9.HIGH KICKS



 ハーヴェスト・コールレイン―――
エンディニオンにその名を馳せる女流冒険家にして“セイヴァーギア”の二つ名で知られる正義の味方である。
 正義感の塊とも言うべき気性はいつ如何なるときでも真っ直ぐで、その信条も「弱きを助け、悪しきを挫く」と単純明快にして公明正大。
 太陽のように熱い正義感が高ずるあまり、ときとして融通が利かない一面も見せるものの、
正しい道を尊ぶ勧善懲悪の生き方はフィーナを始めとする多くの人間に影響を与え、
今日(こんにち)のエンディニオンにおいて、フェイと並んで正義の主導者と称えられている。

 歴史上、彼女が名実両面で台頭するのは、土地を巡る領主間の争いを成敗――仲裁でなく成敗だ――した『アープ牧場の決斗』だが、
そこへ至るまでの前歴を知る者は実は少ない。
 並々ならぬ影響を受け、彼女を「お姉様」とまで慕うフィーナとて、
顔を合わせる度に心穏やかでいられないハーヴェストとローガンの口論から拾い上げた断片的な情報を整理して飲み込むまで、
彼女の歩んできた道を知らなかったのだ。ハーヴェストが、どんな想いで正義の杖『ムーラン・ルージュ』を振るっていたのかも、
フィーナはそこで初めて知った。


 ローガンが得意とする秘術『ホウライ』は、そもそもコールレイン家の編み出した闘法の奥義であった。
 コールレイン家の一人娘であるハーヴェストも当然の如く正統後継者の第一候補と目され、
幼い頃より血の滲むような努力と訓練を積んできた。
 このように言い表すと、さながら一子相伝の奥義のような印象を与えるホウライであるが、
闘法そのものは広く一般にも門戸を開いており、才能ある者はコールレイン家の血統でなくとも
ホウライの奥義へ達することが出来る―――ハーヴェストの幼馴染みであるローガンもその一人だった。

 ホウライとは、トラウムを具現化させるのに必要な『ヴィトゲンシュタイン粒子』を物質ではなく純粋エネルギーに変換し、
一種の気功術のように転用する秘術である。
 単に肉体のみを鍛え上げれば身に付くと言うものではなく、ヴィトゲンシュタイン粒子の気流を知覚し、
純粋エネルギー転換へとコントロールさせ得るだけの精神面の熟達も必要とされた。

 豪放磊落な見た目とは裏腹に、エネルギーの流れの微妙な動きまで感知する感覚神経や、
何事にも動じず、決して集中を崩さない精神力に抜群の素養を潜在させていたローガンは他の習熟者を大きく突き放して頭角を現し、
ホウライの始祖――ハーヴェストの父である――直々に稽古をつけられるまでに飛躍した。
 その先の成長も著しく、ホウライ会得から一年足らずの内に先代相手に一本取るまでに闘法を極め、
ついにはコールレイン家の血統でないにも関わらず正統後継権第二位へ列せられた。

 才能は必ずしも血筋によって遺伝されるものではないが、
それまで宗家たるコールレインの者が独占してきた後継者候補に血統以外の人間が列せられるのは異例中の異例であり、
ローガンの第二位後継権取得は、当時、驚天動地をもって門下生らに迎えられた。
 このような事態に際しては、大抵の場合、口汚い異論が叫ばれるのが通例なのだが、誰一人としてこの決定に眉を顰めるものはなく、
むしろローガンの大躍進を祝福し、「他ならぬ彼ならば安心して闘法の継承を委ねられる」と道場の幹部会―――
つまり、コールレイン家の人々も満場一致で拍手を送った。
 異例に次ぐ異例の後継権第二位指名が万雷の拍手をもって円満に閉幕したのは、才能をひけらかすような真似をせず、
輝かしい実績を威張らず、先代に目をかけられていることに自惚れでなく感謝を持って稽古へ励んだローガンの人柄あってこそだと言える。

 しかし、「他ならぬ彼ならば安心して闘法の継承を委ねられる」と親族に言われてしまっては、
第一位の正統後継権を有するハーヴェストは立つ瀬が無い。

『………誰よりも努力を積み、修練を重ねてきたと言うのに、それでは自分は一体何者なのだ………』

 当時、思春期真っ只中にあったハーヴェストの胸には、ローガンにのみ向けられる羨望の声は、
焦りを急き立てるものであるのと同時に自分に対する嘲笑でしかなかった。
 歳を経てから振り返ると子供だったと恥ずかしくなるのだが、
思春期らしい迷いに取り憑かれていたハーヴェストは他意の介在などお構い無しにネガティブな葛藤を膨張させてしまい、
葛藤はやがてコンプレックスに形を変えて研ぎ澄まされ、常に自分の一歩先を進むローガンの背中へ突き立てられるようになっていく。

 悪いことに限って重なるもので、焦りばかりが先に立つハーヴェストはホウライ発動の要とも言うべき精神力を欠くようになり、
ヴィトゲンシュタイン粒子のエネルギー転換さえまともに完成させられないまでに追い詰められてしまった。

 血統以外の人間であっても奥義を授け、習熟者には正統後継権をも与えるコールレイン家の公平な気風は、
裏を返せば身内であってもその資格無しと見なせば容赦無く切り捨てる冷徹を帯びている。
 ホウライの完成に失敗した数時間後には、ハーヴェストは正統後継者としての権利を剥奪され、
一介の門下生へと降格させられた。
 その断を下したのは、誰もが娘を擁護すると予想していた父である。
 父にしてみれば、挫折をバネにすることへ期した厳しくも愛情に満ちた親心だったのかも知れないが、
思春期のハーヴェストが受け止めるには、その決断はあまりにも重過ぎた。

 これまでの人生を全て…全て否定されたような絶望感に苛まれたハーヴェストの心の中で、
長年、ローガンやコールレイン家に抱いてきた葛藤とホウライへの希望が弾けたのはその瞬間(とき)だった。

 家伝のものであるからと固執してきたホウライを捨て、思うが侭に生きてみよう―――
ある種の呪縛と化していた鎖を自らの手で引き千切ったハーヴェストは、ホウライと訣別し、
女流冒険家として狭い道場より広い世界へ飛び出すことを決めたのだ。
 ホウライを持つ自分には必要無いモノとして、これまで見向きもしなかったトラウムを相棒にして。


 ようやく思春期を抜け出した頃合の少女が下すにはあまりにも危険を伴う決断だったし、
誰よりも理解を示し、旅立ちを後押ししてくれたのがローガンだという点が、いささか引っ掛かるものの、
今日の躍進を見れば、あの日の訣別と旅立ちは間違いでなかったとハーヴェストは胸を張って言える。
 縛鎖から解放されて得たトラウム、ムーラン・ルージュは、それまでどんなに願っても叶うことのなかった夢を、
無法の飛び交う荒野に正義の道を拓くという決意を実現させてくれるものだった。
 もしも、あの日、決断を渋ってホウライにしがみ付いていたとしたら、きっとこの夢を叶えることは出来なかっただろう。
自分の選んだ道は正解だった―――と、故郷で一人娘の安全を願い続ける両親へ宛てる手紙に
ハーヴェストは毎回必ずその一節を添えている。


 時折…本当に時折だが、今ではすっかり乗り越えたローガンへのやっかみが角を出し、
彼限定の口の悪さとなって飛び出してしまうものの、かつて極められないまま挫折したホウライへのコンプレックスを、
ハーヴェストは既にアルバムの中へ仕舞えるようになっていた。
 ムーラン・ルージュを相棒に経験と年月を重ねる中で、醜く弾けた葛藤も、拘り続けた苦しみも、
過去の想い出と整理できるようになっていた。

 ハーヴェストにとってホウライは、最早、過去の遺物だった―――ハズなのだが………、

「………自分の才能の無さを、こうやって見せ付けられるのは、あまり気分が良いもんじゃないわね」

目の前に眺望される光景には、既に捨てたと思ったコンプレックスを大いに刺激されてしまい、
ハーヴェストは何とも言えない苦笑いを噛み殺した。

「なんや、火力が弱まっとるんやないか? 情けないのぉ、これっぱかでもうバテよるんかいッ!
景気のええ花火ィ上げやッ!! ホウライの名が泣くでェッ!!」
「そう言うお前はどうなんだ。出し惜しむつもりか? それとも、出したくても出せないのか? 
先ほどから光球の数が減っている気がするがな」
「なまっちょろい気功波しか出せんようなヒヨッコが抜かすんやないわ、ボケェッ!!」
「先達を気取るなら、そのなまっちょろい気功波くらい消し飛ばしてみせろ。今のお前に、それだけの気力が残っているのか?」
「ホンマ………可愛げの無いクソジャリやぁッ!!」

 ハーヴェストが眺めているのは、生い茂る草木を揺るがすかのような大音声を上げながら激しく交錯する二つの影―――
互いの拳をぶつけ合うアルフレッドとローガンの姿だった。
 三人の姿は、佐志郊外に位置する広大なオノコロ原――群狼夜戦の合戦場である――に在った。

 アルフレッドとローガンが何をしているかなどは今更問うまでもなく、先日来より伝授の開始されているホウライのトレーニングである。
 ………と言っても、ハーヴェストをして「稽古? 取っ組み合いの喧嘩じゃない」と呆れさせたように
基礎知識から段階を踏みつつ手取り足取り教える世間一般的なトレーニングとはあまりにもかけ離れている。

「ほれ見ィッ!! イケイケはどっちで、バテバテはどっちなのか、もうバレたやんけッ!
なんや、今の? 肘鉄砲のつもりかいな? 豆鉄砲にもなっとらんでッ!! 
アイディアはええが、ホウライのアレンジなんぞ、お前にゃ百億万年早いわッ!!」
「………多少の自信はあったんだがな。まさか、ホウライをホウライで相殺する防御法があるとは思わなかった。
だが、この不覚を次の失敗へ連鎖させるような真似はしない。次は破る………ッ!!」
「吐いた唾飲まんとけやァッ!! ホウライっちゅーんは―――こうやって使うんやァッ!!」
「今まででは巨大なほうだが、当たらなければ意味が無い。お前はもう少し小回りを考えて攻め手を練るべきだな」
「るっさいわッ!! 会心の一撃が入っとらんのは、お互い様やッ!! 大口叩いとる間に隙をつかれたって知らへんでぇッ!!」
「確かにな。………ホウライをいかに直撃させるか、それを課題にするとしよう」

 トレーニングの舞台にされたオノコロ原の高野は、相次いで轟く炸裂音によって心休まる間も無く揺さぶられ、
それ以上に音量を大とする二色の怒号は空と鳥とを脅かした。
 空を震撼させる大音声の殆どが、拳を、脚を繰り出す際に発せられる短い呼気や裂帛の気合いなのだが、
怒号の内容へよくよく耳をすませば、辛うじて会話になっているのがわかった。
 会話として成立しているのが不思議なくらい荒っぽいやり取りではあるが、
詰めの甘さや失敗を糾弾する叱責とそれに応じて改善を図る返事とが交互に飛び交っている。
 口に唾して叱声を飛ばすのはローガンで、乱暴な返答と対照的に指摘へ素直に従うのはアルフレッドだ。

「なッ―――くッ………!?」
「言うたハナから、もうコレやッ!! 前にも言うたハズやろッ!!ホウライっちゅーんは、変幻自在の武闘やってなぁッ!!
ただバカスカ気弾を放っとるんやないッ!! ハートで操るッ!! これやッ!! これが理解できとったら、誘導弾で狙い撃ちするのもワケないでッ!!」
「念ずるままにエネルギー弾の軌道を変えるか………これほどまでに虚を突く技では、破る手立ても思いつかないな」
「まーだわかっとらんのか!? ホウライ使いと見習いの間にゃ、血のションベン出し尽くしても、まだ足らんごっつい隔たりがあるんやッ!! 
お前さんお得意の知恵比べでも埋まらん溝っちゅーやっちゃッ!!」
「不本意ながら、お前の説く精神論を少しだが、理解してきているよ。………お堅い理屈では、ホウライを物には出来ないようだ」
「理屈だの精神論だの並べる時点でダメやっちゅーねんッ!! 考えるんやないッ!! 感じるんやッ!! 五感でッ!! 肉体でッ!!! 魂のビートでッ!!!! 
ホウライに感じて、ホウライに酔ってまえッ!!!!!」

 アルフレッドに請われたローガンがホウライの伝授を始めて以来、二人は夜を昼に継いで模擬戦を繰り返していた。
 自分で使う分には自由自在に操ることのできるホウライだが、人へ教えるとなるとどうにも言葉が足らず、
要領を得なくなってしまうローガンが模擬戦中心のトレーニングメニューをアルフレッドに提案した結果、この荒修行に繋がったのだ。
 ローガンの言い分では、ヴィトゲンシュタイン粒子の感知やエネルギーの気流は理屈で考えても決して理解できるものではなく、
全身で感じ取れるようにならなくては意味が無いとのことだったが、
要は「口で教えるのが面倒くさいから、自分の身で味わってコツを掴め」と言う訳だ。
 アバウトと言うか、何と言うか―――ハーヴェストが呆れるもの無理からぬ話だった

 一日でも早いホウライの体得を望むアルフレッドも「身体で覚えたほうが、マスターするのも早い」と吹聴するローガンに乗り、
ホウライのトレーニングは、いよいよ格闘の域へ入った次第である。
 しかもヴィトゲンシュタイン粒子をエネルギーへ転換する基礎知識すら教わっていないアルフレッドに対して
情け容赦なくホウライの技を叩き込むなど、ローガンのトレーニングは泣く子も黙る鬼のスパルタ。
 コツを掴む前に身体がバラバラになるのではないかと仲間たちが不安に思うくらい、
アルフレッドは毎日ボロ雑巾のように負傷して宿舎へ戻ってきていた。
 “宿舎へ戻る”と言っても、するべきことは一日一時間半程度の仮眠と、
適度な栄養補給――座ってゆっくり食事ではなく、栄養ゼリーを飲み干すだけ――のただ二点であり、
軍議に費やす以外の殆どの時間をオノコロ原で過ごしている。
 今のアルフレッドにとって、食事も睡眠も、ホウライのトレーニングや作戦立案の効率的に実行する為の“作業”でしかなかった。

 余人には知れないことであるが―――水平線の彼方に向かってミサイルを連発し、破壊衝動に酔い痴れる撫子を目の当たりにして以来、
アルフレッドの“作業”は確実に過酷さを増していた。
 トレーニングに於いても、作戦立案に於いても、更なる成果を求めるあまり、自分の身心を進んで痛めつけるようにしか見えないのだ。

 本人はそれでも平気だろうが、フィーナやマリスは気が気ではない。
一日二十二時間を模擬戦と作戦会議に割り当て、満足な休息も摂らずに肉体の限界へ挑戦し続けるアルフレッドを、
ときには栄養摂取の最中にも疲労で卒倒しそうになる彼を、どうして黙って見ていられるものか。

「いくらなんでも無理し過ぎだよっ。本当にボロボロじゃないっ! 
ねえ、一日くらい休もう? 半日でもいいから、お願い、休んでっ! 強くなる前に死んじゃうよっ!」
「止めても無駄だとわかっていても、それでも引き止めるのが女と言うものです。
でも、せめて………せめて、治療を、『リインカネーション』を受け入れてください。わたくしなら、アルちゃんを癒して差し上げられます」

 ローガンの了承を得て何度か休息を勧めはしたのだが、返って来る答えは毎回同じ。
「煩い、黙れ」の二言で一蹴され、聴く耳を持って貰えない二人の少女は、
ボロ雑巾になっても戦い続ける恋人の無事をただただ祈ることしか出来なかった。

「おう、コラッ!! せっかく助言を放ってやっとるっちゅーのに、聴く気が無いなら、もう仕舞いにするで。
なんべん言わせりゃ気が済むんや? 下手なアレンジ加える前に基礎を固めんかいッ!!」
「基礎は固める。だが、それは俺なりの基礎だ。俺の戦い方にフィットした基礎でなければ、それこそ学ぶ意味が無い」
「ホウライは駄目でも、減らず口叩くのばっか上手くなっとんなぁ、ええ? 
師匠が基礎固めぇ言うとんのに、そんなん聴かんで、手前ェの道を行くやと? 
上等や、コラッ!! 破門なんぞ生温いわ! 卒業証書の代わりにここで引導くれたらぁッ!! 
―――ちなみに、足元でホウライ爆破さしてスピードアップっちゅー工夫はナイスッ!!」
「叱るか、誉めるか、どっちなんだよ………」

 もれなく蹴りやら拳やらが付帯されるものの、一応、アドバイスらしき声もかけられるのだから、
ぎりぎりトレーニングとしての体裁は保たれていると言える。
 昨今、根性主導の荒稽古やスパルタ教育は眉を顰められる向きにあるが、
人語半分肉体言語半分の荒っぽいローガン流のアドバイスは、そうした潮流を吹き飛ばし、
ナンセンスと頬を掻くハーヴェストの予想を大幅に裏切る成果を出していた。

「誉めるとこは誉めるけど、締めるとこは締めなあかんねん。ワイかて、形式を押し付けたくて基礎にこだわっとるんやないで? 
気の流れを理解するコツが基礎ん中に含まれとるんや。せやから、口をすっぱくしてやなぁ〜」
「教えを請う身でそこまで教授を蔑ろにする気は無いさ。例えば、こう言う風に―――なッ!!」
「どわったたた―――このジャリッ!! 早撃ちで誘導弾かましてくるたぁ、どないな神経しとんねん! 
トーシロやったら、ドタマ、吹っ飛んどったでッ!! ワイの情けない悲鳴を返せやッ!!」
「どうやったら返せるんだ、そんなもの」
「ちゅーか、誘導弾なんぞいつからマスターしとったんや? 根性腐っとるのは知っとったけんど、にしても人が悪いにも程があるで」
「“気の流れ”と古典的な表現をされたから、噛み砕くのに時間がかかったが、
要はエネルギーのベクトルだろう? エネルギーがどこへ向かうのかさえ理解できれば、軌道を曲げることくらい造作も無いな」
「………かァ〜〜〜ッ! 小ニクいやっちゃな、ホンマッ!!
基礎はもうバッチシ言うことかい! どんだけナマイキやねんなッ!! 
予想を越える成長率が、師匠的には、嬉しいやら、腹立たしいやら、寂しいやらッ!! 
なんやねんな、この不思議な感情!! まさか、これがときめき!? 恋に落ちる予感っちゅーヤツか!?」
「………断片的にしか意味がわからなかったが、とりあえず気持ち悪く身悶えるのはやめてくれ」

 数週間で千回以上も重ねた模擬戦の末、多分に荒削りではあるものの、アルフレッドはホウライを自分の物にしつつあった。
稽古を開始して僅かな時間で、だ。
 拳法寄りの体術に長じていただけあって“力の働き”を感知するセンスもあり、
ホウライを学ぶにあたっての下地は整っていたのかも知れない。

 ローガンの提唱した通りに身をもってホウライを叩き込まれた甲斐があったと言うべきか、
ヴィトゲンシュタイン粒子のエネルギー変換から実際に攻撃へ転用するまでの一連の技法を驚異的なスピードで体得したアルフレッドは、
その蒼白いスパークをローガン流の闘法のみに留まらず、自分なりにアレンジして使えるまでになっていた。
 エネルギーを弾丸さながらに圧縮・凝縮し、これを投擲する戦い方に攻めの主軸を置くローガン流からやや離れたアルフレッドは、
ホウライを纏うことによって身体強化を図る闘法を考案し、今はその確立へ全力を注いでいる。

 基礎とコツを体得するなりアレンジを思いつくまでの急成長を見せたアルフレッドではあるが、
その全てを理解し、極めるに至ったわけではない。
 通常以上に体力を消耗するホウライと、やはり体力の消耗が激しいアルフレッドの体術とは相性がすこぶる悪く、
ちょっとでも気を抜くと一瞬にして意識もろとも余力を根こそぎ喰われてしまうほどだった。
 無論、体術とホウライが合わさったときの爆発力は筆舌に尽くし難いものがあり、
激しい燃費に見合うだけの戦闘力強化は十二分に見込める。
 長期戦に耐えられるよう出力をセーブしていくべきか、短期決戦と決め込んで一瞬の爆発力を取るべきか。
アルフレッド流の闘法は、まだまだ改良の余地が広く残されていた。
今はまだ長期戦と短期決戦の一方を選ぶことしか出来ず、どちらに主眼を置くべきかと調整を進めているものの、
いずれは双方を極めるだろう。

 あるいはローガンですら到達し得なかった更なる高みにまで登り詰めるのかも知れない―――
類稀なるセンスを秘めたアルフレッドには、それを期待させる煌きがあった。

(………誘導弾どころか、野球ボール台の気弾一つ操れなかったアタシとは才能からして違うのかしらね………)

 何年もの間、袋小路に迷い込んで懊悩し、ついには挫折してしまったハーヴェストにとって、
いくら下地が出来ていたとは言え、半年にも満たない内にかつての自分を乗り越えられてしまうのは複雑なものがある。
 すっかり吹っ切れたと思ったんだけど………と、彼がホウライの輝きを身に纏う度に
ハーヴェストの唇から何とも言えない溜め息が滑り落ちた。

「例えば、こんな具合のアレンジも利くようになったぞ―――」
「え? なんやねん? ワイの身体をよっこらしょっと担ぎ上げて? 
背中を肩口でえび反り―――って、ちょッ、ちょッ、ちょー、待てッ!! なんのつもりやねんッ!?」
「スペクトラルアルゼンチンバックブリーカー。新技のつもりだ」
「技の名前を聴いとるんとちゃうわッ! つか、ゴテっとしたネーミングセンスやな、自分ンんッ!?」
「肩口は背中と密着する面をホウライで包括して硬化、四肢を掴む両腕をホウライで筋力強化。
組み伏せるまでが大変だが、力学的にもなかなか理に適っていて強力だと思うぞ」
「腰ッ! 腰ィーッ!! もうええっちゅうねんッ!! もうええから下ろしたってやぁーッ!! 
むしろ、主人公の技か、コレェーッ!? 地味ィってぇッ!! 見た目地味で、しかも、ダメージも地味ィーッ!!」
「何だよ、主人公って………」

 ホウライの体得はもちろんのこと、繰り返される模擬戦は思わぬ副産物をアルフレッドへもたらした。
 アルフレッドが操る体術は、流れるような動きで繰り出される連続技に真髄があり、
それ自体は強烈かつ流麗であるのだが、型に嵌り過ぎるあまり、柔軟性の面で損をしていた。
 動きの一つひとつが教科書寄りになってしまい、“遊び”が無かったのだ。

 これは剛腕を地で行くラフファイトのローガンと正反対だ。
 ところが、模擬戦を繰り返す中でホウライのみに留まらず、“型に嵌らない”ラフファイトも吸収したのだろうか、
ここ数日、アルフレッドの体さばきに変化の兆候が現れ出した。
 これまでの“優等生的な技法”の合間へ体ごとぶつかるタックルやヘッドバットと言ったローガン得意の喧嘩殺法が
混ざり始めているのである。
 基本の型から外れることに慣れていないのか、野生じみたラフファイトは遠慮がちに試みられ、いずれも拙い。
 ローガンが相手の衣服を掴み上げ、強引に体勢を崩してしまうところを、アルフレッドは力の加減を測りながら恐る恐る手を伸ばしていた。
 まるで反省文も書いたことのない秀才が好奇心から悪さへ冒険している―――そんな趣だった。

「よし、では、次の技だ。これも強化系の延長だな。筋力強化も含めて、肘関節からホウライをジェットの要領で噴射―――」
「どわたぁッ!? おいッ!? なんで新技の実験台にされなあかんねん、ワイッ!? 
バックドロップさせぇ言うから何事かと思えば、一体、何の真似やねんなッ!? 
ほんで、その要求を呑んじゃう、ワイもワイで何やねんと思うけどッ!!」
「バックドロップじゃない、ジャーマンスープレックスだ。そして、ここから本番―――」
「あだだだだだだだだだッ!! ドタマッ!! ドタマが地面にめり込むッ!! 埋まってまうッ!! 
肘関節のあたりでホウライ炸裂って、こーゆー仕掛けかッ!!」
「ジャーマンスープレックスホールドのアレンジだ。ケロさんに手ほどきを受けた技を俺なりにアレンジしてみたんだ」
「せやから、なんでそない地味技ばっかやねんッ!! いや、地味でえーけど、腰狙いはやめぇッ!!
腰ばっか狙うんやないッ! ………ホンマ、勘弁してください、腰が砕けてまうんで」

 良い子がワルいことを覚えると“色々”早いように、一旦箍が外れてからは、アルフレッドもなかなか好き放題にやっているようだ。

 攻め方に変化が現れたのは、彼と拳を交えるローガンにしても同じことで、
武術と呼ぶにはあまりに乱暴なラフファイトの身のこなしが、少しずつ洗練されたものに整いつつあった。
 一撃必殺を信条に大技勝負へ頼り切っていたローガンがフェイントや小技を織り交ぜる様子は、
彼の豪放な気性を良く知るハーヴェストを仰天させたものである。
 アルフレッドも、ローガンも、一週間の内に攻撃のバリエーションが大幅に増えていた。

 互いの足りない部分を教え合い、磨き合うことが目的の一つに加わってからと言うもの、二人のトレーニングは更なる熱を帯び、
ホウライを会得したいのか、ただ拳を交えたいのか、目的が分からなくなるような凄まじい肉弾戦が続いている。
 もっと強くなりたい。今の自分を超える高みへ手を伸ばしたい―――
男が男である為の原始的な渇望にいつしか二人の意識は憑依されていった。

 このような光景を見せられながら「呆れてやるな」と強いられたなら、ハーヴェストには怒鳴り返すだけの権利が許されることだろう。
 強くなることがそんなに嬉しいのか、二人の面には、見る者が怖気を抱くような愉悦が張り付いていた。


「―――タンマ、タンマ。ちと休憩挟もう。お前は良くてもワイの体力が保たんわ。つーか、腰が保たんで」

 ………とは言え、愉悦と体力が必ずしも合致するとは限らない。
 欲しくてたまらなかった玩具を買い与えられた子供が遊びへ夢中になるあまり、
精も根も尽き果ててバタンキューと意識を飛ばしてしまうように、
ローガンも知らない内に体力が底を尽きかけ、このままでは危ないと慌てて休憩を提案した。

 俗に“ランナーズ・ハイ”、“クライマーズ・ハイ”と呼ばれる精神昂揚状態へ陥るのは、
冷静さを求められる実戦において、それほど誉められたことではない。
 「休むべきは休む」と言う頭の切り替えを普段から心得ていないと、
実戦においても「守るべきときに守る」との攻守の判断が鈍ってしまうのだ。
 ダメージや疲労を忘れさせる麻薬のような昂揚に身を委ねた人間は、必ずと言って良いほど修羅の墓標に埋没するのである。

「これくらいでだらしないぞ、まだ三十代前半だろ。………おい、本当に座り込むなよ。立て………!」

 汗だくでへたり込んだローガンのゲッソリとした表情と対照的にアルフレッドはモチベーションを高く維持している。
 ダメージも疲労も構わない。強くなりたくて…闘いたくて仕方が無いんだ―――
つまりアルフレッドは、ローガンが眉を顰める麻薬めいた昂揚に飲み込まれているわけだ。

 自分以上に発汗し、荒い息を吐きながらも疲労の片鱗さえ見せないアルフレッドへローガンはタオルとスポーツ飲料を放り投げ、
とにもかくにも水分補給をしておくよう言いつけた。

「十代後半と三十代前半の間にゃ、だだっ広い隔たりがあるんや。主に体力的な面で。
スタミナ不足と言われりゃそれまでやけど、こればっかりはどうもならんねん」
「………不甲斐ないクソジジィめ」
「言うとれ、天井知らずのジャリタレめ」
「………わかった。十五分だけ休憩だ。十五分ジャストで再開するぞ」
「どーでもえーけど、なんでお前が決めんねん。それもごっつ偉そうに。
こーゆー場合、お師さんにお伺いを立てるっちゅーんがスジや無いんか?」
「十五分では長いか。………よし、九分だ。九分だけ待ってやるからな」
「お師さんの意向は全無視かッ! ほんでなんで九分やねんッ! 理由がわからんッ! 十分やのうて九分にする理由がわからへんッ!!」

 言いたい放題の強引な態度へ露骨に辟易して見せることでやり返そうとしたローガンだったが、
アルフレッドは言うだけ言うとスポーツ飲料のボトルを地べたに腰掛けた彼の目の前へ放り捨て、
さっさと自主トレーニングへ向かっていってしまった。
 ローガンの反撃など最初から眼中に入っていなかった。

 休憩時間さえも惜しいとばかりに最低限の水分補給しか余暇を持たないアルフレッドにローガンは思わず「若いってええなぁ」と漏らすが、
生き急ぐかのような彼のトレーニングは決して喜ばしいものではなく、感心の嘆息はすぐに当惑の溜め息へ変わった。

「強くなりたいと願うのは、戦士には付き物の願望だけど、強くなるって言うよりも復讐を促しているようにしか見えないわね」
「ハーヴ………」

 少し離れた位置で模擬戦を傍観していたハーヴェストからも最大の懸念を指摘されたローガンは、最早、肩を竦めるばかりだ。

「一事が万事、あんな調子やからな、ダチの心配したくなるのもわかるけど、ワイかてアルに暴力を教えとるわけやないで」
「………………………」
「“何も言ってないうちから答えるな”ってか? 水臭いこと、言いなや。ワイらに言葉なんかいらへんやろ。
なんたってツーカーの仲―――おごほぉッ!?」
「………まさか、口説いているつもりじゃないでしょうね、この筋肉ダルマ。
今度、そんな気色悪いことを言ったら、洒落じゃ済まされない場所にお仕置きするわよ」
「も、も、もうしとるやんけ………洒落ならん、洒落ならん、洒落ならん………」

 何も言わないうちにハーヴェストは繰ろうとした言葉の全てをローガンに見透かされてしまった。
腐れ縁で付き合いが長いだけあって、顔色一つで言いたいことも看破されてしまうらしい。
 そのことが何故だか無性に癪に触ったハーヴェストは、わざと不貞腐れた言い方で罵声を言い放ち、
それから急に真面目な表情で彼に向き直った。
 ………洒落では済まされない場所を強打し、盛大に悶絶させたローガンに。

「ホウライ―――」
「ん、んん?」
「―――ヴィトゲンシュタイン粒子を直接攻撃力に換えるホウライは、極限的な集中力を必要とする武術の奥義よね。
………集中力なくして成り立たないその奥義を、いい歳して落ち着きのないあんたが極めたこと自体、あたしには不思議でしょうがないわ」
「よう否定でけへんけど、そこは子供の心を持ち続けるカワいいオッサンちゅーことでキレーにまとめといてや。
ハーヴの言い方やと、ワイ、完全無欠のダメオヤジやんけ。………はて? 完全無欠やのにダメダメとは、これいかに?」
「精神鍛錬を通じて彼を落ち着かせようって考えは賛成するわ。でも、ホウライは決してメンタルケアの体操なんかじゃない。
もっと、こう………心の奥底に触れるような技術でしょう? 扱い方を間違えたら、今よりもっと悪い状況に陥る可能性もあるのよ。
殺戮の技術を得た。俺は誰だって壊せる―――そんな風になってしまったら最悪よ」
「………ボケをマジで返すんは反則やで」
「でも、真実でしょ?」
「ま、な」

 ハーヴェストもローガンの真意を見抜いていた。
 自分の考えを彼女に悟って貰えたのが嬉しかったのか、「な、ツーカーな仲やろ?」と満面の笑みを浮かべるローガンから、
ハーヴェストは思わず顔を背けた。

 これがアルフレッドやフィーナであったら、“ツーカーの仲”に端を発するやり取りにもう少し色っぽい話題が咲くのかも知れないが、
ハーヴェストの場合、ローガンにこう言う言い方をされると背筋に悪寒が走るのだ。
 彼の言う通り、腐れ縁で付き合いも長く、口論の多さと裏腹に実際は仲が悪くも無いものの、
“男女”の雰囲気になるようなものをハーヴェストは生理的に嫌悪していた。
 「過去に想い合っていたけれど、ある事情から引き裂かれてしまい、結果、疎遠になっている」と言った具合の、
ラブコメファン好みなバックボーンがあれば、ハーヴェストの嫌悪感にも説得力が生まれるのだが、
残念ながら二人の間に男女の関係が結ばれていた事実は一切存在しない。
 理由無き嫌悪感を抱くのは、いくら相手がローガンであっても流石に申し訳なく思うが、こればかりはどうしようもない。
 ローガンもローガンでハーヴェストが心の底へ住まわす嫌悪感をちゃんと察しており、
彼女が本気で嫌がるような素振を見せたら、すぐに話題を切り上げてくれる。
 この辺りは、やはりツーカーの仲が成せる技と言えよう。

 同じ幼馴染みでも、同じツーカーの仲でも、ローガンとハーヴェストの関係は、実に微妙なもののようだ。

「………極めたあんたにはわからないでしょうけど、ホウライは人を狂わせるわよ」
「普通、そーゆー台詞は極めたもんが言うんやないけ? いや、ワイはまだまだ道の途中やと思うとるけど」
「極めた人間だから、わからないのよ」

 蒼白い燐光の深淵にホウライが宿す仄闇は、術者の心にまで深い根を張り巡らせ、
やがては魂もろとも食い潰すものような恐ろしいものである。
 ホウライによって心を疲弊させた者は、いずれも必ず仄闇の根に魂魄を絡め取られる。
心技体の自由を奪われた先には、ただただ常闇が待つのみだった。
 それは、ローガンのように奥義を極めた者にはわからないとハーヴェストは思っている。
自分のようにホウライでもって絶望を知った者にしか、あの輝きの向こう側はわからない、と。
 自分の心が蝕まれる仄闇の根は、栄光が約束された者には絶対に寄り付かないのだ。
 いやらしくも弱い者を目敏く見つけて舌なめずりする習性を持っているのが仄闇の根であった。

「………もしかして、まだ昔のこと………」
「昔のことを今でも気に病んでるって言いたいわけ? はんッ―――軽く見ないで欲しいわね。
………全部を吹っ切れたって自信は、アルのせいで崩れたけど、だからって、同じ場所で立ち止まっているわけじゃないのよ」
「―――みたいやな。ワイも歳食ったんかな、最近、どえらく取り越し苦労が増えた気ィがするで」
「取り越し苦労で済むならまだ良いほうだわ。私がアルのことで心配しているのは、取り越し苦労じゃなくて確信よ。
………昏い動機でホウライを学ぼうなんて、危なっかしくて見ていられないのよ、私」
「………………………」
「そんな状態でホウライを得てしまっても不幸になるだけじゃない。
アルも、フィーも、みんなも………みんなを簡単に不幸にしてしまうのがホウライなのよ」

 復讐に心力を滾らせ、人としての魂魄が弱まりつつあるアルフレッドが仄闇の根の餌食にならない保障はどこにも無い―――
と言うよりも、埋め火程度に弱々しく灯った小さな揺らぎの一片まで喰い散らかされる可能性のほうがずっと高い。
 約束された栄光の道を往くローガンには決してわからない危うさを、ハーヴェストは他の誰よりも知っている。
………身心に覚えている。
 あまり愉快な話ではないが、危惧した通りの結末を味わった経験者ならではの勘というものだ。

「師匠なら、きちんとその辺りまで見ていてあげなさい。どこかの誰かと同じ苦しみを味わわせない為にも、心の波紋にまで気を配って、ね」
「師匠………か」

 ハーヴェストに指摘されるまでもなくホウライの会得を通じて暴走気味の精神の鎮静を試みるのは、
一種の賭けだとローガンも把握している。

 アルフレッドはホウライを求める理由を、発動に安定性を欠くグラウエンヘルツを頼みとしなくとも
安定して戦える術を得る為だと言っていた。
 もちろん彼の話した理由が建前とは思わない。
 いつ発動するかわからない気まぐれな猫にヴィトゲンシュタイン粒子を充てるくらいなら、
自在に操れるホウライへ期待するほうが何倍も合理的だ。

 ………だが、「強くなりたい」と叫ぶ渇望の裏側から、ローガンは確かに別の声を聞き取っていた。
 最初は気配程度の微弱なものだったが、拳を交え、アルフレッドの生の感情と触れる中で
昏い影が確かな形を持って彼の心を支配していることにローガンは確信を抱いた。

 ―――復讐である。

 故郷を焼かれ、妹をさらわれ、親友を目の前で惨殺された憎悪に対する復讐だけが、今のアルフレッドを突き動かしていた。
 それだけならアルフレッドを巡る仲間の誰もが見て取るだろう。
しかし、拳を通じてローガンが受け取ったものは、単純に復讐の一言で済ませられるものではない。

 拳を伝ってローガンへ流れ込んできたもう一つの想念は、虚無だった。

 復讐を果たした先など見ていない。戦いに勝った先など考えていない。
ただただ標的に照準を定め、ただただ最大の破壊力を叩き付け、ただただ破壊するのみ。
 アルフレッドを支配する影の正体は、虚無と呼ばれる負の境地だった。

 ハーヴェストの懸念する通り、破壊の奥義とも言えるホウライをアルフレッドが体得することは、
その虚無なる復讐を促すことと同義である。
 人の心に依るホウライを、憎悪と復讐に満ちた心で操れば、一瞬の内に虚無の影に喰い尽くされるだろう。
 全てを破壊し、無へ帰すことのできる暴威を俺は手に入れたんだ―――
歪み切った優越に支配されるような結末へアルフレッドのホウライが収束されれば、もう二度と彼は虚無の境地から戻って来られなくなる。

 鍛錬された精神が鎮静をもって落ち着くか、更なる破壊を求める修羅の劫火と成り果てるのか。
 勝算すら立てられない、極めて分の悪い賭けだった。

「ワイはあいつを信じとる。誰かの為に強くなろうとするあいつのハートを信じとるよ」
「誰かの為にって言ったって、一体、誰の為よ?」
「亡くした命の為に、やな」
「………復讐が、人の為だって言うわけ? 亡くした命の為だって」
「人の為にって言うと、ごっつ綺麗なカンジがするけんど、ワイに言わせりゃ、ドス黒い復讐かて人の為の行動や。
どないな形やろうてかめへん。誰かの為に強くなろうとするアイツを、………アイツに残った人を思う心を、ワイは信じる。
師匠にできるっちゅーたら、それくらいや」
「………なんだか哲学してるじゃない、珍しく」

 しかし、どれだけ分が悪くても、万に一つの成功率でも、ホウライの体得を通じてアルフレッドが再生することへ賭けるのを
ローガンが躊躇う理由は無かった。
 仲間を、弟子を、誰より強く信じている。たった一つ、それだけで理由は十分だ。
 ―――拳を交える中で感じ取った、虚無の境地とは異なる“息吹”を、信じているから、戸惑いも、躊躇いも要らない。
 人間らしく在るべき“息吹”を、彼が持つ限りは、誰が何と言おうとも、ローガンはアルフレッドの再生を信じ続けるのだ。

「さっきから尻の穴の小さいことを抜かしとるんやないで。お前さんはヒーローなんやろ? ヒーローになったんやろ?ほしたら信じたれや。
人間の持っとるデッカイもん、信じてやれるんがヒーローっちゅーもんやで」
「大きい………もの?」
「希望っちゅうやっちゃな―――っと」
「なッ!? ちょ………ッ!」

 何事も信じなくては始まらない、と結論づけ、ローガンはハーヴェストの尻を張り飛ばした。

「どんなもんにも平等に宿っとる希望を信じたれ」
「―――当たり前よ。私は誰? 『セイヴァーギア』よ? 言ってみれば、希望の使者ってヤツね。
希望の使者が、それを信じられなくなったら、世界を救う力は二度と生まれないわ」

 瞳に強い決意を煌かせながら断言したローガンへハーヴェストは反射的に頷いていた。
 仲間の強さを、ヒトにのみ許された無限の可能性を信じられない者が、どうしてヒーローを標榜できるものか―――
ローガンの切った威勢の良い啖呵は、全く持ってハーヴェストの生き様と合致する。
 これでもまだ危うさばかりに目を落とし、敢然と頷かないような者にヒーローを名乗る資格はあるまい。
 ヒーローたる者、光が闇を放逐する希望こそ常に胸へと留め置かねばならないのである。

 頷いた後、ふとそんなことが脳裏を過ぎったハーヴェストは、無性に気恥ずかしくなって頬を掻いた。
いちいち理屈で解釈していては、まるでヒーローになりきって陶酔するだけの痛ましい人種(ヲタク)だ。
 真のヒーローとは、理屈を越えた超感覚的なスピリットで動く人間に他ならず、
正義の意志に第三者的な意見の介在を許容することは、ハーヴェストが信じるヒーローの心得に反するのだ。

(―――でも、ローガンに喝入れられたってのは、事実なのよねぇ………)

 セイヴァーギアさえ躊躇ってしまうような啖呵をさも当たり前のように切ってしまえるローガンの豪放が、
ハーヴェストには、殊のほか眩しく、………ほんの少しだけ悔しかった。

「―――あだッ!? ちょ、ちょう待てや! 今のはおかしいやろ!? どつかれる理由が見当たらんぞッ!?」
「そこにあんたの後頭部があるからよ」
「ケツの一つや二つ、どないやっちゅーねんっ! 希望の使者言うんは名ばかりかいなっ!」
「希望の使者がセクハラを許可する時代のほうが、私はどうかと思うけど? 
そもそもセクハラを許可しちゃうようなヒーローが、一体、どんな希望を司ってると言うのよ」
「そら、お前、野郎の希望っちゅ―――ッたたたぁ〜………。敵わんなぁ、ごっつええとこ入ったで………」
「自業自得ね」

 希望の肯定と尻を叩いたことは一緒にならないとローガンの後頭部を思い切り張り倒してやったが、
それとてお仕置きにかこつけた腹いせの域を出なかった。

「九分経ったぞ。そろそろ準備を―――」
「―――うっわ、昨日の倍くらいひどくなってんじゃん」

 休憩時間の終了を告げ、トレーニングに戻ろうとやって来たアルフレッドが
腰を下ろしたままイヤイヤしているローガンへ手を伸ばしたのと前後して、別な声がオノコロ原に響き渡った。

「どうすりゃ一夜でこんな―――やい、てめぇらァッ!! 稽古が楽しいのはわかるがよ、ちったぁ周りの迷惑ってもんを顧みろや。
穴っぽこばっかの場所でオレらにどうやって稽古しろっつーんだよ。埋めろッ! 掘り返した分は責任もって埋めやがれッ!!」
「そうだぜ、アル兄ィっ! 手前ェの後片付けは手前ェでやってくれよなぁ! 後で使うヤツの迷惑考えてさぁ!」

 悲鳴とも非難とも取れる素っ頓狂な声でがなり立てるのは、
チンピラ紛いの口調からも分かるようにフツノミタマだったが、今日はその言葉尻に乗っかる声がある。
 どことなくフツノミタマに近い物言いで高野に穿たれた傷痕へ嘆息するのは、
つい最近、とうとうルノアリーナ直々に「教育上、大変よろしくない付き合いは控えるように」と自重を促されてしまったシェインである。
 お年頃特有の反発と言うよりは、何も知らないルノアリーナに情操教育の悪影響などとレッテルされるのが勘に触ったのだろう。
フツノミタマの後に続くシェインは、珍しく彼の背中にぴったりくっついている。

 アルフレッドとローガンがトレーニングの最中に穿った痕跡さえ気に留めねば、
牧歌的な風景のオノコロ原にやって来た大人と子供の取り合わせは、ほぼ密着した距離と相俟って、
傍目には仲の良い親子がピクニックにやって来たように見えなくもなかった。

 ただし、その出で立ちはピクニックと言う明るいイメージと正反対に物々しい。
 戦闘でも無ければ人目に触れぬよう仕舞っておく愛刀、月明星稀をベルトに差し込んでいるフツノミタマはもちろん、
シェインも肩口から見慣れぬ革ベルトを巻き、その背に一振りの幅広剣―――ブロードソードを担っていた。
 冒険用の小道具を収納してあるナップザックや彼曰く「冒険者の心意気」と言うハシゴは宿舎に置いてあるらしく、
動きを妨げるような荷物を一切取り払った恰好は、形から冒険者たらんとするシェインには珍しい。
 グローブに仕込んである作業用のナイフでさえ、今は抜き取られていた。

 もう一つ目に留まるのは、シェインが纏う薄汚れたロングコートである。
 袖口を捲り上げ、腰のあたりでコートの上から巻いた帯に生地を巻き込んで丈を調整しており、彼にはまだまだ大き過ぎるように見える。
 長年使い込まれたものらしく、相当に年季の入ったロングコートは、瑞々しいシェインの若さが身に纏うと
疲労の度合いがより一層際立つようだった。


 そんなくたびれたロングコートをシェインが身に着け始めたのは、ここ数日のことだ。
 その数日の間にシェインはルノアリーナにフツノミタマとの付き合いを窘められ、これに前後してフツノミタマにある頼みごとをしていた。

「オヤジ、ボクに剣を教えてくれッ!! ベルを取り戻せるだけの剣をッ!!」

 ―――ここで背に担ったブロードソードの秘密へと辿り着くわけだ。

 故郷を焼討ちされた挙句、大事なベルまでもギルガメシュに拉致されてしまったことでシェインは自分の無力さに肩を落としていた。
 もしも、自分にもっと力があったなら、グリーニャ焼討ちを防げたかもしれない。
クラップを死なせずに済んだかも知れないし、ベルを連れ去られるような痛恨事を犯すことだって無かったに違いない―――と。
 自責の念と呼ぶにはあまりに稚拙で、いかにも子供が抱きそうな後悔だ…が、
シェインの小さな心を苛むには、たったそれだけの呵責で十分だった。

 失われた者たちへの復讐ではなく、遺された者たちを守り、大切なモノを取り戻したい。
 ビルバンガーTではなく、己の手で振るう剣を学び、自分自身の手でベルを救い出したい。

 喪失に起因する負の情念という点において、シェインの懊悩は発端をアルフレッドと同一にするものである。
 しかし、負の情念でもって鋭く研いだ復讐の刃をアルフレッドが取ったのに対して、
シェインは、限りない未来をその身に宿した少年は、正の情熱から運命を切り拓く剣を選んだ。
 
 思えばとてつもない一念発起だ。
 ビルバンガーTと言う破格の攻撃力を持ちながら、その巨大さと活動限界時間ゆえに使いどころが限定され、
他の仲間たちと比べて戦力に役立てられないことへ忸怩たる思いも手伝ったのかも知れない。

「………最初に断っとくが、剣の道ってのは生半可な精神(きもち)じゃ極められねぇもんだぞ。
辛ぇなんてもんじゃねぇ、死ぬかもしれねぇ………っつーか死ぬ。剣に生きるようなヤツぁ、最期も剣の錆になるってのが相場だ。
………それでもやるつもりか? いっぺん踏み込んじまったら、もう後戻りは出来ねぇぞ」
「生きるか死ぬかは、飛び込んでみてから、ボク自身が決めるさッ! 
それに、ボクは後戻りするつもりも無いッ!! 前に進んで、駆けて、突っ走ってッ!! 必ずベルを助け出すんだッ!!」
「ガキがマセたこと、抜かしやがるぜ。色香も知らねぇトシで女のために命張ろうってか? 色ボケほざくってかよ」
「バカでもボケでも構わないさッ!! ベルを助けてッ! あいつらをぶっ倒してッ!! 
………こんなに悲しいこと、止めるためなら、ボクはバカにもボケにもなってやるッ!!」
「………………………」
「グリーニャの仇を討つってのは、ボクにとっちゃ、そーゆーコトなんだよッ!!」

 決意に満ちたシェインへ懇願されたフツノミタマは、安全圏から外れる覚悟だけを確認すると、
これ以上、子供を危険な目に遭わせたくないと渋るフィーナたちを睨み一つで封殺し、持ち得る限りの剣の技法を彼に伝授し始めた。

 小太刀に見紛うばかりのドスを得物とするフツノミタマではあるが、長剣を用いての戦い方も一通り習熟しており、
試しにブロードソードを握らせても月明星稀と遜色ない剣閃を走らせた。
 達人は得物を選ばないと言うが、フツノミタマもその域にまで達しているようである。

 伝授の前後から着用するようになったロングコートはフツノミタマが調達してきたもので、
シェインは彼の指示に従って身に纏っているのだ。
 「穴っぽこだらけにされちゃあ、稽古が出来ないよッ」と口を尖らすアルフレッドへの抗議で身じろぎする度に
金属を擦り合わせるような音がするのは、小さな鉄のリングが裏地に編みこまれているからである。
 フツノミタマが用意したこのロングコートは、敵から被る打撃を緩衝させる鎖帷子の機能を備えているのだ。

「剣を持って戦うってことァ、一番危ねェ最前線でガチンコ張るってことだ。
一丁前になるまでは、多少、動きにくかろうが、熱かろうが、身を守るモンをきちっと仕込んどけ。
身体に馴染ませちまえばどうってことは無ぇ」

 編み鎖のロングコートを着用させたのは、未熟者に適した判断と言う次第だ。
 全身をフルに駆使しなければ真価を発揮できない剣を操るのに妨げとなる冒険用の荷物を取り払うよう指示したのも、その一環だった。
 身のこなしを妨げるようなものは一切要らない―――
まるで冒険者たらんとするアイデンティティーを真っ向から否定するようなフツノミタマの指示にも、シェインは素直に頷いた。

 気心の知れた仲ではあるものの、剣を教わる弟子とその師匠の間柄となった以上は
例え理不尽に感じるような指示だとしても真摯に応じ、感謝の念をもって教えを請わねばならない。
 若い人間にはどこか錆び臭く感じるかも知れない道徳心を、シェインは礼節に換えて師へ捧げ、
真摯な態度を受け取ったフツノミタマも、全力をもって剣の技法を授けた。

「てめぇ、コラッ!! やる気あんのかっつってんだろーがァッ!? 今んとこぁ、つい五秒前に教えてやったとこだろッ!? 
なんで間違えんだよッ!! ピュンじゃなくてビシュッと行け、ビシュッとよォッ!!」
「間違えたのは謝るよ、ごめん! でも、ビシュッてなんだよ、なんなんだよっ!? 
刺突を出せばいいのか、斬り込めばいいのか、わけわかんねーってっ!!」
「バカッ! てめッ! やっぱり話聴いてなかったんじゃねーかッ!? 
バビュンッってなぁ、相手の刃を鍔元で受け止めて踏ん張るときの合図だッ!! ウラァッ! とっととやり直せやッ!!」
「今にも飛び出しそうな擬音から、どーして防御が出て来んだよ、おかしいだろッ!? そこはグググーッとか、ギリギリギリーッじゃないのッ!? 
つか、擬音変わってんじゃんよッ!! ビシュッじゃなかったっけッ!?」
「あぁッ!? てめぇ、師匠の教えに歯向かおうってんかぁッ!? オレがビュバッっつったら、ビュバッなんだよッ!!」
「また変わってるっつーのッ!! 師匠ってんならさぁ、自分の教えに責任持ってくれよなッ!!」

 ………ここまで大仰に格調高く飾ってきてはみたが、蓋を開ければこんなやり取りばかりである。

 自分で振るうには超一流の剣客であるフツノミタマも、誰かに教えるとなると話は別だ。
 「そこでガカァッ! クルッと回ってポンポンポンとやって、シメにザシャァァァッ!!」などと擬音混じりで抽象的に説明し、
全くのゼロから剣を握り始めたシェインを大いに困惑させた。
 言っている意味がまるでわからないのだ。
 一応、技法を実演しては貰うのだが、重心の移動や足さばきなどの具体的な講義が前述の通りの有様である為、
ビギナーの頭ではとても理解できなかった。
 ローガンもフツノミタマも、指導と言う点に於いてはどちらもあまりに不慣れで、不向きであった。

 そうなると、意志の疎通と技法の伝達は、アルフレッドがホウライを得る為に選んだのと同じく、
身体で直接覚える模擬戦に頼らざるを得なくなる。
 アルフレッドとローガンの死に物狂いの肉薄と比べれば、言葉の掛け合いも子供じみていて
猫と犬とがじゃれ合っているようにしか見えないが、元々、頭で理解するより身体を動かして覚えるタイプのシェインには、
生傷を作る箇所が多少増えても、こちらのやり方が性に合っていたようだ。
 まだまだ実戦で振るえるレベルには達していないものの、少しずつではあるが、
足さばきと体さばき、撃ち込みの基礎を吸収し、たどたどしくも剣士としての骨格を作りつつあった。

 とは言え、フツノミタマの伝授は、なかなかのスパルタ教育である。
 子供相手だろうが一切容赦しないフツノミタマは―――自分の説明下手を棚に上げて―――、
失敗すれば頭と言わず尻と言わず張り飛ばした。
 子供が握るには大振り過ぎるブロードソードを敢えて持たせたのも、彼なりの考えがあってのことだろうが、
身の丈に合わない剣に振り回された挙句、「そんなへっぴり腰じゃ蚊蜻蛉も斬れねぇッ!」と蹴倒されるシェインは、
一歩間違えるといじめを被っているかの印象を与える。

 尤も、清々しい表情(かお)でフツノミタマに身体ごとぶつかっていくシェインの溌剌を見ていじめと誤解する人間がいたとするなら、
その者の目は腐っているとしか言いようが無い。
 庇護と甘やかしとを履き違えた自称良識派PTAあたりが見たら卒倒する光景かも知れないが、それは見誤った側が愚かなだけである。
 いじめなどと言う低次元なことではない。いじめであったなら、あんなにも良い表情(かお)は出来はしない。
 何度、ブロードソードを叩き落とされようとも、何度、厳しい怒鳴り声を浴びせられようとも、
思い切りフツノミタマの懐に飛び込んでいくシェインの躍動に陰りは感じられなかった。

「おーし、今のはイイ感じだったぜ。………誉めてやらぁ」
「………あれ? オヤジ、なんか、顔赤くなってねぇ? もしかして風邪?」
「しッ、白々しく『風邪?』とか聴くか、このガキッ!! わかってるクセしやがってッ!! ………べッ、別に誉め言葉を言ったって良いだろがッ!!」
「悪くないけどさぁ、なーんかキャラに合ってなくってさぁ〜」
「ンなことほざいてっと、もう教えてもやらねぇし、………ほ、誉めてもやんねーかんなッ!!」
「ごめんごめん、そりゃ勘弁だって」
「わかりゃいいんだよ、わかりゃ。………ち、ちなみに“どっち”を勘弁して欲しかったんだ?」
「さぁね。………きっと、“どっち”もイヤなんじゃないかな」

 徒手空拳のアルフレッドでもなく、拳銃を操るフィーナでもなく、どうしてフツノミタマの剣を択一で選んだのかは―――
親子に間違われるような距離にあることを鑑みれば、納得が行くのではなかろうか。

(今より強くなる………必ず強くなってみせる。そして―――………)

 昏い情念を隠すことなく発露さすアルフレッドの闇と、恨みでなく大事なモノを守る剣を得んとするシェインの光は、
胸中に抱く決意の言葉は同じでも、意味するところはさながら陰陽の如しである。

(みんな、こうやって一人前になっていくのね)

 二組の師弟を眺めるハーヴェストの胸には、愛弟子にして正義の同志たるフィーナのことが去来していた。
 ローガンやフツノミタマと同じようにハーヴェストも時間の許す限り愛弟子に手ほどきをしているのだが、
フィーナもフィーナで、最近は何時にも増してトレーニングに熱が入っている。
 アルフレッドを窘める立場にあるだけに無茶なメニューを作ることはなかったものの、
彼女もまた一日の大半をトレーニングに費やしているのだ。
 今だってそうだ。町の片隅に設置された射撃場で源八郎らとトレーニングに励んでいることだろう。
 もうすぐ手ほどきをすると約束した時間になる。今日は背後の敵を素早く迎撃する技術を教えることになっていた。

「―――ンん………?」
「………ローガン、トレーニングの最中に余所見なんかするんじゃない」
「いや、ちょう待てって。………なんか、妙ちきりんな音がせぇへんか?」

 ―――と、明暗分かれる二つのトレーニングが同時並行するオノコロ原へ不可解な音が漂着したのは、
フィーナのトレーニングを見てやる為にハーヴェストが佐志の町へ踵を返した直後のことだった。

「―――音っちゅーよりゃ、メロディやな、これ」
「そうね、一定のリズムに乗っているし、完全な音楽だわ。………何かしら、どこかで聞き覚えがあるのだけど、思い出せないわね」
「ンだよ、てめぇらの耳にも入ったっつーことぁ、オレらの幻聴じゃねーんだな」
「まだ遠いけど………町のほうから聞こえてくるね」

 足を止めたハーヴェストに倣い、シェインやフツノミタマも稽古を中断して耳をすませる。
 弦楽器の連弾に端を発したその音は、どうやら王の戴冠を祝福する栄光賛美のコーラスも伴っているようだ。
 跳ねるように飛び交う弦の振動と溶け合って完璧なハーモニーを創り出す吹奏楽器の吼え声は、
偉大なる王の戴冠を歓喜しているかのように勇ましい。
 聴く者の心へ無限の勇気をもたらす雄大なるオーケストレーション―――
これは、そう、エドワード・エルガー作、行進曲『威風堂々』第一番だ。

「………まさか………」

 唐突に流れ始めた『威風堂々』へ誰よりも早く反応し、誰よりも苦く辟易と顔を歪めたのはアルフレッドだった。
 彼のこの表情を、シェインたちは以前にも見たことがあった。そのときも確か同じように『威風堂々』が流れていたはずだ。

「―――アァァールフレッドォ・エェェェスゥゥゥ・ラァァァイアァァァンッ!!!!」

 傲慢を具現化したような呼び声を聴くに至り、シェインたちの記憶を茫然と彷徨っていたシルエットは完全なる形を得、
同時に想像していた人々へ確信を与えた。
 『威風堂々』がアルフレッドを憂鬱にさせる理由は、この曲が流れるとき、
ほぼ百パーセントの確率で“ある人物”が見参するからなのだ。
 そして、今度も『威風堂々』の勇音は、アルフレッドへ抗い難い憂鬱をもたらしてくれた。

「ほう―――余の尊顔が眩しくて仕方が無いようだな。いつにも増して暗く貧相な面を下げておるわ。
殊勝にして結構。後は恭順が加われば申し分無いぞ、アルフレッド・S・ライアン」

 アルフレッドに激しい憂鬱と頭痛を呼び起こす災いの種は、
少人数ながらも『威風堂々』を奏でる演奏隊を引き連れてオノコロ原に姿を現した。
 生演奏を遥かに陵駕する大きさの高笑いがシェインたちにはひどく耳障りだが、
自分以外の価値観などことごとく瑣末なものと見なしている傍若無人の主が、そうした不満を聞き入れる可能性は絶対的に皆無である。

「ま、まぁ、息継ぎ一つしないまま、十分以上も高笑いしてられんのは、ある意味、スゴいと思うけどね」
「ガキが何をほだされてんだよ。ただのバカだろ、あんなもん」

 高笑いまで含めた挙動の全てが、一種の示威行為なのだろうか。
 傾き始めた陽の光を背に受けながら、愛騎である駱駝の鞍上にて両手を広げて屹立する様は、
己の全身を十字架と見立てているようにも見える。

「………ゼラール………」
「閣下の敬称を付けぬか、下賎なる者よ。アルフレッド・S・ライアンよ。
我が寛大と慈悲の及ぶところでなくば、貴様の不敬は万死に価するのだぞ」

 『威風堂々』と陽光を背に浴びながら高い鞍上より自分を見下ろす“災いの種”―――ゼラールの不遜な顔を見たくなくて、
アルフレッドは両手で目頭を抑え、頭痛混じりに俯いた。
 比喩でもなんでもなく、「尊顔を拝すことが出来て恐悦であろう」などと嘯くゼラールは、顔も見たくないくらい本気で疎ましい。
 普段はどれだけ辛辣な悪言を吐き散らかされても平気なのだが、
どう言うわけだか、今日ばかりはゼラールの高笑いが神経を逆撫でして仕方無いのだ。

「一体、何の用があってこんな辺境にまで来やがった………」

 ただでさえ時間の少ないアルフレッドにとって、付きまとわれる厄介が目に浮かぶ相手だけにゼラールの見参と高笑いは、
この上なく忌々しく感じられた。




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