャーを与えた。

 互いに高次の戦闘能力を認めたアルフレッドとフツノミタマの間には、戦いに不慣れなフィーナですら息苦しさを感じる
極度に張り詰めた空気が漂っている。
 交わされる言葉は一人遊びにも似た空虚なもので、どのようにして間合いを詰め、初撃を制するかに二人の意識は引き付けられていた。

「人のことをさも殺人が好きな人間のように決め付けるな。俺は必要な戦略を立てたまでだ」
「別にてめぇの趣味が殺したぁ言ってねぇだろうが。………つーか、てめぇの眼こそなんだよ。すっげぇ何か言いたげじゃねぇ?
アレか? てめぇ、オレのことを殺人狂か何かと思ってんだろ」
「想像でなく、実際にそうなのだろう。でなくば戦いの最中にニヤニヤできるわけがない」
「頭固ぇな、てめぇ。こういう時に笑いが込み上げて来んだぜ? ワケならもっと別に考えられるだろが」
「根本的に思考回路の違う人種を理解し切ることは不可能だ」
「愉しい時に決まってんだろ。ゾクゾクするような強ェヤツと戦う時とか、よォ―――――――――ッ!!」

 フツノミタマの足元へ迫っていた炎が風に煽られ、激しく揺らめいた。
 炎を凪いだ風は一瞬にしてアルフレッドの眼前にまで吹き荒び、その喉元を穿たんとうねりを上げた。
荒れ狂う疾風の正体は目にも止まらぬ速さで振り抜かれたフツノミタマの一閃だ。
 シェインを仕留めた時の数倍ものスピードで瞬時に間合いを詰め、アルフレッドの喉を掻き斬ろうと襲い掛かってきたのだ。

 常人であったなら、自分の身に何が起こったのか解らないまま首を落とされていたに違いないが、
アルフレッドはフツノミタマに――――残像をも引き摺る恐ろしい一撃を繰り出す彼に、高次の技量を見抜かれた男である。
両足のバネを総動員した跳躍でもって横薙ぎの猛威を上空へ逃れたアルフレッドは身のこなしも鋭く、反撃の蹴りを連続して
フツノミタマの顔面へと繰り出した。
 身動きの取りづらい空中であるにも関らず、二度、三度と連ねられたアルフレッドの蹴りは鋭敏にして剛(つよ)く重い。
 俊速果断の横薙ぎが鳴らしたような軽妙な音でなく、轟々とした重低音を奏でて風を切った連続蹴りは、
その音を聴くだけで威力の凄まじさが伝わる強撃だったが、先ほど披露した踏み込みのスピードからも分かるように
フツノミタマも疾風の如き身のこなしを備えている。

 その場に屈んで二発目までの蹴りをやり過ごすと三発目が繰り出されるのを待たずに姿勢を低く保ったまま横へ飛び、
一旦間合いを離すや、再び猛然たる踏み込みで迫った。
 バックステップから一気に踏み込みへと転じたスピードは初撃のそれを上回っている。腰だめに構えた切っ先へ
このスピードに上乗せすることによって鋭さを倍加し、アルフレッドの腹部を刺し貫くつもりなのだ。

「………スピードだけで打ち込みそのものは単調だな。これで仕留められるのは、せいぜい二流までだ」

 上半身を捻るだけで烈風の刺突を難なくかわしたアルフレッドはその体勢から更に全身を旋回させ、
遠心力をたっぷり込めた回し蹴りでフツノミタマの脇腹を狙った。
 手応えは無い。クリーンヒットが確定する寸前、刀身を翻したフツノミタマにドスの柄尻で受け止められてしまい、
直接ダメージを与えることは出来なかった。

「アルっ!!」
「来るなッ!! お前では歯が立たない相手だッ!!」
「でも………でもっ!」
「来るなと言っているんだ! 足手まといなんだよッ!!」
「――――――ッ!!」

 熱風吹き付ける只中に在って背筋が凍るような激闘を演じるアルフレッドを案じたフィーナが精一杯勇気を振り絞って
加勢に入ろうとするものの、彼はそれを強い口調で押し止めた。
 自分を心配してくれるフィーナの気持ちは嬉しかったが、素人に闖入されてはそちらに気が取られてしまい、
戦いどころではなくなる。
 必勝の為に冷徹な判断を下すならば、フィーナの申し出は迷惑極まりないものだった。

 「………ここは俺に任せて、お前たちはシェインを奪取しろ」と言いつけてシェインのもとへ向かわせたのも
半分は戦いの場から厄介払いする為の方便である。
 戦力にならないと判断すれば、味方であっても邪魔者扱いして遠ざける怜悧な思考も彼を強者たらしめる要素として認めたのだろう、
フツノミタマの笑みはますます吊り上がり、その戦意は高揚を強めていった。

「“アル”っつーのか、てめぇ。………久々に面白ぇヤツだ。憶えておいてやるよ、その名前」
「貴様に愛称で呼ばれる筋合いは無い。アルフレッド・S・ライアン―――憶えるのなら、フルネームにしろ」
「自己紹介とは願ってもねぇ。オレも野郎を愛称で呼ぶのは趣味じゃねぇしな。
―――フツノミタマ。てめぇも憶えておくんだな………あの世に行ってからも、生まれ変わってからも憶えていやがれ。
てめぇを仕留める相手の名前、忘れんじゃねぇぜッ!!」

 長い付き合いの賜物で、アルフレッドの考えていることなら何でも分かってしまうフィーナは彼の真意をすぐに察し、
一瞬だけ哀しげな表情で唇を噛んだが、ここでゴネたりモタついていれば迷惑をかけるばかりである。
 リボルバー拳銃を備えているとは言え、構えるのが精一杯な自分では、突き放された通りに足手まとい。
戦闘能力の皆無な人間が力量を省みず無理矢理乱入して迷惑をかければ、勝てる戦いも落とすに違いなかった。
 二人の死闘へこれ以上水を差すまい―――そう思い直したフィーナは「…信じてるから」とアルフレッドに告げ、
シェインのもとへ全速力で駆け出した。

 睨み据えた焦点をフツノミタマから外せず、彼女の戦域離脱を目端で捉えるのみに留まったアルフレッドだが、
フィーナの後をすぐにクラップが追いかけたこともあって不安は薄い。
 周囲の戦いにも大方の決着がつき始め、フツノミタマを除けば敵側に残存する勢力は皆無だった。

 過敏にフィーナの安否へ意識を尖らせることなくフツノミタマに、手強い猛者に全力でぶつかることが出来ると考えれば、
彼のような好戦的なものではないが、自然と口元に笑みが浮かんだ。
 策士にとって後顧の憂いなく敵と相対する状況を築けたのは大きな意味を成すのである。

「トラウムはどうしたッ! 使わねぇのかッ!?」
「………何?」
「さっきからカチ合ってりゃ、てめぇ、格闘術ばっかでトラウム使わねぇじゃねーかッ!! 手加減なんざやめとけやッ!!
っつーか、オレをナメてやがんのかッ!? やるならマジで来いやッ!! じゃねぇと燃えねぇッ!! オレを燃やしやがれッ!!」
「わけのわからないことをベラベラとよく吼える………そう言う貴様もトラウムを発動させていないな。
その小刀はトラウムでは無さそうだ」
「見てわかれや、ボケナスがッ!! 得物は自前だッ!! 一品モノだがタネも仕掛けもねぇッ!!」
「………貴様、トラウム不適合者か」
「概ね似たようなもんだ。オレの場合は、発動できないんじゃなくてしねぇだけなんだがよ」
「奇遇と言えば奇遇か。………もっとも俺は貴様とは制約が正反対だが」
「“発動したいのにできねぇ”ってか? ますますワケわかんねぇ野郎だな、てめぇ」

 またしても口火が切られた言葉遊びは、両者の実力の拮抗と、それによって生じた膠着状態の証とも言えた。
 互いにクイックネスを要に置く戦闘術が得意であると見極めたのだ。迂闊に手を出してスピードを見誤れば、
それを上回る鋭敏さでたちまちの内に仕留められるだろう。
 先手に出るなら後手を超えるスピードを発揮せねばならず、後手に回ってカウンターを狙うのなら相応の技と動きで
敵の超速に反応できなければならない。判断ミスがそのまま命取りとなる熾烈な戦いだった。

 迂闊な動きを取れず、攻めに転じる好機も誤れない為に相手の出方を窺う膠着がジリジリと長引き、
傍目には煉獄の包囲の渦中に在って、呑気に会話を楽しんでいるようにも見えた。

「………チィッ! やっぱグダグダやってんのは性に合わねぇぜッ!! とっととケリつけるとすッ――――――かッ!!」

 膠着を破って再び攻防の幕を開いたのは、初撃と同じくフツノミタマの一閃だ。
 しかし、今度の一閃は今までの斬撃とは大きく異なっていた。

(………刀を納めた………?)

 何を考えたのか、フツノミタマが口に銜えていた鞘へと唐突にドスを納めたのだ。
 これにはアルフレッドも面食らってしまった。戦いの最中に武器を納めるなど、戦闘放棄とも取れる行為である。
 そのくせ、鷹のように鋭い瞳で燃え盛る戦意の灯火は刃を納めた瞬間から爛々と昂ぶり、
低く沈めた体勢は、獲物を前にした狼さながらの躍動を見せている。
 低い呻き声までおまけに付いてくるのだから、まさしく血に餓えた猛獣そのもの。
今にもアルフレッドの喉笛へ飛び掛らんとする獣気を醸していた。

「―――『棺菊(かんぎく)』ッ!!!!」

 狼が如き体勢から放たれた斬撃こそ死闘に新たな局面を開いた一閃なのだが、
前傾姿勢から繰り出される刃は初撃など比べ物にならないくらい鋭く、疾(はや)く、アルフレッドの喉元目掛けて襲い掛かった。

「―――居合いかッ!!」

 首筋を一閃される間際に迫り来る狼牙の正体を見極めたアルフレッドは、回避動作を敢えて取らずに地面を踏みしめ、
右の側面から振り抜かれる『棺菊』と銘打たれた必殺の刃に備えた。
 当然、潔く首を差し出すつもりはない。刃の根本、つまり鍔元へ拳を叩きつけることで強引に狼牙の進攻を食い止め、
もう片方の手で反撃を試みようと言うのだ。

 居合い抜きとは、鞘に納めた刀を一気に振り抜くことで打ち込みのスピードを跳ね上げる一撃必殺の技法である。
 通常は腰に差した鞘から繰り出すので、鞘を口に銜えた状態から放たれるフツノミタマのそれは多分に変則的なのだが、
スピードも鋭さも通常の技法と遜色ないレベルで、刀身などはあまりに速さで陽炎のように揺らめいていた。
 恐るべきスピードの狼牙ではある…が、いかにフツノミタマの居合い抜きが速かろうと刃が到達する前に手元を
押さえてしまえば無効化することはできる。

 死中に活を求めるアルフレッドの奇策は目論見通りに『棺菊』を強制停止させることに成功。
絶対的な自信をもって撃ち出したはずの居合い抜きを、まさか真正面から受け止められると
想像していなかったフツノミタマの舌打ちが耳を突く中、開いたもう片方の手で彼の脇腹を渾身の力で打ち据える。
 寸勁あるいは『ワンインチクラック』と呼ばれる技法の一つだ。上半身の筋力を振り絞ることによって生まれた破壊力を
密着状態から標的に叩きつける大技で、高いレベルの者が使えば、アバラの数本を軽く粉砕できるだけの攻撃力は見込めた。
 全身をしなやかな筋肉で固めたフツノミタマもこの一撃には相当のダメージを受けたらしく、初めて表情を苦悶に歪める。
鞘を噛み締める上下の歯はギシギシとイヤな音を立て、骨身をも突き抜けた衝撃の大きさが窺えた。

 だが、“プロ”を標榜するだけあってフツノミタマも『ワンインチクラック』一発では倒れてはくれない。
密着状態であれば自分にも分があると見るやドスを逆手に持ち替え、再びアルフレッドの首筋へ振り落とした。
 『ワンインチクラック』にそれなりの手応えを感じ、最低でも動きを鈍らすくらいの効果は得られると油断したアルフレッドは
先ほどと寸分も変わらぬ斬撃の鋭さに虚を突かれてしまい、危うく致命傷を許すところだった。
 寸でのところで一足飛びに後方へ下がり、どうにか危急はやり過ごしたものの、頬を擦った刃はそのまま彼の太腿の内側を掠め、
居合い抜きに端を発した接戦は痛み分けの結果となった。

「面白ェッ! 面白ェッ!! 面白ェッ!!! 面白ェッ!!!! 面白ェッ!!!!! アドレナリンが溢れんのは何年ぶりだッ!?
こんなに愉しい時間は久しぶりだぜぇッ!! やっぱ“仕事”ってのはこうでなくっちゃよォッ!!!!!!」
「いちいち煩い奴だ………真っ先に口を潰してやろうか?」

 再び開かれた戦いがそこで幕間に入ることは無かった。
 元の構えに戻し、追撃に移ろうとしたフツノミタマの動きを鋭い足刀で制したアルフレッドは、
彼の右肩へ突き込んでいた右足を、返す刀で鋭角に下方へと振り落とし、素早く腰、太腿、脛と連続して蹴りつける。
 下半身にダメージを重ねることで動きを鈍らせようと企図しての連続蹴りであったものの、
その狙いは鍛え上げられた筋肉の鎧によって阻まれてしまい、動きが鈍化するのを見越して繰り出された
遠心力をたっぷりの後ろ回し蹴りもフツノミタマの顎を穿つことなく空を切った。

 『パルチザン』と名付けた十八番の後ろ回し蹴りを難なくかわされたアルフレッドへフツノミタマの逆襲が迫る。
右手一つでよくぞここまでと驚嘆するほど敏速に刃を翻し、何度となく斬撃を繰り出していった。
 厄介なのは“下手な鉄砲”そのままの闇雲な打ち込みでもなく、型に嵌り切った模範的な乱れ斬りでもなく、一撃一撃ごとにリズムを変え、
緩急を付けた軌道を読ませない連撃と言う点だ。
 高い計算の上に成り立つ連撃にはアルフレッドも手を焼き、刃の立たない刀身の腹(※いわゆる峰に当たる部分)を
手刀で払い落としてダメージを軽減するのが精一杯である。
 フツノミタマの熱しやすい性格から計るにこうして打ち込みを捌き続けていれば、そう遠くない内に痺れを切らして大振りに出るだろう。
 その時こそ好機と見定めたアルフレッドは、ダメージを最小限に抑えつつ、反撃の為の余力を残すべく防戦に回りながらも
冷静に呼気を整えていった。

「―――ウラァッ! 『撃斬』だ、コラァッ!!」

 アルフレッドの予測は的中し、掬い上げるかのようなフルスイングを経て垂直にドスを構えたフツノミタマが
全力の縦一文字を振り落としてきた。渾身の力でもって一気に勝負を決しようとする必殺のの意志が漲った、
一刀両断狙いの大振りだ。
 これぞアルフレッドの待っていた一撃である。
 威力は今までで最も重そうに見えるが、軌道はただ垂直に刃を落すだけの単調なもの。
これを避ければ反撃のチャンスも生まれるだろう―――が、軌道を読ませない連撃を操るなど豪快かつ横柄な態度に似合わず
クレバーな戦い方をこなす食えない男だ。
 ギリギリまで出方を伺い、完全に軌道を捉えたところで反撃に転じようとアルフレッドは判断した。

 結果的にこれは正解だった、と言うよりもこの判断が無ければアルフレッドの命は危なかったかも知れない。
 渾身の力を込めた縦一文字『撃斬』の剣筋に僅かなブレを見て取ったアルフレッドは、試みようと考えていた背後への
回り込みを咄嗟の判断で取り止め、瞬発力を総動員して後方へと跳ねた。
 後方に飛ぶ間際、フツノミタマが振り落とした右腕の内側へ左足を滑り込ませ、俗に言うサマーソルトキックで
顎を思い切り蹴り上げるおまけ付きだ。
 全体重を乗せた蹴りは、フツノミタマの上体が打ち込みの為に傾きを付けていたこともあってちょうど交差する格好となり、
脳を直接シェイクするくらいのダメージを発揮した―――はずなのだが、強烈なカウンターで強か跳ね上げられても
フツノミタマが膝を折ることはなかった。

(こいつ………!)

 刃の届かない間合いまで下がってみて初めてわかったのだが、攻撃の際に踏み込まれたフツノミタマの右足が
異常に前方へ出ているではないか。
 そこで初めてアルフレッドはフツノミタマの剣筋にブレが生じた意図を見抜き、思わずと驚嘆の溜め息を漏らした。
 フツノミタマは乱戦のドサクサに紛れてアルフレッドの足を踏み付け、回避動作を封じ込めようとしていたのだ。
痺れを切らしての単調な大振りと見せかけておいて、搦め手を混ぜるとはかなりの食わせ者である。

 クイックネスを得意とする相手に対して最も有効な戦法を講じ、確実に仕留められる状況を作ろうとする
頭の回転の早さもさることながら、乱戦の最中においてそれを実行し得る力量は一流のプロを名乗るに相応しかった。
 目の前の男が強敵であると改めて実感するアルフレッドの頬を一筋の汗が滴り落ちた。

 一筋の汗が滴ったのをきっかけにしてフツノミタマだけに絞り込まれていた全神経がフッと緩み、
五感が周辺の情報を捉えるようになる。
 極度の緊張のせいか、全く気付いていなかったのだが、処理施設を包む火の手は、最早消火器程度ではカバーし切れない広域へ延焼し、
ガラハッドの恐れていた通りにとうとう工場にまで燃え移っていた。
 肌を焦がしてしまうのでは、と思うような近距離にも炎が及び、熱気を包んだ空気を吸い込めば喉に痛みが走る。
火勢は著しく、このままフツノミタマを相手にするにしても、あと数分が限界だ。

「コカッ!! コココーッコッココォーッ!!」
「な、なにあれ………っ!?」
「こいつ、何かの本で読んだことあるぞッ!! ………クリッターだ………食い物みたいだけど、れっきとしたクリッターだぜッ!」
「………ちょ、ちょっとおいしそうかも………」
「食いしん坊がバンザイしてる場合かッ!! あれは敵なのッ!! すっげぇやべぇ類の敵だぞッ!!」

 コンスタントにダメージを与えているにも関らず、殆ど効果が見られないフツノミタマのタフネスに
焦りを感じ出したアルフレッドの集中を更に削ぐ出来事がここに来て勃発してしまう。
 シェインの救出に向かった二人と一羽が突如として素っ頓狂な叫び声を上げ、それに意識を引き付けられてしまったのだ。

「フラメウス・プーパァァァッ!! こんなこともあろうかとゴミ捨て場で飼育してたんだッ!! ………こいつでブチ殺してやるッ!!
オレの城をメチャクチャにしやがった報いを受けやがれ、クソ虫どもォッ!!」

 フィーナたちの視線の先―――シェインを脇に抱えながら不穏当を口走って高笑いするガラハッドの傍らには、
およそ地上で進化を遂げたと思えない謎の生物が、これまた生物らしからぬ組成の巨体をうねらせているではないか。
 山なりに盛り上がった軟性の身体は小刻みにプルプルと震えており、一見するとゼリー菓子のようにも見える。
真っ赤に透き通った軟体の内側では、機械ケーブルのような触手と眼球を彷彿させるコア(核体)が
ウネウネと不気味に胎動し、見る者に生理的嫌悪感を抱かせた。
 スライムか、アメーバか。不快な微動を繰り返すその物体を、クラップは“クリッター”と言う識別名で呼んだ。

 ―――クリッターの概要を説明するのは、なかなか難しい。
 いつの間にかエンディニオンに生息していた“人間の天敵”と言うような抽象的な説明しか出来ないのだ。
 もう少し細かく言うのなら、何の前触れも無くエンディニオンに現れ、人類の気付かない短期の内に繁殖して
生息域を拡張していた異形の魔獣の総称がクリッターである点と、人間を襲ってその血肉を喰らう獰猛さを秘めている点。
そして何より、“異形(主として生体金属)の皮膚と動物性の筋肉組成に戦闘機械めいた異能を併せ持つ魔獣”と言う点である。
 何の為にやって来たのか? 人間の天敵となった理由は何か? ………全てが闇のヴェールに覆われたままではあるものの、
血肉を求めて襲撃される以上、戦って撃退しなくてはならない。
 人類史上最も理不尽で、最も謎に包まれた天敵―――それがクリッターと呼ばれる魔獣だった。

 余談だが、ネーミングの由来とするところは、ある学者が提唱する“空から飛来した侵略者”の仮説を信じた人々が
空中生物の意味を持つクリッターなる古代語を呼称へ当てはめたことにある。
 現在までにクリッターが地上物から進化した物的証明は何一つ出土しておらず、この仮説には一定以上の信憑性が騒がれている。

 ガラハッドの口振りからすると、緊急時に備えて飼育しておいたフラメウス・プーパなるクリッターを解き放つことで
人生設計を見事に粉砕したグリーニャへ逆襲に出るつもりのようだ。
 目は据わりまくっているものの、元来気の弱い彼のこと、勝ち誇った態度の半分は虚勢に違いなく、
張り上げた大音声は語尾が盛大に裏返っている。

「くそ、どうすっかなッ!! オレの『流星飛翔剣』がアイツに通用するとは思えねぇし………ッ!!」
「………それって懐中電灯の名前だよね。クラ君のトラウムの」
「ちっげーよッ!! 懐中電灯の名前じゃねーよ! 懐中電灯のライトを全開にして振り回す必殺(威嚇)技だよッ!」
「………………………」
「………何? このジト〜っとした沈黙は」
「コッキャキャキャキャキャ〜ッ!!!!」
「て、てめッ!! このアホ鳥ッ!! 今、オレのこと、バカにして笑いやがったなぁッ!? 手羽先にして食っちま―――
………すんません、ナマイキ言いました。アルみたいになれると夢見て調子こきました。
だからクチバシを裸眼にGOとかカンベンしてください、ムルグさん」

 懐中電灯のトラウムしか持たないクラップは直接的な戦闘力が皆無に等しく、
仕方無しに足元に転がっていた空の消火器を投げ付けて乏しい攻め手の補強を試みる。
 申し訳程度の威嚇にしかならないと思われたその攻撃を、フラメウス・プーパは軟体でもって跳ね返すと思いきや、
ゼリー状の肉体で空の消火器を包み、体内へ取り込むなり一瞬にして蒸発させてしまった。
鉄の塊を残骸ひとかけらさえ残さず、だ。

 「フラメウス・プーパの体内は瞬間一万度に達する超高熱ッ!! 取り込まれて灰になっちまいやがれぇッ!!」と
懇切丁寧なガラハッドの説明にもあったようにフラメウス・プーパが内包した異能は極めて恐ろしく、
ゼリーのような見た目に騙されては痛手を免れない強敵である。
 コアから張り出した触手を伸ばすことで獲物を捕獲し、体内に取り込もうと言うのだろう。
獲物の到来を喜んでいるかのようにウネウネと触手が不気味な蠢動を繰り返している。

「イージーボーイのネクストはへっぴりボーイかい。このヴィレッジは、ホント、ダメんズの吹き溜まりだネェ。
あ、だ〜か〜ら、ゴミショップなんかにアイをつけられちゃうのか! ボキ、ナットク♪」

 凶悪なクリッターを前に戦闘経験が全くないフィーナとクラップは思わず立ち竦んでしまったが、
ホゥリーが前に押し出したことで戦局はようやく好転の兆しを見せ始めた。
 クリッターとの戦いにも慣れている様子で、フィーナやクラップのような怯みは少しも見せず、
ついに飛び掛ってきた触手を、地上から間欠泉の如く水流を噴出させるプロキシ、ガイザーでもっていとも容易く跳ね返した。
 その落ち着き払った戦い方たるや、経験と実力に裏打ちされた冒険者の面目躍如と言ったところである。

(焦らせてくれる………)

 ホゥリーが加勢に駆けつけたことでようやく胸を撫で下ろしたアルフレッドだったが、
別の場所へ意識を飛ばしてしまった彼の油断をフツノミタマが見逃すはずもなかった。

「………同じじゃねぇっつった理由(わけ)はコレだぜ」
「――――――ッ!!」

 自分でも情けないと思った。
 戦いの、それも強敵と一戦を交えている最中に他所へ意識を飛ばしてしまうなど言語道断で、
こんな体たらくを晒しては殺されても当然だ、とアルフレッドは苦い悔恨に苛まれた。
 フィーナたちの危機へ意識を向けた一瞬の隙を突き、フツノミタマが防御も回避も難しい間合いにまで踏み込んで来たのだ。
 口元の鞘に刃が納められ、踏み込んできたその姿勢はかなり前傾―――『棺菊』と呼ばれる超速の居合い抜きだ。

「く………ッ!!」

 全身の筋肉を総動員して後方へ一足飛びに逃れようとするものの、今まさに抜き斬ろうとしていたフツノミタマのスピードを
上回ることなど出来るわけもない。
 完全な回避が間に合わなかったアルフレッドの脇腹へドスの一閃が走り、駆け抜けるときには真紅の雫を刀身へ迸らせていた。

「………オレたちの側の人間と限りなく近ェがな、今一つ違うんだよ、てめぇの瞳は。
命のやり取りがどういうモンか、紙の上の知識で知ってても、実体験として知らねぇ。………だからこうしてミスりもする」
「………………………」
「本当にオレたちの側の人間ならよ、周りの悲鳴に気ィ取られるなんてありえねぇ話なんだぜ、お坊ちゃまよォ。
悲鳴なんざ捨てとけやッ!! 仲間のピンチを考慮した上でなぁ、目の前の敵をどうやって瞬殺し、どうやって助けに入るかッ!?
そういうもんだろうが、戦いってのはよぉッ!? あァんッ!?」
「………………………」

 決して浅くない怪我を脇腹に負ったアルフレッドは自分の迂闊さが恨めしく、反論の声も出せないくらい情けなく思えた。
 フツノミタマに貶される通りである。仲間が危機に陥ったからと言って意識をそちらへ集中してしまうのではなく、
その時はすぐに命の危険に直結する問題なのかどうかを確認するに留め、あらゆる状況を踏まえた上で戦略を練るのが
真に賢い戦い方なのだ。

 それなのに自分は恋人や親友の危機に全神経を絞り込んでしまい、深手を負う結果へ転落してしまった。
 クラップには「グリーニャの軍師」と称えられたが、何のことはない。このザマではただのバカだ、とアルフレッドは
自分を思い切り嘲りたい気持ちでいっぱいだった。

 しかし、戦いは容赦なく続き、ネガティブな感傷に浸る暇すら与えてはくれない。
 アルフレッドの動きが鈍ったことを認めたフツノミタマは、鮮血迸る傷口を狙って執拗に執拗に刃を振るい続けた。
 モラリストの眼には、弱点ばかりを付け狙うフツノミタマの攻撃は卑怯と映るかも知れないが、
生きるか死ぬかの実戦においては道徳心など敗者の戯言に過ぎない。
 相手に傷を負わせたならその傷を、相手が弱ったのなら一気呵成に喉笛を狙うのは、血と泥に塗れた醜い戦いの常だ。
負傷を庇いながら戦うアルフレッドのほうこそが無様で情けないと罵られてしまうのである。

 繰り返すが、戦いとは、生きるか、死ぬかの二択だ。
 究極的な交錯の瞬間に道徳などと言う虚言を振り翳すのは、己の手で、足で生きることを放棄し、
何ら説得力を持たないモノへ自分の命の行く末を委ねるのと同義。つまり、自殺行為に他ならなかった。
 生きることを何より渇望しなくてはならない戦場に在っては、道徳心を翳した末の敗北になど誰も同情はしてくれないのだ。

「オラオラオラァッ!! 足がもつれてんじゃねぇのかァッ!? そんなんでいつまで保つもんか、楽しみじゃねぇのッ!! よォッ!?」
「………少なくとも、貴様を返り討ちにするまでは保つ。保たせてみせる………ッ」
「ほざきやがれってんだッ!! ―――オラッ!! 覚悟決めなぁッ!!」

 またしても繰り出された『撃斬』の大振りな一撃で前傾に傾いたドスを足で蹴り飛ばし、
フツノミタマから戦闘力を奪取しようと試みたアルフレッドだったが、指摘されたように動きが徐々に鈍り始めており、
敵の得物を弾き飛ばすどころか逆に向こう脛を足で払われ、無様に尻餅をついてしまった。
 片膝をつくだけなら残るもう一本の足で動くことは出来るが、尻餅となると体勢を立て直すまでの動作にかなりのタイムラグがかかる。
 当然、フツノミタマにとって甚大なタイムラグは格好の的。ニタリと口元を引き攣らせながら逆手に持ち替えたドスを冷たい牙に見立てて、
防御らしい防御も出来ないアルフレッドへ振り落とした。

「バリッて成敗! 電撃クラスター!!」

 殺(と)られる―――覚悟を決めたその瞬間、やけっぱちのようにも聴こえる甲高い声が二人の間へ強引に割って入り、
続いて起こった爆風が物理的にもアルフレッドとフツノミタマを引き剥がした。

 爆風に煽られて2、3メートルほど吹き飛ばされたアルフレッドにも突然の爆発の正体は掴めず、
地面へ落下する間際に体を捻って着地し、いつ敵襲があっても対応できるよう油断なく構えを取りながら周辺の様子を窺う。
 結果的に尻餅をついた危機的状況から脱し、辛うじて体勢を整えられたアルフレッドではあるものの、
何の脈絡もなく投げ込まれた爆発物の正体が判然としない以上、新手の奇襲かも知れないと言う警戒を解くわけにはいかなかった。

「待たせたね、アル!」
「あんた………」

 戦場を焦がす炎と共に舞い上がった粉塵を掻き分けてアルフレッドに駆け寄ったのは、
先ほどまで処理場の入り口辺りに隠れて戦いの様相を傍観していたネイサンだった。
 背中のリュックから、釘やらバネやら、細かな機械部品を固めて丸めたような奇形のボールを、
おそらくはフツノミタマがいるであろう粉塵の先めがけて幾つも幾つも放り投げると、煙で遮断された向こう側に新しい爆発が起こった。

「今のは、あんたが?」
「そ、護身用に持ち歩いてる電磁クラスターって爆弾さ。有価物に換えられない粗大ゴミ同士を、こう、組み合わせてね、
ちょっと火薬を混ぜればこの通り。即席爆弾の出来上がりってワケ。
あ、着火にドライヤーとか電化製品の回路を使っているのが電磁クラスターの電撃たる由縁だから、そこんとこヨロシク!」
「ハンドメイドなのか」

 アカデミー時代に演習で爆発物を取り扱った経験のあるアルフレッドの目にも
電磁クラスターの威力は“護身”の域を越えるものと認められた。
 と言うよりも、閃光による視覚妨害や超音域の音響による聴覚妨害ではなく、広範囲を対象とした爆撃など完全な攻撃手段ではないか。

「………………………」
「うっわー………、せっかく助けに来たのにまた胡散臭い顔で見てくれるよねぇ、キミ。恩を仇で返すって言葉、知ってる?」
「別に胡散臭く思ってはいない。商売を間違えてると呆れていただけだ。
………今からでも遅くない、リサイクルなどと言う意味不明な仕事を忘れてメカニックに転向しろ。
ガラクタから爆弾を組み上げるような技術があるんだ。水商売ではなく練磨された技術を生かす仕事に就け」
「人様のお仕事を全否定した挙句にヘッドハンティングって、どーゆー交渉術だ! 失敗前提なの? ウケ狙いなの?
本気じゃないと信じたいけど、その目はかなりのマジと見たっ!」
「い、いや、交渉術と言うか、譲歩と言うか………」
「………? なんでそんな難しい顔してんのさ? ―――あ、怪我が痛むとか?」
「………………………」
「怪我がハズレとすると、ますますわかんないんだけど、ニラまれる理由が」

 トボけた顔をして平然と危険物を投げ続けるネイサンへ、これまで抱いてきたものとまた違った意味合いの緊張と疑いを
向けそうになるアルフレッドだったが、その彼に窮地を助けられたのも事実である。
 疑い出してキリが無くなった追及の猜疑心を一先ず落ち着かせ、危険を承知で助けに入ってくれたネイサンを
アルフレッドは信じることに決めた。

 どさくさに紛れて“アル”と言うニックネームで呼ばれたのだが、それもまたネイサンへの警戒心を和らげた理由の一つだ。
 数時間前に出逢ったばかりで互いのことをよく知らない人間にニックネームで呼ばれるのは、
カタブツのアルフレッドならいつもは嫌悪感すら抱くことなのだが、不思議と違和感が無く、耳に馴染むのだ。
ネイサンの口から“アル”と呼びかけられることが、アルフレッドにはどこか懐かしく感じられた。
 思えば不思議な感覚である。出逢って間もない人間から呼びかけられたニックネームが耳に馴染むと言うのは。
 以前にどこかで出逢っていて、しかも親しい間柄だったのではないか―――在る筈の無い記憶を手繰ってしまうほどに
ネイサンの呼び声はアルフレッドの心へ例えようの無い不思議な波紋を落とした。

「ったく………アルってばホントにひっどいよなぁ〜。ヤバ気なのをムリしてまで助けるんじゃなかったよ」
「ち、違う。別に俺は………」

 信じることを決め、警戒心もほぐれはしたが、なにしろアルフレッドはカタブツである。
今更、前言を翻すのが照れ臭くて、ついつい仏頂面を作ってしまうのだ。
 真意は別にあるとは言え、憮然とした表情に変わりはなく、彼の仏頂面を見せられたネイサンは、
そこに秘められた真意を「余所者に助けられるのは嬉しくないことなのか…」と誤解し始める始末。
気を許そうと決めた矢先のことだけに、これにはアルフレッドも困ってしまった。

 どう言い繕えば巧くことを収拾できるのか、それを模索している間に相手の機嫌を損ねてしまう―――
弁護士を目指す人間としては致命的なほどにアルフレッドは生き方が不器用だった。処世術が不得手だった。

「戦闘中に仲良しこよしたぁ、いよいよてめぇも甘ちゃんだな。久しぶりに楽しめると思っちまって………、
ワクワクして損しちまったぜ、ド畜生めが………ッ!!」

 漫才めいた問答へ陥りそうになっていたアルフレッドとネイサンを、鋭く、荒々しい咆哮が一喝する。
舞い上がった粉塵にシャットアウトされて姿形を捉えることは困難だが、声の主は間違いなくフツノミタマだ。
 戦いの最中とは思えない二人の呑気なやり取りが癪に障ったのだろうか、腹の底から張り上げられた吼え声には
激しい憤怒が満ち満ちていた。

「やべっ!? ボク、あのオジさんを逆撫でしちゃったかな」
「仮にそうだとしても、ヤツの唸り声を聞く限りでは俺とお前の共犯だ。………他愛も無い世間話にまで噛み付くなど、
どれだけカルシウムが足りていないのやら」
「足りてねぇのはオレのカルシウムじゃなくて、てめぇらの危機感じゃねぇのかッ!? 殺すか殺されるかってときに
ペチャクチャやってんじゃねぇッ!! 萎えちまって仕方ねぇッ!!」
「―――とのことだ。とりあえずその辺りにでも伏せていろ。棒立ちしてたら早死にするぞ」
「か、隠れられそうな場所まで遠いもんね。じゃあ、お言葉に甘えて、ここは格闘のプロに任せちゃおうっかな」
「ああ、任せてもらって構わない。危機を救ってもらった借りは返すつもりだ―――ネイサン」

 言われるがままに地面へ突っ伏したネイサンだが、匍匐した状態で少しずつ後退しながらも
両手に新たな電磁クラスターを握り締め、いつでもアルフレッドの援護へ回れるよう準備だけは整えている。
 そんなネイサンの気遣いに口元をほんの少し緩めながら、アルフレッドもフツノミタマが唸り声を上げているであろう粉塵の向こう側へ
戦意を昂ぶらせていく。
 今のところは動きらしい動きが見られないものの、数分も経たない内に猛進してくるものとフツノミタマの行動は読めた。

 視界はすこぶる悪かった。
 大火に照らされてはいるが、舞い上がった粉塵は宵闇と相俟ってアルフレッドとフツノミタマの立つ間合いを完全にシャットアウトし、
互いの影を煙の中に透かすことも許さない。
 五感をナイフのように研ぎ澄まし、微かに聞こえる呼気を、距離感の掴みづらい足摺りの音を、
いつ動くとも知れない気配を読んで相手の位置を探るしかなかった。

 達人と呼ばれる域の者であれば、あるいは瞑目することによって自ら視界を断ち、
相手の放つ気配にのみ意識を張り巡らせて次に打つべき手立てを見極められたかも知れないが、
軍隊式の格闘術を会得し、戦い慣れているとは言え、そのような高次にはアルフレッドは程遠い。
 程遠いが、彼には知略があった。望む望まないに関らず人より才に長けた知略をもって敵を下すことが彼には出来た。

「………借りるぞ」
「へ? あっ!?」

 ネイサンの手から電磁クラスターを引っ手繰ると、アルフレッドはそれを粉塵の向こう側へと投げ込んだ。
 本格的な訓練を受けていないネイサンより遥かにスナップの利いたアンダースローで投擲された電磁クラスターは
視界がシャットアウトされた粉塵の向こうで炸裂し、更なる煙を巻き上げた。

 その直後に奇妙な動きが起こり、地に伏せていたネイサンも思わず「何考えてんのさ!?」と叫んで立ち上がってしまった。
 電磁クラスターの炸裂を確認するなり、何を思ったのか、アルフレッドは爆発点へ全速力で駆け込んでいくではないか。
 巻き上がった粉塵をブラインドにしてフツノミタマの攻撃に備えようというのか―――奇行としか思えない彼の行動の真意を
見定められず、茫然と立ち尽くすネイサンだが、アルフレッドは知略でもって敵を下す策士である。
 奇行とも思えるこの行動も全ては計算に基づくものだった。

「もういいッ!! てめぇはもう死ねやッ!!」

 電磁クラスターの炸裂から逃れるべくアルフレッドと入れ違いに爆発点から抜け出てきたフツノミタマは、
「あっ!」と悲鳴するネイサンの目の前で高速反転し、おそらくは背を向けたままでいると思われるアルフレッド目掛けて
返す刀で斬りかかった。
 迅速果断の居合いである『棺菊』に比べるとややスピードは劣るものの、動作に一切の無駄が見られない追撃の刃は
視界を遮る粉塵と煙を引き裂き、アルフレッドの首へと迫る――――――

「――――――ッ!?!」

 ―――が、防御も回避も間に合わず、無防備に刃を受けるのを待っているかに思われたアルフレッドは
鈍色の煙の向こう側で嘲りをはらんだ笑みを浮かべて仁王立ちしていた。
 防御も回避も間に合わないどころか、万全の体勢で迎撃の構えを取っていた。

「てめ………ッ!!」
「貴様のことだ、不意打ちで来るのは読めていた………己の迂闊を恨め」

 このときばかりはさすがのフツノミタマも顔を引き攣らせた。
 ネイサンの眼には奇行と映ったアルフレッドの一手は、搦め手を駆使してでも標的を抹殺せしめんとする
フツノミタマの習性を利用した陽動策だった。
 決着の一手を打たんとするのなら、正面からでなく背後から討ち取りに来るだろうとフツノミタマの行動を読んだアルフレッドは、
電磁クラスターを呼び水に振り撒くことで己の欲する状況へとフツノミタマを誘い込み、体勢を万全に整えた上で彼を迎え撃ったのである。

 罠にハメられたことを痛感して自嘲を舌打ちするフツノミタマの胸板へアルフレッドは迎撃の『パルチザン』を叩き込む。
 遠心力たっぷりの回し蹴りは今度こそフツノミタマへクリーンヒットし、筋肉を伝導して肺や心臓などへ甚大なダメージを与えた。
 脇腹を裂かれたことに対する報復にはお釣りがくるような攻撃力は、さきほど直撃させた『ワンインチクラック』など比較にならない。
内臓器官にまで伝導したダメージの影響を受け、常人なら意識を保つことすら苦悶のはずだ。

「だッ………がッああああああぁぁぁぁぁぁッ!!!!」

 ところが、フツノミタマは跳ね飛ばされるその寸前まで衝撃に耐え切ろうと地面を踏み締め、
堪えられなくなって後方へ吹っ飛ぶ間際にもアルフレッドの胸元へ反撃の一太刀を浴びせかけた。
 リーチの差もあって振り抜かれたドスはアルフレッドが首から下げた灰色の銀貨を掠めるだけに留まったが、
恐るべきは飽くなき執念である。
 到底堪え切れない衝撃に正面から立ち向かい、無茶な体勢からでも勝ちを狙いに行く果てしない執念からは狂妄すら滲んでおり、
それをやってのけるフツノミタマにアルフレッドは改めて寒気を覚えた。



 ―――リィィィィィィン………―――



 フツノミタマのドスが表面を薄く掠った灰色の銀貨は透き通った音を立てて哭いた。
 金属をカチ合わせた音と言うよりガラスの鈴を打ち鳴らしたような―――
どこまでも駆け抜ける力強さとどこかで掻き消えてしまいそうな儚さが共鳴し、聴く者の心へ深く刻み込まれる不思議な哭き声だった。



 ―――リィィィィィィン………―――



 もう一つ不思議なのは、刃が灰色の銀貨を掠めてから大分経つと言うのに、いつまでも哭き声が止まないこと。
 次第に音色を強さを増しながら、リーン、リーン…と灰色の銀貨はアルフレッドの胸元で哭き続けた。



 ―――リィィィィィィン………―――



「………なんだ、そりゃ? キンキンうるせぇぞ。気ィ散るから止めろや」



 ―――リィィィィィィン………―――



「それは無理な相談だ。こうなったら俺にもどうしようもない」


 ―――リィィィィィィン………―――


「あぁ? てめぇのネックレスじゃねぇか、てめぇでキチッと躾とけッ!!」
「従順な犬なら躾も届いたに違いない。………だが、生憎、俺が飼ってるのは気ままな“猫”なんでね。
飼い主の言うことも聴きやしない」
「わけわかんねぇっつーの! それとも、てめぇ、オレを煙に巻こうとしてんのか? おぉッ!?」


 ―――リィィィィィィン………―――


 止む事の無い銀貨の哭き声にフツノミタマは苛立ち、アルフレッドは件の銀貨を握り締めて薄く微笑する。
 ちょうど二人の対峙する中間に伏す恰好となったネイサンにも止まない哭き声は疑問符を落としたが、
彼の場合は好奇心が勝ったようで、カタカタと律動まで始めた灰色の銀貨を興味深げに見つめている。

「お前は運が良い。いや、運に助けられたのは俺のほうか。
どちらにせよ気まぐれな“猫”が、今夜に限ってタイミング良く振り向いてくれた………」


 ―――リィィィィィィン………―――


 一際甲高い哭き声が夜天へ響き渡ったその時―――フツノミタマの苛立ちとネイサンの好奇、二つの視線を集めていたアルフレッドの身体が
突如として眩いばかりの輝きに包まれた。
 灰色の銀貨を起爆地点として全方位へ輻射された光の帯がアルフレッドの肉体へと吸い込まれ、
やがてはそのシルエットをも掻き消すくらい大きな大きなエネルギーの塊にまで膨れ上がる。
 その燐光は、トラウムが創出される際に発せられる輝きとそっくり同じものだった。

「………宣告しよう。貴様の魂はこれより肉体を離れ、刑場に消える露となる―――」

 白熱するエネルギーの裡からアルフレッドの声が響いたかと思うと、無量に等しい光が炸裂するかのようにして爆ぜ、
周囲に垂れ込めていた鈍色の粉塵を、大火を成す猛炎を吹き散らした。

 光爆によって眩んだ眼が周囲の彩(いろ)と馴染み、一瞬遮られた視力が元に戻る中、
フツノミタマとネイサンはその余韻を後光の如く背負う人型のシルエットを炸裂の中心点に見つけ、思わず息を呑んだ。
 投げかけられる言葉の主は間違いなくアルフレッドなのだが、太陽の黒点が如く白色のキャンバスに落ちた闇色の虚像は
誰の目にもアルフレッドとは認識できなかった。

 フライトジャケットの裾が伸びたのか、あるいはロングコートに衣を換えたのか、白色の裡で象られたシルエットは、
ほんの数分前までアルフレッドが身に纏っていたそれと大きく装いを異にしている。
 肩口からは何本もの硬質な角が張り出しており、短めに切り揃えられていたはずの銀髪は大蛇がとぐろを巻くかのように長く伸び、
天を衝いて逆立っていた。
 光が爆ぜる直前にアルフレッドは「“猫”が振り向いた」と嘯いていたが、なるほど擬人化された猫のように見えなくも無い。
 サイドが鋭く張り出した前髪は猫の耳を象っていると言われればそうも見えるし、背面には尻尾めいた軟性の物質が
ウネウネと蠢いている。

 激しい逆光に覆われた虚像は、輪郭線でしかその姿を捉えられないものの、誰もが見知るアルフレッドとは
根本的に異質の存在だった。

「―――この『グラウエンヘルツ』によってな」

 光が掻き消え、おぼろげな幻でしかなかったシルエットが現実の世界へと定着した時、
フツノミタマとネイサンは再び息を呑み、今度は呻く言葉すら凍り付いた。

 淡い燐光を放つ黒色のロングコートに身を包み、豹のように鋭い真紅の瞳を爛々と輝かせ、
天を貫かんと逆巻く白銀の長髪も雄々しき異形の魔人が、光爆の痕(あと)を踏み越えて
その威容をエンディニオンへと具現(あらわ)したのである。
 裁判官―――いや、極刑を請け負う執行官の如く厳めしい異形と、例えようの無いプレッシャーでもって
現世に在る全てを怯えさせる魔人は自らをアルフレッドではなく、グラウエンヘルツと名乗った。

 古代語で“灰色の心臓”を意味するグラウエンヘルツ、と――――――。

「あ、アル!? キミ、ホントにアルなのかい? まさか変身しちゃうとは、こりゃおったまげたよ………」
「予想通りのリアクション、感謝すべきか、苦笑すべきか………。初めて見る人間は大抵同じことを言うよ」

 青天の霹靂と言う言葉があるが、それはまさにこうした事態を差すのではないか。
 ドスで掠められたのをきっかけに灰色の銀貨が共鳴し始めたと思ったら、
次の瞬間にはアルフレッドは異形の魔人へと変身(トランスフォーム)していたのだ。
 常識の範疇で許容できる事態を超えている、としか言いようが無かった。

 具現(あらわ)れるなりグラウエンヘルツの足元から巻き上がった灰色のガスも、また、常識や人智を遥かに超越するモノだ。
 ガスの性質上、周囲で燃え盛る炎へ吸い込まれるかのようにして溶け込んでいくのだが、
その瞬間、今まで消化液にも屈せず猛威を振るっていた劫火が影も形も無く消滅してしまった。
 圧縮されたガスによって火の勢いが衰え、吹き消された―――と言う様子ではなく、
あたかも最初からそこに“存在していなかった”かのような錯覚を覚える消失の仕方で滅してしまったのだ。
 劫火はガスに包まれた直後に原形を留めたままその場からフッとスクロールアウトしていた。
強いて類例を探すなら、そう、コンピュータ処理された画像データがモニター上から消え失せていく様に近い。

「いいじゃねぇか、いいじゃねぇかッ!! グラウエンなんたらっつったか? そいつがてめぇのトラウムかッ!!
とっておきの隠し球を秘蔵しとくなんざ、人が悪ィな、てめぇッ!! ハナから出して来やがれってんだッ!!」

 自然現象をも超越した成り行きに度肝を抜かれたフツノミタマだったが、ネイサンのように眼を丸くして腰を抜かすどころか、
先ほどまで滲んでいた失望の陰は表情のどこにも見当たらず、却ってこの異形の魔人へ闘争心を駆り立てられている様子である。
 胸部に受けたダメージなどどこ吹く風。闘志以外の何物も映さない瞳は嬉々として輝いており、
これ以上ない猛者へ挑める僥倖を心から喜んでいた。
 男の性(さが)と括るにはいささかアブない奇癖の持ち主のフツノミタマにとって、劫火を消滅させる異能を裡に秘めた魔人さえ
闘争心を満足させてくれる獲物にしか見えないのだ。

「立ち合う前に言ったはずだ。俺のトラウムは“発動させたくてもさせられない”と。反復してやるなど親切が過ぎるが、
結果、隠し球となったのは理由はそれに尽きる」
「発動のタイミングを手前ェで操れねぇってか? そりゃ難儀、そりゃあ難儀だな、オイッ!!」
「………なんだそのテンションは。極刑を宣告された囚人とは思えないな。………それとも死を前に壊れたか?」
「愉しいじゃねぇか、ゾクゾクするじゃねぇか………今日までの人生で一番の強敵が目の前に立ってやがんだぜ。
これで燃えねぇヤツぁ、男じゃねぇさ」
「………どこまでも酔狂だ」

 銀髪の下の顔はロングコートと同質の輝きを放つマスクで覆われていて表情を窺うことは叶わないが、
おそらくは呆れ果てて大きな溜め息を吐いていることだろう。

「………『シュレディンガー』は触れた瞬間にあらゆる物質を消滅させる常闇の雲だ。
どれだけ高度な刃を突き立てようと、どれだけスピードを上げてもシュレディンガーの前には無意味。
当然、根性で耐え切れるような代物でもない」

 威力を誇示するかのようにシュレディンガーと呼ばれるガスを広域へと散布し、
焼け落ちた瓦礫の山を覆って次々と消滅させていくアルフレッド―――いや、異形の魔人、グラウエンヘルツ。
 物体消滅のマジックを見ている錯覚に陥るほど、鮮やかに、貪欲に、シュレディンガーの渦は瓦礫を平らげ、
ガラハッドが心血を注いだ処理施設は、その殆どがほんの数秒の内に何も無い更地へと帰した。

「アンカーテールは際限なく標的を追い立て、自由を奪う。自由を奪い、シュレディンガーへと引き寄せる」

 背面から張り出した尻尾のような物体―――よくよく見れば奇形な背骨にも見える多関節のアンカーテールは、
グラウエンヘルツが宣告した通りに可動肢を無限に伸長し、恐るべきスピードで遠方のフラメウス・プーパへ迫る。

 折りしも軟体と高熱、獲物を捕食せんと張り出された触手にホゥリーたちが苦戦を強いられているところだった。
 強烈な爪とクチバシを駆使して物理攻撃を繰り出そうとするムルグだが、体内に取り込まれる危険性がある為に
フィーナに自重を促されて動けず、当のフィーナもSA2アンヘルチャントの激発には踏み切れない。
 わざわざ詳説する必要も無いが、クラップの流星飛翔剣は全くもって無意味。
 本人は喜んで懐中電灯を振り回しているものの、発達した感覚神経で索敵を行なうフラメウス・プーパには
視覚に類されるものは存在していない為、目潰し攻撃はするだけ体力を意味無く浪費する間抜けな行為だった。
 まともに戦えるのはホゥリーだけなのだが、彼の繰り出すプロキシの数々もフラメウス・プーパの防御力を前に効き目が薄く、
決定打に欠ける膠着状態が続いていた。

 そこへグラウエンヘルツの放ったアンカーテールが横から乱入し、可動肢でもってフラメウス・プーパを締め上げた。
 触手で獲物を捕獲するはずが、逆に拘束される恰好となったフラメウス・プーパだったが、
軟体をくねらせて懸命にもがいてもアンカーテールが締め上げる力には及ばず、
可動肢を引き戻すグラウエンヘルツの成すがままにされるしかなかった。
 瞬間一万度を発揮するフラメウス・プーパの熱量もアンカーテールには通じないようで、
可動肢を引き戻す間もグラウエンヘルツはダメージを受けた素振りさえ見せない。

 「ボキのフリーステージをロブるなんてホビーがバッデストじゃん!?」などと見せ場を横取りされたホゥリーのがなり声が響き渡る中、
グラウエンヘルツは引き寄せたフラメウス・プーパへシュレディンガーを浴びせかけ、仲間たちが手を焼いていた軟体クリッターを
アッと言う間も無く消滅させてしまった。
 欠片の一つも残さない、完璧な消滅だった。

「これを見てまだ笑っていられるか? 勝機を見出せるのか? 触れた瞬間に自慢の白刃も技も無窮の闇へ飲み込まれると言うのに」
「上等だぜ―――勝つ。つーか、克つッ!!」

 フラメウス・プーパをいとも簡単に滅したグラウエンヘルツの恐るべきコンビネーション攻撃を目の当たりにしながら、
フツノミタマは恐怖でなく戦意をより一層昂揚させ、常闇の雲に“克つ”とまで言い切った。
 どうやらフツノミタマと言う男は、自分より強い存在を打ち負かし、魂に勲章をぶら下げたいと願う男の性が赴くままに生きているらしい。
 今となってはガラハッドに雇われていることさえ、頭の中から飛んでしまっているに違いない。

 動機の純不純は捨て置いて、単純な意志の強さであればこの場の誰よりも猛っているだろうフツノミタマを
正面に迎えたグラウエンヘルツとて負けてはいない。
 故郷の、グリーニャの未来が賭けられた大事な一戦なのだ。相手が何者であっても必ず倒し、確実に滅する。
 戦いとなった以上は村に仇を成す禍根を、今宵、完全に断つ気迫がマスクの下の表情(カオ)に漲っていた。

「なんたらって言うガスがオレを消し飛ばすのが先か、てめぇの首が飛ぶのが先か―――へへッ………たまらねぇぜ」
「宣告は覆らない。貴様の魂は極刑を享受し、冥土に発つ。………スマウグへ加担した報いを受けろ」

 最高潮に熱を帯びるグラウエンヘルツとフツノミタマの対峙だが、二人の戦いへ最も衝撃を受けたのは
超人的な激突を呆けたように傍観していたガラハッドその人だった。
 必勝の自信をもって嗾けた秘蔵のフラメウス・プーパが実害を与えることもなく瞬く間に消し去られたのだから仕方も無い。
 切り札と思っていたフラメウス・プーパなのに、実害はおろか、か弱い少女たちを驚かすのが精一杯。
 あまりに呆気ない退場と圧倒的な戦闘力の差を見せ付けられたガラハッドは完全に戦意を抜かれ、
腰砕けに尻餅をついてしまった。

 一応はシェインを抱えているものの、呆けた表情から分かる通り、ガラハッドは完全に脱力しており、
振り解こうともがけば容易く逃げ出せそうである。
 グラウエンヘルツの登場と絶対的な強さに沸き立つフィーナ(と気に入らなくてたまらないムルグ)の脇で
状況を的確に読み取っていたクラップがこのチャンスを逃すことはない。

「これでトドメだッ!! 流星飛翔剣ッ!!」
「………え? ―――ひょほわッ!?」

 フィーナに呆れられ、ムルグに嘲られて不発のまま活躍の場を与えられずにいたクラップ自慢の必殺技、
流星飛翔剣がついにガラハッドめがけて振り落とされ、彼の虚を精確に衝いた―――と言っても、
強烈な発光を放つ懐中電灯でガラハッドのしょぼくれた眼を眩ませただけなのだが。

 しかし、この奇襲めいた目潰し攻撃は大きな効果を上げた。
 腑抜けていたガラハッドは、突如浴びせられた強烈な光に一瞬視界を完全に遮断され、慌てて両手で眼を覆い隠した。
 そう、シェインを抱えていたはずの両手を使って眼を庇ったのだ。

「今だ! シェイン、走れ!!」
「おうとも! サンキュー、クラ兄ィっ!」

 あろうことか人質の束縛を自ら解くという失態を犯してしまったガラハッドだったが、気付いたときには既に遅く、
クラップの呼びかけに応じたシェインは追い縋る手の届かない場所まで駆け出していた。

「こいつを晩メシの代金にでもしてくれよ! スーパーロボットを目の前で見れる機会なんて早々無いだろーしねッ!!」

 シェインの背後…つまり追いかけてくるガラハッドの目の前で光の帯が爆ぜ、その光爆の裡から具現化されたビルバンガーTが
鋼の拳を地面へ叩きつける。
 あと少しガラハッドの足が前に出ていれば、脳天が押し潰されていただろう場所へと振り落とされた鋼の拳は、
昼間の立ち回りにおいて社員らを怯ませたときのように大地を烈震させたが、今度も今度で心理的影響は抜群である。
 もしかしたらペシャンコになっていたかもしれないというショックはガラハッドの心に激しい動揺を落とし、
シェインを追いかけるだけの気力を今度こそ完全に喪失させた。

 イタチの最後っ屁としては最良の成功を果たしたシェインは、勝ち誇ったようにガラハッドへVサインを見せ付け、
彼を追っ手から守るように仁王立ちしたビルバンガーTもそれに合わせて勝利のポーズを取った。
 溜飲が下る思いなのだろう、ビルバンガーTと共にVサインを作るシェインの顔には満面の笑みが浮かび、
夜の黒い闇とは好対照に晴れ晴れとしていた。

 社員らを鎮圧したグリーニャの村民たちもガラハッドの無様な姿やシェインとビルバンガーTのVサインに自分たちの勝利を改めて確認し、
盛大に勝ち鬨を上げ始めた。

「勝ったッ!! 俺たちは故郷を守ったんだッ!!」

 クラップの音頭に煽られ、勝ち鬨はますます高まっていく。
 長い間、良いように騙され続け、村の自然を汚され続けた恨みが報われ、浄化されるような盛大な勝ち鬨だった。

「………これはまた互いに戦(や)りにくくなったものだな」
「まじで萎えちまうから、あれだけは止めさせろよ。勝ち鬨ん中で戦うなんざ、さすがにオレだって、なぁ………」

 気合いを入れ直し、いざ決着に臨もうとしていたグラウエンヘルツとフツノミタマは顔を見合わせて頬を掻く。
 それはそうだ。勝利の宣言が成される横で戦いを続行させるなど、どう考えてもやりにくく、折角高まった戦意が
削がれて消沈することこの上ない。
 特にフツノミタマの意気消沈は甚だしく、最速の刃を繰り出すべく構えた居合いの体勢のまま、呆れたように口を開け広げ、
危うく鞘ごとドスを落としかける始末である。

 フツノミタマは戦意が消沈し、スマウグ総業は壊滅、社長のガラハッドに至っては放心状態でへたり込んでいる。
 もしかしたらこれで戦いを終えられるかも知れない、とアルフレッドの脳裏に淡い期待が浮かんだ―――その瞬間(とき)だった。

「―――ナメんじゃねぇッ!!」

 放心のまま座り込むガラハッドのすぐ近くで倒れていた社員の一人が不意に起き上がり、怒号を撒き散らしながら
シェインに向かって猛然と突進していった。気を失ったフリをしてチャンスを窺っていたのだ。
 ブーメランと思しき投擲武器型のトラウムが握り締められた拳には野太い血管が浮かび上がり、
血走った眼に殺意以外の感情を読みることは困難―――最早手加減も何も無い。
 スマウグ総業を叩き潰された全ての恨みを込めてシェインを殺すつもりだ。

 勝利を確信したことで油断しきっていたシェインは咄嗟のことに反応しきれず、足をもつれさせて倒れてしまった。
 繰り返すが、シェインは戦闘訓練を受けたことは一度も無く、ビルバンガーTという強大な戦力を有してはいるものの、
戦闘そのものに関してはズブの素人である。
 奇襲に反応できるだけの瞬発力を備えてはいないし、何より人から本気で殺意を浴びせられることもこれが初めてだ。
 迸るようなフツノミタマの殺意を受け流せたアルフレッドとは違う。シェインは純朴な片田舎の少年なのだ。

「う………あっ………ッ!」

 そんないたいけな少年が生まれて初めて本気の殺意を浴びせられたのだ。恐怖に竦み、腰を抜かしてしまっても
誰が責められるものか。
 悲鳴にも似た声で逃げろとクラップやフィーナに促されても竦んでしまったシェインの足ではそれが出来ず、
精神の集中が千切れてしまってはビルバンガーTを操作することも叶わない。

 ブーメランを振り落とし、直接殴殺しようとする激昂の社員とシェインの距離は数歩しかない。
 絶体絶命の危機を突破すべくムルグが突進を試みようとするが、どれだけスピードを上げてもブーメランがシェインを
捉えるよりも早く二人の間に割って入るのは不可能に思われた。
 異変に気付いたグラウエンヘルツのシュレディンガーやアンカーテールにも同様のことが言える。
 ………人一倍過剰に反応を示したフツノミタマが、仮にスマウグ総業を裏切って最速の棺菊を放ったとしても
シェインが殴りつけられる瞬間には間に合わないだろう。

「待ってっ! 止まってっ! 戦いはもう………っ!」

 無慈悲な行いを止めようとするフィーナの絶叫は、殺気に取り付かれた暴徒の耳になど届かない。
 ムルグの突進も、クラップの『流星飛翔剣』も、グラウエンヘルツのアンカーテールも何もかもが間に合わず、
ついに激昂の社員がブーメランを振り翳す。

 目の前で大切な弟分の命が奪われようとしている。そんなときに何も出来ないのか。
 シェインの命が奪われる様を指を咥えて見過ごさなくてはならないのか―――

(………どうする? どうしたらいい………?)

 ―――混乱と恐慌の真っ只中に在って、フィーナは咥えようとした指が、今、何を握っているのかを想い出した。
 自分の手にはSA2アンヘルチャントが………最速俊敏で社員の動きを封じられるリボルバー拳銃が
握られているではないか。

(………迷ってるヒマなんか無いっ! 戦うって決めたんだからッ!!)

 創出以来、SA2アンヘルチャントの存在そのものを忌避してきたフィーナにとって、拳銃を構えるのは生まれて初めてのことだ。
ましてトリガー(引き金)を引くなど、これまでに一度だって考えたことも無かった。
 だからと言って、もう迷っているだけの余裕は無い。ハンマー(撃鉄)を起こすのが恐いからと躊躇っている機(とき)でも無い。
 アルフレッドに教えられ、飛び出す前に決意した「大切なものを守るとき」とは、今、この瞬間なのだ。

 威嚇射撃で敵を怯ませれば、ブーメランだけでも撃ち落せば、あるいは血路が開けるかも知れない―――
一縷の望みを込めて、フィーナは生まれて初めてSA2アンヘルチャントのハンマーを引き起こした。震える指先でついに引き起こした。
 狙うは激昂の社員がブーメランを握り締めた左腕、ただその一点だ。

(落ち着け………落ち着け………落ち着いて、私の心臓………ッ!)

 以前に一度、アルフレッドから標的を狙い定める照星の使い方を教わったことがあるが、
パニック状態に近い思考回路がそのときの記憶を引き出せるわけも無く、フィーナは目測でもってブーメランに銃口を合わせた。
 心に切るのは決して十字ではない。人を殺めるのでなく、命が無意味に犠牲になるのを防ぐために撃つのだ。

「止まって―――――――――ッ!!」

 シェインを救い、暴挙に走った社員が過ちを犯す前に助けてあげたい―――いつだって心に灯る優しさを弾丸へ込めて、
フィーナはトリガーを引いた。

「―――あ………っ!?」

 生まれて初めてトリガーを引いたフィーナだったが、弾丸を発射した後に襲って来るブローバック――弾丸の推力である炸薬を
爆発させたことによって生じる強烈な反動だ――に撥ね付けられ、着弾も確認できないまま後方へ吹き飛ばされた。
 まさか自分にまで衝撃が返ってくるとは夢にも思わなかったフィーナは、ブローバックに対する心構えも準備も
出来ておらず、無防備のまま地面へ倒れ込む恰好となったのだ。
 鼓膜も反響が収まらず、聴覚までもが一時的に失われていた。

 吹き飛んだ際に軽く頭を打ったらしく、一瞬、目の前が真っ暗になる。
 閉ざされた視界の中、何かが倒れるような音を聴いたフィーナは、威嚇射撃に驚いた社員が尻餅でも付いたものと確信し、
大慌てで頭を振ると意識を現実に引き戻した。

「………え………」

 彩を取り戻した瞳にまず飛び込んできたのは、信じられないと言った様子で硬直するグリーニャの村民たちだ。
 血色を失い、顔面を蒼白にする彼らの視線はある一点へと絞り込まれている。
 皆の焦点が交わる先へ視線を巡らせようとするフィーナだが、防衛本能とも言うべき場所が警鐘を鳴らし、
「見下ろすな、見下ろすな」と脳裏で繰り返す。
 凶兆を直感した神経が脳へ作用し、吐き気をも励起してフィーナの視線が皆と交わるのを防ごうとする。

「あ…ぐッ…うあッ………あぁ………ッ!………ッ………―――――――――」

 だが、いなかる心の働きも、生命力を最期の一滴まで搾り出すかのような悲鳴に煽られたフィーナの意識を
安全な場所―――無垢な処に留め置くことは出来なかった。

 皆が一様に視線を落とした先には、ブーメランを放り出した社員が左胸を押さえながらジタバタとのた打ち回り、
先ほどまでの殺意を痛みと苦しみに塗り変えて悶え、やがて糸が切れたかのように動かなくなる様が在った。
 体温を失って冷たくなり、もう二度と動かなるまでの一部始終が、誰の眼にも、心にも、克明に映された。
 荒く小刻みに吐き出されていた呼気が途絶えるまでの一部始終が。

 SA2アンヘルチャントから放たれた弾丸は、狙い定めたはずのブーメランを外して最もあってはならない場所を貫通していた。

「あ………あぁ………」

 SA2アンヘルチャントの銃口から立ち昇り、鼻腔を衝く火薬の臭いは、誰が彼の繰り糸を切ったのか、
その事実と現実をまざまざとフィーナへ突きつける。
 左胸から零れ落ちた赤い雫の匂いは、フィーナの指先を絡め取り、震える指先がSA2アンヘルチャントを引き剥がすことを許さない。
 呵責から逃れることは出来ないと、犯してしまった罪と罰から逃れることは出来ないと………SA2アンヘルチャントを
握っている限りは決して離れない責め苦でフィーナを縛り上げる。

「うわあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――――――ッ!!」

目の前で起こったことの全てが、自分を取り巻く全てのことが悪夢のように感じられた。悪夢であって欲しいと願った。
しかし、悪夢であれと願えば願うほど、フィーナの心は現実と言う名の楔に軋み、いくら上げても逃避に足りない絶叫を、
喉が嗄れて血を吐き出すまで響かせるしか無かった。

あるいは、血を吐くほどに責め苦を呻こうが、喚こうが、罪の楔を抜き取ることは叶わないのかも知れない。




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