11.閣下の憂鬱



「不愉快だ。実に不愉快である」

 たった一言、この繰り返しが佐志へ入って以来のゼラールの口癖であった。
彼は針の壊れたレコード盤にように同じことばかりを何度となく吐き捨て、その都度、憮然と鼻を鳴らしている。
 依然としてテムグ・テングリ群狼領を取り巻く情勢は危うく、戦況もはかばかしいとは言い難いが、
そのようなことで憤るゼラールではない。
 逆境こそ人を強くすると考える彼にとって、むしろ壁は高ければ高いほど面白いのだ。
予想を上回るギルガメシュの善戦は、不満を抱くどころか、むしろ喜んで迎えるところだった。
 自分の窮地さえも愉悦に換え、常に高笑いを絶やさないゼラールであるからこそ、
不満を露わにすること自体が極めて珍しい。希有と言って良いだろう。
 少なくとも口先を尖らせる“閣下”の姿を配下の者たちは未だかつて見たことがなかった。

「えぇい、不愉快じゃ! これほどまでに馬鹿げた独り相撲を余は他に知らぬッ!」

 駱駝の鞍上で器用にも胡座をかきながら「不愉快、不愉快、不愉快」と連呼するゼラールの目は、
ある一点に定まったままそこから僅かも動かずにいる。
 海より広いであろう許容の範囲を超え、ゼラールに不快感を植え付けたモノの正体とは何なのか―――
彼の視線が向かう先を窺うと、そこには佐志で最も大きな待合所を見つけることが出来た。
 あるひとりの問題児によって仲間内の諍いが顕在化し、今や魔窟と化しているだろう待合所が。

 迂闊に近付いて不興を買わないよう配下の者は遠巻きにゼラールの様子を窺っているが、
閣下が待合所へ向ける剣呑な眼差しの意味が彼らには理解できず、顔を見合わせて当惑するしかなかった。
 同じ主従の立場とは言え、距離に一定の開きがある兵士たちと違って片時も離れずに行動を共にする側近たちには
ゼラールの心の内が察せられたらしく、それだけにピナフォアの表情は険しい。面にはありありと苛立ちが浮かんでいた。

「ホント、どこがいいのかしら、あんな銀髪………」

 溜め息混じりの呟きにはラドクリフも頷いた。
 つまるところ、ゼラールは待合所の壁を貫いてアルフレッドを睨んでいると言うことである。
彼の意識は、待合所を魔窟たらしめた毒の巣にのみ注がれている。

 エルンストのお気に入りと雖も、たかが奇策を一回披露した程度でさしたる軍功があるわけでもないアルフレッドを
わざわざ佐志まで出迎えに赴くとは、あるいは閑職のような命令と言えなくもない。
 実際、伝達を受けた当初はピナフォアも反発し、「ガキの使いじゃないの、こんなのは!?」と
激烈な勢いでデュガリやブンカンに食ってかかったくらいだ。
 これは謀反の兆しと見なされても不思議ではない直訴であり、
彼女がテムグ・テングリの同族でなければ即座に斬り捨てられていただろう。
ゼラールとその一味を苦々しく思っているビアルタなどは、佩いた刀に手を掛けてさえいた。
 カジャムの取りなしもあって立場を弁えぬ直訴は不問に処されたものの、
今度の一件についてはピナフォアの胸中でドス黒い蟠りが渦巻いている。

 結局、知己と言う関係(こと)から当初の予定通りにゼラールが特使として選出され、
佐志へ正式に派遣される運びとなった。
 「あのような小物に頼らなくても、俺がギルガメシュ風情蹴散らしてみせると言うのに!」などと
ビアルタはいつまでも気炎を吐いて歯ぎしりしていたが、それをからかうようにゼラールは高笑いし、

「御屋形様もお目が高い。あれほどアカデミーの軍略に通じた者は他におるまいて。
一日の長どころか、あれの頭はアカデミーの色で染まりきっておるでな。
此度の戦には適任と言えよう。上手く転がしてやれば、良き駒となりましょうぞ」

 ―――と、アルフレッドがアカデミーで修めた軍学や、在学時の優秀な成績をべた褒めして見せた。
 好敵手と認めた相手が、自らの仕えるエルンストからも高く評価されている。
そのことがゼラールの心を弾ませたのだろう。
本人の前では決して口に出さないような絶賛(こと)をエルンスト相手に朗々と語り続けた。

 当然ながら、これもピナフォアは気に食わない。
 “閣下”の名誉を守る為に危険な橋まで渡ったと言うのにアルフレッドを歓迎などされては立つ瀬がないではないか。
彼女がヘソを曲げるのも無理からぬ話である。

 ピナフォアに仏頂面を作らせるほどアルフレッドとの共闘を喜んでいたゼラールだけに、
歓迎こそすれ不愉快に思うことなどある筈もなかった。
 ところが、佐志に入ってアルフレッドと接するうちにみるみる態度が変わっていき、
ついには「なんじゃその腐りきった目は!? かようなザマでよう余の前におられるものよ! 抜け殻なんぞに用はないわッ!」と癇癪を起こし、
特使の役目もそこそこに待合所を出て行ってしまった。
 アルフレッドと共にゼラールと面談していた守孝や源八郎は、この何の脈絡もない癇癪に面食らい、絶句した。
 礼節を以てゼラールを出迎えたつもりであったし、応対に粗相があったとも思えない。
このときはアルフレッドも不和を招く発言は控えていたし、ゼラールを刺激するようなことは何ら起こらなかった筈なのだ。
 思い当たる節が絶無であるにも関わらず怒声を浴びせられたのだから、これで驚くなと強いるほうが無理と言うものだ。
 状況が飲み込めない中ではあるものの、ゼラールはれっきとしたエルンストの特使。守孝と源八郎は慌てて引き止めに掛かったが、
背中に受ける慰留の訴えをゼラールは全て無視した。

 「いちいち気に留める必要はない。やるだけ時間と労力の無駄だ。俺たち凡人には理解し難い奇行が好きなんだよ、あいつは」と
アルフレッドが鼻を鳴らし、これによってようやく守孝たちは納得したが、常識外れと言う落としどころでもない限りは、
意味不明としか言いようのない爆発を頭の中で処理できなかっただろう。
 ゼラール当人には腹立たしいことかも知れないが、日頃の行いや奇抜な装い、高慢な振る舞いは、
「奇行」の一言で守孝たちを納得させるだけの説得力を帯びていた。


 ゼラールが「不愉快、不愉快、不愉快」と繰り返すようになったのは待合所で爆発して以降のことだ。
 アルフレッドに何らかの憤激を抱いたのは明白だ。そのことはピナフォアもラドクリフも理解(わか)っている。
 だが、肝心なところが曖昧だった。怒りをぶつける対象はアルフレッドに限定されたが、
どこがどのように気に食わなかったのか、具体的には全くと言って良いほど不明瞭なのだ。
 そもそもアルフレッドがゼラールの怒りを買うような真似をしたと言う覚えはない。
少なくとも面談の席では、そのような素振りすらなかった筈だ。ましてや佐志側の接遇に落ち度があったとは思えず、
ゼラールが爆発した理由を探そうにも途中で迷子となってしまうのだ。

 ゼラールにとってアルフレッドとはどのような存在なのか―――ピナフォアたちには皆目見当も付かなかった。

「アルフレッド・S・ライアンって、一体何者なんですか? 閣下だけじゃなく御屋形様にまで気に入られていますけど、
正直、ぼくにはそんなにすごい人には見えなくて………」
「腹立つのよね、あいつ。スカした顔しちゃってさッ! なんだってあんな野郎が………」

 ゼラールにとってアルフレッドとはどのような存在なのか―――考えても考えてもわからないその疑念を、
ピナフォアとラドクリフは改めてトルーポに尋ねた。

 件の面談には三人の側近も同席していた…と言うか、図らずもゼラールの代理として諸々の打ち合わせを行うことになった。
 トルーポが「相変わらずあいつにへつらっているのか、バスターアロー。しかもその服―――見上げた忠誠心だな」と
アルフレッドから厭味を投げられたのは、打ち合わせを終えて帰る間際のことである。
 応じるトルーポも「ライアンは随分と丸くなったようだな。ぞろぞろと取り巻きを引き連れているみたいじゃないか。
ひとりぼっちは卒業したのか? ………ああ、それでヤキモチを妬いたのかな、閣下は」などと冗談混じりの皮肉でもってやり返し、
アルフレッドから憤然たる溜め息を引き出していた。
 ふたりが旧知の仲だったことをピナフォアたちはそこで初めて知ったのだ。
 考えてみれば、別段驚くことでもなかった。トルーポはアカデミー時代からゼラールに付き従ってきた軍団の最古参であり、
言ってみればアルフレッドとは同じ学舎で過ごした同窓生なのだ。
 接点の少なさからピナフォアもラドクリフもこれまで意識はしていなかったのだが、
アルフレッドとトルーポが軽口を叩き合うような間柄であったとしても、それはごく自然のことである。

 ゼラールにとってアルフレッドとはどのような存在なのか―――そう問われたトルーポは、
「期待するほど面白いエピソードがあるわけじゃあないぜ」と前置きのように一区切りし、
次いで海岸沿いの店で調達したと言うタコの丸焼きを美味そうに頬張った。
 焦らすような喋り方にピナフォアは髪を掻き毟って抗議したが、
トルーポのほうはマイペースにも海の幸を平らげるまで話を続けようとはしなかった。

「強いて挙げるなら―――閣下の父君が身罷った頃の話かねェ」

 食事の余韻を楽しもうと言うのか、指先に付着していたソースを舐め取ったトルーポは、
それから少しずつかつての想い出を紐説き始めた。

 “閣下”が若くして父を亡くし、カザン家を相続したことは、アカデミー在学中の急な訃報と言う背景も含めて
ピナフォアたち近しい配下は既に知っていた。
 踏み込んで尋ねたことはないが、カザン家の当主に相応しい名誉の戦死だったと言う。

「―――葬儀を終えて間もなく閣下は復帰されたのだが、大きな試練を乗り越えてカザン家をお継ぎになったからか、
一層自信を強められたように見えた。………少なくとも俺たちの目には頼もしく映ったんだ」
「含みのある言い方するじゃないの、随分と」
「そりゃそうだ。含みを持たせているんだからな」
「人がおとなしく聞いてりゃ、あんたって性悪はねぇッ!」
「トルーポさんっ! これ以上、ぼくたちを焦らさないでくださいよぉ!」
「はいはい、わーったわーった。ふたりがかりで噛み付くな―――………ところが、ライアンは違った。
閣下の顔を見るなり無様なものだと鼻で笑ったんだ」

 実父との早すぎる永別を終えたばかりのゼラールに対し、
何を血迷ったのか、アルフレッドは「虚勢を張っているつもりか? いつにも増して見苦しいな。
身内に不幸があったくらいでそこまで落ちぶれるようでは、お前も底が知れたな。
偉そうに大口を叩いたところで、所詮はお坊ちゃんだ」とまで言い放ったと言う。
 かつてアルフレッドが見せたと言う無礼極まりない態度をトルーポから聞かされた瞬間、ピナフォアは「最低!」と怒りを露わにした。
 過ぎ去った想い出に腹を立てても始まらないのだが、これまでの経緯からアルフレッドを快く思っていないピナフォアにとっては
佐些なことでも怒りの導火線となってしまうようだ。
 ゼラールへの懸想はピナフォアと同等であろうラドクリフですらここまで過剰な反応を見せてはおらず、
そこからも彼女の抱く敵愾心が如何に強いかが窺えよう。敵愾心には嫉妬が入り交じっている。
 「話はまだ終わっちゃいないぞ。手前ェで出した答えで満足したってんなら話は別だが、
そうでないなら落ち着くように。先を話す意味がなくなっちまわァ」と口先では諫めるトルーポだが、
ピナフォアに妬みをぶつけられる旧友が滑稽で仕方がないらしく、双眸は愉快げに笑っていた。

「ま、ピナフォアのリアクションは正しいけどな。普通、あんなことをされたら怒り狂うもんさ。俺らの中でも何人かブチギレたのがいたしよ」

 「俺、殴ってやったわ」、「一発、蹴り喰らわしてやったんだけど、全然堪えてなかったな」と手を挙げたのは、
トルーポと同じレモンイエローの軍服に身を包む数名の軍団員である。
彼らもまたアカデミー時代からゼラールに追従してきた最古参で、
軍団としての経歴――戦歴と言うべきであろか――は、ラドクリフやピナフォアよりも遙かに長い。
 聞くともなしに三人の話を聞いたらしく、アカデミー時代を懐かしむようにしきりに頷いている。
 そのうちのひとりが「いつの間にか閣下とライアンの殴り合いになっていたんだから、
見ているこっちも驚いたのなんの」と当時のことを振り返り、トルーポも笑い声と共に相槌を打った。
 彼らの語らう想い出話は、アカデミーとは全くの無縁であったピナフォア、ラドクリフには衝撃が強すぎたらしく、
しばらくの間、呆けたように口を開け広げたまま固まってしまった。

「か、閣下が…ですか!?」
「閣下がそんなことするわけないでしょ!?」

 意識が現実世界へ戻るなり声を合わせて戸惑いを口にしたピナフォアたちにとって、にわかには信じ難い話であろう。
 アルフレッドはともかくとして、如何なる局面に於いても超然とした佇まいを崩さない“閣下”が野蛮な殴り合いを興じる姿など
彼らには輪郭さえ想像がつかなかった。
 如何に亡父を愚弄されたとは言え、理知なき粗暴の衝動に身を委ねるなど王道・覇道を邁進するゼラールが最も忌み嫌うものではないか。

「小さな子どもってよ、取っ組み合いのケンカをするだろ? 人の殴り方も知らない年頃の子どもがな。
モロにそんな感じだったよ。ライアンとふたりで辺り構わず転げ回って、泥だらけになっていたっけ」
「話作ってんじゃないでしょうね、あんた!?」
「作ってどうすんだ。盛ってもいねーよ」
「怪我は…怪我はされなかったんですか、閣下は!?」
「殴り合い、取っ組み合いだっつってんだろ。どこもやられねェと思うか? ふたりともズタボロよ。
閣下は伸ばされていた爪も殆ど折れてしまってなぁ―――きっとお前らが見たら卒倒したと思うぜ。
顔中が青アザだらけで、何カ所か骨も折れていた。そりゃあ見るに忍びないお姿だったよ。
おまけに教官に見つかって謹慎処分と来たもんだ。」
「………やっぱブチ殺すわ、あの銀髪ゥッ!!」
「………そうですね。いくら“お師匠様”のお仲間とは言え、ぼくもこれだけは許せません………っ」
「数年越しの意趣返しってか? やめとけ、やめとけ。閣下に大目玉食らうのがオチだ」

 いきり立つふたりを宥めるようにしてトルーポは「ライアンが何を言ったか、もっかい振り返ってみな」と言葉を継いだ。

「―――閣下に虚勢を張られていると言ったんだよ、ライアンは。虚勢の意味を辞書で引いてみろ」
「………………………」
「父君が身罷られた後、俺たちは閣下が更に強くなられたと思い込んでいた。言葉はより勇壮に、立ち居振る舞いはより華麗に、な。
カザン家を継がれて更に自信を増したと誰もが信じて疑わなかった。………だが、そいつは俺たちの目が狂っていただけのことなんだ。
盲信ってヤツだな。若気の至りとは言え、恥ずかしいったらありゃしねぇぜ」
「それじゃ、あの銀髪野郎は―――」
「そう、ご明察。アカデミーに復帰して以来、閣下がご無理をなさっているとすぐに見抜いたんだ。………ちと悔しいがな」

 トルーポの言うように“閣下”を慕う取り巻きたちは、葬儀を終えて戻ってきた彼の変化を成長・躍進と誤解していた。
カザン家を相続したことで更なる飛躍を遂げたものと全く疑わなかったのだ。
 しかし、アルフレッドは違った。一目でゼラールの無理を見抜き、あえて彼の神経を逆撫でする言葉を選んで挑発したのである。

「トルーポさんにもわからなかったんですか? 閣下がご無理をなさっていたこと」
「それも信じらんないのよね。腹立つけど、あんたが一番長くお仕えしてるじゃない」
「さっきも言っただろ? 盲信していたってな。………ったく、一生の不覚だぜ」

 ほんの僅かな心情の変化を察し、憎まれ役を引き受ける覚悟で励まし、奮い立たせる―――
本来ならば誰よりも早くトルーポがしなければならなかったことをアルフレッドに独占されてしまったのだ。
 ゼラール軍団の最古参を標榜するトルーポにとっては、これに勝る悔恨は他にない。

「………今ならあの銀髪に不覚なんて取らないわよね?」
「さぁてね―――俺は閣下に命を預けた身、だからな。………お前らだってそうだろう?」
「………………………」

 かつて痛恨の不覚を取り、己の甘さを猛省したトルーポは、
本当の意味でゼラールを支える為に必要なことをしっかりと見極めている。
 すなわち、盲信を超えた誠の忠義である。
 今の自分ならば、あの日のアルフレッドと同じように僅かな心の乱れをも読み取ることができるだろう―――
確たる自信がトルーポにはあり、またそこまでの高みへ辿り着いた彼だからこそゼラールも絶大な信頼を寄せているのだ。
 万が一のときには、身を捨ててでも諫言する覚悟をトルーポは既に決めている。まさしく忠臣の鑑と言えよう。
 しかし、誠の忠義を宿したトルーポにすら出来ないことはある。“忠臣”には立ち入ることの許されない領域も確かに存在するのだ。

「人にはそれぞれ役割ってもんがある。ライアンにしか任せられねぇコトもあるってワケだ」

 主従ではなく、正面から向かい合った好敵手同士でしか通用しないこともあるのだと
トルーポは年少のふたりに語って聞かせた。
 そこに余人が割って入ることは決して許されないのだ、と。

「一生競い合っていきたい好敵手には、自分と同じか、それ以上のレベルを求めるものさ。特に閣下の場合はな」

 いつまでも肩を並べる存在であって欲しいと期待するからこそ、現在(いま)のアルフレッドが気に食わないのだろう。
 かく言うトルーポも他のふたりのようにアルフレッドの変調には全く気付かなかったのだが、やはりゼラールだけは違った。
在りし日とは立場が正反対であるが、一目見ただけで好敵手が良からぬコンディションにあることを看破したのだ。

 グリーニャが焼き討ちされたことはゼラールとて承知している。
 決して受け入れられないような悲劇によって心をズタズタに引き裂かれているかも知れない。
それでもあえて厳しい叱声を浴びせかけたのは、消沈するアルフレッドをなんとしてでも奮い立たせたかったから―――
トルーポはそのようにゼラールの心の内を代弁し、一連の話を締めくくった。

 静かに耳を傾けていた最古参の面々もトルーポへ同調するように相槌を打っており、そのことがピナフォアの嫉妬心を一層煽った。
嫉妬を突き抜けて言いようのない敗北感すら彼女は抱き始めている。
 「恋する乙女は忙しいわな」などと訳知り顔で頭を撫でてくるトルーポも、「泣き落としで閣下に媚びを売らないでくださいよ!? 
卑劣なテを使うようなら承知しませんよっ!?」と対抗心を剥き出しにしてくるラドクリフも、
どちらも等しく煩わしかったが、やはり最も憎たらしいのは、何の苦労もせずにゼラールの関心を専有してしまうアルフレッドである。
 敵意に燃え、嫉妬を突き抜け、敗北感に駆られ、一回転した末に結局は対抗心に戻ってくるのが、なんともピナフォアらしい。

 遠くからピナフォアの名を呼ぶ声が聞こえてきたのは、丁度、トルーポがアカデミーの想い出話を終えたときである。
 苛立った声で彼女を呼びつけるのは、鞍上で胡坐を掻いたまま待合所の方角を睨み続けるゼラールであった。

 「お呼びでございましょうか、閣下」と全速力で駆けつけたピナフォアへ鞍上から酒の入った瓢箪を投げ渡したゼラールは、
次いで駱駝から飛び降り、器用にもそのまま地べたに胡坐を掻いて座った。
 なおも鋭い視線を待合所へ向け続けるゼラールは、刺々しい声色で「不愉快でしかないわッ!」と吐き捨ると、
愛用している檜の枡をピナフォアの眼前に突き出した。
 これは酌をするようにとの暗黙の命令である。
 後方で上がったラドクリフの悲鳴を背に受けながらもピナフォアの表情(かお)は恍惚に蕩けていた。
 ゼラールに酌をすると言うことは、彼女やラドクリフのように“閣下”へ心酔する者にとっては何にも勝る喜びなのである。
ピナフォアか、ラドクリフか、どちらが酌をするかで熾烈な争奪戦が勃発することも少なくない。
 ゼラールの傍らに侍り、檜の枡へ清酒を注ぐ―――
この何にも替え難い大役を独占したピナフォアに向けられるラドクリフの眼差しは、
狂わんばかりの嫉みに満ちていた。

「世の中にこれほどつまらぬことがあるとは思わなんだぞ。あやつめ、余の顔に泥を塗ってくれたわ」
「閣下の御朋輩であらせられるライアン氏にこのようなことを言うのは心苦しいのですが………」
「非礼を憚るか? 構わぬ、戯言もまた酒の肴ぞ。申してみよ」
「おそらく覚悟が決まっていないのでしょう。何物をも、何事をも飲み込めるだけの覚悟が。
心が伴わないにも関わらず、領分を超えた無理をするから綻びが出るのではないかと」
「ほう―――昨日今日の付き合いしかない貴様の目にも見極められたか。見抜けたか」
「め、滅相も………っ! あたしは閣下のお姿からライアン氏の心根を計ったに過ぎず………。
ふ、不敬でございましたっ!」

 予てより抱いていた良からぬ感情も手伝って出過ぎた真似をしでかしたと恐懼するピナフォアだったが、
当のゼラールは機嫌を損ねるわけでもなく、それどころか、先ほどよりも幾分表情が柔らかくなったようにも見えた。

「何を詫びる必要がある。なかなかに面白き戯れであったぞ、ピナフォア―――
あやつがお前のように聡く、太き肝を持っておれば、余も何ら気をやる必要もなかったのじゃがな」

 「お前は愛い奴よの」とゼラールに頬を撫でられ、陶酔の極致に至ったピナフォアの胸中では、
既にアルフレッドへの嫉妬や対抗心は完全に氷解してしまっていた。
 「あっ、あたし…あたしィ、もう………身籠もってしまいますぅ!」と絶叫するピナフォアを遠望していたラドクリフは、
彼女のものとは異なる意味合いの悲鳴を上げ、そんなふたりの様子を俯瞰するトルーポに呆れ混じりの溜め息を吐かせた。
 「こいつらもよくやるよ」と苦笑いを浮かべたトルーポは、タコと併せて確保しておいたイカの丸焼きに取りかかろうとしたが、
香ばしい匂いが漂ってくるビニール袋へ指先を差し込んだ瞬間、その表情を一変させた。

 トルーポの視線は船着き場へ向けられたまま微動だにせず、秒を刻むごとに面は険しさを増していく。
 その様子から只ならぬ気配を感じ取った軍団員たちはすぐさまに得物を手に取り、
トルーポが睨み据える船着き場を窺った。
 兵士の多くはトラウムを具現化させて戦いに備えたが、
驚いたことに、黒革の鎧を纏う兵士…つまり、テムグ・テングリ群狼領から組み込まれた者もここに含まれている。
 己の肉体の鍛錬に重きを置くテムグ・テングリ群狼領ではトラウムの発動は禁忌とされている為、
ヴィトゲンシュタイン粒子の燐光によって黒革の鎧が照らされる光景など本来ならば有り得ない筈なのだ。
 群狼領旧来の氏族ではないにせよ馬軍に属する以上は、ゼラールとてこの規律からは逃れられないのだ…が、
「持ちうる全ての能力を発揮せずに何が戦か」とでも言うように彼は率先してタブーを破り、
陽炎の如きエンパイア・オブ・ヒートヘイズを以てして己の軍団を導いている。
 そして、何者にも縛られずに羽撃かんとする彼の意思は、遍く軍団員へ伝播していた。
 黒革の鎧姿が打ち揃ってトラウムを発動させる光景は、
群狼領の氏族であることを誇りとするザムシードが目の当たりにしようものなら卒倒しかねない。
おそらくはビアルタも「火吹き芸人に汚染されたか!」と規律の乱れを嘆くことだろう。
“汚染源”たるゼラールの即時処断を求めるかも知れない。
 長年に亘って戒められてきた禁忌をも上回るゼラールのカリスマ性を、
脅威と見るか、頼もしいと思うか―――実際に判断を迫られた場合、おそらくエルンストは頭を悩ませることだろう。

「………『丸太』、用意」

 トルーポから発せられた『丸太』なる号令に応じ、軍団員は稲妻の如き迅速さで動いた。
 テムグ・テングリの革鎧を纏った兵士たちが先行し、我が身を盾とするように横一文字に隊列を組む。
その背を守るのはレモンイエローの軍服に身を包む別の部隊だ。
最前列にて防御壁を作る仲間たちの隙間から様子を窺いつつ、己の得物を構えていた。
 前列が敵勢と直接切り結ぶ中、後列の別隊はその間隙を縫うようにして攻撃を加えようと言うのだ。
攻防一体にも、二重の猛撃にも両用できる密集陣形の一つである。

 如何なる戦況にも即応し得る密集陣形を組んだゼラール軍団の警戒は、一斉に船着き場へと注がれている。
 真っ先にトルーポが発見し、密集陣形を以てして警戒するに至らしめたのは、新たに入港してきた黄金色の蒸気船である。
 密集陣形を組んだ地点から船着き場まで距離がある為、望遠でしか状況を確かめられないのだが、
港を哨戒する警備兵が慌てた様子を見せていることからも佐志所有の船舶でないのは一目瞭然だ。
 そもそも、だ。警備兵の様子を論じるまでもなく嫌らしい光沢を放つ黄金色の船体は、
無骨な漁船ばかりが停泊する佐志の港の風景から悪目立ちと言って良いほど浮いている。
 ゼラール軍団が乗りつけた帆船はまだ良い。姿形こそ漁船とは言い難いものの、
甲板を中心に至る箇所へ砲台などの兵器が備わっている為、武装漁船が多く停泊している港の光景と妙に馴染んでいるのだ。
 洋上での戦闘を想定して船体には鉛色の装甲板が打ち付けてあり、海面へ降り注ぐ陽光を更に反射して銀の輝きを放っているが、
悪趣味な黄金色と比べてどちらがより潮風に似合うのか、あえて問うまでもなかろう。


 暫くして黄金色の蒸気船から桟橋へとふたつばかり人影が降り立った。 
 二人組はすぐさまに警備の兵に取り囲まれ、身分の照会を求められたのだが、言葉巧みに話を付けたらしく程なく解放され、
佐志の港を我が物顔で闊歩し始めた。
 警備の兵がふたりを解放したことによって、ギルガメシュや、彼らに与する“敵”ではないと証明されたが、
それ以降もトルーポは密集陣形を解こうとはしなかった。
 ふたつの人影にトルーポは見覚えがあり、また警戒を要する対象であるとも認識している。

 向こうも向こうでトルーポたちに気が付いた様子だが、お世辞にも歓迎しているとは言い難い剣呑な空気に恐れをなして逃げるどころか、
得意げな表情(かお)のまま一直線に密集陣形へと歩み寄ってきた。
 そのうちのひとりは、何がそんなに嬉しいのかわからないが、胸を反り返しながら首もとの蝶ネクタイを両の指先で摘んでいる。
本人としては決めポーズのつもりなのだろうが、如何せんラメ入りの白いスーツに揃いの色のシルクハットと言う絶望的なファッションセンスでは、
何をしようとも美醜を語る以前のレベルと成り果てるのだ。
 全身くまなく胡散臭い小太りの中年男性は、見るからに怪しい――と言うか、ある意味、痛ましい――風体からは想像もつかないのだが、
世界中を股に掛けて武器の売買や危険物資の密輸、傭兵の斡旋まで手広くこなす『死の商人』なのである。
名をK・kと言い、テムグ・テングリ群狼領とも浅からぬ因縁の持ち主であった。
 彼の背後に控えるのは、ボディーガードとして雇われているのか、それとも悪巧みによる金儲けの為につるんでいるのか、
ふたつの境界が曖昧になりつつあるローズウェルだ。
こちらも相変わらず正中線を境目にして左右非対称と言う奇抜なファッションとメイクを施しており、
「あらあら、刺激的なお出迎えね。お姉さん、こう言う情熱的なコに弱いのよン♪」などと抜かす気色の悪い女言葉も健在が確認された。
 以前にもこの港町に来訪し、戦火に乗じて災いの種を振り撒いた二人組が、何を思ったのか再びこの佐志へと舞い戻ってきたのである。

「しゃかりき働かんでもよかろうに。大事を前にして要らぬ力を浪費するでない」

 ピナフォアの酌で酒を呑んでいたゼラールも黄金色の蒸気船に気付いたようだ。
 後方から掛けられた“閣下”の声に即応し、さながら海が割れるかのように隊列が左右に分かれ、
そこに開かれた道をゼラールと三人の側近が悠然と通り過ぎていく。
 歩みを進めつつもトルーポはガンベルトに吊り下げてある柳刃刀を引き抜き、
ラドクリフもまたプロキシの発動に用いる棒杖を右手に構えていた。
 現在は様子を窺うに留めているものの、K・Kとローズウェルが応戦の意思を見せようものなら
ピナフォアも同胞ふたりの後に続くことだろう。
 そのときは、密集陣形がふたつの人影を飲み込むに違いない。

 先陣を切って刃物をちらつかせてくるトルーポの威容に気圧されたのか、K・kはそっとローズウェルに目配せを送った。
 ボディーガードとしての役目を求めたのだろう…が、ローズウェルは肩を竦めて頭を振り、これを無言の返答に代えた。
 戦ってみたところで絶対に勝ち目はない。数の不利は言うに及ばず、
仮に一対一の決闘へ持ち込むことに成功したとしても、トルーポが相手では勝負になるまい。
 遠巻きながら群狼夜戦を観戦していたローズウェルは、爆炎のトラウムを以て戦況を動かしたゼラールとの間にも
歴然とした力量の差を感じている。
 常日頃より傲岸不遜を咎められて、ことあるごとに火吹き芸人などと蔑まれているものの、
不利に傾きつつあった群狼夜戦を単騎にて覆したのは、他ならぬゼラールなのだ。
 ラドクリフ、ピナフォアであれば、あるいは御せるかも知れないが、
仮に彼らを倒せたとしてもこの場のイニシアチブを握ることにはならず、全くの無意味。
その先に待ち構えるのは、ゼラールとトルーポによる報復だった。
 大きなリスクを侵してまで無謀に走るほどローズウェルは愚かではない。彼は己の分と言うものをわきまえていた。

 頼みのボディーガードに匙を投げられてK・kは余裕が失せてしまったらしい。
あからさまに自分のことを歓迎していない四人へ恭しく頭を下げると、顔面から多量の冷や汗が滑り落ちていった。

「これはこれはご機嫌麗しゅうございます、カザン閣下。なんでも各地の戦線で華々しいご活躍とか! 
いやはや、ワタクシはなんと運がよいのでしょう! 今をときめくカザン閣下とその軍団に直接見える機会に恵まれるとは!」
「それで余の機嫌を取っておるつもりか? ならば面白き芸と認めてくれよう。
不快であるのに笑いがこみ上げるとは、貴様の口舌もまた天賦の才よ」
「ホッホッホ―――いつもながら手厳しい。ですが、不思議なもので定期的に閣下の辛口を拝聴しないと、
どうにも身体に気合いが入らないのですよ、ワタクシ。もうそう言う身体になってしまいました」
「気色の悪いことを申すでない。己のことは己で面倒を見よ」
「長く肝臓も患っておりますので、こりゃまた耳が痛い………っ!」

 聴きようによっては厭味にも思えるほど遜って話すK・kのことは、ゼラールもよく知っている。
 群狼夜戦以前からテムグ・テングリ群狼領へ頻繁に出入りしており、ゼラールも兵装の調達を何度か依頼したことがあった。

 K・kと言う風変わりな名前と、その脂ぎった顔が全軍に知れ渡ったのは、何と言っても群狼夜戦への貢献に尽きる。
 裏で薄汚い試みをしてはいたものの、エルンスト軍を勝利に導いた功労者のひとりであることに違いはなく、
招かれた祝勝の酒席では、新たな覇者直々に絶大なる功績と称えられていたのだ。
 これによってK・kの名声は群狼領内で飛躍的に高まったのだが、そうなると“仕事”にまつわる悪評まで耳に入るようになる。
自然、群狼夜戦の裏側で彼が仕組んでいた悪事も露見し、大恩人と遇された一時の栄光はどこへやら、
今では要注意人物として警戒されていた。
 エルンストが温情を掛けて取り成さなければ、討手を差し向けられたかも知れないのだ。
実際に出撃命令は下されなかったものの、激怒したデュガリによって一度は追討の軍が組織されたくらいである。

 それにも関わらず、ゼラール軍団の密集陣形へ自分から近づいてくるとは、何とも図太いと言うか、無神経と言うか―――
死の商人として財を成しただけにそれなりの胆力は持ち合わせているようだ。
 それでいて軽く威圧されただけで戦慄してしまうあたりが、“それなり”と低く見積もられる所以なのだが。

「それで? 天下の大商人サマがこんな場所まで何の用だ? 
………なんつって地元民みたいなツラしてるが、俺たちもそっちと似たようなもんだがね」

 ゼラールに促され、密集陣形を解くように全軍に命じたトルーポは、散開を見届けながら佐志来訪の理由をK・kたちに尋ねた。
 取るに足らない相手と見なしている彼らの動向になど全く興味がなく、トルーポにとってはその場限りの世間話のような感覚(もの)である。

「いやナニ、佐志(ここ)にビジネスチャンスがあると訊いて急ぎ馳せ参じた次第でありますよ」
「ちょっとちょっと、手柄を独り占めはヒドいんじゃない? ネタを拾ってきてあげたのは誰だったかなぁ? 敏腕冒険者を忘れて貰っちゃ困るわよ」

 自慢の総金歯を見せびらかすように大口を開けて笑うK・kからピナフォアは思わず目を背けた。
この男の下卑た笑い方は、見る人に生理的な嫌悪感を与えるのだ。
 随行するローズウェルもこれには辟易しているらしく、「あんまり気分が悪いようなら耳も塞いだほうがいいわよ。
こんなのは慣れる必要なんかないんだから」とピナフォアを気遣って見せた。

「まさか俺たちの後を尾行(つ)けてきたってんじゃないだろうな? だとしたら見込み違いだぞ。仕入れのことは本隊に直接言ってくれ。
尤も、お前にそんな度胸があったらの話だがな」
「いえいえ、滅相もない。今回はテムグ・テングリの皆様ではなく佐志の方々にご奉仕したいと思っているのですよ、ワタクシ」
「ライアンに兵の口入れでもしようってのか。それはまた大した肝試しだな」
「実はですね、佐志の皆さんってば防具が全然足らないそうなのですよ。なにしろ急拵えの軍隊でしょう? 
装備の手筈に大変苦労してらっしゃると小耳に挟みまして。それならば出血大サービス! ワタクシのほうで全て都合して差し上げようかと!」

 「ライアンさんには痛い目に遭わされましたが、それはもう水に流して、エエ」と以前に船を大破はさせられたことを振り返りつつ、
佐志まで足を運んだ狙いを得意になって披露するK・kだったが、
正面で話を聴くラドクリフの表情(かお)が見る間に曇っていくことには些かも気付いていない。

 アルフレッドによって編制された佐志の部隊は、K・kが言うように装備品の不足に悩まされている。
なんとか武器だけはトラウムなどで補えたものの、激戦地へ赴くには必要不可欠な防具が絶対的に足りないのだ。
胴を守るプロテクターさえ満足に行き渡ってはいなかった。
 アルフレッドが直接指揮を執る遊撃部隊に至っては殆ど無防備に近く、敵の狙撃にでも遭おうものなら即死は免れないだろう。

 佐志が抱える物資不足の現実は、待合所から早々に立ち去ってしまったゼラールを後継し、
同盟網参戦に向けての打ち合わせを詰めた際にラドクリフたちも聴かされていた。
 それは、打ち合わせ終了間際に守秘して欲しいと請われた機密情報である。
 よって装備品の不足はトルーポ、ラドクリフ、ピナフォアの三人の胸に留め置かれており、
アルフレッドも自ら進んで外部へ喧伝するつもりはなかろう。
外部に弱点が漏れることは、ギルガメシュが付け入る隙を得るようなものであり、佐志を防衛する上でも大問題に発展し兼ねないのだ。
 K・kのバックボーンを強く警戒するアルフレッドが、よりにもよって彼らに佐志の窮状を打ち明けるとは思えない。
 村の存続を危うくし得るほどの機密情報を、一体、彼らはどこで仕入れたと言うのか―――
死肉を貪るハイエナ並みの臭覚には、ラドクリフのみならずピナフォアまでもがお世辞にも芳しいとは言えない表情(かお)を浮かべている。

 柳葉刀を肩に担ぎ、静かに威圧を掛けてくるトルーポへ「それではごきげんよう」と慇懃に会釈したK・kは、
精一杯の虚勢を張っているのだろう、“金ヅル”が待ち侘びる待合所まで胸を反り返しながら歩いていった。
 丸みを帯びたその背に向かってトルーポは「お手並み拝見と行こうじゃねぇか」と声を掛けたが、
エールめいた言葉は全て口先だけのものであり、心など全く込めてはいない。
それどころか、商談が壊れてしまえば良いと邪な思念を送ったくらいである。
 「ホントよね。うちの旦那さん、肝心なときにヘボいから心配よ」と他人事のような言い方でトルーポに言葉を返したローズウェルは、
どう言うわけか、K・kの後を追うこともなくその場に居残り続けていた。
 ところが、K・kのほうは振り返りもせずにどんどん先へ進んでいくではないか。
彼はローズウェルが自分の背中を追ってきているものと信じており、その期待はあえなく裏切られたわけである。

「………差し出がましいことを言うようですけど、いいんですか、依頼主を先に行かせてしまって」
「ンフフ―――ボクちゃん、優しいのね。お姉さん、手取り足取りイイことを教えてあげたくなっちゃったわァ」
「い、いえ、結構ですからっ」
「ま〜ま〜、お勉強と思ってお姉さんの話を聞きなさいな。いいこと? 確かにお姉さんは彼のボディーガードよ。
ボクちゃんの言うように彼は雇い主ね。でも、四六時中ずーっと行動してるかって言ったら、そんなことはないわけね。
人間、羽を休める時間も必要でしょ? 休憩は自由気ままに取らせてもらってるの。いざってときに百パーセントでおシゴトできるようにって」
「………今の時間は休憩って言いたいんですか?」
「だから、ボクちゃんと楽しい楽しいおしゃべりをしてるんじゃない。おシゴト中はこうは行かないわよ」
「方便って言うか、屁理屈にしか聞こえませんよ」
「マジメなところも愛いのう、愛いのう〜。お姉さん、撫で撫でしたくなっちゃったわ」
「だから、結構ですってばっ!」
「でもね、マジメなだけにアブナイ目に遭いやすいものよ? 悪いオオカミは、ボクちゃんみたいなタイプを狙ってくるんだから。
アブないと思ったら、そこには絶対に近付かないこと。お姉さんとの約束よ?」
「………今のあなたと同じように、ですね?」
「ンフっ―――お姉さんのレクチャー、ちゃんと役立ってるみたいね。若いコは飲み込み早くてイイわぁ♪」
「………………………」
「特にボクちゃんみたいに可愛いコは、何時どこでアブナイ目に遭うかわからないんだから。自分の身は自分で守らなきゃね〜」
「かっ、可愛いコってなんですかっ! ぼくはれっきとした男ですっ!」
「あらあら、そんなに怒らなくなってイイじゃない。ちゃぁんと男のコってわかっているわよ、お姉さん。
男のコだって可愛いものは可愛いんだもん。………ムキになっちゃうトコもチャーミングよん♪」
「………ですから、ぼくはぁ―――………」

 悪戯っぽく笑うローズウェルから目を逸らすラドクリフだったが、穏やかならざる態度と同様、面に貼り付けた表情も健やかとは言い難い。
 ………と言っても、外見を茶化されたことへ腹を立てたわけではない。
胸中に渦巻くのは、この食えない“敏腕冒険者”に対する拭い難い不信感であった。
 苦笑いを浮かべながら柳葉肩の柄頭で頬を掻くトルーポも、眦を吊り上げたピナフォアも、同じ心持ちでいるのだろう。


 意気揚々と向かっていったK・kがアルフレッドたちに追い回された挙句、ホウホウの体で待合所から飛び出してくるのは数分後のことである。
 K・kの持ちかけようとしている商談は佐志にとって悪い話ではない。それどころか、願ってもない申し出である…が、
群狼野戦に際して芽生えた強烈な敵意がその程度のことで払拭できる筈もなかった。
 つまるところ、K・kの臭覚では商売以前の因縁(こと)までは嗅ぎ分けられなかったと言うことだ。

 半ベソになりながら逃げ回るK・kと、依頼主の窮地を眺めながらも腹を抱えて大笑いするローズウェルを視界に収めたゼラールは、
先ほどまでとは違う意味合いで「まこと不愉快じゃ」と吐き捨てた。




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