1.祈りの価値



 ギルガメシュの襲来を境にして、エンディニオンの情勢は激変しつつある。
 海運の要衝ではあるものの、穏やかな港町に過ぎなかった佐志ですら世界に渦巻いた大きな時流には逆らえず、
変わることを余儀なくされていた。
 海岸沿いに新設されたバリケードなどの町並みの変貌に限った話ではない。
そこに住まう人々の意識もまた有事のそれへと切り替わっていた。
“海運の要衝”と言う誉れは、今や佐志にとって危機意識の根源となっているのだ。
 実際、ギルガメシュは有用な軍事拠点として占拠すべく佐志に兵を差し向けている。
 この戦闘はアルフレッドの謀った計略によって佐志の勝利と終わり、
それ以降、新手の派兵は認められなかった。
 しかし、ギルガメシュの撃退を喜ぶ声はどこからも上がらなかった。
喜ぶどころか、「勝って兜の緒を締める」と言う諺の通り、バリケードの補強や戦闘訓練を急ぐ有様である。
 アルフレッドが戦力増強を主導的に推し進めているとは言え、村落全体が緊張を解かないのは、
やはり有事と言う危機意識が皆の心に根を張っているからだろう。
 砂浜を見やれば、つい数日前に行われた戦闘の痕跡が確認できる。
敵味方入り乱れた靴跡や、ニコラスとディアナが駆ったと思しき車輪の跡が砂塵で消されることなく生々しく残っていた。

 佐志の町並みに訪れた変化の中には、海と町とを一望できる丘に建てられた新しい慰霊碑も数えられるだろう。
碑文には、グリーニャの地で犠牲になった人々への追悼の言葉が刻まれていた。
 理解不能としか言いようのないギルガメシュの強襲を受け、灰燼に帰したグリーニャの大地には、
数限りない犠牲者たちが眠っている。
 辛くも襲撃から生き延びた人々は佐志へと移ったものの、地理的条件などもあって全ての遺体を収容することは叶わず、
クラップを始め犠牲者たちは焼け野原に新設された墓の中へと埋葬されたのだ。
 装飾など全く施されていない簡素な墓しか用意できなかったことを生存者たちは泣いて悔やんだが、
彼らもまた故郷を、全てを失ったことに変わりはない。現時点で犠牲者の為にしてやれることは、それが限界であった。

 グリーニャから移住してきた人々の悲愴な想いを汲んだ守孝は、相棒である源八郎と話し合った上で、
犠牲者の為に慰霊碑を新造することを決めた。無論、反対する声は一つとして上がらなかった。
 この建造には佐志の人々も躊躇なく私財を投じ、数日のうちに丘の上にグリーニャの慰霊碑が立つこととなった。
 それは、ギルガメシュの暴挙によって失われた命への哀悼と、
地獄に等しい状況を生きていかねばならない移住者への激励が形を為したとも言える石碑であった。
 思いも寄らない佐志からの心遣いをグリーニャの人々は涙を流して感謝し、
結果的に双方の村民が速やかに結びつくきっかけにもなったのだが、一連の動きを冷ややかに傍観していたアルフレッドは、
「守孝もなかなか政治が上手い。用兵の参考にしたいものだ」と無粋にも鼻先で嘲った。
 いくらクラップやベルの事情(こと)があるとは言え、あまりにも歪んだ見方であり、
耳聡く聞きつけたフィーナを激怒させたが、どれほど暴言の撤回を求められてもアルフレッドは全く取り合わなかった。

 破綻しているとしか言いようのないアルフレッドは捨て置くとして―――
佐志から贈られた慰霊碑が疲弊しきっていたグリーニャの人々の慰みになったのは確かである。
 鎮魂の鐘楼が併設された慰霊碑にはグリーニャ、佐志双方の人々が足繁く通い詰め、
失われた魂を慰める鐘の音が絶える日はなかった。

 ルノアリーナも慰霊碑に祈りを捧げ、鎮魂の鐘を鳴らし続けるひとりだった。
 水平線に朝日が昇るのに合わせて起床し、
フランチェスカ―――いや、ギルガメシュ首魁、カレドヴールフに負わされた怪我が完治していない夫の様子を診、
次いで一日の家事を終えると、それから日没までの間、ずっと慰霊碑に祈りを捧げている。
 世話になっている分、せめて佐志の人々に恩を返したいと電器屋を再開したカッツェも仕事を終えてから駆けつけ、
祈りの最後にはふたり揃って鎮魂の鐘を衝いていた。
 佐志へ移住してからと言うもの、そのようにしてルノアリーナは日々を過ごしていた。
 ………それ以外の思考を挟む余地など、どこにも無かった。

 頭髪に混じる白線の幅が広くなり、目元の皺は以前にも増して深くなっている。
ただでさえ細身であったと言うのに、頬などは憐れなほどやつれて見えた。
 ―――老いが、本来訪れる筈の時間を前倒しして押し寄せていた。
 カッツェも同様の状態に陥っているのだが、ルノアリーナの場合は他の誰よりも顕著であった。
それは、老いであると同時に疲弊の表れとも言える。
 縁者によって故郷が焼亡させられ、その上にカッツェとの間に設けた愛娘をさらわれてしまったのだ。
ルノアリーナの身心は、地獄の責め苦を受けるかのように容赦なく削り取られていた。

 それでもルノアリーナは祈りを捧げ続ける。
 どれほど身心がやつれようとも、いつか必ずイシュタルの奇跡がもたらされると信じ、
故郷の命が女神の慈悲のもとで安らかに眠ると願って。
 そして、愛するベルが無事に帰ることを―――。


 佐志の海運を巡る戦闘が終わった直後と言うこともあってルノアリーナは普段にも増して深く祈りを捧げていた。
 縁者によって故郷を焼き払われたルノアリーナではあるが、彼女が心から希うのは、
息子のような復讐の達成ではない。
 この悪夢の日々の終息と、以前のような穏やかな暮らしの回復―――ただそれのみである。
 世界中が未曾有の混乱に陥っていると言うのに我が身の安穏に囚われてしまうことを、
ルノアリーナは救いようのないエゴだと考えており、それでも祈りを捧げずにはいられない自分を恥じてさえいる。
 ルノアリーナの祈りは、良心の呵責との格闘でもあった。
 しかし、彼女は罪を犯して責め苦を与えられたわけではないのだ。
ただ普通に家族を支え、穏やかに暮らしていただけだと言うのに、
その全てを無法の嵐によって唐突に奪い取られてしまったのである。
 ありふれた日常の回復を求めるのはごく自然な心の働きであり、そんなルノアリーナを誰が責められると言うのか。

「すまん、遅くなった………」
「………あなた………」

 一日の仕事を終えてカッツェが合流したのは、太陽が水平線へ鼻先を浸し始めた頃だった。
 普段であれば、合流した後に並んで祈りを捧げるのだが、今日は少し様子が違っている。
掛けられた呼び声にルノアリーナが振り返ったとき、視線の先に見つけたカッツェの面は生き霊のように蒼白だった。
 怪我が悪化したのではないかとすぐさまに駆け寄るルノアリーナであったが、どうもそうではないらしい。
 心配する妻に「大したことじゃない。傷口が開いたわけでもないから」と答えてから
日課の祈りを捧げ始めるカッツェであったが、横目に捉えた夫の頬は依然として生気が失せており、
ルノアリーナは気が気ではなかった。
 片膝を突いて両手を組み、祈りを捧げる体勢にはなっているものの、彼の紡ぐ聖句はどこか上滑りしていて、
意識が別の次元へ飛び立ってしまったものとルノアリーナには思えてならない。


 やがて日没を迎え、ルノアリーナが鎮魂の鐘を鳴らしてからもカッツェは事情を明かそうとしなかった。
打ち明けるタイミングを計っている様子でもなく、ただひたすら押し黙ったままなのである。
 しかし、沈黙こそが何よりも物を語る場合もある。いつにも増して口数を減らしているカッツェの様子から、
何かよからぬ事態が発生したことをルノアリーナは悟った。

 グリーニャが焼き討ちされて以降、カッツェは独り塞ぎ込むことが多くなり、
それが為にルノアリーナも夫の僅かな変化へ敏感になっているのだ。
 他者からの干渉を遮断し、殻に閉じこもって物思いに耽るときは決まって沈痛な面持ちでいる。
 彼自身、胸中で整理できていないことが多過ぎるのだろう。
あるいは、佐志へ移住したグリーニャの人間の中で最も大きな苦悩を抱えているのはカッツェかも知れない。

 グリーニャを焼き討ちされたその日、カッツェはかつての妻に―――カレドヴールフにギルガメシュへの参加を促されていた。
 復讐の鬼と化したアルフレッドに委細を難詰され、それより以前から自問を繰り返しているのだが、
カレドヴールフからの要請についてカッツェには全く思い当たる節がなかった。
 どれほど記憶の底を探っても手がかりにさえ行き当たらず、自問の末に何時だって迷子となってしまう。
どこに行けば答えに行き着くのか、全く見失ってしまう。
 それ故にカッツェは懊悩に苦悶し、果てしない絶望感に苛まれていた。
 カレドヴールフの言葉の意味が理解できず、これを理由に彼女の要請を突っぱねたのだが、
そのような抵抗をせず求められるままに投降していたなら、
故郷が焼き討ちされることも、ベルを誘拐されることもなかったのではないか―――カッツェにはそう思えてならなかった。
 自分の浅慮が、多くの人を巻き込んで故郷を焼失させてしまったとさえ彼は思い詰めていた。

 ベルを人質にして協力を脅迫してくるのかと考え、そのときは息子に後ろ指をさされても
取引に応じようとカッツェも覚悟を決めているのだが、今のところ、そうした気配はギルガメシュには見られない。
強硬な手段を採ってまでカッツェを引き入れようとしていたカレドヴールフにすら捨て置かれている状況である。
 こうなるとカッツェにはいよいよ打つ手がなくなる。取引と言う選択肢を断たれた今、
ベルの奪還は、戦う力を持った者へ―――我が子らへ託すより他なくなってしまうのだ。
 しかし、それは子どもたちを戦争へ送り出すことに等しい。
 復讐に燃えるアルフレッドや血気盛んなムルグは言うに及ばず、
これまでの旅を経て逞しく成長したフィーナとシェインもギルガメシュとの間で始まるだろう戦争では最前線に立って激闘する筈だ。

「………あの日、旅立たせたことは果たして正しかったのかしら。
償いの術を見つけて欲しいと思ったのだけど―――かえってあの子たちに重い十字架を背負わせてしまったんじゃ………」

 我が子を戦争に送り出すこと―――
その罪深い選択を夫と共有するルノアリーナは、自らの心に湧き起こった苦悩を擦れた声で打ち明けた。

「受け入れよう。受け入れてやるのが、俺たちの親の務めじゃないか。
………あの子たちは大きな試練に突き当たっている。そのとき俺たちがブレていたら、励ますことだって出来はしない」
「………………………」
「あの子たちを受け止められるのは、他の誰でもない俺たちだ。それだけは、………それだけは―――」

 肩を震わせる妻を強く抱きしめたカッツェは、白い物が目立ち始めたブロンドの髪へ口付けを落とすと、
次いで町で一番大きな待合所へと視線を巡らせた。慰霊碑の立つ丘の上からは佐志全体が眺望することが出来る為、
目当ての待合室はすぐに見つけられた。
 夫の腕へ身を預けるようにして俯いてしまったルノアリーナには確かめることも叶わないのだが、
遠方に所在する待合所を見つめるカッツェの表情(かお)は、沈鬱に歪んでいた。

 その日、彼が捧げた祈りは、最後まで虚ろであった。







 人生最悪の瞬間とは、果たしてどんなときを指すのだろう。
 艱難に感じるものは人によって異なるので、一概に定義を設けることはできないが、
自力では抜け出せない袋小路へ追い込まれ、退路を塞がれてしまう絶望感をこの括りとして数えるのに異論を唱える人間は少ないはずだ。
 最悪の瞬間とは、得てして逃れる術を奪われた状況にこそ降りかかるものである。

 アルフレッドのケースで例えるならば、タスクとの浮気がフィーナに露見したことが間違いなくこれに当たる。
 彼の場合、その後も仲間たちに総スカンを食らい、あまつさえタスクにフィーナとの関係を看破されるなど、
“最悪の基準”を更新し続けている気もするが、それは身から出た錆び。懊悩も葛藤も自己責任として負ってもらおう。

 人生最悪の瞬間とは、絶望に満ちた行き詰まりに加えてこの自己責任と言うものが一つの鍵を握っていると
フィーナは今日まで捉えてきた。
 自己責任は言い換えると自業自得となる。
 事情がどうであれ二重恋愛を結び、その結果に泣きを見たアルフレッドではないが、最悪の瞬間が訪れる因果には、
本人の過去の悪行があって然りである。
 悪徳を働けば、その場は取り繕えても、いつか必ずツケが回り、巡り巡って自分のもとへと戻ってきた悪徳へ後悔することになるのだ。
 人はそれを自業自得と呼び、人生最悪の瞬間と切っても切れない関係にある―――
そうフィーナは考え、これまでの十七年の人生を歩んできた。

 正しく生きる人間には、創造の女神イシュタルの加護が必ずもたらされると信じていたから。
 正しく在ればこそ、悪徳に悔恨することなく生きられると女神イシュタルの教えとして言い伝えられてきたから。

 しかし、信仰と言う名の夢と陶酔より醒めた先に在る現実は、
フィーナにとって、そして、女神の信仰へ敬虔に生きる全てのエンディニオン人にとって、あまりにも過酷な地平線を拓いていた。
 それは、希望の芽吹きが尽く摘み取られて潰える、荒れ果てた地平線だ。焔に灼(や)かれた赤黒い原野だ。
 太陽が旭日の大輪を咲かすことも無ければ、満月が柔らかな光を遣わして豊穣の誓いを立てることも無い。
陽光も無く、月光も無く、星光さえ投射しない漆黒の天の下、冷たく凍てる荒野を走る風が運ぶのは、
行く先示す導から影と形を奪う無間の砂塵だ。
 ありとあらゆる可能性を奪い取り、旅人を死の救いへ誘うその荒野は、女神イシュタルの加護が決して届かぬ地―――
選ばれし救世主に倣って静寂の祈祷を幾日捧げようとも、その地に救いの手が差し伸べられることは有り得ない。

 創造主に見棄てられ、打ち棄てられた者に生を享受する未来など約束されず、
希望の芽吹きを断たれた絶望の地にて懺悔を捧げ、いつ来るとも知れぬ救世に手を伸ばすことのみをイシュタルは許されるのだ。

 ―――その絶望の荒野の名を、エンディニオンと云う。

「女神………イシュタルが………救いの手を………拒否したってか………」

 エンディニオンが、この世界がイシュタルの加護より外れた事実を告げた瞬間(とき)、
誰もが虚偽を疑い、誰一人として受け容れようとしなかった。
 ………受け容れることなど出来るはずも無かった。
 生気を喪失(なく)したローガンは誰に問うでもなく「冗談に決まっとる。冗談やろ?」とうわ言のように繰り返し、
ネイサンもヒューも天井を仰いだまま言葉を失っている。
 守孝が血を吐くようにして呟いた「………エンディニオンは終わった………」という一言が、佐志で最も大きな待合所に重く響いた。
 彼の吐いた嘆息は、その場に集った人々の心へ重く圧し掛かり、胸に抱いた淡い希望の芽吹きを尽く断ち切っていった。
 彼は、今、計り知れない絶望のどん底に在るのだ。
 ギルガメシュと言う名の未曾有の危機へ今こそ創造女神に降臨を求め、
エンディニオンに光輝(ひかり)差す奇跡を期していたと言うのに、
具体的な導きを何ら含まないどころか、自分には世界を救う義務などないとまで吐き捨て、
秘義を以って接触を図ったレイチェルから離れたと言うではないか。

 託宣された御言は「人の可能性を信じる」―――だが、これもまたレイチェルの側の解釈によるものであり、
必ずしもイシュタルの本心とは言い難い。
 本心は別にあるのではないかと勘繰ってしまうほどにイシュタルの物言いは痛烈なものだったのだ。
エンディニオンと、そこに住まう人類を徹底的に突き放していたようにも思えてならない。
 聴きようによっては、人類の可能性を信じればこそ大いなる試練をお与えになった………とも取れるのだが、
手に余る混沌を前にして明日の進路にさえ窮する人類にとって、救いの導を含まぬ御言はあまりに冷たく、
我が仔らへの慈しみを感じられないものだった。

「………イシュタルは………世界を見棄てた………」

 今や誰もの心の中で、エンディニオンは人に光明を許さぬ絶望の地と成り果てていた。

『そんなことないっ! イシュタルは私たち一人ひとりに未来を託してくださったんだよっ!』

 佐志へ残留していた仲間たちにイシュタルの御心を代弁するフィーナには、その一言がどうしても搾り出せなかった。

 レイチェルに下された託宣は創造主の大いなる戯れであって本心ではない。
希望は失われておらず、必ずやエンディニオンは救いの光で満たされる、と。
 絶望を塗り変えるには、イシュタルが託してくれた未来の可能性へ希望を唱えるべきだとわかっていたし、
例えその場しのぎの嘘でも、希望の芽を摘み取る託宣を否定して見せれば、
仲間たちの心を蝕む無窮の闇が晴らされることもわかっていた。

 だが―――所詮はその場しのぎである。
 適当な言葉で急場を凌いだとしても、いずれ真実は人類へ降り注ぎ、地上に咲く光を抹殺するだろう。
 そのとき、いつかフィーナの語った託宣が戯れでなかったことを仲間たちは思い知り、
更なる絶望の只中で嘆きの末期を遂げるのである。
 そんな苦しみを、偽りを、フィーナは仲間たちへ与えることなど出来なかった。
 それ以前に厳正なる託宣を戯れと偽るのは創造主に対する冒涜に他ならず、
矮小なる人間風情が女神の言葉遊びを弄するなど決して許されることでは無い。

 ありとあらゆる絶望の影がフィーナを葛藤させ、失意に沈む人類を徹底的に打擲せしめた。

「イシュタルの加護が得られなかったから、どうしたと言うんだ? 加護が途絶えただけのエンディニオンはたちまち滅ぶのか? 
………違うだろう。俺たちは生きている。イシュタルの加護が去ってからも、エンディニオンは滅んじゃいない」

 創造主に見棄てられると言う人類史上最悪の事態に直面しながら、
ただ一人、エンディニオンを覆う絶望の影に囚われぬ者がいた。

「アル………」
「滅んでいない限り、俺たちは別の道を選べるというわけだ。
女神に依らず、自らの手で逆襲を成す一手を模索できる。
可能性が消えない限り、俺たちも諦める道理は無い」

 ―――アルフレッドだ。

「そ、そうだよ、アルの言う通りだよ、みんなっ! イシュタル様は私たちを見捨てたんじゃないっ!
私たちの可能性を信じてエンディニオンを託して―――」
「俺の意見を誤解するな、フィー。薄情な女神のフォローなど要らないと言ったんだ」
「えっ………」
「信仰心の厚い人間には耳に痛いことかも知れないが、気に触ったなら聞き流してくれ。
俺は、金輪際、神などという抽象的なモノは信じない。
大仰な奇跡でもって信仰を煽っておいて、人が縋ったときに救いをもたらさないモノなど、どうして尊ぶ必要がある」
「ア、アル、何言って………」
「魔法も、信仰の持つ強制力も、戦いに利用はさせて貰うがな。………だが、それだけだ」
「それは、だって、イシュタル様の試練だって………」
「試練? 笑わせるな。そんなものは神託じゃない、体の良い御託だ。厄介を免れる為のな。
本気でエンディニオンを想うのなら、どうしてギルガメシュの侵攻を許したんだ? 
因果律でも何でも捻じ曲げて、奴らがこの世界にやって来るのを防げば良かっただろう?
………我が仔が虐殺される様を看過するのが女神だと言うなら、俺はこの場で背教者になってやる」
「………アル………」

 壁にもたれながらフィーナの報告へ耳を傾けていたアルフレッドは、
しかし、仲間を鼓舞する口調でなく、淡い希望になど最初(ハナ)から期待していなかったと言わんばかりの不遜な態度で
イシュタルの選択を切り捨て、忌々しげに鼻を鳴らした。
 彼の態度はまさしく女神への冒涜に等しく、場所が場所なら過激な信徒らに取り囲まれても文句を言えないところだ。
 限定された場所の話ではない。もしもホゥリーがマコシカの民の類例に漏れず女神礼賛に熱心だったら、
今この場で一悶着起きていたところだ。
 幸いにもホゥリーは女神への信仰よりもポテトチップスへの熱情のほうが上回っていたし、
チーム内に過激な信徒もいなかったので不遜な態度を取ったアルフレッドが危害を加えられることも無かったが、
周りは背筋が凍る思いである。
 女神イシュタル並びに神人らは、エンディニオンが正しき運行を果たしているかどうか、
全ての地、全ての人、全ての運命を常に見守っておられる。
 そこに神域への冒涜が見つかれば咎を与えて戒め、度が過ぎたなら天罰を以ってして裁かれる―――
エンディニオンに生きる全ての人々は幼い頃より教わっており、成人してからもその訓戒を真理として持ち続ける。
 悪人に成り下がった者でも創造主らへの呪詛は決して吐かないほど、エンディニオンに根付く信仰は深く強かった。
 ところがアルフレッドはタブーを踏み躙り、イシュタルへの冒涜を露にした。
 非現実的な話ではあるものの、いつ天罰が降り注ぐのかと皆で警戒してしまったのだ。
無神論者に見えるフツノミタマやホゥリー――彼の場合、無神論者では大問題なのだが――までもが、だ。
 これこそエンディニオンに女神信仰が広く深く浸透している証であった。

 初犯につき見逃して下されたのだろうか、いつまで経ってもアルフレッドへ裁きの雷が落とされることは無く、
フィーナたちの警戒は杞憂に終わった。
 一斉に緊張を強め、一斉に胸を撫で下ろす仲間たちの滑稽さにアルフレッドはニコリともせず、またしても鼻を鳴らす。
くだらない信仰(もの)にいつまで囚われているんだ、と。

「………女神に救世の意志があったら、俺の故郷は焼けずに済んだ。
私怨と詰られればそれまでだが、俺は決してこの恨みを忘れない。一生涯だ」
「………………………」
「ギルガメシュとイシュタル―――俺にとっては何程の差もない」

 だが、彼が天に唾する行為の背景に、心へ刻まれた一生消せない痕が由縁としてあると知る仲間たちは、
例えそれが如何なる冒涜であっても、どうしても咎めることは出来なかった。
 武装組織と女神を同等の地平に並べ、梟首に処さんと恩讐の刃を翳すアルフレッドの昏い双眸は、
親友の命をあろうことか生みの母に断たれた痛みを未だに映している。

 運命と、それに則り破壊をもたらした者どもと、それを司る神々と、
………何より目の前で回された運命の輪を止められなかった自分自身を、アルフレッドは憎悪していた。


「あたしもアルに賛成だね。人は今こそ独り立ちしなくちゃならない機なのかも知れない」

 創造主への冒涜にまさか賛成が出ると思っていなかったフィーナは、アルフレッドの意見に挙手で応じた相手を見て、
更に驚愕を深める。
 女神を恐れぬ振る舞いをするアルフレッドに賛同したのは、
誰よりも冒涜を咎め、戒めなくてはならない立場の筈のレイチェルその人だったからだ。
 これで驚かない人間などいるものか。
 フィーナを筆頭にアルフレッド以外の誰もが目を丸くし、その真意を探るようにして彼女を凝視した。

 レイチェルたち、マコシカの民は、女神イシュタルとの交信を終えると戦火に巻き込まれる危難を恐れ、
所謂、疎開の形で佐志へ入っていた。
 守孝たち佐志の人々も「困ったときこそ手を取り合うもの」と古代民族の受け入れを快諾し、
グリーニャから流れてきた難民同様に空き家を利用した仮説住居を提供している。
 エンディニオンへ吹き荒ぶ戦乱は一時で過ぎる嵐ではなく、向こう数年は止まぬだろうと見越した源八郎は、
仮説住居の本格的な改築や家屋の新築などを行い、生活するのに不便の無い安楽な環境を整えなくては、と
袖を捲くって張り切っていた。
 守孝と共にまるで従卒のようにアルフレッドの傍らへ控える源八郎は、今でこそ戦士の出で立ちを纏っているものの、
本業は大工である。
 本来の力を発揮する機会を前にすると職人の腕が疼くようだ。

 母に同行して父のいる疎開先へやって来たミストだが、この場には居合わせていない。
 フィーナからアルバトロス・カンパニーが佐志の防衛に馳せ参じる旨を聞かされ、
不謹慎ながらニコラスと一緒にいられる時間が増えると密かに喜んでいたのだが、待っていたのは彼らの裏切りと出奔である。

 ショックを受けるなと言うほうが無理な話で、「罰が当たったんです、きっと………」と気落ちし、
落胆したミストはレイチェルの補佐を友人のジプシーワートに任せ、仮説住居へ引き篭もっていた。
 フィーナもフィーナでアルバトロス・カンパニーの裏切りには相当なショックではあったが、
ミストの受けたそれは誰よりも深刻で、痛ましいものに違いない。
 「あの赤髪………よくもあたしの可愛いミストを………今度会ったら、最低三十回はズッ殺すッ!!」と
歯軋りするジプシーワートの怒りの形相が、ミストの落胆を物語っているようだった。

 そうした状況を「女神がヒトを見棄てていないなら、どうしてここまで事態が悪化する」と鼻を鳴らすアルフレッドに
レイチェルが賛成の意を表したのだ。女神信仰の中心人物たるマコシカの酋長が。

「酋長、サニティはノーマルかい? 女神信仰のキーパーソンがそのアタランスはスリップオブタングじゃナッシン?」
「アルみたいに信仰を否定するつもりは無いよ。女神の存在を否定することは、あたし自身を否定するのと同じだからね」
「ハァン? 言ってるリグレットがくるくるクエスチョンだねェ。それじゃナニをリスペクトしよっての?」
「信仰は否定しないけど、女神に依存せず、自分たちの力で立つって考え方に賛成すると言ってるのよ。
女神に依存して進む路を見誤ってしまったら、それこそ信仰の意味を失うわ。
信仰とは、神々に進むべき路を依存する行為でなく、待ち受ける試練へ打ち克つ力だもの。
本旨を外した祈りを捧げたって、可能性をあたしたちに託されたイシュタル様は喜ばれないわ」
「イェラン叙事詩の一節にもあったっけね、“人、己が判断に依れ”って。
ああ、ビッグ&ワイドなリグレットじゃ女神サマも自分に頼るのをタブーにしているねぇ」

 古来よりマコシカの民に伝わる『イェラン叙事詩』の一説を諳んじたホゥリーは、
何の気無しに口に出した語群の内にレイチェルが言わんとした意味を見出し、フムと納得したように頷いた。
『イェラン叙事詩』を淀みなく引用して見せたのも驚きだが、神々の教えが集約された訓示に
今後の指針を見据えたことも周りの人間には意外だった。
 俗物そのものの普段の姿を見ている限り、叙事詩など叙説も読まず、まして神々の戒めになど耳も傾けないように思えるホゥリーだが、
精神の芯には着実にマコシカの信仰が息づいているようである。

「そう、イェラン叙事詩の第八章九十四節にある訓示通りよ。
未来は人の手にて切り拓け―――信仰に依らず、己に依って生きることを、あたしは信仰とするのよ」

 外来より入って洗礼を受けたホゥリーですら、禁じられる嗜好品へ平気で手を出すこの俗物ですら、
信仰を尊び、女神の教えを生きる術と換えているのだ。
 マコシカの集落に生まれ、物心つく前に信仰を憶え、長じて酋長職を継いだレイチェルが
この選択を下すのに伴う葛藤は並大抵のものでは無いはずだ。
 マコシカの民にとって、信仰は人生の全てと言っても良い。信仰の否定は、人生の否定と同義である。

 アルフレッドの“考え方”のみに賛成すると分けてはいるが、その実践こそ信仰の否定に抵触している。
どのように詭弁を弄しても、レイチェルが成そうとしているのは女神の否定でしかないのだ。
 レイチェルは己のアイデンティティーを否定しようとしていた。

 いかに『イェラン叙事詩』に在るからと言って、イシュタルよりもたらされた神託だからと言って、
マコシカの民の生き方を根底から否定するような決断を、我が妻は揺らぐことなく果たせるのだろうか。

「………決めたんだな?」
「………………………」

 妻の信仰心の厚さを誰より理解するヒューは、彼女が途中で挫けてしまわないかと気に掛ける。
彼が案じた通り、威勢のよさと裏腹にレイチェルの瞳は葛藤で揺らいでいた。
 堪りかねて手を差し伸べようとしたヒューだが、その動きこそ途中で止められた。
 夫から寄せられる気遣わしげな視線に気付いたレイチェルが、そっと微笑して返したとき、彼は気付いたのだ。
自分の気遣いが引き金になったという自信は無いが、今、レイチェルの心は決まったのだ、と。

 普段はさんざんに扱き下ろしている“宿六”へ「ありがと」と目配せしてから視線を仲間たちに戻し、
次の言葉を静かに待つ顔々を見渡したレイチェルの瞳は、一片の迷いにも曇っていなかった。

「それがあたしの信仰よ。女神に依らず、己に依って生きることがね。
―――戦うわ。信仰を妨げる神敵はどいつもこいつも地獄に送ってやるわよ」

 エンディニオンにおける女神信仰の中心人物たるマコシカの酋長として女神イシュタルと直接交信を果たし、
神託を預けられた者として決した英断だからこそ、レイチェルの宣言には大いなる意味があった。

 ―――“人、己が判断に依れ”という教義に基づき、今こそ神々への依存より独り立つ。

 そして、レイチェルの決した英断は、神々への依存より独り立つと言う勇気は、
自分たちが創造主に打ち棄てられた難民と嘆く人々に希望の種を撒くものでもあった。
 自分たちは創造主に打ち棄てられた難民じゃない。創造主への依存から独り立ち、新たなる一歩を踏み出すのだ。

「へへっ、そっか…! そーゆー考え方も出来るんだよなッ! そうさ、ボクらはイシュタル様に未来を託されたんじゃないかッ!! 
レイチェルさんの言う通りだよッ!! 見棄てられたなんて被害妄想に捕まって、泣きべそかいて二の足踏んでたって何も始まらないッ!!」
「ガキの言葉尻に乗っかるのも気分が良くねぇが、ウダウダやってんのは性に合わねぇしな。
こちとら誰様にも頼らず生きてきたんだ。誉めれた道じゃなくても、手前ェなりのやり方を貫くだけだぜ」
「イシュタル様に上等かましたワイらは、言ってみたら独立愚連隊や。それも前代未聞のな。
おもろいやんけ、ヒールの恐ろしさを思い知らせたるよ」
「どうしてそう野蛮な考え方しか出来ないのかしらね、野郎どもは………」
「良いではございませんか、ハーヴェスト様。はみ出すくらいの元気が、今のエンディニオンには、きっと、丁度良い按配ですよ。
年甲斐も無くわたくしも負けん気が出て来てしまいました」
「タスクまでそんなことを言い出すなんて………正義が泣くわ」
「ええやん、正義なんて、その辺に放っといても。今、ワイらが大事にせなアカンのは、ごっつい大義名分やのうて向こう気や。
気ィで負けたらアカンのや」
「正義無きところには何の発展も生まれないわッ!! ―――いいわよ、レイチェルさんじゃないけど、あたしも決めたわよッ!! 
あたしがこのチームの正義になるッ!! 戦いの果てで本当に独立愚連隊と後ろ指差されない為にも、あたしが正義を体言してみせるわッ!!」
「お、その意気やで、その意気。それくらい燃えとらんと、お前らしく無いわ」
「みんな、げんきになったの! いいかんじなの! おひさまぴーかんなのっ!」
「カカカッ!! コ―――ケ―――コッカカカ―――ッ!!!!」

 単純と言われればそれまでだが、レイチェルの英断に触発されるとチームの士気はどん底から一気に衝天した。
 もしも、イシュタルから神託を預けられたレイチェルが絶望を漏らしていたら、状況は更に悪化していただろうが、
彼女は打ち棄てられた絶望の深奥より希望の種を拾い上げ、それを以って仲間たちに次なる光明を与えた。
 創造主の与え給うた試練と希望を他ならぬレイチェルが宣言するからこそ、
絶望を拭い去るだけの説得力、預言の神聖さが旭日の如く輝くのである。
 それは、イシュタルから神託を預けられたレイチェルにのみ唱えることが許される聖なる言霊だった。

 イシュタルが想う真の御心を知る術は地上の何者にも無いが、これこそ創造主が人に期した可能性に違いない。
 女神が下したあまりにも過酷な試練によって打ちひしがれた失意を、
自らこそ難民になったと言う絶望を、レイチェルは克服していた。

 何て人は強いのだろう。何て人は美しいのだろう―――
仲間たちの昂揚を見詰めながら微笑するレイチェルの気高き横顔に、フィーナは胸が詰まるような感動を覚えた。


「御託はいらないと言ったはずだ。今、俺たちに必要なのは美辞麗句じゃない。勝つ為の布石だ」

 ところが、ようやくこれから希望へ向けて前進しようと言う機(とき)に、
突如として横から突き込まれたその一言が皆の昂揚を一瞬にして凍りつかせた。

「浮かれている暇があったら、それぞれ戦いの準備を整えろ。………夢でなくて現実を見ろ」

 無粋な横槍を突き入れて皆を唖然とさせたのは、またしてもアルフレッドである。
 先ほどと全く同じ体勢で壁に凭れかかったまま、仲間たちの昂揚を傍観していたアルフレッドは、
こうして意気を高め合うこと自体が無意味なセレモニーだと切り捨て、
極め付けに「そんなことだからイシュタルに見棄てられるんだ」とまで悪態を吐いた。

 レイチェルの示してくれた希望の導を、イシュタルの託してくれた可能性を、
混迷の末に仲間たちが見出した新たなる一歩をアルフレッドは否定し、踏み躙った。

「………アルフレッド殿、いささか無粋に過ぎますぞ」
「旦那、今のは良くねぇよ。折角の空気に水差しちゃあいけねぇな」

 脇に控えていた守孝と源八郎もさすがにギョッとしてアルフレッドの気色を窺うが、
覗き込んだ面はただ冷たいばかりで、感情らしい感情は微塵も浮かんではいなかった。
 昏い光を宿した瞳が鈍く輝く様など、まるで氷魔の彫像を彷彿とさせる。

 守孝らの視線へ自分のそれを重ねたフィーナの背筋にも、何とも言い難い悪寒が這いずった。
 生ける氷魔の彫像は、見る者の心へ冥府の冷気を誘う畏怖を植え付けた。

「俺は現実の話をしているだけだ。考えてもみろ、裏切り者のせいで捕虜が逃げ出しているんだぞ。
遅かれ早かれ、佐志に集まった戦力はギルガメシュに知れる。
反抗の芽を潰しておく為にも、今度こそ海運の要衝を抑える為にも、次は相当数の攻撃力で襲撃してくるはずだ。
そんな逼迫したときに、どうして浮かれていられる」

 「御老公が去ったことは怪我の功名だった」と口先では好意的なことを言うアルフレッドであったが、
荒っぽい鼻息は、彼の本心が言葉と裏腹であることを示している。
 新聞王の身柄を確保できるか否かは、ギルガメシュにとっても大いに意味があることで、
アルフレッドの強攻策に呆れたジョゼフがラトクを伴って佐志を離れたことは、成る程、不幸中の幸いと言えなくもない…が、
戦略的な視点と個人の感情は全く別と言うことなのであろう。アルフレッドは大恩あるジョゼフをも裏切り者のように見なしていた。

「それとこれとは話が別でしょ? 次の戦いに勝つ為にもボルテージを上げておかなくちゃっ!」
「………まだわからないのか? 愚鈍なのは食欲中枢だけにしておけ。そんな感傷が、俺に言わせれば甘っちょろいんだよ。
感情じゃ戦争には勝てない。感情に囚われるから、敵を殺すことも出来ない」
「アルっ! そんな言い方はっ!!」
「お前がいくら吼えようが、これが事実だ。感傷に囚われたせいで俺たちは捕虜を逃がした。不利な状況を作ってしまった。
不要なんだよ、そんなものは。………夢を視ていないで、現実を見据えろ」

 チームの輪を乱しかねない悪辣な態度を腹に据えかねたフィーナに詰め寄られても、
アルフレッドは動揺した素振も見せず、彼女の怒りをも鼻先一つで嘲って見せた。
 怒りにも、憤りにも、あらゆる感情に左右されずに戦ってこそ、撃つべき現実が見据えられる、と。

 あたかも、己が全ての感情より解き放たれ、修羅の道を邁進していると宣言するかのような口振りである。

「ローガン、トレーニングの続きだ。………先に準備して待っている」
「お、おい、アル………」

 一方的に会話を打ち切ったアルフレッドはローガンに声をかけるや否や、さっさと待合所を出て行ってしまった。

 傍若無人とも取れる振る舞いに、ローガンはハーヴェストと顔を見合わせて肩を竦める。
 トレーニングとは、兼ねてから申し込まれているホウライの伝授だが、
一方的な物言いと良い、高圧的な態度と良い、人に物を教わる態度からかけ離れており、
些細なことを気に留めないアバウトなローガンもこれには苦笑いを浮かべてしまう。

 何より気にかかるのは、礼節を重んじるアルフレッドが傍若無人な態度を露にする点だ。
ぶっきらぼうではあっても、不器用な言葉の中へ感情と礼節を込めてくれる彼には有るまじき姿と言える。

「ちょっと前からおかしくなっちゃいたがよ、ここ最近、顕著になって来やがったな。
何をイキがってるのか知らねぇが、迷惑な話だぜ」
「ニボシとか牛乳勧めりゃ良いんじゃない? ………って、軽々しく冗談言える雰囲気じゃないんだよね。
あんなアル兄ィ、初めて見るよ………」

 別人格への摩り替わりを疑ってしまうほどに豹変したアルフレッドの言行に対するリアクションは人によって様々。
 フツノミタマやヒューのようにあんぐりと口を開け広げて唖然とする者もいれば、
無言のまま怒りを滲ませるタスク、苦々しく眉を顰めるヒューやローガンなど静寂に波紋を落とす者もいる。

「………………………」
「フィーちゃん………」

 心配そうに寄り添ったルディアへ何の返事も出来ないまま、悲しみに頬を震わすフィーナも、
静寂に波紋を落とすグループに数えられるだろう。

 静けさに感情を揺るがすフィーナたちと正反対に直情的な怒りをぶちまけるハーヴェストとムルグは、
わざわざアルフレッドを追いかけていって振り返ることの無い背中へありったけの罵声を飛ばしている。
 コーンスナックの袋を呷るホゥリーは、いつも通りにチーム内の喧騒に無関心を装っているが、
聞き耳だけは立てている様子である。
 時折、腹が立つほどに澄み切った彼の瞳が、仲間たちのリアクションを観察しようと忙しなく動くのだ。

「何よ、アレっ!! 胸糞悪いったらありゃしないわよっ!! ただのカッコつけマンじゃんっ!!
戦闘マシーンになっちゃったって言いたいわけっ!? 感情を超越した俺、カッコいいってっ!!
バッカじゃないのっ!! 気取ってんじゃないわよっ!! ぶってんじゃないわよっ!!」
「今回ばかりはトリーシャに全面同意かなぁ。生きた心地がしなかったよ、僕は………」

 親友を虚仮にされたトリーシャは頭を掻き毟って憤り、ネイサンもネイサンで親友の豹変にフォローの言葉が見つからず、
ただただ戸惑いに立ち尽くしている。

「無感情になれたぁ言わねぇけど、アルの言い分にも一理はあるぜ。
カミさんに刺激されて昂ぶんのは結構だけどよ、浮き足立ってばかりいられねぇのも事実だ。
現実を見据えて地に足付けて行動しなけりゃ、マジでギルガメシュの好きなようにされちまうだろうよ」
「ケッ―――さすがは海兵隊。冗談みたいなアタマしてる割には現実的じゃねぇかよ」
「そう言うフッたんだっておんなじ考えだろ? ………それから今の俺っちは歯牙ない探偵だぜ」

 ヒューに繰り返されるまでも無く、アルフレッドの指摘が正しいことは皆もわかっていた。
 絶望的な状況に一縷の光明を見出せたからと言って、いつまでも浮かれているわけにも行かない。
地に足付いていないときこそ油断が生じやすく、浮かれ気分で集中力をも賑やかしへ浪費した状況に奇襲でも受ければ、
体勢を立て直す猶予さえ無いまま、たちまちの内に全滅させられるだろう。
 荒療治が過ぎて誰もが反感を覚えたものの、アルフレッドの冷罵を受けて気持ちが引き締まったのも確かだ。

 だからと言って戦いに感情を持ち込むなとの酷薄な言い分は受け入れられないし、割り切れるものではない。
 アルフレッドの残照を見やる皆の表情は一様に固く、暗かった。


 レイチェルのお陰で深刻な事態が去ったと思われた人生最悪の瞬間は、ここにあった。
 少なくともフィーナにとっては、これこそ最悪の事態だった。

 「まぁ、ここ最近、おかしかった」とヒューも指摘した通り、ギルガメシュに―――生みの母にグリーニャを焼討ちされて以来、
アルフレッドの纏う空気は徐々に苛烈の暴威へと研ぎ澄まされつつあった。
 口調一つ取っても、これまでの“不器用ゆえのぶっきらぼう”ではなく、虎視眈々と標的の抹殺を狙う復讐者のものに変わっており、
会話の端々にまで攻撃性の高い言葉を混ぜるようになっている。
 肩を竦めるローガンにホウライ伝授を強制した先ほどの不遜に始まり、感情を捨てて戦争へ臨めと言い出した彼は、
ギルガメシュを殲滅させられる戦力以外のものに価値を見出せなくなっているようにも見える。

 親友を殺害し、妹を誘拐し、故郷を丸ごと焼き払ったカレドヴールフの残虐非道に対する妄念さながらの怒りがアルフレッドを支配し、
暴力の衝動でもって動かしている―――とジョゼフは分析しているが、
フィーナの眼には、彼の暴走の根源がそれだけでは無いように思えた。
 ギルガメシュの暴虐や、捕虜と共に脱走を図ったアルバトロス・カンパニーの裏切りも
確実にアルフレッドの心へ黒雲を呼び寄せる一因となっているだろう…が、それだけで急に人格が変わるとは思えない。
 もしも、心の裡に溜め込んだ憤怒が原因で人格が変わってしまったとするなら、
とうの昔、ギルガメシュにグリーニャを焼討ちされた直後には、修羅と化しているのが自然な流れではなかろうか。

 ………そのときだった。フィーナが人生最悪の瞬間を改めて認識したのは。

 アルフレッドの豹変が顕著になったのは、フィーナたちがマコシカの集落へ出向いている間である。
 その間に佐志はギルガメシュの襲撃を受け、これを予期していたアルフレッドは計略を以って跳ね返したと言う。
 問題なのはこの戦いの最中にアルフレッドが取った行動だ。
 百名から構成される敵の手勢へ逆に奇襲を仕掛けて撃退したのだが、アルフレッドは誰よりも激しく敵兵を追い詰め、
誰よりも多くの血を浴びたとフィーナは聞かされていた。
 それだけに飽き足らず、五名の捕虜を見せしめに銃殺することを提案し、
当惑する仲間たちへ決裁を強引に迫ったともヒューは苦々しく話してくれた。

 復讐への妄執によって良心が麻痺したか、あるいは大量殺戮に手を染めたが為に人の命を奪うことへの抵抗が薄れたのか。
 復讐の標的ならば、幾ら殺しても構うものか―――因果応報の名分のもと、人として持ってはならない妄念が
先の戦いを通してアルフレッドへ宿ってしまったとしたら………。

(………無駄な犠牲者を出したくないって言ってたアルが………あんなにも暴力を嫌ってたアルが………)

 アルフレッドがそこまで堕ちてしまったとフィーナは考えたくも無いし、彼の心の強さを信じてはいるのだが、
一切の感情を切り捨て、怨敵を抹殺することだけを考えるよう強要する冷酷さには、最悪な疑問を抱かざるを得ない。
 一度、脳裏に浮かんでしまった疑念は、まるで染みのようにこびり付き、どれだけ頭を振っても掻き消えてくれなかった。

(………私が誰より一番信じてあげなくちゃならないのに………なのに………)

 そんな疑念を抱いてしまう自分が、アルフレッドが、フィーナにはたまらなく苦しかった。

「大切なものを幾つも紅蓮の炎に奪われてしまったのです。故郷も、お友達も、家族までもが………。
アルちゃんの心が悲しみの渓谷へ沈んでしまうのは、どうしようもないことではありませんか。
常闇の谷間に迷い、あらぬ想いに心を乱してしまうのも、失ったものへの愛情が深いゆえですわ」

 アルフレッドの豹変に表情を重くする一同の中に在って、マリスだけが彼の受けた心の痕にまで想いを巡らせ、
彼女なりの解釈で修羅道の発端を解き明かしていく。
 心を失ったのではない。愛あればこそ、アルフレッドは喪失の痛みに苛まれているのだ、と。

「愛情深きゆえです。愛情深きゆえに迷うアルちゃんが真の天魔と化すことはありえません。
今は闇の底に迷っていても、必ずわたくしたちのもとへ帰ってきてくださいますわ。
アルちゃんの心がいかに変わろうとも、わたくしは信じて随いて参ります。
それこそがアルちゃんの、唯一無二の恋人であるわたくしの務めであり、誇りなのです」

 いつものように恍惚としてアルフレッドへの愛を謳い上げたマリスだが、
“唯一無二の恋人”のくだりへ殊更力を込めたあたりに挑発の意が透けて見える。
 不特定多数に発してはいるものの、矛先がフィーナへ向けられているのは明白だ。

『ただの妹の貴女と違って、わたくしはアルちゃんの恋人なのです。わたくしこそが彼の本当の心を察して、大切にしてあげられるのです』

 誇りある愛の歌へ嘲りの嘲笑が混じったように聴こえたのは、きっと、気のせいではないだろう。

(………ちょっと待ってよ、なんなの、それ………、一体、どう言うつもりなの………っ!?)

 マリスの言葉を受けたフィーナはさすがに顔色を変えたが、しかし、それは彼女の挑発に腹を立てたからではない。

「好きってだけで相手のことを全部肯定しちゃうのは、何か違うでしょっ!?
本当に好きな人だったら、尚更、間違いは許しちゃいけないんじゃないのっ!?
人として間違ってるんだよ、今のアルはっ!! なのにマリスさんは良いのっ!? アルが道を間違えたままでも良いの!?」

 例え人として間違っているとしても、愛しいアルフレッドならば全て受け入れると宣言したマリスの得意げな顔へ
フィーナは語気を荒げて反論を呈した。

 誰かのことを心の底から忌々しく感じるのも、負の衝動が赴くままに怒りをぶつけるのも生まれて初めてのフィーナは、
自分が道徳に反する行為をしていると自覚しながらも、感情の決壊を抑えることができなかった。
 フィーナは、決壊した負の感情が何とも御し難いものであることを、この日、初めて知った。
 負の感情を決壊させる衝動は、心を制御する理性とは切り離された次元より来るものだった。

「えっ………あ、あの――――――………………」
「過ちを止めもしないでアルを受け止めるなんて………そんな無責任なこと、絶対に言わないでッ!!」
「………………………」

 まさかフィーナが受けて立つと思っていなかった周りの人々は、
マリスに対して激烈な反論を浴びせかける彼女の鬼気迫る姿に度肝を抜かれたまま凍り付き、仲裁も忘れて息を呑んだ。
 スキャンダラスな展開に期待する不埒なホゥリーは、好奇の目を爛々と輝かせてフィーナとマリスとを交互に見比べている。

 予想だにしない反論はマリス本人にも同じことだったらしく、暫時、呆気に取られたまま立ち尽くした。
 大き過ぎるショックが思考回路を停滞させ、フィーナに反論されたことを脳が把握するまで三十秒ものタイムラグを必要としたくらいだ。

「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」

 睨み合いと呼べるほど剣呑ではなかったが、ローガンが「根を詰めても埒が開かんやろ。休憩や、休憩」と合図して散開するまでの間、
フィーナとマリスは視線を交えたまま微動だにしなかった。
 まるで、動いたほうが負けという暗黙のルールがあるかのように、煮こごった空気の中、両者はただの少しも視線を反らさなかった。

(………戦いが………始まるのですね………とうとう………)

 今回はホゥリーが望むような展開にはならなかったものの、戦端開かれる構図となった以上、
そう遠くない機会に抜き差しならない局面を迎えるだろう。
 せめて、そのときまでにはアルフレッドに両者を納得させられる結論を出して欲しいのだが―――

「………何をやっているのですか、本当に………」
「―――ンン? 何かセイった?」
「………別に何も………」
「いーや、アブソリュート何かセイったでしょ。独り言? 寂しいバチェラーの独り言タイム?
残念無念、ボキのイアーはヘルズだヨ。聞きレットリークなんてぇ―――」
「………しつこい追及は異性に嫌われるきっかけのNo.1ですよ。エチケットに注意することをお勧めします」
「ラジャー! ラジャッたから、手裏剣、仕舞って! ネックにアウチッ!! リトル刺さったネックがアウチッ!!」

 ―――ただ恩讐にのみ囚われ、人間が備える感情を無視せんとする今の彼に、
どうしてそれを望めるものかと思い至ったタスクは、鈍痛走る眉間へ手をやり、重苦しい溜め息を漏らした。




←BACK     NEXT→
本編トップへ戻る