3.泣きながら食べるとおいしくない



 炊き出しの支度が完了したとの報せを受け、また詰めるべき内容が落着したこともあって作戦会議は一旦解散となり、
参加者たちは空気の淀んだ多目的ホールから潮風の清々しい甲板へと足を向けた。
 蒸気船の甲板には、胴長のカレー鍋や炊飯器、付け合わせの海藻サラダを山盛りにした皿がそれぞれ複数個用意されており、
いずれもフィーナたちが腕によりを掛けて料理した会心の力作である。
 細かいながらも心憎い配慮は、カレーを自分の好みにアレンジできるスパイスや生クリームまで完備されている点だ。
 例え一流のレストランであっても、ここまで行き届いた心配りは珍しかろう。

 煙突からもうもうと吐き出される排煙が些か無粋ではあるものの、心地よい潮風を浴びながら炊き出しを頂こうと言う趣向である。
 水平線が目の前に広がる特等席で、しかも文句なく整えられた環境で食事をしようと言うのだから、これに贅沢はあるまい。
 海戦を直前に控えての腹ごしらえである為、さすがに和気藹々とした食事会とは行かないが、
カレーの皿が皆の手元へ行き渡る頃には少しずつ談笑が起こり始めていた。
 先ほどまで殺伐とした緊張感に晒されていたこともあり、人心地と言う名の解放感が大きいのだろう。

 とりわけ和やかな空気を醸しているのは、やはりフィーナたち女性陣である。
 ピナフォアも交えて輪を作ったフィーナたちは、余剰な緊張を解きほぐすかのように賑々しい。
 物心ついた頃から馬軍の一員として戦場を渡り歩いてきたピナフォアは、
同性の、それも同年代との付き合いに慣れていないと言って最初は居心地悪そうにしていたが、
シーフードカレーを一口食べた瞬間にすっかり胃袋を掴まれたらしい。

 「ちょっとフィーナ! あんた、あたしのトコに来ない? 幸せにしてあげるわよ。
……あ! でも、あたしってば閣下の妃になるって宿命づけられてるし、これって浮気!? 浮気なの!? 
でも、このメシは捨て難い! 朝はフィーナの味噌汁で目ェ覚ましたいわ!」

 ――などと言ってすっかりフィーナに懐き、それから間もなく他の面々とも打ち解けていった。
 
 カレーの味付けは、フィーナの担当である。
 イカリングやエビ、アサリにホタテの貝柱と言った新鮮な海の幸を鍋に放り込み、
ポテトなど相性の良い野菜と一緒に少し辛めのルーで煮込んだシーフードカレーは、
彼女にとっても会心の出来栄えだったようだ。
 シーフードとの相性を考慮し、具を炒める際に良質なバターを選ぶと言う完璧な調理である。
 「カレーが嫌いなエンディニオン人がいるかッ!」と無駄に、且つ過剰に声まで荒げてカレー好きを自負したフツノミタマは、
スプーンを口に運んだ瞬間、あまりの美味さに声すら出せないまま卒倒した程である。
 一口サイズの団子にしたタコのすり身を頬張った彼は、スカーフェイスに満足そうな笑みを浮かべながら
「これは、てめえ、店で売れるぞ、オラァッ!」と太鼓判まで押していた。
 魚介類と野菜、ふたつの旨味が溶け込み、辛めのルーと情熱的なタンゴを踊るシーフードカレーの前には、
お手並み拝見とばかりに挑んできた自称グルメなど相手にもならなかったわけだ。
 軽く噛んだ途端にすり身団子から染み出す旨味たっぷりのエキスは、皆の味覚を陶酔のるつぼへと導き、悶絶させていった。
  ルディアたち年少組の皿へと目を向ければ、ハート等に型抜きされた野菜がカレーの海を泳いでいるではないか。
 マリス発案による野菜の型抜きはルディアを大いに感激――ルディアと一緒くたにされたシェインは、
オトコノコとして、あまりにお気に召さなかった様子であるが――させたようだ。
 スプーンに乗せた星形のにんじんをフツノミタマの眼前に突き出しながら、「イイでしょ? イイのね? 羨ましいのね? 
ルディアとシェインちゃんのだけスペシャルなの♪」と鼻歌交じりで自慢して見せた。

「へッ、ナメられたもんだぜ。たかが野菜の形ぐらいでオレが悔しがるとでも思ったのかよ」
「――なッ!? フッたんのくせに生意気なのっ! それとも見栄張るクン? この星印が目に入らねぇかなの!?」
「てめぇこそ、そのムダにでっけェ目をよぅ〜く見開けや。オレのカレー、ちっとばかり色が違ェだろうがッ!」
「……そんな!? こ、これはなんなの!? ルディアたちはこんな色のカレー、作ってないの!」
「だから、オレをナメるなっつっただろッ! スパイスとクリーム、それから溶かしバターをオレ式の分量でブレンドしてやったのよ。
美味いもんをより美味くッ! ……どうだ、ええッ!? てめぇみてーなガキンチョにこんな芸当(ワザ)があるものかよ!?」
「ひ、卑怯なり! それじゃフィーちゃんの味付けが狂っちゃうの! 邪道って言うか、外道なの!」
「それが反撃か? 惨めだなァッ! 一杯目は普通に食ったわッ! あたりめーだろうが、ボケェッ!! 
こいつぁ、食い比べの二杯目からしか許さねぇッ!! 折角、面白ェコクが出てんだ。楽しまねぇでどうすんだよッ!?」
「こ、く?」
「……あぁ、そっか。てめぇ、一丁前のクチを叩いちゃいるが、カレーの楽しみ方が全然わかってねぇんだなァ?
「ぬぬぬッ!?」
「風味だの、コクだのっつーのは、ま、オトナのタシナミってぇヤツだ。
ガキンチョはガキンチョらしく、野菜がどんな形してるとかよ、そんなもんでワーギャー騒いでりゃいいぜ」
「ぬぎぎぎぎぎぎ――これで勝ったと思ったら、大間違いなの! いつか必ずぎゃふんと言わせてやるのっ!」
「あァんッ!? ナマ言ってんじゃねーぞ、オラァッ!!」

 大人気ないにも程があるフツノミタマと、これを見て呆れの溜め息を吐いたハーヴェストはさておき――
カレー通のフツノミタマをも唸らせたフィーナの工夫は、隠し味としてインスタントコーヒーを少量忍ばせたことにある。
 料理の腕に覚えのあるタスクもこの大胆な隠し味には度肝を抜かれ、後学の為にとレシピの交換をフィーナに申し出たくらいだ。
 優秀なメイドであるタスクから寄せられた最大限の賛辞はフィーナを大いに感激させ、
熱砂の合戦が終わった暁には、互いが持つ全てのレシピを交換し合おうと指切りでもって約束を交わしていた。
 シーフードカレーで胃袋を掴まれたピナフォアや、そんな彼女と打ち解けたトリーシャは、
興奮の色に染まった顔を見合わせ、舌なめずりしつつ頷いたものである。

 トリーシャとピナフォアが何を考えているのかすぐさまに見抜いたシェインは、
「色気より食い気って……。しかも、メシ食いながらそんなことを言うなんてよっぽどだな。
すぐにブクブク太って、お前らのほうがポークカレーの材料と間違われるんじゃないの?」と、
本人たちに聴かれようものなら簀巻きにされた上、鮫の餌として海へ沈められるだろう辛辣な悪態を吐き、
それから大慌てで口を真一文字に結んだ。
 と言っても、予想される制裁に怖じ気づいたわけではなさそうだ。
自身の言行にやましく思うことがあり、これを悔いるようにシェインはガリガリと頭を掻いている。


 トリーシャとピナフォアが胸中に抱いた期待は、シェインとて共感するものではある。
 フィーナの作るカレーはシェインも大好物であるし、タスクのレシピを吸収することで彼女の腕前が更に進化すると想像すれば、
口内を唾液の洪水が満たしていく筈なのだ。
 ところが、シェインは違った。だらしなく口の端より溢れ出した唾を拭うトリーシャやピナフォアと異なり、
彼は自分でも驚くほどに無感動であった。
本来ならば、カレーに使われた香辛料の如く期待が燃え上がって然りなのだ。
 にも関わらず、反応する気分さえ起こらないと言うのは、異常事態としか表しようがない。
 フィーナの進化へ期待が膨らまないどころか、どうにも今日は目の前のシーフードカレーさえもシェインの味覚を通り過ぎていく。
舌を刺激することもなく滑っていく。
 シェインがしているのは食事ではなく、味気ない栄養補給と何ら変わらなかった。

 周りの反応を論拠にするまでもなくフィーナのカレーが不味いわけがない。 悶絶するほどに美味いに決まっている。
そのような御馳走を台無しにしてなるものか――気分転換を図って舳先へと移り、
水平線を眺めながら再びカレーを頬張り始めたシェインだったが、
根本的な解決にはならなかったようで、その面からは感動の類は一つとして読み取れない。
 お世辞にも食事を楽しんでいるとは言い難い表情(かお)であった。
 さりとて、何か気に喰わないことがあったとか、ヘソを曲げているとか、まして船酔いしたわけでもない。
 せっかくのシーフードカレーから辛味と旨味を削り取った最大の原因は、腹の底にて渦を巻く鈍色の煩悶である。
 不可避の懊悩に頭を抱え、答えを出せないまま暗中を彷徨うと言う煩悶がシェインを飲み込んでいるのだ。
 一言で言えば、苦悶の形相――ではあるが、内実を覗いてみれば、そこまで大仰に構える必要もなく、
そもそも悩み自体がお子様に見合ったレベルであり、頭を抱えるシェインには申し訳ないが、深刻さなどは皆無に等しかった。


 シェインが頭を痛めているのは、図らずも揉めてしまったラドクリフのことだった。
 味覚が機能不全に陥るほど悩んでいる割に、その規模は極小と言っても差し支えがないのだが、
当人にとっては大問題。何しろ解決の糸口を見つけられずにいるのだ。

 ホゥリーをからかったつもりが思わぬ方向へ飛び火してしまった――これが、そもそもの発端だった。
 自分の容姿をシェインから茶化されたと感じたラドクリフが、
火の玉のような勢いで「ぼくは男だよっ! ばかぁっ!」と怒声を張り上げたのである
 想像を絶する勢いで過剰反応を示したと言うことは、
それがラドクリフにとって一番触れて欲しくないタブーだからに他ならない。
 知らなかったとは言え、シェインはそのタブーに泥靴で踏み込んでしまった次第である。

 ラドクリフとしては心外でしかなかろうが、愛くるしい面立ちや華奢な体つき、
鈴を転がすような声は少女のそれと全く同じであり、
シェインが性別を間違えてしまうのは無理からぬ話でもあった。
 実際、仲裁に入ったトルーポにも「間違えたって仕方ねぇさ。オレだって時々ドキッとしちまうもんよ。
……あ、待て。今のはヘンな意味じゃねーぞ? お、おい。なんでそんな目で見――コラ! 微妙に距離取ろうとすんなよ!」と
誤認に対するフォローを受けた程だ。
 内面にヨコシマな何かを内在しているフィーナ――これについては鼻血が全てを物語っている――と比べて、
遙かに少女らしい佇まいを持っているとシェインの目には映っていた。
 いずれにしても性別を見誤った挙げ句、彼のプライドを傷つけてしまったことは痛恨の失態。
「知らなかった」と言い訳したところで許されるものではあるまい。

 そこで、シェインは弱ってしまった。どうやってラドクリフに謝ればよいのか、皆目見当もつかないのだ。
 こう書くとシェインが自分の非を認めず、誰にも頭を下げない人格破綻者のような印象を与え兼ねないのだが、
事情は些か複雑で、「同世代に対する謝り方を知らない」と詳述するのが正しい。
 今は既に焼亡してしまった故郷――グリーニャには、シェインと同世代の子どもがいなかった。
 年齢の上下によってはこの限りではなく、目上にはアルフレッドたちが、目下にはベルがいるものの、
世代と言う形で目線を同じくする竹馬の友をシェインは持ち得なかったのである。
 それ故に同世代の人間との接し方、付き合い方が感覚として掴み切れないのだ。

 村の人間――主にアルフレッドがその標的だ――を相手に生意気な減らず口を叩き、言い争いになることもしばしばあるが、
必然的に目上の人間と年少のシェインとの対決と言う構図となり、結果、相手のほうから折れることが殆どだった。
 同じ目上でもアルフレッドやクラップとやり合う場合は、最終的に争点自体がしっちゃかめっちゃかになってしまうので、
これは例外中の例外。
 双方の頭に血が上っても、必ず年長者の側で落としどころを見つけてくれる為、どこかで折り合いはついていた。
あるいは目下の人間に対するけじめのようなものを、村の大人たちは暗黙のルールとして共有していたのかも知れない。
 現在のチームで言えば、精神年齢が近い――とシェインは思っている――フツノミタマは、アルフレッドやクラップと同じ括りであるし、
ルディアの場合は意味不明な理論で一方的にやり込められてしまう為、やはり“同世代”とは言い難い。
 完全な同世代として意識したのは、ラドクリフが生まれて初めてであった。

 そして、生まれて初めて巡り会った同世代といきなり諍いを起こしてしまった事実が、
せっかくの極旨カレーを味も素っ気もない汁に変えているのだ。
 海の幸の旨味はおろか辛味を舌にも鼻腔にも感じられなくなってしまったあたり、
シェインの思考はラドクリフに囚われていると言っても過言ではあるまい。

(クソっ! それもこれも、全部、あいつのせいじゃないかっ! あいつがいなけりゃ、今頃は……!)

 心の中ではそんな風に悪態を吐いているものの、良好な環境で育ったが為に根が純粋なシェインには、
自分の非を棚に挙げて相手に一切の原因を押し付けると言う卑劣な真似など選べるはずもなかった。

 どちらが悪いのか、それはシェイン自身が一番よくわかっていた。
 ラドクリフに非はない。有るわけがない。
 百パーセント自分の非礼だと理解しているからこそ、どのようにして謝罪への第一歩を踏み出したら良いのかを迷い、
苦悩に苛まれ続けているのだ。

 ラドクリフの怒りは、相当に根深いと考えられる。少なくとも、シェインにはそう思えてならなかった。
 何しろ激情に任せて飛び掛ってくるほどであるのだから、余程、頭に来たと見て間違いなかろう。
ただでさえ謝罪と言う行為に不慣れだと言うのに、初っ端からハードルが高過ぎるとシェインは頭を抱えた。

 こめかみのあたりに添えられた両手を見やれば、ほっそりとした手首の“根元”とでも言うべきコートの袖口には、
どす黒い斑模様が一つ、二つ、三つ…と飛び散っている。
 袖口から胸元、襟元など別の箇所にもあちこちに同様の斑模様が散見された。
 いずれも見紛う事なき血の痕跡である…が、飛び掛ってきたラドクリフと殴り合いの喧嘩に及んだとか、
そう言った暴力的な事由から付着したものではない。
 そもそも、シェインとラドクリフは殴り合いにまでは及んでおらず、 赤黒く乾いた斑模様には別の原因があった。
 ラドクリフを少女と間違えてしまい、これで逆鱗に触れてしまったシェインは、
飛び掛ってきた彼を支えきれなくなってそのまま真後ろに転倒し、組んずほぐれつとでも言うような体勢になってしまったのだ。
 絶妙に絡み合ったシェインとラドクリフを見て脳が沸騰したフィーナは、その愛らしい鼻から勢いよく血飛沫を噴射し、
哀れにも件のふたりは頭のてっぺんから爪先まで深紅の洗礼を浴びる羽目になったのだった。
 フィーナ曰く、乙女の魂の迸りとのことだが、被った当人たちはたまったものではない。

 最悪だったのは、フィーナの鼻血噴射によって喧嘩そのものが有耶無耶になったことだ。
その結果、シェインはラドクリフへ謝罪するタイミングを逸してしまっていた。
 すぐに頭を下げてさえいれば、同世代間で話がこじれることもなかったのだろうが、
如何せん、フィーナの鼻血は一定の間隔を経て噴き出す為、些かも油断が出来ず、
第二撃を警戒する間に両者の物理的距離はどんどん遠ざかってしまい、気付いたときには会話もままならなくなっていた。
 根本的にはシェインとラドクリフの問題なのだが、あえて第三者に事態を悪化させた責任を問うならば、
フィーナの奇癖を挙げざるを得まい。

 馴れ合うつもりもないのだから、別に構わない。このまま会話が途絶えていても良い。所詮は一時的な交流に過ぎない――
人間関係をそのように処理できたなら心持ちも随分と変わるのだろうが、諦めと言う判断を以って事情を割り切るには、
シェインはまだ幼く、無垢であった。

(……わかってるさ、ボクが悪いんだよ。どれもこれも、全部、ボクの所為だ……自業自得だよ……)

 フィーナの奇癖――いやさ、悪癖――はともかく、ラドクリフと和解する糸口さえ見つけられないシェインは、
我が身の不甲斐なさを悔やみ、重苦しい溜め息と共にがっくりと項垂れた。
 折からの精神的ダメージもあり、今や何をしても裏目に出るのではないかとまで彼は思い詰めていた。


 そんなシェインが真隣に立つ人影に気付いたのは、仄かに湿った床板へと双眸を転じたときである。
 人影を視認するまで誰かが近付いて来る気配すら察知できず、また甲板を叩く靴音さえも鼓膜に集音できなかったのだが、
それはつまり、シェインの懊悩の深さを物語っていると言えよう。

「――ぼくも一緒に食べちゃ、だめ…かな?」
「えっ……あっ……――」

 ――真隣に立ったのは、誰あろうラドクリフその人だった。
 自分の取り分をトレイに乗せたラドクリフが、薄くはにかみながら声を掛けてきたのである。
 バツの悪さは互いに共有しているらしく、食事を共にしたいと尋ねる声は控えめなトーンで、
胡坐で舳先に陣取ったシェインを見下ろす眼差しも、どこか心細げだ。
 勇気を出して誘ってみたけれど、もしも、断られてしまったら、そのときはどうしようか――
何とも健気でいたいけな不安がラドクリフの満面に滲み出していた。

(なっ、なんで急に……! いきなり湧いて出るんじゃねぇよっ――)

 まさか悩みの種が直々に登場すると思っても見なかったシェインは、目を見開いて驚き、次いでそっぽを向いてしまった。

(――ボクにだって心の準備ってもんが要るんだからさッ!)

 意地になっていると言うよりも気恥ずかしさから顔を逸らしたシェインであったが、
向こうから転がってきた和解のチャンスを蹴飛ばす理由はなく、最初に向けられた問いかけには、
「好きにしろよ。甲板はボクのもんじゃないぜ」とぶっきらぼうながらも応じて見せた。

 不安げな表情から一変し、蕾が開いて花が咲くように満面の笑顔となったラドクリフは、
シェインの右隣へいそいそと腰を下ろした。
 捉え方によっては邪険とも受け取れるシェインの態度を見て顔を綻ばせたあたり、
彼が暗黙のうちに出したサインを正しく読めたようだ。
 絵に描いたような落ち込み方のシェインとは対照的に、ラドクリフのほうは時間を経る内に冷静さを取り戻したらしい。

 反射的に友好と正反対の態度を取ってしまい、自分の迂闊に頭を抱えかけたシェインにとって、
これは願ってもない成り行きだった。
 決して口には出せないものの、自分の意図をラドクリフが誤解なく受け取ってくれたことに心から安堵していた。

「ぼくのチームでもカレーはよく食べるんだけど、やっぱり作る人によって味付けが全然違うもんだね。
大所帯だからかな……ぼくんとこのは、もっと大味でさ。古くなりそうな野菜とか、全部、放り込んで煮込んじゃうんだよ」
「……残飯処理みたいな話だな」
「うん――それに近いかもね。たまにポトフとかブイヤベースとか、スープ料理も作るんだけどさ、
自分の好みで味付けをやり過ぎて、結局、失敗しちゃうってこともあるでしょ? 
トチったら、とりあえずカレールーでも入れとけってトルーポさんに教わってね。あの人、ご飯には人一倍うるさいから」
「あのバカみたいにでっけぇ兄ちゃんか。軍議やってるときもやたら何か食ってたよなァ。
ホゥリー……――お前のお師匠サマも、いっつもお菓子とか食べてるけど、それと良い勝負だよ」
「それ、ホント? ……あとで注意しとかなきゃ。間食は控えてってずーっと言ってるのにっ」
「最近はしらす味のポテチがブームっつってたっけ。あのバカ……。弟子に健康管理させるなっつーの」
「ご飯の前にお菓子食べてたら、キミからも注意してくれないかな。ぼくは、ほら、あまり一緒にいられないしね」
「気が向いたらな」
「それでいいから。お願い、この通りだよ」
「……ん。一応、わかった」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
 
 こじれた関係の修復でも試みるかのように真隣の少年へ積極的に話しかけるラドクリフであったが、
当のシェインは依然として彼の顔をまともに見れないでいる。
 無論、煙たがっているわけではない。
それどころか、大失言をしてしまった自分へ何事もなかったように接してくれるのは、
幾ら感謝しても足りないほどである。
 素直に嬉しかった。嬉しくて、たまらなかった。
 同世代の人間との縁が未だ切れていなかったことがシェインの心をどれだけ安らかにさせたか知れない。
 それでも――いや、それ故にシェインはラドクリフと顔を合わせることが出来なくなってしまうのだ。

 シェインの名誉の為に言明しておくが、見得とか意固地とか、そう言った類の感情が原因ではない。
 先ほどまでシェインは謝罪の難しさに頭を抱えていたのだが、今度は同世代と接する方法に戸惑い、
そこから生じる気恥ずかしさ、照れ臭さに飲まれてしまっていた。
 嬉しさよりも先行してしまう思春期ならではの青臭さが、シェインを無愛想にさせているのだった。

「………………………………」

 あれほど忙しなく連ねられていたラドクリフの言葉が途切れたのは、
このままではいけないとシェインが意を決した矢先のことであった。
 カレーの皿を脇に片付け、僅かな逡巡を経て、ラドクリフは明るかった筈の語調をしめやかなものに変えた。

「……ごめんね……」
「――ッ!?」

 ラドクリフがか細い声でもって口にしたのは、短くも重い意味を持つ四文字――
そもそもの発端となった悶着に対する謝罪だった。
 ほんの四字からなるその言葉で鼓膜を、……心を震わされたシェインは凄まじい勢いで首を振り回し、
初めてラドクリフと顔を見合わせ、彼の面に浮かんだ感情(きもち)を確かめた瞬間、
鉄槌でもって頭を殴りつけられたような衝撃に苛まれた。
 シェインの極端な行動に驚いてはいるものの、ラドクリフはその面に沈痛な哀しみを宿している。
 それは、ラドクリフを想ってシェインが浮かべたものとそっくり同じ表情だった。
 初めて出会った同世代の人間と諍いを起こし、埋め難い溝を作ってしまったと懊悩したとき、
シェインは同じように面を歪めていたのである。

(何やってんだ、ボクはッ! 何をやってんだよッ!?)

 ラドクリフを変調させたのは、他ならぬ自分であるとシェインにはわかっていた。
 照れ臭さにかまけて素直になれなかったが為に不要な気を遣わせ、挙句の果てには彼のほうから謝らせてしまったのだ。
何一つ悪いことをしていないラドクリフに、だ。

(――最低じゃないか、こんなの……ボクはどこまでも腐って……ッ!)

 今、自己嫌悪の極致にシェインは立っていた。
 彼がほんの少しでも器用、……否、狡猾であったなら、ラドクリフの言葉尻に乗って「ボクのほうこそ悪かった」とでも言葉を返し、
それで丸く収められたかもしれない。
 だが、それが出来るシェインではない。成り行き任せの収拾を是とするような気質ではなかった。

 ラドクリフを侮辱してしまったのは他の誰でもない自分であり、そうである以上、あくまでも謝罪はこちらから切り出すべき。
それ以外に解決の道などあってはならないとまでシェインは考えているのだ。
 このままではいけない。もう一度、胸中にて繰り返したシェインは、小刻みに震えていたラドクリフの細腕を掴むと、
次いで勇気を振り絞って身を乗り出し――

「――なんだよ、今のは! 『ごめんね』だって? ……ふざけんなッ!!」

 ――改めて自分の失言を誤るつもりだったのだが、口をついて出たのは、またしても正反対の悪態であった。
 あろうことか、これから謝ろうとしていた相手を怒鳴りつけていた。

「じゃあ、訊いてやるよ! お前がボクに何かしたのか!? どうなんだよっ!?」
「ちょ、ちょっと、どうしたのさっ!?」
「どうしたもこうしたもあるかッ! 質問してんのは、ボクのほうだろッ!? お前が何をしたってんだッ!?」
「えと――殴りかかっちゃった……それに、今だって……」
「殴りかかるのは当たり前だろッ! ブチギレるようなことをされたんだからさぁッ! じゃあ、誰がお前を怒らせたッ!? 
誰がお前を女の子扱いしちゃったんだよッ! 言ってみろ、おいッ!?」
「き、キミ……、かな……」
「大正解だよ、この野郎ッ! ……それなのに、なんでお前が謝ってんだよッ! バッカじゃないのッ!?」
「え、えぇ〜……」
「殴ったっていいさ、蹴りだって食らう準備は出来てるッ! お前はボクをやっつけていいんだぞッ!? 違うのかよッ!?」
「あ、あの、ホントにどうしたの? カレーに何か変なものでも……」
「いちいち脱線すなッ! どうかしてるのはお前のほうだってさっきから言ってんだろッ! この……面ッ倒くさいな、お前はぁッ!」
「………………」
「文句言えっつってんのッ! ボクにッ! お前がッ! ボロクソに言いやがれッ!!」
「………………」

 支離滅裂以外の何物でもない怒声を浴びせられたラドクリフの顔は、みるみる当惑の色に染まっていったが、
それでもシェインは止まらなかった。
 正確には止まれなかったと言うべきであろう。
 自分がとんでもない過ちをしでかしていることには彼も気付いているのだが、ブレーキを掛けようにもとき既に遅く、
当人の意識から遊離してしまったかのように、憎まれ口は次から次へと飛び出していく。殆ど速射砲さながらの勢いだ。
 己の口から飛び出している悪言(もの)であるにも関わらず、最早、シェイン当人にさえコントロールが利かなくなっていた。

「悪くないヤツが謝んなよなッ!!」

 ひとしきり暴言を撒き散らした果てにそう締め括ったシェインだったが、羅列を紡いだ唇は生気が抜け落ちて紫に変色しており、
両頬からも全く血の気が失せてしまっている。
 自分で自分の暴挙に動転しているのか、双眸は一点に定まることなく揺らぎ続けていた。
 再び顔を逸らしながら「……ごめん。謝んなきゃいけないのは、ボクのほうなのに……」と蚊の鳴くような声で詫びたシェインは、
しかし、今更、何を試みても手遅れであると確信していた。
 完全に嫌われた――そうとしかシェインには思えなかった。
 何しろラドクリフのほうから差し伸べてくれた手を振り払い、和解の糸口を無残に踏み躙ってしまったのだ。
 口先では謝罪めいたことを言ったように見えなくもないが、態度は最低最悪。
有り得ないほど荒い語調は、自棄のやん八と釈明しても通用しないだろう。
 そもそもやぶれかぶれで謝る人間に誠意など感じられるわけがない。

(……やっちまった……ボク……、……ボクは……)

 こんなものが謝罪に価するとはシェイン自身にも思えなかった。これで許されるわけがないと諦めてもいた。
 先ほどのように悪辣なる言行を好意的に解釈してくれたなら挽回の可能性も見えるのだが、
それはあまりにも自分に都合の良い希望的観測であり、そうそう天運が味方してくれるとも思えない。
 ここまで愚かな所業を続けておいて、まだラドクリフの人の好さに期待するなど
性根が腐っている証拠だとシェインは自責していた。

「シェインくんって呼んでもいいかな?」
「――へっ!?」

 それだけにラドクリフから穏やかな声が返されたことは、シェインには不可思議でしかなかった。
 数々の無礼に腹を立てるわけでなければ怒鳴り声に応戦するでもなく、
先ほどよりも一層柔和になった声色でもってラドクリフは名前の呼び方を尋ねてきたのだ。
 てっきり飛びかかってくるものと身を強張らせていたシェインは、予想もしていなかった方向へ転じた筋運びに翻弄され、
あんぐりと口を開け放ったまま硬直してしまった。
 言葉を失して固まるシェインに微笑を浮かべたラドクリフは、尻を滑らせてシェインの正面に回り込み、
先ほどのお返しとばかりに今度は自分のほうから彼の両腕を掴んだ。
剣術の稽古を始めて以来、加速度的に逞しくなっていく両腕を。

「ぼくのことはラドクリフって呼んで欲しいかな」
「な、なんだって?」
「あ、略してラドってのもイイかも。そのほうが愛称って、なんか友達っぽいよね」
「い、いや、それは良いとして――お前……」
「お前じゃないよ。ラドクリフ、だよ? シェインくん」
「………………」

 大粒の瞳で覗き込んでくるラドクリフにどぎまぎしていたシェインだったが、
両腕に加えられる力が強くなったことで我に返り、次いで彼の指先に宿る意図を悟った。
 気を引き締めてラドクリフと向き直ったシェインは、彼より寄せられる真摯な眼差しへ自分のそれを重ね合わせた。
 つい数分前まで朗らかに微笑を称えていた筈のラドクリフは、いつしか神妙な面相へと移ろっている。

「悪くないヤツが謝るなって言ったよね?」
「何もおかしなことは言ってないだろ。当たり前のことじゃないか」
「だったら、ぼくが謝ったって何の不思議もないよ。て言うか、尚更、ぼくから謝らなきゃいけなかったね」
「言ってる意味がわかんないんだけど。……面倒くさいからって、自分で全部引っ被ろうってんじゃないだろうな?」
「そんなんじゃないさ――ぼくにもいけないところがあったってことだよ。
それなのに、シェインくんひとりを悪者にはできないでしょ? 悪いことだって半分こだよ」
「どこがだよ。百パーセント、ボクからケンカ売ったじゃん」
「そうだったかな? ぼくが覚えてる限り、先に手を出したのはシェインくんじゃなかったと思うんだけど」
「……そういうことを言ってんじゃないだろ」
「でも、ぼくが聞き流せばケンカにはならなかった。第一、シェインくんはぼくを茶化したわけじゃないんだし。
……やっぱりケンカを吹っ掛けたのは、ぼくのほうだよ」

 ローズウェルに「可愛いコ」と茶化された直後と言うこともあり、
そうした揶揄へ過敏になっていたかも知れないとラドクリフは付け加えた。
 K・kと連れ立って佐志に現れ、そこでゼラール軍団と遭遇したローズウェルは、
荒くれ者の中からラドクリフを見つけるなり、彼の外見をさんざんにからかっていたのである。
 華奢な外見を気にしているラドクリフには不愉快極まりないことで、当然、気持ちもささくれ立つ。
そうとも知らずにシェインがタブーに触れてしまったのは、憤懣がまだ熱が帯びていた頃合。
間が悪いとはこのことだ。

「だから、おあいこ。ぼくも悪かったし、シェインくんも悪かった――ってことじゃ、ダメかな?」
「………………」

 「これにてお手打ち」と左右の掌を打ち鳴らしたラドクリフの口調は、
気持ちの落としどころに迷うシェインを優しく言い諭すようでもあり、
念押しの如くウィンクまで重ねられては、素直に頷かざるを得なかった。
 あれだけのことをしでかしておきながら簡単に許されてしまうのはおかしくないかと、
シェインの中には釈然としない懐疑(もの)もあったが、さりとてラドクリフの言うことには確かな理がある。
 本音を言えば、渋々ながらの承知であったが、シェインは「おあいこ」と言うラドクリフの判断へ従うことに決めた。
 そうすることが、どうしようもない強情っ張りに手を差し伸べてくれたラドクリフへの感謝に通じるとも感じたのだ。

 最も望ましい答えを受け取ったラドクリフは、再び花が咲くように満面を綻ばせたが、
それも一瞬のことで、すぐさまに元の神妙な顔付きに戻ってしまった。
 またも何か粗相をしたかと肝を冷やすシェインだったが、ラドクリフが胸中に宿したものは彼が想像するよりずっと複雑で、
ややあってから打ち明けられた委細には、ただただ面食らうばかりだった。

「シェインくんだって、……いろいろあったんでしょう? 気持ちが荒むのも仕方ないよ」
「いろいろって……――あッ!」

 ラドクリフの表情を暗く沈ませていたのは、つまりシェインが剣を取るに至った事情である。
 グリーニャが焼き討ちにされた件は、ギルガメシュの恐ろしさを端的に表すテロ行為としてエンディニオン中を震撼させており、
ラドクリフの耳に入っていたとしても何ら不思議はない。
 しかし、彼はグリーニャ焼き討ちについて「いろいろ」と実に独特の言い回しを用いていた。
 そのように含みのある言い方をしたからには、山村の焼き討ちと言う一側面に留まらず、
クラップを殺害されたこと、ベルを誘拐されたことまで全て既知しているに違いない。
 概要の記述に特化したニュースによって事件を知ったのではなく、
事情を深く知る誰かから直接聞かされたことは明々白々だった。

 最初はゼラールか、あるいはトルーポあたりがラドクリフへ話したものと考えた。
テムグ・テングリ群狼領に所属する彼らは、報道されている内容以上に詳しく焼き討ち事件のことを調べることが出来る。
 アルフレッドとも知己の仲であるから、損害・犠牲の状況から事情を推し量ることとて不可能ではないのだ。
 だが、その猜疑はすぐさまに立ち消えとなった。
 これまでの言行を見る限り、トルーポがそのような無粋を働くタイプではないことはシェインにも判る。
ましてゼラールは他人に何かを吹き込むまでもなくアルフレッド本人へ直接声なり何なり掛ける筈である。
 ゼラールたちが疑いのリストから外れたとなると、最早、該当する人間はひとりだけになる。

(あのバカ、マジで余計なことを言いやがってッ!)

 ラドクリフに要らないことを吹き込んだ張本人――またの名を、ホゥリーとも言う――の巨体を
右へ左へ首を振り回して探すシェインだったが、瞬間的に沸騰した怒気は標的へ行き着く前に霧散してしまった。
 と言っても、ホゥリーを最愛の師とも仰ぐラドクリフに配慮したからではない。
少なくとも、怒気が失せるまでは、発見次第、ホゥリーには折檻を加えるつもりでいた。
 彼方此方へ目を転じる最中、自分たちの様子をチラチラこそこそと窺っている
フツノミタマに気が付き――本人は気取られないよう注意を払っているつもりだが、
数秒に一度の割合で凝視してくる為、さり気ないフリをすればするほど滑稽なギャグと化す――、
その瞬間、あることに思い至り、これによって暴力的な衝動が氷解していったのだ。

 やることなすこと悪趣味で、口を開けばデリカシーを欠いた皮肉ばかり。
おまけにところ構わず菓子を貪り、会議中にも関わらず高いびきをかくと言うやりたい放題の素行不良を見て、
彼の性格破綻を疑わない人間は絶無であろう。
 本人からしてみれば甚だ心外だろうが、ラドクリフがホゥリーを師匠と慕うこと自体、
傍若無人な「にやけデブ」と接する人々には理解し難いのだ。
 「にやけデブ」とは女神イシュタルの命名したニックネームだが、
そうでなくても「廃油の結晶体」、「歩くラード」とまで罵られる男である。
 おそらくラドクリフは「師匠のことを誤解している」などと反論するだろうが、
彼のほうが盛大な誤解あるいはホゥリーに騙されているのではないかと逆に心配され、
余計に話がこじれるのは目に見えていた。
 そのようなオチが容易に予想出来るほどにホゥリーは信用がない。全然ない。全くない。驚くほどにない。あるわけがない。

 ダメ人間の代表と見なされ、徹底して皆から疎まれるホゥリーではあるが、
しかし、大勢の犠牲者を出したルナゲイト襲撃事件やグリーニャ焼き討ちに関しては、
さすがに虚仮にするような発言は慎んでいる。
 生活態度や生活は完全に破綻しているが、人間として遵守すべき倫理や道徳はギリギリのラインで弁えているように思えた。
 それでも敢えてラドクリフにシェインの抱える事情を話したと言うことは、
師弟と言う関係性をも踏まえて推察するに、極めて重大な意味が込められている筈だ。
 こじれつつあったシェインと上手く和解できるよう愛弟子へきっかけを示したのかも知れない。
 そこに秘められた感情(おもい)は、先程来、フツノミタマがシェインへ向けている気遣わしげな眼差しと同じものであろう。

(……ホント、余計な気を遣ってくれるよ――ったく!)

 どこからか下品な高いびきが聴こえるので、今から真偽を問い質すことは難しそうだが、
シェインの胸中に浮かび、炸裂寸前にまで過熱していた怒りをクールダウンさせた仮説は、
おそらく正解からそう遠くはあるまい。
 不意打ち気味に襲ってきた気恥ずかしさを誤魔化すように頬を掻くシェインだったが、
指先を通して顔の火照りを再確認する結果となり、余計に照れ臭い思いをしてしまった。

「確かにお前の言う通りさ。……ギルガメシュは絶対に許せないし、妹分だって助け出さなきゃならない」
「………………」
「でもさ、それだけが理由でカリカリしてたわけじゃないんだぞ。他にもたくさん考えなきゃならないことがあるんだ。
ボクのことを、ちっさい男だって思うなよな」
「そう…なの?」
「当たり前だぜ。アレやコレやと考えることが多過ぎて、今にも頭がパンクしそうだよ」
「えと――……今のは、もしかして笑うトコなのかな? で、でも、仇討ちの話をしてる最中に冗談なんか言うわけないし……」
「おい、こらっ! 人がマジメに話してんのに、なんだい、冗談ってのはぁ! マジも大マジ! 何言ってんだよ、お前っ! 
ドン引きレベルに失礼なのは、やっぱりホゥリー譲りかぁっ!?」
「ご、ごめん。だって、その……色々考えてる風に見えないからさ、全然……」
「な、なんだよ! なんだよっ! ボクの何を知ってるってんだよッ!? 知った風な口を叩くんじゃないやい!」

 色々とスレスレなことを言ってきたラドクリフに向かって大声で喚き散らしてはいるものの、
結局のところ、ムキになって突っ張るのは照れ臭さの裏返し。そのあたりはラドクリフにも見透かされているらしく、
彼はシェインのやけっぱちをからかうように喉を鳴らして笑っていた。
 出逢って数時間の内に照れ隠しまで見抜かれるようでは、最早、ラドクリフには敵うまい――
兜を脱ぐしかなくなってしまったシェインは、しかし、せめてもの抵抗のつもりで再びラドクリフに背を向けた。
 それは無駄な抵抗以外の何物でもなく、なおも意地を張るシェインの様子が滑稽に思えたらしいラドクリフは、
大きめのロングコートを纏う彼の背に向かってクスクスと忍び笑いを続けている。
 何もかもがシェインにはくすぐったくて仕方がなかった。

「……悪かったな、ボクのほうこそ。……その、色々とさ」

 手を差し伸べてくれたラドクリフ、間接的ながら和解の道を示唆して暮れたホゥリー、それからフツノミタマも一応――
ここに至るまでの間、たくさんの人たちが自分の為に心を砕いてくれたのだとシェインは感じており、
だからこそ、きちんとラドクリフに謝っておかなければならなかった。
 きっとラドクリフは気にしなくて良いと首を横に振るだろうが、これはシェインの中での一つのケジメである。
始まりの諍いをこれにて清算し、改めて手と手を結ぼうと言うのだ。
 けれども正面切ってラドクリフを見つめるのはどうにもこそばゆく、そっぽを向いたまま謝ることがシェインに出来る精一杯であった。

 果たして、シェインの精一杯はラドクリフに届いた様子だ。
 暫しの間、シェインの背を眩しそうに見つめていたラドクリフは、両の掌を軽妙に打ち鳴らすと、
次いで「――よし、決めた。ぼくも手伝うよ、シェインくんの仇討ち。それからお友達の救出作戦」と突飛なことを言い始めた。
 ゼラール軍団の活動に支障が生じない範囲に限定されるものの、
焼き討ちの混乱に紛れてギルガメシュに略取され、人質とされてしまったベルの救出などに力を貸すとラドクリフは表明したのだ。
 寄せられた謝罪への返事として、彼はシェインが最も喜ぶであろう言葉を選んだわけである。

 この思いがけない申し出には、シェインは喜ぶより先に飛び上がって驚いた。
 チームメンバー以外に協力者が増えることは確かに有り難いのだが、昨日今日出逢ったばかりの人間が、
どうしてそこまで協力してくれるのだろうか――怪訝に思い、肩越しにラドクリフの様子を窺ったシェインは、
そこに見つけた光景に思わず脱力した。
 当のラドクリフは、能天気にもモバイルを片手に「よし、連絡取り合う為にもアドレス交換しようよ、アドレス」と瞳を輝かせていた。

(調子狂っちまうなぁ……同年代ってのは、こーゆーノリなのかねぇ?)

 教わったメールアドレス、電話番号を嬉しそうに登録していくラドクリフを眺めながら、
シェインはぼんやりとそんなことを考えていた。
 同年代の知り合いが出来るのは、生まれて初めてだ。それ故に様々な面でペースを乱され、
今まで経験したことのないトラブルにも遭遇している。
 たかだかモバイルのアドレスを交換し合った程度のことで、顔を綻ばせて喜ぶ意味もわからない。
 過分と思えるくらい親切にしてくれる理由も含めて、ラドクリフにまつわる様々な事柄がシェインには不可解でならなかった。
 思いがけず始まった交流ではあるが、ほんの少し前まで自分たちは赤の他人だったのである。
同年代と言うことを除けば、接点らしい接点も今日までなかった筈だ。

「なぁ、どうしてボクに手ぇ貸してくれるんだ? 今はこうやって話せるようになったけどさ、
さっきまで顔見知りでも何でもなかったじゃん。ホゥリーやレイチェルたちを手伝うんならまだしも、何でボクなのさ?」
「め、迷惑だったかな……?」
「ち、違う、違う! そんなことはない! すっげぇ嬉しいよ。うん、嬉しいのは間違いない!」
「そ、そう……?」
「ボクが言いたいのは、そーゆーことじゃなくてだな! ……なんか不思議だなって思ってさ。理由とか――あんの? 」
「そ、それは……」
「あ、いや――話しにくいことなら無理にとは言わないけど」
「だ、大丈夫だよっ! おかしなことじゃないし。……うん、大丈夫。ちょっぴり恥ずかしいことではあるけど――」

 至極当然のことを尋ねられたラドクリフは、何故だか桜色に染まった顔を俯かせ、
滲んだ羞恥を隠すようにしてモバイルを口元に宛がいながら、「――同い年くらいの友だちって、初めてなんだ」と控えめに呟いた。

「………………」

 こうしてシェインが大口を開け広げたまま固まってしまったのは、無理からぬ話であろう。
つまるところ、シェインもラドクリフも、同じことに頭を悩ませ、様々な気を遣っていたと言うことだ。
 ベクトルこそ違えどもふたりして強烈に“同年代”と言うものを意識していたわけである。

 余りにも面倒臭く、この上なく回りくどかった自分たちのことがシェインには滑稽に思えてならず、
堪える間もなく破裂したように笑気を噴き出してしまった。
 破裂した後は、蒸気船を揺るがさんばかりの大笑い。腹を抱えて笑い、身悶え、あちこちを転げ回った。

 今度はラドクリフが呆気に取られる番である。
 何がそんなに可笑しいのかを理解できず、呆けた様子で立ち尽くすラドクリフの手を引っ張ったシェインは、
彼の耳元まで自分の口を寄せると、「ボクもおんなじだよ。ラドクリフが初めての友達さ。同年代のね」と弾んだ声でそう告げた。

「あ――へへっ……、やっと呼んでくれたね、シェインくん」

 今もまだ捉え方、考え方にズレはあるようだが、見合わせる顔へ浮かべた表情は、完全に一致していると信じても良いだろう。
 シェインも、ラドクリフも――“同年代のふたり”は、心の底から愉快に笑っていた。少年らしく笑顔を弾けさせていた。

「むおおおぉぉぉ――ふたりだけでお楽しみなんて、ずっこいの! そーゆーのはみんなで分け合うもんなの! 
と言うわけで、ルディアもモリモリ混ぜるがいいの! エキサイティングピーポ〜なルディアを混ぜないとキケンなの――っ!」

 ふたりの様子を羨ましそうに眺めていたルディアが、我慢の限界に達して駆け出したのは、それから間もなくのことである。
 上空から急降下するような恰好でシェインたちにダイブしたルディアは、そのままふたりを押し倒してしまったが、
折り重なるようにして甲板の上に転がった三つの人影からは、また新しい笑い声が上がった。
 底抜けに明るい笑い声の重奏が甲板に響き渡っていった。


 遠巻きに彼らの様子を眺めていたレイチェルとヒューの口元には、じんわりと優しい微笑が浮かんでいる。
 いつの間にやら高いびきを止めたホゥリーも、興味がないフリをしているフツノミタマも、
きっとピンカートン夫婦と同じ表情でいることだろう。

 ジューダス・ローブとの決着戦から間髪入れずに発生したギルガメシュの奇襲及びルナゲイト征圧以降、
グリーニャ焼き討ち、女神イシュタルへの接触など息詰まる出来事が連続していた為、すっかり笑うことを忘れていた気がする。
本当に長い間、やりきれない悲愴感と格闘していたようにも思えるのだ。
 少年と少女が紡ぎ上げる笑いの重奏へ耳を傾けていると、
閉塞した空気や鬱屈とした気持ちが跡形もなく吹き飛んでいくから不思議である。
 蒸気船に乗り合わせた面々は、シェインたちの笑顔を通して未来への希望を久方振りに実感していた。
未来に向かって進んでいく希望とは如何なるものか、その形をシェインたちに見出すことが出来るのだ。

「嗚呼、あれこそ希望だよ、希望のカタチなんだよ。私たち人類が待ち望んだ希望はここに在るよ……っ!」

 感嘆の溜め息と共に頷くのは、築山の如く堆く盛られたカレーライスの皿を両手で運ぶフィーナである。
 ……如何とも理解し難いことなのだが、どうやら彼女の言う“希望”の定義は他の面々からは大きく掛け離れているようだ。
仲睦まじくじゃれ合うシェインとラドクリフへ視線を合わせたまま微動だにしない彼女の鼻からは、
夥しい量の鮮血が迸り続けている。
 当然、鼻血の直下には大盛りのシーフードカレーがある。真紅の洗礼を受けた彼女の皿は、
およそカレーとは思えない凄絶な色に染まってしまったが、“希望のカタチ”とやらにご執心のフィーナ本人は、
そのことに全く気付いていない。
 目の前に在る光景を網膜に焼き付けることを最優先事項とするフィーナの面妖な姿は、
初めてこれを見る人間には相当にショッキングである。
 実際、地獄の底から響いてくるかのような哄笑を漏らしながら爛々と眼を輝かせるフィーナを目の当たりにしたK・kは、
これまで経験したことのない戦慄に脳天を撃ち抜かれ、悲鳴と共に腰を抜かしてしまった程だ。
 シェインとラドクリフを捉えたまま陶酔の面持ちを一瞬とて崩さないフィーナは、
器用にも視線を別の場所へ移すことなくスプーンを操り、自慢のシーフードカレーを頬張ったのだが、
アヴァンギャルドにも程がある鮮血のソースが舌を痛撃した瞬間、「毒盛られたぁ!?」と悶絶してのた打ち回った。
 如何にフィーナとは言え、自分の鼻から滴り落ちたソースの味は受け入れられなかったようだ。
彼女はこれから血染めの大盛りカレーを食べ続けなければならないのである。

 この救いようのない痛恨の自爆には皆が爆笑し、最初の内は憮然と膨れていたフィーナもつられて噴き出してしまった。
ここまで醜態を晒したのだから、後はもう自分から全てを笑い飛ばすしかなかった。 

 一つだけ気がかりなのは、甲板を満たす喧騒の中にアルフレッドの声が混ざっていなかったことだ。
 元々、こうした場で笑い声を上げるタイプではないのだが、そうでなくても抉るようなツッコミくらいは入れてくる筈である。
ところが、冷笑も罵声もフィーナにぶつけられることはなかった。
 アルフレッドの声ならば、どんな喧騒の中であっても聞き分ける自信がフィーナにはある。
それはマリスも同じだったようで、明るい笑い声が渦巻く只中にありながらもふたりは不安げな眼差しで周囲を見回していた。
 ふたり分の瞳がひたすらに探し求めるのは、シェインたちの笑顔とはまた異なる類の“未来の希望”である。







 フィーナとマリスはついぞアルフレッドの姿を捉えることが出来なかったのだが、
それもその筈で、彼は炊き出しの呼びかけにも応じず、作戦会議が行われていた多目的ホールに居残っていた。
 これではいくら甲板を探しても見つからない筈である。
 恋人が腕によりを掛けて作り、また口にした誰もが絶賛するシーフードカレーをもってしても
アルフレッドの食指を動かすには至らなかったと言うわけだ。

 彼の口を慰めるのは、カレーをたっぷりすくったスプーンではなくシガレットである。
 と言っても、作戦会議のときのように指揮棒の代わりとして用いるのではなく、今度は火を点けてその薫香を満喫していた。
 ……否。“満喫”と言い表すのは、些か語弊があるかも知れない。
 血が一滴まで熱が失せているかのように寒々しい面を探しても、満喫などと言う感慨はどこにも見当たらなかった。
 機械を稼動させる為には油が欠かせないのと同様に、脳を働かせるのに必要だからと
無感動に紫煙(けむり)を摂取しているようにも見えるのだ。
 栄養摂取の代わりとでも言えば恰好もつくだろうが、これでは蒸気機関に石炭やコークスを注ぎ込むのと何ら変わらない。
 グリーニャを滅ぼされて以来、著しく人間味を欠いているアルフレッドは、
ついにその挙動までもが機械的と成り果てていた。

 アルミの灰皿には数え切れない量の吸い殻が山積されており、背高なシルエットは奇しくもフィーナのカレー皿と重なるのだが、
同じバロメータであっても、こちらは旺盛な食欲ではなく、密室に籠もる時間の長さを表していた。
 能動的なシェインやルディアであれば絶対に我慢できなくなるような長い間、
アルフレッドは紫煙の垂れ込める多目的ホールに籠もりきっていた。
 刻まれた時間のバロメータは、鈍い光沢にアルフレッドの心根を映してもいるようだ。
さしずめ歪な鏡と言ったところであろうか。
 アルフレッドの胸中にて飼われている殺伐の気が、吸い殻に形を借りて灰皿を占有しているとも言い換えられた。


 部隊の編制や想定される敵の戦力、戦術の有り様が事細かに書き込まれた地図と睨めっこを続けるアルフレッドは、
吐息の音以外には声一つ発することなく黙々と分度器などを手に取り、
戦闘時に於ける敵艦隊と自軍との位置関係、その距離などを測定している。
 多目的ホールに響くものと言えば、波に動揺する船板の軋み音くらいであろうか。
アルフレッドが地図に宛がう器具や鉛筆も瞬間的には小さな音を立てるのだが、いずれもすぐさまに静寂へ飲み込まれていった。
 大海の鳴き声とも言うべき軋み音はどこか耳に心地よく、その穏やかな響きは、
むしろ室内を包む静寂を助長しているように思えてならなかった。

 とは言え、最初から波の音を楽しめるほどに静かだったわけではない。
正確には、「ようやく雑音も失せて静けさを取り戻した」と言うべきなのだ。
 シーフードカレーの炊き出しにありつく為、作戦会議の参加者たちが甲板へ向かった後の多目的ホールには、
実はアルフレッドだけでなくゼラールも残留していた。
 作戦会議の最中と同じく何も語らずに押し黙ったままのゼラールが再び口を開いたのは、
他の面子が退出していくのを見送り、アルフレッドと一対一の状況になってからである。

「したり顔で如何なる策を披露するかと思うておれば、粗略も粗略。お粗末にも程がある。耳を貸してやった時間が惜しまれるわ」

 堰を切った濁流の如く溢れ出すのは、改めて詳らかにするまでもなくアルフレッドに対する皮肉や罵倒の嵐である。
 後先を考えない無謀な作戦、わざわざ海戦に及ぶ必要がない、敵の虚を突くにしても陸戦のほうが遙かに有効――
作戦会議の席で話し合われた内容を一つ一つ批判し、嘲笑を浴びせかけるゼラールだったが、
アルフレッドはその全てに無反応を貫いていた。
 作戦会議の場で何ら発言しなかった人間の意見など耳を貸す価値もない。暗にそう言い渡しているかのような態度である。
 徹底して無視を決め込むアルフレッドは、相槌一つとして打とうとはしなかった。

 自分の話が右から左へ受け流されていることはゼラールにも判っている。
 それでもなおアルフレッドに罵詈雑言を浴びせる彼の瞳は、
火災旋風でも起こすのではないかと錯覚するほどに輝きが強く、
この男の凍てついた血を熱するべく燃え盛っているように見えなくもなかった。

「――孫子曰く、“檎(とら)えんと欲すれば、姑(しばら)く縦(はな)て”」

 一方通行な罵詈雑言の嵐に変化が見られたのは、絶え間なく燃え続ける炎が冷血へ熱を与えた成果であろうか。
 ゼラールの存在を居ないものとして扱っていたアルフレッドだったが、
とある故事成語を投げかけられた途端に器具を弄する手を止め、
悪寒が走るほど冷たい眼光を目の前に立つしたり顔へ叩き付けた。

 何を言えばアルフレッドから反応を引き出せるのか、ゼラールには全てお見通しなのだろう。
 鏃(やじり)のように鋭い目つきで睨んでくるアルフレッドへ涼しい顔で応じたゼラールは、
「馬鹿の一つ覚えのように三陣を好む貴様が、よもやこの計略を知らぬわけではあるまいの?」と更なる挑発を浴びせ、
勝ち誇ったように口元を歪ませている。

「……何が言いたい?」
「敵の背後を脅かして逃げ場を奪う。そこだけを聞けば、合理的な作戦のように思えるから不思議じゃ」
「何の不思議もない。敵を全滅させようと言うときに網目を作ってどうする。
袋の鼠にしてやるのが、この作戦の最大の狙いだ」
「じゃが、退路を塞がれた敵は死に物狂いで襲ってこよう。そうするより他に活路を開く術が持ち得ぬからの。
ギルガメシュは異なるエンディニオンより漂着した者どもを難民と呼んでおる。己の同胞をな。
裏返せば、彼奴らめも難民ぞ。さしずめ武装難民とでも呼ぶべきじゃな」
「何度も同じことを繰り返させるな。何が言いたい。勿体ぶるのなら、今すぐここを出て行け」
「フェハハハハハハ――それよ、それ。窮した者はそうやって短慮を起こす」
「“窮鼠猫を噛む”とでも言いたいのか? だからどうした。ネズミ取りでも仕掛けて追い込めば容易く始末できる。
……武装難民と、そう言ったな。奴らがこちらのエンディニオンにとって異分子と言う証拠だろう? 
今は勢いに乗っているつもりだが、地の利は俺たちにある。ネズミ取りでも何でも良い。
奴らの裏を掻く方法は幾らでもあるんだ。臆病になる必要などどこにもない」
「小兵が身の丈の貴様に言うても無駄であろうが、見識はもっと広く持っておれ。
難民は難民。奴らは不慣れな土地に放り出された流浪の民ぞ。そのような者が干戈を取った意味を考えよ。
生きる為、……また、生かす為、死をも恐れぬ気概をもってして挑んでくるのじゃ。数多の命運を賭した戦ぞ」

 それは、テムグ・テングリ群狼領の尖兵として幾度となくギルガメシュとぶつかったゼラールならではの言葉であった…が、
アルフレッドとて仮面兵団との戦闘は既に経験している。
それどころか、Bのエンディニオンで初めてギルガメシュと遭遇したのは、他ならぬ彼らなのだ。
 今日の行軍へ至るまでの間に故郷を焼き払われ、親友を殺され、妹を誘拐され――
ゼラールとは解釈を異にしているようだが、ギルガメシュの性質はアルフレッドなりに十分に見極めていた。
 ギルガメシュの水兵たちを佐志に迎え撃った折には、計略を策して見事に討ち払っている。
仮面兵団の性質、思考を読み切ったからこそ、海運の要衝を守る為に先手を打てたのだ。
 これまでの戦歴を振り返ったアルフレッドは「どう言い繕っても本質は侵略者だ。血も涙もない大量虐殺者と言っても良い。
一刻も早く息の根を止めるに限る」とギルガメシュの体質を断じた。
 淀みなく言い切り、一息つくようにシガレットを銜えるアルフレッドだったが、
燻(くゆ)る紫煙の向こう側ではゼラールが白けたような表情(かお)を作っている。
 やがて呆れたように肩を竦めたゼラールは、「器が知れたな。余の申したことを半分も理解できておらぬとは。
またも時間の無駄であったわ」とアルフレッドの前言を鼻で笑った。嘲りを以て笑い飛ばした。

「逃げ道を持たぬ者たちの決死の特攻が何をもたらすのか――」

 言うや、アルフレッドの顔面へと右手を伸ばし、己の掌が焼けるのも構わず火が点いたままのシガレットを彼の口から引き抜いた。
 プロミネンスを彷彿とさせる炎がゼラールの掌より吹き出したのは、アルフレッドの鼻腔が異臭でくすぐられた直後のこと。
火傷によって滲んだ血をゼラールが『エンパイア・オブ・ヒートヘイズ』にて火炎に換えたのだ。
彼は流血を炎に変換し、自由自在に操るトラウムを備えているのである。
 木の枝に巻きつく蛇のような炎を掌に纏わせたゼラールは、何を考えたのやら再びアルフレッドの眼前へ右腕を突き出した。
彼の右手にて揺らめく炎は、その懐にアルフレッドから奪ったシガレットを抱え込んでいる。
 たちまち真っ白な灰と化したシガレットの残骸と一緒に炎を握り潰し、右の拳から立ち上る細い黒煙へ鼻をひくつかせたゼラールは、
なおも無表情を崩さないアルフレッドを一瞥すると、この張り合いのない男に呼応したとでも言うのか、
平素から見せている超然たる笑みを掻き消した。

「……戦略、戦術などと大仰なことを抜かしておったが、要は憎らしいギルガメシュめを皆殺しにしたいだけであろう? 
己がエゴに理由付けをして他の者を扇動したに過ぎぬ」

 ずけりと辛辣な言葉を突きつけたゼラールの面からは一切の表情が抜け落ちている。
 氷の彫像とまで畏怖されるアルフレッドほど極端ではないが、血の通う人間味と言うものが薄らいでしまっており、
つい数分前まで大仰な立ち居振る舞いを見せていたのとは別人の様相であった。

「貴様の私怨を満たす為に戦場へ向かわされる者どもは、何とも憐れよの。何も知らず駒のように己が命を弄ばれておるわけじゃ」
「………………」
「逃げ道など作られては大弱りよな、アルフレッド・S・ライアン。ひとりでも多くの敵を血祭りに上げたいの、それが妨げられるわけじゃ。
ギルガメシュらを一まとめにして虐殺できるのであれば、死んだ身で向かってくるように仕向けたほうが
貴様には好都合であろうな、貴様には。何しろネズミ取りの名人であるとの仰せ。さぞや余の度肝を抜くような罠を仕掛けるだろう」
「………………」
「死んだ気になって捨て身で攻撃してくる輩ほど厄介なものはない。それ故、余も貴様のネズミ取りにあやかりたいと思うておるのじゃ。
いずれ余がエンディニオンを統治せし機(とき)まで、我が愛しき従僕(しもべ)はひとりでも多く温存せねばならぬからの」
「………………」
「佐志はこれからが苦難の連続ぞ。此度の一戦で大多数の兵が敵の死力と刺し違えるでな。
じゃが、誰もが安らかな気持ちで逝くだろうよ。貴様の玩具になることを望んでおるのだろう? 
兵を預かる立場の者が、誰も望まぬ犠牲を増やすことなど断じてあるまいからのぉ」
「………………」
「……私怨を満たす代償に配下の命を放り捨て、これを当然とばかりに強いる者がおったとするなら――
そのような愚物に兵権を預かる資格などない。これこそ将兵皆を滅亡に導く癌であるからな」
「………………――………………」

 心の奥底へと指を突き入れ、人目に触れぬようひた隠しているモノを抉り出すかのようなゼラールの追及に対し、
アルフレッドは何を思ったのだろうか――彼は最後まで何も答えず、そのまま一方的に会話を打ち切ってしまった。
 黙して何も語らず、ほんの少しだけ頬を震わせたことが唯一の反応である。
それがどのような心の揺らぎを意味しているかは余人には知る術がなく、また、アルフレッド本人も永久に語るつもりはあるまい。
 再び地図との格闘に戻っていったアルフレッドを冷ややかな目で追ったゼラールもそれきり口を噤んでしまい、
いよいよ多目的ホールは静寂に支配される空間と化した。
 地図にのみ意識を集中させるアルフレッドは無論のことながら、
その彼をじっと眺めているゼラールも新たに言葉を紡ごうとはせず、
ふたりして同じ空間に居合わせながら、それぞれ異なる領域に隔絶されてしまったかのようだ。


 両者の間に垂れ込めた沈黙の長さは、灰皿にて築山を作るシガレットの吸い殻が物語っている。
ときに鏡とも比喩される鈍色の谷間には、時の刻みが埋め込まれていた。
 静寂なる多目的ホールへアルフレッドの物でもゼラールの物でもない別な声が飛び込んできたのは、
積もりに積もった吸い殻が築山の天辺から崩落しそうになったのと同じ頃合である。
 まもなくグドゥーの海域へ入ることをトルーポが知らせにやって来たのだ。
それはつまり、ギルガメシュ艦隊との海戦が間近に迫って来たことと同義であった。

「おや? お楽しみの最中でしたかな?」
「楽しんでおったのはお前のほうであろうが。香辛料の匂いが纏わりついておるわ。
凝りもせずにいつものソースでもこさえたか?」
「ライアンの仲間は大した料理上手ですよ。あのカレーが相手じゃ、俺のスペシャルブレンドもカタ無しだ。
閣下の分は弁当にして貰ったんで、腹が減ったら食って下さい」
「余計な気を回すでない。あれもまた性悪の眷属ぞ。その時点でろくでもないわ。
ピナフォアの料理を食ったほうがまだマシぞ」
「美味いメシに悪口言うのは止めましょうや。そもそもピナフォアの作ったボルシチ食って
三日寝込んだじゃないですか、閣下は」
「ボルシチ? いつの話をしておる。余を蝕んだのはトムヤムクンであろう?」
「……俺ぁ、ライアンのお仲間を閣下専属の料理人にスカウトしたいですよ。
でないと、俺たちゃピナフォアに殺されちまう」

 トルーポから向けられる意味ありげな視線をかわすように鷹揚に頷いたゼラールは、
おそらく地図から顔を上げているだろうアルフレッドに声を掛けることもなく、
ホール出口へと一直線に歩を進めていった。
 最早、この場の空気すら吸っていたくないと体現するようなゼラールの態度を察したトルーポは、
次いでアルフレッドを一瞥し、両眉でもって八の字を作って見せた。

「海戦は避けられない。……避けられない以上は各自の持ち場で全力を尽くす。それが全体戦の鉄則だ。
お前にも、お前の“隠し球”にも善戦を期待している」

 困ったような表情――あるいは、そうやってからかおうと言うのだろう――を作るトルーポとは
目も合わせなかったアルフレッドだが、ゼラールの足が室外へ出ようとした間際には、
その一声にて彼の背を追いかけた。
 思いがけず期待を背に受けることになったゼラールは、わざとらしくゆっくりと振り返り、
「軍師殿の仰せとあらば」とこれまた慇懃無礼に恭しくお辞儀を披露した。
満面に貼り付けた笑気は言うに及ばず声色までもが芝居がかっている。
 これ以上ないと言うくらいあからさまな皮肉である。

 ツンとすました仕草でアルフレッドに背を向けたゼラールは、
肩を竦めるトルーポを置き去りにして今度こそ多目的ホールを後にした。
 甲板にてピナフォアと落ち合い、そのまま自船へ戻ることだろう。目前に迫った海戦の準備を済ませるつもりなのだ。
 間もなくアルフレッドもフィーナたちを引き連れて第五海音丸へ戻り、同様に最後の支度を進めることになる。
蒸気船に赴かず第五海音丸で待機していた撫子などは、作戦内容を聞いた途端に早く暴れさせるよう催促するに違いない。

 ゼラールの後を負うべく踵を返したトルーポは、去り際にもう一度だけアルフレッドを振り返り、
「お前の立てた作戦は悪くねぇよ。でも、閣下のお考えにだって理はあるだろ? それがわからないお前じゃねぇ。
ここで全てのケリがつくわけでもねぇんだ。最後に大勝ちしたいなら、敢えて泳がすのも策(テ)だぜ」と
訓戒めいたことを投げかけた。
 甲板にて炊き出しを堪能していたトルーポには聞き耳を立てることも出来なかった筈なのだが、
アルフレッドとゼラールがどのようなやり取りをしていたのかは、おおよそ察しがついた様子だ。
 アカデミー以来の長い付き合いがなせる業と言えよう。
 馴れ合いめいた業と訓戒の両方を煩わしく感じたアルフレッドは、手を払うようなゼスチャーで退室するよう促し、
これに応じたトルーポは、くぐもった笑い声を引き摺りながら甲板へと去っていった。


 ゼラールに言われたことを反芻しようと言うのか、それとも躍起になって否定しているのか、
室内に一人残されたアルフレッドは、暫時、腕組みしながら机上の地図を見下ろしていたが、
やがて意を決したように拳骨でもって半月の湾岸を打ち据えた。
 そこには、海戦時に発生し得る様々な想定だけでなく、敵艦隊撃破後のシナリオまでもがびっしりと書き込まれている。

 手近な椅子へ乱雑に掛けておいたロングコートを取り上げたアルフレッドは、終始無言で袖に腕を通していく。
 いつもはこのロングコートをマントのように羽織っているのだが、突起か何かに引っかけて身動きが阻害されれば、
それだけで致命傷に繋がりかねない。ほんの些細なミスによって身の破滅を招くのが戦場なのである。
 乱戦ともなれば、そうした不測の事態へ遭遇する確率は一気に跳ね上がる。着こなしなどと恰好をつけてはいられないのだ。

「……老子曰く――“天網恢々疎にして漏らさず”」

 誰に聞かせるでもなく独り言のように呟いてから甲板へと足を向けたアルフレッドの背後では、
アルミの灰皿に築かれた吸い殻の山が大崩落を起こしていた。




←BACK     NEXT→
本編トップへ戻る