8.Operation Nebula エンディニオン歴1480年12月8日―――世界の中核たるルナゲイトには只ならぬ緊張感が張り詰めていた。 南半球に属し、かつ赤道に程近いルナゲイトは、冬真っ只中の北半球各域と正反対の猛暑が続いているのだが、 この日、この都市に足を踏み入れた者が体感する気温は、間違いなく真冬の北半球より冷たい。 極寒と表すのが相応しかった。 それでいて皮膚に受ける猛暑は例年並なのだ。 精神を侵すほどの極寒を体感しつつ、皮膚は照りつける太陽によってジリジリと焼かれる。 冷気と暑気。相反するモノに同時に苛まれるルナゲイトの人々は、 何とも表現し難い寒暖の差を相手に朝焼けから昼下がりの今まで懸命に戦っていた。 気を抜いた瞬間、寒暖の差がもたらす吐き気や目眩に飲み込まれてしまうのだから、格闘の様相を凄絶と言っても差し支えはなかろう。 そして、その吐き気は、昼を折り返して午後に至れば復調されるというものではなく、 むしろ夕方にかけて更に悪化する恐れがあった。 サミット―――世界中から首脳陣が集まり、平和維持について意見を交換する円卓会議が、本日、開催される。 年に一度の恒例事業につき、ルナゲイトの人々もサミットそのものには慣れており、 各地より大挙する人々を相手に今こそ書き入れ時と張り切るのが例年の向きであった。 なにしろ経済効果が半端ではない。 サミットが開催される前後一週間だけで数億もの収益がルナゲイトにもたらされると経済アナリストは明らかにしている。 ここで張り切らねば、いつ張り切るのか―――そう発奮して働き続け、休むことを忘れた挙句に過労で目を回す者も決して少なくない。 この期に乗じて世論に問題提起しようとするデモ隊が街路へと流れ込み、 遅々として進まない環境整備やクリッター討伐などをシュプレヒコールしながら町中を練り歩く様子もサミット名物の一つだった。 ルナゲイト家の手配した警備隊とデモ隊が衝突するのも常であり、 品が良い趣味とは言えないものの、毎年物議を醸す両者の決闘も実は隠れた名物の一つである。 迷惑にして不謹慎の極みだが、この決闘の見物を目的にルナゲイトまで足を運ぶ野次馬も多かった。 歓迎すべき客と招かれざる客。双方の波がまるで絨毯のように折り重なれば、 街路に垂れ込める熱気は軽く四十度は越えるし、信じられない話かも知れないが、一人一人に行き渡る酸素も薄くなるのだ。 そうしたものにアテられて貧血を起こした人間が、 ルナゲイト最大の病院であるマッサビエル大学病院に設置されたベッドの大半を占領するのも サミット当日の恒例として知られていた。 善悪の観念はひとまず置いておくとして、ルナゲイトにとってサミットとは、あらゆる意味で最大の祭典と言えた。 だが、サミット当日であるにも関わらず、ルナゲイトの町は閑散と静まり返っていた。 人々の活気を沸き立たせる熱波が吹き付けているにも関わらず、ルナゲイトは不気味な静寂に凍てついていた。 危険を顧みないデモ隊もいなければ、袖をまくって呼び込みに張り切る商売人たちの姿も無い。 メインストリートを少し外れると人っ子一人いないような区域も目に入る。 このような現象はルナゲイト始まって以来――正確にはルナゲイトでサミットが開催されるようになって――類例を見ない事態であった。 体温の相乗効果が生む恐怖の熱気もなく、居合わせる人間へ行き渡らないような酸素の欠乏もない。 それでも人々は吐き気を催し、倒れそうになるのを懸命に耐えているのだ。 ルナゲイトがここまで追い詰められた理由は、全てジューダス・ローブの落とした犯罪予告の影響である。 対ジューダス・ローブの概要が固まった直後、マユはルナゲイト全体に非常事態宣言を出し、市民に警戒を呼びかけた。 無論、ジューダス・ローブを霍乱する為に正式な開催日程は公示されていない。 その非常事態宣言がルナゲイトへ向かう客足を遠のかせる原因とは誰一人として考えていなかった。 エンディニオンに住まう誰もが恐れているのだ。ジューダス・ローブと言う稀代のテロリストを。 世界最凶のテロリストと悪名高いジューダス・ローブを恐れ、怯え、 彼の者が予告したテロに巻き込まれまいとルナゲイトを遠ざけているのだ。 この恐怖こそ、ルナゲイトに閑古鳥を鳴かせる原因である。 ………抑えきれない主張を持ったデモ隊と雖も、むざむざ死に行くような真似はしたくないと見える。 特にルナゲイトは数日前にもジューダス・ローブの仕掛けた爆弾によってセントラルタワーを爆破されており、 再度攻撃される危険度は極めて高い。 一度、ジョゼフの暗殺に失敗したジューダス・ローブが、前回以上に周到な準備を凝らしてテロ活動へ臨むことは 子供にだって予想できる。 ルナゲイトは、この都市(まち)は、考えられる最悪の状況でジューダス・ローブとの対決を迎えたと言うわけである。 まず間違いなく真っ赤に染まるだろう今年度の収支を考えると頭が痛くて仕方のないジョゼフとマユは、 顔を合わす度に引き攣った苦笑いを作るが、こればかりは余人の手を以って動かせるものでもなかろう。 前回の襲撃時に破壊された機材の修繕費や、これに付帯する損失だけならば巻き返しも早かったであろうが、 サミット開催の旨味を全く期待できないのは、如何にルナゲイト家と雖も大きな痛手である。 来年度にまで不幸を持ち越さないためにも本年度の収支を度外視して警備を徹底し、 12月8日をジューダス・ローブの命日にする覚悟と気概を持ってテロリストを迎え撃たなくてはならない。 まさしく必勝の布陣が要求された。 地上に渦巻く昏い焦燥など関知するところではないという風に青く染め上げられたルナゲイトの空が、 不安を抱えながらサミットを迎えた人々には恨めしかった。 ルナゲイトに訪れるだろう危急と申し合わせたかの如く、サミットが開幕される昼過ぎには曇天へ変わるとの予報だったが、 今のところ、灰色の雲が集う気配は見られない。 「空の青さがこれから起こることと連動しているなら………このまま快晴でいて欲しいもんですよ」 「チミってばなかなかポエマーじゃない? リトルクサ過ぎだけどさ〜」 皮肉な空の青さを見上げながら情緒に富んだ希望を呟くトキハをホゥリーは口笛吹いて冷やかした。 警備の体制を話し合ったブリーフィングから今日で三日が経過していた。 その間にジョゼフの試みた根回しが功を奏し、セフィの懸案通りにサミットは本来の日程から数日前倒しとなり、 本日12月8日へ開催される運びとなった。 任せて欲しいと胸を叩いたマユの宣言が実現され、この決定は公にはなっていない。 日程変更の採択に前後して各地首脳陣はルナゲイト入りを果たし、 セントラルタワーを仰ぐ区画に広がった『ケーン記念公園』にもサミットの会場が設営されたが、 これも敵の目を霍乱する手立てとしてアルフレッドが献策したもの。 サミット開幕のお膳立てを完成させておくことで、 首脳陣が予定通りに円卓に就くだろうとジューダス・ローブへ信じ込ませようとする心理作戦である。 安心感から来る油断を誘おうと言うのだ。 「セフィの言葉を借りるなら、予知能力を相手に効力が発揮されるか疑わしいがな」とは献策したアルフレッド本人の弁だが、 そのセフィも出来る限りの対策は練っておくべきと主張していた。 法律はおろか人の心も省みない非道のテロリストを向こうに回すのだから、策を練り過ぎて悪いことは無い。 対策の一環としてアルバトロス・カンパニーも招聘され、 こうしてトキハがホゥリーとバディを組んで会場付近を巡邏している訳だ。 所用があってフィガス・テクナーを離れられないボスだけは、残念ながらメンバーに入っていないが、 それ以外の者はMANAを片手に駆けつけてくれていた。 トリーシャもフィガス・テクナーに残って取材を続けている為、ジューダス・ローブとの決戦には立ち会えないのだが、 ネイサンとしては胸を撫で下ろすところだ。 戦闘力の皆無なトリーシャが万が一にもテロに巻き込まれでもしたら、考えられる最悪の事態がネイサンを襲ったことだろう。 アルバトロス・カンパニーを戦力に加えたアルフレッドたちは、いよいよサミット会場の警備に乗り出した。 平和と共存を象徴する青を基調とした横断幕と、その骨組みに取り付けられた分厚い装甲板でもって堅牢に囲われた円卓周辺には ニコラス&ヒューの他にも、アルフレッド&フィーナ、フツノミタマ&シェイン、ネイサン&ローガンの三組が警戒に当たっていた。 東西南北に穿たれた入り口のうち、東のゲートにディアナ&ハーヴェストが、西のゲートにホゥリー&トキハが、 南のゲートにタスク&アイルが、北のゲートにダイナソー&セフィが配置され、それぞれ警戒の目を光らせている。 人数が足らずに一羽だけ浮く形になってしまったムルグは、最初こそ拗ねていたものの、 フィーナの説得で機嫌を持ち直し、現在は遊撃の要として上空を哨戒中である。 会場の内外に不審な影を見つけたらすぐに仲間たちへ知らせる斥候のような役割も兼任しており、 思いがけず巡ってきた大役にご満悦の様子だった。 哨戒へ飛び立つ前に「単なる警護員とは格が違う」とばかりにアルフレッドをおちょくっていたムルグだが、 人数割りから漏れて拗ねることまで見越した彼が事前にフィーナと談じて遊撃の任に就かせようと画策していたことは知る由もない。 色情魔と勘違いしたムルグに後頭部を抉られたばかりのアルフレッドが講じた、ちょっとした仕返しと言えた。 首脳陣が円卓へ着席する頃にはフェイチームも会場入りする手筈となっている。 今はまだ姿が見られないが、警備の最高責任者を務めるフェイのことだ。各ポイントの最終チェックに忙殺されているのだろう。 この他にも会場外周を護る警備員は五百人から動員され、特別チームに帯同して内部の警備に当たるスタッフは三百人が配備された。 それだけなら例年並みであろうが、今回はスカッド・フリーダムの一部隊までもが加勢に駆けつけてくれている。 しかも、だ。今回、サミットの警備に馳せ参じたのは、戦闘隊長・シュガーレイが率いる部隊である。 一人ひとりが一騎当千の戦闘力を誇るスカッド・フリーダム隊員の中から特に優れた人材が選抜されたシュガーレイの部隊は、 言ってみれば、当代きっての精鋭を結集したようなものである。 スカッド・フリーダム内部でも屈指の戦闘力を誇る部隊がサミットの警護へ参加することは、ローガンが評した通り、百人力と言えよう。 戦闘隊長として勇名を馳せるシュガーレイの参画には、ヒューも膝を打って喜んだ。 直接的にシュガーレイ本人との面識はなかったものの、 ジューダス・ローブの追跡やその他の事件捜査に於いてスカッド・フリーダムと何度か共闘したことのあるヒューは、 彼の同胞たちから戦闘隊長に相応しい辣腕・才覚を伝聞していたのだ。 対ジューダス・ローブ及びサミット防衛のミーティングには、シュガーレイもスカッド・フリーダムを代表して参加したのだが、 そのことをヒューに冷やかされると、畏まって謙遜するどころか、 改めて語るまでもない、当たり前の話だとばかりに鼻で笑って見せた。 それでいて、自身の功績をひけらかすような浅ましい真似などせず、議事進行を優先させるよう促すあたり、 増上慢な自信家とは少し毛色が違うようだ。 涼しげな面構えを厭味と受け取ったハーヴェストは露骨に顔を顰めたが、 落ち着き払ったその様子がアルフレッドには逆に好ましく思えた。 驕り昂ぶる輩であったなら、まともに相手をする気も起きないのだが、シュガーレイの場合は、 自分が備えた能力と、これに基づく立ち位置、更には求められるまでも冷静に受け止め、弁えているようなのだ。 自分自身の能力を隙も穴もなく把握した上で、これを生かす術を分析することは、簡単なようで意外と難しい。 さりげない態度一つで噂に違わぬ能力を証明して見せたシュガーレイには、アルフレッドも素直に感心した。 サミット当日は警備員に混じって首脳陣を護衛するよう指示された際にも、シュガーレイは些かも表情を曇らせなかった。 おそらく任された役割をただ粛々とこなすことであろう。 意気込んでいたジューダス・ローブとの決着戦に参加できないばかりか、花形とは言い難い役割が回ってきたと言うのに、だ。 苦い顔をするどころか、人数配分や各人の配置などを積極的に提案しているのである。 桧舞台を期待していた他の隊員からは少なからず不満の声も上がるだろうが、 シュガーレイの説得を以ってすれば万事丸く収まるに違いない。 どこまでも沈着な横顔には、スカッド・フリーダムの関わる全ての戦闘行為を統括するだけの大器が認められた。 若年ながらスカッド・フリーダムの戦闘隊長を担うシュガーレイにも驚かされたが、 ミーティングの最中に明らかになったヒューの経歴には、アルフレッド以下多くの仲間たちが目を丸くして絶句したものだ。 自分の名声を冷やかされたシュガーレイが、その矛先をかわす為に発した一言がきっかけであった。 「―――私の活動などさして誇るようなものでもないが、実績で言うならピンカートンさんのほうが遥かに多いのでは? 探偵とは世を忍ぶ仮の姿、しかしてその正体は、疾風のように駆けつける正義の使者―――ともっぱらの噂だがね」 ヒューがシュガーレイの名声を知っていたように、スカッド・フリーダムの戦闘隊長もまた同僚を経由して名探偵の噂を耳にしていたらしい。 「どこでそんなウワサが立つんだよ。てか、ウワサにしたって尾ヒレが付き過ぎじゃねーの? 女性人気がアップすんのは嬉しいけどさ、歯牙ない探偵風情が背負うには、ちとデカ過ぎるねぇ、そりゃ。 大体、正義の使者なんてドコから出てきたんだ? そりゃあハーヴちゃんのコトだろ」 「あぁあぁ、なんちゃってヒーローはどうでもいいさ」 「そのなんちゃってヒーローちゃん、あんたのこと、すっげぇ目ェして睨んでるけど………。 こりゃ、夜道で刺されるんじゃね? やだぜェ、俺っち。探偵の居るところ、必ず殺人事件が起きるなんて、 ドラマやミステリ小説みて〜なウワサが立っちまうのは」 「そう、それだ。私も配下から伝え聞いただけなのだが、皆、口を揃えてピンカートンさんのことを、一介の探偵とは思えないと言うんだよ。 あれは只者じゃない。何らかの特殊な訓練を受けた手練(スゴウデ)だとな」 「買い被りだってぇの。大体、おめ、俺っちの格好をご覧なさいよ。 自分で言うのもシャクだけどよ、こんなトロピカルな髪型のヤツに切れ者なんていると思うかぁ?」 「見た目で能力を評価するほど私も愚かではないさ。如何にもそれらしいコスプレをしていると言うのに、 中身はなんちゃってヒーローと言う可哀想な友人もいることだしな」 「―――いちいちあたしのほうにネタ振るんはやめや、このアホメガネッ!」 実のところ、シュガーレイが指摘した内容は、アルフレッドも薄々勘付いていたことだった。 ローガンもローガンで首を傾げていたところである。 メアズ・レイグとの抗争へ縺れ込んだ際、自分の立てた作戦を僅かな目配せから完璧に推察し、 なおかつ要求に見合う最良の行動を取ってくれたのだが、 これはアルフレッドからして見れば、イチかバチかの賭けにも等しかった。 ジョゼフの警護を通じて、多少なりとも親しくはなっていたものの、 例えばフィーナのように以心伝心で意思の疎通が出来るほど深いものではない。 メアズ・レイグとの抗争の最中、他の面々のように短慮には走らず注意深く動向を見守り、 取り得るべき最善の策を練っていたと認めたからこそ、 アルフレッドも自分の意図が通じるものと確信を得たのだが、 ヒューが垣間見せた戦術眼は、やはり探偵と言うよりも軍人のそれに近かった。 更に付け加えるなら、アルフレッドのように作戦家、戦略家と呼ばれる類だ。 とても探偵業のみで培われたものとは思えず、彼のバックボーンは様々な憶測を呼んでいた。 「んー、………あんま人に話すもんでもね〜んだけど、俺っちさ、昔、潜水艇に乗ってたんだよね。 正確には潜水艇じゃなくて特殊潜航艇なんだけどよ」 「潜水艇って―――お前、もともと海兵だったのか?」 「海兵? ………まあ、広い意味では“海軍”ってコトになんのかねぇ………」 何事にもあけすけなヒューにしては珍しく歯切れの悪い物言いだった。 「一応、お前さんと同業者ってコトさ」とアルに向かって答えたきり、話題そのものを打ち切ってしまった為、 委細を問うことは叶わなかったのだが、ヒューの探偵らしからぬ戦術眼のルーツに 周囲の皆も得心がついた心持ちである。 そして、そのルーツがヒューにとって触れて欲しくない部分であることもアルフレッドたちは心得た。 特殊潜航艇に乗り込む海兵――あくまでヒューが言うところの“広い意味で”――であった筈の彼が どのような経緯で探偵業に転身したのか。また、人里離れた秘境に辿り着き、レイチェルと所帯を持つに至ったのか………。 尋ねたいことは山ほどあったが、彼が自ら語ってくれるまでは、強いて問い質すことはすまい。 今は来るべきジューダス・ローブとの決戦に備えるときであった。 この一戦は、長きに亘ってかのテロリストを追いかけ続けてきたヒューにとって悲願と言うべきものである。 彼の為にも作戦を成功させねばならないとアルフレッドは密かに考えていた。 他の仲間たちが同じ気持ちでいることも確信している。 「ヘイヘイ、ミステリアスなガイを気取っちゃってるのカナ? ドントマッチっつーか、キモいよね。 オーケーオーケー、ボキのほうからダンナのマコシカライフをディテクティブしてあげちゃおっか? ハ〜イ、リスニングしたい興味津々ちゃんはハンドをアップね♪」などと悪趣味な真似をする肉塊に限っては、 前述の類例には入るまいが。 レイチェルから伝え聞いたのか、事情を周知しているらしいソニエに折檻の地獄突きを喰らわされ、 (物理的に)沈黙したホゥリーは捨て置くとして――― ジューダス・ローブとの攻防に向けた準備は、スカッド・フリーダムを迎えたことで加速度的に整い始めていた。 まさしく天網恢々鼠にして漏らさず。鼠どころか蟻の這い出る隙間も見つからない警備の網である。 たった一人の標的へ充てるには散財も良いところの大判振る舞いではあるが、 その標的が予知能力を備えたジューダス・ローブと言う点を考慮すると、 ここまで物量を投入してもまだ足りないのではないかとの不安が浮かんでくるから恐ろしい。 殺人の技術に精通し、全てを見通す予知をも兼ね備えたジューダス・ローブには、 物量・戦力ともに総力を結集して、ようやく互角に持ち込めるのだ。 数の上では千倍近く勝っている。しかし、決して楽観は出来ない。各自、人事を尽くして欲しい――― それぞれの持ち場へ散開する間際、アルフレッドは何度も何度も念を押していた。 何事かフェイも鼓舞めいた大音声を張り上げていたが、ジューダス・ローブの恐怖を意識するあまり、 そちらへ耳を傾ける余裕は誰も持ち合わせていなかった。 強いのではなく、恐い………。 何度となくジューダス・ローブと対決し、彼のテロリストの恐ろしさを誰よりも味わったヒューの訓戒が総員の緊張感を最高潮に昂ぶらせ、 油断という概念を心から取り除いた。 強いのではなく、恐い―――ジューダス・ローブの爆撃を間近で見、底知れないテロの恐怖へ断片にも触れていたフィーナは、 自分に言い聞かせるように、微かに震え出した両膝を叱咤するようにヒューの訓戒を反芻した。 ジューダス・ローブの猛威をセントラルタワーにて実際に目の当たりにしたことも大きいが、 アカデミーにてテロリストの脅威と危険性を徹底的に叩き込まれたアルフレッドには、 ヒューの発した「強いのでなく恐い」の意味がより重く響いている。 テロリストの真の恐ろしさは、彼らが扱う非合法な武器ではない。 悪意の感じられない全くの一般人に成りすまし、平和を謳歌する街中で何の脈絡も無く理不尽な殺戮を暴発させることにあった。 完璧な偽装のもとに隠された殺意は限りなく不可避に近く、防ぎようがない。 だからこそ「強いのでなく恐い」のだ。 フィーナが口にした『ネビュラ戦法』を対ジューダス・ローブの要として編み出したアルフレッドだが、 アカデミーでの学習があればこそ万全の計略に満足せず、誰よりも神経を尖らせ警戒に目を光らせていた。 時折、フィーナにやり過ぎと呆れられ、近くを巡邏する警備員たちには笑い飛ばされ、 その都度、「お前たちはテロリストの恐さをわかっちゃいない」と脅かしている。 とは言え、円卓の並びにまでケチを付け出すのは如何なものだろう。そこまで来ると対テロとは違うような気がする。 重箱の隅を突くようにあらゆることへ口出しするアルフレッドに対し、フィーナは「お姑さんみたい」と呆れ返ったものだ。 「―――『ネビュラ戦法』」 「ん?」 「アルの考えた作戦。………私は大賛成だけど、アルは本当にこれでいいの?」 そこまで会場内の様子に意識を研ぎ澄ませるアルフレッドだから、 最初、フィーナが自分に声をかけていることを聞き漏らし、聞き取ってからも何を言わんとしているか意味を掴めずに肩を竦めていた。 次いで飛び出した彼女の二の句でようやく意味を理解し、その瞬間にあまりの驚きでズッコケそうになってしまった。 「アルはもっと大掛かりな戦い方がしたかったんじゃないの? ………犠牲者を出しても確実に勝てるやつを」 「………お前は、一体………一体、俺をどんな目で見ているんだ」 「………私をおかしな目で見てた人に言われたくないんだけど………」 “どんな目”という問いに“こんな目”と返したフィーナは、つぶらな瞳をアルフレッドに向け、 そこにありったけの不信感を込めてやった。 いわゆるジト目というモノだ。非人道的な戦法を提案しようとしていた彼に対する無言の抗議である。 実に厭な目で見つめられたアルフレッドは居た堪れなくなり、「もういい」と彼女から向けられる視線を手で払った。 「ヒューも言っていただろう? 俺だって何も好き好んで人的被害の差し引きをしたわけじゃないぞ。 被害を出さずに済むのならそれに越したことはない」 最悪の事態を想定した止むを得ない戦法だとヒューは非人道的な手段を釈明していたが、 それを見たアルフレッドはよくぞ真髄を代弁してくれたと膝を打ったものだ…が、 どうやら憧れのハーヴェストに負けず劣らず正義感の強いフィーナには、非情を強いらざるを得ない側の心中までは見抜けなかったようだ。 犠牲者の差し引きを是としていると見られるのは、アルフレッドにとって甚だ心外だった。 アルフレッドとて人の心もあるし、誰かを、何かを犠牲にして目的を達することが大いなる過ちであり、 許し難い驕りであることは理解している。 その上で、冷酷とも取れる断を下さなければならなかったのである。 間違いを糾弾する心の悲鳴を押し殺し、非情の差し引きを計算しなければならなかったのだ。 フィーナにとんでもない誤解をされていると知り、犠牲を出さずに済むと晴れ晴れしていた気持ちが幾分沈んでしまった。 普段から冷たい態度を取っていると、こう言う場合にあらぬ嫌疑を掛けられて損をするのだな…と アルフレッドは密かに素行を改める決心をした。 「軍師ってそう言うもの?」 「軍師でなくても普通の人間なら被害の少ない策を考えるよ。………そもそも俺は誰かに仕えているわけではない。 軍師と言う呼び方は全くの的外れだ。せめて作戦家と言うべきだな」 「………作戦家さんは、犠牲の計算をするのが仕事なの?」 「………俺が何を言いたいのか、お前は全然わかっていない」 グリーニャにおけるスマウグ総業との衝突、マコシカでの騒動、 図らずも巻き込まれたテムグ・テングリ群狼領内紛時における奇策、リーヴル・ノワール探索を簡略化した人海戦術――― いずれの難問も見事に解決して見せた采配の妙からすっかりアルフレッドのポジションが“軍師”に定着した感があるものの、 あくまでも弁護士志望である本人には迷惑極まりない。 話し合いや法律の行使によって解決すべき問題を武力で押し通すことに一抹の抵抗を覚えると言うのに、 武断の要とも言える“軍師”と見なされては、二度と弁護士志望を名乗ることが許されないような気がするのだ。 法はおろか人道の裏を掻き、決戦の計略を練る軍師は、 法と人道を尊ぶ弁護士とは何があっても相容れない存在だとアルフレッドは考えていた。 ………そもそも、誰かに仕えているわけでもないのに軍師呼ばわりされること自体、おかしな話なのだ―――とも。 「………軍師、か。そう言えば、君はテムグ・テングリのエルンストから仕官を誘われたんだったな」 迷惑至極を隠そうともしないジト目でフィーナを睨んでいたアルフレッドの背に何者かが声をかけてきた。 「受けていれば、今頃は草賊の軍師になっていたかも知れないな」 責任者として会場内外の警備状態を最終チェックしていたフェイが、いつの間にか二人のもとにまでやって来ていた。 別行動しているのか、ソニエとケロイド・ジュースの姿は周囲には見当たらない。 「やめてくださいよ、兄さん。フィーも軍師だなんて呼ばないでくれ。俺は俺のできることをやっただけだよ」 「アカデミーに通っていたら僕にもアルのような軍略が身に付いたのかな。それとも………持って生まれた才能の差か?」 「兄さんに言われるとすごい皮肉に聞こえますよ。英雄と凡人じゃ比べるべくもないでしょう?」 「………………………」 声を掛けられて振り返った直後から、実はアルフレッドはフェイに違和感を覚えていた。 常に行動を共にするソニエとケロイド・ジュースが傍にいない光景が見慣れず、 フェイ単体での登場と言う珍しさに戸惑っているのだと自分を納得させたのだが、どうも理由はそれだけではないように思えてきた。 違和の正体を見極めようとするうち、どんなときにも笑顔を絶やさないフェイが、 「こんな人物になりたい」と誰もが憧れるフェイの面が、どうしようもないやるせなさに濁り、淀んでいることに気付いた。 最凶のテロリストとの決戦を前にして緊張しているのかとアルフレッドもフィーナも考えはしたのだが、 どうやら焦りに強張っている様子でもない。 ………理屈で言い表すことが出来ないような、深く昏く、複雑に入り組んだ表情(かお)を面に貼り付けたフェイは、 光を移さない瞳でアルフレッドをじっと見据えていた。 「………兄さん?」 「ジューダス・ローブにテムグ・テングリ、異世界の侵食………。世情はどんどん不安定になっている。 僕も本格的な軍略を身に着けたいと考えているんだ。そのときは、是非、君にご指南願いたいね、アル」 「俺なんかで役に立てるなら、喜んで」 「―――………それはありがたいね。………本当にありがたいよ………」 結局、何をしにやって来たのかも明示しないままフェイは立ち去ってしまい、 残されたアルフレッドとフィーナは戸惑い気味の顔を見合わせて肩を竦める。 淀んだ顔へ強引に笑みを浮かべて去ったフェイに二人は言い知れぬ不安を覚えた。 薄く笑みこそ浮かべるフェイであったが、その瞳は依然として光を灯さず、貼り付けたような笑気が恐ろしく不釣合いだった。 円卓周辺など気にも留めず真っ直ぐに北のゲートを潜ったことから察するに、 会場内部の警備状態を確認しに来たわけでは無さそうだ。 そうなるといよいよフェイの行動は理解出来なくなる。 ただアルフレッドと話がしたかったのだろうか? それならばもっと会話を続ければ良いものを、言いたいことだけを言いつけて去っていったようにしか見えなかった。 今まで見たこともない昏い瞳で見据えられたアルフレッドにも、 フェイの行動と…濁りきった表情の裏にあるだろう思惑は皆目見当もつかなかった。 「今の………フェイさんですわよね?」 フェイと入れ違いにアルフレッドたちのもとへ歩み寄ってきたのはマリスとルディアだった。 二人は直接的な戦闘力に乏しいために戦列から外されており、例によってマリスはルディアのお守り役を任されていた。 おそらくは決戦場になるだろう会場には近寄らず、セントラルタワーで待機しているように言いつけられていたのだが、 フィガス・テクナーに劣らず物珍しいモノが揃ったルナゲイトの町並みを前にしてルディアが黙っていられるわけも無く、 サミットが開幕するまでの期限付きでマリスと外を見て回っていたのだ。 図らずもアルフレッドの意に背く形になってしまい、これを気に病むマリスの表情は沈んでいるが、 手に余るルディアのお守りにはそれくらいの柔軟性が必要だと理解している彼はそのことを咎めるつもりは無く、 「ここは危なくなる。そろそろタワーに戻ってくれ」とやんわり促すのみに留めた。 「マリスさんもおかしいと思います? フェイ兄さんの様子………」 「このようなことを陰で言うのは失礼かも知れませんけど………別人のようでしたわ」 「俺とフィーの目が錯覚を起こしたと言うわけじゃなさそうだな。………何かあったのかな」 入れ違いに垣間見ただけのマリスでもフェイの異変に気付いたようで、彼女もまた英雄らしからぬ昏い瞳に困惑を隠せずにいた。 「ルディア? どうした?」 「………………………」 マリスと行動を共にしているルディアは彼女の陰に隠れたまま、身じろぎ一つしていなかった。 気が付いたアルフレッドに呼びかけられても挨拶さえ返して来ない。 「ル、ルディアちゃん?」 「顔色がよろしくないですわよ?」 ついさっきまで元気一杯にはしゃぎまくっていたルディアが急におとなしくなってしまったのだ。 これを訝ったアルフレッドたちが彼女の小さな顔を覗き込むと、そこには何らかのプレッシャーに怯える恐慌の相がありありと見て取れる。 縋り付くようにしてマリスの袖口を握り締め、その指先はカタカタと震えていた。 尋常ならざる様子であった。 まるで死神か亡霊に追い立てられでもしたかのような恐怖が、凍てつきの風となってルディアに吹き付けている。 見開かれた瞳にうっすらと滲んだ涙がより痛ましい。 「恐い………」 フェイが消えていったゲートの方角を怯えたように窺いながら、蒼褪めた唇を震わせ、ぽつりと呟く。 “呟き”と言うよりも、喉の奥に詰まっていた異物を絞り出すかのような、本当に小さな小さな声を落とした。 「………あの人………恐い………」 搾り出された小さな悲鳴にアルフレッドたちは一斉に顔を見合わせて絶句する。 子供ならではの洞察力と言うものだろうか。 ルディアはフェイの変貌から息も出来ないくらい峻烈な恐怖を植え付けられていた。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |