4.回遊魚の群れ 第五海音丸を先頭に佐志とゼラールの船団が波濤を越えつつある頃、 ギルガメシュのエトランジェ(外人部隊)も指定された持ち場につき、敵の襲来に備えていた。 ニコラスたちアルバトロス・カンパニーもこれに追従して戦地へと赴いており、 銘々が決死の覚悟で来るべき機(とき)を待ち侘びていた――と大袈裟に盛り上げてみれば 勇ましい行軍のように聞こえるのだが、実際のところ、彼らに提供された合戦場は 最前線から遠く離れた僻地であった。 つまるところ、立地的には最後尾と言っても差し支えのない場所に彼らは留め置かれたわけである。 当初は弾除け同然に扱われるとの懸念があり、熱砂へ赴く途上でもニコラスたちは精神的に相当張り詰めていたのだが、 ギルガメシュ本隊も統率の取れないエトランジェを最前線に送り込むのは危ういと判断したようだ。 大局的に見れば本隊の判断は賢明であろう。万一、エトランジェに隊伍を乱されようものなら、 そこから全軍瓦解へ雪崩れ込むのは必定だった。 最悪の展開が回避されたと胸を撫で下ろすボス、高まりきった闘争心を持て余してカリカリするディアナ、 これ幸いとばかりに敵の戦力や編制を分析し始めるトキハと、後衛に回されたことへの反応は人それぞれであったが、 良かれ悪しかれエトランジェに流れる空気は独特で、テムグ・テングリ群狼領を筆頭にする連合軍との対陣が 遠い世界の出来事のようにも思えた。 日に幾度か、喊声や爆発音が聞こえてくるものの、絶え間ない砂塵や陽炎によって視界が著しく妨げられている為、 最前線の状況を確かめるには己の耳に頼るしかない。 後は部隊に一つだけ支給されたトランシーバーを使って確認を取るしかないのだが、 これは半日おきに断片的な情報がもたらされるのみと言う役立たず。隊内では半ばガラクタ扱いされていた。 エトランジェが窮しているのは、リアルタイムの戦況ばかりではない。 相変わらずギルガメシュ本隊からの物資供給は皆無であり、後衛とは言え戦場の一角を任されているにも関わらず、 防弾用のプロテクターさえ自前で用意することを求められる始末だった。 武器売買のツテなど持ち合わせていないニコラスたちは、ただの一つも防具を得られないまま 無防備に近い状態で参戦する羽目になったのだ。 砂漠に到着して以降、まともに支給された物と言えば、真昼との気温差が四十度超と言う極寒の夜を耐える為の毛布と、 仮眠程度には何とか使える簡易テントくらいである。 主戦力へ優先的に充当している所為なのか、非正規のエトランジェには配給すら満足に回って来なかった。 皆でなけなしの食料を持ち寄り、大鍋にカレーやクリームシチューを作ってどうにか飢えを凌いで来たものの、 対陣の長期化によって材料の確保も困難になってしまった為、ここ数日は具無しのコンソメスープを主菜に 非常食の乾パンをかじる有様だった。 小競り合いに巻き込まれる確率は限りなく低い後衛であるが、代わりに物資の枯渇と言う過酷な試練を強いられており、 合戦する前から身心ともに疲弊し切っていた。 総員の磨耗と言う事態にエトランジェが陥ったことは、ギルガメシュ本隊にも確実に届いている筈なのだが、 特別に緊急支援が手配されるわけでもない。野垂れ死んでも駒の替わりは幾らでもあると突き放すかのように エトランジェの声は無視され続けた。 この過酷な状況へ真っ先にグロッキーしたのは、あろうことか部隊長のハリードヴィッヒ・シュティッヒであった。 聖職者崩れらしくローブの下に鎖帷子を着込んで勇ましく参戦したハリードヴィッヒだったが、 昼夜の極端な温度差にすっかりアテられてしまい、今では日陰に身を横たえて苦しげに喘ぐばかり。 名実ともに名ばかりの上役に成り下がっていた。 隊長としての務め――実際には上官の目を気にしただけのこと――を果たすべく無理を重ねたのも祟ったようだ。 兼ねてからの心労も影響しているのかも知れない。 ただでさえ血の気の薄い顔を一等蒼白に染め、玉を結ぶほど大量の脂汗を滴らせながら ハリードヴィッヒは胸中にて本隊への呪詛を唱え続けていた。 彼にとって上官の命令は服従が絶対であるが、恭順の態度と信頼の度合いは必ずしも一致はしていなかった。 それでいて必要なときに抗議も要請も出来ず、かえって自身の疲弊を招いてしまうのが、この男の限界である。 せめての慰みにと誰にも聞かれないような暗所で恨み節を口ずさんでいたハリードヴィッヒが転がるようにして 自身の聖域から飛び出したのは、哨戒に当たっていたエトランジェの隊員から「洋上に敵影を発見」との大情報がもたらされたからだ。 ギルガメシュの最後尾――つまり、半月の湾岸を臨む砂丘地帯に留め置かれたエトランジェは、 相手の背を押さえようとする敵の奇襲隊を正面に迎えることとなったのである。 「ど、どうしてこんな!? あってはならない! あってはならないことだ! あるはずがないィッ!!」 最前線から遠く離れた場所を任されたことで直接戦闘に参加する可能性、いや危険性は消えたものと 勝手に信じ込んでいたのだが、 その甘えた見通しは脆くも崩れ去り、ハリードヴィッヒは髪を掻き毟って狼狽した。 洋上の敵船を自分の目で確かめてもいないと言うのに悲愴な声色で女神イシュタルへ祈りを捧げ始めたのだから、 いくらなんでも先走りが過ぎるだろう。しかも、ハリードヴィッヒは一隊を預かる身でありながら 自分ひとりの加護のみを女神に求めていた。自身の預かる隊員のことは、二の次どころか意識の外にある様子だ。 前後不覚の醜態を見るに見かねたディアナは、「狼狽えンじゃないよッ! あたしらが何の為にここに来たのか、 もう一度、考えてみな! やるべきことが見えてくンだろッ!?」と大喝でハリードヴィッヒを黙らせ、 次いでエトランジェの隊員たちに臨戦態勢を整えるよう号令を出した。 ハリードヴィッヒに対して侮蔑の目を向けていたエトランジェの面々も、 巨大なガントレットに包まれた拳を振り上げて気炎を吐くディアナには、雄叫びをもって応じている。 天空目掛けて突き出されたドラムガジェットが陽の光を遮り、砂上に尻餅をつくハリードヴィッヒは その影に飲まれる恰好となったのだが、偶然とは恐ろしいもので、 ディアナを見上げる構図は彼の置かれた立場とそっくり重なっていた。 持ち前の姉御肌でリーダーシップを発揮し、皆の気力を奮い立たせたディアナではあるが、 見回す顔、顔、顔に疲弊の色は濃く、頬が痩けた者もひとりやふたりではない。 中には戦力外を申しつけるしかないほど重篤な隊員も混ざっていた。 エトランジェの隊員の中でも図抜けた闘争心を持つディアナは、もしかすると血気に逸る余り、 大切なことを見落としているのかも知れない。 仮にそうでなければ、彼女はエトランジェにのし掛かる厳しい現実を見て見ぬ振りしていることになる。 体力の衰えた者をいたずらに鼓舞し、戦場へ導いたなら、待ち受ける結末はただ一つである。 「――ディアナ、……だいぶマズいことになるかも知れんぞ」 砂丘の頂上に登って洋上を窺っていたボスがディアナに手招きをしたのは、 この危急を本隊へ報せるべくハリードヴィッヒが慌て始めたのとほぼ同時だった。 手招きする間、彼はしきりに「大変なことになった、大変なことになった」と繰り返しており、 十中八九、サングラスの向こう側では双眸に涙を溜めていることだろう。 スキンヘッドから滑り落ちた汗と、激しい動転の発露とが一緒くたになっていることは、 巨体に似つかわしくない肩の震えを見れば瞭然だった。 見れば、ボスの両隣に立つニコラスとトキハも険しい表情を面に貼り付けたまま、言葉一つ発せずに固まってしまっている。 肝っ玉の小さなボスだけならばいざ知らず、他の二人までもが身を強張らせていることに尋常ならざる胸騒ぎを覚えたディアナは、 急いで砂の傾斜を駆け上がり、丘の上からの眺望によって彼らに訪れた異変の意味を知った。 ……否、思い知らされた。 「あれは、佐志の……――」 アルバトロス・カンパニーは勿論のこと、エトランジェに属する誰よりも剛胆なディアナですら、 掠れた声でそう絞り出した後には二の句を継げなかった。 長い期間ではなかったものの、現地へ滞在していたアルバトロス・カンパニーの面々は 敵影の先頭を走る武装漁船に見覚えがあり、それが為に激烈とも言える戦慄に襲われたのだ。 トキハは船名も記憶していたらしく、ディアナの掠れ声に「だ、第五海音丸…だよね。 確かそんな名前だったハズだけど……」と呻くように付け加えた。 「卑劣な裏切りをした報いなのかも知れんな」 自分たちが佐志で行ったことを振り返ってボスが漏らした呟きは、声と言うよりも嘆息に近く、 間近でこれを聞いたディアナの面にも苦渋が充ち満ちている。 こうなることを予想はしていた。万が一、相見えることになった場合も臆することなく戦うと決意して袂を分かった筈なのだ。 ふたつのエンディニオンの間に結んだ絆を、自分たちの大切なもの、愛するものを守る為に犠牲にしたのである。 「報いとは上手い例えもあったもンだね。……上等だよ、やったろうじゃンか。泥でも返り血でも、なんだって被ってやるさ!」 「そう蓮っ葉に構えるな、ディアナ。どう足掻いても、我々の仕出かしたことが帳消しになるわけじゃない。 苦しみは尤もだが、こうなった以上は受け入れるしかないんだぞ」 「足掻く? どこの誰がだい? 悪いンだけどねぇ、あたしゃそこまでおセンチな人間じゃないンだよ。 受け入れるも何も、あたしらの邪魔するヤローは誰だってぶン殴るよッ!?」 「お前にはわかっている筈だ。わかっているから、突っ張った振りをするのだろう? ……きっとな、それ自体が報いを受けた証拠ってやつなんだろう」 「………………」 「退くな、と言うつもりはない。お前の言うように誰が敵に回っても我々は戦わなければならないんだよ。 ただ…な、そうなったときに、我々の側に正義があるなんて言うのは止めようってコトだ。 私にもお前にも、守るべきものがあって、その為に裏切り者の名を受けたんだ」 「……哲学でもしようってのかい? 難しいコト言って、萎えさせるもンじゃないよ」 「ディアナさん、それは……」 「黙っておいで、トキハ。あたしだってバカじゃないンだ、ボスの言い分だって飲み込ンでるつもりだよ。 ……守るべきモノを言い訳なンかにするもンかい」 「それを言うなら僕なんか最低ですよ。自己都合ってヤツですからね」 「卑下するもンじゃないよ。何が大切かなんて、人それぞれなンだからね。価値ってもンは世の中に一つじゃないさ」 「わかってますって。誤った道でも自分で選んだのだから、絶対に逃げたくはない。それだけです。 ……本音を言えば、めちゃくちゃ怖いですけど」 「だからって酒に頼り過ぎたら承知しないよ。正体を失くしたら、罪の意識ってもンまでブッ飛ぶからねェ」 「記憶が飛ぶような酔い方はしませんよ。でも、ちょっとくらい呑み過ぎたって、今日は堪忍してくださいよ。 酒でも呑まなきゃ戦(や)ってらんない日もあるんですから」 ……否、犠牲などと言う荘厳な表現をすれば聞こえも良かろうが、真実は醜い裏切りに過ぎなかった。 異世界に放り出され、難民となった自分たちに手を差し伸べてくれた相手の真心を踏みにじり、 あまつさえ唾を吐きかけて逃げ出したのだ。 人の道を踏み外してしまった以上、抜き差しならない事情を語ったところで悪質な自己弁護にしかならないことは、 アルバトロス・カンパニーの誰もが理解していた。 半月の湾岸へ近づきつつある者たちにとって自分たちは許されざる憎悪の対象でしかなく、 二度と交わらぬ敵同士として対峙する宿命にある。 修羅の巷での対峙は、佐志を逃げ出した瞬間から覚悟していたことで、今日と言う日にここに至るまでの間、 気構えも作って来た筈なのだ…が、心の動きと理屈とは、いつだって噛み合わないものである。 不可避の宿命が現実として眼前に現れたとき、彼らは筆舌に尽くしがたい程の罪悪感で身心を苛まれ、言葉を失った。 あるいはその痛みこそが、裏切り者に押される烙印なのかも知れない。 「私たちはひとりきりじゃない。どんな困難にも皆で立ち向かう――それが、アルバトロス・カンパニーだ」 裏切り者の烙印を押されようとも己を奮い立たせ、退くことなく戦おうと決意を確かめ合う両名の肩へ自身の手を置いたボスは、 健闘を祈るようにその背を押してやった。 白波割って走る第五海音丸の後には大小無数の船が後続しており、遠目には回遊魚の群れのようにも見える。 この猛々しい魚群を真紅の瞳でもって睥睨するニコラスは、隊内を駆け抜ける緊張や戦慄を余所に些かも揺らぐことがなく、 おそらくは第五海音丸の船上に屹立してこちら側を窺っているだろう親友へと思いを馳せていた。 「……決着をつけようぜ、アル……!」 今一度、胸中に秘める熱き思いを噛み締めたニコラスは、 鋼鉄の装甲板に包まれた右手でもってガンドラグーンの砲身を撫でた。 彼は、この機(とき)の為に数多の苦痛を乗り越え、つけるべき決着を期して熱砂の大地にまでやって来たのである。 単なる偶然か、それとも天の計らいか――ニコラスが決着の覚悟を呟いた直後、 湾岸に陣取る艦隊から巡洋艦一隻が迎撃の為に進発していった。 残る三隻は、半月の湾岸と言う最重要な陣地を敵勢に渡すまいと碇を下ろしたまま微動だにせず、 占領状態を維持し続けている。 そもそも揚陸艦や補給艦には直接的な戦闘力が皆無なので、この判断は妥当なものと言えよう。 洋上に現れた獰猛なる魚群は、巡洋艦の接近を視認しても進路を変えることはなく、 ここに至って両者の海戦は避けられない運びとなった。 「どう見る?」 「ラス君も難しい質問をするもんだね。僕の専門はマクガフィン・アルケミー(特異科学)だよ? 軍事のことなんか専門外だって」 「頭脳労働担当がよく言うぜ。お前以外にこんなことを頼めるもんか。 ……ホントはトサカ頭もいれば良かったんだけどな。あの野郎、肝心なときにはいつもいやがらねぇよなァ」 「僕が左脳で、サム君が右脳?」 「お前は理屈担当、あのバカは屁理屈担当だよ。理詰めの解析っつったら、お前しかいねーぜ。 アルが佐志の軍師なら、お前はアルバトロス・カンパニーの軍師だよ」 「おだてたって何も出せないよ、僕――」 ニコラスに請われ、またボスとディアナにも目配せでもって促されて断り切れなくなったトキハは、 僅かにも速度を落とさずに距離を詰めつつある魚群と巡洋艦へ値踏みでもするかのような眼差しを向けた。 講義に使う教材や筆記用具などを納めてある大きなカバンから酒瓶を取り出し、 ディアナから寄せられる批難めいた視線をかわしつつ三度ばかり口をつけると、 今度は呪文でも唱えるようにブツブツと独り言を連ね始めた。 「このまますれ違った場合、お互いの距離は十キロもないから……」との呟きから察するに、 両者の海戦力を分析し、ある程度の予測を立てようとしている様子だ。 と言っても、彼は自己申告の通り、軍学を専門に修めているわけではなく、軍事にまつわる知識も乏しいので、 あくまでも断片的な情報をもとにした想像の延長である。 そう言った意味では、ニコラスたちに期待された理論よりも空論に近いのだが、 それでもなお確信を得たことがトキハには一つだけあった。 「――よっぽどのことが起こらない限り、ラス君の目的は果たせるだろうね。 意中の彼が乗ってくるかは、また別問題だけどさ」 “回遊魚の群れ”に見立てることが出来るように、数の上では湾岸を脅かそうとする船団の側に利がある。 しかしながら戦力の内訳と言えば、中型の武装漁船と大型の帆船。 悪趣味な塗装の蒸気船が一隻ばかり紛れているが、武装を施しているようには見えなかった。 魚群は三列に分かれて航行おり、巡洋艦に向かって前衛と中衛は武装漁船が、 後衛は帆船がそれぞれ集結している。 第五海音丸は前衛の先頭を務め、名実ともに旗艦としての役割を担っていた。 船団の編制を見る限り、ギルガメシュが繰り出した巡洋艦とは戦闘能力の面で厳然たる落差がある。 個々の戦闘能力と言う点では、巡洋艦の圧倒的優勢だと誰の目にも疑いようがなかった。 さながら鮫か鯨の如き威容を見せつける巡洋艦が相手では、“小魚”が束になっても敵うまい。 自殺しに来るようなものだとエトランジェの誰かが言う。普通であれば、当たり前だろうと頷くところだ。 しかし、群れの中に一匹だけ恐ろしく頭の働く魚が泳いでいるとすれば、どうだろうか? それこそ、鮫や鯨をも翻弄し得る頭脳の持ち主が、だ。 先頭を往く第五海音丸か、そうでなくてもいずれかの武将漁船には間違いなくアルフレッドが乗り込んでいる―― そのことを踏まえて予測を立てたとき、トキハの脳裏へ真っ先に浮かんだのは、沈没していく巡洋艦の残骸であった。 復讐心を満たす格好の“狩り場”をアルフレッドが看過するとは考えられない。 佐志から逃げ去る間際に叩き付けられた「戦争だ」と言う吠え声は、 その迸らん限りの狂気も含めて今なお生々しく鼓膜にこびり付いている。 アルフレッドの存在が勝敗を左右することは、トキハに言われるまでもなくニコラスもディアナも理解していた。 『ネビュラ戦法』なる前代未聞の作戦を考案し、ジューダス・ローブを撃破したのは他ならぬアルフレッドである。 ふたつのエンディニオンをくまなく探し歩いても、予知能力を敗れるような人間はザラにはいないだろう。 ジューダス・ローブとの決着戦に不参加だったボスだけはアルフレッドの智謀に実感を持てず、 三人が醸し出す只ならぬ空気に合わせて、とりあえず重々しそうに頷いているが、これは例外と言うか、論外である。 知ったかぶりのボスは捨て置くとして、勝負にならないようにすら思える海戦へ臨むに当たり、 アルフレッドがどのような奇策を練り上げてきたのか想像を巡らせたトキハは、思わず身震いしてしまった。 埋め難いほどの戦闘能力の落差ですら、敵の油断を誘う罠のように思えてならないのだ。 果たして、トキハの予測は見事に的中したようである。 前方から迫り来る魚群を迎え撃たんと巨砲を発射し、戦端を開いた巡洋艦であったが、 どう言うわけか、砲弾は予測された軌道から大きく逸れ、あらぬ方向に飛び去ってしまった。 中には武装漁船を補足する寸前で高空へと急速反転し、そのまま帰ってこなかった砲弾(もの)もある。 このようにして重力に逆らう砲弾が殆どだ。 海面を抉って水柱を立て、横殴りの豪雨の如き飛沫を見舞ってはいるものの、一発として直撃はせず、 魚群の航行には何ら影響を与えはいなかった。 撃発される砲弾の全てが制御も理解も不能な弾道を描くのだから、巡洋艦へ搭乗するクルーが強行状態に陥っているのは 想像に難くない。 「自艦の砲撃が見えざる手で撥ね除けられる」。そうとしか言い表すことのできない事態に彼らは直面しているのである。 どれだけ威力の高い砲撃を加えたところで、弾丸自体が追い散らされた羽虫のような軌道を取るのであれば、全くの無意味だった。 砂丘に登って海戦を傍観するエトランジェも同様の衝撃を受けていた。 目の前で展開される手品のような光景には、ボスも含めてエトランジェの面々は目をこすりつつどよめいているが、 彼らを覗く三人にはすぐにタネも仕掛けもわかったようだ。 Bのエンディニオンへ“漂着”して以来、すっかり見慣れた現象と言っても良く、ボスたちのように恐れ戦くどころか、 むしろ親しみを抱くほどである。 ニコラスに至っては、「ひょっとしてレイチェルさんもお出ましか……?」などと恐怖とは別の意味で口元を引き攣らせていた。 「それにしても、また派手にやってくれるぜ。教皇庁のクソババァが見たら泡吹いてブッ倒れそうだな」 「プロキシなんて絶対に認めたくないだろうしね。局地的な時化とか竜巻とか難癖をつけて全否定しそうだよ」 「ああ、言う言う。それ、言いそうだわ。おまけに、そいつを聞きつけたサムと大ゲンカをおっ始めるんだよ。 全部想像できたぜ、オレ」 巡洋艦を襲った怪異な現象について談じるふたりが暢気そうに映ったのか、 「大ゲンカをやらかそうってのはこっちだろ? あンたら、暑さにやられてどうにかしちまったンかい? 気合い入れな! ほのぼのやってる場合じゃないンだよッ!」とディアナから呆れを含んだ叱声が飛んできたが、 こればかりは仕方がない。 これまで何度となく危ういところを救われた神々の力が、今度は敵に回ったのだから、 戦々恐々と身震いしてとしてもおかしくない筈なのだが、プロキシと言う単語から連想される馴染みの顔を思うと 不思議な感慨に満たされてしまうのだ。 (……ミストは、さすがにいねぇよな。ドンパチやってる場所に行くなんて言い出したら、ヒューさんは大反対するだろうな) 格別の縁を結んだ人間だけが至る複雑な心境――つまり、またもボスは蚊帳の外――に包まれたニコラスは、 ふとミストのことまで追想してしまった。 (――馬鹿野郎。手前ェは何しにここまで来たんだよ。先のことを考えたいなら、まずは決着つけなきゃだろうがッ!) 追想に至った刹那、ディアナに糾弾された通りの弛緩を悟ったニコラスは、すぐさまに首を振って気を引き締め、 自分が熱砂に立つ意味を胸中にて再度確かめた。 プロキシの加護を得ているだろう回遊魚の群れは、最早、巡洋艦の鼻先にまで迫っている。 迎撃に出た巡洋艦こそが、半月の湾岸に於ける最終防衛ラインに等しいのだが、 トキハの見立てによれば、迫り来る魚群はこれを突破して砂丘にまで攻め寄せると言う。 すなわち、『決着』のときが刻々と近付いているのだ。 熱砂と掛け離れた場所に意識を飛ばしていた為、危うくニコラスは見逃してしまうところだったが、 半月の湾岸へ一直線に遊泳していた魚群が大きく動いた。 中衛を担う一隊が急激に速度を落とし、前衛と後衛を洋上にて見送ったのだ。 機関の故障による鈍化でなければ、各隊を分散および展開させると言う作戦行動に移行したと見て間違いあるまい。 前衛と後衛は速度を落とすことなく巡洋艦へと立ち向かっていたのだが、 この二隊も間もなくエトランジェたちの度肝を抜くような機動を見せた。 巡洋艦とすれ違うか否かと言うぎりぎりの距離にまで接近したところで、 第五海音丸を先頭とする前衛が突如としてその進路を変えた。 その動きは極めて大きく、激変と言っても良い。 敵前で回頭――つまり、舵を切って大きくカーブを描いたのである。あたかもその様は、渦を巻く潮を彷彿とさせた。 所謂、Uターンにも近い回頭を行って進路を敵と同一に変更し、その横っ腹につけようと言うのだ。 前衛が敵前回頭を行う頃になると、やや二隊に遅れていた中衛の武装漁船団もようやく追いついてきた。 彼らは前衛と交差するように直進し続け、進路変更を試みる味方の間隙を縫うようにして援護射撃を開始。 これが魚群の側から繰り出された最初の砲撃となった。 この砲撃は巡洋艦にダメージを与えるのが目的ではなく、言わば敵の攻撃から前衛を守る“防ぎ矢”のような物。 先ほど中衛が見せた減速は、つまり、弓に矢をつがえる状態と同義だったのだ。 これらは全て敵前回頭と言う難度の高い機動を遂行する為に仕組まれたことで、 減速のタイミング、前衛との合流地点、高速で行き交う武装漁船同士の間隙を狙う方策に至るまで 予め計算されていたに違いない。 魚群の狙い通り、不測の防ぎ矢に翻弄された巡洋艦は前衛の回頭を阻止することもままならなかった。 帆船のみで編制された後衛は、前衛が大掛かりなターンへと動き始めてからもそのまま直進し続けている。 三隊の中で最も先行することになった後衛の狙いは、半月の湾岸に対する直接攻撃であろう。 まず間違いなく湾内に居座る三隻の撃破も視野に入れている筈だ。 砂丘からの眺望では細微な部分まで完全に見極めることは出来ないのだが、 どうも後衛には水先案内人が同行している様子である。 しかも、だ。その水先案内人とやらは、帆船に乗り込んで進路を指示するのではなく海中を魚雷の如く潜行しており、 自身の割った白波を灯火の代わりにして前衛を導いているようなのだ。 軍属時代にヒューが乗り込んでいたものと種類を同じくする潜水艇――かの名探偵に言わせると、 彼が搭乗したのは特殊潜航艇とのことだが――か、それとも別の何かなのかは判然としないものの、 槍の穂先のようにも見える白い波が帆船団の進路上にあることから、後衛の先頭を担っているのは確かであった。 位置関係から推察するに、前衛に於ける第五海音丸へ相対するのだろう。 どの帆船よりも先行して突き進む水先案内人は、言わば、後衛を司る“主(ヌシ)”のようなものである。 海面へ僅かに覗かせた背…つまり、白波の発生源には山岳のように数多の角が張り出しているのだが、 ニコラスの目に狂いがなければ、その上には人影らしきものが認められた。 無謀と言うか、器用と言うべきか、殆ど海面と接するような場所へわざわざ赴くのが先ず酔狂なのだが、 それだけには飽き足らず、角の頂点にて屹立し、余人には意味するところが全く不明なポーズを作っているそうだ。 背に張り出した角をディスプレイ用の土台に見立てると、その上に小さな十字架が飾られているように思えなくもなかった。 湾岸を奪還せんとする意図に気付いた巡洋艦は、侵攻を阻止すベく砲撃の対象を変更しようと試みたが、 帆船の一団が砲火にさらされることはなかった。と言うよりも、巡洋艦の側にそのような余裕が無くなってしまったのだ。 回頭の最中にあった前衛の武装漁船が砲撃を浴びせ掛けて来たのである。 砲撃は艦の後部に設置されているレーダー装置に集中している。先手を打って敵の“目”を徹底的に叩き、 戦闘能力そのものを奪い去ろうと言うのが前衛の狙いであった。 通常、進路変更の最中に主砲を撃つことは有り得ない。ましてや急速ターンを行いながらの発射など持っての他である。 秒速で位置関係が変わる為に敵艦との距離を測ることが限りなく困難となり、また船体への負荷によって砲身が振り回され、 照準を合わせるどころではなくなってしまうのだ。 命中精度の高い砲撃を実施するには、安定した状態の確保が大前提なのである。 ところが、魚群の前衛部隊はこれだけ難しい条件が揃っているにも関わらず、すれ違いざまに夥しい回数の砲撃を繰り返し、 全弾漏れなくレーダー装置に命中させてしまったのだ。まさしく英雄的な活躍と言えるだろう。 第五海音丸だけならばまだしも、回頭に参加した全ての武装漁船が必中の精度でレーダー装置を狙い撃ちしたのであるから、 驚異的と言っても過言ではあるまい。転じて、敵にとっては脅威にして恐怖である。 最初の内は“防ぎ矢”を繰り出していた中衛も前衛に合わせて攻撃対象を変更し、 結果、二重の大打撃を被ることになった巡洋艦は、遠距離攻撃の要と言える“目”が使い物にならなくなってしまった。 この隙に第五海音丸を始めとする前衛は回頭を完了し、巡洋艦と並走する恰好になった。 敵艦の左の横腹を捉えた前衛が搭載する全ての火力を総動員して威力攻撃に出たのは、それから間もなくのことである。 援護射撃を繰り出しながら敵艦をすり抜けた中衛の部隊は、すぐさま自分たちも回頭を試みてアーチ状に進路を変更し、 前衛の反対側――巡洋艦の右側面へと巧みに回り込んだ。 戦闘能力が猛烈に高いと考えられていた巡洋艦と雖も、こうなってしまうと為す術がない。 最初にレーダーを潰されてしまったが為に反撃の命中率は極端に低下しており、 今や“見えざる手”の影響を受けるまでもなく弾道は狂いに狂っている。 巡洋艦のクルーが砲門の向きを把握しているのかさえ疑わしかった。 手も足も出ないような状況で左右の武装漁船団から集中砲火を浴びせられては、 トキハの予測が現実になるのもそう遠くはあるまい。 撃ち込まれる砲弾は、軍艦の要とも言うべき艦橋のみに集中している。 そこに狙いを絞ると言うことは、極端な話、巡洋艦のクルーを全滅へ追い込むのに等しい。 命令系統を粉砕されようものならクルーたちは船外退避すら覚束なくなるだろう。 周到にして執拗――狂気すら感じさせる凄絶な攻撃は、アルフレッドの参戦を裏付ける証拠として十分であった。 「……わかってはいたけど、実際に見せ付けられると、なんて言ったら良いのかな――」 左右から情け容赦ない射撃を受けて装甲板が弾け飛び、 艦橋の一部が黒煙を巻き上げながら崩れ落ちていく様を目の当たりにしたトキハは、 無意識の内に口元へ掌を当て、そのまま絶句してしまった。 プロキシにさえ動じなかったトキハが、アルフレッドの演出したであろう海戦の前には周章狼狽させられているのだ。 マコシカの集落で出会って以来、不思議な縁で結ばれて親しく付き合ってきた銀髪の青年の才能を トキハは高く評価し、内心では尊敬の念すら抱いていた。 ふたつのエンディニオンの分析やネビュラ戦法の考案、リーヴル・ノワールで見せた人海戦術の妙など 脱帽に値する活躍を幾度となく目撃し、その都度、目から鱗が落ちる思いで感心したものである。 自分のような凡人では逆立ちしても敵わない天才とさえ思っていた…が、アルフレッドが秘めていた潜在能力とは、 そうした見立てすらも遥かに凌駕していたらしい。所詮、凡庸な眼力では天賦の才を測ることなど出来はしないのだと トキハへ思い知らせるほどに、だ。 凡人にとって不可侵の領域であるべき常識と言うものを、アルフレッドは悉く覆していた。 「私はアルフレッド君のことをよく知らないのだが、……これも彼の仕業なのか?」 「――だと思いますよ。こんな大掛かりなのはオレも初めて見ますけど、なにせ予知能力を封じ込めるようなヤツですからね。 アルにとっちゃ、これくらい朝飯前なんじゃないかな」 「手柄を全部アルだけの物にしたら、他の連中が可哀想だろ? 作戦指揮はあの坊ヤだろうけどさ、 そいつを実行してンのは佐志の皆様なンだからね」 「プラス、マコシカの皆さんもね。……やっぱあの船のどっかに乗ってんだろうな、ヒューさんも、レイチェルさんも……。 オレ、本気で殺されんじゃねーかな。電気アンマの刑って言われてたし」 「この期に及ンで、しょぼくれたコトを言ってンじゃないよ。ガールフレンドのオヤジがなンだってんだい! あンたのほうが逆にツブしてやンなっ! 男を見せンだよ、ラスッ!」 「……こんなときに場違いかも知れんが、もしかしてラスもそう言うお年頃になったのか? そう言うことなのか? ……うむ、その――月下氷人を立てるつもりなら相談に乗るぞ」 「月下氷人ッ! やだねぇ〜、このオヤジは。ンな時代錯誤な言い方するンじゃないよ!」 「――じゃなくてッ! 話がおかしなほうに飛んでますよ!? べ、別にオレとミストはそんなんじゃ……」 「……あの、皆さん……、僕だけシリアスになっちゃってて、温度差が大変なことになってるんですけど……。 ディアナさんまでそっちのグループに行っちゃったら、本当、空気が緩々になりますから」 「ま、待てよ、“そっちのグループ”ってなんだよ。オレだってアルとケリをだなぁ〜」 「いいから、ラス君。ムリしなくても。思う存分、将来のお義父さんと血みどろバトルをやってたらいいよ」 「お、おい! お前まで何言ってんだよっ!」 緊迫感の欠片もない大脱線はともかく――予知能力ばかりか、船体の動揺と言った物理的条件さえも掌握し、 思うがままにコントロールしたアルフレッドの戦術眼は末恐ろしいと言うより他なく、トキハは震える我が身を掻き抱いた。 アルフレッドが軍師、作戦家と持て囃される所以を、敵と味方とに別れたことでトキハはハッキリと実感したのだ。 最早、トキハにはアルフレッドのことが人ならざる化け物のように思えてならなかった。 胸中に湧き上がった感情は、畏怖と言うべきかも知れない。 ことここに至った以上は直接対決の回避は難しかろうが、無策に近い現在の状態で来襲を迎え撃ったところで、 果たして勝負になるのだろうか――兵力の有利、戦闘力の不利などを論じる以前の問題に行き当たったトキハは、 アルフレッドが放つ恐ろしさの前にひとり立ち竦んでいた。 口元に手を当てたまま、「揚陸艦がやられたら、もうここは用無しになる。そうなれば僕らは置き去りに……」と呟く彼の双眸は、 今まさに湾内へ入り込もうとしている帆船を捉えて離さない。 「――っとと、バカみたいに見取れてる場合じゃなかったね。一丁、あたしらも臨戦態勢と行こうじゃないか」 未だに正体の知れぬ水先案内人に先導された帆船が砲撃体勢へ移行するのを湾上に認めたディアナは、 エトランジェの総員に「あともう一時間もしない内に上陸戦が始まるからね! 死にたくなけりゃ、とっとと武器取りな! これから襲ってくる連中は、並の雑魚とはケタが違うよッ!」と檄を飛ばし、それぞれの持ち場へと走らせた。 湾内で海戦が始まれば、帆船から発射された流れ弾が砂丘にクレーターを穿つことも十分に考えられる。 既にここは激戦区と化しているのだ。 両の頬を叩いて気合いを入れ直したボスは、アルバトロス・カンパニーに宛がわれた簡易テントへと駆け出していった。 彼の“得物”は携行に不向きである為、滅多なことがない限りは手元には置いていないのだ。 あるいは、「とてもじゃないが、用もないのに手持ちなどしていられない」とも言える。 本来、隊長としてエトランジェを指揮しなければならない筈のハリードヴィッヒは、ボスと入れ違いで砂丘にやって来た。 敵影出現をトランシーバーでもって本隊に報せたハリードヴィッヒであったが、 敵船の詳細すら確認しない内に気持ちばかり焦って連絡したことを厳しく叱責されたらしく、 面からは殆ど生気が抜け落ちてしまっている。 全身を落ち着きなく揺すらせていることもあり、殆ど幽霊のような風体だ。 それでも上官からの命令を完遂するべく双眼鏡持参で砂丘を駆け上がったものの、 自分の知らない間に戦況が大きく動いていたこと、また巡洋艦が黒煙を噴いていることを知って腰を抜かし、 「だ、誰か……誰でもいい……誰か、ワタシの頬っぺたを抓ってくれ! ……夢だろう、これは!? 悪夢でなくてはならないィッ!」と 取り乱した挙句、またしても女神イシュタルへ祈りを捧げ出した。 律儀と言うか何と言うか、今度もまた自分ひとりが助かるよう必死になって求めている。 首からベルトで提げているトランシーバーが重大な情報を報せてきたと言うのに、 完全に我を失ったハリードヴィッヒはそれにも気付いていないようだ。 『両軍の先鋒同士が戦闘に突入。我が軍はこれよりデザートイーグル作戦を実行に移す。 繰り返す――我らはデザートイーグル作戦を実行する』 トランシーバーからはもたらされたのは、紛れもなく全軍激突の報せであった。 「ラス君ッ!」 「ああ、……もう後戻りはできねぇッ!」 先ほどとはまた別の意味で面を強張らせるトキハと頷き合ったニコラスは、 バズーカモードにシフトさせてあるガンドラグーンを脇に抱えると、砂を蹴って自身の持ち場に向かっていった。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |