12.戦場へ



 ベースキャンプに駐留していたギルガメシュのエトランジェ(外人部隊)に出撃命令が下されたのは、
ゼラールたちが佐志へ入ったのとほぼ同時期であった。
 向かう先は、言うまでもなくグドゥー地方―――つまり、決戦の舞台である。
テムグ・テングリ群狼領及びギルガメシュに抗戦する連合軍との武力衝突を目前に控え、
エトランジェも戦地へ投入されることが決定したのだ。

 出撃命令が出されてからと言うもの、ベースキャンプは一気に慌しくなった。
 それもその筈である。何分にも急な決定であり、前触れや根回しと言ったものが全くなかった為、
心の準備すらままならない状態で戦地へ赴く羽目になったのだ。
いきなり首根っこを鷲掴みにされ、わけもわからず修羅場へ放り出されたようなものである。

 エトランジェの混乱を一等煽ったのは、即日グドゥー地方へ出立するようにとの厳命だ。
 専門的な訓練を受けた将兵であれば、このような緊急事態にも適切かつ迅速に対応出来ただろうが、
部隊長へ従わない手合いすら抱える寄せ集めの、それも今の今まで具体的な指示もなく放置されていたエトランジェへ下す命令としては、
些か無茶が過ぎると言うものであろう。
 MANAの整備を急ぎ、結局、全く捗らずに臍を噛む者、混乱しながらも家族に連絡を取る者、武運長久をイシュタルへ祈る者―――
あまりにも唐突な出撃命令に対するリアクションは人によってまちまちだが、
一つだけ確かなのは、良かれ悪しかれ烏合の衆としかエトランジェを例える言葉が見つからないことだった。
 降って湧いた大混乱は、寄せ集めの群像と言う事実を浮き彫りにした。

 今後の趨勢を占う上でもグドゥーでの一戦は特別大きな意味を持ち、
またそれほどまでに重要な戦地へエトランジェを送り込もうと発案したのがアゾット…つまり、ギルガメシュが誇る軍師であると
部隊長から聞かされたトキハは、低く呻いて表情を曇らせた。
 アルフレッドになったつもりで今度の作戦内容を吟味したニコラスは、
相手にとって得体の知れないエトランジェをぶつけると言う一種の奇襲作戦だとする推論を掲げた。
エトランジェはノーマークのダークホースと言うわけだ。
 連合軍はグドゥーの砂漠地帯へ既に集結し、バルムンクの率いるギルガメシュ軍と長対陣を続けている。
決戦へ取り掛かる準備が整った今、局地戦を行う必要もないのだ。

 ニコラスの推論には理があると認めたトキハであったが、彼の考えは更に異なっていた。
 奇襲作戦の要として敵部隊の横腹なり背後なりを脅かすのであれば、
ほんの少しの混乱で離散するような烏合の衆ではなく統制の取れた正規の部隊を用いて然りだと言うのがトキハの見立てである。
 戦況を決定付ける戦術へ不確定要素の多過ぎるエトランジェを用いるような粗忽者に軍師の職が務まるわけがない。
狙いはきっと別にあるだろうと深刻そうに語るトキハへニコラスは彼が予想するところを尋ねてみた。
重苦しい表情からも何らかの予想が胸中に浮かんでいることは察せられる。
 前置きでもするように「気持ちの良い話ではないけれど」と口を開くトキハが用意していたのは、まさしく最悪のパターンであった。

「もしかすると、僕たちは捨て駒にされるかも知れない。………例えば、そうだね―――実力未知数の敵が現れたとするでしょう? 
そいつらの前にクレー射撃の的みたく放り出されるとか、ね。敵の戦闘能力を測るにはもってこいってワケさ、エトランジェは」
「お、おい、待てよ。それはちょっと飛躍し過ぎじゃねぇか? ココの待遇はひでぇもんだけど、まさか、そんなワケ………」
「有り得ないとは言えないよ。継続的にエトランジェを運用していくつもりなら、きちんと指導をしたはずじゃないか。
訓練もしない、隊の乱れも放置、殆ど手弁当状態―――軽く見られている証拠を僕は幾つだって挙げられるよ」

 今回の出撃命令が好例だ。使い捨ての道具としか見られていないからこそ、
無茶としか思えない命令を平気で強いることが出来るのだとトキハは付け加えた。

「………お前はいいのか、それで? こんなことでくたばるなんて、オレは真っ平ゴメンだぜ」
「僕だって御免被りたいさ。………でも、突っ張ったところで状況は変えられない」
「クソッ………―――これも仲間を裏切っちまった報いってワケかよ………ッ」

 呻くように吐き出してからニコラスは右手で顔面を覆った。
鋼鉄のグローブで覆われた右の掌は肌に冷たく、けれどもニコラスの動揺を鎮めるには至らない。
 成り行きとは言え、ギルガメシュへ身を投じると決意した時点で生命の危険にさらされることは覚悟している。
 その一方で、アルフレッドと“決着”をつける前に命尽きることだけは絶対に避けねばならないとも思っているのだ。
何が何でも生き延びて、アルフレッドの前に起たねばならない、と。
 だが、トキハの言うように捨て駒として激戦地へ放り出されてしまったなら、“決着”の志を全うすることも難しくなってくる。
 ニコラスも光弾飛び交うルナゲイトの修羅場を掻い潜った身だ。生と死が鼻先で交錯するような危地を往く恐ろしさは、
まさしく身を以って思い知っていた。
 そして、死地を生き延びる難しさも。
 ルナゲイトへ襲来したギルガメシュの尖兵は雨のように光弾を降り注がせ、サミットの警備に当たっていた者たちを容赦なく殺傷していった。
光弾にさらされた者たちは横から突かれたドミノのように次々と斃れ、息絶えたのだ。
 数多の生命が恐ろしいほど簡単に潰えていく光景は、今もまだニコラスの網膜に生々しく焼き付いている。

 トキハとてそれは同じことだ。
 学者として身を立てると言う信念に従い、アルフレッドたちを裏切ってまでギルガメシュへ加入した以上は、これを貫き通すしかない。
自分勝手は承知しているが、初志貫徹こそが裏切りを贖う唯一の手段とさえ信じていた。
 捨て駒と言う末路など断じて甘受は出来ないし、するつもりもない…が、
脳裏に蘇るルナゲイトの惨状は、トキハの心から絶望に抗う力を容易く奪い取っていく。

 最悪のシナリオに思考(あたま)が支配され、血の気が引いてしまったニコラスとトキハの背中を、
ディアナは「若いもンがシケたツラしてンじゃないよ! いざってときはあたしに頼ったらいいンだ!」と豪語して引っ叩いた。
 アルバトロス・カンパニーどころかエトランジェの隊員の誰よりも血気盛んな様子である…が、
その心が向かうところは必ずしも清涼ではない。

「相手が誰であろうが、どこで戦うことになろうが、そンなのは関係ないね。
あたしらの世界を真っ向否定しようってヤツらはみンなまとめてブッ潰す。今度の戦争は良い機会じゃないか」

 アルカークを始めとする“Bのエンディニオン”の一部の過激派は、不倶戴天の敵であるギルガメシュのみならず
“Aのエンディニオン”の人間を根絶やしにすべきだと息巻いているのだが、
ディアナはそのおぞましい思想をガントレットでもって全て粉砕するつもりでいる。
 サミットが襲撃された際に図らずも過激派の一部を助ける羽目になったが、これをディアナは人生最大の過ちだとさえ考えていた。

「………ひとりでも多くブチ殺してやンよ。ジャスティンはあたしが守ってやるンだ………ッ!」

 ディアナの胸にて燃え盛るのは、親として生きる者の決意である。
 「いいかい、あンたら! 敵に遭遇したら問答無用だよ! 自分の大切なもンを思い浮かべて戦いなァッ!!」と
エトランジェの同僚に向かって吼える彼女は、アルカークのような輩から愛息を守る為であれば悪魔にも魂を売ることだろう。
 サミットへ吹き荒んだ逆風は、今やドラムガジェットの推力に換わっていた。
 エトランジェとして編制されて以来、ディアナはドラムガジェットをガントレットモードから一度もスクーターへとシフトさせていない。
訊けば、愛息を脅かす“害虫”を叩き潰せるよう何時でも支度を整えておくのだと言う。

「………ラス君………」
「わかってる………けど、オレたちには止められねぇよ。姐さんの気持ちだって、わかっちまうもんな」
「………うん………」

 その苛烈なまでの決意を知っているからこそ、ニコラスとトキハは揃って表情を暗くしてしまうのだ。
 おそらくディアナは気付いていないだろう。自分の発する豪語がアルカークのそれと全て重なることに。

 “Aのエンディニオン”から来訪した者を害虫と見なして根絶やしにしようとするアルカークと、
“Bのエンディニオン”にて過激な思想を唱える者を皆殺しにしようとするディアナ―――
憎悪の対象は正反対であるが、それ故に狂気に等しい殺意は増幅され、戦争と言う一点に向かって集束していくのだ。

 ディアナとの間に目に見えない溝を感じたニコラスは、グローブの装甲板が軋むほど強く右手を握り締めた。
 これから始まる戦いへ自分は親友との“決着”を期している。おそらく戦場にて相見えるだろうアルフレッドとの決着を。
ただそれだけを胸に秘め、熱砂の決戦に挑まんとしている。
 だが、そのような個人の感傷が許される世界だろうか。肩を並べて立つディアナは“敵”の殲滅を望んでいる。
そして、戦争の本質とは、ディアナが胸に抱くような想念(モノ)にこそあるのではないか。

(………お前のところまで辿り着くのは骨が折れそうだよ、アル………)

 戦争と言う巨大なうねりに対して一個人の思いが通用するとはニコラスとて思っていない。そこまで浅はかではない。
痛感した自分の甘さがどうにも遣る瀬無く、彼は右手を握り締めることしか出来なかった。
それ以外に心を御する選択肢をニコラスは持ち合わせてはいなかった。


 アルフレッドたちも、アルバトロス・カンパニーさえも、今となっては本当の意味で“仲間”と呼ぶことが出来ない―――
耐え難い現実はニコラスの心をズタズタに引き裂いたが、残酷なほど速やかに移ろう時間は、痛みが癒えるまで待ってはくれなかった。
 ディアナが昏い気勢を上げてから程なくしてエトランジェに号令が掛かり、一同はベースキャンプの中央へ集められた。
 エトランジェの出撃に先立ち、セレモニーが行われると言うのだ。
 壮行の為に何らかの儀式でも執り行おうと言うのか、エトランジェが整列させられた広場には大きなタイマツが組まれていた。
 ………便宜的に“タイマツ”と言い表したが、燃焼に用いられるのだろう材木は家の大黒柱並に長大であるし、
受け皿のような恰好でこれを支える鉄製の骨組みもまた頑強。殆ど大篝火の支度と言っても良い規模である。
 今はまだ火は点けられていないが、油をたっぷりと染み込ませている材木から察するに、
種火が放り込まれようものなら天を焦がすほどの炎が逆巻くに違いない。

 やがてベースキャンプを取り仕切るギルガメシュの下級幹部がタイマツの前に進み出、
出撃を控えるエトランジェに向けて壮行の辞を述べ始めた。長い長い壮行の辞であった。
 掌に忍ばせたカンニングペーパーを確認しながら、「これは義挙である」、「難民の未来は諸君の働きにかかっている」などと
大言壮語を吐き続ける下級幹部の目を盗み、ボスはニコラスの耳へそっと自分の口を寄せた。

「………おそらく大変な苦労をする羽目になるぞ、アルフレッド君を止めるのは。報われずに終わるかも知れないな」
「なッ―――」

 耳打ちされたその言葉にニコラスは飛び上がらんばかりに驚いた。
 それもその筈である。密かに胸に秘めていた決意と信念を丸々全て言い当てられてしまったのだ。
アルフレッドと“決着”をつけると言う信念は、トキハ以外には誰にも話しておらず、また彼が告げ口をするとも思えない。
ボスには知る由もないことだった―――少なくとも、この瞬間までニコラスはそう思い込んでいた。
 どこから漏洩してしまったのかと混乱するニコラスの脇腹を軽く左の肘で突いたボスは、
同じ左の人差し指をピンと立て、自分の顔を見るように促した。
 恐る恐るボスの表を窺うと、彼は思いがけず優しい笑顔で出迎えてくれた。
いたずらっぽく吊り上がった口元は、お前の考えることなどお見通しだと茶化しているようにも見える。
 てっきり大目玉を喰らって力ずくで引き止められるだろうと竦んでいただけに、ボスが笑みを浮かべていたことは拍子抜けにも等しく、
脱力感に包まれたニコラスは、最早、呆然と立ち尽くすばかりであった。
 そもそも先ほどから予想を上回る展開の連続で、ニコラスの頭の中は飽和状態となっている。
取り繕うことも忘れて呆けているニコラスの耳元へ、もう一度、口を寄せたボスは―――

「それでも決意は変わらないと言うのなら、引き留めはすまい。私はお前の帰る場所を、皆と守る。それだけだよ」

 ―――彼の心に宿る信念を力強く後押しした。
 奇しくも、トキハが口真似で披露した内容と一字一句違わぬ激励である。

 「ボ、ボス………」

 震える声で自分の名を呼ぶニコラスの背中を、ボスは二度、三度と叩いてやった。
 それきりボスがニコラスの様子を窺うことはなかった。………正確には、窺うまでもないことであった。
どのような結果になろうとも帰りを待つと宣言した以上は、黙ってニコラスを信じるのみである。

 アルバトロス・カンパニーとして近距離に固まっていた為、ふたりの間でどのような会話が交わされたのかは、
ギルガメシュとも、アルバトロス・カンパニーの方針とも反する決意をニコラスが胸に秘めて起ったことも含めて、
トキハにもディアナにも判っている。
 それでもふたりはニコラスを止めようとはしなかった。彼の意志を尊重しようとするボスを批難することもなかった。
 鋼鉄のグローブが軋み音を上げるほどに強く拳を握るニコラスの様子を、………小刻みに震えるその肩を静かに見守っていた。


 ニコラスとボスが密談を交わしている間に壮行の辞も終わった。
 結局、アルバトロス・カンパニーの面々は誰一人としてまともに聞いてはいなかったが、
周りの同僚たちもそれは同じだったようで、無遠慮に欠伸をする姿まで見て取れた。
 これまた長ったらしく感謝の弁を述べるハリードヴィッヒの声が空々しく聞こえるのは、
背後に従える隊員の殆どが壮行の辞に耳を傾けていなかったからに他ならない。
拝聴する意思のない隊員を代表したところで、どのように言い繕っても意味を為さないと言うものだ。
 ギルガメシュの側も形だけの感謝になど興味はないらしく、ハリードヴィッヒが額を汗水に濡らしながら返礼を唱え続けるのを尻目に
セレモニーの最後に執り行う儀式の準備を進めている。
 見れば、サーベルを帯びた四名の兵士がタイマツの前に陣取っている。
他に剣帯を締めた者はおらず、彼らが儀式の主役を張ると見て間違いあるまい。

 壮行の辞よりも更に長い時間を費やしたハリードヴィッヒの返礼が済むと、セレモニーはいよいよ最終局面を迎える。
 サーベルを帯びた四名の兵士は、タイマツを仰ぐとやおら白刃を抜き放ち、宣誓を行うかのように互いの剣尖を中空にて擦り合わせた。
 金属同士をぶつけた際に起こる甲高い音が鳴り響いたかと思うと、次の瞬間、一同が仰ぎ見る大きなタイマツに炎が灯った。
爆発するような勢いで炎が燃え盛り、天まで届けと渦を巻いた。
 中空にて散った四つの火花が種火となったのである。
 轟然と燃え上がる灼熱の炎は、エトランジェへの餞とも言うべきものであった。
この大篝火を以ってして彼らの前途を照らそうというのだ。………死地へと続く彼らの前途を。

「―――さあ往け、勇者たちよッ! 力なき難民の為、我らが愛しき同胞(とも)の為、不埒な蛮族どもを蹴散らすのだッ!!」

 四剣を模る隊の徽章に擬えた儀式の最後に、ベースキャンプを取り仕切る下級幹部は大音声でエトランジェを鼓舞した。
“Aのエンディニオン”の同胞を救う為、必ずや“Bのエンディニオン”の蛮族を滅ぼすようにと、彼は再三、再四に亘って念を押し続けた。

「………てめぇらの思い通りになんかさせてたまるかよ………ッ!」

 忌々しげにそう吐き捨てたニコラスは、他の隊員と同じようにタイマツに背を向け、火影(ほかげ)の下から歩き出した。
なおも雄弁を垂れる仮面の将兵のことなど二度と振り返らなかった。

 揺るがし難い信念を胸に彼が目指すのは、グドゥー地方―――ふたつのエンディニオンが雌雄を決せんとする舞台である。







 ニコラスを含むギルガメシュのエトランジェがベースキャンプを発したのと同じ頃、佐志にも出撃の刻限が迫っていた。
 出撃に向けた最後の準備が急ピッチで進められる佐志の町内は、押し合い圧し合いの大変な喧噪だ。そこかしこで轟くのは稲妻の如き怒号である。
 港や浜辺には以前にも増して頑強なバリケードが設置され、各所に配置された見張りの数は倍以上に膨らんでいた。
 佐志の軍勢は熱砂の戦いへ主力を総動員する為、必然的に本拠地(ここ)は手薄となる。
この虚を突いてギルガメシュの別働隊が再び奇襲を仕掛けてくる危険性は、
油断できるほど低い見積もりではない。
 徹底した備えが必要なのは、直接、戦場へ赴く者たちに限った話ではないのだ。
出撃した後のことまで考慮し、様々な対策が実施するのが軍略と言うものであった。

 後衛の備えには、アルフレッドが自ら陣頭に立って指揮を執った。
 前回、ギルガメシュの奇襲に遭った際には、敵を敢えて陸地に上げてから迎撃する陽動作戦を謀ったのだが、
今回は水雷術を新たに導入するなど防御力の強化に徹した施策が選ばれた。
 水雷術とは、機雷などを用いて敵船を海洋上にて攻撃する戦術の総称である。
 幸いにして守孝や源八郎も海の戦いを識る者らしく水雷術には長けており、
アルフレッドが防御の要と目した機雷の調達も含めて施策は速やかに完遂された。
 本軍を見届けた後、直ちに機雷原を作り、一時的に佐志を完全封鎖する手筈となっている。
次に機雷原が取り除かれるのは、本軍が帰着したときであろう。

「機雷原を無傷で抜けられる敵船はまずいない。手負いの兵隊など恐れるに足らないんだ。
訓練を受けていなくても構わない。戦う意思がある人間は誰でも参加しろ。奴らを踏み砕けッ!」

 戦備の用法まで理解させるかのように檄を飛ばすアルフレッドの勇ましい声を、ヒューは佐志唯一の診療所で聴いていた。
 窓越しにも鼓膜が震わされるような、アルフレッドらしからぬ喚声だった。

 診療所と言っても、ヒュー本人がどこか身体を悪くしたわけではない。
彼は時間を見つけてはここに入院している患者を見舞いに訪れているのだ。
 受付――と言っても、二十四時間開放されているようなものだが――を済ませたヒューが足を向けるのは、いつも決まって三○四号室―――
出入り口のすぐ真上に据え付けられたネームプレートには、セフィの名前と病床の番号が記されていた。

 他の入院患者に軽く挨拶しながら病室へ立ち入ったヒューは、
セフィが使っている一番奥の病床を窺った。ふたりばかり先客がいることは既に受付で聴いている。
 ヒューが病室を覗いたとき、ふたりの先客は花瓶の花を生け替えている最中であった。
 狭い室内に何人も集まっては窮屈になるのではないかと憚り、病床まで近寄ることを躊躇うヒューだったが、
入り口に棒立ちして悩まれるのも他の患者には良い迷惑である。
 三○四号室の入院患者の中でもとりわけ威勢の良い老婆――名前は梅千代と言うらしい――から
「入るなら入る、出るなら出る。タマついてんならハッキリせんかい!」と語気荒く促されたヒューは、
その勢いでもってセフィの病床まで歩を進めた…と言うか、追い風に乗って舞う落ち葉か何かのように、
本人の意思とは無関係に半強制的に流されていった。
 病室を震わすような大喝を背に受けて振り返った先客は、そこでようやくヒューが見舞いに訪れたと気づき、
バツが悪そうにしている彼に笑顔で手招きした。
 「わたくしたちも先ほど着いたばかりです」とヒューに椅子を勧めるのは、先客のひとり、マリスである。
言うまでもなくもうひとりはタスクだ。
 奇跡のトラウムとも言うべき『リインカネーション』によってセフィを治療して以来、
マリスは時間の許す限り彼の病床に寄り添い、看病を続けている。
 タスクと交代制で看病をしている為、ほぼ二十四時間、セフィには誰かしら付き添っていた。
ローテーションを組んでいるわけではないが、ここにフィーナやハーヴェストが加わることもある。
 セフィの診療を担当する医師の見解によれば、リインカネーションによって肉体的な負傷そのものは完治しているのだが、
それにも関わらず昏睡状態が続いているのは、彼の精神面の問題だろうと言う。
 治療に当たる側の気持ちはともかくとして、セフィ自身が目を覚ますことを望んでいないのではないか―――
多分に非科学的ではあるが、そうとしか思えないと医師は話していた。
何らかの事情で精神(こころ)に大きな痛手を受け、それが原因になっている可能性がある、とも。

 マリスの厚意を「顔見に来ただけだから。長居もしてらんね〜しね」とやんわりと断ったヒューは、
ふたりの邪魔にならないよう部屋の端に寄ると、それきり一言も喋らずにセフィの様子を窺った。

 セフィの容態を確かめる為、ヒューはこの三○四号室を定期的に訪れている。
昼夜を問わず、時間を確保しては足繁く通っていた。
 何か語りかけるわけでもなければ、見舞いの品を持参するわけでもない。
ただひたすらセフィの面をじっと見つめ続けるのだ。

 セフィを―――長きに亘って追跡してきたジューダス・ローブを前にしたヒューの心には何が去来するのか。
それは余人には解らないことであるし、立ち入ってはならない領域でもある。

 この時間がヒューにとって何にも代え難い大切なものであるとマリスたちは察しており、
彼が訪ねてきたときは席を外すように心掛けている。
別段、示し合わせたわけでもないのだが、フィーナとハーヴェストも同じようにヒューのことを気遣っている。
 ………フィーナだけは立ち去る間際に決まって鼻血を噴き出し、ヒューに首を傾げさせるのだが、これは余談。

 廊下を鼻血と涎で汚した挙げ句、看護師から雷を落とされたフィーナの余談(むしろ与太話)はともかく―――
今日もまたマリスたちはヒューとセフィの時間を尊重してくれた。
 出撃前にしておくべき作業を全て終えたふたりは「先に行っておりますので」と告げて病室を退いた。
 別れ際にマリスの様子を窺ったヒューは、彼女の横顔へ滲んだ疲弊の色の濃さに
思わず息を呑み、次いで苦々しく瞑目した。

「………あんましムチャすんなよ?」
「お気遣い痛み入ります。………でも、アルちゃんはもっと闇の歪みに苦しんでいると思いますので………」
「いや、俺っちが言いてェのはなァ、そう言うのが―――」
「―――わかっておりますよ、自分のことですから。………だからこそ、わたくしはこの想いを信じたいのです」
「―――あんましムチャすんなよ。念押しで、もっかい言っとくかんな」
「………痛み入ります、ヒューさん」

 見るに見かねて注意はしたものの、おそらくマリスの疲弊はこれからも重なっていくことだろう。
根治へ至るには、そもそもの原因を糺さねばなるまい。
 アルフレッドと悶着を起こし、理不尽かつ手酷い叱責を被ってからと言うもの、日に日にやつれていくのがわかる。
 マリスの中でアルフレッドがどれほど大きな存在なのか、どれだけ依存しているのか、
加速度的な衰弱の進み具合を見れば一目瞭然であった。
 彼女が備えたリインカネーションは、一度に施術できる対象こそ限定されるものの、
傷ついた肉体をたちどころに完治せしめると言う稀少なトラウムであり、
合戦に於いて不可欠とまで重要視されている。
 それにも関わらず、出撃する前からマリス自身が疲労困憊。
いざ合戦に及んだところでリインカネーションを使えるかどうかすら覚束ない状態であった。
 しかも、疲弊の主原因がアルフレッドにあるのだから目も当てられない。
 作戦家としても、ひとりの男としても、アルフレッドのしでかしたことは愚劣としか言いようがなかった。

 叩けば埃の出る身ゆえに頭ごなしにアルフレッドを叱りつけることが出来ず、
それどころか、同じオトコとして密かに同情――女性陣に知られようものなら袋だたきは免れまい――さえしているヒューは、
厄介なことになったと頭を掻いた。

「………おめーならあのバカになんて言うんだ? 女の子たちの味方すんのはわかってっけどよ」

 チームの誰よりも紳士と言う言葉が似合う立ち居振る舞いを思い出しながら軽口を叩いたヒューは、
再びセフィへと目を転じた。

 マリスもタスクも去り、現在(いま)は何者の介在もないふたりだけの時間となっている。
 僅かに開かれた窓より吹き込む風が真っ白なカーテンや花瓶の花を揺らし、
ざわざわと小さな音を立てているが、「あんたらやっぱりデキてるんだろ!? とっとと接吻でもおしよ! 
あたしゃデキてるほうに二口も賭けてんだから!」と言う梅千代バァさんの冷やかしも含めて、
ヒューの耳には届いていなかった。
 聞き捨てならない梅千代バァさんの放言に関しては例外的にしっかりと憶えておき、
賭けの胴元がホゥリーだった点――遊ぶ金欲しさの犯行――まで調べ上げて制裁を加えたのだが、
これもまた余談。
 梅千代バァさんを始め、ホゥリーの口車に乗せられた人々を被害者と見なして不問に付したのはヒューの優しさ―――
と言うよりも、色々な意味で恐ろしくなって調査を打ち切っただけのことである。

 そのような外野からの雑音を以てしてもヒューとセフィの間に割って入ることはできなかった。
どうしても誤解を招きそうな言い回しとなってしまうのだが、これもまた事実である。

 一向に瞳を開けようとしないセフィを見つめるヒューの眼差しは、驚くほどに穏やかであった。
 これまでさんざん手こずらされてきたジューダス・ローブへの憤激は未だに疼いているし、
死線を共にする仲間と認めていた相手から裏切られた哀しみは、そう容易く拭い取れるものではない。
 それなのにヒューの瞳には怒りの感情は僅かも宿っていない。熾火ほどにもセフィへの憎しみは見られなかった。
 憎悪すべき怨敵と相対しているとは思えぬほど静かで、陰りすらないヒューの双眸は、
傷ついたセフィを包み込むかのような慈愛すら称えている。

 怨敵への矛盾した眼差しには如何なる想いが宿っているのか―――
この時点では賭けが継続されていた為、梅千代バァさんも観察力を総動員してヒューの胸中を推し量ろうと試みたが、
全てを明らかにするには、些か時間にゆとりがなかった。

 病床で静かな寝息を立てるセフィにのみ向かっていたヒューの意識は、
彼の名を呼ぶ声で鼓膜を、脳を刺激され、これを以て現実世界へと引き戻された。
 声のした方へと首を振れば、病室の出入り口にレイチェルの姿がある。
 何事かを伝えるように無言で頷いて見せるレイチェルから刻限の訪れを悟ったヒューは、
最後にもう一度だけセフィの寝顔を眺め、僅かな逡巡の後に妻の待つ出入り口へと足を向けた。
 
 ヒューが三○四号室に滞在した時間はそれほど長くはない。せいぜい七、八分である。
 刻限と言うこともあり、いつもより短い面会時間で病室を去らなければならなかったのだが、
眉間に寄った深い皺から察するに、やはり後ろ髪を引かれる思いが胸中にて渦巻いているらしい。

「………んじゃ、ちょいと行ってくるぜ」

 あと一歩でも踏み出せば室外と言うところで振り返ったヒューは、セフィに向かってそう声を掛けた。
 無論、返事はない。肌に感じるものと言えば、梅千代バァさんから寄せられる不愉快な視線くらいだ。
 気遣わしげに見つめてくるレイチェルの頬を優しく、愛おしそうに撫でたヒューは、
それきり二度とセフィを振り返ることはなかった。
 ヒューの双眸は、目指すべき場所を毅然と見据えている。

 ギルガメシュとの合戦は、文字通り、目と鼻の先にまで迫っている。
 セフィが“災厄”と呼んだ仮面の兵団との一戦は、最早、軍靴の音色が聞こえるまでに近付いている。
 合戦に先だって行われる出陣式の支度が整ったことをレイチェルは報せに来たのだ。







 佐志全体を挙げての規模となる出陣式は、キャパシティの都合から待合所ではなく港にて執り行われる運びとなった。
 出陣式が終わり次第、速やかに乗船して海原へ漕ぎ出そうと言うのだ。
 決戦に備えて兵馬の調子を整える意図もあり、ゼラールは陸路を中心にゆっくりと時間を掛けて佐志までやって来た。
渡海に用いた帆船は、佐志から最も近い港町へ予め着港させておいた物である。
船旅と呼べるほどの距離を渡航したわけではなかった。
 対してアルフレッドは、ゼラールの採った道程とは正反対に最初から海路を進み、最短でグドゥー地方へ到達しようと考えていた。
 佐志の軍は士気も含めてこれ以上ないというぐらい高まり、整っており、必ずしもゼラールと同じ道程を採る必要はない。
いつ戦端が切られても不思議ではない状況を考慮すれば、最短距離で戦場を目指すことは至極当然の選択なのである。
 だが、アルフレッドが海路を選んだ動機は、そうした戦略的判断に基づいてはいない。
計算どころか激情のなれの果てと言っても良かろう。
 一刻も早くギルガメシュと戦い、一秒でも早く仇敵を滅ぼす―――
アルフレッドを突き動かすのは、ただその一念のみだった。

 復讐達成の手段とも言うべき合戦が押し迫り、いよいよもって歯止めの効かなくなってきたアルフレッドが
診療所帰りのピンカートン夫妻と落ち合ったのは、丁度、港へ向かう道程であった。
 佐志防衛の最終調整に奔走していたアルフレッドは、その途中で出陣式の支度が済んだことを知り、
やむなく作業を打ち切って港へ向かっていた。
 レイチェルと同じように出陣式の支度が済んだことを報せに走ったのだろう。
アルフレッドの脇へ控える源八郎の顎では、額や頬から滑り落ちた汗が玉を結んでいる。


 四人連れ立って港へ向かう道すがらアルフレッドの出で立ちを横目に捉えたヒューは、
「意気込みは買うけどよぉ、さすがにちと気が早ぇんじゃね〜の?」とからかうように笑った。
 ヒューやレイチェルは勿論のこと、源八郎ですら具足を身につけていないと言うのに、
アルフレッドは早くも完全武装を済ませているのだ。

 会敵はおろか合戦場に近付いてさえいないのだが、アルフレッドはベスト型のボディーアーマーに身を包んでおり、
頭部も特徴的なヘッドギアで固めている。
 アルフレッドが身につけたボディーアーマーは、プレートキャリアと呼称される種類のもので、
ベストの専用ポケットへ収納された金属板でもって銃弾などを弾き返すのだ。
重量によって身のこなしを阻害しないよう金属板が据え付けられる部位は必要最小限に留められており、
主に胸部から腹部に掛けて防御力を向上させている。
背筋や腕の可動を妨げない程度ではあるが、背中にも金属板は宛がわれていた。
 オープンフィンガータイプの手袋と一体化した籠手、膝から下を広くカバーする脛当てともども防弾・防刃の機能を備えている。
接近戦へ及んだ際にはその真価を発揮することだろう。
 額から頬を覆い隠す黒塗りのヘッドギアは、佐志にて古来より使われてきた防具の一種であり、名称を半首(はっぷり)と言う。
守孝や源八郎が率いる佐志の兵の中にもこれを着用する人間が散見された。
 佐志の生まれでもないアルフレッドが、まさか半首を装着する日が来るなどと想像もしていなかった源八郎は、
初めてその姿を見たときに「色男のダンナでも似合うもんと似合わねぇもんがあらァな」と腹を抱えて笑ってしまったほどだ。

 完全武装したアルフレッドは、しかし、源八郎でなくとも笑気にアテられてしまうほど滑稽だった。
 繰り返しになるが、ここは戦場でも何でもないのだ。
 当人は完全武装を披露することによって全軍の士気高揚を企図したようだが、結果は全くの逆効果。哀れな惨敗であった。

「笑われるのは心外だぞ。第一、守孝だって既に甲冑を身に纏っている。
何時如何なる事態にも対処できるように備えるのが戦争と言うものだ」
「だとしたら、俺っちの知ってる戦争とおめーの知ってる戦争は全くの別モンってことになるぜ。
ンな風にホームでまで気を張ってたら、本番でバテちまわぁ」
「………逆に聴きたいんだが、軍に所属していた頃、お前はどう備えていたんだ。このような戦時には。
どうもアカデミーで習ったことと大きな開きがあるような気がしてならない」
「そら、お前、アレよ。作戦場所までは基本ごろ寝よ。俺っちんとこは優秀なスタッフが揃ってたから楽ちんポンだったぜ」
「ただの怠けじゃないか、それは。よくそんな体たらくでこれまで生き残れたものだな。
そもそも、お前のおふざけは軍法会議にかけられても文句が言えないものだぞ」
「人聞き悪いこと言うなっての。現場なんてもんはそ〜ゆ〜もんなの。ユルさもなけりゃ、身が保たねぇって話よ」
「ますますわからない。お前のアタマもそうだが、お前の上官はもっと緩いらしいな」
「上官(うえ)っつーか、なんつーか………―――作戦さえキチッとこなせりゃ、少しばかりおイタしてもお目溢しではあったけどよ。
ユルくたって全然オーケー。世の中、結果が全てってこったな」
「………………………」

 このようにヒューの冷やかしには反応を示すアルフレッドだったが、
何故か、彼と連れ立って歩くレイチェルとは目を合わせようとしなかった。
 理由は簡単である。先日、軍議の場で口汚く罵り合ってしまったことへ蟠りを抱いているのだ。
 自分の意見を受け容れずに反発したレイチェルを「足りない人間」などと見下しているわけではない。
彼の胸中は傲慢どころか小心で、単純に口論した相手と行動を共にすることが気まずいだけであった。

「うちの宿六の話なんて、敢えて聴く必要もないのよ? まかり間違って見習うなんてトンマな真似をしてご覧なさいよ。
絶対にどこかでしっぺ返しが来るから。アルはアルの思う通りにやったら良いわ。………色々と程ほどにね。
宿六の言葉を借りるなら、ユルく行こうじゃないの」

 独りで気詰まりに陥っているアルフレッドを見兼ねたらしくレイチェルのほうからそう声を掛けた。
 応じるアルフレッドは「むっ………」と喉の奥から絞り出すかのような声で唸り、次いで鼻頭を親指で擦って見せた。
 横目でレイチェルの機嫌を窺ったことからも察せられる通り、唸り声まで含めて照れ隠しのようなものであろう。

 その様子を眺めていたレイチェルはカラカラと愉快そうに笑い声を上げており、どうやら先日のことを根に持ってはいなさそうだ。
 そもそも彼女は細かいことをいつまでも気にしているような類の人間ではない。
意見が合わずに衝突こそしたものの、許す許さないなどと問答するまでもなくその日の内には気持ちを入れ替えていたことだろう。
逆にアルフレッドのほうが気に病み過ぎているようにさえ思える。
 レイチェルとの間に溝が生じていないことを確認できて安堵したのか、アルフレッドの足取りが少し軽くなったようにヒューには思えた。


 四人が到着する頃には、グドゥー地方へ出撃する人々と、これを見送りにやってきた縁者たちとで港はごった返していた。
 別行動を取っていたフィーナたちは既に待機しており、遊撃隊の中ではアルフレッドたちが最後の到着である。
 時間の感覚にルーズであると思われた撫子は、意外なことに遊撃隊の誰よりも早く出陣式の会場へ入っていた。
それだけ戦意が昂揚している―――と誰もが想像するだろうし、
おそらくこの場へ着くまでは、いつものように物騒極まりない放言を引き摺っていたのだろうが、
またしても気まぐれを起こしたようで、現在は興奮とは正反対の状態に落ち着いている。
 陰気にモバイルをいじくる様子もまた『いつもの姿』と周りから認識されるものであった。

 セフィが破壊したネット回線は、現在までにその殆どが復旧しつつあり、
通常のウェブサーフィンであれば問題なく使用することが可能となっている。
 復旧の成功と共にネット回線を掌握したかに見えたギルガメシュではあるが、ウェブ上に掲載される情報の検閲までは徹底し切れず、
不特定多数の人間が書き込む電子掲示板には、彼らの行状に対してあることないことが羅列されていた。
 テロ行為への誹謗中傷などまだ良いほうだ。荒唐無稽なホラ話を、さも事実のように書き込んで周囲を煽り、
同調圧力的に悪意を増幅させる傾向もある。
 例えば、ウェブ上での活動を通じて決起の意思が伝播し、革命を達成させたと言う事例は歴史上にも確かに存在する…が、
少なくとも件の書き込みは、直接反論し得ない立場にある者をよってたかって袋叩きにし、それで満足するのが大半である。
 撫子の場合は、ギルガメシュへの賛同と反対、ふたつの意見が紛糾するようにわざと仕向けて掲示板を滅茶苦茶に混乱させ、
これを眺めて大笑いするのが常であった。
 そして、その歪んだ笑顔こそが狭い世界に終始している何よりの証拠なのだ。


 誰に遠慮するわけでもなく理解不能な笑い声を上げる撫子は、佐志の人々からも薄気味悪く思われており、
積極的に近付こうとする人間は皆無に等しい。
常日頃から接しているとすれば、幼少の頃から彼女の身の上を知り、何かにつけて世話を焼く源八郎くらいであろう。
 ところが、だ。驚くべきことに今日の佐志港には撫子と比べ物にならないくらい疎まれている珍奇な人物の姿が在った。
 と言っても、ゼラールではない。彼も彼でアルフレッドを筆頭に様々な者たちから煙たがられているものの、
さりとて撫子以上に嫌悪されていると言うことは有り得ない。
 そもそも決戦場であるグドゥー地方まで並進する手筈となったゼラールは、既に自船へ乗り込んでいて港にはいなかった。

 撫子よりも更に嫌われているのは、黄金色の蒸気船で佐志に乗り付けた性悪コンビである。
 ゼラール軍団と同じ余所者であり、佐志のどこにも居場所がないK・kとローズウェルなのだが、
人々から向けられる冷たい視線にもめげず、今なお港内に留まり続けている。
 出陣式で振る舞い酒があると踏んで、そのおこぼれにでも預かるつもりなのか―――
残留し続ける意味が不明である為、行き交う人みながその挙動を訝っていたのだが、
どうやらK・kはアルフレッドの到着を待ち侘びていたらしい。
 彼らの姿を港内に発見した途端、彼は胸を反り返らせつつ蝶ネクタイの両端を摘み上げ、何やら自己アピールを披露し始めた。
 いかにもK・kらしいあざといアピールであるが、残念ながら最大のターゲットであるアルフレッドの眼中からは完全に外れていた。
あるいは、件のアピールに気付いていながら存在そのものを黙殺しているのかも知れない。
そうとしか結論付けられないほどに反応は絶無であった。

 意図せずたまたまK・kを視界に入れてしまったハーヴェストは、たちまち眉間に皺を寄せ、
「なんなの、アレは? 機銃の的にして欲しいって言ってるの?」と多分に苛立ちを含む呻き声を漏らした。
 アピールが足りないとでも思ったのか、ウィンクまで加え始めたK・kがどれだけ周りに不快感を振り撒いているのかは、
ハーヴェストのリアクションからも察せられると言うものだ。

 最悪の事態とは、常に最高のタイミングで訪れる―――その理不尽な定説をハーヴェストが想い出したのは、
生理的に受け付けないとばかりに呻いた直後である。
 ハーヴェストから向けられる視線を無駄に鋭く感じ取ったK・kは、
両手を振りながら「これはこれはセイヴァーギア様!」と馴れ馴れしく呼びかけ、悪寒に身を震わせる彼女のもとへにじり寄ってきた。
 接触の糸口を与えてしまったことに絶望感すら抱くハーヴェストは、K・kの本来のターゲットであるアルフレッドと交替すべく、
「あんたの目当てはアルでしょう? なんならこっちに呼びましょうか? 武具のことならあいつと直接話したほうが早いわよ」などと
矛先が変わるよう図ったのだが―――

「もうっ! ハーヴェストさんのいけず! そうやってはぐらかさないで下さいませっ!」
「………ちょっと、ねぇ………あたしと仲良しみたいな距離感、やめてくれない!?」

 ―――残念ながらK・kのターゲットは既にアルフレッドからハーヴェストに移ってしまっていた。
 全く無視される相手よりも、邪険な扱いながらも反応を返してくれるハーヴェストのほうが好いと判断したのだろう。
無論、ハーヴェストにとっては迷惑極まりない切り替えである。

「誤解があるとわかっていますもの! もっと仲良くなりたいって思うのが人間の情じゃありません?」
「あたしもこんなことを言うのは不適切だとわかってはいるんだけど、はっきり線引きしないとマズいものね。
………心して聞きなさいよ? ―――吐き気がするんや、ワレにそないなコトを言われるとォッ!!」
「ひ、ひどい言い草…、あんまりな仕打ちですよっ! わたくし、良かれと思ってココまで足を運んだと言うのにィ!」
「ちょう黙れやッ!! 誰が頼んだ言うねんッ!?」
「呼ばれて駆けつけるようじゃ商売人として二流なのでございますよっ! 
周りをご覧ください。他の皆さんはうちの商品を気に入ってくださっているでしょう? 
頼まれる前にマーケットのニーズをゲットするっ! これぞK・k流商売の極意でございますっ!」
「聴いてないっちゅうねんッ!」
「そんなことを言われてもォ、今やハーヴェスト様くらいですよ、わたくしの誂えたプロテクターをお持ちでないのは。
一匹狼って言うか、仲間外れって言うかァ。こう言うのって、お揃いだから意味があるんじゃありません? 効果的ではありません? 
チームの士気もメリメリ上がっていきますよ、みんなでお揃いなら」
「なっ、仲間外れって、な、何やっ!? ………お揃いのほうがええんかな?」
「ひとりだけ違う恰好では締りが悪いじゃありませんか。フィーナ様だってルディア様だって、お姉様とお揃いが好いに決まっています。
ヒーローたる者、期待に応えて差し上げるのも使命でございますよ」
「うっ………ううッ………フィー、ルディア………」

 「考えても見てくださいませ。スポーツチームだってユニフォームを統一するではありませんか。
同じ装備がズラッと並んだサマは、実にヒーローらしく壮観でございますよ」と念を押すように捲し立て、
K・kはハーヴェストに揺さぶりを仕掛けていく。
 彼はその最中にこうも言っていた。わたくしの誂えたプロテクター、と。

 ………つまりは、そう言うことである。
 アルフレッドが着用する一揃いのプロテクターは、K・kから調達したものであった。
本人の言葉を借りるならば、依頼される前に需要を嗅ぎつけ、的確な供給を成功させたと言うことになるのだろう。
 佐志で不足した数量を補えるだけの装備が黄金色の蒸気船には満載されており、
これを売りさばく為にK・kは遙々海を渡ってきたのだ。
 直接現地へ乗り込んでいって現品を売りつけるなど保証のない賭けのようなものであり、
ハイリターンが確実である半面、交渉に失敗した場合のハイリスクを計算してしまうと、
よほどタフか、種銭に自信でもなければ手すら出せない。
 言わば、場の状況や勝負運(ツキ)の巡りに応じて出すべき手札を模索するカードゲームのようなものである。
 意地汚い性情ゆえに誉める人間は誰もいないが、分の悪いギャンブルへ勝利を手繰り寄せたK・kの手並みは見事にして鮮やか。
二度に亘る佐志での“商売”は、イリーガルな品物を売り抜ける一流の商才をも証明していた。

 中でも遊撃隊専用に誂えられた一揃いのプロテクターは、K・kが特に強く推す商品だった。
 素材や耐久性は言うに及ばず、デザインまでもが同一と言う規格品であるが、
商品自体は今度の遠征へ間に合わせる為に急ぎ作らせたものであるとK・kは胸を張って熱弁していた。
 しつこい売り込みには誰しも辟易させられたが、
K・kが繰り返すように佐志軍遊撃隊の為だけに作られた特注品であることに変わりはない。
 戦場へ出ることなど絶対に周囲が許さないだろうシェインやルディアの分までプロテクターは用意されていた。
これはつまり、ふたりが参戦すると言う情報をK・kが掴んでいたと言う証左である。
 K・kの情報収集力には、数多の冒険を経て胆力を鍛えた筈のハーヴェストでさえも背筋が凍り付くような恐怖を覚えた。
 各人に割り当てられたボディーアーマーは、身長は勿論のこと、体型まで正確にフィットしてしまったのだ。
 男性陣はともかく女性陣からは幾つも嫌悪の悲鳴が上がった。
自分の身体にまつわるパーソナルデータを他人に、ましてやK・kなどに告げたことはただの一度もない。ある訳がない。
 身体に馴染む特注品が自分たちの預かり知らないところで作られていたと言う事実は、
それこそ身の毛がよだつ恐怖なのである。

 疎開者、避難者の受け入れに始まり、彼らを収容する仮設住宅の準備、慰霊碑の建立など
ただでさえ大きな支出が連続している佐志へこれ以上の負担を掛けるわけにも行かず、
足りない分をポケットマネーで賄うとまで言い出した守孝を説得したヒューは、
費用の工面が出来ないとしてK・kのセールスを一度は断った。
 ところが、商売にかけてはK・kのほうが一枚上手であった。
彼は軍資金の不足を耳にするなり、「ここは貸しひとつと言うことで。いずれ返していただければよろしいのですよ」と言い出したのだ。
つまるところ、無償で装備を提供すると言う。

 K・kの申し出は朗報にして僥倖だったが、甘い話には必ず裏がある。しかも、相手は当代きってのやり手と謳われるK・kだ。
口八丁で言い繕い、商談を成立させておいて後で法外な値段を請求してくるとも限らなかった。
 どのような要求を吹っ掛けられるのか知れたものではなく、ヒューとフツノミタマは苦みばしった顔を見合わせた。
裏社会に精通する彼らは、K・kの悪名を他の誰よりもよく知っているのだ。
 佐志伝統の半首をわざわざ頭部のプロテクターとして採用した点もフツノミタマは訝っている。
佐志の人々にある種の親近感を抱かせ、財布の紐が緩くなるよう仕向けたのではないかと穿って考えるのは、
果たしてフツノミタマの邪推だろうか。

 フツノミタマやヒュー、それに生理的嫌悪感を爆発させた女性陣が反対したにも関わらず、
最終的にK・kからの装備供出を受ける採決が為されたと言うことは、
決定権を握る誰かが他の面々の意見も聞かず、強行に契約書へサインをしてしまったことを暗示している。
 そのような不条理を仕出かすのは、言うまでもなくアルフレッドだ。
 不足していた物資が整ったと言うのに、どうして顰蹙を買う理由があるのか―――
個人の感傷になど付き合っていられないと仲間たちの懸念を切り捨てたこの朴念仁は、
無神経極まりない放言すら真顔で口に出しそうである。


 商談の締結は強行されてしまったものの、K・kから供出された装備を使うのも使わないのも個人の勝手ではある。
 殆どの人間が「決まってしまった以上は仕方ない」とばかりに気持ちを割り切ってプロテクター使用を受け入れたのに対し、
死の商人との結託を是とは出来ないハーヴェストは頑なに着用を拒み続けた。
 彼女だけは自前の防具のみで合戦に挑まんとしていた…のだが、K・kはそこを言葉巧みにも仲間外れだと指摘し、
揺さぶりを掛けたと言うわけである。
 随分と小賢しい搦め手だが、意外とハーヴェストには効果が高かったようだ。
 正義の同志が揃って合戦場へ臨むと言うのに、自分だけが異なる出で立ちをしていてはフィーナやルディアを落胆させるだろうし、
それが全軍に伝播しようものなら合戦の命綱とも言うべき士気を落としかねない。
 ハーヴェストにとっては、これ以上ないと言うぐらいの悩ましい問題であった。

 痛いところを突かれ、劣勢気味となったハーヴェストだったが、両者の間へ割って入るかのように野太い腕が飛び出し、
一気呵成に畳み掛けようとするK・kを彼女から強引に引き剥がした。

「おうおう、黙って聴いとったらおもろいこと抜かすやんけ。ハーヴだけとちゃうやろ、ワレと手ェ組みとうないのは。
ワイの体のどこにワレんとこの商品(モン)が見えるっちゅーねん? ふざけたこと抜かしとったらシバくで、ホンマ」

 ―――ローガンだ。
 滅多なことでは腹を立てないローガンが、怒気を満面に浮かべながらK・kの肩を掴んでいた。
 人の心理を弄んで商談を進めようとするK・kの所業を腹に据えかねたらしく、
激しい怒りを迸らせてK・kに詰め寄っていった。
 幼少の頃から親しくしている縁者が標的にされたことで彼の怒りは倍加されたに違いない。
両肩に食い込む握力によってローガンの怒りの程を思い知ったK・kは、竦み上がってローズウェルに助けを求めた。
 ところが、肝心のローズウェルはシェインにちょっかいを出すのに忙しい様子で、雇い主の声にも気付いていなかった。
 いくら呼びかけてもボディーガードが反応しないとなると、いよいよK・kには言い訳を並べて切り抜ける以外に選択肢がなくなってしまう。

「そんなローガン様の為に、わたくし、必ず気に入って頂ける武器を―――」
「―――ワレのド汚いやり口はもう割れとんねん。テムグ・テングリが佐志(ココ)でドンパチやっとったときと同じやろ? 
………自分でハメた人間がそう何度も同じ手に引っ掛かると思わんほうが身の為やで」
「い、いやしかしィ〜」
「しかしもカカシもあらへんがなッ! イヤや言うてるモンにムチャ振りをする言うんやったら、
ワイはワレも、ワレのお仲間も、みんな許さへんでッ! まとめて海の藻屑にしたるさかいなッ!」
「は、はいぃ………」

 ローズウェルの助けが得られない状況になった以上、言い訳だけがK・kの切り札だったのだが、
無論、重ねた数だけローガンの神経は逆撫でされていく。
 K・kが縋り付いた最後の選択肢は、怒り心頭に発したローガンの大喝によって途絶を余儀なくされてしまった。
 ローガンが凄んだことでようやくK・kは退散したのだが、彼のやっていることは押し売りを図る悪質な訪問販売員と大差がなく、
慌ててローズウェルの背中に隠れる様などは本当に一流の器量が備わっているのか疑わしく思えるほど情けなかった。
 助けに入ったローガンの背中に向かって「見せ場奪うんやない。ここから逆転するんがヒーローやんか」と
ハーヴェストは悪態を吐いて見せたが、彼女にしては珍しく俯き加減であることからも照れ隠しなのは一目瞭然だった。

 K・kをどやしつける最中、ローガンは「ワイの体のどこにワレんとこの商品(モン)が見えるっちゅーねん?」などと吼えていたが、
その言葉通り、彼もまたハーヴェストに付き合ってK・kから仕入れた防具を着用してはいない。
 源八郎の家の倉庫にて埃を被っていた骨董品寸前の防具を譲り受け、
これを身につけて戦いの場に出るとローガンは宣言していた。
 骨董品寸前と言っても保存状態は良好で、軽く手入れを施しただけですぐに本来の輝きを取り戻した。
アルフレッド同様、ローガンも気早くこの防具を装備しているのだが、
「コイツはワイと出会う為に作られたモンやで!」と豪語するほど彼の身体に馴染んだらしい
 経年劣化による問題の有無を確認するどころか、ピースサインを披露するほどの喜びようだ。
 そこまでローガンを歓喜させた逸品と言うのは、胴体のラインにフィットする鉄の骨組みへ一枚物の鞣し革を嵌め込み、
更に固い材質の下地へ鋲を打って固定した革鎧である。
 胸部や鳩尾など主な人体急所には鋼鉄の板が鋲留めされているものの、両腕を守る籠手まで含めて基本的には鞣し革が主材料。
極めて軽量であり、体術を駆使して戦うローガンとの相性は抜群に良いのだ。
 鎧の下も普段の武術着ではなくアンダーウェアのみにしてある為、身のこなしを妨げる物は何もなかった。
 成る程、ローガン好みの防具と言えよう。

 猛犬の如く歯を剥き出しにして威嚇を続けるローガンの動向を、K・kはローズウェルの影から窺っているのだが、
この様子を眺めるシェインとフツノミタマは、呆れたように口を開け広げている。
 「負けん気の強いコに弱いのよね」、「どうせならお姉さんのところに来ない? イイ夢、見せてあげるわよ」、
「カザンのトコにもカワイコちゃんがいたけど、まとめて面倒見てあげようかしら」などと言ってシェインをからかっていたのだが、
目下の少年を本気になって遊び道具にするつもりはなく、単にK・kからの要請をやり過ごす為、弄ぶフリをしていたに過ぎないのだ。
 厄介事に巻き込まれるのを避ける為に身辺警護を放棄するなど言語道断で、
本来であれば、即刻契約の解除を申し渡されてもおかしくない。
 雇い主の窮地を見て見ぬ振りで黙殺すると言うローズウェルの薄情な仕打ちを目の当たりにしたシェインやフツノミタマは、解雇が妥当な措置と思っている。
報復として命を狙われかねないようなことをしでかしたのだから、解雇と言う見立ても実際には相当生温いのだ。

 ところが、当のK・kはローズウェルに激昂することも批難することもなく、何度となく自分を見捨てた相手に隠れている。
 果てしなく情けないK・kではあるが、さりとて無知ではない。むしろ、自分の身に降りかかる危機に関しては人一倍鋭いと言えるだろう。
 見て見ぬ振りで命令を無視されたことにも勘付いてはいるのだろうが、それでもローズウェルを解雇しないのは、彼以外に頼れる人間がいないと自覚しているからに他ならない。
 信頼と認定するには歪んでいるものの、一応のパートナーシップは両者の間にも結ばれているようだ。
 尤も、ローズウェルのほうは、立場が危ういと見れば平気でK・kの首根っこを掴み、ローガンたちの前に引き据えるだろうが。


 ハーヴェストがスケープゴートになってくれたお陰で――彼女にして見れば大迷惑な話だが――、
余計な足止めを食わずに済んだアルフレッドたちは、K・kをすり抜けて他の仲間が待機する場所を目指すことができた。
 読んで字の如く人波を掻き分けて四人は歩を進めているのだが、
その道程で愛娘の姿を発見したヒューは、ここぞとばかりに手を振り、「マイドーター」と声を掛けた。
 ところが、当のミストは父親から向けられたアピールに反応すら示さない。
手を振り返すどころか、完全にヒューのことを黙殺した恰好である。
 おそらく身振り手振りは視覚に、呼び声は聴覚に、それぞれ届いていないだろう。
 どこか苦しげな表情(かお)で佇む彼女の様子から察するに、
周囲の喧騒によって親子の間が遮断されると言う物理的条件のみが原因ではなさそうだ。

「なんでぇ、なんでぇ………、あいつもお年頃ってことか。パパとママより友達のほうが大事かよォ………」
「いいことじゃないの。あの年齢(トシ)で親より大切にできるものを見つけられるなんて、そんな幸せなことはないよ」
「ここんとこ、すげー速さでそいつが増えていってるじゃね〜か。フィーしかり、他の連中しかり、………ド腐れ馬の骨しかり。
あんまり急に親元から離れちまうとよ、やっぱし寂しいじゃねぇかよ」
「娘の交友関係を妬いてどうするのよ。巣立ちを邪魔する権利は、あたしらにだってないんだから」

 目端に涙を溜めつつ口先を尖らせたヒューは、すっかりと気力が抜け落ちた肩を喝でも入れるかのように平手で引っ叩くレイチェルへ
「わかっちゃいるけど、こーゆーときゃ応援のひとつでも欲しいじゃね〜か」と切なげな溜め息を吐いて見せた。
 可愛い娘と触れ合う時間が削られつつあることに身震いするヒューも、過保護な夫を苦笑混じりで窘めるレイチェルも、
ミストの心が向かう先―――つまり、思考の在り処は判っている。顔色を窺っただけですぐさまに読み解くことが出来た。
 シアンの輝きを放つ瞳は、他の誰でもないフィーナを追いかけている。
少しでも気を抜くと人波に隠れてしまいそうになる彼女の姿を、ミストは必死になって求め続けていた。


 父親からの呼びかけさえ察知出来ぬ程に強くミストの思考を支配するのは、
つい一時間前に刻まれたばかりの新しい想い出と、インクの乾き切っていないページを捲っていくような追憶である。
 
 テムグ・テングリ群狼領の要請に応じてギルガメシュとの合戦へ赴くと言う両親と、
おそらくその戦場に駆り出されることが予想される――そして、その予想は的中していたと言うわけだ――ニコラスの無事を
女神イシュタルへ祈り、また、新たな犠牲が出ることを失われた魂へ報告するべく丘の上の慰霊碑を訪れたミストは、
そこでフィーナと鉢合わせしたのだ。無論、ムルグも一緒である。
 およそ一時間前のことである。ヒューがセフィの見舞いへ赴いたのと同様に、
フィーナもまたグリーニャの犠牲者たちに合戦場への出発を伝えようと言うのだろう。
 慰霊碑の前にて横一列に並んだ二人と一羽は、それぞれ心の内を然るべき者へ伝えようと黙祷し、次いで鎮魂の鐘を鳴らした。
 アルフレッドに言わせれば、見限られた今もイシュタルへ祈りを捧げることは無意味どころか暗愚とのことだが、
女神信仰をも歪んだ目で見ようとする人間は、少なくとも佐志に於いては彼くらいのものであり、
殆どの人間は以前と変わらぬ敬虔さを保ち続けている。
 丘を下りながら「みんなしてアルの言うことを相手にしてないのも、なんだかおかしな話だよね。
尤もらしい言い方をするんだけど、終わってみれば残念な屁理屈ってコトが多いんだよ、アルってば」と言って笑うフィーナもそのひとりだ。
 ミストと同じように人類がイシュタルから見捨てる瞬間を目の当たりにし、その衝撃から一時的に信仰心を揺さぶられたものの、
女神へ依存することなく独立独歩を決意したレイチェルの姿に奮い立ち、降りかかった艱難を一種の試練と捉えられるまでに復調したのである。

 そのフィーナは、慰霊碑への祈りを終えてからピンカートン家の住居を訪問するつもりでいたと言う。
 両親が揃ってグドゥー地方へ出征すること、また、ギルガメシュへ身を投じたニコラスたちがこの合戦するのではないかと言う懸念が
ミストへ大きな負担を与えていると彼女は危ぶんでいた。
 万が一、戦場で対峙することになれば、かつて仲間として背中を預け合った者同士で命のやり取りを演じることになるのだ。
両親とニコラスがそのような状況へ陥るとも限らない。
 考え得る最悪の事態がミストに与えるダメージは計り知れず、それが為にフィーナは出発前に親友の様子を確かめずにはいられなかった。

 ニコラスとミストの絆を知る人間にとって、この心配は誰もが共有するものである。
フィーナだけでなくミルクシスルも同じようにミストの精神的圧迫を気遣っていた。
 ミストがもう少し未熟であったなら、例えば戦場でニコラスを発見した際には手錠で拘束してでも
危地から救い出して欲しいと希ったかも知れない。何があっても戦わないで欲しいと縋りついたかも知れない。
 だが、ミストはふたりが考えているよりも遥かに芯が強く、仮に最悪の事態が起こってしまった場合、
これを受け入れる覚悟さえも既に決めていた。
 戦いの行方を受容するのは銃後を守る人間の務めとまで言い切り、フィーナとミルクシスルを驚かせた程である。
ムルグに至ってはミストの決意へ猛烈に感動したようで、つぶらな瞳を一層強く輝かせながら天をも震わす雄叫びを上げていた。

「………人と人とが殺し会うのはとても悲しいことだけど、全てのことに必ず意味はあるから。
私は戦う力を持たない弱い人間だけど、―――ううん、だからこそ信じていなくちゃならないのだと思う。
刃を交えなければ伝わらないこともあると。人間同士の戦いは、きっと憎しみのぶつけ合いでは終わらないよ。
だから、私は信じて待ちます。誰もが未来を望んでいるのなら、戦いの先にはきっと………!」

 戦いが持つ意味への理解、戦いに赴く者を送り出す勇気、そして、戦いの果てに待ち構える結果をさだめとして認めようとする気概は、
さすがはヒューとレイチェルの娘と言えよう。

 引っ込み思案な性格のせいか、周りから過分なまでに心配されるミストであるが、彼女のほうもフィーナのメンタルを案じていた。

「………私はフィーナちゃんのほうがずっとずっと心配だよ。直接、戦場へ行くのはフィーナちゃんなのだから………」
「アルとニコラスさんが戦うことになったら―――とか? そのときは………ミストちゃんが言った通り、運命だって割り切るしかない…かな。
もちろん、アルが酷いことをしようとしたら全力で止めるよっ」
「そうじゃなくて。………ううん、それも辛いことけど」
「………………………」
「戦争は………―――フィーナちゃんには一番辛いことでしょう?」
「………………………」

 口を突いて出たのは、ギルガメシュとの戦いが始まってからずっと気にかけていたことである。
 人を傷つけること、人と人とが争うことへ心を痛めるフィーナが最も忌避しているのは、間違いなく戦争と言う暴力の応酬であろう。
 そのフィーナが、大勢の死が行き交う戦場へ自らの意思で赴こうとしている。博愛の精神とは全く正反対のところに立たされようとしている。
 戦場へ向かうと言うことは、フィーナにとっては自身の信念を否定するのに等しく、何にも勝る重い決断なのだ。
銃後を守る自分などとは比べ物にならないほどの苦痛に苛まれるとミストには思えてならなかった。

 哀しみとも憐れみとも異なる涙を目端に溜めながら見つめてくるミストに対し、フィーナは返す言葉に詰まってしまった。
 ミストに何を伝えるべきか、また、どのように打ち明けるべきか、フィーナの中では整理されているのだが、
その言葉が持つことになる重さへと考えを巡らせると、途端に声帯が機能を止めてしまうのだ。
 これから打ち明けることは、あまりにも重い内容となる。おそらくは烙印さながらに忘れることが出来なくなる筈である。
そのような重いことをミストに背負わせて良いものか―――どうしてもフィーナには踏ん切りがつけられなかったのだが、
決して急かすことなく話の再開を待ち、真摯な眼差しで見つめてくれる親友に黙ったままでいるのも気が咎める。
これもまた揺るがし難い事実だった。
 やがて意を決したフィーナは、ミストの顔を正面から見据え、視線を交え、いつか話さねばならないと思っていたことを打ち明け始めた。

「………私、ね。旅に出る前に―――ううん、違うな。これが旅を出るきっかけになんだけど………」
「………………………」
「―――………人を、………人の命を奪ってしまったことがあるの」
「―――――――――ッ!?」

 ―――そう。フィーナがミストに打ち明けたのは、彼女の人生を狂わせた“あの事件”のことである。

「上手く話せなかったごめんね―――まず、その………グリーニャにね、色々なゴミを不法投棄する処理業者がやって来て、
村のみんなと諍いを起こしたんだよ。それが始まりかな、全部の」
「………」
「あの人たちが不法投棄したゴミのせいで村の自然が壊され始めてからはどんどん話が拗れていって………。
ある日、とうとうグリーニャのみんなが爆発して、………戦うことになっちゃったんだ」
「………………」
「私たちはあの人たちに人質を―――………これは、………関係ないかな。結局、戦いは避けられなかったから。
その戦いの最中に、私は………―――拳銃のトラウムで、この手で、ひとりの人間を撃ち殺してしまったんだ」
「………………………」
「………これが私の旅の始まり。人殺しの罪をどうやって償うべきなのか、それを探す為に私は荒野へ出発(で)たんだよ。
そうしてお姉様やみんなと出会って、旅を続けて、………今度は自分の意思で戦争に出かけようとしている………ッ」
「………………………………………………」

 不慮にして不幸な事故だったとは言え、ひとりの人間の命をフィーナは奪ってしまっていた。
 危険に晒されたシェインを救う為にはそれ以外の選択肢はなかったのだと当時の状況を詳らかにしたところで自己弁護にしかならず、
それがどれほど醜いことかわかっているフィーナは、言い訳めいたことは一切付け足さない。
 自分には人を殺めてしまった過去がある。命を奪った罪の意識、良心の呵責に押し潰されそうになり、
家族の勧めに従って贖罪の手段を求める旅に出たのだ…とフィーナはこれまで隠してきた全てのことを語って聞かせた。
 ………この話を終えたときには、もしかするとミストはもう友人ではなくなっているかも知れない。
自分の傍にいてくれることも、彼女の絵本作りを手伝う機会も、今日を最後に失われるかも知れない―――
昏い過去を明らかにしていく声は、はっきりと判る程に震えており、フィーナの抱く喪失の恐怖が窺える。

「コ、コォォォカー………」

 結ばれた絆を自らの手で引き裂くことになるかも知れない危険を冒してまでスマウグ総業との一件を打ち明ける必要があったのかと
フィーナの様子を不安そうに探るムルグは、少しでも彼女を安心させるようその傍らに寄り添った。
 ムルグもまたミストがどのような反応を見せるのか、気が気ではない。

「………………………」
「………………………」

 刑の執行を待つ囚人のように双眸を瞑って押し黙るフィーナであったが、幸いにもミストはどこにも去ろうとはしなかった。
人を殺めたと言う彼女の過去を恐れ、慄く気配すらない。
 一度だけ驚いたように目を見開いたものの、不測の衝撃からすぐさまに立ち直ると
血の気が失せるほど強く握り締められているフィーナの両拳へ自分の掌をそっと重ね合わせた。
 身も心も小刻みに震えるフィーナを安心させるように柔らかく、温かく包み込んでいった。

 両手に感じる温もりに促され、漆黒に塗り潰されていた視界に光が差し込み、やがて完全な形で彩(いろ)を取り戻していく。
 再び捉えた現実の世界でフィーナが真っ先に見つけたのは、恐るべき話を聞かされた後も真摯な眼差しで見つめてくれる親友の姿。
何があってもこの友情を壊れないと宣言するかのように微笑むミストの顔であった。

「………ミストちゃん………」

 恐る恐ると言った声音で名を呼ばれたミストは、なおも肩を震わせる親友へ「なぁに、フィーナちゃん」と力強く頷き返した。
フィーナの名を呼ぶ声音は、いつもと少しも変わることのない穏やかで優しいものである。
 これによってフィーナは心の底から救われたのだろう。安堵の溜め息を吐いたのと同時に小さな肩も震えることを止めた。
 継ぐべき言葉を切り出すまでには暫しの逡巡を要したが、最早、フィーナの面が怯懦に染まることはない。
喪失の恐怖はミストの温もりが曇り一つ残さずに拭い取っていた。

「正直、命を奪ってしまった償いはまだ見つかっていないよ。………もしかすると、一生見つからないままかも知れない。
それなのに、もっとたくさんの命を奪おうとしているんだ。みんなの足手まといにならないようお姉様に訓練も見てもらっている」
「フィーナちゃん、でも、それは………」
「うん―――答えが見つからないから何も出来ない、何も考えられないなんて、そんな甘えたことを言ってはいられない機(とき)なんだ。
………私の手には、戦う力がある」
「………………………」
「でも、戦えない人だってエンディニオンには大勢いるんだ。その人たちの代わりに痛い想いをするのだとしたら、
………私は、大丈夫だよ。どんなに苦しくても戦える」

 ミストの掌からするりと自分の手を引き抜いたフィーナは、軍手に包まれた両の掌にてヴィトゲンシュタイン粒子を爆ぜさせた。
トラウムを具現化させる為に必要な粒子を、だ。
 集束した光の帯がフィーナの掌で光爆を起こし、ふたりと一羽の周囲に眩いばかりの燐光を撒き散らす。
舞い躍る粒子の向こう側、つまりフィーナの手の中には、『SA2アンヘルチャント』と銘打たれるリボルバー拳銃のトラウムが現出されていた。

「私は全力を尽くして戦争を終わらせる。最初で最後にしなくちゃいけないんだ、こんなことは………ッ!」

 SAアンヘルチャントを、かつてはその存在自体を呪ったリボルバーのグリップを強く、固く握り締めるフィーナの瞳は、
先ほどまでの弱々しさが嘘のような闘志で燃え滾っている。戦う意志が漲っている。
 人を殺めることを是とはしていないフィーナであるが、それを理由に戦うべき機から目を逸らすようなことだけは絶対にしたくなかった。
 不可避の合戦は、もう間近にまで迫っている。戦う力を持たない人をも飲み込んでしまう暴力の嵐が。
 その暴風に立ち向かい、我が身を護りの盾とすることが戦う力を持つ者の責務だとフィーナは考えている。
それ程の覚悟を以って彼女はSA2アンヘルチャントを携え、合戦場へ赴こうとしているのだ。
 彼女の決意を偽善と蔑む人間もいるだろう。人殺しに理由付けをする為の詭弁だと嘲る人間も少なくはなかろう。
戦いを終わらせる為の戦い―――暴力の連鎖と言う矛盾に葛藤しているのは、他ならぬフィーナ自身である。

 それでもフィーナはSA2アンヘルチャントを投げ捨てることはなかった。
 自分自身が感じている懊悩も、他者から向けられる痛罵も、全てを背負うべき業だと認め、飲み込んで往く決意を彼女は固めている。
茨の道へ足を踏み入れることを些かも恐れてはいないのだ。

 グリーニャと同じ悲劇を繰り返してなるものか―――
フィーナがSA2アンヘルチャントのシリンダー(回転式弾倉)へ装填するのは、暴力の嵐に見舞われた者だけが持ち得る想いであった。
 悲愴と憐れむには余りにも猛々しく、悲壮と称えるには余りにも気高い。
 そこに在るのは、長閑な山村で安穏に暮らしていた少女ではない。鉄火を取って信念を貫く戦士であった。


 だからこそミストはフィーナから目を離せずにいるのだ。
 暴力の嵐から皆を護ることをフィーナが己の責務と捉えているのと同じように、
万難を排して戦士を送り出すことが銃後を守る者の責務だとミストも固く信じている。
 激戦が予想されるグドゥー地方へと赴く親友を、自分たちを守る為にも武器を取った誇り高き戦士の姿を決して見逃すまいと
ミストは全ての神経をフィーナへ注いでいた。

 そのフィーナのもとへアルフレッドたちが合流した。
 人波に飲まれたが為にやや遅延していたのだが、ようやく遊撃隊の全員が集まった次第である。
それはつまり、全ての役者が揃ったことをも意味していた。

「されば、各々方。これより出陣の儀を執り行わんッ!」

 役者は揃った―――そのことを確認した守孝は、全軍に向かって出陣式の開始を宣言した。

 全軍が待機する船着き場にはところ狭しとラウンドテーブルが設置され、その机上には何枚もの大皿が載せられていた。
 机上の大皿は、用意された品ごとに三種で色分けしており、
それぞれ殻と渋皮が取り除かれた栗、長く引き延ばした干し鮑、昆布が盛りつけられている。
 グドゥーへ出撃する一同には、まず陶製の杯が配られた。
 全員の手元に行き渡ったところで銃後を守る人々が酒瓶を手に歩み寄り、杯を清酒でもって満たしていった。
年少者の杯には酒の代わりに酢が注がれている。

 「いざッ!」と守孝が気勢を発し、これを合図として一同は杯を傾けた。
 大皿に盛りつけられた栗、干し鮑、昆布と言う三種の品を肴に酒を呷るのが、古来より佐志に伝わる出陣式である。
「本来であれば個々人ごとに盛り皿を用意せねばならぬところ、ご無礼仕る」と守孝が頭を下げるように、
支度の都合上、一部は略式となったが、作法そのものは伝統に則っている。
 予め儀式の次第をアルフレッドたちに説明してくれた源八郎によれば、肴一品につき杯を三口で空けねばならない。
栗を食べる間に一杯、干し鮑に手を伸ばしてもう一杯―――合計三杯の酒を呷り、緊張もあって一気に酔いの回ったフィーナからは
「クサれた真似しくさりやがってからにッ! どいつもこいつも、ブッ殺してやるぁッ!」と不穏当な吠え声が飛び出していた。
 極悪な酒癖にオチをつけたのは、「さっきと言ってることが全然違うよ、フィーナちゃんっ!」と青ざめるミストである。
 一方、酢を三杯も飲まされたシェインとルディアは、頬に赤みの差した大人たちを眺め回しながら
「どうせならジュースにして欲しかったよ!」と嘆いたものだ。
 用意された三品が口に合わず、ナッツかポテトスナックのほうが良かったと不平を漏らすホゥリーなどは論外である。

 皆の杯が空になったのを見届けた守孝は、自身の杯を天高く掲げた。

「乾坤一擲ッ!」

 次いで守孝は裂帛の気合いと共に掌中の杯を足下目掛けて投げつけた。
渾身の力でもって地面に叩き付けられた杯が景気よく割れるか否かで戦いの吉凶を占おうと言うのだ。
 まじないのような古めかしい願掛けではあるが、一同は守孝に倣って杯を掲げ、すぐさまにその腕を振り下ろした。

 港中を埋め尽くす乾いた音が静まるのを見て取った守孝は、出陣式の仕上げに取りかかった。
 煌びやかな太刀袋へ納められた一振りを部下から受け取ると、これをイシュタルへ捧げるかのように恭しく天に掲げた。
 『腕落とし』と名付けられたこの太刀は、少弐家先祖伝来の宝剣であると言う。

「我ら一命を賭して母なる大地を守らんッ! イシュタルよッ! 数多の神人よッ! 義勇の戦ぶりをご照覧あれッ!」

 神々に勇戦と勝利を誓願した守孝は、裂帛の気合いと共に家伝の太刀を白波立つ海へと放り投げた。
 先祖伝来の『腕落とし』を水の神人カトゥロワに奉じ、船旅の無事を希わんと言うのだ。
これもまた佐志に伝わる武運祈願の儀式であり、『太刀流し』とも呼ばれている。
 沈みゆく太刀に一礼し、鷹揚な動きで振り返った守孝へ全軍から何かを待ち望むような眼差しが浴びせかけられる。
 何事か伺いを立てるようにアルフレッドへ目配せした守孝は、彼が頷いたのを見届けると肺一杯に空気を吸い込み、
張り裂けんばかりの大音声で出撃の号令を発した。

「―――いざ、グドゥーッ!! 参りましょうぞッ!!」

 轟くような喚声…否、喊声でもって「応ッ!」と共鳴したアルフレッドたち佐志の軍勢は、
照りつける太陽の下、見送りの声援に背中を押されて埠頭を行進していく。
 事前に割り振られた船へと乗り込み、出航の―――否、出撃の手筈を整えていった。


 佐志の船――それに紛れて出航していく黄金色の蒸気船も含めるとしよう――が続々と出航していく様子を、
ゼラールは自身が采配する軍団の旗艦にて眺めていた。

 悪化の一途を辿っていた機嫌も多少は持ち直したようにも見えるが、依然として口角は歪曲しており、
百パーセント満たされたわけではない。

 器用にも彼はマストの頂点に右の爪先一つで屹立しているのだが、これによって帆船の乗組員はおろか沿岸に居合わせた誰よりも
佐志近海の状況を広く見通せると言うわけである。
 彼の目は守孝のトラウムにして遊撃隊の機動力(アシ)でもある武装漁船、『第五海音丸』へと注がれている。
 従者に付き添われながら甲板へと上がった蒼白な顔のマリスや、決然とした表情で水平線の彼方を見つめるフィーナとムルグ、
落ち着きのないお子様コンビは言うに及ばず、ふたりを「遠足じゃねぇんだぞ! ちったぁ黙ってろっ!」とどやしつけるフツノミタマも、
何がそんなに愉快なのかニタニタと口元を歪めながらブツブツと蚊の鳴くような声で呟き続ける撫子も―――
ゼラールは誰一人として見逃さなかった。
 例外はホゥリーだろうか。乗組員たちが錨を揚げようと慌しく動き回っているにも関わらず、
明らかに彼らの妨げになるとわかっていながら看板へごろ寝し、あまつさえポテトスナックを貪るホゥリーだけは
ゼラールも特に興味を示さなかったようだ。
 長年の付き合いからホゥリーの扱い方にも手慣れているレイチェルが皆の邪魔にならない場所まで彼を転がしていったのだが、
甲板を眺めるゼラールにとっては、白い袋――これはマコシカの民族衣装のことだ――に詰められた肉塊が
視界を過ぎったと言う程度の認識しかなかろう。

 マストの下に控えて“閣下”と同じ方角を窺っていたピナフォアをして、
『冬眠したらそのまま目覚めずに死んでいくタイプ』とまで言わしめたホゥリー以外の遊撃隊を観察していたゼラールは、
アルフレッドが甲板へ現れたと見て取るや、やおら立ち上がって自身の肩を爪で薄く裂き、そこから滲み出す血潮を炎の翼に換えた。
 第五海音丸の乗組員の中に知人を見つけたらしく、「お師匠様ったら相変わらずだなァ」と嬉しそうにはしゃぐラドクリフだったが、
背後に熱風を感じた瞬間、すぐさま振り返ってその場に平伏した。
 見れば、マストの下でもピナフォアが同じように跪いている。
 彼女が身に纏う革の鎧は、本来ならば艶さえ感じる黒色なのだが、現在(いま)は上空より降り注ぐ灼光を吸い込んで
赤く焼けたかのように変調していた。

 炎の翼の羽撃きと潮風の両方に煽られた旗艦の帆は、上下左右へ忙しなくはためいている。
 肩から背にかけて火山の噴火が如く轟々と噴出し続ける炎と、これを付け根として羽撃く翼は、
全てエンパイア・オブ・ヒートヘイズによって創り出された産物である。
 今にも出航すると言うタイミングでエンパイア・オブ・ヒートヘイズを発動させた“閣下”が、果たして何を考えているのか。
これを悟ったらしいトルーポは、「あんまり煽り過ぎないようにご用心を。あいつはまだまだケツが青い」と肩を竦めながら諌言した。
 止めたところで聞き届けられないことはトルーポ自身にもわかってはいるのだが、
それでも諌言を行うのが”忠臣”の務めであると彼は心得ている。そこには内外へ示しをつける意図も含まれているのだ。

「フェハハハ―――さしずめあやつは駄馬と言ったところか。ならば、如何にして水を飲み、飼い葉を食んで野を駆けるのか、
思い出させてやるのも上位者の務めぞ」
「いくらお気に入りだからと言ってライアンばかり構っているとピナフォアたちがまた妬きますよ。
一度むくれるとしつこいんですから、あいつらは。ライアンいじりも程ほどにしといてください」
「お前にしては珍しく考えが足らぬことを申しておる。余が好むのは、エンディニオンの全て。いずれ余のもとに跪く愛しき民ぞ。
分け隔てる意味などあるまい」

 旗艦及び自らが率いる船団の采配を一時的にトルーポへ委任する旨を伝えたゼラールは、
申し付けられた“大役”に対する苦笑を耳に捉えながら赫奕たる翼を羽撃かせ、第五海音丸へと飛び移った。
 一つ間違えば船上で火事を起こし兼ねない危険な乱入の仕方には、
滅多なことで動じないローガンですら「さすがのワイもドタマに来たわ! ホンマかなわんでっ!?」と悲鳴を上げた。
 間近で、それも顔面に火の粉を被ったのだから彼には叱声を飛ばす資格があるだろう。
 しかし、そこは万事に優れたゼラールである。翼を巧みに操って第五海音丸への引火を回避し、
甲板へ降り立つ前には全く炎は消え失せていた。
あたかも急降下の際に生じる空気抵抗によって全ての羽根が飛び散ったかのようだ。
 飛翔の軌跡を辿るようにして中空を舞った火花は、炎の翼の名残あるいは余韻と言うわけである。

 第五海音丸の乗員から浴びせられる批難になど見向きもせず、ゼラールはアルフレッドのもとへ悠然と歩みを進めていく。
 目当ての青年戦略家は、船首へ陣取ったまま物も言わずに水平線をじっと睨み据えていた。
あるいは彼の意識は既に海原になど留まっておらず、彼方に広がっているだろう砂漠地帯にまで飛んでいるのかも知れない。
 遊撃隊全員を脅かすような大仰なやり方で別の船から飛び移り、あまつさえ乱れ飛ぶ批難を背にして歩み寄るゼラールだったが、
彼が真隣に立ってからもアルフレッドは一切反応を示さなかった。一瞥をくれる素振りすら見せない。
 薄気味悪いくらいに無反応なアルフレッドの様子を横目で捉えたゼラールは、ただそれだけで彼の心中を悟り、
「温い、温い。不貞腐れ方一つ取っても温いとしか言えぬ。トルーポの申すように尻の青い糞餓鬼であったわ」などと
嘲るようにして高笑いを上げた。

「故郷を焼かれた程度で壊れる貴様がこの戦を生き残れるのか? 復讐などと大口を叩いておるようじゃが、所詮は負け犬の遠吠え。
かように踏ん反り返っておって良いのか? 真の戦を知らぬ田舎者風情、偉人を気取れば気取るほど過日の悔いが増すばかりじゃ。
実無き自慢ほど敗残の身に堪えようぞ」
「………………………」
「聴くところによれば、貴様は親しき者を多く失ったそうじゃな。身内まで人質に取られておるそうな。
さても愚かな失態よ。我らが御屋形様は佐志にて貴様が披露せし知略をことのほかお気に召しておられる。
その貴様が、あろうことか故郷の焼亡を許すとは、なんとも滑稽な話よな。不細工な悲劇とも言えよう」
「………………………」
「責めよ、責めよ。そうして己を責め続ければよかろう。何もかも壊れた貴様には、さもしく己を慰めることしか出来ぬのじゃ。
古今東西、偉人を気取る者は、皆全て小さき器ぞ。小さき器に不味い酒でも満たして酔っておれば良いわ。
酩酊しておれば、いずれは幻覚にも会えよう。失った者どもの幻覚にの」
「………………………」
「幻覚にでも詫びておれ。負け犬にはそれが最も似合うておる」

 肩を並べたアルフレッドとゼラールの様子を遠巻きに傍観するフィーナたちの面は、先ほどから戦慄に凍りついている。
 肝を冷やすなどと言う生易しい事態ではない。
ゼラールの発する一言一言が、今のアルフレッドには何があっても言ってはならない禁句なのである。
 これを連発するなど正気の沙汰ではなく、合戦場へ辿り着く前に第五海音丸の甲板が修羅の巷に転じてもおかしくないのだ。

 野放図に禁句を並べ立てるゼラールへとアルフレッドの目が初めて転じたのは、
「どれほど強情を張ろうとも、口舌で己を大きく見せようとも、泥を被ればたちまち全てが消え失せるわ」と言う侮蔑を
真隣から突き入れられた直後のことである。

 一瞬だけ驚きに見開かれた双眸は、すぐさま獲物へ向かう猛禽類の如く細められ、次いで凍えるほどの冷たい殺意を帯びた。

「………煩い、黙れ」
「―――ほう? この期に及んで虚勢を張ろうてか? 貴様の底も知れたものよな、アルフレッド・S・ライアン」
「………………………」

 アルフレッドはありったけの憎悪を込めて耳障りな口舌を途絶しに掛かったのだが、
これを受けるゼラールは自省して沈黙するどころか、今までで一番大きな笑い声を上げた。
挑発と嘲りを大いにはらんだ高笑いを、だ。

 第五海音丸の船首に並び立つふたつの影は、それきり言葉を交わすことはなかった。
 元から口数の少ないアルフレッドも、饒舌に好敵手を挑発していたゼラールも―――
今や語るべき言葉を持たず、水平線の彼方に在る決戦の地へと思いを馳せていた。

 おそらくは遠き場所にてグドゥーへの道を急ぐニコラスも同じであろう。
強き決意を帯びた双眸でもって険しき道のりを見据え、ただひたすらに前へ、前へと突き進んでいるに違いない。
 やがて辿り着く場所にて親友と見(まみ)える―――胸中に秘めた信念は、言葉のみでは語りつくせぬほど深いものであった。

 周りが見えぬほどに復讐と言う一念に取り憑かれたアルフレッドも。
 親友、アルフレッドとの決着を期するニコラスも。
 好敵手に「不愉快」と吐き捨て、嘲り続けるゼラールも。
 心軋むような様相を見守り続ける彼らの仲間も。
 ………そして、あまねく人々を『唯一世界宣誓』の名のもとに統制せんとするギルガメシュと、
これを是とせず敢然と決起したエルンストら対抗勢力も―――。
 皆が皆、言葉では語れぬような深い思いを背負い、戦うべき相手と向かい合っている。


 ―――こうして数多の想いが熱砂の彼方へと向かい、エンディニオンの覇権を賭した決戦の日を迎えるのである。
 後に『両帝会戦(りょうていかいせん)』と呼ばれることになる大激突の始まりであった。




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