5.訣別 数刻の時間の後、割り当てられていた見張りの時間を終えて、アルフレッドとローガンがジョゼフの別荘へと戻ってきた。 交代要員に引継ぎをしてから、次の順番が回ってくるまでの間、 少しばかりでも休息を取ろうかとしていたのだが、不意にそんな彼を呼び止める声がした。 「戻ってきたようじゃな。丁度良い、おヌシにもちょっと付き合ってもらおう」 「何か用ですか? 付き合えといわれても、酒のお供なら御免こうむりたいところですけど」 冗談めかして話すアルフレッドに付き合うように、ジョゼフはカラカラと笑うも、 「今が平常時ならワシもそうしてはいたいのじゃがな。この非常時じゃ、そんな悠長な事はできんじゃろうて。 ちょいとおヌシにも知恵を貸してほしいのじゃよ」 と、すぐさまにいつもの顔つきに戻っていた。 敵兵との遭遇とか、そう言ったトラブルがあったわけでもない見張りの後ではあったが、 気を張り詰めていた分――そして、そこをローガンに指摘されたのだが――、いささかの疲れを感じていたアルフレッド。 しかし、ジョゼフにこう言われては理由があったとしても断れないし、元より断る理由も無かった。 アルフレッドの疲労を見て取ったローガンが先に休憩を取るよう促したものの、 生真面目な彼はこれをやんわりと断り、具体的な話を聞くためにジョゼフの自室へと向かっていった。 「―――ムチャしたらあかんで。寝床用意しとくさかい、気分悪なったら戻ってくるんや」 追いかけてきたローガンの気遣いが、アルフレッドの心身から幾分疲れを抜いてくれた。 招かれて入室した先には、既に見張りの任務から戦力外通告を受けていたホゥリーのほかに、 ハーヴェストやヒューといった見張りの時間ではなかった面子も揃っていた。 「言葉からして俺一人ではないとは思っていたましたが。 しかし、ただ暇そうな人を集めたというわけでもないようですね。 それはともかく、『知恵を借りたい』と仰られましても、こういうメンバーをかき集めて一体何を?」 「そう急ぐことでもあるまい。気ばかり急いていては長生きできぬぞ。人生には二分ほどのゆとりが必要じゃよ」 集められた人物たちで、これから何を話し合うのだろうかと考えていたアルフレッドの疑問を制し、 ジョゼフは部屋にしまわれていた地図を取り出し、さっと広げた。 机からはみ出すほど大型の地図には全エンディニオンが記されている。 そこへジョゼフは、彼がマユからの報告を受けたとおりに、武装集団が進軍し、占領した場所に印を付けていった。 「うむ、ざっとこんなところじゃろうか。描きこみ過ぎて少しばかり疲れてしもうたわい。 ルナゲイトを中心として周辺の町、それに至る幹線道路や各地の村落、その他主要な道――― 見事なまでにバツ印が並んだものじゃ」 ジョゼフが言うように、地図に描き込まれた印が示しているように、 ルナゲイト近辺はあらかた武装集団によって占領されていた。 もしかすると、現在進行形でさらに占領された場所は増えているかもしれない。 世界全土が支配下に置かれるのも、そう時間がかからない事と思わせる勢いだった。 「あーはん、随分とディテールまでシチュエーションが分かっているじゃないか。 一体どういうツールでそんなインフォメーションを知ったんだかねえ?」 「その質問にはおいおい答えるとしてじゃ、おヌシらをよんだのは他でもない。ワシらの今後の対策についてじゃ」 ホゥリーがわざとらしく聞いてきた質問をジョゼフは受け流して、アルフレッドたちに意見を求めてきた。 連絡を受けての通り、ルナゲイト周辺は次々に進軍、占領の流れの中にあり、 その流れが拡張の一途を辿っているとあっては、戦略的な価値がほとんど無いこの地であっても、 武装集団の勢いを考えればいつまでも潜んでいるわけにもいかないだろう。 いずれはここも侵略の憂き目に会う可能性は高い。 ならばどうするべきか。 マユからの報告をジョゼフなりに判断してはみても、どのように手段を講じるかまでは中々決定できない。 年の功、という言葉はあるのだが、だからといって折角ある知能を有効に活用しない手は無い。 「言わんとなされることは分かりまたが、けれども意見を求めるならばもう少し人材を集めても良いのでは? そう…… 例えば、アルバトロス・カンパニーの面々なら、こういう時にでも役に立ってくれそうだと思いますが」 アルフレッドとしてはジョゼフの考えることに、大筋では疑問などは持ちようも無い。 一人で考えているよりは大人数で知恵を出し合った方が解決策は出やすい。 まったくもって理に適っている。だが、意見を求めるにしても人数が少ないような気が、ふと頭をよぎった。 この場には自分を含めて5人。せっかくならもう少しいてもよさそうだ。 確かに「船頭多くして船山に登る」の例えもあるだろうが、主導権をジョゼフが持つことになれば問題は無い。 そうであるならば、会議の一員としてでも、オブザーバー的な役割に徹してもらうにしても、 世界各地を飛び回っているニコラスを始めとするアルバトロス・カンパニーの人間がいてくれれば、 こういう非常時にも柔軟な対応策が出てきそうなものである。 武装集団の襲撃で離ればなれになってしまったが、幸いにもニコラスからの連絡で全員の無事は確認されており、 ジョゼフならば彼らを呼び集めることも不可能ではないはず。 集結するまでには時間がかかるかもしれないが、この話し合いが彼らを待っていられるほど火急の事とも思えなかった。 じっくりと話ができるまで準備をする時間的余裕はまだあるはずだ。 アルフレッドにはどこか腑に落ちないところがあり、それがためにジョゼフに尋ねてみたのである。 「うむ、おヌシが言うように、良いアイデアを生み出しそうな人間がこれで充分というわけではない。 じゃが、それはあくまで味方である限りの話。敵方に知恵者がいると厄介なことになろう。彼奴らはいかんな」 「敵方というのは? あいつらがあの集団に与している、とでも仰りたいのですか?」 ジョゼフの言葉は、アルフレッドの予測の範疇を超えた答えを持って発せられた。 アルバトロス・カンパニーが敵に回るかもしれないというジョゼフの考えは、 アルフレッドにはどうにも納得できるものではなかった。 今までのアルバトロス・カンパニーとのやり取りを思い出してみても、ジョゼフの言うような人間だとは到底思えない。 今までの出来事は、ニコラスたちと自分が交わした会話は、あれは上辺だけの物だったのだろうか。 そんな事をにわかには信じらなかったし、またジョゼフが彼らをそう判断するだけの何かを掴んでいるとも思えない。 だからこそ、自分でも感情的になっている、と思える勢いでジョゼフに問うてみたのだ。 「ワシはおヌシと彼奴らの間がどのようなものなのかをはっきりと知っているわけではないし、 おヌシが彼奴らをどこまで信用しているのはも分からぬ。 じゃが、ここでワシが一つ言える事は、彼奴らを心安い仲と思うのは危険だということじゃ。 無論、敵方と言ったが、それは正確なものでは無い。ワシらとは違い、敵と同じ『世界』にいる者、とでも言うべきかな。 ともかく、彼奴らにあまり気を許してしまうのはいかがなものか、ということじゃ」 「ですが……」 「世界」という言葉を、アルフレッドは大袈裟に感じた。 仮にアルバトロス・カンパニーと例の武装集団がつながっていたとしても、 「勢力」という言葉程度にとどめておいてもよさそうなものだが、というどことない違和感があった。 ともかく、フィガス・テグナーという未知の都市の住人だからといって、彼らを信用できないというのは納得がいかない。 だからといってカンパニーの面々をこの場に呼び寄せるようジョゼフに掛け合わせてみても無駄なことだろう。 柔らかな物言いではあったが、ジョゼフの態度からは呼び寄せる気が無いことはありありとみてとれた。 ニコラスたちがこの場にやってくることは無い。残念だがそれは諦める他にない。 だが、この場にいなくてはいけない人物がやはりいないのでは、とアルフレッドは思った。つまり―― 「あいつらが駄目だというのであれば、フェイ兄さんを呼んでもよろしいのでは? 俺なんかよりもよほど場馴れしているのだから、的確な意見が聞けそうなものですが」 アルフレッドが思っていたこの場所に欠かすことができそうも無い人物、フェイもいない。 ジョゼフがあえて呼ばなかったのだろうか―――だが「英雄」の名をほしいままにしているフェイだ。 このような世界の危機が訪れているというのに、何の行動も取ろうとしていないはずは無いだろう。 ましてや、彼も武装集団の襲来を間近で見たひとりである。 彼らならあの死地を絶対に切り抜けているだろう。 ともすれば、既に武装集団に立ち向かうための手段を講じているに違いない。 ならば、ジョゼフとしてもフェイと協力して事にあたることに何の不都合があるだろうか。 ツヴァイハンダーを扱い、敵を蹴散らす、自分をも凌駕する武力。 さらに冷静沈着で物事の一手先はおろか三手先まで見通しているような判断力。 どこをとってもこの危機を打破するためには欠かすことができない、 いの一番に意見を聞くべき最重要な人物であることは間違いないだろうに、とアルフレッドは思っていた。 しかし、彼の考えをジョゼフはにべもなくしりぞけた。 「フェイか…… 彼奴もいかんな。むしろアルバトロス・カンパニー以上によくない。 おヌシはフェイを敬愛しているようじゃから事の本質が見えていないのかもしれぬのう。 ちょっとばかりこの老人の意見を言わせてもらおうか。 自分の定めを正義の執行とし、それに向けて邁進することは実に結構。 じゃが、実はそこにこそ落とし穴がある。前を見据えることは正しい、じゃが、彼奴は前を見すぎておる。 一たび目標を定めると、それだけしか目に入らなくなってしまう。視覚狭窄というやつじゃな」 同席しているハーヴェストはこの発言に眉を顰めたようだが、ジョゼフは構わず続けた。 「真直ぐ過ぎる人間というものは、えてして柔軟な対応ができんということじゃ。 つまり、彼奴はこの場に設けられた作戦会議には無用の人物なのじゃよ」 「そんな事は――」 「無用」とまで言われれば、さすがにアルフレッドも黙っていられない。 すぐさまジョゼフに反論しかけたのだが、 「『無い』と言いたいか? ほんの少しでも贔屓目無しに見れば分かりそうなものじゃがのう」 「……」 それを制したジョゼフの言葉に、アルフレッドは努めて冷静になって考え直してみた。 フェイにジョゼフが言っていたような面がないわけではないだろう。 確かにフェイには真っ直ぐすぎるきらいがあるのはアルフレッドでも気付いている。 それゆえの危うさ、とでも評するべきか。だからといってジョゼフの意見に賛成はできない。 危うさを補って余りある実力がフェイには備わっているとアルフレッドは信じていた。 そう思うだけの実力の証明などは、アルフレッドが自戒の念を抱かずにはいられないほどに、 目の前でこれでもかというほど証明されていたのである。 そのように尊敬――というよりも崇拝に近いかもしれない――しているフェイに対して、ジョゼフのあの物言い。 アルフレッドには、彼を悪し様に言われたことに対しての怒りよりも、 ジョゼフが冷酷なまでの判断を下したことのショックの方が大きかった。 釈然としない思いがアルフレッドの心中を支配する中、彼の感情はさて置かれて会議は熱を帯び始めていた。 「このままじっとしていても埒が開かない。このような閉塞的な状況を突破するためには、やはり攻撃に出るべき。 非戦闘員を手にかけるやり方は正義にもとる。あのような者たちを放っておくわけにはいかない」 「ノーズ息が荒いねえ。あいつらがやっていることはどうシンクしてもランダムなものじゃないね。 グレートなタクティクスかストラテジーがファンデーションになってるアクションかな。 そうなるとこちらが迂闊にアクションを起こすのはデンジャラス」 「いや、そういう考えは逃げの一手を打っているようなもの。 危険だ、危険だと言うが、それを回避しようとしている内に、事態が行き詰ってしまっては元も子も無いのでは?」 「ボキ何も、打つ手がナッシングになるまでここでウェイトしていよう、なんて言うわけじゃなくてだねえ。 物事にはチャンスってのがあるじゃないか。それをウェイトしようっていうわけ。 ラッキーはスリープして待てってね。アンダースタン?」 「そのチャンスが来るかどうかが分からないのに、ここでいたずらに時を過ごしてもどうしようもないでしょう? それに、仮に機会が訪れるとしても、それがいつになるのかが予測できなければ同じことだと思うけど?」 「ボキはこの場でじっとウェイトしていようってセイしたいわけじゃなくてだねえ。 チャンスが来るまでは、セイフティーな所へランナウェイっていう事。オーケイ?」 「自分で言ったでしょう、相手は確かな戦略をもって侵攻を続けている、と。 好機を待って逃げ続けたとしても、敵が進軍をやめなければいずれ安全な場所は無くなってしまう。 こちらの退路だっていずれは無くなってしまうことにならない?」 「そうさなあ。尻尾巻いて逃げるのが癪だってわけじゃねえが、 だからといって逃げている内に事態が好転するとは思えねえわな」 「そう言ったってあいつらとファイティングするといってもディッフィカルトじゃないかねぇ。 パワーバランスの例え話をすると、こっちはマウスであっちはエレファント。どうシンクしても勝ち目はナッシング」 「何も真正面からぶつかって、相手を叩こうというのではなくって。 敵の司令を行なっている人物、つまりは幹部クラスの人間を倒す。そうすれば相手の士気は下がることになるはず。 敵の勢いがくじければ、この世界にいる正義を信じる者たちが立ち上がり、反撃に出るんじゃ」 「そうできるのならば話は簡単だが、その手段が俺たちに無いのではどうにもならないだろう?」 「おおっとぉ、珍しくアルとセイムな意見。 敵幹部をデストロイするなんて作戦、リスンするなら格好いいけど、サクセスのパーセンテージはとってもローだね。 確かなタクティクスだってこっちには無い。どうするワケ?」 「それは……」 「そんくらいなら何とかできねえこともねえとは思うがな。 俺っちのトラウムならある程度の人数には対応できるし、情報収集だってお手のモンだしな。 幹部をひそかに探し出して後ろからサクッ、くらいならできるかもしれないか」 「とは言え、それはあまりにもリスクが高い気もする。そもそも、幹部をどうやって見つける?」 「それならまあ、そこいらにいるだろう下っ端をふんじばって吐かせりゃいいんじゃねえ?」 「うーん、あんたの腕を信用していないわけじゃないが、そう簡単にいくとは思えないな」 「だよなあ、アルもそう思うわなあ。やれって言われても、俺っちだってあんまり気が乗らねえ策だな」 「まったく…… あなたはどっちの味方なわけ?」 「おいおい、味方するしない以前に、どうするかの判断材料が乏しいんじゃ結論なんざ出せるかって」 敵の戦略を考慮して、このままセント・カノンに留まっていてはいずれ包囲されるなり何なりされてしまい、 進退が窮してしまう、という点に関してはお互いに認識しているところであった。 だが、そこから先はどうするのかという話となると各々の考え方が違ってくる。 反撃の機会が訪れるまでの間、敵から間合いを取り続けるべきだという顔に似合わない慎重論をとるホゥリー。 それに対して、このままこちら側が不利なままの状態からさらに不利な状況に追い込まれる前に、 敵側の頭を叩いて相手の気勢を削ぎ、閉塞的な状況から突破口を見出すべきだと積極策をとるハーヴェスト。 そんな彼女にどっちつかずだと呆れられてしまったヒューだが、彼も彼で考えている。 だが、どんな作戦でいくかにしても、今のままでは情報が少なく動きようがない。 これではすぐさまに決められるわけもない、という態度をとっていた。 アルフレッドの方も、現在の手探り状態では判断に苦しんでいる様子だった。 ホゥリーとハーヴェストの話は平行線。このまま二つの意見の交差点はいまだに見つからないままでいた。 「もう一度、敵の戦略から考えられることといえば――」 とりあえず、今ある情報だけで判断するのなら、と口に出しながら考えるアルフレッドの脳裏に ふと、あるものがよぎった。 まじまじとジョゼフの描き表した地図の印を見て、しばしの間考えていると、 自分の記憶の片隅にあったものが不意に浮かんでくるような感覚を覚えた。 中心点から各地域への進軍のさせ方、とくに交通の要所を真っ先に支配下に置く戦法――― これは彼がアカデミーにいた頃、教官に教え込まれた戦略の内の一つに似ていた。 いや、似ていたというよりはそれそのものと言った方がより近い。 (確証があるわけじゃないが、それでも可能性は高いな。 敵はアカデミーの戦略と同じように行動している。となると、次に狙われるであろう場所は――) アルフレッドが考えを詰め、いまだに結論が出ない一同に向けて自説を述べた。 「相手側のやり方には覚えがある。先に重要な拠点を占拠して、その後で各地に部隊を散開させる。 さらには聞いての通り、交通の要所を支配下におく。こういった手順はアカデミーで学んだ戦略にそっくりだ」 この席に於いて初めてと言っても良い有益な情報を受け、みなの視線がアルフレッドに集中する。 「そうなると、アカデミーで同じ事を学んだお前さんには、奴さんたちのいきそうな場所が分かるって事か?」 「そうだな。敵がアカデミー式の戦略を土台にしているならば、次に向かう場所は自ずと絞れてくる。 地図に示されたように、敵は主要な街道を押さえてはいるが、そことつながっている重要度の低い、 例えば幅員が狭かったり交通量の少なかったりする道までは制していない。 恐らくは、あらかた全ての道路を封鎖できるほどの人的な余裕がないのでは、と俺は思う。 人の往来を妨げるために道をふさぎたい、だがふさぎきれない、そうした場合次に攻撃対象になるのは――」 「くどい言い方はノーサンキューだね。さっさと要点だけをプリーズ」 「こういう言い方が癖なんだ。ともかく、すべての街道を抑えることができないというのならば、 少数ではあっても人の行き来を許すことになる。 限られた人員で、人の往来を防ぐとなれば、交通の拠点となるような町村を狙ってくるに違いない」 「トラフィックのハブになるようなタウンねえ…… この近くだと佐志かな? トゥルーアンサー?」 「脳細胞まで脂肪細胞なくせに中々察しがいいな。俺もそのように考えている。 佐志は海運の要所。アカデミーの戦略的に考えると、近い内に武装集団の攻撃を受けるはずだ。 だが街道封鎖にもルナゲイト各地にも兵を割かなければならない敵に、大軍で攻めてくるだけの余裕は無い。 そこに俺たちが敵に付け入る隙が出てくるはずだ」 武装集団の取ってきた行動が、アルフレッドがアカデミーで学んできた戦略のそれと同じにしろ似たものにしろ、 次に佐志を攻めるというのは、なるほど道理のように思われた。 善は急げ、兵は神速を尊ぶ、拙速は巧遅に勝る。 敵が佐志に攻めてくる前に打てるだけ手を打っておきたいと、アルフレッドは 夜が明け次第佐志に向かうことを提案した。 話し合いの解決の糸口が見つからないままでいた一同は、このまま何も決まらないよりははるかに良いと、 アルフレッドの考えに乗ることにした。 「そうと決まったら少しくらいはゆっくりできるか。どうもこういう議論の場にいると疲れていけねえや。 休ませてもらうとすっかな」 会議がとりあえず決着を迎えたことで一安心というか、肩の力が抜けたというか、 ヒューは座っていた椅子の背もたれに寄りかかりながら、タバコに火をつけて一服しようとした。 ―――そんな折である。 「これはどういうことなのですか、ジョゼフ様! どうして僕を呼んでいただけなかったのですか!?」 けたたましくドアを開けジョゼフの別荘に入ってきたのは、 アルフレッドがこの場に呼ぼうとしていたフェイその人である。 この場でこのようなことが行なわれているとどうして知ったのだろうか、それとも単に偶然なのか。 何しろ突然の来訪だけに事情の全てを察することは出来ない。 だが、フェイは確かにこの場にやって来ているのだ。 全く予想をしていなかった急展開にみなが動揺する中、部屋へ踏み行ったフェイは 真っ直ぐにジョゼフへと向かっていく。 口調そのものはいつもと同じような丁寧さがあるのだが、しかしいつもと違って声は随分大きい。 顔も、努めて平静であろうとしているのであろうが、隠しておけない様子の不満が噴出している。 「何じゃい、こんな夜更けに騒々しいのう。ここには怪我人がおるんじゃ、もう少し静かに願いたいところじゃ」 フェイの感情なぞはどこ吹く風とばかりに、ジョゼフはどこか遠目で彼を見つめ、 自身の特徴的な眉毛やヒゲを撫で回しながら鷹揚な様で言葉を返した。 「それは申し訳ありません。そちらまで気を回す余裕を欠いていました。 しかし、今はそのようにマナーに関してあれこれ言っているような状況ではないのでは? このエンディニオンの一大事だというのに、皆が団結して難事に当たらなければいけないという時に、 なぜこの僕を招聘しようとしていただかなかったのですか?」 ジョゼフがフェイをなだめよう――というよりは問題をはぐらかそうという意図のほうが大きい気がするが――とはしたものの、 どうにもこの場がすんなりと納まる気配はない。 「―――そうよ、おじいちゃんったらさあ。こんな時にフェイの力を借りないだなんて、どういうつもり?」 「………オレたちを呼んでいられないほど…… 切迫しているとも…… 思えないが……」 フェイの後を追って入室してきたソニエとケロイド・ジュースもまたジョゼフに向かって不満をぶつける。 聴けば、ソニエもソニエでジョゼフと同じ機転を働かせたらしく、一先ずセント・カノンへ逃れようと促したと言うのだ。 祖父もまた自分と同じ考えてだろう。そこへ行けば合流できるに違いない、と。 「ソニエか。いきなり文句とはのう……まるでワシがおヌシたちを締め出したように聞こえるわい。人聞きの悪い事よ」 「そういうことを言っているんじゃなくって。 話し合いの場を設けるなら、もう少し待っていてくれても良かったんじゃないかなって言いたいわけ」 「いやいや、待てと言われてものう……。 おヌシたちとは敵の攻撃で連絡が取れなくなっていたのだから、待つも待たないも無いと思わぬか?」 「取れなかったんじゃなくて、取らなかったんじゃないの? だって――」 「そう大声を出さんでもよかろう。こちらとて今まで悠々とできていたわけではないのだぞ。 呼ぼうにも呼ばれぬ事情というものがあったわけじゃ」 「やはり…… オレたちを外す意図があったと……?」 「話を戻さんでくれ。これでは堂々巡りじゃわい」 ソニエがジョゼフを問い詰めるも、彼はゆったりとした態度で茶を飲みながら言葉を返す。 とぼけた様子がフェイたちとの温度差を如実に表していた。 先ほど、フェイたちをこの場に呼ぶ必要は無いのだとジョゼフは理由をつけて言っていたのに、 実際にフェイが現われるとこんな態度を取るのには、何か裏があるようにアルフレッドには思えた。 ジョゼフの意図はともかくとして、事実、フェイたちはこの場に呼ばれていなかったわけである。 フェイたちがルナゲイトからどのようにして逃れ出たのか、その顛末をアルフレッドは知る由も無かったのだが、 これだけははっきりとわかる。フェイの表情を見れば、すぐさまにわかる。 のけ者扱いされた事実が、フェイのプライドを大きく傷つけていた。 釈然としない気持ちがアルフレッドの中にこみ上げていた。 ジョゼフは明らかにフェイを遠ざけようとしている。そして、フェイもまた自分が疎まれていることを察してはいる。 今までにもふたりの間に流れる空気が険悪になったことは多々あった…が、 プライドをズタズタに引き裂くまでフェイを貶めたことは、さすがに無かったはずだ。 少なくとも、アルフレッドの記憶にはない。 本来なら最強の援軍となるべき人物を、ただ「真っ直ぐだから」と言う理由一つで 徹底的に排斥しようとするジョゼフの真意をアルフレッドは測りかねていた。 釈然としないというのならフェイも同様、いや、それ以上だ。 フェイたちがこの部屋に乱入してきたのは、多分に偶然の要素を含んでいる。 安全であろうとこの地へ向かうことをソニエが提案しなければ、彼らはここにいなかったはずだ。 そしてまた偶然、見張りをしていたシェインに会い、ジョゼフ宅で会議が行なわれていると聞いたのである。 自分たちには何も知らされず、こんな話し合いの場を設けられていた。 偶然が重なってこのことを知ったフェイは、有り体にいえばこの扱いに我慢がならなかったと言うわけである。 この世界において、他に並ぶ者がいない英雄と称される自分が、 英雄の名の元に皆を率い、従えて、突如として平和を乱したあの武装集団と対する立場にあるはずの自分が、 まるで邪魔者のように扱われて、この場の会議に出席することができなかったのか。 自負か、それとも矜持か。かくあらねばならない自分という像を彼は持っている。 ジョゼフの言う「視角狭窄」な性格が、フェイを理想と現実のギャップに苦しめているからなのだろうか、 彼の不満は言葉を重ねていく内に怒りとなり、彼はさらに激しくジョゼフを問い詰める。 「………すいません、フェイ兄さんの怒りを買ってしまうことになるとは思ってもみませんでした。 実は…… 兄さんをこの場に呼ばないように、と御老公にお願いしたのは俺なんです」 「―――君の判断だというのか!?」 「ええ、その通りです」 「なっ………」 割って入ったアルフレッドの声に、フェイは信じられないと言った様子で両眼を見開いた。 あってはならないことが、目の前で起きてしまった―――衝撃と失望をない交ぜにした、そんな表情(かお)である。 「俺だって、この未曾有の事態に立ち向かうためには英雄である兄さんの力が必要だっていう事は分かっているつもりです。 でも、わざわざこの場にフェイ兄さんを呼ぶべきじゃないだろう、と。御老公はここへ呼ぼうとしていたのですが…。 兄さんには兄さんで、やるべき事があるだろうから、今呼んでは手を煩わせることになるんじゃないかと思ったんです。 言うなれば、俺たちのやっている事がフェイ兄さんの迷惑になってはいけない、 英雄としての働きをするべき人をいちいち会議に呼びたてて、余計な手間をかけさせてはいけないだろう。 俺はそう言ってあえて御老公には、兄さんの手を借りることがないようにしなければいけない、と説得したんです」 フェイとジョゼフの間に存在していた一触即発の雰囲気を何とか変えようと、 咄嗟の判断でもってアルフレッドは機転を利かせたのだ。 先程の会話の中でジョゼフが述べていた通り、彼はフェイをこの場に呼ぶ気などはさらさら無かった。 むしろ厄介者扱いしていたのだ。 「役に立たない」とまで言い放つジョゼフのことである。 このまま事態を傍観していたら、そのような旨を彼はフェイに対しても言ってしまうかもしれない。 そうなってはフェイの協力を得られなくなってしまうだろう。いや、きっとなる。 ジョゼフはああ言ったが、アルフレッドはフェイたちの力も頼みにしている。 だから、ここでフェイの離反を招くのは避けなければいけないことというわけだ。 武装集団と対するのに、身内で揉めていてはできることもできなくなってしまう。 最悪の場合、フェイが自分たちの前に立ちはだかる存在になってしまうかもしれない。 顕在的な敵としてではなく、自分たちの策の妨げになってしまうという程度のものだとしても、 それだけはなんとしても避けなければならない事態だ。 ジョゼフとフェイの間に入って上手く立ち回り、 何とか両者が付かず離れずの関係を維持できるようにしなければ、とアルフレッドは腐心したのである。 とはいえ、フェイの剣幕に、まくし立てるような言葉の勢いに、何とかこの場を取り持つのが精一杯。 自分が悪者になってでも、尊敬するフェイに嘘をついてでも、 この場を穏便に収めなくてはならないのだというアルフレッドの苦肉の策であった。 「そういったところじゃな。おヌシの出る幕はもう少し後ということよのう。 英雄たるもの、そうそうみだりに動くものじゃない、と言うべきじゃろうか。 このまま英雄として大衆に扱われたいのなら、時には辛抱することも大事だと肝に銘じておいて欲しいのじゃがな」 アルフレッドの気持ちを酌んだのか、ジョゼフも彼のフォローに回った。 とはいえ、ジョゼフの態度は相変わらず人を食ったような感じであり、 彼をこの場に呼ばなかったことへの申し訳無さを前面に押し出したものとは到底言えなかった。 それどころか、まるで英雄の名が惜しいのならば黙っていろ、とでも言いたげにすらアルフレッドには感じられた。 つまるところ、口先だけの謝罪を並べただけだった。これではかえって挑発しているようではないか。 (人が何とか無難にまとめようとしているというのに……。御老公はどういうつもりで?) フェイが必要無いとしても、こうまで邪険に扱う事も無いだろうに。 ジョゼフ程の人物ならば、フェイを怒らせないで遠ざけるくらいの事も不可能ではないだろうに。 何故ジョゼフがこんな態度をフェイに取るのか、アルフレッドは理解に苦しんだ。 だが、ジョゼフがもし完全にアルフレッドのフォローをしてみたところで、果たしてフェイが信じるだろうか。 全くの口から出任せ、事実とは正反対の嘘八百を並べているのだが、 それでも、アルフレッドとてできる限り言葉は選んだつもりではある。 嘘だと思わずに自分の言葉を信じてくれればよいのだが、残念ながら相手はフェイだ。 信じてもらえる、と思うほうがむしろ甘い考えであるのは間違いない。 事実、アルフレッドが嘘をついているというのは、すぐにフェイにも分かってしまった。 アルフレッドの言葉が正しいか否かということなどは、付き合いの長いフェイからしてみたら瞭然である。 咄嗟についた嘘とはいえ、アルフレッドは努めてもっともらしく振る舞ってみたのだったが、 そんな彼の表情から、喋り方から、不自然な点を感じ取ったフェイは全てを察知した。 (やはり…お前も薄汚いグリーニャの………――――――) 怒りとも悲しみとも諦めとも、どうにも形容しがたい表情をフェイは満面に湛えていた。 戦塵を被ったままの頬には、己に対する絶望が、この弟分に対する失望が宿っていた。 そして、瞳の輝きが波紋のように歪んだ刹那、フェイの顔面から一切の感情が消えた。 「そうか…… なるほど、アルが言いたい事、いや、この場の全員の意見が良く理解できたよ」 何かきっかけがあれば、今にも壊れてしまいそうなくらい弱々しく、 ありとあらゆる不安の想念を浮かべるアルフレッドの顔をフェイはまじまじと見つめた。 弟分の顔を見つめるフェイの面からは、感情はおろか生気さえもが抜け落ちてしまっていた。 「僕はこの場にいてはいけない人間なのだってね。残念だよアル、君がこんなつまらない嘘を言うなんてね」 「兄さん、俺は―――」 「―――そういうつもりなら、こっちはこっちのやり方で好きにやらせてもらうよ」 何事か言いかけたアルフレッドを遮り、フェイはついに踵を返した。 フェイは目の前にいると言うのに、自分に向けられた背がアルフレッドには途方もなく遠く感じた。 二度と追いつけないほどに、遠く、遠く………。 「僕らはこれで失礼する。………行こう」 さっさと出て行こうとするフェイに対し、ソニエとケロイド・ジュースは困惑のまま立ち尽くしている。 「待て……納得はいかないが……だがもう少し話を聞いたらどうだ……?」 「ケロちゃんの言う通りじゃない? どこかおじいちゃんのやっている事は変だと思うけど、 私たちに言えないような事情が、何か複雑な理由があるのかもしれないじゃない。 アルだってつきたくて嘘をついているわけじゃなさそうだもの」 フェイと同様に熱くなっていたソニエとケロイド・ジュースではあったが、 彼の感情の発露に触れていると、同じように言いたい事だけをぶちまけているべきではないように感じられた。 ジョゼフがフェイを必要としないのなら、それなりの理由があるはず。 だとしたら、納得できるかできないかはともかく、それを聞いてからでも遅くは無いのではないか――― と思えるくらいに頭は冷えてきたようであった。 だが、そんな二人に宥められても、そう簡単にフェイの気持ちが収まるわけもない。 「これ以上何を聞く必要があるっていうんだい? どうせここにいたって何の解決にもならないんだ」 「ちょっと、フェイったら――」 「フェイ兄さん、待っ――」 場を取りなそうとするソニエの声も、アルフレッドの呼びかけも、フェイの耳には届いてはいなかった。 一切を無視して退出する形で、フェイは拒絶の意思を示したのである。 残された二人としても、フェイが立ち去ってしまった以上、 この場に留まっている理由も無く、仕方無しにということもあるが、すぐさまにフェイの後を追いかけていった。 「………………………」 「………………………」 退出の際、一度だけソニエはジョゼフを振り返り、数秒ばかり視線を交えたのだが、 やはり両者の間に言葉はなかった。 恋人を侮辱された怒りではない。深い悲しみをソニエは宿していた。 「行ったようじゃな。………それにしてもおヌシ、嘘をつくならもう少し上手くやったらどうじゃ? 努力はうかがえるが、あんなに不自然に目線をそらしては信じてもらえるものも上手くいかぬぞ」 無言のまま見送った孫娘の足音が聞こえなくなるのを見計らい、 ジョゼフは信じられないことをアルフレッドに語りかけた。 「まあ、こういうのは場慣れが大事じゃ。その内に上手くなるじゃろうて」 「ご、御老公………」 これからの困難に向けて、一致団結して事にあたらなければいけないはずなのに、 フェイの反発を招いてしまったことを悔やんでいたアルフレッドに対して、 ジョゼフといえば先程までと変わらない様子で、どこか人を食ったような感じに語りかけた。 「あの場面じゃ、ああする以外には俺には思いつかなかったので…… しかし、そんな事よりもあの態度。あれじゃあわざとフェイ兄さんと決裂しようとしていたとしか思えませんが?」 「先に言ったじゃろ、ああいう手合いは必要ない、と。 おヌシの嘘で万が一にも彼奴がワシらに協力する、とでも言い出したら逆に困ったところじゃった。 こちらの狙い通り、彼奴が勝手に動いてくれるとなれば好都合じゃな。これでやり易くなったわい」 「イエス、イエス。そういうところだね。エキザンプルとするならば、ユースフルなデコイってやつかな。 あいつらがカレにターゲッティングしてくれれば、こっちはラッキーだしね」 アルフレッドがなおも悩む中、ホゥリーとジョゼフはフェイの反発をむしろ喜んでいた。 ヒューは特に何も言い出さなかったが、別段フェイの協力を必要としていないように思える。 ハーヴェストはジョゼフのやり方に否定的であり、ソニエの退出を待たずに抗議の声を上げたが、 彼女の弁舌で老獪な新聞王を相手にすることは到底無理である。 同じ英雄でありながらもフェイと違って切り捨てられないあたり、 ジョゼフとしてもハーヴェストには利用価値を見いだしているようで、 次々と浴びせられる罵詈雑言をのらりくらりと躱していった。 (………どうして…こんなことになってしまったんだ………ッ) やりきれない思いがアルフレッドを包み込む。 フェイが見せた果てしなく遠い背中を瞼の裏に描き、そして、懊悩した。 心中にて慟哭すればするほどフェイの背中が遠ざかるような気がしてならず、だからこそアルフレッドは自分の行動を悔やみ続けた。 フェイを取り巻くソニエとケロイド・ジュースも、アルフレッドと同様に苦悩を深めつつある。 取り付く島もないと言った様子で部屋を出たフェイに引き摺られ、回廊行くその背に随行こそしているものの、 ふたりも心中では両者の和解を希望しているのだ。 特にソニエの心情は立場も含めて複雑だった。 一度は勘当状態に陥ったとは言え、ジョゼフは何にも替え難い肉親である。 血を分けた祖父と恋人のフェイが関係の修復すら難しいような形で決裂することは、身を切られるような思いなのだ。 アルフレッドのこともまた然り。お互いを慕い、敬い合う微笑ましい兄弟分が仲違いをする様など誰が好き好んで見たいものか。 「セント・カノンには他にもルナゲイト管理の別荘があるわ。小さな頃にあたしが使っていたバンガローも残っているし、 今日のところはそこで一泊ね。………明日よ、明日。改めてあのクソジジィとやり合ったろうじゃないの。 ここまでコケにされて、おめおめと引き下がれないでしょ?」 ふたつの痛恨事に苦悩するソニエは、仲裁を取り成そうと試み続けているのだが、 フェイ当人は掛けられる言葉の全てを黙殺しており、返事どころか相槌すら打たない有様である。 一先ずセント・カノンに宿泊し、両者の頭が冷えた翌朝、改めて調停を図るのがソニエの考えだったが、 彼女が幾ら建設的な具申をしても今のフェイには受け入れる用意はなかろう。 ソニエと肩を並べながらフェイの背を追いかけるケロイド・ジュースは、必死に声を掛け続ける彼女とは対照的に静観を貫いている。 ときに口の減らない男などと皮肉られる彼にしては珍しい姿だ。 フェイの態度と、…ジョゼフの発言に思うところがあるのだろうか。部屋を出て以来、押し黙ったままでいる。 そのケロイド・ジュースが低く呻き声を上げたのは、騒ぎを聞きつけて寝床から起き出したルディアが、 回廊の真ん中でフェイたちと鉢合わせたときである。 つい先ほどまで安眠していたのだろう、寝ぼけ眼を擦りながら夢遊病者のような足取りで廊下に出たルディアは、 フェイの姿を正面に捉えた瞬間、息を呑んで固まってしまった。 「あ…う………うぁあ………っ………」 完全に脱力しているらしく、握り締めていた毛布は彼女の小さな手から滑り落ちていく。 大きく見開かれた双眸には、目の前に立つ人影への…フェイへの恐怖と戦慄を宿している。 「………こわ…い………」 小さな双肩を震わせながら後ずさるルディアは、今にも泣き出しそうな声でそう搾り出した。擦れた声で「怖い」と呟いた。 奇しくもそれは、サミットの会場にて初めて邂逅した機(とき)の再現であった。 「………………………」 英雄たる自分に恐怖を訴える小さな女の子に、果たしてフェイが何を思ったのか。 能面の如く表情と言うものを持たない今の彼からは、その真意を読み取ることは極めて難しい。 逡巡があったようには思える。あるいは、だったかも知れない。 暫しの間、彼女と見つめ合っていたフェイは、尋常ならざる事態を気取ったソニエとケロイド・ジュースが取り成しに入る寸前、 あろうことか自分より遥かに小さなルディアの身体を乱暴に押し退けた。 横へと跳ね飛ばされたルディアは、その小さな身体を壁に強かぶつけてしまった。 頭を打ってはいない様子だが、兼ねてより恐怖の想念で身心を苛まれていたこともあり、ショックによって感情が爆発した。 深夜と言う時間帯などお構いなしに赤ん坊のような大泣きをし始めたのだ。 「いくらなんでもやり過ぎでしょう!? ルディアちゃんに八つ当たりして、一体、何になるのよッ!?」 大声で泣き喚くルディアに走り寄り、今まだ強く痛みがあるだろう小さな身体を抱きしめたソニエは、 あってはならない暴挙に出たフェイを大喝でもって糾弾した。 しかし、いくら批難を浴びせられても、…自分の腕が小さな女の子を跳ね飛ばしてしまったと気付いてからも、 フェイの表情(かお)は少しも揺らぐことがない。 相変わらずの能面である。 「………謝れ、フェイ………ルディアちゃんに………どんな事情があっても………お前がしたことは……… 決して………許されることでは………ないのだぞ………」 ルディアと入れ替わる恰好でフェイの前途に立ちはだかったケロイド・ジュースが謝罪を求めるものの、 やはり何ら声は返ってこない。反応一つ確かめることができない。 ルディアの泣き声を聞きつけたシェインが、ムルグを伴って廊下に飛び込んできたのは、 ケロイド・ジュースをも押し退けようとフェイが上体を動かしたのと殆ど同時であった。 「コ…コカ!?」 「なんだよ、おい、どうしたって言うんだよ………」 ここに至るまでの流れまではどうしても把握できないが、しかし、フェイがルディアを突き飛ばしたことだけはシェインにも見て取れた。 剣呑な空気を纏ったまま対峙するふたりの英雄と、泣き叫ぶルディアと、その小さな身体を抱きしめながらフェイを睨むソニエ――― これだけの材料が揃えば、誰の目にも明らかと言えよう。 だからこそ、シェインとムルグには理解が追いつかないのだ。 理由の如何を問わず、フェイがルディアを突き飛ばして泣かせてしまうなど、その人となりを良く知るシェインたちには 信じられない光景としか言いようがなかった。 確かに玄関で落ち合った時点で既に様子はおかしかった。鬼気迫る表情で乗り込んできたかと思えば、 取り乱したように気色ばんで作戦会議が行われている部屋へと向かっていったのだ。 同じグリーニャをルーツに持ち、長い付き合いにある筈のシェインやムルグですら、そのようなフェイの姿は初めて見る。 「フェイ兄ィ―――」 シェインとムルグの登場によって虚を突かれ、正面への意識が散漫となったケロイド・ジュースを、 フェイはまたしても力ずくで押し退け、そのまま振り返ることもなく玄関へと歩を進めていく。 自分の脇をすり抜けて去っていくフェイの横顔を見上げたとき、シェインもまたルディアと同じように恐怖を持つに至った。 生まれて初めてフェイに対して怖気を感じていた。 文字通りに総毛立つムルグを見る限り、彼女も全身を戦慄に強張らせているようだ。 本能の部分が鋭敏なムルグのほうが、あるいは自分たちよりも遥かに恐怖の意識が強いのかも知れない。 「フェイ兄ィッ!」 感じる筈のない相手からもたらされた恐怖を振り払うようにフェイの名を呼ぶシェインだったが、 健気とも言える彼の声は、全く無駄な徒労に終わってしまった。 いくらシェインに名前を呼ばれても、フェイは一瞥すら寄越さなかった。 フェイがセント・カノンを発ったのは、それから間もなくのことである。 ルディアをシェインに預けたソニエたちもすぐにその後を追いかけたのだが、ついにフェイの説得はかなわなかった。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |