3.エンディニオンの挑戦 「それよりも気になるのは赤いマーブル模様ですよ。 ご覧になってください、夥しい数の斑点が飛び散っています」 他の面々の声色が感情の振幅によって揺らぎに揺らぐ中、レナスの声だけは平素と全く変わっておらず、 だからこそ、ニコラスもぎょっとして彼を振り返り、その様子をまじまじと改めてしまったのだ。 この場にいる誰もが“半身を取り戻した喜び”に打ち震えているものとばかり思っていたのに、 まさか例外が現れるなどと誰が予想しただろうか。 しかも、例外となったのは自分と同じく『ノイ』に生まれ育ったレナスである。 彼は感情を昂ぶらせるフィーナたちとは正反対の冷静な調子で地図上に見る異様なる紋様へ注目していた。 アルフレッドやミストらと関わる内に深く感化されたからこそ、 “半身を取り戻した”瞬間にあれほどの強い衝撃を受けたのか? 自分のようなバックボーンを持たない“こちらの世界”の人間は、フィーナたちとは違うと言うのか? 合併された『エンディニオン』を見せられても、レナスと同様に感情一つ揺らがないのが、 本来の姿なのだろうか? 唯一の例外はネイサンだろう。フィーナから依頼された用事の為に外出し、 戻ってきたら部屋の中で仲間たちが号泣していたのである。 感化される以前に驚愕あるいはドン引きが先立っているらしく、 事情を説明されてからも殆ど呑み込めないといった様子で頬を掻き続けていた。 しかし、レナスは違う。ここに至るまでの全てを見届けていたはずではないか。 (世界がどうとか関係ねぇハズだろ、この昂ぶりは。そうで無けりゃ、おかしいじゃねぇか……!) ふたつの『エンディニオン』へ強い想いを持つニコラスにとって、 ふたつの民の間で感受に格差があることは何より由々しき問題であった。 「……あんたは――」 “どうして冷静でいられるんだ”――そう問いかけようとするニコラスを無言の内に遮ったレナスは、 口元へ微笑を浮かべていた。少し困ったように眉が山形を描き、 僅かに吊り上がった口元も返答を拒絶するかのよう真一文字に結ばれている。 それは、触れてはならない物を裡に抱えている人間だけが持つ哀しい微笑だった。 ホゥリーやダイナソーと言った礼儀知らずで空気も読めない人種であったなら、 レナスの見せた表情を不躾にも穿り返したいただろうが、ニコラスは朴訥でも無礼でもない。 彼の表情から複雑な胸中を察して静かに頷き返し、それ以上の問いかけを控えた。 「話を戻しましょうか――ワインレッドのマーブル柄を撒いたのも、ライアンさんですよね?」 「へ――あ、う、うん。なんとかって基地を脱出するときに見たものを基にして、 この地図を再現してみたんだけど、そのとき、赤い斑点も見つけたからついでにマーキングしとこうかなって。 記憶も曖昧だったし、所々間違ってると思うから、あんまり見ないでくださいね?」 「あの一瞬でよくここまで憶えられたと感心してしまいますよ、フィーナ様。 僅かながら私も赤い斑点があったことを記憶しています」 感情の揺らがない理由に対する追求をニコラスが控えてくれたことで 再び会話のイニシアチブを握ったレナスは、フィーナの再現した世界の俯瞰図と、 そこに散見される赤い斑模様を指差しながら自身の考察を披露していく。 フィーナが切り貼りして完成させた『エンディニオン』の地図上には、 無数の赤い斑模様が散りばめられており、レナスはこれに注目した。 「何か気付きませんか、皆さん? ヴィントミューレさんは?」 「急に振られてもわからねぇ――とか、お決まりのボケを吹いてやりたいところだが、 気付く気付かないどころの話じゃねぇよ、こいつは……ッ」 「『ルナゲイト』、グドゥーの砂漠地帯――忘れもしません。 私たちがギルガメシュと戦った場所がマーキングされています。ですよね、ファーブルさん?」 「ただ戦った場所じゃないよ、タスクさん。これは、そうだ……。 ギルガメシュがいきなりテレポートしてきた場所が赤く塗り潰されているよ」 「皆さんのこれまでの戦いを窺っていなければ、きっと見落としていましたよ。 ――そうなんです、赤いマーブル色は、ギルガメシュがテレポートして現れたという場所と 完全に合致しているんですよ」 レナスが提起し、タスクとニコラス、それにネイサンがキャッチした通り、 地図上に散らばった赤い斑模様には、ある一定の法則を見出すことができた。 一見、アトランダムに散りばめられた恰好の斑模様ではあるものの、 注意力を総動員して凝視すれば、『ブクブ=カキシュ』が降臨した『ルナゲイト』や、 連合軍を挟撃に敗走せしめたグドゥーの砂漠地帯――『灼光喰みし赤竜の巣流』など、 ギルガメシュの兵団によるテレポートが確認された場所へマーキングが為されているのだ。 ニュースや新聞などで伝え聞いたその他のテレポート箇所にも、ことごとく赤い斑模様が飛散していた。 「偶然にしては出来過ぎてるよね、やっぱり」 「一部には私たちの知らないポイントもありますが、おそらく記録目的のマーキングでは? テレポーテーションした箇所をチェックする為の……」 ギルガメシュが何を目的として地図上へマーキングを施したのか、 その背景を探り当てることまではネイサンにもタスクにも出来ず、 それだけに二人の背筋をジットリとした戦慄が這いずり回る。 敵から入手した情報は全てが全て味方に有利とは限らず、 理由や動機の見えないモノほど言い知れぬ恐怖と焦りを急き立て、 アドバンテージを得るどころか逆に心理的なダメージを被ってしまうことがあるのだ。 ふたりの背中に不快な汗を噴き出させたプレッシャーは、まさにその類の心理的ダメージである。 (疎外感は……否めませんね、やっぱり……) 戦慄するふたりの様子を尻目に、散見される斑模様を指差しながら考察を進めるレナスだったが、 実はこのとき、口頭にて紡ぐ言葉とは全く異質な思考を脳裏に浮かべていた。 異質な思考と共に反芻されるのは、結合された『エンディニオン』の俯瞰図を目の当たりにしながら 全く取り乱さなかった自分に対してニコラスが向けた驚きの表情だ。 (私も私で驚いてはいたんですけどね……しかし――) こう言う場でも感情を揺らがせることの許されない自分の境遇を、レナスは改めて苦々しく思う。 歴史的な瞬間へ立ち会えたと言うのに、仲間たちと感動を共有することも出来ないのだ。 (――皆さんと一緒の気持ちは、私は永遠に共有できないでしょうね………) これに勝る屈辱は早々あるまい――思えば思うほど、心の水底へ嵐を呼ぶ息吹が立ち始め、 「ここで発作を起こしては本末転倒だ」とレナスは懸命に踏み留まろうと努める。 心の働きが自分の制御を超えようとしたとき、教皇庁に伝わる神聖語を繰り返し唱えることで 平常心を保っている。丁度、発作を押さえ込むのに丁度良いクスリとなっており、 抑えきれなくなる間際まで感情が昂ぶった際にはこうして心を凪へと戻している。 「――は? あ、あの? クドリャフカさん? どうかされたのですか?」 「あ――すみません、急に。今のはちょっとした精神統一なんですよ。一種のお祈りです。 なんと言いますか、説明を続けるのに、ちょっと集中が必要になったもので。 気にしないで流してやってください」 「それにしては自己主張の激しいお祈りでは? 聞き流すの無理と言いますか、 妙にイヤに耳に残りますの。三日三晩は魘されそうですことよ」 「……罰が当たっても知りませんよ」 傍目には何の脈絡も無く大仰に祈りを始める奇人と見られてしまい、 隣に座っていたアンジーに至っては露骨に顔を引き攣らせていたが、 発作が出そうになっている状況では背に腹は代えられない。 「……失敬、話を戻しましょう」 「あれだけ意味不明な言葉で念じておいてするりと話に戻れるのは、ある意味、スゲェと思いますことよ」 神聖語の反復によって仕切り直しを果たしたレナスは、横から入ってきた雑音を完全に黙殺し、 「無視とは失敬な!」と頬を膨らませるアンジーを尻目に自身の考察を再開した。 「赤いマーブルの配置は敵の軍事拠点で得た情報をベースにしています。 ロッテインマイヤーさんは、先ほど、マーブルのマーキングをテレポートの記録だと仰いましたが、 その発想を裏返してみたら、どうなりますか?」 「裏返すと言われると――まさか……」 「ええ、あくまで想像の範疇を出ませんが――もしかするとこれは事後の記録ではなく、 兵団を敵地へ送り込むポイントを事前に絞り込んだ形跡ではないでしょうか? 予め用意されたものであったとするなら、この情報は大きく価値を変えます」 「ギルガメシュの連中が次にどこへ兵を送り込むのかが分かれば、 アルたちの戦いもかなりラクになるよな。オレらも叩くポイントを絞り込める!」 得心がいったようにニコラスが鋼鉄のグローブと生身の手を打ち合わせた。 「情報を整理する必要はあるけど、向こうを発つ前までに襲撃を受けていなかった箇所は、 今後、増援が送り込まれる予定があるのでしょうね」 「私たちが戦略上極めて重大な情報を掴んでいることに、敵はまだ気付いていないでしょう。 大きなチャンスが巡って来ましたね……!」 ネイサンとタスクも深く頷いている。これほど戦略的に重大なアドバンテージはないだろう。 「問題はどうやって皆さんのお仲間にこのことを伝え――」 「――私たちの『エンディニオン』と、こっちの『エンディニオン』! 二つの世界はもともと一つの物だったって、みんなに教えてあげようっ!」 「は? ……え?」 「あの地図に私たちが感じたことをこっちの『エンディニオン』の皆に伝えるんだよ! これで、世界は変えられるっ!」 赤い斑模様に秘されているだろう重大さに気付いた面々が、 より戦略的な方向へ考察を進めようとしたその瞬間(とき)、 レナスからイニシアチブを分捕ったフィーナが前後の脈絡を全く無視して素っ頓狂なことを宣言した。 最初に掲げたことへ会話の焦点を引き戻したと言うべきか。 思い切りソファに突き飛ばされた挙句、顔面からチャージした哀れなレナスを気遣うことさえ忘れ、 フィーナは興奮した調子で「世界を変えよう」と繰り返した。 「……ちょっと落ち着けって、フィー。話の流れが見事にぶっ壊れちまってる。 今の流れでその結論を出してくるのは、ちょっと唐突過ぎるんじゃねぇか?」 「フィーの考え方には全面的に賛成だけど、今は戦略を話し合うときじゃないかな。 アルの軍略に頼れない以上、こういう話し合いには皆で集中して望まないといけないって。 僕たちだけじゃない。『こっち』に飛ばされた他の皆は今も戦い続けてるんだから」 「ギルガメシュとは色々とございましたが、別働隊と本隊のことは、最早、分けて考えましょう」 ニコラス、ネイサン、タスクから立て続けにツッコミを入れられたものの、 いずれもフィーナの耳には届いていなかった。 「私たちが世界を変えられたら、ギルガメシュの兵隊さんたちの心だって、 動かせるかも知れない。ううん、きっと動く。……動くよっ」 「テロリストの心を動かしたって、どうなるもんでもねぇのではございませんこと? あいつらは暴力でしか物を語れねぇ腐れ外道ですことよ!」 フィーナのことを全力で支援すると誓ったアンジーではあるものの、 ギルガメシュとの戦争を蔑ろにし兼ねない発言にはさすがに同意出来ないようだ。 椅子を蹴とばすほどの勢いで立ち上がり、信じられないといった面持ちで頭(かぶり)を振り続けた。 「正直、私たちの言葉がまともに通じるかどうかも疑わしいところです。 暴力の応酬で故郷を蹂躙されたフィーナ様は、そのことを誰よりも承知なさっているでしょう。 ……それでも世界を、テロリストの心を動かそうとなさる理由が、私たちには見えません」 「世界を変えて、心を動かせたら――戦争が終わる」 戦争にまつわる議論を排斥せんとする態度へ当惑するアンジーとタスクを 澄み切った瞳で真っ直ぐに見つめながらフィーナは「戦争が終わる。戦争を終わらせたい」と、 少しの淀みも無く言い切った。 「私たちはギルガメシュのテロ行為を阻止する為に こちらの世界に飛び込んだんだよね? それに間違いは無いよね?」 「許されざるテロリズムを倒す――オレたちの目的は今も昔も変わらねぇよ」 「ギルガメシュを倒すのに必要なのは、武力や軍略だけなのかな? 力でしかギルガメシュは倒せないの?」 「フィーナ様……」 まさか、ギルガメシュとの和解を模索するつもりなのか―― 嫌な予感がタスクの脳裏を横切り、思わずフィーナ相手に険しい眼差しを向けてしまった。 根っこの部分へ平和主義を抱くフィーナであれば、不倶戴天の大敵であるギルガメシュにも 和解の糸口を見出すことを願っていても特に不自然ではない。 クトニアという少年兵との交錯を経たことで確かに別働隊には敵意以外の感情も抱いてはいる。 彼らの困窮には同情すべき点がないわけではない。 