8.答えられぬ問いかけ 首魁でありながらブリーフィングを欠席し、重大な決定を部下に一任してまで私用を優先させたカレドヴールフだったが、 彼女もまたこれまでの人生で最も難しい選択と戦いを強いられていた。 ギルガメシュという隊名が付く前から唯一世界宣誓の最前線に立ち、激闘を演じてきた百戦錬磨のカレドヴールフと雖も、 このような困難は遭遇したことが無く、おそらくは得意の干戈を取ろうとも切り抜けられまい。 彼女は生まれて初めて自分の額へ冷汗が噴き出していることを自覚し、 けれどもそれを拭うことも出来ないまま、半ば硬直した状態で目の前の“難問”に意識を釘付けされていた。 ギルガメシュの首魁として、唯一世界宣誓を体言せねばならぬ者として、 瑣末なことで動揺を来たすなどあってはならないと心の冷静な部分では理解しているものの、 額から頬を伝い、顎へと滑り落ちる厭な汗を止めることはできない。 冷静であろうと努める彼女の気概を嘲笑うかのように汗水は玉を結んでいく。 「………では、このような話はどうだろうか。私がまだ若い頃に伝え聴いた古い伝承なのだが―――」 消えない痕のように黒い影となって地面へ染みてゆく水滴の行く末を見つめながら、 人生最大の難関をやり過ごす手立てを模索していたカレドヴールフだったが、 やがて、その場凌ぎの浅知恵では決して切り抜けられないという不可避の結論に達し、 意を決したように俯き加減の顔を上げた。 そうだ。逃げ道ばかりを求めるのは、理想に生きるべき自分には相応しくない。 これまでにもそうして来たように聳え立つ壁が如何に高くとも諦めず、怯まず、未来を見据えて立ち向かうのがカレドヴールフ――― 遍く破邪を成さしめる聖剣の名を冠する己が生きる道なのだ。 何にも勝る矜持を想い起こすことで己を奮い立たせたカレドヴールフは、 肺の中いっぱいに空気を吸い込むと一気呵成に雄弁を垂れ始めた。 それこそが彼女の選んだ戦いの道であった――― 「昔々、あるところに大層浮気性な亭主がおったそうな。 可愛い嫁がいると言うのに、女と来れば老いも若いも構わず甘い声をささやきかけて 夜遊びを繰り返す亭主を、町の人は“槍持ち太郎”と呼び始めた」 「………………………」 「ところが自分の亭主が町で“槍持ち太郎”と噂されていると知った嫁は、それはもうカンカンになって怒った。 いくら注意しても浮気を止めようとしない夫に我慢の限界が来ていたのかも知れない」 「………………………」 「ある日、とうとう嫁は家具から着物から何から何までを質に出してしまった。 夜遊びから帰ってきた“槍持ち太郎”は、それはもう飛び上がって驚いた。 それはそうだ。昨日まであったはずの家具も無ければ、嫁もいない。 こりゃあえらいことになったと真っ青になったそうな」 「………………………」 「そこへ嫁が帰ってきた。手には家の物を質に入れて買った新しい道具が握られていた。 槍だ。戦で使うような槍を持った嫁が、途方に暮れる“槍持ち太郎”の背中に忍び寄った」 「………………………」 「『女の敵がッ! 貴様に弄ばれた者たちの恨みを思い知れッ!!』。 そう叫びながら嫁は“槍持ち太郎”のお尻を槍でブスリ…ブスリと刺した。 嫁の槍は、それはもう深く突き刺さった。なにしろ直腸を通って頭のてっぺんにまで達していたのだから」 「………………………」 「こうして“槍持ち太郎”は、哀れ本当に槍と一緒になってしまったそうな。めでたしめでたし―――」 「………………………」 ―――ただし、雄々しかったのは声色だけで、 内容そのものは“戦いの道”などと大仰に構えるのにはあまりに滑稽な与太話なのが、 何と言うか、まるで締まらないのだが………。 「御方(おんかた)………」 「………む………?」 昔話を語るのに相応しい牧歌的なBGMを垂れ流していた室内用ミキサーを手元のデジタルウィンドゥで操作し、 無音の静寂に切り替えたカレドヴールフの指先は、痛ましいくらい震えている。 後ろに控えた従者が、隠しようの無い程の動揺を醸す彼女の背中へ控えめに問い掛けた。 「無礼を承知で伺いたいのですが、只今の伝承とは、所謂一つの笑い話の類だったのでしょうか?」 「………いささか下品であるし、子供相手には過激かも知れぬが、そのつもりだ」 「もし私の発言がお気に触ったなら、どのように折檻して頂いても構いません。 ただ………御方の只今の小話は笑いどころが一切見つかりませんでした。 と言いますか、途中から明らか猟奇殺人へシフトしていましたが」 「バカを言うな! まさか………一切か?」 「はい、一切」 「一切………?」 「一切」 「………………………」 従者から向けられた思いがけない指摘にカレドヴールフは思わずたじろいだ。 ウケるウケないはともかくとして、自分がこれまでの人生で最も衝撃を受けた笑い話を繰り出しただけに、 真っ向から全否定を出されてはどうしようもない。 たかが笑い話一つで何をオーバーにとのツッコミが聞こえて来そうだが、 一瞬、カレドヴールフは「自分のこれまでの人生とは、一体、何だったのか…」とさえ思い詰めてしまった。 懊悩に歪むカレドヴールフの表情は部屋の内装にまるで不釣合いで、彼女の周辺にだけ異様な空気を醸し出している。 ファンシーな部屋の真ん中に一人の女の子がちょこんと鎮座しており、 カレドヴールフはこの小さな子供を相手に苦悶の百面相を演じていたわけである。 「………あの、でも、一生懸命さは伝わりました、はい………」 「御方、騙されてはなりません。このような都合の良い言い草は、 バラエティ番組の素人審査員がその場凌ぎに作る愛想笑いと何ら変わるものでは無いのです。 言わば御方を傷つけぬ為の方便。上っ面のみの優しさでございます」 「………懇切丁寧な説明は、かえって他人を追い詰める。ドゥリンダナ、貴様はもう少し人間の情緒と言うものを学べ」 「これはしたり。出過ぎた真似を致しました。出過ぎついでと言ってはなんですが―――御方、ハンケチーフはこちらにございます」 「………今しがたの注意だが、“気遣い上手も時によりけり”と付け加えることで警告にランクアップさせてもらうぞ、ドゥリンダナ」 「これはまたしたり」 「………平謝りするつもりならば、せめてそのしたり顔を仕舞うのだな」 ドゥリンダナと呼ばれた従者――つまり、首魁付きの近衛隊長だ――は、カレドヴールフより発せられた警告に恐縮はしているようだが、 言うべきことは言っておかなければ主の為にもならないと考えているらしく、恭しく平伏しつつもつらつらと問題にすべき点を挙げていく。 根も葉もない言い掛かりであれば相応の怒鳴り方もあるのだが、 列挙されるのは正論ばかりで強弁を返す余地が残されておらず、これはカレドヴールフも苦しい。 結局、振り上げた拳の落としどころを見出せないままに女の子の次の言葉を待つ恰好となってしまった。 「最後まで元気いっぱいで、そこは、本当、気持ちよかったです」 「お聞きになりましたか、御方。“そこは”? “は”? これこそ御方に楯突こうとする明確な意思でございます。 御方のご厚意を足蹴にし、ついには愛想笑いまで無かったことにして幼い反意を―――」 「煩い、黙れ」 おずおずとフォローを述べてカレドヴールフを気遣う小さな女の子―――それは、ベルだった。 グリーニャ焼討ちの際にカレドヴールフの手で拉致されたベルは、 ブクブ・カキシュの一画に設けられた“座敷牢”にて幽閉されていた。 ベル自身は誘拐されてから外界で起こった出来事を――― 愛する故郷が今は跡形も無く焼け落ちてしまっていることを知らない。 家族を含めたグリーニャの生き残りが揃って佐志へ疎開していることも含めて、彼女は何も知らなかった。 幼い彼女にトラウマを残してしまわないようクラップの落命やグリーニャの瓦解は一切伏せられているのだ。 勿論、解放されたその日に誰かから伝えられるだろうし、いつまでも隠せるものでないことも理解していたが、 多少なりとも事件直後から時間を経過すれば、人の心は悲劇を冷静に受け止めるだけの落ち着きを得られる。 心療にも心得のあるコールタンとアゾットのアドバイスを採用したカレドヴールフは、 ベルの前で迂闊な発言をしないようギルガメシュの総員に徹底させた。 結果、外で起きている出来事が何一つわからないという極めて閉塞的な状況にベルは置かれることになったのである。 明るく呑気………とまでは行かないものの、故郷を失った直後であると言うのに心のダメージが然程表面に出ていないのは、 こうした措置が背景にある為だった。 並々ならない配慮を得ているとは言え、囚われの身であるのに変わりは無い。 捕虜、人質………どのように呼び方を飾ってみたとしても何の気休めにもならず、 万が一、ギルガメシュが劣勢に立たされた場合には交渉の切り札に使われるだろう。 そうなったときのことを考えると、恐くて泣き出したくなってしまうベルだったが、ネガティブなベクトルへ意識が向くことは少なかった。 ベルの為だけに設えられた“座敷牢”には、彼女を不安にさせない工夫が随所に凝らされていたからだ。 ………いや、凝らされすぎた工夫は、どう考えても“座敷牢”と呼べるモノではない。 基本的にはシチュエーションルームと同じ殺風景な内装の筈だが、今や下地は殆ど見えない。 タイルと言うタイルにベルが好むテレビ番組やアイドルグループのポスターが壁紙代わりに貼り付けられ、 デジタルウィンドゥと同じ要領で空中に表示される電子モニターからは、 これもベルの大好きな子供番組『SUPERビャンプ☆ピッチdeぽん!』が垂れ流されている。 さすがに映像は過去のライブラリーから引っ張ってきたもので新鮮味には欠けるが、 MCでお馴染みのラトクがとびきり明るい調子で登場すると暗澹たる気持ちが拭われていくから不思議だ。 “座敷牢”の中には電子モニター以外にもホゥリーやマリスが愛用する携帯ゲーム機や音楽プレイヤーが無数に用意されており、 どれから手に取って良いのか迷うほどである。 食事もベルの望んだものが用意された。 試しに名前だけは聴いたことのある高級料理の『舌平目のムニエル』とやらをリクエストしてみたところ、 どこから調達してきたのか、これまで想像の中にしか登場しなかった白身魚が本当に目の前にやって来て驚いたものだ。 尤も、リクエストこそしたものの、ハンバーグがご馳走であるお子様の舌にはとても合わない味だったが。 このように人質と呼ぶには、あまりにも贅沢の過ぎる厚遇がベルの為だけに用意されていた。 ジメジメとした牢屋が似つかわしい筈の人質に対する破格の厚遇には、 純粋無垢で悪意と言うものに敏感でないベルでさえ、何かの罠ではないかと勘繰ってしまうのだが、 大人たちはいつまで経っても恐ろしい魔手を伸ばすことは無かった。 日に何度かカレドヴールフがドゥリンダナを伴って訪れるものの、少し談話をする程度だ。 機密情報を握っているとは思えない、何の変哲も無い子供を相手に尋問しようとする者もいないだろうが、 それはそれで余計にワケがわからなくなる。 至れり尽せりの贅沢三昧でもって篭絡させても何ら得るものなど無いとわかりきっている子供を、 こうも厚遇する意味がどこにあるのか、と。 「あの………なんて言っていいのか、よくわかんないんですけど、どうしてもふしぎなことがあるんです。 ………質問………いいですか?」 「軍機の塊のような場所で、しかも人質風情が質問とは大胆不敵なことだな。 質問の内容によっては、それなりの覚悟をしてもらうことになるが、異存は無いな?」 「ドゥリンダナ、子供相手に控えよ」 「子供と雖も人質に違いはありません。ただでさえ甘やかし過ぎとの不満が副官から出ているのです。 このあたりで立場と言うものをはっきり示しておくべきかと」 「この娘の立場は、私が許し、保障するものだ。………それ以外に理由が必要と言うのか、貴様は? 分を弁えぬ讒言は忠義から叛意に翻ると知れ」 「御方………」 「最後通牒だ。控えよ、ドゥリンダナ。誰より信を置いた忠臣を失う痛手を、私に味わわせたいのか」 「………御意………」 無粋なドゥリンダナを黙らせたカレドヴールフは、口元に薄い微笑を浮かべながらベルに話を続けるよう促した。 氷魔を絵に描いたような冷たい顔立ちであるから、微笑と言っても多分に無理やり作っている趣が消せないものの、 努力の跡から彼女が誠意を持って接してくれていることが伝わり、子供をあやすかのような甘い言葉を囁かれるよりずっと信用が出来る。 エンディニオンを席巻せんと兵を進めるテロリストの首魁が浮かべるものとは思えない―――と言うよりも、 他の誰かに見られでもしたら、折角、今日まで築き上げてきた地位が崩れ去ること請け合いの珍妙な表情に 思わずベルは吹き出しそうになってしまったくらいだ。 (こう言うところ、ちょっとお兄ちゃんに似てるかも………) 他ならぬカレドヴールフから促してもらえたことでドゥリンダナのプレッシャーにも負けない勇気を得たベルは、 これまでずっと気になっていた疑問を思い切って彼女にぶつけてみることにした。 「どうして―――どうして、わたしなんかを誘拐したんですか? よくわかんないけど、カレドさんはお父さんを連れ去ろうとしてたんですよね? なのに、どうしてわたしなんかを誘拐したのかなって、どうしてもわかんなくて………」 笑いどころの見当たらない小話を弄してみたり、ドゥリンダナと漫談めいたやり取りを演じるカレドヴールフにベルは緊張を解いていたし、 少なからず親しみを抱き始めてもいた。 カレドヴールフのことを―――話にのみ聴き、写真にのみ見ていたアルフレッドの母のことを、 カッツェのかつての妻のことを、もっとたくさん知りたいという興味が手伝っての決心である。 「………………………」 しかし、カレドヴールフは何も答えてくれなかった。 投げられた問いかけを無視したのではない。答えに窮し、押し黙ることしか出来なかったのだ。 「人質なのに、こんな贅沢させてもらっちゃうし。ますます理由がわかんなくて―――」 「………………………」 問いかけが重ねられる度に複雑に歪んでゆくカレドヴールフの表情(かお)に気付けないまま、 ベルは抱いた疑念をつらつらと並べ続けていたが、向かい合っていた筈の瞳がふとした瞬間に俯き、 そこでようやく自分が立ち入ってはならない領域をも侵していたことを悟った。 『相手を傷付けるようなことは絶対に言ってはいけないよ』 ルノアリーナやフィーナに何度となく教えられてきたことを破ってしまったと反省するベルだったが、 質問責めを止めるには、ほんの少し遅かったようだ。 ギルガメシュ首魁として今やエンディニオン中に侵略者の畏怖をもって轟くカレドヴールフは、 その厳めしい雷名が嘘のように落ち込み、すっかり肩を落としていた。 額には先ほどの比ではない量の冷汗――脂汗も混じっているように見える――が噴き出している。 「………貴様………」 カレドヴールフに対して見せていた饒舌が嘘のように押し黙ったドゥリンダナは、即座に表情を掻き消し、 不意の沈黙に戸惑うベルを鋭い眼差しで睨めつけた。 彼女の装いは、子供の目には相当な恐怖を駆り立てるものである。 ベルの“座敷牢”でのみ唯一世界宣誓の誓いを忘れて鉄仮面を外すカレドヴールフに倣い、 ドゥリンダナも素顔を晒すのだが、顔面にはドス黒い包帯が幾重にも巻かれていて表情と言うものが見えない。 包帯の切れ目から覗く鉛色の瞳は死んだ魚のように一切の輝きを持たず、冷酷な殺気を滾らせている。 これがつい一分前までカレドヴールフと漫談めいたやり取りをしていた人間の瞳なのだろうか――― 僅かな感情も差さない研ぎ澄まされた殺気は、明白にベル一人へ注がれていた。 カレドヴールフを追い詰めたベル一人へ。 「ドゥリンダナ! 大人気無い真似をするものではない!」 「………………………」 「ドゥリンダナッ!!」 急に怯えを見せ始めたベルの様子から状況を察したカレドヴールフがドゥリンダナを小さく叱責するが、 部下の裡に湧き出した敵意は収まるどころか、膨張の一途を辿っている。 カレドヴールフの側近であるドゥリンダナは、我が主を崇拝するあまり、彼女を追い立てる全ての要素へ過剰なまでに反応し、 その心を乱す者は全力をもって排除せんとする悪癖を持っていた。 絶対的に忠義に篤い、と言えば聴こえは良いが、悪戯半分にちょっと不敬を覗かせただけの副官を 今日までに五人も血祭りに上げているのだから、危険としか言いようがない。 ベルに向けた殺気もそうだ。ドゥリンダナは既にベルをカレドヴールフに害成す敵と見なしていた。 このままにしておけば、ドゥリンダナは幼いベルの首へ手にかけようとするだろう。 ドゥリンダナが無言になったとき―――それは、主の敵に狙いを定めた合図だった。 「―――そうだ………そろそろブリーフィングの時間ではないか? 遅刻でもしようものなら、またアサイミーがヒステリーを起こす。 貴様とアサイミーの口論は、最早、見飽きたからな。未然に防げるなら、防ぐに越したことはない」 「御方………っ!?」 「そう言うわけだ。急で申し訳無いが、私たちはこれで失礼する。次はもっとゆるりと話そう………ベル」 危険を察したカレドヴールフは強引にドゥリンダナの腕を引っ張ると、別れの挨拶もそこそこに“座敷牢”を辞した。 ドゥリンダナより向けられた殺気に肩を震わせて怯えるベルを置き去りにして―――――― * 「出過ぎた真似はするなと言いつけておいたはずだぞ、ドゥリンダナ。主の厳命に背いた罪と、幼児を相手に威嚇行為へ走った愚かしさ。 いずれも唯一世界宣誓の闘士にあるまじき振る舞いだ。己の軽率を悔いて恥じろ」 「罰をお申し付けなら甘んじてお受けします…が、私の行為に軽率はありませんでした。胸を張って断言できます。 次に同じことが起こったときこそ、私は悪魔となりましょう」 「戦場で切るなら最良の啖呵だが、子供に向けて悪魔も何もあるものか」 「子供と言っても、敵は敵。捕虜は捕虜。処断すべきは処断すべきです。まさしく御方にも分を弁えて頂かねば困ります」 「………威圧的な物言いで飾ってはいるが、貴様は子供と変わらんぞ。 自覚しろ。菓子をねだって地団駄踏む駄々っ子といささかも変わらない」 「子供には子供の領分と縄張があるものですよ。それを侵す者に制裁を加えたとて、何ら大人の仲裁を受ける謂れはございません」 「全く減らず口ばかりを………呆れた口が塞がらんとは、今の私を指すのだろうな」 ドゥリンダナの暴走を防ぐ為に強行に“座敷牢”を退室したカレドブヴールフであったが、 叱責とは裏腹に、内心では両目を怒りに充血させる忠臣へ感謝さえ覚えていた。 主従の立場が無かったなら、ドアが閉じられるのを確認した瞬間に「助かった」と手を合わせただろう。 成り行き任せのこじつけでもってどうにかベルのもとを離れ、平静を取り繕ったものの、 実はカレドヴールフは早鐘を打つ胸の動悸を抑え込めずにいた。 『どうしてわたしをさらったりたんですか? わたしなんかさらったって意味ないのに………』 それは、グリーニャ焼討ち直後のブリーフィングでもアゾットやアサイミーに激しく問い詰められたことであった。 戦略上、征圧の必要性が全く存在しないグリーニャへ数限りある兵力を回し、そればかりか自ら槍を取って攻め入ったのは、 今後の作戦の鍵を握るであろう“ある人物”を拉致せしめるのが目的だった。 各主要都市のような防衛力を持たない山村を陥落させることなど容易であり、目標の補足も確実だと思われていた。 現にカレドヴールフはあと一歩でその人物を拘束する間際まで追い詰めていたのだ。あと少し手を伸ばせば届く距離にまで。 それなのに伸ばされた掌は直前になってその進路を変え、全く想定していなかった人物を―――ベルを拘束するに至った。 呆れられて当然であり、首魁という立場でなければその場で処断されていたに違いない。 彼女が犯したのは、紛れもない作戦無視の独断行動なのだ。 『どうしてわたしをさらったりたんですか? わたしなんかさらったって意味ないのに………』 ベルは兄に似てとても利発な子だった。 シェインに振り回される内に自然と胆力が培われたのか、普通の子であったなら狂乱するくらいに心細い状況へ置かれながら、 取り乱すことも無く出された指示には素直に従っていた。 こうした場合、下手に騒ぐと危ないと言うことも把握している様子である。 同世代の子供と比べて、やや小賢しくさえ思えてしまうような度胸と理性をベルはその幼い胸の内に備えていた。 アルフレッドの幼少期を他の誰より良く知るカレドヴールフが思わず「倅の小さい頃そっくり」と漏らすほどだから、 血は争えないと言ったところか。 それでいて自分のことよりも村の住民の安否を気遣うあたりにはフィーナの面影があるように見える。 おそらく、ルノアリーナの教育が良かったのだろう。不器用なカッツェには奥ゆかしい情操教育は向いておらず、 その結果が“親子で仏頂面”との風評に繋がったのである。 『どうしてわたしをさらったりたんですか? わたしなんかさらったって意味ないのに………』 カッツェとアルフレッド―――かつて愛し、別離に至った人々の名前が脳裏に浮かんだとき、 カレドヴールフは口の中に苦いものが広がるのを感じた。 夜天を灼いて燃え盛るグリーニャにて、決死の覚悟で父を庇うベルの姿を見つけた際に感じたのと全く同じ苦味だ。 『どうしてわたしをさらったりたんですか? わたしなんかさらったって意味ないのに………』 彼女は自分の舌に広がる苦味の正体を正しく理解し、自覚もしていた。 ………理解も自覚もしてはいたが、断じて認めるわけには行かなかった。 『どうしてわたしをさらったりたんですか? わたしなんかさらったって意味ないのに………』 ―――嫉妬だった。 あの瞬間、ベルという存在を通して自分は、ルノアリーナへ耐えることの出来ない凄まじい嫉妬を覚えたのだ。 かつて愛したカッツェを奪い、かつて愛したカッツェとの間に新たに娘をも設けた親友に。 『どうしてわたしをさらったりたんですか? わたしなんかさらったって意味ないのに………』 嫉妬の苦味は、抗い難い衝動となってカレドヴールフの心を掻き乱し、 その挙句、思考の麻痺した彼女は殆ど反射的にベル目掛けて手を伸ばしていた。 エンディニオン征圧に欠かすことが出来ないと目された男を、捕捉可能な目と鼻の先に置きながら、 カレドヴールフは嫉妬の衝動へ身を委ねてしまったのである。 至れり尽せりの厚遇は、大人の醜い嫉妬に子供を巻き込んでしまったことに対するカレドヴールフなりの償いだった。 『どうしてわたしをさらったりたんですか? わたしなんかさらったって意味ないのに………』 どうして―――どうして明かすことなど出来ようか。 心の働きが正常でなかったから判断を誤った―――そんなことは言い訳にもならず、むしろ恥の上塗りでしかない。 結局、アゾットらの詰問は首魁権限で握り潰したのだが、それ以来、部下との間に不穏なしこりを残してしまった。 しこりを抱えたのは、何も部下との関係性だけではない。自らの心中にも大きなしこりを作ってしまった。 とうの昔に捨てたはずの“女”を己の最も深い部分に見つけ、その上、最も低俗で醜いと卑下してきた嫉妬を演じてしまった事実は、 自己嫌悪と言う名のしこりを彼女の心中に隆起させ、その患部より狂わんばかりの痛みを発して止まらなかった。 昼夜問わず襲い掛かる痛みへ立ち止まりそうになる度、カレドヴールフは、どうしようもない後悔に苛まれる。 『女心ってのは複雑なんだろ』 目標の人物を無視し、ベル誘拐へ迷走した彼女の行動についてフラガラッハは冷やかすようにそう哄笑(わら)い、 そんな単純な問題ではないとする周囲を白けさせていたが、彼の皮肉は何よりも的確にカレドヴールフの胸を貫くものである。 あるいはフラガラッハは、他の誰もが見抜けなかったカレドヴールフの真意へただ一人勘付き、 あえて彼女に最も打撃を与えられる皮肉を飛ばしたのかも知れない。 「………他ならぬあれならば、私の心を読めるのかも知れないな………」 「―――? 何か、仰いましたか?」 「気にするな。………お前の処罰を考えていただけだ」 「それはそれは―――お手柔らかにお願いします。御方より賜った御恩へ報いるまでは、死んでも死にきれませんから」 「そう思うなら寿命を縮めるような軽率な発言は修正するのだな………」 軽口めいたドゥリンダナとのやり取りさえも、普段なら叱声の一つでも飛ばしてやるところだが、 このときばかりは乱れた心を鎮めるまでのインターバルのようで心地良かった。 決して開けるわけに行かない秘密の扉へ鍵をかけるには、この無礼な部下との時間は何より望ましいものだった。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |