2.An die Freude

 開け放たれた窓から入り込んで来る潮の香りが鼻腔を抜けて脳を刺激し、
適度な暑さと湿気がそれに合わされば、煩雑な俗世を投げ出して
サーフィンにでも繰り出したい衝動に駆られる。
 しかし、衝動の赴くままに行動することが社会での落伍、
つまり、失職への直結であると承知しているからこそ、人間は太陽と潮の香りの誘惑を振り切り、
心の底から滲み出してくる甘えを抑圧して自分のすべき作業へ没入できるのだ。
 プライベートの遊びを優先させたくなる甘えや誘惑との闘いは、
仕事と向き合う上での最大のテーマの一つだが、
その観点から物申せば、此処はまさしく女神の与え給うた試練の場と言えるだろう。
強烈に鼻先を擽る潮の香りと常夏の気温は、サーフィンを趣味とする人々へ大いなる試練を与えていた。

「これこれ――そう物欲しそうな目をするでない。
撤収作業が終われば帰りの日まではたっぷり自由時間じゃ。
仕事を終えた後、心置きなく遊び倒せば良かろう? ワシなど、ほれ、準備万端じゃ」

 白波の音へ耳を傾ける彼らの心の襞を言葉巧みに刺激し、
また、自身を包むトロピカルなアロハシャツをこれでもかと見せつけた陣頭指揮の老人は、
どうやらサーファーの心理を心得ているようである。
 太陽の眩しさをサングラスへ映して見せれば、
老人指揮下の人々は生唾呑みつつ作業のピッチを上げていった。
 やがて誰とも知れず、「一番乗りするのは俺だ」「BBQの準備は任せとけ」と言い始め、
作業の後に待っている楽しみへの期待が飛び交う度、動きが機敏になるのだから、
人間とは不思議――いや、単純である。
 作業能率の飛躍的な向上をを確認した老人は、スタッフの機敏さに満足げに頷くと、
背もたれに“ルナゲイト通信社”と言うロゴの入ったアームチェアへと腰を下ろした。
 彼が陣頭指揮を執るスタッフは、現在、オフィスの撤収作業に追われている。
 帳票の収納、棚の解体はもちろん、電話線や各種OA機器の取り外しなどを
今日中に終わらせるスケジュールを組んでいるのだが、
先ほどの鼓舞が利いている今、その予定は大幅に繰り上げられるだろう。
きっと日の傾く頃にはオフィスは蛻の殻となっているに違いない。
 報酬の餌を前にして一芸を披露する犬のように、
スタッフたちはお楽しみを目指して一心不乱に作業へ没入していた。

(……左様、今日中に撤収せねばならぬのじゃからな……)

 アームチェアへ凭れるジョゼフに「グランパ」と呼びかける声が起こったのは、
彼が作業の状況を見守りながら何事か思案していたそのときであった。

「クソヒートな中、しゃかりきワークれるスピリットがボキにはビリーブれないね。
バットしかし、餌チラつかせたんじゃ、蒙昧なドッグもテイルを振るってもんかナ」
「餌とは不躾な言い方じゃな。需要と供給が一致したまでじゃよ」
「いやいや、グランパのストマックは底ナッシンにダークマターだかんね。
フレーズをビューティーにしただけで、ホントのシンクはボキのシニカルが図星なんでナッシン?」
「否定はせんよ。雇用とは、えてしてそう言うものじゃ。
お主にしてはつまらぬ皮肉を放ると思うたが、……フム、雇用と言う人間社会の基本原理から
縁遠いお主のような人間では、その程度のボキャブラリーが限界じゃろうな」
「ボキを『佐志』のニートっ娘みたく言わないでウィル。ボキのケースは、ライフスタイルなんヨ?
わかる? ポテンシャルはリザーブしてるけど、ライフスタイルとしてジョブに就かないだけさネ。
なんてったって『マコシカ』のウィザードちゃんだしィ♪」
「人間社会ではな、お主のような手合いとその言い草を落伍者あるいは負け犬と呼ぶのじゃよ。
『マコシカ』を逃げ道に用意しておくその狡猾さは、水无月何某以上にタチが悪いわ」
「……イエス、オーケー。トゥデイはボキのルーズにしておくヨ」

 ――ホゥリーだ。
 撤収作業に勤しむスタッフの出入りが激しいドアからひょっこりとホゥリーが顔を見せたのだ。
 例によって例の如く油っこい菓子――今日のお供はポップコーンだ――を抱えて
“ルナゲイト通信社”の社屋へ姿を現したホゥリーは、
やはり平素の例に漏れずしゃかりき働くジョゼフのスタッフたちを鼻で嘲笑った。
 労働者を小馬鹿にする態度のホゥリーにスタッフたちから一斉に非難と軽蔑の眼差しが集中したが、
彼はそれすら「やれやれ、ブンブンサラウンドな羽虫だのネ」と一笑に伏し、
今まさに片付けられようとしていた椅子を作業の手から引っ手繰って腰掛けた。

「……ったく、チミのほうからコールしといてよくまあアイロニーでノックしてくれたもんだネ」
「誘導付きで呼びつけてやっただけ感謝せよ。お主を『こちらのエンディニオン』に置き去りにしたとて、
誰からも文句は出まいぞ。アルなどは諸手を挙げて喜びそうじゃ」
「お〜お〜、ビッグに出たねェ。どっちの『エンディニオン』でも
使えるスペシャル・オーダーメイドのモバイルを
な〜んで『ギルガメシュ』でも何でもないチミが持ってるのか、
フィーたちにゲロッちゃってもオーケーなのかナ? ンん? かナかナ?」
「バラしたくば好きにせよ。じゃが、ワシがかようなモバイルを所持しておったとして何が不思議だと申す? 
忠節とオツムの緩い『ギルガメシュ』の配下に鼻薬を嗅がせて手に入れた――これで全て合点が行こう。
常日頃より戯言ばかりをほざいておるお主とワシとでは、言にかかる信憑性も瞭然であるな」
「――オぅフ! さすがはグランパ! ストマックがダーク過ぎるネ。それとも実はブラックホール?
新聞王サマってばトバしてるゥ♪ そーゆー傲慢はフューチャー足元すくわれるよン。お楽しみに♪」
「お主を呼んだがは、愚にもつかぬ雑談する為ではない。
……して、例の件はどうなったのじゃ?」
「すぐビジネスの話? ホント、現代人の悪いクセだよ、そーゆーポイント」

 フツノミタマと深い因縁持つヌバタマの介入で発生した不測の事故により、
それぞれ異なる座標へバラバラに転位されたフィーナたち一行の中にあって、
ジョゼフとホゥリーは運良く同じ場所に落とされたか、
あるいは近い場所に落ちて合流できた――と言うわけではないらしい。
 ストラップを摘んでクルクルとモバイルを弄ぶホゥリーの言動から察するに、
またもこの二人は仲間の知らぬ暗がりにて善からぬ密談を交わしていた様子である。
 「随いて参れ」と促したジョゼフの背を追い、ホゥリーは社屋の各所を回りながら会話を続けた。
 会議室…通信室…資料室…給湯室…――漏れなく各部署を経巡り、
撤収に追われるスタッフたちを鼓舞しつつ作業の進み具合に鋭く目を光らせるジョゼフと対照的に、
ホゥリーは全身から無関心の気を発し、会話の途切れた合間には絶えず大欠伸を繰り返していた。

「……『太陽の銀騎士』……フィーナに接触した後、
リアルにドロンしちまったから、あんまわからんかったけどサ。
又訊きをリンクさせての判断だけど――」
「気を持たせるな。お主の声はただでさえ不愉快なのじゃ」
「――やっぱマコシカにトラディションする英雄サマに似てるんだよね。『ワカンタンカのラコタ』に。
特徴っつーのかな、アビリティとかイクイップメントとか、もうクリソツね。
酋長に話したらクライシス乱舞するんじゃないかっつーくらい」
「……『ワカンタンカのラコタ』――か。伝承上の英雄が、よもやこの世に転生したとでも申すのか? 
貴様にしてはファンタジーな考えじゃな」
「酋長に話したらっつー条件つけたじゃん。
ボキはあのオバさ――お姉様ほどロマンチストじゃナッシングよ〜。
ただ、……妙に気になっちゃってネ」
「この場におらぬと言うのにわざわざ取り繕うほど、レイチェルの恐怖が気にかかるか。
ふてぶてしいように見えて、お主も、案外、肝っ玉が小さいのじゃな」
「ボキが言ってんのはザットじゃ――いや、それはそれとして、
何も知らないチミに言われたくナッシングだね、そのハンドのトピックは。
……リアルでおっかないです、ハイ……」
「ヒューの苦労が忍ばれる溜め息じゃな。……いや、冗談はこれくらいにして」

 スタッフの憩いの場となっている簡素な庭園に出たとき、
二人の目にメインストリートにはためく幟旗(のぼりばた)が飛び込んできた。
「『ふたつのエンディニオン』をひとつに!」と記されたその幟旗を見つめる二人の歩は、
自然と止まっていた。
 力強いフレーズの横には『フィーナ・ライアン』と添えられており、
ホゥリーとジョゼフの視線は、この良く見知った名前に釘付けとなっていた。

「オールドなヒーローの転生云々は知ったこっちゃナッシングだがネ。
今風のヒーローは見事に爆誕したみたいジャン。それも、メニメニ身近なポイントからサ」
「たかだか一ヶ月のうちに、よくもまあ時代が動いたものよ」

 顎に蓄えた白髭を弄びながら、ジョゼフは愉快でたまらないと言った風情に破顔し、腹を抱えて笑った。

「フィーナ・ライアン。全く持ってあの娘には驚かされたわい」

 ジョゼフとホゥリーが言う通り――フィーナ・ライアンの手によって
時代が大きく動き始めたのは一か月ほど前のことである。





 ――レナス・クドリャフカ。
『ギルガメシュ』最高幹部でありながら獅子心中の虫となって“唯一世界宣誓”への反抗を工作し、
静かなる戦いを続けるコールタンの同志にして、
『イシュタル』並びに神人を奉じる教会に属する『パラディン(聖騎士)』の一員である。
 尤も、実態は傭兵に近い。飛行ユニットとパイルバンカーの機能を両立させた
オーダーメイドのMANA、『EXラースタチュカ』を用いる彼は、
『イシュタル』と神人に仇なす存在との戦いでは、
誰よりも先んじて戦場へと翔けていくのだ。
 血を浴びて穢れることも多い。高位の神官に命じられて危険な戦場に差し向けられるケースも多く、
傭兵というよりも捨て駒同然の厳しい現状に複雑な思いが無いと言えば嘘になるものの、
それでもレナスは愚痴一つ零さず任務の遂行に邁進してきた。
 女神イシュタルへの信仰を全うする他に何を望むのか、
師であるモルガン・シュペルシュタインへ尽くす以外に何を喜びとするのか――
レナスにとって必要なことは、ただこれのみであった。
 同志たちはそんな彼の性格を温厚実篤と評価するが、
こうした他者の評価は実は当人にとって甚だ心外だった。
世間に好評を頂戴する温厚実篤な面相を、実際は仕方無しに演じているレナスには、
心外を通り越して困惑に近いだろうか。
 レナスに言わせれば、素の自分は決して温厚でも実篤でもない。
 生まれつき神経系の疾患を抱えるレナスは、
発作の引き金となる感情の激しい起伏を抑圧する為のメンタルトレーニングを積んでおり、
如何なる場合にも平常心で当たる術を身に着けていた。
 これが他者から見れば温厚で実篤に見えるそうなのだ。
 先天的な“性格”でなく後天的な“性質”を摘んで「お前は温厚だ」と評価されるのは、
成る程、心外だろう。彼にとって一見温厚なフラットの感情とは闘病の一環であって、
自身の罹った病気を否が応にも意識させられるものだった。
 生きる為に身に付けざるを得なかった“性質”を美辞麗句でもって称えられれば称えられるほど、
レナスには苦々しさ、忌々しさが降りかかってしまうのである。
 ショックや動揺と言った急激な感情の振幅は、全身の筋肉を弛緩させる恐るべき発作の引き金であり、
あらゆる意味でレナスの天敵であった。

「世界を変えよう、私たちの手で――――ッ!」

 その観点から言えば、フィーナとその仲間たちは最もタチの悪い一派と断じなくてはならない。
封印した感情の揺らぎを激しく、そして、何度となく刺激されるなど、悪夢以外の何物でもあるものか。
 特にフィーナだ。彼女の発言は一定ラインを差したまま振幅の無かったレナスの心へ毎日のようにして
大きな波風を起こしてくれる。毎日どころか、半日に一度の割合で暴風雨を呼びつけてくるのだから、
堪ったものではない。巡り合ってまだ数日しか経過していないのだが、
彼女の向こう見ずな気質と、そこら中にトラブルの種を撒いていた来歴には、
首を大きく縦に振って納得できた。

「すみません、ライアンさん……寝不足で頭がボーッとしていたせいか、
上手く聞き取れなかったんですが――もう一度、お願いできますか?」
「世界を変えよう、レナスさん! 世界は変わるんだよっ!」

 今日も今日とて、暴風雨の子どもがレナスの頬へ吹き付け始めている。
 ギルガメシュの軍事拠点へ自ら飛び込んでいく『戦乙女』だけに
突拍子の無い提案をすることは判っていたはずだが、
まさかこれほどまでに身の程知らずとはレナスにも予想できなかった。
 彼は彼なりに状況を冷静に観察していたし、遅鈍な訳でもない。
ただただフィーナの発言が素っ頓狂なだけである。

(世界を……変えるだって?)

 世界を変える――フィーナは眼を輝かせながら仲間たちに向かってそう宣言して見せた。

「理解力の足りねぇ人間だと思われるのは、イヤなんだけどさ、
なにがどう繋がったら、そんな結論を出せるんだ?
いやな、アルに報告するときさ、意味不明なままだと色々やりにくいしさ」
「ニコラス様、ここでお茶を濁しても仕方ありません。言うべきことは言わなければ。
……フィーナ様、ニコラス様の仰ることは尤もですよ。
目的のみを掲げられて、そこに至るまでの手段と経緯が抜け落ちていては、
貴女の仰る“世界を変える”原理が私には皆目検討がつきません」
「だーかーらっ! 私たちの力を結集して、世界を変えちゃおうって言ってるんだよ!
戦争を無くしてしまおうってっ!」
「いえ、“だから”と声を張り上げたいのは私たちのほうなのですけれど」
「ちょっと待ってくださいまし、それ以前に戦争を無くすって言うのは初耳です。
……ヴィントミューレさん、アタクシ、フィーさんの話をどこか聞き漏らしていましたか?」
「切羽詰る必要はねぇぜ。オレも初耳だ。つーか、見事に話が噛み合ってねぇし」

 アンジーは勿論、ニコラスとタスクも呆れたように口を開け広げているあたり、
今回の放言はトンデモ揃いなフィーナ語録の中でもとびきり突き抜けたものに違いない。
 驚愕以外を感じられなかった自分の感覚は正常だったとレナスは安心の溜め息を吐いた。
 隣の二人にまでフィーナと同じ放言をされていたなら、
自分の感性や理性を決定的に信じられなくなり、人間社会で生きる自信を喪失したはずだ。

「なんですか、今の溜め息はっ! フィーさんの考えに異論があるとでも!?」
「……あなただって、目を丸くしていたじゃないですか……」

 そっと吐かれた溜め息からレナスの心内を読み取ったアンジーが
フィーナを擁護せんと抗議の金切り声を上げるが、
彼女以外に熱弁者のフォローへ回る動きは全く見られない。
 レナスの覚えた周りの人間と感性を同じくする安堵は、他の二人にも共通するものであった。

「クドリャフカさんよ、まさかと思うが、紅茶にブランデーなんか垂らしてないよな?」
「……ヴィントミューレさんが疑うのも無理ありませんよ? 
部屋には酒瓶も備え付けられていますし、ルームサービスを頼めば冷えたビールが出されます。
でもね、この間のアレを見た後でライアンさんにアルコールを出そうと考える人間が、
果たしてどの世界にいると思います? 私だって自殺行為は避けたい」
「そうですよね。……いや、納得どころか、余計にわかんねぇぞ。
それじゃあ、フィーナは何に酔ってんだ?」
「自分に酔うタイプじゃ無さそうですし――予想の範疇を出ませんけど、
自販機かコンビニで缶ビールでも買って来たんじゃないでしょうか、密かに」
「それが一番有力かぁ〜。頼むぜ、フィーナ。酔っ払ったまま、重大発言とかはナシにしてくれよな」

 一行が滞在しているのはビジネスホテルの一室であって、アルコールの香気漂う酒場ではない。
 フィーナが熱弁を振るうテーブルの上には人数分のハーブティーとお茶請けの菓子が
盛り合わせてあるのみ。それもオーソドックスなサブレ数種で、
アルコールを染み込ませられるスポンジケーキの類は見当たらず、
ともすれば消去法で紅茶へ眼が向けられるのは自然の流れなのだが、
目の前のティーカップを呷ったニコラス本人がこの推理の的外れを誰よりも知っている。
 横から割って入るアンジーの金切り声を無視しつつ、レナスと更なる推理を進めるニコラスだったが、
その様子にフィーナは苛立った。

「し、しっ、しッ、心外とはこのことだよッ! 二人して私を酔っ払い扱いしちゃってさッ!
アルがこの場にいたら、速攻で名誉毀損の手続きに入るところだよッ!」

 フィーナの怒りは尤もだ。あの狂乱の事態を切り抜け、
件のクレーター地帯から遠く離れた貿易港の町『ルゥンスピア』へ一行は潜伏しているのだが、
そんな逼迫した状況なのに、どうして酩酊していられるものか。
 しかも、だ。逃亡中の身とは言え、うら若き乙女が真昼間から酒をかっくらうハズも無い。
自分の知らない間に呑んべぇのイメージが膨らんでいたのは、
フィーナにとって風評被害そのものである…が――

「申し訳ありませんが、只今の唐突な発言の連続には、フィーナ様に酒気帯びの疑いを禁じ得ません」
「タ、タスクさんまでぇ……!」

 ――そうした風評が一度でも蔓延してしまうと、本人の意思や状態に関わらず、
あらぬ疑いを向けられてしまうのが世の常だった。
 放言の内容からして彼女がシラフと思えないし、
つい最近にも泥酔時の醜態を見せ付けられた一同のこと、
フィーナの威勢と思い切りの良さが酒のチカラに裏打ちされたものだと結論づけても何ら不思議は無い。
 現に、いつも以上に頬を上気させて熱弁するフィーナは、
疑い止む無しと見なされても仕方のない豹変ぶりを露呈していた。
 興奮――と言うか、半分以上は誹謗中傷に対する怒りだが――によって
普段より多めに血の気を含んだ面は、確かに見方次第で酔っ払いの赤ら顔とも映る。
 つい先日、「貴様らの魂は腐っている」とまで言い放っておきながら、
「酒癖なんか悪くない」と自分の所業を棚に上げ、心外だと不貞腐れるフィーナへ「どの口が言うか!」と
仲間たちから総ツッコミが入ったのは当たり前である。
 今回も今回でアルコールの影響で気が強くなり、
最終的に「この世界を変える」との畏れ多い決意と宣言するまでに
酒気で冒されたものとニコラスたちは見なしていた。

「色々言い返したいことはあるけど、そもそも、私、お酒なんか呑んでないって!
……ちょ、ちょっと、そこのお二人さん! 心の底から胡散臭そうな眼はやめてってば!」
「だって……なぁ?」
「でも……ねぇ?」
「フィーさん、どうなさいまして?」
「い〜よ、アンジーさん。今日だけは特別に許しちゃう!
失礼極まりない男子二人を思う存分お仕置きしちゃって! 前歯を根こそぎやっちゃうくらいならOK!」
「何一つOKじゃねェッ! ハンマーを構えるのはやめろォッ!!」
「ヴィントミューレさんじゃなく私に狙いを付けている気もするのですが……っ」

 フィーナからの襲撃要請を幸いに、アンジーはMANA『レディオブニブルヘイム』を振りかざした。
普段から反りの合わないレナスを正当な理由から成敗出来るチャンスが回ってきたのだ。
溜まって溜まっていたフラストレーションを晴らさずにはいられない。
さすがに冗談が過ぎたと思い直したフィーナが制止するまでレナスと、
ついでにニコラスのことを追いかけ回すのだった。

「私もそれなりに人生経験を積んで参りましたので、お酒に頼りたくなる気持ちは理解できますよ?
お酒が入った途端、理性よりも感情を最優先させるようになるのも、若いうちにはよくあることです。
ですが、よろしいですか、フィーナ様? 若さを免罪符に出来るのはお酒の席の座興のみなのです。
……貴女は、今、重大な決断を下そうとしています。その決断に正常な意識を狂わすお酒を持ち込むのは、
私は感心しません。若さではすまされないのですよ、若さでは。ええ、若さでは。……若さでは」
「……えーっと……」

フィーナの肩へ手を乗せながら呟かれたタスクの訓戒は、多分に自虐を含んでおり、
他の面々にまだ理解できない物憂げな眼差しは、
その意味と重みを測りかねる若者たちの心にも暗い何かを落とし、
アルコール摂取を否定するフィーナの反論も、“若いうち”の対義語についてのフォローも、
尽く打ち払った。特に後者にまつわる発言を。

「いいよ、もう! 酔っ払いだって何だって構わないよ! 
――うん、確かに、私、酔ってるかもだよ! でも、私はお酒に酔ってるんじゃない!」

 しかし、フィーナの勢いだけは止まらなかった。
 総ツッコミを全力で叩き込まれようと、自虐の弁を突きつけられようと、
一度、入ったスイッチが切れることはなく、
封殺された“酒気帯びへの反論”から“世界を変える主張”へテーマを変えて再び口火を切る。
 仲間たちから向けられる呆気を吹き飛ばすかのように一気呵成に言い募り、
それから自分のバッグから取り出した紙切れを両手一杯に広げて見せた。

「酔っ払っているとするなら、これに――ッ!!」

フィーナが両手一杯に広げた紙切れとは、『エンディニオン』全土を網羅する世界地図だった。
それも、つい最近に刷新されたばかりの最新の地図である。

「それは……」
「……あのときの地図ですか」

ニコラスの口から零れた“あのとき”と言う言葉にフィーナは無言で頷いた。
“あのとき”――隕石弾の脅威に晒される軍事基地からの脱出を試みたあの瞬間(とき)から、
どうもフィーナの様子がおかしくなった気がする。
 これはニコラスの弁だが、タスクもレナスも、その辺りから確かに異変を感じていた。
 『戦乙女』としては内紛にも等しい状況に陥っている『ギルガメシュ』別働隊の行動を見極めるべく、
こうして潜伏しているのだから、目立つ行動は慎むべきであろう。
 フィーナは日がな一日、部屋に閉じ篭ってはテーブルの上に投げ出した地図と睨めっこするばかり。
情報収集に奔走する仲間たちを横目に、“故郷の世界”から持ってきた世界地図と、
新たに“こちらの世界”で買い求めた世界地図とを見比べる日々が続いていた。
 大陸の配置と分布を見比べながら、ああでも無いこうでも無いと唸っていたかと思えば、
片方の地図からの切り抜きやカラーペンでのマーキングと言った謎の行動が顕著になって来たのは、
つい最近の話である。
 昼夜問わず部屋に篭りきり、意味不明の行動を取るフィーナには
さしものアンジーも言い知れぬ恐怖と不安を覚え、
それとなく外出を促してみたものの、効果はまるでナシ。
 ニコラスをして「『マコシカ』の集落でモメたときのアルを想い出す」状況へ陥ったまま、
真意が掴めずにいたフィーナなので、何もかもイヤになって酒に走ったのではと
余計に心配してしまった次第である。
 今になって地図と睨めっこしていたフィーナの真意が判り、
ニコラスたちはようやっと不安から解放された思いだった。
 そして、解放された次の瞬間には、フィーナの広げた世界地図が網膜へ焼きついた瞬間には、
早くも新たな衝動が湧き起こっていた。

「私だけかな……? この地図を見たとき、不思議な懐かしさが込み上げてくるのは――」

 フィーナが広げた地図とは件の軍事基地にて垣間見たそれの模造であった。
 爆発より逃れる瞬間にディスプレイへ投影されていたものを目撃しただけであるし、
じっくり観察するだけの余裕も無く、記憶の曖昧さから、ところどころに不自然な箇所が見られるものの、
模造だと判るレベルにまで再現は成されていた。
 『アルト』と『ノイ』――ふたつのエンディニオンの大陸を
パズルのように一つに組み合わせた地図が、そこに在った。
 全く異なる世界の地図だ。
 どのように知恵を絞って切り貼りしようとも必ず組み合わない箇所が出、
そうした不整合が自分たちの世界を蹂躙されるかのような錯覚となり、
ひいてはアイデンティティの否定にまで及ぶ不快感となって襲い掛かってきてもおかしくない。
 所々汚れの染み付いた切れ端――フィーナが持ち込んだ『アルト』の地図と
真新しい切れ端――つい最近、買い求めたばかりの『ノイ』の地図とが
チグハグなモザイク柄を形成しており、これが不快感をより助長している。
 組み合わない箇所、チグハグな柄など問題ではない。
そもそも異なる世界を組み合わせると言う考え自体が異常なのであり、
絶対に整合するハズの無い世界地図なのだ。
 むしろ、そうでなければならない。
それが異世界の異世界たる由縁――互いの目に異なる地平と映る原理なのだから。
 しかし、フィーナが再現させた地図はどうか。
全く異なるどころか、完成されたパズルは実に互いのピースがしっくり馴染んでいるではないか。
 全ての大陸が、全ての海が、全て、全て――元より鏡合わせの如く酷似していた
二つのエンディニオンの地形だが、二枚の地図が組み合わさるに至って酷似と言う名の疑問符を突き破り、
確たる完成を見出した一枚の絵画のようにニコラスたちの目には映っていた。
 互いの地図上でのみ使われていた地名の共通部分に、二つの世界の互換を見ることが出来るばかりか、
互いの地図上に見られなかった幾つかのピースが一枚に収まった様子は、
不快感とは真逆の感情を揺り起こし、
 見る者の心――その最も深く静かな水面(ばしょ)にまで波紋を伝達していった。

「つまり、俺たちとラスたちの『エンディニオン』は限りなく近いようで
実は全く異なる世界と言うことだな」

 かつてアルフレッドが仮説し、ニコラスが同意したそのままに、
今、二つのエンディニオンは、一つの地図の内へ収まっていた。
 そう在ることが自然であるかのように、こう在ることが開闢以来の約束であるかのように――。

「あれ……、オレ、どうして――――」

 遥けき時の彼方にて誓った約束の履行と出逢った機(とき)、
ニコラスは自分の頬が冷たく濡らされているのに気付き、
次いで、眼窩から顎の先へと走る軌跡の正体が涙の雫であることに驚いた。
 自分でも気付かない内に、自分でも抑えられないほどにニコラスは涙を流していた。
 “涙を流す”――その程度の泣き方ではない。
 いつしか彼は、口元を押さえるほどにまで嗚咽し、滂沱と言って差し支えない量の涙を零していた。
 後から後から込み上げてくる雫の勢いへ比例するかのようにして灯った、
胸の奥にも熱い情念が赴くままに、ニコラスは顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっていた。

「ふっ……ぐ……ぅッ……――――――」

 油断した瞬間に大声を放ってしまいそうになるのを懸命に堪えながら、
ニコラスは胸の奥に宿った情念とそこから発せられる衝動に戸惑いを覚え、
動機不明な感情の決壊に首を傾げるばかりだった。
 何ら哀しく思うことは無い。嗚咽するような悲劇に巻き込まれた覚えも無い。
一つに合わさったエンディニオンの姿に、殊更感動した訳でも無かったのだ。
 それなのに、どうして、オレはグチャグチャになって泣いているんだ――
自分自身の感情の揺らぎであるにも関わらず、
その理由、その動機がどうしても判らないままニコラスは嗚咽し続けている。
 理解不能の決壊だが――原因として思い当たるフシが全く無いと言えば嘘になる。
一枚の地図に収まりきったエンディニオンを目の当たりにした瞬間、
理屈とか感情では語りきれない、人間の根源的な部分で何かが疼くのをニコラスは感じたのだ。
 本人に身に覚えの無い決壊を引き起こした原因として考えられるのは、
まさしく深淵に在るモノの振幅だろうが、その正体を口頭で説明しろと強いられても不可能だ。
 言葉にならない何かが、心よりももっと深いココロ――魂の根源で起こった揺らぎが、
果たしてヒトの知恵の思い通りになるものだろうか。
 答えは否――何人も、例え手を伸ばしたのが本人であったとしても、
魂の根源へ触れることは叶わなかった。
 語る言葉も持たず、触れることも叶わない揺らぎに支配されてしまったからこそ、
ニコラスは不思議な涙を零すことになったのであろう。

「ニ、ニコラス様? い、一体、どうなさったのですか?」
「わかんねぇ――わかんねぇよ……ってか、あんたも泣いてるじゃねぇか」
「え――あ……っ。……こ、これは、どう言う……」
「オレが……聴きてぇってよ……!」

 何の前触れもなく大粒の涙を流し、泣き声を噛み殺し始めたニコラスの様子を訝り、
気遣わしげに声をかけるタスクではあるものの、彼女自身も魂の根源に揺らぎを起こす一人である。
 ニコラスに指摘されるまで気付けなかったのだが、タスクの頬にも涙の軌跡が走っており、
そのことに気付いた彼女を大いに戸惑わせた。
 ニコラスのような嗚咽こそ漏らさないまでも洪水さながらに涙を零し続けるゴールドの瞳は、
やはり結合された『エンディニオン』の地図へ釘付けになったまま離れない。
 フィーナの掲げる地図を捉えて以来、
まるでタスク本人の意思から切り離されてしまったかのように微動だにせず、
焦点を絞込み、瞬きをも惜しみ、ただただ『エンディニオン』の地図を見つめている。
 ふたつの【エンディニオン】がひとつになった瞬間、
時の流れが凍てついてしまったとでも言うのだろうか。
 ニコラスにせよ、タスクにせよ、一枚に結合された『エンディニオン』の地図へ惹き付けられた人々は、
皆、思考と呼ばれる人間の特権を放棄してでもその縮図を見つめ続けることに傾いてしまい、
ひいては時間の停滞――重傷になれば完全なる凍結――へと繋がっていた。

(……本当に……どうなっちまったんだ、オレは……)

 イミテーションによる再現とは言え、ふたつの『エンディニオン』がひとつに重なり合わさったのだ。
歴史的とも言える瞬間に立ち会ったことで、ある種の感傷が込み上げてきたのだろうか。
頭の片隅に残った冷静な部分をフル回転させ、
嗚咽の原因を理屈でもって解析しようと試みるニコラスだったが、
やはり感情の働きが自分の手を離れてしまっているらしく、どうしても上手く行かない。
 理屈で解析出来たら、きっと涙も引っ込んでくれるのに、どうしても理論で説明し切れなかった。
 たかが地図を相手に、決壊するほどに感情を昂ぶらせるなんて、どうかしている。
自分は、もう一つの『エンディニオン』の地を実際に踏み締め、
そこに住む人々と得難い絆を結んできたのだ。
 切れ端のモンタージュなどと比べるまでもなく、そうした経験のほうが遥かに輝かしく、
尊いと言うのに、今更、俯瞰図を目の当たりにしたくらいで泣き出してしまうなんて、
おかしいにも程があるではないか。

「……なるほどな。地図と睨めっこしながら、
なんかしゃくりあげてると思ったんだが、こう言うワケがあったのか。
何こいつ、キショいとか思っちまって、すまねぇな、フィー」
「……乙女心を傷付けれくれたってミストちゃんに言いつけてあげるから、
覚悟しといてくださいよ、ニコラスさん」

 二枚の地図が組み合わさって出来た『ひとつのエンディニオン』へ誰もが釘付けになっている。
 カーテンの開け放たれた窓より差し込む光が上手い具合に地図へ掛かり、
女神の祝福を彷彿とさせる聖なる輝きを醸し出していた。

「……欠けていた半身を取り戻した喜び…なのかも知れませんね。
今、私たちの感じているこの気持ちは。……上手く表現できなくて申し訳無いのですけど」

 ニコラスやフィーナよりも僅かに人生経験があり、
語彙も備えているタスクが感情の決壊に対して一つの仮説を示した。

「詩的な言い回しじゃねぇか。……だが――ああ、取り戻したのかも……知れねぇな。
だから、オレたちは……」
「うん……きっと、きっとね。前にアルが話したみたいに、私たちは、『エンディニオン』は……」

 欠けていた半身を取り戻した喜び――込み上げてくる感情をタスクはそう言い表した。
 確たる証拠を得られない今はふたつの【エンディニオン】がひとつであった記憶は
どこを探しても見つからないが、心の底から湧き起こった感情に嘘は無く、
周囲の人間の涙へ調子を合わせる為に捏造された記憶でもない。
 タスクの唱える“半身を取り戻した喜び”は大きく、強く、深く心の奥底へと響いているのだ。

「み、皆様ばかりで……勝手に盛り上がるなんて……酷いんじゃ……ありま……ありませんことぉっ!?」

 かく言うアンジーとて鼻水を垂らすほどに号泣し続けている。
 “欠けていた半身を取り戻した喜び”――フィーナも、ニコラスも、アンジーも、
皆が皆、タスクの示した仮説へ頷きながら新しい涙を零した。
 外出先から部屋に戻ってきたネイサンがぎょっとして仰け反ったのは、
改めて詳らかとするまでもないだろう。




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