しかし、ギルガメシュとの和解だけは絶対にありえないし、 ふたつの『エンディニオン』を未曾有の混乱へ陥れたテロ組織は必ず倒さなければならない。 悪の枢軸たるテロ組織だけは徹底的に滅ぼす必要があるのだ。 そうでなければ、今日までの、そして、これからの歴史に正義を打ち立てることは叶わないだろう。 如何に慈悲深いフィーナの考えとは雖も、到底、認められるものではなかった。 「ギルガメシュは倒さなければならない。それは私にもわかっているよ。 ……私だって犠牲者のひとりなんだ。あの人たちがしたことだけは絶対に許せない……っ!」 だが、タスクの抱いた懸念はフィーナ自身の口で否定された。 「でも、相手が許せないからって――」 ギルガメシュ打倒への躊躇を否定した後、フィーナは二の句を継がずに一拍を置いた。 言葉を選ぶかのように、自分を落ち着けるかのように、深く深く深呼吸し―― 「……許せないから暴力に頼るって言うのは、何かが違うと思うんです。 暴力に訴えるだけが相手を倒す方法じゃないって。 心を動かして、テロ行為を辞めさせられるのなら、それが一番の解決じゃないかな?」 ――そう、思いの丈を吐き出した。 「私たちの『エンディニオン』と、ニコラスさんやレナスさんたちの『エンディニオン』が もともとはひとつの世界だったって根拠を説明することは私には出来ないよ? 理屈も理論もわからない。何がどうなって分裂したのかなんて、私自身、理解できてない。 自分が感じたままのことを話しているだけだから、きっとみんなも呆れてると思う。 仮説を一〇〇パーセント証明できる証拠も無いのに、 どうやって見ず知らずの他人に説明できるのかって……」 「フィーナ様……」 「でも、私は信じてる。想いはきっと通じるんだよ。 何度跳ね返されたって、何回足蹴にされたって、諦めない限り、チャンスは必ず巡って来る。 私はそのチャンスに賭けたい。人間の可能性を信じていたいんです」 何としてもフィーナを翻意させようと前のめりになっていたアンジーの顔は、 先程とは別の意味で熱を帯び始めていた。我知らず拳を握り締めていた。 「私たちの可能性がいっぱいに輝いたとき、必ず世界は変わる――奇跡が起こると信じているから……!」 フィーナ自らが説いた通り、ふたつの『エンディニオン』が合一のものであったと言う可能性は、 極めて根拠に足りず、児戯に等しい絵空事であった。 セフィとの決戦直前に設けられた会合でアルフレッドはふたつのエンディニオンが 極めて近似する世界であることを確かめ、その仮説を信憑性としてフィーナたちは 切り貼りされた地図に覚えた感情を“半身を取り戻した喜び”と銘打ったのだが、 世界の合一を証明する材料だと胸を張るには、あまりにも説得力に欠き、情報量も乏しい。 フィーナたちのようにふたつの『エンディニオン』へ深く関わってきた当事者であれば、 込み上げてくる感情に名前をつけることも、世界の成り立ちにまつわる意味を見出すことも出来るだろうが、 何ら事情を承知しない一般の人々がそこまでの深慮を持つとは限らない――否、思えない。 虎の子の地図を見せ、“半身を取り戻した喜び”を導き、その先は? ……その先が続かないのである。 ふたつの『エンディニオン』がもともとは一つの世界であったことを証明する論拠と説得力を、 今のフィーナは全く持ち合わせていなかった。 世界を変えると豪語するフィーナではあるものの、変革を実現し得る手段を持たない以上、 彼女の論は夢追い人の妄言に過ぎない。妄言でしかなければこちらの世界の人々を説得することも、 ギルガメシュ打倒も夢のまた夢。絵に描いた餅であった。 「その奇跡! 一枚噛ませていただきましてよッ!」 フィーナに同調した最初のひとりとして両腕を振り上げたアンジーは、 その決意を応援するよう仲間たちに賛同を求めるが、 ニコラスたちは顔を顰めたまま、賛成も反対もせずに押し黙っている。 心身ともによほどダメージが甚大だったのか、レナスはソファへ埋まったままピクリとも動かず、 他の面々とは別の意味で賛成も反対も出来ない状態だ。 分が悪い――顔を見合わせて頷き合ったニコラスたちはひとつの焦燥を共有していた。 平和主義者のフィーナらしい戦い方に共感しないと言えば嘘になるし、 自分たちの覚えた感動をより多くの人々と分かち合いたいのだが、切り札は論拠を得ない言霊だ。 これを掲げて特攻するなど無茶無謀に他ならず、ギルガメシュとの決着へ踏み出すには あまりに危険な賭けだった。 フィーナは地図のコピーを街頭で配布し、反応を確かめながら人々の説得を試みようと意気込んでいるが、 そうした目立つ行動は敵に自分たちの居場所を公表するのと同義である。 よしんば、ゼラール軍団が直接対決を避けたとしても、 同志もろとも地上に隕石弾を打ち込んでくるような人間が、 『アルト』への侵略行為を是とする狂乱の将士が和解を励行するような活動を見過ごすとは思えない。 つまり、如何なる状況へ転ぶとも、行動を起こせばギルガメシュとの戦闘は必然となるわけだ。 敵に包囲される危険を冒してまで試みるだけの価値を フィーナの作戦が秘めているとはどうしても思えないのだった。 こちらは数の上で圧倒的に劣る少数チームだ。 その上、『アルト』の人間は主戦力たる『トラウム』が使えない。 もし、敵対勢力と見なされて一個師団でも投入されたら、間違いなく勝機はもぎ取られるだろう。 「フィーナ様、地図を配布するにしても別な手段を探られてはどうですか? ……正直申し上げまして、貴女のなさろうとしていることは自殺行為に他なりません」 ギルガメシュの最終兵器を水際で食い止める――その使命を帯びて『ノイ』へやって来た以上、 億万分の一のチャンスに賭けるような真似だけは慎まねばならず、 タスクもいつになく厳しい口調でフィーナに制止を訴えた。 思いがけない反論に激昂し、強烈な睨みで迎え撃とうとするアンジーだったが、 気迫漲るタスクの鋭い眼光で返り討ちに遭ってしまい、あえなく白旗。 アンジーを射抜いた眼光は、次いでフィーナ本人に向けられた。 「インターネットで配布するとか、第三者にお願いしてバラ撒いて貰うとか、色々な方法はあると思う。 私のやろうとしてることは、きっとアルの生き方くらい不器用で、どうしようもなく危険だと思う。 ……でも、直接、言葉で伝えなきゃ意味が無いと思うんだ」 「駄々をこねる理由をお聞かせください。 でなければ、私はフィーナ様のお尻を叩かなければならなくなります」 「ギルガメシュを倒した後……全てが終わった後、二つの世界の人たちが、 本当の意味で手と手を取り合えるようになるかは、この試みにかかってると私は考えてます」 「今は分かれてしまっているけれど、もともと一つの世界の住人なんだ。 争う理由も無い、手を取り合って復興に励もうって……みんながそう思ってくれるのかどうか、 私はそれを見届けたいんです」 「……フィーナ様……」 「……戦いの最前線に立つ私たちが果たさなきゃいけない義務なんです」 握り締めた拳が平手へと解かれるように、タスクが研ぎ澄ませていた鋭い眼光は、 フィーナより放たれる明日への兆しを感じるや驚きに見開かれ、それから喜びに細められた。 涙の跡がすっかり乾いた頬を掻くニコラスの眼も全く同じ彩りを灯している。 ギルガメシュを倒す――『アルト』に残留した同志たちと誓い合い、 実現に向けて邁進してきた宿願だ――が、誰も彼も“その先”については言及していなかった。 ギルガメシュを倒した先に何を成そうと言うのか? 戦いの先に何を築くのか? 誰も彼も……苛烈な現在(いま)を守り、やがて迎える未来(あした)の安寧を 勝ち取ることにのみ意識を囚われた結果、勝ち得た地平に求める答えを置いてけぼりにしまっている。 仮にギルガメシュ打倒後のビジョンがあったとしても、 せいぜい『エンディニオン』を元ある秩序へ戻す程度ではなかろうか。 ゼラール・カザンやアルカーク・マスターソンのような野心家であれば、 戦後の混乱に乗じて一山当てようと画策しているかも知れない。 このとき、誰か一人でも気付いただろうか? 異なる文化、文明を持った二つの『エンディニオン』が融合したその時点で、 世界のルールを“元ある秩序”へ戻すことなど不可能なのだ、と。 異なる民族が肩を並べて一つの世界に収まることが宿命付けられたその瞬間に、 『エンディニオン』は、これまでの常識・歴史が通用しない新たな次元へ移ったのだ。 戦いの先に全く新しい答えを用意しておかなくてはならないハズなのに、 人類は、未だ足踏みを続けている。 旧い次元の奥底で、青さすら霞む空の高さを仰いだまま、 停滞した時の歪みの只中往くことにのみ囚われ続けている。 悪の枢軸と忌まれるギルガメシュであっても、それに抗する正義の標榜者であっても、 旧い次元を“世界の在るべき姿”と掲げて武器取る以上は、前進無き時代(とき)の囚人なのである。 相克する牙同士、崖っぷちギリギリで戦わざるを得ない動乱の渦中に立っているのだから、 現在(いま)より先に大局的なビジョンを持てるだけの余裕が無いのかも知れない。 そうした体制が時代の停滞を生じさせ、 旧い次元での彷徨を是とする悪しき風潮を呼び起こすと痛感し、 新しき胎動を起こさんと足掻く者だって在るに違いない。 いや、違う。一握の人間が足掻いているわけじゃない。 本当は誰だって想っているのだ――新しい世界へ手を差し伸べたいと願ったフィーナのように。 「――やりましょう、私たちの手で」 「あれ、生き返ったの? いつまで経っても起きないから、 てっきり首でもやっちゃったかと思いましたよ」 「失敬な言い方しないでくださいよ。これでも人並みには鍛えているつもりですよ」 「自慢話なんか聞きたくないけど、『やりましょう』ってコトは……」 「どこまで出来るかはわかりませんが、私たちの手でやってみましょう――そう言ったのです。 やってみましょう、『エンディニオン』を変える挑戦を」 ソファへ突っ伏したまま沈黙していたレナスがネイサンとのやり取りの中で発したのも、 「ま、敵の動きがわかったっつっても、アルたちに情報を伝達する手段もねぇし、 ビラ配り以外に頭のいいやり方が思いつくわけでもねぇしな。 今日までの信じられねぇ戦いを思えば、無茶も貫いてこそって思えるぜ」 「ええ、無い物ねだりに努めるよりも、今ある現実と可能性へ力を注ぐほうがよほど合理的ですね。 アルフレッド様も、おそらくそう仰ったに違いありません」 フィーナの願いにニコラスとタスクが深く頷いたのも、 「何から手を付けますかしら? コンビニかどこかで地図をコピーしなくてはいけませんが まずはそこからから手を付けまして?」 「コピーするにしてもコンビニでは悪目立ちしますから、ホテルの方に頼んでみましょう。 こう見えて顔は利くほうですから、任せて貰って構いませんよ」 「それじゃ、地図の複製はクドリャフカさんに任せるとして――次は場所を決めなくちゃだね。 ラス、ガンドラグーンでちょいと一回りして人通りの多そうな場所を探してくれないかい?」 「ネイト様、ベストアイデアです。広場か公園があれば、なお良いのですが……」 「タスクもネイトも無茶振りすんなって。町中でガンドラグーンなんか乗り回したら、 ギルガメシュに見つけてくれっつってるようなモンだぜ。 仕方ねぇから徒歩(あるき)で探してくるぜ。軽やかなスキップ気分でよ」 旧い次元からの脱却へ向かう衝動の起源は、フィーナの願いと全く同じであった。 「――ほら、もう出来た。あっちの世界とこっちの世界、 ふたつに分かれた『エンディニオン』の住人がこうやって手を繋げるんだもん。 私たちが特別なんじゃない。私たちに出来たことは、みんながみんな、心を通わせられるって証拠なんだよ」 一つに重なった世界へ去来したあの喜びを、遥けき故郷へ流したあの涙を、全ての人に伝えたい。 『エンディニオン』の地平へ誰も見たことのない光の種子(たね)を撒こう。 「―さあ、飛び出そう! 『エンディニオン』を変える挑戦の始まりだよッ!」 戦いの先に在る新たな次元と、それに相応しい答えを求める第一歩が、 大いなる希望の第一歩が、今まさに踏み出された。 * 大いなる挑戦と綺麗に締め括られていたら美談になったのだろうが、 「理解できない。何をどう勘違いしたらこうなってしまうのか、理解ができない」と、 うわ言のように繰り返されるレナスの嘆息を見る限り、着地≠ヘ失敗しそうである。 「客を引くにはそれなりのやり方があるのかもな。 ただチラシを配るんじゃなくてよ、町行く人の足を止まらせるような何かがさ」 レナスの精神状態を哀れな夢遊病者さながらに至らしめた発端は、ニコラスが発した何気ない一言だった。 このとき、街頭で地図のコピーを配布し始めて既に三度目の昼を迎えていたのだが、 フィーナが当初に予想していた以上に経過は芳しくなかった。 “芳しくない”どころの話ではない。『アルト』と『ノイ』の間に横たわるギャップの前に苦しめられ、 半ば足踏み状態を強いられていた。 配布開始の初日からフィーナたちは渾身の力でもって声を張り上げ、 「世界の秘密、ありマス☆」と記された幟旗まで掲げてふたつの『エンディニオン』に秘された真実を 訴えかけたのだが、向けられるのは、冷ややかな視線ばかり。 たまに靴音が止まることがあっても「騒音だ」「公害だ」とフィーナたちの活動を悪し様に非難するか、 「頭、イカれてるぜ」と嘲笑するかの二択である。 手渡した地図をその場で破り捨てられたのも一度や二度ではなかった。 用意した地図のコピーを五分の一もサバけず、代わりに悪質なイタズラや誹謗中傷を招いてしまったのは、 周囲の空気を読まずに自分たちの意見を主張し過ぎたからだ。 白い眼で見られてしまった原因を分析したフィーナたちは、 前日の反省を踏まえ、呼びかけの声のトーンを少し落として二日目へ臨んだのだが、 状況は全く変わらなかった。何ひとつ初日と変わらなかった。 誹謗中傷が悪化する兆しも無ければ、好転する兆しさえ見えない。 つまるところ、フィーナたちの活動は『ノイ』の社会において全く無価値なモノ、 眼中に入れるまでもないモノだと見なされていた。 何としても世界を変えるとの意気込みで活動に臨むフィーナにとってこの状況は堪える。 賛成してくれる動きが無いどころか、世界の融合にまつわる矛盾点を指摘したり、 無茶苦茶な理論へ突っかかるほどの価値すら無いと宣告されているのだ。 レスポンスの返されない運動ほど虚しく、身心へ深刻なダメージをもたらすショックは無い。 真横で精を出しているティッシュ配りやストリートダンサーのほうが遥かに町行く人たちの気を引いていた。 『エンディニオン』へ大いなる革新をもたらさんとする偉業が、 ピンクサロンの喧伝を兼ねたティッシュ配りに大差で負けているのだから、それは落ち込みもするだろう。 ストリートダンサーにまで「萎えるから、別の場所へ移動してくれないか」と言われてしまい、 いよいよダメ押し。配布開始から三日目に入った今日は、フィーナの面にも迷走の色が強く滲んでいた。 異なる世界への強制転送が多発する現在(いま)、 フィーナたちの訴えは世界規模の関心事である筈なのだが、 だからと言って、何の脈絡もなく「自分たちはもう一つの『エンディニオン』からやって来た住人だ。 二つの『エンディニオン』はもともと一つだと証明できる。だから、手を取り合おう」などと街頭宣伝して、 果たして誰が信じてくれるのか。 証明出来るものがコピーされた地図以外には無いと言う論拠に欠いた弁を、 誰が真摯に受け止めてくれるのか。 たとえどんなに喉を嗄らして訴えても、たとえそこに真実が秘されているとしても、 サイエンスフィクションさながらに荒唐無稽でリアリティを欠いた代物では、 新興のカルト系宗教か何かの勧誘と見なされてお終いだった。 能力と業績のみが問われる弱肉強食の競争社会である『ノイ』の住人を 相手にしている点にも意識を配らなければならない。 誰もが行き急ぎ、他人を出し抜いて成功を収めようと躍起になっている過酷な世界の住人たちが 宗教紛いにしか聞こえない街頭演説へ耳を傾ける可能性を、フィーナは全く考慮していなかった。 もとは同じ世界の同胞(はらから)なのだからと、和解へ期する希望は確かに輝かしいが、 一歩間違えれば油断を生み出す怠慢の温床と化してしまうのだ。 その点、フィーナは完全に認識を誤っていた。 有益になるモノにしか興味を示さない過酷な社会が相手なのだ。 リアリティを醸造する努力を怠った、漫画顔負けの突拍子も無い弁を聞く為だけに慌しい足を訳が無い。 希望の底から染み出す甘えは熟慮の思考を鈍化させ、 こうした社会の風潮に対する認識力をフィーナから奪い去ってしまっていた。 油断を極めたその結果が、初日、二日目と続く悲惨な状況と言う次第である。 「お客さんを引くにはそれなりのやり方があるのかもね。 ただチラシを配るんじゃなくて、町行く人の足を止まらせるような何かがさ。 ある意味、商売の基本にも通じることだよね」 アピールの手法を見直し、興味を抱いて貰えるような付帯価値を設けては どうかと言うネイサンの提案が満場一致で採択され、そして、現在に至るわけだが―― 「理解できない。何をどう勘違いしたらこうなるのか、理解ができない」 ――成り行きの一部始終を見守ってきたレナスには、ハッキリと断言できた。 自分たちの活動が道を踏み間違えたのは、まさしくその瞬間(とき)だったと。 「ネイトさんの言う通りだよ。私たちは重大な見落としをしていたんだっ。 うん! そう! そうだよっ! そうなんだよッ! そうなんだったらッ!」 「何か思いついたみたいですわ! フィーさんが何か思いつかれましたわ!」 「ご自分一人で納得されても困ってしまいますよ、フィーナ様。 良いアイディアは皆で共有して、考えて参りませんと」 「自分たちの想いを押し付けるばかりじゃなく、相手の気持ちも考えなきゃいけなかったんだよね。 何だってそうでしょ? 変にがっついたら、知らん顔されちゃうのは当たり前だよ」 「恋愛指南みたいな話になってきたけど、大丈夫かよ。 放っておくとアルとフィーの馴れ初めなんか語りだすんじゃねーか?」 「違う、違うって! 恋愛だけじゃなく、どんなことにも言えることでしょ、 押し付けがましいやり方は嫌われるって。私たち、押し付けてばっかりだったよね?」 「書類の配布を一方通行な押し付けに括るのであれば、確かにライアンさんの仰る通りですが……」 「でしょ、でしょ。だから、私たちはダメダメだったんだよ! 地図と一緒にチーズを配るくらいのサービス精神を見せなきゃっ! 私たちの本気を、もっと別の形でアピールしなきゃっ! ――変わるよ、明日から! キメるよ、次で! 私たちも変わろうっ! 世界を変えるためにッ!」 誰か一人でも気付くべきだったのだ。 ネイサンの提案を耳にしたとき、精神的な疲弊が相当に溜まっていたフィーナの双眸が 尋常でなく危なかったコトに。 「選曲、マズッちゃったかなぁ……ダンサーの人たちまでどこかに逃げちゃったよ」 「こーゆーときこそサムの出番だってのに。肝心のときにいねぇんだから、まじで使えねぇぜ」 「サムさんは歌、上手なんですか?」 