5.敵艦見ユ ギルガメシュのエトランジェを沸騰させた敵影発見より一時間余り遡り、 また、視点そのものを砂丘から敵影の側に移し――ニコラスたちを震撼させた張本人であるアルフレッドは、 第五海音丸の舳先に腕組みしながら屹立し、水平線の彼方に姿を現した陸地を鷹の如き眼差しで睨み据えていた。 現在のところは陸地との間に相当な距離がある為、水平線へ新たに薄い層が積み重ねられたようにしか見えないのだが、 幾らも経たない内に件の層は厚みを増し、立体的な形状を得て、これを地形と認識できるようになる筈だ。 陸地を発見してから数分と立たないうちに窪みと思しき奥行きを感じられるようになったのが何よりの証拠で、 その地点こそが目的の、いや、“標的”の入り江であろう。内側を抉るかのような窪みには、 四つばかりの大きな影も見て取れる。 遠目には台形のようにも見える歪なシルエットは、それが艦船であることを明示している。 地図、海図で位置関係を確かめるまでもなく、目の前に広がるこの陸地こそが半月の湾岸であると今や誰もが確信していた。 甲板を駆け回りながら臨戦態勢を整える佐志の仲間たちを掻き分け、頬に汗して舳先までやって来たマリスだったが、 彼女の目当てであるアルフレッドは、“恋人”から名前を呼ばれても全くの無反応。 振り向いて返事するどころか、呼び声を背に受けて肩を揺すらせるとか、そうした細微なリアクションさえ見られない。 先日来の諍いのこともあって怯みそうになる気持ちを懸命に奮い立たせたマリスは、 それでもなお震えの止まらない両足に叱咤の念を宿らせ、アルフレッドの隣へと歩を進めた。 ここで退いては本当の意味で心が折れてしまうとまでマリスは思い詰めており、 その暗澹たる焦燥感が彼女の身心を突き動かしている状態だった。 「ここが正念場ですわね。この大地に、海に、空に輝かしい未来を築くには、血の戦と言う天与の試練を乗り越え、 茨と獣の道を分け、人の往く道を切り拓かなければなりません。わたくしたちがその先駆者となるのですね……!」 マリスのほうから改めて声を掛けられたアルフレッドは、面倒だと言わんばかりに露骨に顔を顰め、 「そうだな」と短く気のない返事で適当にあしらおうとした…のだが、 彼女の出で立ちを目端に捉えた瞬間、強力な磁場へ引き寄せられるような勢いで首を振り回した。 アルフレッドにしてはオーバーなリアクションだが、マリスから発せられる磁力の前には、 そのようにして振り返らざるを得なかったと言うべきだろう。 「やっと振り向いてくださいました」といたずらっぽく喉を鳴らすマリスのシルエットは、 普段とは全く異なる雰囲気を醸し出していた。 「……いつそんな服に着替えた? いや、そもそもそんな服を持っていたか?」 「アルちゃんを楽しませる為に四六時中美しくありたいと、そればかりを朝も昼も夜も磨いていますが、 美の研鑽に努めていられるのは平時の特権。いえ、戦時だからこそ、愛でたいと言う気持ちもあるでしょう。 けれども、今のアルちゃんを一番に支え、最も力になるには、美ではなく武の備えが――」 「鬱陶しい能書きは要らない。質問に答えろ」 「わたくしも合戦場に出る以上は、相応の恰好をしなければならないと考えたのです。 アカデミーの軍服は手元にありませんでしたので、急拵えではありますけど……」 「急拵え? それでか? 大したものだな。合戦の為に一から全て新調したのは、お前くらいだろう」 「誉めて…くださいますの?」 「当然だ。周りを見てみろ、フィーなんぞ靴を履き替えたくらいだぞ。ハーヴに至ってはプロテクターさえ拒否している。 お前以外に殊勝なのはローガンくらいだ。尤も、あいつだって革の鎧。身のこなしを妨げない工夫らしいが、 それはともかく危なくて見ていられない。その点、お前は戦地を十分に理解した上で着る物を選んでいる。 俺も見習わなくてはならないな」 「ありがとう…ございますっ!」 望外の賞賛が嬉しくてたまらないのだろう、護身用にと持ち歩いている金属製バットを握り締めたマリスは、 腰を落としてバッターのように構えを取ると、「わたくしもアカデミー出身者の端くれ。立派に初陣を飾ってみせますわ」と、 聞きようによっては物騒極まりないことを屈託もなく宣言して見せた。 ただでさえ本来の用途から外れていると言うのに、これでは完全にニュースで比喩される「硬い鈍器のような物」の扱いだ。 すりこぎ棒で胡麻でも潰すかのようにバットを回す様子と出で立ちとのギャップは滑稽の一言で、 アルフレッドの傍らにて作戦の打ち合わせをしていたネイサンは、 「すごく似合ってるんだけどね。いや、似合ってるからこそ、そのカッコでおっかないマネ、しないほうがいいんじゃないかなぁ」と 苦笑を浮かべている。 本当なら腹を抱えて大笑いしたいところだが、そこはネイサンである。 アルフレッドとは比べものにならないほど異性との接し方を心得ている彼が、そのように失礼な真似をするわけがなかった。 得も言われぬギャップを醸し出すその出で立ちとは、いつも身に纏っている艶めかしいドレスではなく、 彼女曰く、「武の備え」と言う機能性を重視したもの。熱砂へ赴くに当たって新調し、今、初めてお披露目する装いであった。 いわゆる、もんぺ姿である。 縦長の楕円を描く古めかしいズボンは裾の内側に紐を通してあり、これを脛のあたりで縛ることによって軽妙な足裁きを確保するのだ。 もんぺに次いで目を引くのは、両肩に掛かるフードケープ。現在は下ろしてあるものの、戦闘時にはこれを防空頭巾のように被ると言う。 防具としての機能を果たせるだけの丈夫な素材を使ってあり、これを一目で見抜いたからこそアルフレッドは感嘆の声を上げたのだ。 普段は両サイドでゆったりとまとめるランプブラックの長い髪も、動きやすさを優先させてポニーテールに結い上げている。 成る程、マリスが用意したのは、いかにも“アルフレッド好み”と言う服装だった。 それでいて華やかな装飾や着こなしを忘れないのもマリスらしい。 もんぺに合わせてチョイスされた呉服の裾には胡蝶の刺繍が贅沢な程に鏤められており、 そのロングコートのようなシルエットをふわりと翻せば、風に靡いて艶やかな飛翔を楽しむことが出来るだろう。 呉服の腕まわりは身動きが取りやすいよう既存の物よりも幾分絞ってあり、上着と比べて少し長めの襦袢が袖口から覗けている。 もんぺの内側に納められた裾はともかく、本来、端然と閉ざされているべき衿は開(はだ)け気味で、 そこに現れた豊かな膨らみにはネイサンも目のやり場に困っていた。 この場にトリーシャが居合わせなかったのは、ネイサンにとって何よりの幸いだろう。 大胆な着崩し方をするマリスと一緒に居るところを目撃されようものなら、 「目がいやらしい」「よだれ垂らしてバカじゃないの」だのと謂われのない難癖をつけられた挙げ句、 想像を絶するようなお仕置き――これもまた冤罪の成れの果てなのだが――を喰らわされた筈だ。 呉服の上からボディーアーマーを着用しているので、身体のライン自体は覆い隠されているのだが、 ある一部分の色気だけはかえって強調されており、ヒューあたりが鼻の下を伸ばして悦びそうである。 おそらくはマリスの狙いも自身の“武器”の強調にあったのだろうが、果てしなく朴念仁なアルフレッドの場合、 胸元ではなくこれを防護するサラシに注目し、「そうだ、急所への備えは怠るな。頭と胸は一撃が致命傷になりかねない。 お前の場合、その心配もなさそうだがな」などと“防空頭巾”と合わせて見当違いの評価を与える始末。 束ねた髪には上から下までデコレーションのようにリボンを絡めているのだが、 羽衣の如き美麗なシルエットにもアルフレッドは一切触れていない。 服装替えのことを賞賛しておきながら機能性のみを取り上げるアルフレッドには、 さすがにネイサンも呆れ返り、「僕も女心には疎いほうだけどさ、いくらなんでもあんまりじゃない? そこまで極まっちゃったら、僕にだってフォローのしようがないよ」と首を横に振って見せた。 「お前が何を言っているのか、さっぱりわからないんだが……。 俺がいつマリスを貶した? これでも誉めたつもりなんだがな」 「いや、コケにしたなんて言ってないよ? たぶん、これ、誉めてんだろ〜なぁとは思ったけどもさ、 僕が言いたいのは、どこを誉めるかってこと」 「身なりのことを言っただろう、俺は」 「ちっがう! アルってば全っ然わかってない! それじゃ、マリスさんだっておめかしのし甲斐がないよ――ねぇ?」 「良いのですよ、ネイトさん。わたくしがあつらえたのは、あくまでも『武の備え』。 ドレス姿は然るべきときに披露いたしますので。 わたくしなりの気構えをアルちゃんに誉めていただけたのなら、それで本望なのです」 「見ろ、お前の言いがかりが破綻したぞ」 「だ〜っ、もう……――バカップルって言うか、なんて言うかっ。戦いに関しては何でも知ってるけど、 世間のことはからっきしだよね、アルは。もうちょっとさ、社会勉強っちゅ〜のをしたほうがいいよ? 僕、アルの先行きが心配だよ」 「ゴミ拾いが趣味な奴に言われたくない」 「趣味じゃなくてお仕事っ! あと、ゴミじゃなくて有価物っ! リサイクルっ!!」 ネイサンの指摘した通り、本音では華やかな部分に注目して欲しかったのだが、 それでもアルフレッドが持ち合わせる最大の賛辞を引き出せたことに変わりはなく、 マリスにはそれだけで十分だった。 アルフレッドからの賞賛を振り返り、その恍惚な響きを噛み締めたマリスは、 無上の喜びとまで謳って真紅の瞳を潤ませている。 どこまでも愛想、愛嬌を欠くアルフレッドの相手が馬鹿馬鹿しくなったのか、 恋人から向けられる如何なる言葉をも好意的に解釈し、陶酔してしまうマリスの様子に気持ちが折られたのか、 「バカップルには付き合ってらんないよ!」とボヤいたのを最後にネイサンはがっくりと肩を落としてしまった。 気落ちするかのようなネイサンの言行を目の当たりにしたことで、アルフレッドにも我が身を省みる気持ちが芽生えたらしく、 「こんなことをしている暇はない」と言う内心を満面に貼り付けつつも、今度は自分からマリスの様子を窺った。 「……守孝だろう?」 「はい。タスクが動きやすい服装を、とかけあってくれました。……でも、守孝さんの手配りとよくおわかりになりましたね?」 「あいつは人のことを着せ替え人形のように見ているらしいからな。顔に似合わず気色の悪いことをしてくれる。それだけは困りものだ」 マリスが穿いているもんぺとは、そもそも佐志にて伝統的に使われてきた女性用の作業ズボンである。 合戦場へ赴くに当たって最適な服装を求めたマリスの為、タスクは守孝に掛け合ってもんぺや呉服を仕入れ、 更に短時間で華やかな装飾を施したのだが、その際に佐志の代表格は「タスク殿もお目が高い! これなる品々は我が佐志にとって由緒正しきものでござる。それをお取り上げ下さるとは、 いやはや……感無量にござるぞ」と諸手を挙げて喜んだそうだ。 佐志の伝統的な衣服が外からやってきた人間の目に止まり、ことのほか嬉しかったのだろう。 周りが引くほどに守孝の感激が熱烈だったと言う話は、マリスもタスクから聞かされていたのだが、 どうやらアルフレッドも同じような出来事に遭遇していたらしい。 尤も、彼の場合は少し事情を異にしている。 作戦の指揮に適した小道具をオーダーしたアルフレッドに対し、何をどう拡大解釈したのか、 守孝は「されば、アルフレッド殿! 陣羽織などは如何でござろうか!? 佐志武者が古来より愛用して参った逸品でござる! アルフレッド殿に似合う品もありますれば! 是非是非、是非にともッ!」などと言って素っ頓狂な品を勧めてきたのである。 陣羽織とは、やはり佐志で伝統的に用いられている戦装束だ。 呼んで字の如く、指揮官が陣中にて防寒や士気昂揚の目的で身に纏うコートの一種なのだが、 風情を楽しむ心のゆとりを欠いていると言うか、そうした事柄への理解が薄いアルフレッドには コスチュームプレイのように思えてならず、げんなりとした声で即座に採用を断ったのである。 ところが、何故か守孝のほうが「何を申される!? 己が身を守るばかりではなく、兵の心持ちも奮い立たすが陣羽織ですぞ!? 幸いにしてアルフレッド殿に似合いの品もござる! 智の神の紋様を刺繍した陣羽織は如何か!? いざ、いざいざいざいざ!」と引き下がらず、すったもんだを繰り返した末に源八郎の助けも借りて 力ずくで押し返した経緯があった。 グリーニャの難民やマコシカの疎開者を佐志に迎え入れ、また何かと世話を焼いてくれる守孝のことは アルフレッドも心から信頼を寄せており、戦闘に於いては背中を預けても良いとさえ考えているのだが、 被害者当人曰く、着せ替え人形ばかりはどうにも許容できなかった。 着せ替え遊びが趣味と言う不名誉な風聞が立ちつつある守孝は、 星兜に大鎧、大太刀に鎧通し――小刀のようにも見える武器の一種で、 貫通力の高い尖端で相手の防具を刺し通す――と言う、佐志の男らしい武者姿で源八郎と何やら打ち合わせをしており、 色々と誤解したらしいネイサンに「髭モジャの面構えで着せ替えごっこってさ、妙に似合ってるよね。もちろん、悪い意味でね。 ……付き合い方、考えたほうがいいかねぇ。僕までオモチャにされちゃうよ」などと 陰で手酷く言われているとは想像もしていないだろう。 マリスなどは腰の帯に携える鉄の投網を見て「まさかと思いますけど、あの網で人さらいをして、それで……」と ネイサン以上に失礼な放言を続けているが、これらは彼の名誉を大きく傷つけるものであった。 自分を睨めつける善からぬ目など感付きもしない守孝は、右の脇に鉄芯の入った強弓(こわゆみ)を抱え、 対となる左の手には一本の矢を握り締めて勇猛な佇まいを見せつけている。 機(とき)が来れば、この強弓を勇ましく射(う)ち放つのだ…が、左手に持つ矢は尖端の形状が変わっており、 ともすれば敵を貫くには不向きなように見えた。 通常の矢に於いて鏃に該当する部分が二股に割れている点がまず衆目の目を引く。 矢の本体とも言うべき一文字の箆(の)と変わり種の尖端との間には漆塗りの円筒が噛ませてあり、 その不思議なパーツの尻を緋色の飾り紐が横に貫いていた。 守孝の脇をすり抜けて船の後部から駆けてきたローガンは、 ヘッドフォン型の無線機を通して電波の向こう側の状況へ神経を尖らせるアルフレッドの肩を小突き、 「隣のお船、スピードを落とし始めたで! ぼちぼちやな!」と一人で勝手に燃え上がっている。 無線連絡を行っている人間には大迷惑な話で、苛立ち紛れにアルフレッドはローガンの向こう臑を蹴り飛ばしてやったのだが、 すっかり白熱するこの男はハイタッチの代わりと勘違いしたらしく、ご陽気な笑い声と共にまたも肩を叩かれてしまった。 砂丘より洋上を窺うギルガメシュのエトランジェをして魚群に喩えられた佐志・ゼラール軍団の連合船隊は、 第五海音丸を中心に構成された前衛、源八郎所有の星勢号を先頭にする中衛、 ゼラール軍団の帆船のみで編制された後衛と、三つ叉の鉾の如き陣容に分かれて航行している。 この内、第五海音丸と併走する星勢号の速度が徐々に減速し始めていた。 つまり、後続する各船も同様に速度を落としていることになる。 じわりじわりと距離を遠ざけていき、やがて前衛と後衛の視界から消えてしまうだろう。 これは中衛が何らかのトラブルに見舞われたと言うことではない。 次なる作戦行動の前段階として中衛各船の速度を意図的に落とし、前衛・後衛の二隊を先行させたのだ。 星勢号の舳先に立ち、「親父様、こっちは俺らで何とかしますんでっ! 心置きなく戦ってくださいっ!」と 源八郎に向かって声を張り上げているのは、彼の愛息にして権田家の船を預かる源少七(げんしょうしち)である。 父親譲りの人懐っこい面立ちだが、佐志の男児らしくこの青年も根っからの武闘派で、 ギルガメシュを浜辺で返り討ちにした陽動作戦にも参加し、一騎当千の力闘ぶりを見せ付けて襲撃者たちを震え上がらせていた。 頭の形にフィットするよう調整された鉄兜に大袖(※肩を守る部品)のない胴鎧と言う守孝に負けず劣らずの武者姿だが、 源少七の場合は動きやすさを追究した結果、フンドシ一丁で具足を身に着けるようになり、 なまじ端正な面立ちである為、女性陣からは色々な意味で戸惑いの声が出ていた。 武辺を地で行く守孝や父親の源八郎でさえ袴は穿いているのだが、どれだけ窘めても源少七は言うことを聴かないそうだ。 「着物が水に濡れたら大変だ。重くなるし、体にまとわりつく。それじゃあ戦働きにも支障で出るってもんです」とは本人の弁。 正真正銘の無骨物なのだ。 具足を直接素肌へ纏うのではなく、鎧下――衣服と鎧との間に挟みこむ装備のことだ――の代わりに アザラシの毛皮を宛がっているものの、露出の度合いは殆ど変わっておらず、 むしろ「そのカッコのほうがマニアックな趣味に見える!」と根も葉もないことを言われる有様であった。 余談はさて置いて――父の健闘を祈りながら高空へ翳しているのは、鋭利な銛を射出する水中銃だ。 他にもノコギリ状の短剣や手投げ用の小刀を腰に携えているが、 中でも特に源少七が得意としているのが、この水中銃である。 射出用の銛には捉えた標的の肉を抉って身動きを封じる突起――いわゆる“返し”が付いている他、 水中銃と強靭なワイヤーで連結されている。このワイヤーは水中銃に備わったギミックを使うと高速で巻き上げることが可能であり、 標的を手元まで一気に引き寄せられるのだ。 大抵の標的は初撃の銛を受けた時点で絶命しているが、大型クリッターなどを狙う場合は 先述のギミックを使って急速に引き寄せた上、ワイヤーを巧みに繰って縛り上げ、ノコギリ状の短剣でもって仕留めると言う。 この一連の必殺フルコースは源少七をして『活閻羅(かつえんら)』と命名されており、 余程の強敵が相手でなければ決して使わないのだと、息子に代わって源八郎がアルフレッドに説明していた。 丁度、守孝と源少七の稽古を目撃したときのことだ。今年で二十歳になったばかりと言うが、相当な場数を踏んでいるようで、 模擬戦でも守孝に引けを取らず、数分ばかり眺めただけのアルフレッドにすら将来の大器を想像させた程である。 父に代わって源少七が星勢号を守り、また中衛を担うのであれば何の問題もないとさえアルフレッドは考えていた。 星勢号を溌剌と切り盛りする源少七に頼もしげな眼差しを向けていたアルフレッドは、 次いで溜め息混じりにローガンを睨みつけた。 なおもローガンは理解(わか)っていないようだが、彼に大声で喚かれなくとも無線でもって委細を承知していたのだ。 騒がれれば騒がれるほど、肩を叩かれるほどにアルフレッドの集中は妨げられていたわけである。 何を言っても無駄だと悟り、ローガンを諌めることを諦めたアルフレッドは、 気持ちを落ち着けるように、考えをまとめるように暫し瞑想し、それから真紅の瞳を守孝へと向けた。 押し黙ったまま強弓を握り締める守孝は、指示を仰ぐようにしてアルフレッドをじっと見つめている。 その守孝と向き直ったアルフレッドは、何かを彼に託すかの如く重々しく頷いて見せた。 「――承知ッ!」 アルフレッドが視線に込めた想いを汲み、裂帛の気合を上げて舳先に立った守孝は、 変わり種の矢を強弓につがえ、軋み音が鳴るほどに弦を引き絞ると、高空に狙いを定めて右手を解き放った。 矢の前方へ接がれた円筒が奏でているのだろうか――不思議な音色を供連れにして蒼空へと飲み込まれていったその一矢を、 第五海音丸の甲板に立つ全ての者たちが見送った。 「あっ、今、鳥の鳴き声みたいのが聴こえたよっ」 源八郎と同じく作戦完遂の為に第五海音丸に乗り込んでいたラドクリフは、守孝の放った矢にいたく興味を引かれたようだ。 船内を案内していたシェインの袖を引っ張りながら無邪気に燥(はしゃ)ぎ、矢の消えていった空をしきりに指差している。 「鳥かぁ? そんな可愛い音だったっけ」 「えー、違うかなぁ。シェインくんにはどんな風に聴こえたの?」 「んー、よくわっかんないけど、笛っぽくなかったか? えっらい速さでブッ飛んでったからよくわかんないけど」 「笛? チャララーララ、チャラララ〜って?」 「そりゃチャルメラだろ。笛じゃなくてラッパじゃんか。どーゆー耳してんだ、お前」 「うぅ……はずかしい……トルーポさんの刷り込みなんだよぅ。あの人、吹奏楽器は全部そのメロディで例えるんだもん」 「アバウト過ぎるだろ。大雑把って言うか、一種類に限定するほど面倒くさいことかよ」 「お陰でいい迷惑だよ。あの人、突撃ラッパだって何だって、いっつもいっつも同じメロディで説明してくるから、 完全に毒されちゃってるんだよ、ぼくら。今みたいに無意識にチャルメラになっちゃうんだよ」 「大体、なんでチャルメラなんだよ。ボクも音楽はあんま得意じゃないけど、 吹奏楽器がチャルメラ以外にたくさんあるってことくらいは知ってるぜ」 「理由がわかんないんだよねぇ。アタマをグリグリされちゃうから滅多に言えないんだけど、 トルーポさんもね、結構、変なトコが多いんだよ」 「あのニィちゃんもラドには言われたくないだろ〜な」 「あっ、なにそれ。ひどいなぁ〜。一品一品料理のニオイを嗅いでからじゃないとごはん食べれないとかさ、 そんなおかしなことはぼくだってやんないよ」 「なに? あのニィちゃん、ンなことしてんの?」 「――あ、今のはピナフォアおばさんのハナシね。あの人、頭のネジが十本くらい抜けちゃってるもの」 「……しれっと他の人の悪口言うなよ。話飛び過ぎて随いてけねっての」 チャルメラかどうかはともかく、守孝が強弓から放った矢は鳥の囀りのようにも、 笛のようにも聴こえる音色を軌跡の代わりに残していった。 ラドクリフの好奇心はその音色が意味するところへ一直線に向かっているのだが、 儀礼的な趣を感じられる事柄へ敏感に反応するのは、言わばマコシカの民の性分なのだろう。 「――で、あれは、なに? 特別な矢なの? ぼく、あんなの初めて見たよ」 「それをボクに聴くかぁ!?」 「だって、シェインくんが一番詳しいでしょ? 佐志の皆さんと一緒にいるんだし」 「あのなぁ、一緒にいたら何でもかんでも相手のことを知ってるってのは、ちょっと乱暴な見方だぞ? じゃあさ、例え話な。ボクとお前は、こうして一緒にいるけど、だからってお互いのことを全部知ってるか? 違うだろ? そーゆーことなの。そりゃボクだって興味はあるけどさ」 「興味って、……ぼくに?」 「お前、頭沸いてんじゃねーのか? ボクが興味あんのは、守孝のおっちゃんのアレだよッ! 気色悪いこと言うな!」 「あはは――そう返してくると思った。ぼく、シェインくんのことならちょっとだけ理解(わか)ってきたかもしんないよ」 「おま…、この…! からかいやがったなぁ〜」 「だって、ぼくのほうはシェインくんに興味津々なんだも〜ん」 「だから、気持ち悪いこと言うなっつーの。それに興味の的がズレてんだろ。おっちゃんの射った矢はもういいのかよ?」 「あっ――そうだった。……うん、そうだったね……」 「……ボクもお前のこと、なんとなく理解(わか)ってきた気がするよ」 今しがたの放矢について尋ねられたシェインだったが、彼も佐志の文化に詳しいわけではなく、 答えに窮した挙句、ふたりして首を傾げてしまった。 それはそうだろう。確かに佐志はグリーニャの人々が移り住んだ避難先ではあるが、それもごく最近のこと。 生まれ育ったわけでもなければ、幼少期を過ごしたわけでもないシェインには、最初から答えようのない質問だった。 「お孝さんが射ったのは鏑矢(かぶらや)って言うんだよ」 「――源さん……?」 「いやなに、シの字たちが佐志(うち)の話をしてるのが嬉しくなっちゃってね。お邪魔でなけりゃ、おっちゃんも混ぜてくんな」 困り顔でウンウン唸るシェインを助けたのは、聴くともなしにふたりの会話を耳にした源八郎だった。 「カブラヤ? ぼくも弓のことは自分なりに調べてみましたが、カブラヤと言うのは初めて聴きました」 大きな瞳を見開き、身を乗り出して質問してくるラドクリフの頭を愛でるように撫でつけた源八郎は、 「こいつぁ、勉強熱心な生徒さんだ。教え甲斐もあるってもんよ」とカラカラ笑い声を上げた。 守孝が佐志の陣羽織を強引に売り込んだ際には、呆れ返って羽交い締めにしたものだが、 好奇心を素直に表すラドクリフや、興味のない素振りをしながらもしっかり聞き耳を立てているシェインを眺めていると、 親友が熱心――と言うか、躍起――になった気持ちへ自分も近付いていくから不思議だ。 そう自覚したからこそ、源八郎は相好を崩したのである。 不意に源八郎から頭を撫でられたラドクリフだったが、くすぐったそうにはにかんではいるものの、 心の底から厭がっているわけではなさそうだ。 この唐突にして磊落なスキンシップにラドクリフが驚いてしまわないか、内心で案じていたシェインは、 自分の取り越し苦労で終わったことに安堵の溜め息を漏らした。勿論、ラドクリフの耳に入らないように気をつけながら、だ。 「鏑矢ってのは、早い話が佐志に古くから伝わる儀式さぁ。あーやって音の出る矢を射って、 合戦をおっぱじめる合図にしたっつー話だよ。尤も、オイラだって実戦でアレを見るのは四十二年生きてきて初めてだがね」 「あの妙ちきりんな矢を? ……ああ、それでか。ブッ刺さりそうにない矢は、ありゃあ、儀式用の物なのな」 「以前、斬り裂くのを目的にした鏃を見たことがありますけど、そう言う変形の物とも少し違うみたいですね。 もっとこう、根本的な考え方が違うと言うか……」 「シの字よォ、お前さんの友達はなかなかの目利きだねェ〜。そうなんだ、あれは鏃じゃあないんだよ。 先っぽのアレを鏑(かぶら)って言うんだ。ざっくばらんに言えば、鏃の親戚みたいなもんだがね」 第五海音丸の船体が大きく揺らいだのは、源八郎が守孝を真似て弓矢を射る仕草を実演した直後のことだった。 弦を引くような姿勢のまま、動揺に合わせてスケーターの如く甲板を滑った源八郎は、 「つまりな、こう言うことさァ」とカラカラ笑い声を上げた。 連合船隊の旗艦とも言うべき第五海音丸は、前方から迫り来る敵艦に対してより優位な位置を確保すべく舵を切ろうとしており、 それに伴って小さからぬ負荷が甲板へ圧し掛かっているのだ。 半月の湾岸より迎撃に漕ぎ出してきたのは、アルフレッドの読み通り、敵艦隊の主力たる巡洋艦である。 第五海音丸を先頭に敵の巡洋艦へ突撃していく前衛は、今まさに作戦の第二段階へ移ろうとしていた。 先んじて減速し始めた中衛も、舵を切らずに直進し続ける後衛も、事前の打ち合わせ通りに前衛と連動している。 源八郎も「こう言うこと」と仄めかしていたが、守孝が強弓を以てして放った鏑矢こそが 作戦を第二段階へ移行させる合図であった。 鏑矢の持つ性質と意味とを考えると、戦闘開始の大号令と言うのが正しいのかも知れない。 「そう言う意味があるんなら、事前に言っとけよな〜。アル兄ィもさぁ、肝心なトコが抜けてんだよ」 源八郎の反応を見る限り、各船及び各持ち場の責任者には鏑矢が作戦上の合図であることを伝えられていたようだが、 そうした権限を持ち得ないシェインやラドクリフは全くの初耳。 主だった面々を集めた作戦会議の場ですら鏑矢の話題は出ていなかった。 シェインが頬を膨らませるのは無理からぬ話であり、必要な申し送りを欠くなと言う不満は正当な主張であった。 ……ちなみに説得力満点の正論を叩いたシェインは、その勇ましい語調とは裏腹に、 現在はラドクリフの胸の中にすっぽりと納まっている。 先ほど船体が揺らいだ際に足下を掬われてしまい、危うく転びかけたところをラドクリフが助けたと言う次第である。 決して口先だけの情けない人間ではないものの、「ボクらは仲間じゃんか! 持ち場を指揮する人間ってのはいるだろうけどさ、 仲間を置き去りにして勝手に話進めるのはどーかと思うね! あとで絶対文句言ってやる!」などと雄弁を垂れる割に シェインの体勢はあまりも不格好で、彼を支えるラドクリフも苦笑いを浮かべていた。 他者へ身を預けっぱなしのシェインはともかく、ラドクリフのほうはどっしりと踏ん張りを利かせており、 不意打ちで襲ってきた負荷にも危なげなく対処している。 こうした振動にも耐えきれる余裕と自信があったればこそ、咄嗟の判断でシェインを抱き留められたのだが、 助けられた側は同じオトコとして少し悔しかったようで、ラドクリフの懐中より身を起こしながら 「船の上じゃなかったら遅れは取らなかったよ。受け身だって教わったんだし」などと、 手前勝手な負け惜しみをブツクサ漏らしていた。 「――それにしても、意外と力あるのな、お前」 「ぼくだって閣下の軍団だもん。それなりに鍛えてるよ〜」 憎まれ口の裏側にある本音を敏感に察したラドクリフは、シェインをからかうように胸の前で握り拳を披露したのだが、 もともと華奢な体つきである所為か、今ひとつ説得力に欠ける絵面となっており、 それどころか、ひ弱な少年が虚勢を張っているように見えなくもない。 以前のシェインであれば、外見だけを判断材料にして「もやしっ子がよく言うよ。自分の腕を鏡で見てきたら?」などと鼻で笑っただろうが、 駆け出しながら剣の稽古を通して相手の力量を見極める感覚を養い、また鋭敏な瞬発力を目の当たりにしたこともあって、 「鍛えている」と言うラドクリフの主張へ疑いの目を向けることはなかった。 もしかすると純粋な腕力だけならシェインのほうが勝っているかも知れないが、 状況判断能力や身のこなしなど“力の使い方”はラドクリフの足下にも及ぶまい。 「船の上ェ? ンなことが言い訳になると思ってんじゃねぇぞ、クソガキ! 弛んでっからバカみてーにスッ転ぶんだろうがッ! 人に頼らねぇで手前ェの足で踏ん張りやがれッ! オレたちが行くのは気ィ抜いた瞬間にブチ殺されるようなトコなんだよッ!!」 やたら大きく厳しい叱声を連れて後ろからやって来たのは、荒々しさを前面に押し出した口調からも察せられるようにフツノミタマである。 いつの間に背後に回り込んでいたのかは知れないが、聞こえよがしに大きな足音を立ててシェインに歩み寄っていったフツノミタマは、 バツが悪そうにしている彼の脳天に容赦なく右の拳骨を振り落とした。 船に揺られた程度で歩行すらままならなくなったシェインの醜態が、彼に稽古をつけているフツノミタマにはどうにも腹に据えかねたらしい。 愛の鞭と呼ぶには些か暴力的だったが、シェインは抗うことなく――そもそも抗える状態でもないのだが――フツノミタマの拳骨を受け入れた。 脳天から顎の先まで電流の走ったような痛みが貫き、視界には火花すら散ったものの、 シェインは逆ギレするどころか悲鳴すら上げず、心配して駆け寄ろうとするラドクリフのことも目配せでもって押し停めた。 第五海音丸は依然として上下左右に大きく揺らいでいるが、フツノミタマもラドクリフと同様に自分の両の脚だけで立位を保っており、 船端を支えにしなければたちまち転がってしまうシェインとは大違いだった。 自分の目の前にて仁王立ちするフツノミタマのスカーフェイスを、シェインは船端へしがみつきながら見上げるしかない。 「足腰には自信があるっつってなかったか、てめー!? 野ッ原を駆け回って鍛えてるっつってよ。 それがどうした? えぇ!? なんてザマだ、オラァッ!! 吐いた唾ァ飲んでんじゃねーぞッ!?」 「んなこと言ったって……」 「おう、なんだ!? いっぺん、みっともねぇザマ見せちまったら、ブレーキまでブチ壊れちまったんかァ? 言い訳すんじゃねぇっつってんだよッ!!」 「……それはボクだってわかってるよ……」 「いーや、わかってねぇッ! てめぇだって守孝の鏑矢を見てただろうがッ! アレが飛んだってことは、 もう合戦は始まってるってことなんだよッ! 遠足じゃねぇんだッ!! 気合い入れろッ!! 一秒だって油断すんじゃねぇッ!?」 「わーったって……」 「ンだコラ、気のねぇ返事しやがってッ! オレぁ、その怠けた根性に怒ってんだろうが、あぁッ!? 気合いと根性が足りてねぇから、てめぇ、ヨチヨチ歩きもできねぇんだよッ!! わかったか、クソガキがァッ!?」 自身の体たらくを一番情けなく思っているのはシェイン本人である。 それだけにフツノミタマから矢継ぎ早に浴びせられる叱責、罵倒には反論し難いものがあり、 せいぜい「人のことにケチつけるんなら、鏑矢の合図を教えておいてくれよなァ……」などと小さく舌打ちするくらいだ。 船体の動揺に合わせて重心を動かしていればとバランスは取れるとラドクリフから助言があり、 フツノミタマも「そうだ! ドパンの後にグアーッと来たら、グラリグラリとグルングルンやってみろ。最後はスイスイだッ!」などと 擬音を交えて細かい部分まで説明してくれるのだが、いくら試みても体重のコントロールに失敗してしまい、 その都度、シェインは力量の至らなさに苛まれていた。 なお、フツミタマの説明は出だしからして意味不明な為、最初(ハナ)から相手にはしていない。 「流れに身を任せるってこった。でっけぇ海の前にゃオイラたち人間なんてちっぽけなもんでね。 いっそ向こうさんに進む先を委ねてみりゃあ、ほれ、この通りに楽チンって寸法だよ」 動揺の度に圧し掛かってくる負荷を推力に換え、更には足裏を巧みに滑らせてプロのスケーターのように振る舞う源八郎の姿は、 立位の維持にさえ四苦八苦しているシェインには驚異と言えるものだ。 尤も、華麗なる源八郎は源八郎で、アルフレッドから「遊んでいないでさっさとこっちに来い! お前がいなくては何も始まらないんだ!」と鋭い叱声を飛ばされてしまったのだが。 自分の半分も生きていない青年から思い切り叱り飛ばされ、トボトボと持ち場に戻っていく源八郎の後姿にものの哀れを感じたのか、 ラドクリフは「シェインくんもきっと参考になったと思いますよ。遊んでたわけじゃないですよねっ」といたわりの言葉を掛けた―― 「――っと、てめぇにはキチンと挨拶しとかなきゃなんね〜な」 ――のだが、何を思ったのか、その細い首根っこをフツノミタマがいきなり引っ掴んだのだ。 何の脈絡もなく猫のように首根っこを掴まれたラドクリフは、それこそ心臓が飛び出すくらいに驚いた。 と言うよりも、突然にこんなことをされて驚かない人間はまずいないだろう。 何事かと目を見開いたのはシェインも同様で、ショックのあまり、呆然としているラドクリフをフツノミタマから解放すべく、 「なにやってんだよ、オイ! バカオヤジッ!?」と声を張り上げた。 「うちのガキが世話かけちまったみてーだな。これに懲りずに、このバカの面倒を見てやってくれや。 目ェ離すと、このガキ、ロクなことしやがらねぇからよ」 ところが、フツノミタマが次に継いだのは、ラドクリフは勿論、シェインですら全く予想していない言葉であった。 首根っこを掴んでいた右手を続けて顔面に持っていき、餅でもこねるように頬を柔らかく抓ったフツノミタマは、 きょとんとしているラドクリフに向かってシェインと仲良くしてくれることへの礼を述べたのだ。 凄味漲るスカーフェイスには不似合いとしか言いようがないのだが、口元には薄い笑みを浮かべており、 何も知らない人間がこの様子を見れば、マイホームパパ――ただし職業は不明――が 息子の友達に挨拶をしているものと勘違いするだろう。 これを聴いて真っ赤になったのはシェインだ。 とびきりの笑顔で頷いたラドクリフとフツノミタマとを引き剥がすかのように、「は、恥ずかしい真似すんなよッ!」と怒鳴り散らし、 余計なことを言い出した張本人に向かって足蹴の仕草を見せ付けた。今すぐここから立ち去れと言いたいのだろう。 勢い余って船端から手が離れてしまい、さながらサッカーボールのように甲板を転げ回るシェインに駆け寄ったフツノミタマは、 彼の尻を自分の足の上にてキャッチすると、そのままラドクリフに向かって跳ね上げた。 再びサッカーボールと化したシェインは、中空で身動きすることも叶わず、またしてもラドクリフに抱き留められてしまった。 オトコとしての屈辱を二度までも味わわされたわけである。 先ほどに続いてシェインを腕の中に納めたラドクリフは、憤然と立ち上がり、続けざまに尻餅をついた彼に 「いいお父さんだね」と朗らかに笑いかけた。 ラドクリフへの挨拶を済ませ、アルフレッドたちの集まる舳先へと去っていくフツノミタマに中指を立てて歯軋りしていたシェインは、 ワンテンポ置いてから「いいお父さんッ!? 誰がッ!?」と鸚鵡返しに尋ね返した。 それは、シェインにとって聞き捨てならない一言であろう。 「だって、そうじゃない。さっきもシェインくんが危ないと見たら一目散に走ってきてくれたんだよ?」 「たまたまだろ。それにボクがあのオヤジに何されたか、お前、見てただろ? アイツ、人のことをボール扱いしやがったんだ!」 「いや、ついさっきのコトじゃなくて。鏑矢の後に一回大きく揺れたでしょ? そのときにはもうシェインくんの後ろに居たんだよ? 気付いてあげなきゃ、お父さんが可哀想だよ」 「はぁ? なんでっ!? 拳骨食らわせるタイミングでも計ってやがったか、あのヤロウ!」 「下手に転がって船の外に投げ出されないよう心配したんじゃないかな。」 「………………」 「――ほら、やっぱりいいお父さんだ」 フツノミタマの気遣いを我がことのように嬉しがり、顔を綻ばせるラドクリフに如何ともし難い気恥ずかしさを覚え、 バリバリと両頬を掻き毟って身悶えたシェインは、そっぽを向きながら「あいつは剣の師匠なの! それ以上でもそれ以下でもないって!」と彼の誤解を断ち切りに掛かった。 「第一ね、ホントの父ちゃん母ちゃんは、ボクが小さい頃にギャング団に殺されちまったんだよ。 親不孝なもんでね、ボクはふたりとも顔だって覚えてないんだ。親子ってのが、よくわからねぇんだよ!」 どうしようもなく恥ずかしい空気を打ち切りたくて、やぶれかぶれで自分の本当の両親について口走るシェインだが、 次の瞬間、まずいことを言ってしまったと真っ青になった。 両親の死はとっくの昔に乗り越えているし、そもそも彼にはグリーニャのみんなに育てられたと言う自負がある。 だからこそ、幼いながらに天涯孤独と言う境遇を悩むこともなければ、恨むことだってない。 ……だが、殺人事件の犠牲者と言う事情は、他人へ押し付けるにはとてつもなく重い。受け止め切れないほどに重過ぎる。 考えなしで勢い任せだったものの、この救いようのない過去を聞かされて心を暗くしたであろうラドクリフのことを思うと、 申し訳ないやら居た堪れないやら――第五海音丸と同じようにシェインの気持ちも揺れ動いていた。 (……エンディニオンどアホ選手権なんてモンがあったら、きっとボクは上位入賞確定だろうな……) またも失言をしたかと悲嘆に暮れるシェインだったが、その悔恨もすぐさまに蒸発して消え失せてしまった。 シャンプーの薫りだろうか――柑橘系の芳香がシェインの鼻腔をくすぐった次の瞬間、 ラドクリフがその小さな身体をぶつけるようにして彼のことを後ろから抱き締めたのである。 飛び上がる程の勢いで驚くシェインの胸に向かって両手を回し、抱きかかえるような恰好となったラドクリフは、 自分の耳たぶを彼の背中にぴたりと押し付け、まるで心音でも確かめるように押し黙ってしまった。 黙りこくったままではあるが、それでもシェインから己の身を離そうとはしなかった。 言うまでもないが、シェインは同性に抱きつかれて喜ぶ趣味など持ち合わせていない。 今もラドクリフの意図を計り兼ねており、それが為にグングンと跳ね上がっていく不快指数へ判断を委ね、 衝き動かされるままに怒鳴ってやろうと思っているくらいだ。 とりあえず背後の様子を確認しようと肩越しに振り向いたシェインだったが、 ラドクリフの面を捉えた瞬間、どやしつけることすら忘れて息を呑み、それきり彼も言葉を失った。 ラドクリフが満面に浮かべていたのは、例えようがない程に深い憂いである。 十代半ばの少年に備わっている筈のない表情(かお)を作ったラドクリフは、 しかも、双眸にまで不思議な輝きを宿している。 慈悲や憐憫とも違うが、しかし、シェインと言う存在の全てを包み込むかのような眼差しだった。 それでいて、心の最も深い領域へ何かを訴えている――ある意味に於いて矛盾をはらんだラドクリフの双眸は、 シェインを捕まえたきり離そうとしなかった。 未だかつて出会ったことがなく、またどう名付けたら良いのかもわからない感情に戸惑うシェインは、 儚い灯火の如きラドクリフの双眸から自身の目を反らせずにいる。 「ぼくもおんなじだよ、シェインくんと。……ぼくのところは、誰かに命を奪われたっていうのとは、ちょっと違うのだけど……」 自分の心と、彼の心とを確かめるようにしてラドクリフを見つめ続けていたシェインは、 不意に鼓膜を打った声に心震わされ、そこに秘められた想いから全てを悟った。 憂いを帯びた面立ちの理由も、灯火のような眼差しの意味も、……そして、ラドクリフの背負った過去(もの)までも――。 (……ボクと……同じ……) 第一印象最悪とも言える船上での邂逅以来、シェインはラドクリフと言う存在に翻弄され続けてきたのだが、 その果てに行き着いたのは、宿縁とまで感じられる深い繋がりであった。 打ち解けて話せるようになって半日も経っておらず、お互いに知らないことは山ほどある筈なのだが、 今やそうしたものを超越し、ふたつの魂が決して切れない糸で結ばれたような感慨を持つに至ったのだ。 おそらくはラドクリフも同じ感慨(きもち)に身心を震わせていたのだろう。 だからこそ、こうして小さな身体をぶつけてきたのである。 悲しいものとして記憶の奥底に眠っていた過去(かつてのおもいで)は、 ときを経て一粒の種子となり、未来の土壌にてシンパシーと言う名の花を咲かせたのだ。 「ラドク――」 「――ヘイ、ラド! ハウスっ! ハウスっ! コールされたらファストでカムヒア!」 共鳴した魂に突き動かされ、ラドクリフに向き合おうとしたシェインだったが、 それは横から割って入ったホゥリーの声によって堰き止められ、再開されることなく途絶されてしまった。 とは言え、それも無理からぬことであろう。声のしたほうを見やれば、何やらホゥリーがラドクリフを急かすようにして スカァルの雷鼓――彼が愛用する特別製の杖だ――を振り回している。 彼の傍には術士隊として熱砂の大地へ同道しているマコシカの民や、彼らを統べる酋長ことレイチェルの姿もあった。 ホゥリーを含む民族衣装の一団は、守孝が鏑矢を放った後に舳先へ集合し、 屈伸運動や喉の調整などプロキシを発動させる為の事前準備を始めたのだ。 それはつまり、戦闘開始の合図に応じて持ち場についたのと同義である。 「……時間みたいだね」 師匠の呼び声でもって自分に課せられた使命を思い出したラドクリフは、名残惜しそうにシェインから身を引き剥がすと、 最後に「戦いが終わったら、またあのカレーを食べたいね」と耳打ちし、それから仲間たちのもとへ駆けていった。 「奴らの艦(ふね)を沈めるにはお前らが欠かせないけどさ、だからって玉砕みたいな真似はすんじゃねーぞ! ムチャしたら、ボクが許さないからな!」 「大丈夫だよ。……誰かの為の犠牲は、ぼくが一番嫌いなことだもん」 ぱたぱたと軽妙な足音を鳴らすラドクリフの背中にシェインはそう声を掛けた。 追いかけてきた声に手を振って応じるラドクリフには、 シェインの付け加えた「約束だぞ。……もう友達を亡くしたくねぇんだからな」と言う呟きは、おそらく聞こえていないだろう。 ラドクリフが舳先へ赴く間にも巡洋艦は待ったなしで距離を狭めており、 もう間もなく敵の予想射程圏内に入るだろう。そのときこそ自分の出番だとラドクリフは胸中にて唱えた。 「――お待たせしました。ラドクリフ、ただいま到着ですっ」 マコシカの一団が集まったのは、アルフレッドから正座で説教を喰らう源八郎の真隣だ。 敵前での正座及び説教と言う、ある意味に於いて大胆不敵な状況に至った一部始終を目撃してきたラドクリフにとって、 半ベソをかく権田源八郎(四十二歳)の近くに立つことは、とてつもなく気まずい。 案の定、捨て犬のような目を源八郎(四十二歳)から向けられてしまった。 舳先にはシェインのお父さんもとい師匠であるフツノミタマの姿もあるが、 先着していた彼もまた源八郎の身柄には一切触れていない。 フツノミタマも事情を知っているのだから、 「源八郎は遊んでいたわけではない。シェインに色々なことを教えていたんだ」とでも言って 取りなしてやれば良いものを、見て見ぬ振りでも決め込んでいるのか、 彼は上陸後の戦線について守孝と熱心に話し込んでおり、源八郎のことなど視界にすら入れていない様子だ。 ラドクリフとて源八郎を不憫に思ってはいるものの、 何分にもアルフレッドには悪魔のように恐い人と言う印象しか持っておらず、 また確実に論破されるとわかっている為、彼を相手に仲裁を図るだけの勇気がどうしても出せなかった。 居たたまれなくなって源八郎から目を反らすと、次はホゥリーの視線とぶつかった。 どうも合流する前からずっとラドクリフの言行を注視していたらしく、 無遠慮と言うか、不作法と言うか、舐(ねぶ)るような眼差しを頭のてっぺんから爪の先まで這わせている。 いつもながらやることが厭らしいのだが、何故かこのときのホゥリーの面には悪意の気配がなく、 引き締まった口元から察するに、何やらラドクリフの身を案じているようだった。 あるいは、心の働きに変調がないか否かを確かめているようにも見える。 シェインとのやり取りまでピーピングされていたことに気付いたラドクリフは、 口先を尖らせることでプライバシーの侵害に抗議して見せたが、 すぐさまホゥリーに悪意がないことを悟り、次いでくすぐったそうに苦笑いを浮かべた。 当人の素行不良が原因ではあるにせよ、周りの人間は無条件に歪んだ目でホゥリーのことを見てしまい、 それが為に一挙手一投足へ悪意の所在をまず疑ってしまうのだが、 偏見にも似た先入観を持ち得ない愛弟子には、分厚い皮の下に隠れた本音を誤解なく読み取れるのだ。 言葉に出さずとも一つ頷けばホゥリーには伝わるだろうが、ラドクリフはつま先立ちで彼の肉厚な頬に口づけし、 これを返事の代わりとした。そこには感謝の想いも乗せられている。 「……お師匠様って、ホント、心配性ですよね」 「ホワイ? ボキが? ユーを? ザッツは何かのジョークかい? そうでナッシングなら、パーフェクトにシックだヨ。 わけワカメなイリュージョン症状までカムするなんて、ユーのブレインはターミナルにポイズンだ。ホスピタルにゴーしなさい」 ホゥリーが悪態を吐いた途端、マコシカの人々から和やかな笑い声が上がった。 普段ならば彼の歯に衣着せぬ物言いには誰かしら頭を掻き毟るのだが、 ラドクリフが居合わせている場合に限っては、お約束とも言える筋運びも大きく書き換えられるようだ。 ホゥリーとラドクリフ、凸凹コンビのような師弟がマコシカの集落で如何に暮らしてきたのかは、 彼らを取り巻く人々の反応から窺えると言うものである。 珍しくホゥリーが居心地悪そうに眉を顰めているが、それもまたマコシカの民には笑いの種であった。 「ホントよ。こいつったらラドクリフのことになると目の色が変わるんだから。 病院行け〜とか何とか言ってワルぶってたけど、実際にラドが病気になったら、自分ひとりで看病するのよね」 「ぼくって、小さい頃は風邪引きやすかったじゃないですか。お師匠様、よく寝ないで面倒見てくれましたよ。 おっきな手で撫でられると、すごく安心するんですよ」 「ハぁンッ!? ユー、リアルでブレインがロストしたんじゃナッシングッ!? ボキがいつそんなスイーツな真似をしたって!? 何イヤー? 何マンス? 何タイム? 何ミニット? 何ウィークぅ!? エンディニオンが何回ローリングしたタイミング!?」 「今更、そんな慌てなくたって、あんたたちのことは集落(さと)のみんなが知ってるから。 てゆーか、隠してるつもりだったわけ? あれで? あんた、ラドをデカッ腹に乗せてさ、ふたりで昼寝してたじゃないの」 「ちなみに肩車してもらった記念写真なら手元に――」 「――ヘイッ! ユーもマスターに恥をかかせるんじゃナッシングよ! 所帯じみてるってウワサがライズすんのだけはアウチなんだから! ボキのキャラクターとエクストリームにミスマッチィッ!」 レイチェルから冷やかすように肘鉄砲で小突かれ、自分とラドクリフの過去を知る面々に大笑いされ、 ついに我慢の限界に達したホゥリーは、羞恥以外の何物でもないこの話題を打ち切るべく盛大に放屁をかまして 全てを有耶無耶にすると言う強硬手段を断行した。 ホゥリーの発した悪臭は甲板を吹き抜ける風によって後方に流されていき、 運悪く船端にて砲撃主たちと海戦時の打ち合わせをしていたハーヴェストの鼻腔を直撃してしまった。 殆ど瞬殺に近い速度で悶絶させられたハーヴェストは、例によって地言葉で猛抗議を飛ばしたものの、 すかさずラドクリフが頭を下げたことで状況は一変。ムーラン・ルージュを発動させてでも折檻を加えようと考えはしたものの、 愛くるしい少年から誠心誠意謝罪されては、彼女としても振り上げた拳を下ろすしかなくなってしまう。 最愛の師匠に代わって謝罪すると言う甲斐甲斐しいラドクリフと、 放屁した意味がなくなって途方に暮れるホゥリーとを交互に見比べ、驚愕した後に感激の表情を浮かべたハーヴェストは、 「今日まであんたを悪徳冒険家とばかり思ってきたけれど、なかなか見所があるんじゃない。 本当の悪人にはこんなに善いコは育てられないもの!」などと言ってしきりに頷き、 果ては熱烈な拍手でもって彼ら師弟を激賞した。 ハーヴェストにしてみれば、あらん限りの賞賛を送ったつもりなのだが、彼女に褒められる度、拍手が鼓膜を打つ度、 ホゥリーは弱点を思い切り抉られるようなダメージに苛まれていく。 天下のセイヴァーギアから褒められる度、拍手が鼓膜を打つ度、ラドクリフのほうは嬉しそうに笑顔を綻ばせるので、 ふたり居並ぶとそれぞれのモチベーションが明暗くっきり判別出来た。なかなかに愉快な絵面である。 「お師匠様も人前であ〜ゆ〜ことをするのはいけませんっ。はしたないでしょう?」 「アイシー……」 トドメとばかりに放屁の件をラドクリフに「めッ!」と窘められたホゥリーは、最早、グウの音も出ない状態であった。 「――さぁさ、おふざけもここまでにしようかしらね。今はまだ仕掛けの段階だから良いけれど、 もうあと数分もしない内に敵の砲弾がバンバン飛んでくるんだから。そろそろ気持ちを入れ替えて行くよ!」 すっかりおとなしくなってしまったホゥリーをひとしきり笑った後、毅然と表情(かお)を引き締めたレイチェルは、 マコシカ酋長の威厳を以って術師隊とラドクリフへ臨戦態勢に入るよう促した。 ボロ雑巾のようにやられて意気消沈していたホゥリーは今こそ名誉挽回とばかりにスカァルの雷杖を振り回し、 ラドクリフも師匠に応じて自身のワンド(棒杖)を取り出した。 表面に呪文や紋様がびっしりと刻み込まれ、グリップに該当する部分へ布を巻き付けたこのワンドは 『イムバウンの置文(おきぶみ)』なる銘を持っており、 ホゥリー手ずからバオバブの木を削り出して完成させた逸品中の逸品である。 ホゥリー、ラドクリフに追従して術師隊の面々も各々の得物を手に取り、 天に住まう神霊へ戦勝を誓うかのような雄叫びと共に高空へ翳した。 昂揚した面持ちで一同の戦意を確かめていたレイチェルは、今一度、彼らを煽動するように右腕を勇ましく突き上げた。 彼女の右の掌でヴィトゲンシュタイン粒子が光爆を起こしたのは、その直後のことである。 光の帯が掻き消えてからも余韻のようにまとわりつくヴィトゲンシュタイン粒子を振り払おうと一閃させた右手には、 ジャマダハルのトラウム、『グロリアス・キャンデレブラム』が握り締められていた。 ジャマダハルとは、唾と平行する位置に設けられたグリップを、拳骨を作る要領で握り締めて使う刀剣の名称である。 通常の刀剣が全くの垂直であるのに対して、ジャマダハルは握り拳の先に白刃が伸びており、 むしろ使い方はナックルガードのそれに近い。 この為、習熟には相当な技量と稽古を要するのだが、マコシカの酋長は自身の腕の延長とでも言うかのように ジャマダハルを自在に振るっている。 現在は事情が変わってしまったものの、基本的に外界との接触を避けてきたマコシカの集落にとっては 争いごとなど遠い彼方の話――の筈なのだが、ウォームアップがてらジャマダハルを用いての演武を披露するレイチェルは、 身のこなしから技法に至るまで全てが完璧で、恐ろしく実戦慣れしているように見えた。 おそらくフツノミタマが相手でも遅れは取るまい。 フツノミタマ当人も思いがけず増員された刀剣の使い手には強い関心を抱いたようで、 源八郎のことは徹底的に黙殺していたと言うのに、レイチェルの演武には半ば釘付け状態であった。 刃を水平にし、また右の前腕へ左手を添えると言う独特の構えを取ったレイチェルは、 その場で錐揉みの如く回転しながら徐々に身を屈めていき、次いで跳ね上がるようにして上体を起こすと、 床が崩落するのではないかと錯覚するほど大きな音を立てて甲板を踏みしめた。 その間にも正面の敵を制するような動きを見せる。左の足先を一気に前方へ突き出し、 これと併せて左の掌で敵の視界を遮りつつ、半身を反らせて右手を腰溜めに構えた。ジャマダハルを握る右手を、だ。 視界を遮っていた左手を引き戻すと同時に腰のバネを最大まで引き出し、矢の如き速度で右手のジャマダハルを繰り出すのだが、 その際には手首に捻りを加えており、自然、刺突も内側へねじ込むような回転を見せる。 タイミングとしては、相手の胸元を剣先が抉るか否かと言う間際であろうか。 回転が加わったことによって垂直に近い状態となった刃を斜め上方向へと振り抜き、 その勢いに乗って再び錐揉みしたレイチェルは、宙にて身を翻すと最後は縦一文字にジャマダハルを閃かせた。 右の前腕にはやはり左手が添えられており、これは力を一点に集中させる狙いがあるように思える。 両手持ちの原則を踏まえつつ応用を考案し、ジャマダハルと言う特殊な刀剣に適合させたのである。 いずれの動きも舞踊のように流麗で、久しぶりにレイチェルの太刀筋を堪能したらしいラドクリフは、 うっとりと溜め息を漏らしていた。 「さぁ――あたしらの底力を見せるときだよ! イシュタル様の鼻を明かしてやろうじゃないのさッ!」 舞踊の如き演武を終えたレイチェルは、再び右腕を突き上げ、 ジャマダハル――グロリアス・キャンデレブラムの剣先を天高く翳すと、 恐れ多くも母なる主神を挑発するような啖呵を切って見せた。 あるいはこの大見得を女神への冒涜と批難する向きもあるかも知れないが、 イシュタルより授けられた艱難辛苦の“試練”へ臨まねばならないマコシカの民にとってレイチェルの言葉は何よりも頼もしく、 一瞬にして戦意を爆発させるものであった。 酋長の器に相応しいレイチェルの気概が、瞬く間に朋輩へ伝播したと言っても良かろう。 マコシカを束ねる気骨の酋長とは、不気味な威容を誇示し得る距離にまで接近してきた敵巡洋艦に恐れ戦くどころか、 逆に挑み返してしまえる女傑なのだ。 懐中時計で現在時刻を、双眼鏡で敵艦の状況をそれぞれ確認し、互いの距離まで算出したアルフレッドは、 「敵艦予想射程圏内! 術師隊、迎撃態勢を急げ! 砲撃手は発砲用意! ただし命令があるまでは絶対に撃つな!」と 大音声を張り上げ、次いで後衛の帆船へと目を転じた。 後衛を先導する帆船の衝角(ラム)の上には、悠然かつ器用に屹立するゼラールの姿があった。 ←BACK NEXT→ 本編トップへ戻る |