1.Apostate



 イシュタル暦1481年2月26日――
数多溢れる難民の身の保障を論じたサミットから、……否、ギルガメシュが“Bのエンディニオン”に襲来してから
数えて二ヶ月余りの経過を見ているのだが、ルナゲイト征圧を火種として始まった争乱が
両軍対陣と言う一大局面を迎えて以降も決定的な作戦行動には未だに至らず、
戦意と言うものを双方が欠いているのではないかと疑う声すら傍観者の口からは漏れ始めていた。
 戦いの趨勢を手に汗握って傍観するのは、
テムグ・テングリ群狼領を中心に結成された反ギルガメシュ連合軍へ世界の行く末を託すAのエンディニオンの民と、
「唯一世界宣誓」なる大義のもと、件のギルガメシュが保護の対象に定めたBのエンディニオンの難民たちである。
 戦う力を持たぬが故に傍観せざるを得ず、それが為に彼らは戦況の膠着へ過敏に反応し、
あるいは地団駄を踏んで焦れるのだ。
 良かれ悪しかれ民の声はエルンストの耳にも入っている。
おそらく、ギルガメシュの側でも世論の動きは掴んでいることだろう。
未来の決定を他者に委ねた立場でありながら、何ら参考にならない戦力の分析や、
これに基づいて勝敗の予想を立てる傍観者の声は無意味に大きいが、
しかし、これを驕慢と鼻で笑って無視する人間など居る筈もない。
 そうした傍観者こそが社会を支える礎石であり、兵を挙げることについても彼らの存在が最大の根拠となるのだ。
難民救済を掲げて軍事侵攻を強行するギルガメシュにとっては、まさしく死活問題と言うべきであろう。
 テムグ・テングリ群狼領による版図拡大ひいてはエンディニオンの武力統一に向けた軍事行動も、
「民の為の戦」と言う前提条件であるからこそ領民に承諾され、これを以って初めて成り立つのである。
 ときに非道な強襲を断行するギルガメシュも保護すべき対象が不在であっては、
理由なく虐殺を繰り返す暴力装置としか機能できないのだ。
 世論とは、単に形勢の有利と不利を表すバロメータではない。
正義の所在を内外へ明示する大将旗にも等しく、長きに亘る争乱を勝ち抜くには欠くべからざる存在だった。

 世論が持つ力の重大さは反ギルガメシュの主将たるエルンストも承知しており、
テムグ・テングリ群狼領にて諜報活動を取り仕切るドモヴォーイを通じ、好悪に関わらず全て確認するよう心がけている。
 尤も、領民を蔑ろにした悪政とは無縁であり、また敵対者ですら有能と見れば
自らの側近として登用する度量の持ち主である彼には、民の声は常に追い風であった。
 テムグ・テングリ群狼領の版図拡大を悪の所業と見做すフェイのように外側から痛罵を投げつけてくる者も少なからず居る。
 これは取り繕いようのない事実だ…が、エルンストの庇護下にある領民の声へと耳を澄ませば、
どのような悪言を以ってしても“御屋形様”の覇業を覆すことなど出来はしない――との反論しか聴こえてこない。
 このように己の力でもって時代を切り拓き、民を率いてきた馬軍の覇者にとっては、
世論に行動を左右されると言う状況がそもそも理解し難いのである。果てしなく遠くに感じられると言っても良い。
 決定的な激突を見ないまま縺れ込んだ長対陣に倦み、にわかに感覚が鈍っているわけではない。
王道、覇道を勇往する程の高みにメンタルを置く者とは、凡百の人間が事態(こと)の大小を論う最中にあっても
次元を異にする場所へと意識を向けているのだ。
 連合軍大本営に設えられた首座から砂塵の彼方を窺いつつも片手間に曲刀の刃へ砥石を押し当てるエルンストは、
彼を支持する領民の目には絶対的な余裕を誇示する王者の風格として映るのだが、
そうでない人間には、大一番を前にしながら能天気にも手慰みに精を出す阿呆のようにしか見えない。
 阿呆などと乱暴にせず言い方に配慮するとしても、せいぜい弛みきった間抜けだ。
いずれにしても盲信の如く追従する者以外に彼の片手間潰しを好ましく思う向きは確認出来なかった。


 些細な行動ですら憤激へ直結してしまうほど、諸将は戦線の膠着に焦れていた。
 二月とは言え、ここは灼熱の砂漠地帯。越冬とは無縁のように思えるのだが、
その実、夜間の冷え込みは極寒と言い表しても差し支えのない厳しさなのである。
 白昼を覆い尽くさんと吹き荒ぶ大砂塵と、熱砂と言う呼称諸共全てを氷結させようとする極寒の夜が交互に入れ替わり、
それが一回転する度に諸将の戦意が大きく揺さぶられるのだ。
 極限的な状況の中、長対陣は既に十日以上経過していた。
 せいぜい小隊同士の遭遇戦と言った小競り合いが散発する程度。
戦況に大きな進展は見られず、この情況に倦んで兵士たちの気力も萎え始めていた。
 気力の減退が招くのは、体力の消耗の加速である。オアシスに砦を築くなどして水源は充実しているものの、
心理情況の改善ばかりはどうしようもない。

 こうした極限的な状況は対陣するギルガメシュとて同様の筈なのだが、
彼らもまた甲羅に閉じこもった亀の如く一向に大きな動きを見せない。
 意気込み勇んだフェイやアルカークは戦端を開くべく敵陣を突いているが、執拗に応戦を誘っても殆ど無反応。
自分たちの優勢に戦いを進められるタイミングを計っているのは明白であった。


 長対陣と言う緩慢な責め苦に喘ぐ諸将を尻目に、エルンストの気力は高い水準で維持されている。
十日を超える膠着状態ですら苦に思った試しがない。
 佐志が参戦すること、また軍勢を主導するのがアルフレッドであることを
特使として遣わしたゼラールを通じて報(しら)されてからと言うもの、
エルンストの心は日に日に弾みを増しつつあった。
 ゼラールから受けた報告によれば、部隊の編制もアルフレッドが取り仕切ったとのことである。
 しかも、だ。彼は主戦力が出撃し、手薄になった海運の要衝が奇襲を受ける可能性まで想定し、
防御策まで徹底的に凝らしたと言う。
 卓越した軍才を早くも発揮しているアルフレッドの到着をエルンストは浮き足立つほど待ち焦がれていた。

(ようやくこのときが来たな、アルフレッド……!)

 自分で選ぶことを許された誕生日のプレゼントを、
パーティー当日までお預けを食らった子どもの心理とでも言い表せば良いのだろうか――
比喩の是非はともかくとして、身心が挫けてしまうような長対陣にも関わらず、
万全の状態で気力を維持し続けられるのは、アルフレッドへ向ける期待に依るところが大きかった。


 アルフレッドと言う楽しみがある彼は良い。
エルンストと言うカリスマに命を預けているテムグ・テングリ群狼領の将士も良い…が、
それ以外の人間にとっては気力が上向く材料など皆無に等しく、
今日と言う日に至るまでの十日余りは生き地獄でしかなかった。
 無論、連合軍最大の協力者としてエルンストと共に大本営に詰めるゲレル…もとい、クインシーも同じことである。
 今でこそ膠着状態に陥っているものの、これはエンディニオンの命運を賭した決戦なのだ。
 それにも関わらず、状況を打破するような采配を振るうこともなく刀剣の研磨に励むエルンストの姿は、
クインシーの苛立ちを駆り立てるには十分であった。
 エルンストの掌にある砥石が刃と擦れ合って甲高い音を立てる度、
クインシーの眉間に刻まれた皺が深くなっていく。
皺の寄った眉間には、どうやら憤怒を表す青筋も同居している様子だ。それも、無数に散見される。

「いつまで経っても連中が動かないのは、様子見とかそう言うんじゃなくアンタらがナメられてるだけじゃあないのかい!? 
ビビって何もしないアンタらにッ!?」
 
兵力で優位に立っていることが歴然でありながら未だに決戦へ及ばないエルンストの態度は、
ギルガメシュを不倶戴天の敵と忌むクインシーにとって理解も許容もし難いらしく、
膠着状態の是非を問い質す声色は侮蔑の念すら帯びていた。

 クインシーの言うように、兵力の上では連合軍の側が圧倒的に優勢なのだ。
Bのエンディニオンの最大勢力であるテムグ・テングリ群狼領を母体として結成された連合軍には、
件の馬軍と拮抗し得る“傭兵の栄”ことヴィクド、
英雄の誉れ高いフェイが率いる義勇軍などの反ギルガメシュの勢力がエンディニオン中から参集し、
その総数は十万を超えるまでに膨らんでいた。
これらに加え、各地で散発的にゲリラ活動を繰り広げていたレジスタンスたちも
決戦の舞台と目されるグドゥーへ続々と到着しつつある。
現地――あるいは、占領下とも言えよう――で要員の徴募を行うギルガメシュの兵力を
以前にクインシーは流動的と評したが、連合軍の兵力もまた時々刻々と変化しているのだ。

 対するギルガメシュの兵数は、臨時に徴募したエトランジェまで含めても、
せいぜい二千五百に手が届くか、届かないかと言ったところである。
 ルナゲイトを征圧した時点では五千の兵力は有していたものの、
Bのエンディニオンに基盤を持たないギルガメシュは、
大本営とも言うべき“鉄巨人”、ブクブ・カキシュを離れる遠征や、占領した拠点の防衛を行うには、
本隊から分割して派兵する以外に選択肢がなく、難民保護の作戦行動を展開させていった結果、
合戦に動員できる総数が二千弱にまで削られてしまった次第である。

 確かにギルガメシュが装備する武器の性能は連合軍側のそれを上回っており、
合戦へ臨むにあたって大いなる脅威ではある…が、
Bのエンディニオンの人間にも、トラウムと言う特別な能力(チカラ)が宿っているのだ。
ギルガメシュの持たざる戦力(チカラ)が、だ。
 アルフレッドのグラウエンヘルツを筆頭に、フィーナのSAアンヘルチャント、シェインのビルバンガーTなど
トラウムの中には強大な攻撃力を誇る物が多い。
 その最たる例が撫子に備わった藪號The-Xである。
彼女はタライの如き大口を発射装置の代わりに用いて大量のミサイルを撃ち出すのだ。
 リボルバー拳銃、ミサイル、果ては巨大ロボットまで自在に操るBのエンディニオンと、
ギルガメシュの、……否、Aのエンディニオンと比すれば、
総合的な戦術のレベルに大きな開きは無い筈である。双方ともに優れた攻撃力を有していた。
 統一された兵装と言うこともあり、やや画一的な感のあるギルガメシュに対して、
連合軍の側は、名が体を表すかのように多士済々。
 ジョゼフが動員したエージェントなどは、数こそ少ないものの新聞王の為に文字通り命を差し出して戦うことだろう。
 死を恐れないどころか、喜びながら銃弾の前にその身を晒す人間と言うものは、
迎撃する側に大変な精神的圧迫を与える。ごく僅かな彼らが戦局を変える爆弾にもなり得るのだ。
 人道の見地からは、ジョゼフの抱えた“爆弾”を“戦術”に括ることは躊躇われるのだが、
いずれにせよ攻撃の手段もギルガメシュとは比べようがないほどに多様であった。

 地の利までは判然としないものの、四十倍近い兵力で優位にあり、
また攻撃力も総合的にはギルガメシュに勝るだろう―――あらゆる点で圧倒的優勢にも関わらず、
それでもなお正面激突に踏み切らないのだから、クインシーが焦れるのも無理からぬ話だった。
 彼女から見れば、地べたを這うアリの頭上に巨象が足を振り上げたのに等しい状態であり、
全軍を一挙に動かせば、読んで字の如く踏み潰してしまえる筈なのだ。


 つらつらとエルンストへの不満を漏らしている内にフラストレーションが高まった挙げ句、
我慢の限界を来したクインシーは、言葉にすら成っていない獣の如き唸り声を上げると、
椅子を蹴って立ち上がり、次いで大本営に仮設された物見の塔へ駆け上って行った。
 円筒状にレンガを積み上げた物見の塔は、内部の螺旋階段を登っていくと頂上付近では地上十五メートルにも達する。
 いずれ修羅闘諍の世界と化すであろう『灼光喰みし赤竜の巣流(そうる)』が
見晴らしの良い高みより一望できるわけだ。
 この広大な砂漠まで兵を進めた両軍は、広域な岩石地帯を挟んで長対陣を続けていた。


 依然として連合軍は“鶴翼”の陣――つまり、大鳥が両翼を広げたような形の布陣を継続している。
 エルンストやクインシーが座する大本営は、両翼の付け根に相当する中央に所在しており、
ここを基点として左右に諸勢力・各部隊が配置された。
 大本営の前面では、デュガリ率いるテムグ・テングリ郡狼領の猛将たちがひしめき合っている。
三千から成る彼らこそが、馬軍の本隊であった。
 万一、大本営まで斬り込まれた場合、ここが最後の砦となるのだ。
また、全軍を押し出す総攻撃に当たっては、敵陣の中央突破を敢行する任務をも担っている。
攻守に秀でた将士が選抜されていることもあり、単体の戦闘能力は連合軍でも最強の水準と言えよう。

 誰よりも魁けて合戦する先鋒には、カジャムの姿があった。彼女は右翼の要である。
 エルンストの寵愛を受ける恋人として安全な場所に控えられる立場にも関わらず、
カジャムは自ら右翼先鋒を志願し、最も危険な激戦区へと躍り出たのだ。
 “御屋形様”に親(ちか)しい者が最前線に押し出してこそ、馬軍の威光を知らしめることができる――
そうした政治的思惑もあっただろう…が、彼女を激戦区へ導いた直接の要因は、なんと言っても勇猛果敢な気性である。
 「さぁさ、シケたツラのヤツは黙って道を開けな! 気持ちがノッたら加わればいい! 
せっかくの祭り騒ぎだ! 思う存分、みんなで楽しもうじゃないのさ!」と
鋭い気勢を上げて大本営を出陣するカジャムの勇姿には、流石のエルンストも密かに苦笑いを漏らしたものだ。
 先ほどまでエルンストが手慰みに研磨していた曲刀とは、何を隠そうこの愛すべき女傑が所有する一振りである。
勝利の先にて再会することを期して、彼はカジャムから愛刀を預かっていた。
 このようにして手綱を締めない限り、命を粗末にするような戦いを平気でやってのけることを
エルンストは誰よりも深く理解している。それ故に女傑とまで畏怖されているのだ。
 ましてや、世界の命運を左右する一戦。同時にテムグ・テングリ群狼領の威信を賭けた大一番でもある。
苦戦となった場合、エルンストに命を捧げる覚悟で特攻を仕掛けることも容易に想像できた。
 命を惜しまぬ勇戦は、戦いに生きる者にとって最大の誉れであるが、無駄に命を捨てることはまた別問題。
そのような落命の仕方をエルンストは断じて許すつもりはない。
 預かった曲刀の代用として、亡き父より授かった宝刀――アルジャナ・ドゥルヴァンではなく、小振りの守り刀だ――を
彼女に渡したのだが、それによってカジャムもまたエルンストの想いを汲むことだろう。
 カジャムの率いる右翼先鋒には、ビアルタとザムシードの隊も加わる手筈となっており、
両名ともに早くも自陣にて兵馬の指揮を執っている。彼らもカジャムに負けず劣らず猛々しい勇将なのだ。
 馬軍が誇る三将は、戦端が開かれたなら先鋒の大任を見事に務め上げることだろう。

 テムグ・テングリ群狼領によって占められた右翼から彼方へ目を転じれば、
左翼の先陣には、傭兵の栄などと謳われるヴィクドの部隊とフェイの義勇軍が認められた。
 左翼の先鋒は、アルカーク率いるヴィクドの部隊と、英雄の名のもとに従う義勇軍が合同して執り行う手筈となっている。
 熱砂へ至るまでの間――否、長対陣が始まってからもアルカークとフェイのふたりは
先頭を切って敵陣へと突撃を繰り返しており、連合軍内部では切り込み隊長と目されるようになっていた。
今日まで散発的に発生していた前哨戦は、殆どが彼らの攻防である。
 先だって行われた大きな軍議の席にて露見した通り、彼らの相性は最低最悪。
同盟者とは雖も全く野放しにしていては、自軍の中にて先陣争いをする危険性が高かった。
 仲間割れを危ぶんだデュガリに相談されたブンカンは、
先陣争いを未然に封じ込めるべく両名に等しく先鋒の誉れを与える秘策を練り上げたわけだ。
 両部隊を一括して左翼の先鋒に据えると言うのは、なかなかに荒業であったが、
右翼は既にテムグ・テングリ群狼領で固めている為に動かしようがなく、
ましてや先鋒と言う功名の好機を割譲するつもりもなかった。
 最も気がかりだったのは、アルカークの反応だ。
 なにしろフェイとの相性が劣悪な“提督”のこと、合同による先鋒などと指示されようものなら、
カンカンになって怒り出すのではないかと発案者のブンカンも憂慮していたのだが、
意外にも彼はすんなりと決定を承服した。
 先ずは出方を探り、そこから一歩ずつ説得していくしかないと身構えていたブンカンが
拍子抜けしてしまう程にアルカークからの了承はあっさりと得られたものの、
反対に人格者と信じていたフェイのほうが厄介だった。
 拒絶反応を示したのは、フェイである。
 ヴィクドが推進する生業に蟠りを抱いているのか、はたまたアルカークに対する私怨なのか、
とにかく傭兵たちと肩を並べて戦うことをフェイは頑なに拒み続けた。
 一時は癇癪を起こした挙句、義勇軍を解散するとまで言い放ったくらいである。
 このままでは義勇軍の士気にも関わる――事態を重く見たソニエとケロイド・ジュースの取り成しもあり、
左翼の先鋒を合同して遂行する案は一先ず成立したものの、フェイ当人は今もって不承不承であると言う。

 軍議の席で揉めたこともあり、アルカークの人柄はクインシーとて気に食わない。
 そもそもかの“提督”は、Aのエンディニオンの人間を悉く駆逐すべきと主張する過激派の旗頭なのだ。
気に食わないどころか、イシュタルの名のもとに八つ裂きにしてやりたいほど嫌悪している。
 心の底から嫌悪はしているが、しかし、彼の率いるヴィクドがギルガメシュを攻め滅ぼす為に不可欠であることも
クインシーは既に理解し、納得もしていた。
 最大目標は、ギルガメシュの滅亡にある。これを達成する為には、
個人の感情を押し殺して争乱(こと)に臨むなど造作もない。
おそらく合戦場に集結した殆どの将士は同じ決意を共有している筈である。
狭い船中にて大敵同士で肩を並べるような状況に陥ったとしても今は忍従するべき機(とき)であろう。
 ところが、Bのエンディニオンの英雄とやらは、目標達成に向かって折り合いを付ける努力すらせず、
個人的な感情を剥き出しにするばかり。
 それが更に決戦を遅延させる原因だと見たクインシーには、
いつまでも意固地になって足並みを乱し続けるフェイのことが忌々しく思えてならなかった。

「理(ことわり)ってものを理解しないガキが……! あのザマで何が英雄だってんだいッ!? 笑わせるんじゃないよッ!!」

 憤激の赴くままに痛烈な罵倒を吐き捨てるその口舌は、クインシー本人は認めたがらないだろうが、
何事にも攻撃的なアルカークそっくりだ。
 彼女の後を追って物見の塔にやって来たエルンストもアルカークとクインシーとの相似を認めたようで、
「相変わらず頼もしい剛毅だな。何者にも引けを取らないところは、ヴィクドの提督とそっくりだ」と自身の発見を披露した。
 相似を指摘するにしてもオブラートに包んだ言い回しであれば、訓戒として効果は覿面に表れただろうが、
エルンストの言葉はあまりにもストレートで、短慮を省みるきっかけになるどころか、火に油を注ぐようなものである。
 案の定、アルカークと似た者扱いされたことに憤ったクインシーは、歯軋りしながら馬軍の覇者を睨み付けた。
 
「……バカにしてんのかい? 誰と誰がそっくりだって? あの鈎爪男は、誰を害虫だって言ったのさ? 
ギルガメシュと一緒くたにして何を皆殺しにしようとしていたか、あんた、憶えてるかい? 
居眠りしてたんじゃないだろうね?」
「それは――……失言だったな。すまん」
「あんたにゃもう一個訂正すべきことがある。あたしが女ってことを、あんたは見落としてるだろッ!?」
「確かに俺は言葉の選び方を誤る莫迦かも知れんが、しかし、両眼は節穴ではないぞ。
お前の性別は、見ればわかることだ」
「――わざとかい、あんた。わざとあたしを虚仮にしてんのかい!? こう見えて、乙女心は捨てちゃいないよ!」

 アルフレッドに負けず劣らず朴念仁であるエルンストにユーモアを求めるのは酷であろうが、
冗談とは行かないまでも、せめてもう少しでも柔らかい言い方を思いついていれば、
これ程までにクインシーの怒りが爆裂することもなかった筈だ。
 少なくとも「あんたのカミさんが可哀想でならないよ! そのスカした態度に何回泣かされているだろうね!? 
えぇ、色男? 天然とのギャップがウケそうな気障ったらしいツラ構えも、度が過ぎるとイヤミでしかないんだよッ!」と
罵られる事態は避けられただろう。
 エルンストに追従して物見の塔へ登ったデュガリとブンカンは、
クインシーの口から次々と飛び出す悪態の数々に仰天したものの、
側近の彼らが誰よりも“御屋形様”の朴念仁を判っている為、満足な反論もままならない。
 エルンストの忠実なる側近たちは、顔を見合わせながら肩を竦めるしかなかった。

「あの方に言われるまでもなく御屋形様にも困ったものですが……」
「うむ――指摘そのものは間違っておらん。短気の起こし方などヴィクドの提督と瓜二つだからな」
「男勝りとか、ボーイッシュとか、せめて言い方を変えれば良かったのでしょうが、よりにもよって最悪の例え。
あれで腹を立てるなと言うほうが無理ですね」
「いや、待て、ブンカン。ヴァリニャーノ殿は乙女心とはっきり言ったのだぞ。これは極めてデリケートな問題だ。
言い方を変えれば済む話ではなかろう。……それとな、いくらなんでもボーイッシュは無い、ボーイッシュは」
「かと言って、マニッシュと言う例えもそぐわない」
「そうなるとやはり――カミナリ親父の如くと云うべきか………」
「――聞こえてるよッ! そこッ! ていうか、どんどんヒドくなっているッ! 如実にッ!!
主従でよってたかって乙女心を引き裂くハラかいッ!?」

 デュガリとブンカンは蚊の鳴くような声で悪態に対する反撃策を論じようとしたのだが、
耳聡くこれを聞きつけたクインシーによって会話自体が途絶されてしまい、またまた苦笑いの貼り付いた顔を見合わせた。
 憤激に駆られた際のリアクションまでアルカークとそっくりでは、本人が如何に言い繕っても滑稽なだけである。

「引き裂くとは心外だな。俺はお前のその剛毅を何よりも評価しているつもりなのだが」
「あんッ!?」
「“カミナリ親父の如く”。良いではないか。実にお前らしい。物怖じせず叱責するのは、誰にでも出来ることではない」
「………………」
「その剛毅こそ、お前の宝だ」
「御屋形様、それは………」
「――………………」

 加速度的に悪化した場の空気を取りなそうと図ったらしいエルンストだが、これは誰の耳にも大失敗。
デュガリなどは戦慄するあまり、心臓が凍り付く錯覚に苛まれ、
どうしていつものように御屋形様の心情を代弁しなかったのかと悔恨したものである。
 先んじてエルンストの心情を読み、これをクインシーへ代弁していたのなら、こうもこじれる真似は絶対にしなかっただろう。
少なくとも禁句の数々を並べ立てることはなかった筈だった。
 本人曰く、乙女心をよってたかって引き裂かれたクインシーは怒り心頭に発し、とうとう閉口するに至った。
 過剰な程にやかましい人間が急に黙り込む様は、傍観する側にとっては恐怖以外の何物でもない。
それが激情家ならば、尚更のことだ。
 むっつりと押し黙るクインシーの仏頂面をエルンストは不思議そうに見つめている。
クインシーがどのように彼の言葉を受け取ったかはともかくとして、
エルンスト当人としては最大の賛辞を送ったつもりなのだ。
 さしものデュガリもこれには呆れ返ってしまった。

「……エルンスト、前々から思っていたのだが、お前は少し男女の心の機微と言うものを学んだほうが良い。
カジャムの喜ぶ言葉が、必ずしも他の女に通じるわけではないことくらいは、せめて憶えておくんだ」
「どう言う意味だ? それとも俺の言い回しが不自然だったか? 強いと誉められても喜べないとは……」
「戦士以外にも強さは欠かせない。その強さを誉めることは何ら間違ってはいない…が、それもときによりけりだ。
無論、人にもよる。誉められて嬉しい強さと、そうでない強さもあるのだよ」
「………デュガリ、これは何だ? 科学の授業か? 複雑怪奇だぞ、お前の言っていることは」
「今の話を科学だの、複雑怪奇だのと、天才的な受け止め方をしている時点で、お前は乙女心と相性が宜しくないんだ。
………こう言う場合は、俺に任せておけ。悪いようにはせん」
「腑に落ちんが………」

 このまま捨て置けば、更に状況が悪化すると踏んだデュガリは、
彼女に気取られぬよう細心の注意を払いながら世紀の朴念仁の耳元へと自身の口を寄せ、
主従ではなくひとりの友人としてその無神経を注意した。
 無神経を注意されたエルンストではあるが、これに対する反応はやはり鈍く、
デュガリから寄せられた注意の本質を理解しているかは、甚だ怪しかった。

 「……お前に任せておけば間違いないだろうが――」と低く呻いたエルンストの眉間には、
感情の起伏が乏しい彼にしては珍しく深い皺が寄っている。
 苦みばしった顔でもって天を仰いだエルンストは、これによって靄の掛かった気持ちを入れ替えたらしく、
物言わず全身から怒りを沸き立たせるクインシーの真隣へと歩みを進めた。
 無自覚無意識だったとは雖も、クインシーの神経を逆撫でしてしまったことを猛省し、改めて謝罪を試みようと言うのだろうか――
しかし、ここまで拗れてしまっては、どのような言葉を掛けたとしてもクインシーは受け止めてはくれまい。
ほとぼりが冷めるのを待つのが吉なのだ…が、エルンストは逡巡することもなく憤怒の塊へと近付いていった。
 一瞬の出来事だった為、デュガリにも止めようがなく、ブンカンなどは声にならない悲鳴を上げるほど慄いてしまった。
 こうしてふたりの側近が真っ青な顔を見合わせていることも知らず、エルンストはクインシーと肩を並べた次第である。

 ジロリと横目で睨めつけるクインシーだったが、エルンストの瞳はこれに応戦して鋭さを増すわけでもない。
 彼の双眸は、あろうことか物見の塔から一望の如く見渡せる熱砂の合戦場にアルカークの姿を探していた。
「提督殿は今日も意気盛んだろうな」などと呟いたのが、何よりの証拠と言えよう。
 最早、彼がクインシーの機嫌を取るつもりがないことは誰の目にも明白である。
 結局、自身の無神経な振る舞いがクインシーの逆鱗に触れたことは思考の外にある様子。
デュガリは自分の忠告が何ら効力を発揮しなかったことにさめざめと嘆息した。

 本人の名誉の為にも断りを入れておくが、エルンストは決して遅鈍ではない。
的確に情況を把握・分析し、人の心の動きも鋭く読み解くだけの能力は持ち合わせている。
虚飾ではなく、名と実を伴った真のカリスマであると言えよう。
 そうでなければ、テムグ・テングリ群狼領を主導することなど不可能。
彼の備えたカリスマ性は、善政に基づく版図の統治と言う実績が証明していた。
 ……カリスマであることに疑いを挟む余地はないのだが、
如何せん戦いに明け暮れる半生の道程に情緒を形作る為の部品を幾つか置き忘れてきたようなのだ。
 しかも、だ。傍に置くのは、みな無骨者。行軍に不要な情緒(もの)が道ばたに落ちていたとしても、
拾い上げてエルンストに返上するどころか、視界に入れることもなく馬蹄で踏み砕いてしまうのである。
 そのような環境に身を置いているのだから、いくらデュガリが気を配ってもフォローし切ることなど不可能に近いのだ。
 生来、武辺の環境で過ごしてきたエルンストは、このようにして著しくデリカシーを欠く失態も少なくはなかった。
 先述の言葉を反復するが、鋭く人の心を汲み取り、そこに寄り添えるだけの器量をエルンストは間違いなく備えている。
分け隔てなく民を救う慈悲をも併せ持っている。
 それでいてデリカシーを欠く失言を連ねてしまうなど妙に抜けたところがあるのだが、
実際にその被害にあったクインシーの言葉を借りるならば、これは「天然」と言い表すのが相応しかろう。
 愛嬌で済む状況ならば一種の笑い話なのだが、天然と呼ばれるタイプは、
どう言うわけか、やってはいけないタイミングで狙い澄ましていたかのように失態を晒すもので、
エルンストの場合も他の類例から漏れることはなかった。
 エルンストとクインシー、天然とその被害を受けた相手――ふたつの背を見比べるデュガリとブンカンは、
“御屋形様”が次に何をしでかすのかと気に病み、キリキリと胃の痛む思いである。
 こうも胃腸に精神的な痛手を受けるのは、極限的な戦場に身を置く彼らですら滅多にないこと。
その珍しい例外が発生するのは、決まってエルンストの天然にスイッチが入った場合だ。

 余談を差し挟んでいる内に、エルンストは砂塵の彼方にアルカークと、彼の率いるヴィクドの軍勢を発見したようだ。
身を乗り出して目を凝らした彼は、クインシーに向き直り、「俺の目に狂いはない。剛毅こそ宝」とアルカークの近況を報せた。
 エルンストの報告にクインシーがどのような反応を見せたかは、改めて語る必要までもなかろう。
 「剛毅こそ宝」とエルンストに言わしめたアルカークは、
左翼の最前線にてギルガメシュの小隊を相手に小競り合いを演じている。

 本格的な決戦には発展しないものの、小規模及び偶発的戦闘は、日に何度も起こっていた。
物見の塔よりエルンストが眺望するその小競り合いも、熱砂に於ける日常茶飯事の一つであろう。
 こうした日常茶飯事が発生する際、中心にて喊声を上げているのは、大抵の場合、アルカークか、フェイである。
 勇名を馳せる彼らは、一日も早い決着を求めてギルガメシュの陣地を脅かしているのだが、
藪を突いたところで蛇は相手を咬む気など持ち合わせておらず、提督と剣匠は揃って前哨戦と同じ過ちを繰り返していた。

 藪の中の蛇――ギルガメシュは、鶴翼を以って取り囲んでくる敵軍に対し、
魚鱗の陣を布いたまま山の如く不動を保っている。
 魚鱗とは、鏃を標的へ向けるような形の陣形であり、戦力の一点集中に基づく中央突破の成功率引き上げなど
高い攻撃力の確保が見込めるものだった。
 数で劣るギルガメシュにとっては、不利を補う最善の一手と言えよう。
中央突破で大本営を直接叩くことが出来れば、戦局をひっくり返すことも夢ではないのだ。

 エルンストは鱗魚の陣形に秘められた貫通力の高さをクインシーに説明し、
だからこそ迂闊に軍勢を動かすことが出来ないと付け加えた。
 ………それが、膠着状態の是非を詰問してきたクインシーに対するエルンストの返答であった。

「剛毅こそ宝だ。その言葉に偽りはない…が、どれほど優れた宝であっても使いようによってはその価値を失う。
剛毅は勇気を生み出す。戦場へ勇者を向かわせる力を。……だが、勇気と無謀は全く異なるのだよ」
「………………」

 血気に逸って攻め込んだところで何ら効力が見られず、
それどころか、大事を前にしていたずらに兵を消耗するだけのフェイやアルカークを指差したエルンストは、
彼らの短慮を説明材料として大軍を率いる難しさをクインシーに説いていく。

「我らはギルガメシュを討つべくして集った同志だ。目的は共有している。その目的へ皆の眼差しが向かっている」
「当然じゃないのさ。誰かひとりでも許されざる敵から目を逸らしたら、そこで勝負は終わりだよ」
「理論上はな。しかし、現実はそう容易くはない。利権、主張――個々の思惑は常に絡み合う。
主将などと担がれてはいるが、俺のことを殺したいほど憎んでいる人間も数知れない筈だ。
同じ到達地点へ足を向けてはいても、皆、見ているモノは違う」
「逸らす、逸らさない以前の問題だって言いたいのかい? それをどうにかするのが、主将であるあんたの仕事だろう? 
今こうしてあたしに説教しているようにしてさ」
「例えば反目する人間を理詰めで説得出来たとしよう。
その様子を見ていた別の人間は、理論武装で説き伏せられまいと同盟を結ぶ見返りを要求し、
また別の人は俺が交換条件を飲む姿を見て、それまでの協力姿勢を翻し、急に態度を強硬にする――
お前の言う通りにしたなら、この繰り返しで時間を無駄にするだろう」
「ムチャクチャなことを言ってないかい、あんた。ギルガメシュをブッ潰すって目的は一緒じゃないか。
あえて協調性を乱すバカなんて、いるわけないだろう?」
「――つまりな、我らは本質的に烏合の衆なのだよ。目的の共有は出来るが、完全な形での統率は不可能と言うことだ。
立場や環境まで分かち合うことも出来ない。一軍の将ともなれば、尚更、周囲の情勢に目を光らせる」
「最大の目的を上回るってことかい、周りを出し抜くことのほうが。……ますます莫迦な!」
「残念ながら、それが戦場の現実だ。烏合の衆は、見ている場所が違う。だからこそ足並みを脅かされてはならんのだよ」
「………………」

 今のところ、兵力ではギルガメシュを圧倒している。歴然たる差を見せ付けているものの、
どれほど兵数で上回っていようとも軽々に振る舞えば、アドヴァンテージなど簡単にひっくり返されてしまうものだ。
 用兵の術に詳しくない人間の目には、人数の多いほうが戦いでは有利だと映りがちだが、
大軍勢と言うものは意外と不自由なものであり、少しの綻びで隊伍が乱れ、
支離滅裂になった挙句、壊滅させられてしまう。
 大軍の瓦解を招く綻びには、つまり足並みの乱れも含まれていると言うことだ。
 一度、足並みが乱れようものなら、それぞれの部隊が自分勝手に行動し始めるのは明白。
それをこそ大軍の瓦解と呼ぶのである。
 エンディニオン全土から集結し、且つそれぞれの思惑が作戦行動に強く反映されるような対ギルガメシュの連合軍は、
こうした烏合の衆の中でも極めつけと言って良い。
 世界最大の規模を誇るテムグ・テングリ群狼領を多年に亘って率いてきたエルンストだからこそ、
烏合の衆の足並みを整えることの難しさが真に理解出来るのだ。

「不和が原因で綻びが生じるってんなら、それこそあんたの出番じゃないかい? 
これまでさんざんやって来た根回しは、あたしが見ている限りは全部成功してるよ」
「お褒めに預かり、光栄だな。……だが、隊の綻びなどと言うものは、もっと簡単に起こるものだよ。
鶴翼の一角が思わぬ不意打ちでも受けて崩れようものなら、そこから連合軍の崩壊は始まる。
これほど大きな規模の大軍は、一度、崩壊が始まってしまったらもう歯止めが全く効かなくなる。
……そして、何が起こるかわからないのが戦場だと、俺は身を以って経験してきた」

 経験則を交えつつ前方に突き出されたエルンストの指先は、両軍が長対陣を布く地点の更に向こう――
ギルガメシュの後詰めが陣所を張る地点を指し示している。
 そこは砂漠地帯でありながら海に面する特殊なエリアとなっており、
長大な半月の形に陸地を浸食した湾内には、四振りの剣を模った軍旗を翻す軍艦が陣取っていた。
 厳しくも雄々しい黒い巨体で砂漠の近海を脅かす鋼鉄の塊は、大小合わせて四隻。
砂漠の戦いにとってあまりにも貴重な湾岸は、ギルガメシュによって占拠された恰好だ。
 海路からの上陸に最も適したエリアが奪われたことは、連合軍側には大きすぎる痛手だった。
そしてそれは、この合戦に於ける制海権がギルガメシュの手に渡ったのと同義なのである。
 連合軍側の陣地には人馬を潤すオアシスが数多く含まれているが、四方は行けども行けども砂の大地。
最寄りの海と陣地を往来するには、相当の日数を要するのだ。これでは制海権の確保とは程遠い。
 先んじてグドゥーに布陣し、半月の湾岸を確保したギルガメシュに対し、
連合軍側は海運の点で大きく水を開けられているのだ。
 半月の湾岸付近には、吹き付けた砂礫が堆く山積された地形――すなわち、砂丘が認められる。
仮に四隻の軍艦を突破して浜辺まで辿り着けたとしても、峻険に聳え立つ砂丘に進撃を阻まれ、
右往左往している内に駆けつけた警備の兵によって返り討ちにされるだろう。
 万に一つでも砂丘を乗り越えたとしても、眼下はギルガメシュの後詰が犇めき合う敵陣だ。
軍艦、砂丘と言う二重にして協力無比な防御を無傷で超えられるとはとても思えない。
満足な反撃も出来ないままに包囲され、夥しい量の銃火に晒されると言う最悪の末路を辿る筈である。
 無論、入り江にこだわらなければ船を接岸できる箇所は他にもある。
 ……あるにはあるのだが、入り江を除く海岸線には、
近頃になって急に獰猛なクリッターが跋扈し始めたとの情報も入っており、
上陸を強行したところでギルガメシュと合戦に及ぶ前に消耗することは免れず、
無意味にして無惨な結果となるのは火を見るよりも明らかだった。
 海岸線からの侵入者を阻むかのようにクリッターが営巣しているとの情報もある。
未確認ではあるが、何らかの手段を用いてギルガメシュがクリッターを操作しているとしか思えなかった。
 何しろギルガメシュが拠点を築いた半月の湾岸には、クリッターの姿は全く見られないのだ。
これで作為を感じない人間は、よほどの鈍感である。
 言わば、これはクリッター軍団による防波堤だ。
クリッター軍団は連合軍と言う波浪の前に立ちはだかり、これを跳ね返すことだろう。
 制海権の奪回は、既に絶望視されている。
 そもそも制海権奪回を行えるだけの海戦力を連合軍側は持ち合わせておらず、
長対陣の間に一応は試みたものの、ブンカンの手腕を以ってしてもこの短時間では実現不可能であった。

「例えば、入り江に浮かぶ艦隊から艦砲射撃を受けたなら、命中の有無に関わらず我らの側は一発で崩れるだろう」
「飛距離はどうなんだい? 目測だけど、最前線からは何十キロも離れているように見えるね。
大砲の玉がそこまで届くと思うのかい?」
「我々が持つ砲術の常識では難しかろうな」
「……だが、ギルガメシュの武装は遥かに技術力が上。もしかすると精確に大砲をブチかましてくるかも知れない――ってか?」
「――ほう? だいぶ戦場に馴染んできたじゃないか。ますます頼もしいな」
「乙女心を主張してた人間が、全くイヤに目が肥えちまったもんだ。あんたの言いたいこともわかっちまうんだからね。
……あらゆる可能性を予想したら、ヘタには動けないってワケだ。隊列の綻びも、そいつが起こる原因も………」
「その通り。聡くて助かる」
「だから、あんたのは誉め言葉になってないんだよ――……単純なようで、なかなか複雑じゃあないか、コレは。
何が原因で負けるか、わからないってコトだね」
「必ず勝利出来る好機を是が非でも見極めなければならない。それが、この合戦だ」

 エルンストと話を続ける内に膠着状態の原因が大本営の怠慢ではないと理解したらしいクインシーは、
「スカした顔して抜かすんじゃないよ。とっとと勝機ってのを見極めな。そいつはあんたの器だろ」と
憎まれ口を叩いたものの、先ほどまで見せていた剣呑な語気ではなく、相手をからかうような口調となっている。
 軽率に軍を動かせない理由も、今や受け止めた様子だ。
 クインシーのことをエルンストは「聡い」と賞賛したが、まさしくその通りである。
 長対陣に焦れて立腹しても、納得さえすれば変に強情を張ることがない。
ひとしきり憎まれ口を叩いた後、そっぽを向きながら「……頭に血が昇っちまって、悪かったね」と非を認めるあたり、
激情的ではあっても理性を欠いているわけではないのだ。

 改めてエルンストと肩を並べたクインシーは、馬軍の覇者と同じ視点で合戦場を睥睨しつつ、
「……目的ひとつでいいじゃないか。目的さえ一緒ならどんなヤツらとも命預けて戦えるよ、あたしゃ」と独り言のように呟いた。
 なおも長対陣を批難しようと言うわけではなさそうだ。遣る瀬無いとばかり思っていた憤激が望外の着地点へと導かれ、
これによって些か気持ちが緩んだのだろう。
 呼気と共に漏れ出したのは、混ざり気のないクインシーの本心であった。

「目的か――お前は少しも揺るがないな。ギルガメシュを攻め滅ぼすことが、お前の第一義なのだな」
「当然さ。あの背教者どもめ……。何としても地獄に落としてやらなきゃならないんだよ」

 サークレットの飾りを指で弾きながら憎々しげに吐き捨てるクインシーの瞳には、
ギルガメシュへの憤怒の炎が見て取れる。彼女は仮面の兵団を“背教者”とまで誹謗していた。
 先ほどまで見せていた想念(もの)とは性質の違う昏い怒りがクインシーの頬を染めていく。
その様子を横目で眺めるエルンストは、脳裏に彼女と初めて対面したときのことを思い描いていた。


 クインシーが初めてテムグ・テングリ郡狼領にコンタクトを図ったのは、
ギルガメシュがルナゲイトを征圧して間もない頃である。
 アルバトロス・カンパニーへ一方的に絶縁を申し渡し、フィガス・テクナーを後にしたクインシーは、
僅かな手がかりからテムグ・テングリ群狼領こそがギルガメシュを撃破し得る勢力であると確認し、
程なくして仮面の兵団と戦争(こと)を構えたエルンストに協力を申し出たのである。

 それは、あまりにも危険な賭けだった。
 Aのエンディニオンの人間と言う出自は、ギルガメシュの内情に詳しいことも含めて最大の強みであるが、
一つでも打つ手を間違えれば、逆に決定的な命取りとなり兼ねなかった。
 失敗が招く結末は、クインシーの出自に向けられたアルカークの激烈な拒絶反応を見れば瞭然であろう。

 出自にこだわらず、優れた人材は旧敵であっても登用するエルンストの人柄を熟知した上で、
自分を味方に引き入れることで得られるアドヴァンテージを売り込もうと言うのであれば、
大胆不敵な行動も算段の一つであろうと納得できるのだが、
Aのエンディニオンの人間であるクインシーには、馬軍の覇者の人となりなど知る由もない。
 彼女は完全に捨て身のつもりでテムグ・テングリ群狼領の懐に飛び込み、自分の持つ価値を示した次第である。
 そして、そのような傑物をエルンストが放っておく筈もなかった。
 晴れて反ギルガメシュの同盟者と認められたクインシーは、自分の知り得る限りの情報を提供し、
ついにはエルンストと肩を並べられるまでに至ったのだ。

 ギルガメシュの打倒に必要な情報は何でも惜しみなく提供するとエルンストに直談判した際、
クインシーは彼ら仮面の兵団が外法を以ってイシュタル信仰を歪めていると再三繰り返していた。
 ギルガメシュが原理にしていると言う“外法”のことは、今も事あるごとに口にしている。
 曰く、武力によって誤った教義の正当化を図り、創造女神イシュタルや神人(カミンチュ)を貶めようとしている――
クインシーが熱弁する意味をエルンストは未だ理解するには至っていない。
 そもそも“誤った教義”と言う考え方自体が、Bのエンディニオンの常識から遠く掛け離れたものなのだ。
Bのエンディニオンにとって信仰の形態はただ一つであり、そこから外れて別の方針を新設するなど夢想すらしないことである。
 女神信仰の先駆者たるマコシカの民が示した信仰の形態を、この世界に生きる誰もが疑っていなかった。
 ……否、疑う余地などある筈もないのだ。古来より踏襲されてきた伝統へ疑念を持つことは、
それ自体がイシュタルへの冒涜を意味する――それが、Bのエンディニオンの誰もが等しく胸中に抱く信仰の心であった。

 Aのエンディニオンでは、クインシーも所属する教皇庁なる機関が女神信仰を統括しているようだが、
話を聴く限り、女神イシュタルや神人(カミンチュ)への尊崇はBのエンディニオンと同一であると認めても良さそうだ。
 であるからこそ、「外法によって女神の教えを歪めるギルガメシュはけしからん」と息巻くクインシーの言葉は掴み所がない。
 第一、現在までにギルガメシュは難民救済以外の方針を何ら打ち出しておらず、
クインシーが言うように正道を外れた原理、つまり歪んだ教義を正当化しているようには見えないのだ。
 彼女が繰り返す警告は明確な質量を伴ってはおらず、飲み込むことも出来ないまま宙ぶらりんの状態を続けている。
少なくとも、エルンストにはそう思えてならなかった。
 作戦行動と直接関わるとも思えず、またクインシー当人が口に出すのも忌々しいとまで言い切った為、
これまで外法の委細を深く尋ねたことはなかった。その必要性すら強くは感じなかったくらいだ。
 万一、ギルガメシュに対する私怨が彼女に外法と言う激しい罵声を選ばせていたとすれば、
それもまた大きな問題に発展することだろう。触らぬ神に祟りなし…と言うわけだ。

 本来、突き詰めて確認せねばならない事柄なのだろうが、エルンストにとってはそれすら瑣末なことだった。
 彼が感銘を受け、肩を並べる仲間として認めたのは、
彼女の説法ではなく、ゲレル・クインシー・ヴァリニャーノと言う女傑が誇る強さなのだ。
 大胆不敵な行動力、類稀なるネゴシエート能力、それらを実現し得る勇気と意志力を以ってクインシーを認めたエルンストは、
彼女が抱えているだろうギルガメシュとの信仰上の葛藤を詮索することはなかった。
 如何なる事情をも受け止められることが真なる王者の絶対条件であり、エルンストはまさしくその大器を示したのだった。

 だが、誰もが王者たるエルンストのようにはなれないのも現実だ。
全ての憂いを飲み込めるのは、彼が凡庸な人間と異なる次元に意識を置く真の王者だからである。
 王者のもとに集う凡庸なる万民が、彼と同じようにクインシーを許容する為にも
“本来、突き詰めて確認せねばならない事柄”は看過されるべきではなかった。
 疑って然るべきことは、クインシーであろうとギルガメシュであろうと、細心の注意を払って調べ上げなければならない。
そこまで徹底しなければ、テムグ・テングリ群狼領と言う巨大な勢力など成り立たないのだ。

「イシュタル様を信仰する正しい道筋は、教皇庁と共にある。あいつらが歪めた邪教(もの)とは違うんだ……ッ!」

 教皇庁のイシュタル信仰こそが唯一無二の正しい教えだとクインシーは折に触れてエルンストに説いている。
 教皇庁の信仰をエルンストに吹き込み、教化…否、洗脳を図ると言うような悪質な論法ではない為、
彼女の側に他意があるのかは判然としないが、その行為は極めてデリケートな問題を内包していた。
 教皇庁の教義に凝り固まった主張を繰り返すクインシーの身柄を、
エルンストが、Bのエンディニオンの最大勢力の長が保障及び承認した事実は、とてつもなく重い。
 今日も今日とてギルガメシュの外法を批難するクインシーにエルンストは相槌を打ってやっているが、
その後姿を見つめるデュガリとブンカンの表情(かお)は、沈鬱に強張っていた。

 同胞と認めた相手に肩入れする余り、外来の教義に著しく感化され、
テムグ・テングリ群狼領の土台を揺るがすような迂闊はしないとは思うが、
念の為にもエルンスト、またクインシーに釘を刺しておく必要があるかも知れない――
諫止の意を決したデュガリが身を乗り出したその矢先、物見の塔の足下から威勢の良い声が投げ込まれた。
 出鼻を挫かれ、短く呻いたデュガリにブンカンは「“御曹司”のご到着のようですな」と耳打ちする。
 先程来、若々しい…と言うよりも幼さを多分に残した声で「父上は何処に?」と物見の塔へ呼びかけているのは、
テムグ・テングリ群狼領のシンボルとも言うべき黒革の鎧に身を纏った少年である。
 声変わりを済ませていないことからも察せられるように、年の頃はシェインやルディアとそれほど開きはない。
触れれば心地よさそうな福々しい頬は、過分に幼さを強調しているようにも思えた。
 年少のシェインたちが戦地へ赴くことを渋るカッツェたちがこの福々しい少年を目の当たりにしようものなら、
「テムグ・テングリは子どもまで戦争の道具に使うのか」と批難の声を上げたに違いない。
 しかし、幼げな風貌と裏腹に、この少年戦士は、身の丈と同等の巨大な武器を担いながらも
背に掛かる重量に振り回される様子はなく、しっかりとした足取りで物見の塔へと歩みを進めている。
 少年戦士が背負うのは、猛獣の角にグリップを設置したような形状の刺突武器である。
 見ようによっては異形のランス(突撃槍)と捉えられなくもないが、
中央のグリップ部分に据え付けられた二本の獣角は、それぞれが反対の方向へとその尖端を向けており、
前後の敵を同時に窺う構造(つくり)となっていた。
 たすき掛けに肩から提げる革のベルトに得物のグリップを括り付けて固定し、
傾斜を付けるような格好で担っているのだが、それにも関わらず、彼は軽やかな身のこなしを維持し続けている。
 年若い少年が戦地へ乗り込むことへの批難や懸念は、その勇ましい姿が封じ込めることだろう。
 余人には想像も出来ないような鍛錬を積み、死地へと臨む覚悟を決めた戦士にとって年齢など無関係。
超重量の得物を己の膂力で制御する彼は、立派な馬軍の戦士であった。

 その少年戦士の姿を眼下に見つけたエルンストは、
物見の塔の上から「そう声を張り上げなくても、俺はここに居る」と返事を送った。
 頭上より舞い降りた“父上”の返事に相好を崩すあたりは年齢相応と言えるのかも知れないが、
戦士としての矜持が笑気を許さないのか、少年は綻びた表情をすぐに引き締め、
「御屋形様にご報告があります」とその場に跪いた。

「息子にそこまで気を遣われては、父としてはやりにくいのだがな。……いつも言っているだろう?」
「そうは仰せになりますが、賓客の手前でございます。ましてや我々は親子の前に主従。将への示しもあります。
陣中ではけじめを付けるべきかと存じますが」
「そんなことを気にしているのはお前だけだぞ、グンガル。俺が堅苦しい作法を好んでいると思うか? 
行儀の悪さは、息子のお前が誰よりも知っている筈だ」
「ご冗談を。俺よりカジャム様のほうが御屋形様に親(ちか)しいではありませんか」
「……そこでカジャムを持ち出すか。お前も人が悪くなったものだな」
「御屋形様の血を分けておりますので」
「こいつめ、言ってくれる」

 生真面目を貫きつつも言葉の端々に痛烈な皮肉を織り交ぜてくる少年戦士に苦笑いするエルンストは、
彼のことを「グンガル」と呼んだ。
そして、己のことを父、彼を息子とも言明している。
 デュガリとブンカンが“御曹司”との敬称を用いた通り、この少年戦士――グンガルは、エルンストの実子であった。
 と言っても、エルンスト最愛の“恋人”であるカジャムの子どもではない。
先妻との間に設けた最初にして唯一の男児なのである。
 先妻がどのような人物であったか語るのは、後の機会に譲るとして――
血気に逸る愛息を眺めるエルンストの眼差しは、朴念仁の汚名を返上し得るほどに穏やかで、
他の誰にも見せることのない肉親への情で満たされている。
 カジャムに向けられるものともまた異なる愛情が、エルンストからグンガルへと注がれていた。
 いずれ次代の群狼領を背負って立つ身となるだろう十四歳の少年戦士は、
ほんの半月前にギルガメシュとの局地戦で初陣を飾ったばかりである。
 軍議の席で話題にも上らない規模の小競り合いだったが、
模擬戦とは全く異なる本物の命のやり取りを潜り抜け、またギルガメシュが持つ恐るべき武装を己の耳目で確かめたことは、
戦士として得るものが大きかったに違いない。
 先行する負けん気に実力が伴っていない半人前のシェインとは明らかに面構えが異なっている。
それが何よりの証左であった。
 初陣を見事勝利で飾り、その足でグドゥーに馳せ参じたグンガルは、
ギルガメシュとの決戦に際してはデュガリの部隊に加わることが決まっている。
 エルンストの実子に相応しい功名を立てるべしとのデュガリの配慮だ。
 デュガリから提案が上がった当初、実戦経験の少ないグンガルを重要な持ち場へ着かせることにエルンストは躊躇した。
それどころか、断固承服しないと頑なに拒んだくらいだった。
 激戦が予想される部隊に愛息を配し、討ち死にさせたくないと言った親心ではなく、
テムグ・テングリ群狼領を率いる長としての責任がデュガリの提案に拒否を言わせるのだ。
 身内の功名の為だけに数多の将兵を危険にさらすことなど決して許されることではない。
 身内を、それも初陣したばかりの未熟者を精鋭部隊に放り込んだが為に彼らの力を削いでしまうなど言語道断である。
御曹司・グンガルが配属されたなら、本来不要である筈の世話を掛けるのは間違いない。
 一つの綻びが大軍の崩壊を招く原理は、先述した通りである。
 グンガルの将来を慮るカジャムに宥め賺され、「総大将の子が敢えて危地に身を置くのだから、
これで奮い立たない兵はいないわ。爆発的に士気も跳ね上がるわよ」と背中を押されて、
ようやくエルンストも首を縦に振った次第だ。
 仮にカジャムが不在であったなら、グンガルは功名を立てる機会すら与えられなかったことだろう。
 尤も、グンガル当人は父とカジャムとの関係をあまり快く思ってはおらず、
デュガリの麾下に配属される経緯を説明された際には、複雑そうに面を歪ませたものだ。
 尊敬するエルンストに認めて貰えるチャンスだとなまじ喜んだだけに、
カジャムにお膳立てされた事実は、カジャムにとって痛恨の不覚であったらしい。

(……思わぬ泣き所を抱えてしまったものだ……)

 このまま自身の恋愛関係にちなんだ皮肉を、それも実の息子から言い続けられては
決まりが悪くなると思ったエルンストは、咳払いを挟んだ後に「それで報告とは?」と話題を切り替えた。
 あからさまな方向転換は取り繕いようがないほどに滑稽で、
パラッシュ親子のやり取りを傍観していたクインシーは、堪えきれずに噴き出してしまったくらいだ。

「先ほど入電がありました。佐志に派遣されていた特使が間もなくグドゥーへ入るそうです」
「――ほう……!」

 真隣から無遠慮に浴びせられる笑い声には、さすがのエルンストもバツの悪そうな表情(かお)で頬を掻いていたが、
グンガルからその報告を受けた途端、憂色から喜色へと一変した。
 特使が帰還しただけで大感激するエルンストの様子に小首を傾げるクインシーは、
この直後に起こったとんでもない事態に瞠目し、満面を引き攣らせた。
 行儀悪く塔の窓に足を掛けたかと思うや否や、何を血迷ったのか、
エルンストは窓枠を蹴って塔より身を躍らせ、地上へと飛び降りたのである。
 クインシーだけでなく皆が唖然とする中、矢のような速度で急降下し、
次いで盛大に砂埃を巻き上げながら着地を成功させたエルンストは、
あまりの出来事に腰を浮かせた状態のまま硬直してしまったグンガルの肩を掴むと
「アルフレッドも――いや、佐志も同道しているのだな?」と改めて入電の内容を確認した。
 ……改めてと言うか、当人にとって必要な箇所だけをクローズアップしたと言うべきか。
 いずれにせよ、父の暴挙に度肝を抜かれたグンガルは、
驚きのあまり発声の仕方すら失念してしまい、ただただ首を縦に振ることしか出来なくなっていた。
 これはグンガルに限ったことではない。何の脈絡もなく地上十五メートルから飛び降りる様を見せつけられては、
誰しも同じような状態と化すだろう。
 如何に身体能力が高くとも、着地を誤れば即死は免れないような行為である。
エルンストのような超人だから平然としていられるが、並の人間であれば砂中にめり込んだまま、
二度と起き上がることは無かった筈だ。
 砂漠という地形的条件は、落下物に対して、ある程度の衝撃を緩衝してくれるだろうが、
いくら何でも地上十五メートルの頂点から掛かる重力の作用には敵うまい。

「佐志には好きなように戦わせろ」
「は……ッ!?」
「あ、いや――言い方が適切ではなかったな。ゼラールには佐志と合力して戦うように返電しろ。
必ずしも本隊の行動に追従する必要はない。その場の判断で独自に作戦を立てるべし、と。
佐志の軍に何らかの戦略がある場合は、これを優先する旨も忘れるな」
「なっ……、ち、父上っ!?」

 目の前で起きた超絶的な出来事をなかなか飲み込めず、絶句したまま双眸を瞬かせているグンガルに対し、
エルンストは追い打ちを掛けるようにして理解に苦しむ指示を出した。
 ゼラール軍団と佐志に関しては、つまり共同戦線と言う条件さえ守れば、
好き勝手に戦闘を行っても構わないと言うことである。
 しかも、だ。エルンストは「佐志の戦略を優先」ともゼラールに通達するよう命じている。
言い換えれば、佐志の、いや、アルフレッドが考案する戦略・戦術に
ゼラール軍団の戦力を自由に利用しても構わないと暗に許可しているようなものであった。
 独立心の強いゼラールではあるが、テムグ・テングリ群狼領に属している以上は、
“御屋形様”の命令に従う義務があった。ましてや軍事に関わる命令。
絶対の遵守が求められるのである。

「……佐志には、一体、何があると言うのですか?」

 父の真意を測りかね、訝しげな眼差しを向けるグンガルだったが、
このときエルンストの意識は、遙か彼方の合戦場へと飛躍してしまっている。
 佐志には、何があると言うのか――父が露わにする強い執着がどうにも理解し難いグンガルは、
不思議がってそう問うてみたものの、彼の声は熱砂を撫でる風に攫われてあらぬ方角へと舞い散ってしまい、
ついにエルンストの耳朶を打つことはなかった。
 腕組みしたまま黄金色の烈風へと目を凝らすエルンストは、
もしかすると、アルフレッドとともに熱砂を駆け巡る様を脳裏にて夢想しているのかも知れない。

「ここまで来ると恋する乙女だな」

 呆れ果てたと言わんばかりの揶揄を溜め息に乗せて吐き捨てたのは、
螺旋階段を降りてきたデュガリである。
 彼の後ろには、ブンカンとクインシーの姿もある。三人連れ立って物見の塔より退出してきたところだった。

 わけがわからないと言った調子で肩を竦めるグンガルの耳元へ自身の口を寄せたブンカンは、
「アルフレッド・S・ライアンの采配を決して見逃してはなりませんよ、御曹司。
御屋形様をも虜にした天与の才覚を」と静かに説き聞かせた。
 アルフレッド・S・ライアン――未だに顔を合わせたことはないものの、その名前だけはグンガルも聴いたことがあった。
 と言うよりも、エルンストから幾度となく聞かされた名前である。

 テムグ・テングリ群狼領内部で勃発した後継者争いの末期のことだ。
 最後の抵抗に及んだザムシードの反乱軍と父が佐志の大草原にて合戦する最中、
智略を以て近隣住民を戦火から救ったと言う在野の作戦家――そのようにグンガルは記憶していた。
 その智謀に惚れ込んだエルンストは、側近として登用したいと仕官まで誘いかけたと言う。
殆ど面識もなかった人間を、だ。
 結局、仕官の誘いは断られてしまったが、それでもエルンストは変わることなく彼に目を掛け続けているようである。
 新聞王ジョゼフを狙ったジューダス・ローブとの攻防など、彼の活躍を耳にする機会も最近では増えていたところだ。
ますますアルフレッドへの関心を強めているに違いない。

(……アルフレッド・S・ライアン……)

 近臣にまで朴念仁呼ばわりされるほど感情の起伏に乏しい父をここまで昂揚させるアルフレッドとは、
果たして、どのような傑物なのか。
 間もなくアルフレッドがグドゥーへ入ると聞いた瞬間に父が見せた嬉しそうな表情を思い返しながら、
グンガルもまた未だ見ぬアルフレッドへ想像を膨らませていった。




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