「唄いこんでるぜ、あいつは。もちろん、唄いこんでるっつってもカラオケレベルだけどな。 オレはダメだ。ギターをちょっと齧ったくらいで、唄うほうはからっきしだよ」 「歌は心ですよ。上手下手じゃありませんって」 「いや、そもそも歌関係ないってことにそろそろ気付いてみませんか?」 「だよな。自分で言うのもなんだが、芝居は結構決まってたと思うぜ? フィーナもなかなか声出てたじゃねーか」 「こ〜見えて学芸会のお芝居では、十年連続最優秀主演女優賞だったんですよ。 台本も書いてたし、実はそっちの才能もあったりして」 「アタクシ、フィーさんの才能に惚れ込んでしまいそうでしてよ。 鬼気迫りまくりで、正直、ブルッてしまいましたの」 「いや、地図配って訴えるのに鬼気迫る必要は全く無いってことに、いい加減、気付きましょうよ?」 「いちいち何なのですか、クドリャフカさんは。ヘンな横槍ばっか入れくさりやがりますのね。 新しいコンセプト、ソング・ウィズ・コマーシャルとフィーさんも説明されたじゃないですか」 「良いんですよ、これで! だって、広い意味ではこれもミュージカルのひとつですし!」 「今すぐあなたは全世界のミュージカル関係者に謝罪すべきだ」 三日目の配布活動は前日までの反省を踏まえた下準備に時間を要した為、 午後からと開始されたのだが、フィーナはここで常人には とても真似できない前衛的な宣伝方法を実施したのである。 それが『ソング・ウィズ・コマーシャル』であった。 ただ漫然と地図配り、訴えかけを行なうのでなく、共感を求める弁を歌に乗せ、 舞い踊りながら地図をバラ撒き、手を取り合うことの素晴らしさ、 異なる世界の人間同士が争う悲劇を小芝居として演じるソング・ウィズ・コマーシャルは、 フィーナたちが予想した以上の衝撃と波紋を呼び起こし、人々は蜘蛛の子を散らすようにして離れていった。 注目を集めるどころか、悪目立ちした挙句に前日以上にドン引きさせてしまっていた。 当然と言えば当然の流れであろう。昨日まで新興宗教としか思えない喧伝活動を強行し、 町行く人々にさんざんに無視されていたと言うのに、 今日になって、突然、ご陽気に唄い踊り始めたのだから、 いよいよ頭がどうかしてしまったと思われるのはごくごく自然の筋運びだった。 現に昨日まで隣で陽気なヒップホップに合わせてステップを踏んでいたストリートダンサーたちは フィーナたちの狂態(を目の当たりとするなり一目散に逃げ、 たこ焼きとクレープの屋台からも瞬時にして笑顔が消えた。 昨日までは冷たいまでも視線を交わしてくれる人がいたのだが、 ソング・ウィズ・コマーシャルが実施された今日は存在そのものを黙殺されてしまっていた。 実際問題、フィーナが発案したソング・ウィズ・コマーシャルは、 演劇集団と新興宗教の合いの子にしか見えず、常識と言う一般向けの観点から判断するに、 “痛ましい類の人々の、これまた痛ましい行動”と町の人々から認識された事実は覆りそうもない。 あのとき、フィーナの異変に気付いていれば、最悪と呼ぶべき事態を避けれたかも知れないと 悔やむレナスだが、起こってしまったことを取り返すことは最早叶わなかった。 どこで調達したのか、“そのテの層”にウケそうな巫女服をアンジーとペアで身に纏ったフィーナと、 何故かメイド服で女装したネイサン、「世界の秘密、教えますマス」なる謳い文句のしたためられた幟旗を そこかしこに立てた『ガンドラグーン』へ跨るニコラスは、 やはり特定の層へアプローチする為か、ヴィジュアル系バンドのような仰々しい恰好である。 彼らの全力で間違った努力が裏目に出て、和解を取り持つ可能性は、この日、完全に絶たれた。 それ以外の判断をレナスは持ち得なかった。『エンディニオン』の真実を伝えようとした熱意は察するし、 勇気ある行動は称賛に値するのだが、その盛大な空回りが最悪の事態を招いたとしか言いようもない。 「ライアンさん、これはちょっとした興味でお尋ねするのですけれど、 学芸会のお芝居に参加された女優は何人だったんですか? ……いえ、まさかと思いますが、ライアンさんだけだったってことは……」 「――えぇッ!? 一回でビンゴですよ、レナスさん! もしかしてエスパーだったりします? それとも実は『グリーニャ』出身とか? それとも主演女優特集の空気が滲み出ちゃったりなんかして?」 「どうして、そこで黙りこくっておられるんでして? フィーさんにお答えなさい! てゆーか、なんで、そんなに疲れた顔してるのかしら?」 試しにフィーナへツッコミを入れてみたものの、何も分かっていない様子である。 この調子では全員に過ちを指摘するだけでも体力が保ちそうにない。 諌めること自体が無駄な努力と悟ったレナスは諦めの溜め息と共に肩を落とした。 アイドル風の衣装を着せられたタスクは真っ赤になったまま物言わぬ彫像と化しており、 ツッコミを入れるのが気の毒に思えてあえて受け流しておいた。 何か新しい刺激を与えればたちまち卒倒してしまうくらい、タスクの面は羞恥に染まっている。 羞恥にやられて硬直しておきながら、唄い始めればウィンクまでキメてしまうあたり、 意外とノリノリだったのかも知れない。 「明日は別の場所、攻めてみようよ! 演目も変えてさ! したら、もっと違うアプローチが見つかるかもだよ!」 「コカッ! コカコカッ!」 前日以上に人の足が寄り付かなくなっているにも関わらず、 まるでへこたれていない様子からして、明日もこの調子で臨むつもりなのだろう。 いつまで発作を抑え込んでおけるのかと言う悩みよりも、 何時、胃に穴が開くかのほうがレナスには心配になって来ていた。 ブレーキ役とも聞いているアルフレッド・S・ライアンがいない今、 フィーナたちの暴走を止められるのはレナスだけなのだが、 交流が深まったとも言い難い彼には荷が重過ぎた。 「大丈夫。巫女服って言うコーディネートもパ〜ペキだし、 これでナウやヤングのトレンドをガッチリキャッチ。 明日にはサイン会になっちゃう勢いだったからね。このカリスマ性を利用して蒙昧な豚どもを 洗脳しちゃればOKよン」 「……おかしなことを吹き込んでライアンさんを惑わすのは止めてくださいませんか。 と言いますか、あなたは一体何者なんですか? ものすごい自然に割り込んで来ましたけど……」 立ち止まってくれるとすれば、奇妙奇天烈なモノには何でも興味を示す好奇心旺盛な子供たちか、 友人でも何でもないのに自然に会話へ入ってくるような変わり者くらいだ。 「あらあら? ファミちょんに興味津々? イロイロ手ほどき受けたいの? ―――惚れちゃった? 惚れちゃったのね。恋は気まぐれ、乙女心。 ユニセックスなキミは乙女心を自称してもOK。でもでもゴメンのシャットアウト。 アタシは自分を安売りしない女なの。いわば、天然マテリアルガール? Wow! 恋を忘れたいなら、新しい恋を見つけりゃいいジャン☆ ラブな相談は二十四時間一年中OKよ?」 「……うざいんですけど、この人」 「クドリャフカ様にまで口汚く言われてしまうのは少し考え物でしてよ。 実際、アタクシもクソうぜぇって思っていますの」 しかもこの変わり者、あつかましいばかりか、語彙にまでクセがある。 持って生まれたボキャブラリーが意味不明な上、いちいち人の神経を逆撫でするのだ。 気持ちを持ち直したタスクが控えめに窘めるものの、“変わり者”と類される人間に対して 常識を求める声が有効なハズも無く、周囲を苛立たせる火種の拡散は一向に収まらない。 止まらないどころか、喋れば喋るほど悪化しているではないか。 発作の抑止に努めるタスクでさえ、眉間に青スジが浮ぶのを防げなかった。 「ノンノン。彼のコレは所謂一つの照れ隠しってヤツね。百戦錬磨のお姉さんならではの勘が言うには、 フフフ―――仕方のないコね、坊やったら」 「うぜェーッ! 何なんだよ、この勝ち誇った顔ッ? どう見ても明らかな勘違いなのに、ご本人、すげぇ自信持ってるんだけどッ! クドリャフカさんでなくても、これは引くだろ。自分がモテてウハウハって信じて疑ってねぇし」 「アタシの手を引いてドコに連れ込もうって? 男たちでナニをしちゃうつもりなの? イヤっ! ケダモノ! 鬼畜! でも、愛玩動物♪ いいわよ、お姉さん、まとめて面倒みたげるのン☆」 「ちょっと黙ってろ、不審人物ッ! ――ネイト、なんかこう鈍器みたいなもんを貸してくれ。 お前さんのリュックサックに何かあるだろ? ちょっとこの不審人物を黙らせるからよ」 「手ごろな鈍器っていうと、バスストップの残骸で良いかい? 土台部分だけしか残ってないけどさ」 「それはバスストップはなくれっきとした鈍器です、ネイト様、ニコラス様」 「いや、突っ込むのはそこじゃないでしょ。不審人物なんかじゃないよ。 ファムネスティさんとは、ホラ、メルアドだって交換してるんだから」 「他人行儀とはなかなか焦らし上手だゾ☆ ファムちゃんって呼んでって言ったのにィ〜ン」 「名前初めて聴いたぞ、オイ! てか、めちゃくちゃフレンドリーじゃねーかッ! ……ミストんときと良い、どうやって手懐けてんだよ、フィーは」 「世界救済プロジェクトの第一号賛同者に対して失敬ですな、変形トサカ頭くんは。 キミたちがいてボクらがいる。そこにモバイルがあるならメルアド交換しちゃえばいいじゃない。 ここにアタシがいるなら、フォーリンメロリンしちゃっていいじゃない。思い切って貢げばいいじゃない。 フラれて元気になれるかもヨ☆」 「意味わかんねぇっつってんだろが! ……だから、その勝ち誇った顔はやめろッ! 殺意が湧き起こるんだよ、そのニヤけ面見てるとッ!」 「お、落ち着いて、ヴィントミューレさん。街中で女性を恫喝なんてしたら、余計に心証悪くなりますから」 「あんたもなぁ、そんな及び腰だからわけわかんねー野郎にナメられんだよッ!」 「アタシのために、もっと争って! 白州の沙汰も通じない色恋バトルがアタシをヒートさせるっ! ヒートして、ショートして、もう……エクスプロージョンッ!!」 誰も足を止めてくれない状況にあって“変わり者”もとい、 ファムネスティ・ザッカリアス・フェアチャイルドは、 本来、尊んで然るべき貴重な人材の筈なのだが、とにかくおかしなことばかり口走り、 訳のわからない行動ばかり取ってくれる。 お陰で共感を抱いてくれた喜びがどこかへ吹き飛び、代わりにストレスばかりが鬱積していくのだ。 妄想にも似た言行でもって絡まれるニコラスのストレスは特に大きく、 現時点でたった一人の共感者と言う貴重な人材にも関わらず、 「帰れ!」と追っ払いたい衝動に駆られていた。 そもそも本当に共感してくれているのかどうかも疑わしいとニコラスは睨んでいる。 ファムネスティが地図のコピーを受け取ったのは、まだ陽の高い頃だったのだが、 感情の決壊をもたらす白鍵たる紙面へ目を通したときも彼女は全くの無反応。 確かに「面白い」とは言ってくれたものの、口から出る感想のみで涙の一滴とて流しはしなかった。 自分たちと同じ反応を示さなかったと言う理由だけでファムネスティの真意を勘繰ってしまうとは、 なんとも人間の器が小さいと自覚しているものの、一度、垂れ込んだ猜疑の靄は、 暗い雨滴となって降りしきり、心の奥へ醜い滓を溜め込んでいくものだ。 奇抜な言行と相俟って、彼女が面白半分にからかっているのではないかとの疑念を拭えずにいた。 自分のそれとそっくり同じ色を湛えたファムネスティの赤い瞳を覗き込みながら、 ニコラスは苛立ちとは異なる意味合いの視線を研ぎ澄ませていった。 敵愾心を剥き出しにした眼光だ。 「ゾクゾクするわぁ、そーゆー目! 危険なアイズ! ナニをされるか想像しただけで、軽くトンじゃうわィ!」 剣呑極まりない眼差しに気付いたファムネスティは ツインテールに結わえたピンクの髪を揺らしながら身悶えた。 何を勘違いしたのかは理解出来ないが、向けられた視線の意味を完全に履き違えているようだった。 「……“ニコラス・ヴィントミューレ、年上のお姉さんに色目を使う”――っと。 ミストちゃんに報告、報告……それから処刑……」 「只今の仕草はナンパとは真逆のことですのでニコラス様がお可哀相ですよ」 何事か不穏なことを呟きながらメモを取るフィーナの姿がファムネスティの肩越しに捉えられたものの、 タスクが上手く取り成してくれそうなので、とりあえずニコラスは無視を決め込んだ。 「―――あっ、いたいたっ。いたよ〜っ。お母さん、この人たちだよ、面白そうなの〜」 地べたにのた打ち回って興奮するファムネスティがあまりにも煩わしく、 どうにも苛立ちを抑えられなくなってきたニコラスが、街中での恫喝を窘めるネイサンの制止を振り切って ついに拳を振り上げた、その瞬間(とき)だった。 小さな女の子が母親の手を引きながらこちらに向かって走ってくるではないか。 「ヴィントミューレさん、ここは抑えてください」 「あ、ああ、わかってるよ。……おい、あんた! オレたちを手伝う気があるなら、あんたもキチッとしろよ! 起きろ!」 「むふー……無垢なコに見られてってのもなかなかオツなのにィ〜……」 「うっせえ! ――ごめんな、このお姉さん、ちょっとアタマが可哀相なんだ。 眼中に入れちゃダメだぞ? 半径一〇メートル以内に近付いてもダメだ。汚染されちゃうぞ?」 「ヴィントミューレさん、その言い方は……フェアチャイルドさんにも、この子にも、 殆ど配慮出来てません」 「いやぁ……ある意味、ラスの判断は正解だと思うなぁ。教育上良くないよ、この人」 「ファーブルさんも話をややこしくしないでください」 さすがに小さな子の前で怒鳴りつけるわけにも行かず、 みっともないことこの上ないファムネスティを慌てて立たせたニコラスは、 愛想笑いでもって女の子とその母親を出迎えた。 「あれ〜? お姉さん、お芝居、終わっちゃったの? もう帰っちゃう?」 「あっ、今日、私たちのお芝居を観に来てくれた子だよね? おやつのちょっと前くらいに」 「うんっ、ケイトリンっ。ケイトリン・ハーメルって言うのっ」 「ごめんね、ケイトリンちゃん。今日の演目はもう済んじゃったんだよ〜。 明日、また違うお芝居やるから、楽しみにしててね」 「ライアンさん、もう主旨が完全に変わっちゃってます。私たちはいつから演劇集団になったんですか」 「あのねぇ……小さな子に難しい話をしてもわからないでしょ? 頭堅いなぁ、レナスさんは〜。アル並ですよ」 「そんな話でしか聞いたことのない人と比較されても……」 どうやら女の子はフィーナたちの演じていた芝居に興味を持ったらしく、 夕飯の準備で忙しいであろう母親を引っ張って再び訪ねて来てくれたのだ。 自分の身長よりもだいぶ低い目線に合わせて応対するフィーナに、 女の子は残念そうに口先を尖らせていた。 わざわざ再訪してくれただけに申し訳なく思ったのか、 不満そうにしている女の子の手を取ったフィーナは、「特別だよ」とウィンクするや、 『グリーニャ』に伝わる古い童謡を口ずさみ始めた。 今は遠く離れている妹に――ベルによく唄って聴かせた童謡である。 働き者のアリと怠け者のキリギリスの童謡は女の子にも大いに受け、 不満に尖っていた口先はたちまち綻んだ。 「興味持ってくれんのは嬉しいが、子供じゃなァ……」 夕間暮れに浮ぶ和やかな光景を眺めながら、それに水を差さないようニコラスがそっと溜め息を吐いた。 何にでも興味を示す子供たちは、すぐにフィーナたちの配布する地図にも食いついたのだが、 誰一人としてそこに深い感慨を抱く子はいなかった。 物珍しさもあって持ち帰った子供も何人かいたようだが、 今頃は他のゴミと共にダストボックスへ埋まっていることだろう。 地図のコピーに群がったのはシェインやベルよりも更に小さな子供たちであり、 そこから推論し、子供には効き目が無いものとニコラスは見切りをつけている。 「まるで記憶に無いから、こう言う考え方は気持ち悪ィだけかもだが―― 『エンディニオン』が二つに分かれた時期ってのが、仮につい最近だとするなら、 それより後に生まれた子たちに地図を見せたって、何の意味も無いのかもな」 この仮説を採るならば、子供相手にコピーを配るのはまさしく紙の無駄であり、 効果を発揮しない以上、ケイトリンと名乗った女の子の再訪はあまり歓迎できたものではなかった。 「こちらの望む反応を頂けるかどうかは問題ではありませんよ。 大人も子供も分け隔てなく伝えなければ、きっとフィーナ様の―― いいえ、私たちが目指す世界はやって来ないのではありませんか?」 「客商売なんてやってると、ついつい損得勘定で物事を考えるようになっちまってさ。 悪い癖だよな……すまねぇ」 フィーナとケイトリンの微笑ましいやり取りを眺めながら 他愛の無いやり取りを交わしていたニコラスとタスクは、だから気が付けなかったのだ。 最初こそ胡散臭そうにしていた母親の表情が手渡された地図のコピーへ目を落とした瞬間に とてつもなく大きな変調を来たしていたことに。 暫く噛み合わずにいた時代の歯車が、再び動き出した瞬間に――。 「お母さん? どうかしたの?」 その兆しへ真っ先に気付いたのは、ケイトリンだった。 地図のコピーへ目を落としたまま、呆然と立ち尽くしている母親に明らか異変を感じ取った彼女は、 一目散に駆けつけるやエプロンの裾を引っ張って「大丈夫? どうしたの?」と繰り返す。 ケイトリンの様子から只ならぬものを感じたフィーナもその後を追い、 変調来たした彼女の母親へ声をかけようと手を伸ばし―― けれど、その手の動きは震える肩へ触れる前に止まった。 フィーナだけではない。ケイトリンの母親へ駆け寄ろうとした体勢のまま、 ニコラスたちもその動きを止めてしまっていた。 ケイトリンの母親に向けて目を見開いたまま、誰もが一歩とて先に進めなくなっていた。 「フィーさん、あれは! あれは……ッ!」 「まさか、本当にこんなこと……!?」 別な方角へ視線を巡らせていたアンジーとレナスは、広場の出入り口が設けられた西方を指差したまま、 他の仲間たちと同じように一切の動きを停止している。 視線の先にあるのはケイトリンでも、彼女の母親でもない。 氷の彫像のように凍りついたレナスの指先は、大勢の大人たち―― 昼間、演目を観に来た子供を伴っているということは、彼らの親に違いない――が 西の門より大挙してくる様を指差していた。 「あのっ、これ、この地図、一体どこでっ!?」 ケイトリンの母親も、誰の父親も――子供に手を引かれてやって来た大人たちは、 皆、みんな……フィーナたちから配布された地図を抱き締めながら大粒の涙を流していた。 永年を経て取り戻した“半身”を、二度と取り落とさぬよう、大切に大切に抱えていた。 「この気持ちは……この懐かしさは――ッ!」 どうせダストボックスに埋没してしまうと諦めていた希望の欠片は、時代を動かす潮流は、 無垢なる子供たちの手が拾い上げ、かつて在っただろう『エンディニオン』の姿を識る大人に届いたのだ。 「……またひとつ――僕の知らない『門』が開かれた……みたいだね……」 夕暮れの空を仰いだネイサンの呟きは、きっと誰の耳にも届かなかっただろう。 それほどの賑わいが辺りを包んでいるのだった。 ←BACK 本編トップへ戻る |