13.The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde


 ファラ王の秘蔵っ子に強襲されたギルガメシュの追撃部隊は、大きく隊伍を乱した。
 前衛を襲った動揺は直ちに中衛へ伝播し、戦勝で沸き立っていた仮面の兵団に緊張と戦慄を走らせていく。
 敵陣のどよめきを見て取ったカジャムは、退路を急ぐ諸勢力を「これを見てもわかるでしょう? 
勝負はときの運! ここで退いても負けではないわ! 最後に笑えばいいのよ!」と励まして回り、
自らは連合軍の盾となって戦い続けていた。
 合戦の最中にデュガリ隊が合流し、また、ザムシード、ビアルタの両将も加わっている為、
実質的にカジャム隊がテムグ・テングリ群狼領の主力部隊となっている。
 カジャムは連合軍の要たる責任を果たそうとしているのだ。
全軍の撤退が完了するまでの間、……あるいは、矢尽き刀折れるまでの間、彼女は死を賭して戦うに違いない。
 だが、気力のみで凌げることにも限界がある。
 秘密の抜け穴を通ってやって来た増援によって一気に兵力の膨れ上がったギルガメシュに対し、
先だって見舞われた奇襲で多くの戦死者を出しているカジャム隊は、あまりにも不利。
兵数の優劣までもが完全に逆転してしまい、挙げ句の果てには追撃部隊の突破を許してしまった。
 これは後方から駆けつけたゼラール軍団が堰き止めてくれたようだが、
撤退指示が出されて以降も独断で敵陣に立ち向かっていく部隊もある為、
カジャムの任務が完遂するまでには、相当な時間を要する見通しだ。
 彼女にとって唯一の救いは、百戦錬磨の馬軍に恐れが見られないことである。
デュガリも、ザムシードも、ビアルタも――隊に属する誰もが気勢を上げて仮面兵団を迎え撃っている。
勇猛果敢に敵の攻撃を跳ね返してくれている。
 仲間たちの勇戦に奮い立ったカジャムは、「見たか、侵略者どもッ! 貴様たちに血の結束があるかッ!? 
出来るものなら真似してみせろッ!」と一際勇ましい雄叫びを張り上げた。

 「応ッ!」と言う威勢の良い返事へ嬉しそうに頷くカジャムだったが、
彼女の力闘を嘲笑うかのように、突如、隊の背後で爆発的な砂埃が舞った。
まるで間欠泉のような砂埃が舞うのと前後して、大地を裂くかのような激音も響いている。

「着弾ッ!? ……流れ弾なの!?」

 砂埃によって完全に視界が遮断され、さらには直前の激音で聴覚を妨げられたカジャムには
自分たちの身の周りで何が起こったのかも把握できなかった。
 砂埃が入ってしまうのも厭わず、目を凝らして状況の把握に努めるビアルタだが、
砂塵の彩に塗り潰された視界は何物の輪郭をも透過せず、
焼夷弾でも撃ち込まれたのか、赤い輝きが六つばかり揺らめくのを仄かに確認できるのみ。
 せめて耳を澄ませてみようと意識を集中させるが、拾い上げられた情報と言えば、
誰かが歯軋りする気色の悪い音のみである。

(いや、待てよ――砂埃の噴火に六連の赤い光、耳障りな歯軋り……)

 五感を総動員することで得られた幾つかのキーワードにビアルタは閃くものがあった。
 鼓膜を振るわせた激音は、大地を引き裂いて進む際に発生する掘削音だ。
記憶が確かならば、地上への穴を掘り当てたときには、必ず砂塵を巻き上げる習性があったはずだ。
 血の色に輝く赤い触覚を六つばかり甲殻の側面に生やしていたとも記憶している。
 整理された情報はビアルタの脳裏へ一枚のデッサン画を描き下ろした。
クロッキー調のカンバスへ煩雑に描き出されたのは、砂漠に棲息するクリッターの――

「――サンドワームッ!」

 ビアルタが叫ぶのと殆ど同時に、吹き抜けた風が砂埃を吹き飛ばし、怪異の主を白日の下へ曝け出した。
 断片的な情報から正答を導き出したビアルタの推理力には称賛の拍手を送りたいところだが、
この状況では、それも混乱を煽るのみの災いにしかなるまい。

 砂埃を巻き上げて出現したのは、ビアルタが推理した通り、『サンドワーム』と呼ばれる砂漠特有の大型クリッターである。
 普段は芋虫のような単純構造の巨躯で砂中を潜行しているが、
美味そうな人間の匂いを嗅ぎ付けると今のようなプロセスを経て地上に出現し、
頭部に開いた獰猛な大口でもって瑞々しい“餌”を丸飲みにしてしまう肉食性の怪物なのだ。
 群れでは生活できないほどの巨躯を持つのがサンドワームの特徴なのだが、
カジャム隊の背後に出現したのは、その中でもとりわけ巨大。
全長だけなら熱砂の大地に解き放たれたツォハノアイらと殆ど変わらないよう見受けられる。

 数時間に及ぶ合戦で疲弊の極致にあるカジャム隊ではあるものの、新手の奇襲に怯むことはない。
……ないのだが、巨大クリッターを相手に応戦するだけの余力が残されていないのも、揺るがし難い事実だ。
長時間の戦いで消耗したのは、将兵の体力ばかりではない。矢弾は殆ど使い果たしていた。
 疲弊した兵を繰り出して特攻を仕掛けたところでいたずらに犠牲を増やすばかり。
ならば、遠距離から飛び道具を放って仕留めるのが最善なのだが、
投石機で擲つ爆弾、毒矢と言ったテムグ・テングリ群狼領の主力兵器は、既に底を突いているのだ。
 ビアルタ自慢の馬上ボウガンも残弾(たま)切れ。僅かに残った矢弾を射かけたところで
サンドワームに与えられるダメージなどたかが知れていた。

 デュガリの采配を受けてカジャム隊の最後尾はサンドワームに即応し、
一先ずはひとりの死者も出さずに競り合っているものの、攻め手を欠く状態に動きはなく、
いずれ一方的な防戦へ追い詰められることだろう。
 前方にギルガメシュ、後方にサンドワームをそれぞれ迎えることとなったカジャム隊は、
つまるところ、挟撃に攻め立てられているのである。

 絶体絶命としか言いようがなく、また事態を打開する方策もない――
そのように状況を把握したザムシードは、口早に指示を出し続けるデュガリへと徐に会釈し、
彼の双眸が驚きに見開かれる様を目端に捉えながら、サンドワームに向けて馬首を返した。

「ザムシード殿、如何なされるッ!?」

 曲刀を抜いて敵兵と斬り結んでいたビアルタも、サンドワームへ向かって馬を進めるザムシードに気付き、
逆転の方策を閃いたのかと昂ぶった声で尋ねた。
 ビアルタを振り返ったザムシードは、歴戦の勇将には不釣り合いな程の儚げな笑みを浮かべている。

「使える者はなんでも使う俺の肝の太さ、ビアルタ殿は誉めてくれたな」
「こんなときに何を……。あれは言葉の綾で他意は――」

 それは、開戦直後に交わしたやり取りだった。
 血気に逸るビアルタは、これを諫めるザムシードに向かって寝返り者と詰るような悪言を吐いてしまったのである。
 他意もなく口を滑らせただけとは言え、禁句であることに変わりはない。
やってはならないことをしてしまったとビアルタ本人も激しく悔恨しており、
だからこそ、蟠りを突かれてしどろもどろになってしまったのだが、
今になってそのことを持ち出したザムシードの真意を悟った瞬間、
心に抱いた後悔すら吹き飛ぶほどの驚愕に苛まれ、言葉を失った。

 何も言えなくなっているビアルタへ会釈したザムシードは、その双眸を再びサンドワームに向け、
後方より飛び込んできた「ザムシードッ! 短慮はならんぞッ!」と言うデュガリの制止にも振り返らず、
愛馬に鞭を入れた。「南無三」との呟きが、彼の真意を物語っていた。

 ザムシードは、今や死に場所をこの熱砂に決めていた。
 いくらサンドワームが強力無比であろうとも、生体を含んでいる以上、内部からの破壊には絶対的に脆い筈――
敢えてサンドワームに丸呑みにされ、消化液に溶かされるまでの暫時を利用し、
内部から徹底的に破壊してみせよう。
 彼はそこまでの覚悟を固めて馬を走らせているのだ。
 「寝返り者」にも厚く遇してくれた君恩に報いることが出来るのならば、ザムシードにとっては命一つとて安いものだった。
 彼の双眸は、恩を報いるべきエルンストの姿をしっかりと捉えている。

「――って、御屋形様ァッ!?」

 生真面目な彼らしからぬ素っ頓狂な悲鳴を上げ、ザムシードは慌てて手綱を引いた。
馬を止め、周囲に目を凝らし、それから唾を飲み込んだ。
 エルンストがこの場に居るわけがないのだ。単身敵の本営へ斬り込んだとの報せを受けてはいるが、
今ではグンガルと共に戦場を離脱している筈だった。いや、脱していて貰わなければ困るのだ。
 君恩を想うあまり、幻影でも現れたものかと振り返るザムシードだったが、
砂上に視たエルンストの存在感は、例えば夢の中の虚像のような儚さがなく、
現実の質量を完璧に備えていたのである。
本当にエルンストその人が砂上に立っているように視えたのだ。

 しかし、改めて目を凝らして見ても、砂上に在るのはテムグ・テングリ群狼領と、彼らに斬り捨てられた敵兵のみ。
 エルンストは影も形もなかった。

 ひとつだけ状況の変化を付け加えるとするなら、いつの間にか一人の女性がザムシードの真隣に立っていたことだろうか。
 ぎくりとなって馬上より件の女性を検めたザムシードは、見覚えのある顔と確かめて緊張を解き、
次いで「……今のは、お前がやったのだな?」と納得したように声を掛けた。
 山吹色のマフラーに顔を埋めて口元を覆い隠した女性は、このゼスチャーを以て返答に替えたのだが、
ザムシードは不服を漏らすこともなく、微笑混じりに頷いて見せた。

「一世一代の花道を邪魔してくれたんだ。それなりの見世物は期待していいのだろうな?」
「見世物と言われるのは、あまり面白くないですね。せめて見物って言い直してくださいません?」
「……訂正しよう」
「ご配慮、ありがとうございます。その代わりと言ってはなんですが、皆さんの期待には添えると思いますよ」

 女性が返答にて予言した通り、ザムシードが向かおうとしていた方角から魔獣の悲鳴が上がった。
 馬上より彼方を窺えば、体液を撒き散らしながら砂上をのたうち回るサンドワームの巨体――
その額には大きな切り傷が開いている。これもまた“いつの間にか”刻まれたものである。

「……うちの人、口は悪いけれど、根は純情なんですよ。居ても立ってもいられなくなったみたいです」
「なんだ、参戦じゃなく観戦を決め込んでいたのか。こんなときになってようやく出張ってくるとは、お前たちも人が悪いな」
「『報酬の出ないコトに命張るなんざ、ただのバカ』って言い張ったのもイーライなんですけどね」
「……成る程、純情だ」

 そう言って微笑したのは、テムグ・テングリ群狼領が情報工作の為に雇っていた冒険者チーム、
メアズ・レイグの片割れである。
 注射器の如き機構を備える巨大ランスを肩に担いだレオナは、
どうやら見世物ならぬ見物とやらを鑑賞する為にザムシードのもとまでやって来たようだ。
 彼女の双眸は、六連の眼光を怒りに燃やすサンドワームと、その間近に怯むことなく屹立し続け、
親指のみを立てた握り拳を下方へ振り下ろす青年の姿を捉えている。
 手術着のようなデザインの衣服を身に纏い、アイボリー色のヘッドギアで頭部を固めたその青年は、
右腕を大鎌のように変身させている。


 愛妻の眼差しと、テムグ・テングリ群狼領の将士の唸り声とを背にサンドワームへ立ち向かっているのは、
当然と言うべきであろうか、メアズ・レイグのもうひとりの片割れ、イーライである。
 「報酬の出ないコトに命張るなんざ、ただのバカ」と言う理念のもと、高みの見物を決め込むつもりだったようだが、
いつの間にやら彼の足は戦場を目指し、今ではテムグ・テングリ群狼領の窮地を救う為に
ディプロミスタスのトラウムをも発動させている。

「だあああぁぁぁぁぁぁッ! マジうっぜぇんだよ、クソがァッ!」

 果たして、それは誰に向けられたものなのか。少なくとも、サンドワームを対象にしているわけではなさそうだ。
 あくまでもサンドワームは腹癒せの対象に過ぎなかった。

 両手の合計十指を錐状に研ぎ澄ませて胴体を刺し貫き、更にその先端を折り曲げて背面へ食い込ませ、
抜け落ちないように固定してから力任せに振り回した。
 銛の“返し”の要領で食い込んでいた十指がサンドワームを解放したのは、その巨体が中空へ投げ出されたときである。
 すかさず球状の金属と化したイーライは、その状態から全身を一個の巨大な拳へと変形させていき、
高空より飛来してきたサンドワームを殴りつけた。
 あるいは体当たりしたと言い表すほうが正しいのかも知れないが、それはさておき――
急降下による負荷と迎撃の鉄拳の融合によって生じたパワーで全身を引き裂かれたサンドワームは、
声にもならない悲鳴を引き摺りながら息絶えた。
 巨体を走った衝撃は余程強烈だったのだろう。全身の至るところから体液が噴き出し、
またあちこちの筋繊維が引き千切れ、あるいは爆ぜている。
 ディプロミスタスの変身を解き、元の姿に戻ったイーライは、足下に転がったサンドワームの残骸を、
……六連の眼のうちのひとつを苛立ち紛れに踏み潰し、唾まで吐き捨てた。
 巨大クリッターを粉砕した程度では、彼の身を駆け巡る苛立ちは発散されなかったようだ。

 熱砂をも冷やす体液に塗れたイーライは、テムグ・テングリ群狼領から投げられる歓声に返事すらしない。
彼からして見れば、どのような歓声も苛立ちを増幅させる雑音でしかないのだ。

『時間の不足はお前たちのせいではない。だから、決して無理だけはするな。焦らなくてもいい。
ただ及ぶ限りの力を尽くしてくれ。俺は必ずそれに報いてみせる』

 ……何よりもイーライの心を乱すのは、鼓膜にこびり付いて離れないこの言葉。
かつて、エルンストから掛けられた温かなねぎらいであった。

(……みじめなもんだな。手前ェの志を、手前ェで台無しにしようとしてやがる……)

 彼の視た『夢』は、エルンストの生存を凶であると示している。
彼の歩む『輪廻』は、エルンストが存在し続ける限り、悪しき方向へ向かってしまう――
あわよくばこの合戦で番狂わせ生じ、馬軍が壊滅することをイーライは密かに期待していたのだ。
 番狂わせが生じることを願い、その結末を見届ける為だけにわざわざ熱砂の大地にまで足を運んだのである。
 ギルガメシュの増援によって連合軍が壊滅させられたのは、イーライにとって何よりも望ましい結果だった筈である。

 それなのに、彼は戦場へ飛び出してしまった。アキレス腱に違和感が発症(あらわ)れた瞬間、
身の裡にヴィトゲンシュタイン粒子を取り込み、ディプロミスタスを発動させていた。
 衝動的な行動としか、説明がつかなかった。
 アキレス腱に違和感を覚えるようになって以来、エルンストは生かしておくべきではないと絶えず自分に言い聞かせてきた。
そうしなければ、輪廻を断ち切ることは叶わないのだ、と。

 ところが、だ。蓋を開けてみれば、この有様である。
 制止を訴えるレオナの声を耳に捉え、自分で自分のことをおかしいと思いながらも、
ついに彼の身体は、合戦場へ飛び込んでしまったのである。
 敗戦の混乱に乗じて、生きていてはいけない存在を抹殺するわけではなく、
あろうことか、標的たるエルンストと、彼の配下を守る為に助勢に参じてしまったのだ。

(……一体、何がしたいんだよ、お前は? えぇ、イーライ・ストロス・ボルタ……――)

 どこか嬉しそうにも見えるレオナの顔も、援軍への礼儀を尽くすべくわざわざ下馬して歩み寄ってきたザムシードの顔も、
イーライは見つめ返すことが出来なかった。強情を張るように睨み返すことさえ出来なかった。

 まるで呪いのように広がっていくアキレス腱の違和感は、今日また強さを増した。





 彼方の主戦場にて鳴らされ続ける銅鑼の音が意味するところを源少七から報された守孝は、
傾き始めた太陽を仰ぎ、悔しげに唇を噛んだ。血が滲む程に強く、強く噛み締めた。
 シェインとルディア、そして、フィーナが拓いてくれた希望の可能性を無駄にはさせない為、
今一度、エトランジェに佐志への避難を促そうと好機を窺っていたのだが、
連合軍敗走の報によって、何もかもが水泡に帰してしまった。
 連合軍の優勢あるいは勝利と言う条件があって初めてエトランジェに対して交渉を持ちかけることが出来たのだ。
降伏勧告と言う程のものではないにせよ、大勢の優位なくして始まらないこともある。
 ゼラール軍団の後に続き、主戦場への特攻を期待していた源少七は、
今にも泣き出してしまいそうな守孝の様子を敗北の無念と勘違いしたらしく、
「まだまだ! もう一合戦行きましょう! 佐志の力、見せてやりましょうぜッ!」などと
間抜けとしか言いようのない励ましを師匠に送ったのだが、これは源八郎によって途絶させられた。
 スナイパーライフルの銃床で小突かれ、ようやっと源少七も正気を取り戻したようで、
先程までの闘志漲る様から一変し、今度はどん底にまで落ち込んでしまっている。
尊敬する守孝に向かって無礼極まりないことを仕出かしたのが本人には相当なショックであったらしい。

 生死を賭した戦いの果てにようやく一筋の光明が見えたと言うのに、手を差し出す前に希望そのものが絶たれ、
佐志軍の表情は一様に憂色である。
 中でもレイチェルの落胆は深刻で、マリスのリインカネーションによって負傷が快癒したと言うのに、
その頬からは血の気と言うものが全く失せてしまっている。ディアナと激闘する最中のほうが、まだ血色が良かったように見える。
 友と認めた相手や、自分たちと同じように大切な者を守る為に闘っている人たちを救えるかも知れないと思った矢先、
高まっていた期待がどん底にまで突き落とされてしまったのである。
 ヒューやマコシカの仲間たちが傍に寄り添っているが、それでも立ち直れない程、レイチェルには堪えていた。

 レイチェルと揃ってリインカネーションを受けたディアナや、アルバトロス・カンパニーの面々、
それからエトランジェの隊員たちにも、当然ながら連合軍敗走つまりギルガメシュ勝利は伝わっている。
 だが、戦勝の勢いに乗じて佐志軍の討伐を言い出す輩はついぞ現れなかった。
 合戦に至るまでの不遇と、合戦に於ける魂の激突を経て、エトランジェはギルガメシュ本隊との間に埋め難い溝を持つに至ったのだ。
 以前から兆候はあったものの、同じ世界の住人あるいは庇護者と言うことで抑えられてきた憤激が、
ついに軌道修正不可能な領域にまで達してしまった次第である。
 本来、討伐すべき敵である筈の佐志軍が、自分たちの不遇を想って泣き、
何としても救済しようとあらゆる手立てを模索してくれている。
異なる世界の住人のほうが、ずっと自分たちのことを考えてくれている。
 ここまでの落差を見せ付けられて、なおもギルガメシュへの義理を優先させようと言うのなら、最早、それは単なる愚か者。
エトランジェの仲間が総出で引き留める事態に発展したことだろう。
 
 手と手を取り合える位置にまで心の距離を近付けられただけに、連合軍敗走の報は両者に大きな影を落とすのだ。
 おそらく、いや、間違いなく、数に物を言わせた連合軍が増援到着の前にギルガメシュを突き崩せていたならば、
エトランジェは何ら躊躇することなく佐志軍に“投降”出来ただろう。
 ところが、終わってみればギルガメシュの圧勝。連合軍優勢の下馬評は容易く覆され、
今では反対にエトランジェの側が佐志軍に降伏を促す立場となってしまったのだ。
 合戦の結果ではなく大勢のみを判断材料にした場合、佐志の劣勢は挽回の余地すらない厳しいものとなっていた。

 ギルガメシュから完全に佐志へ寝返ると言う選択肢も残されてはいる。
ことここに至った以上、それを選び取るのが最善であると誰の目にも明らかだった。
 形勢の有利、不利に関わらず、このままギルガメシュ本隊と行動を共にすることは、必ずやエトランジェを不幸な結末へと導くだろう。

「しかし、それでもな――」

 それでも――とエトランジェの皆を代表して口火を切ったのは、ボスである。
 気付けば、彼を筆頭にディアナもトキハも、他の隊員たちも、清々しい面持ちで佐志軍と向かい合っていた。
開戦当初は剥き出しとなっていた敵意や殺意は微塵も感じられず、負の想念の一切が抜け落ちてしまったようにも見える。
 この戦いを通じて、ある種の解脱にまで到達したのではないかと、半ば本気でローガンは信じ込んだくらいだ。

「――それでも、我々は我々のエンディニオンを捨てることは出来ない。……根っこなのだよ、生きることの」

 淀みなく発せられたその言葉が、エトランジェの、Aのエンディニオンに生きる彼らの出した結論だった。
 共に生きる道を探し続けてきたフィーナたちからして見れば、どうあっても承知し難い答えであろう。
 彼らと、彼らが守ろうとしたモノを佐志へと迎え入れ、共に新たな道を作り上げる――その希望が絶たれたことは間違いない。
だが、ここでの別離が及ぼす影響は、共存の頓挫だけには留まらないのだ。
 ギルガメシュ本隊への帰還を認めると言うことは、エトランジェを新たな死地へ送り出すのと同義であった。
連合軍を撃破したからと言ってエトランジェに対するギルガメシュの待遇は変わるまい。
 幸いにして今回は佐志軍との合戦となり、結果として命を拾ったものの、次こそ本当に捨石とされるかも知れないのだ。

 一番に激昂したのは、やはりシェインとルディアである。
 口々に「まだわからないのかよ!?」、「ドロップキック一発じゃ足りなかったの!?」などと喚き散らし、
今また道を違えようとするボスに挑みかかるべく身構えたのだが、これはフツノミタマが強引に押し止めた。
 往生際悪くジタバタとシェインは暴れ続けたが、「何べんも言わすなや。相手の心を読め。全部を識(し)れっつったろが」と
フツノミタマから言い諭されては、抵抗を止めて従うしかない。
 ルディアも彼女なりにフツノミタマの言葉を受け止めたようで、口先を尖らせて不満を表してはいるものの、
ボスの顔面へ再びドロップキックを見舞うことはなかった。

 佐志軍の誰もが、ボスの言葉へ神妙に聞き入っている。
 一同には受け入れ難い答えではあるが、ボスたちが熟慮の末に下した尊い選択には変わりがなく、
幾ら仲間であっても――いや、仲間だからこそ彼らの意志を侵し、捩じ曲げることなど許されなかった。

 不義理と詰られても仕方がないような選択を受け入れ、認めてくれた佐志の仲間に改めて礼を述べたボスは、
親しみに満ちた微笑を浮かべながら守孝に向かって自身の右手を差し出した。
 万感の思いを込め、両掌で包むようにして握手に応じる守孝の双眸からは大粒の涙が後から後から零れている。
今生の別れをも覚悟しているのだろう。熱く迸るのは、惜別の涙だった。

「……今は、な」

 感極まったらしいハーヴェストの泣き声を背中に受け、ますます落涙を止められなくなった守孝だが、
応じるボスは佐志軍を哀しみから解き放つかのように、これが最後の別れではないことを約束した。
 守孝との握手へ一層の力を込め、深く頷いて見せた。

「今は、共に歩むことは出来ない。何の準備もないまま会社のことを投げ出せないし、家族にも責任を持たねばならんのだよ」
「……ボス殿……」
「だが、いつか必ず道は交わる。互いが努力を続けていけば、必ず道は交わるんだ。
……今の私たちは、そのことを何より強く信じられる。だから、今は互いの道を進もう」

 互いの命と魂をぶつけ合い、持ち得る限りの全てを曝け出せた者だけが共に歩める道を、ボスは守孝たちに示したのだ。
 理想論だけでは解決し得ない現実の問題は、数限りなく多い。これを覆すことは一朝一夕では行かないのだ。
しかし、現実の二文字を口実にして挑戦する前から諦めるのは、もう止めよう。
乗り越えるべき現実と正面切って向き合い、それらの問題の上に改めて希望を見出そう――
これこそが、Aのエンディニオンをルーツにする彼の出した最後の結論であった。
 AのエンディニオンとBのエンディニオン、双方の事情と希望とが遥かな高みにて一つに溶け合い、
閉ざされかけていた未来への可能性を繋いだのである。

 Aのエンディニオンの友が出した結論を受け止めた佐志の人々は、彼らの答えを噛み締めるようにして静かに胸震わせ、
口々に「必ず道は交わるから。その日を信じよう」と、いつかの再会を誓い合った。
 この場に居合わせる他の誰よりも心通わせたディアナとレイチェルの胸には、やはり去来する思いが多々あるのだろう。
女傑ふたりは互いの身を固く抱き締め合い、語る言葉もなく肩を震わせている。


 エトランジェの中でただひとり――ニコラスだけは、この輪に入ることなく皆の様子を遠巻きに見守っていた。
 彼とて未来への可能性を信じて疑わないが、しかしながらこの場で佐志の人々に再会を誓ってしまうことが
どうしても躊躇われるのだ。
 エトランジェの仲間たちが出した結論には、諸手を挙げて賛成する。これ以外に共存への道は有り得ないとすら思っている。
……だが、それでもアルバトロス・カンパニーやエトランジェの仲間たちと歩みを同一にしていくことは、
今のニコラスには出来なかった。
 彼の意思はエトランジェとは別のところにあり、それが為に佐志との哀別を避けているのである。

 心中に抱いた決意を、どのようなタイミングで、また誰に伝えたら良いものか――
鋼鉄のグローブで包まれた右手へと俯き加減に目を落とし、ジッと思案に耽っていたニコラスは、
不意に何者かの視線を感じて面を上げた。強い念が肌身を撫でていく、そんな視線であった。

 ――トキハだ。アルコールも抜けて元の柔和な面持ちになったトキハが、
優しげな眼差しでもってニコラスのことを見つめていた。
 優しげではあるが、瞳に宿る輝きには声なき訴えが込められており、
内に秘めたる思いをニコラスに向けて解き放っているようにも見える。
 実際、その通りなのだろう。時間を経るにつれてトキハの瞳に宿った輝きが強まっていくのは、
何かを親友へ伝えようと念じているからに他ならないのだ。

「……トキハ……」

 トキハと視線を交えたとき、ニコラスは全てを悟った。
 熱砂の戦いにて何を悟り、勝敗に何を思い、これからどのように行動するのか――
口にも出せずにいた決意までトキハにはお見通しだったようだ。
 自分の思い違いではないかと、念押しのように目配せで窺うニコラスに対し、トキハは苦笑混じりで頷き返した。
 おそらく……いや、間違いなくボスもディアナも、ニコラスの決意を察し、トキハと同じように認めているだろう。
 何も言わずに送り出してくれる仲間たちの優しさに触れたニコラスは、たまらず天を仰いだ。
 青年らしい矜持であろう。泣きっ面を晒すのを躊躇い、零れ出る涙を袖では拭わずに
イシュタルへの祈りで誤魔化そうと試みたのだが、虚勢を張ったところで通じるわけもない。
 瞳を閉じて天を仰いでいる為に表情如何は知れないが、押し殺すようなトキハの嗚咽が鼓膜を打ち、
ニコラスの涙腺は、最早、本人でも御しがたい程に緩んでしまった。

 深く静かな闇の中、感じるものは頬を走る熱い雫のみと言う状態であったが為、
突如として首回りに加えられた強い力には、ニコラスは思わず真紅の眼を見開いた。

「なんだなんだ? 妙な相談してんじゃね〜だろうな? 捕虜は捕虜らしくおとなしく従いやがれよ〜」

 そう言ってニコラスの首を締め、快活に笑うのはヒューである。
青年の矜持とやらをニコラスが持て余している間にその背後へ回り込み、首根っこを捉えたと言う次第であった。

「注意されなくたって、もうオレは逃げませんよ。ヒューさんから逃げられる自信もないですし」
「つか、逃げられちゃ困るんだよ。俺っちらは、お前、ボロ負けしちまったじゃね〜の? 
何かあったときにはな、捕虜ってのは色々と使えるもんなんだよ。貴重なカードってヤツだ」
「……素朴な疑問なんですけど、こう言う場合も捕虜って言うんですかね?」
「おうよ。勝ち負けに関わらず、解放されるまで捕虜は捕虜だ。
捕虜っつー呼び方がイヤなら、特例で人質に言い換えてやってもいいぜ。
ちなみに入り婿呼ばわりを希望っつった瞬間、この首はありえない方向に曲がりマ〜ス」
「希望してない内から首キマッてる気がするんですけど、これって気のせいで――あだだだっ! 
な、なんで強くなってんですか!?」
「余裕ぶっこきまくりな馬の骨に対する、お義父さんの制裁デ〜ス! ……って、誰がお義父さんだッ!?」

 ヒューが言うように、現在のニコラスの立場は、『佐志の捕虜』と言うことになる。
 宿命の対決を終え、ボロボロの身体をニコラスと支え合いながら戻ってきたアルフレッドは、
開口一番に「ニコラスを佐志の捕虜にする」と宣言した。
 その時点では大勢は連合軍の優位であり、アルフレッドの言行も極めて高圧的だったのだが、
さりとて水兵を拷問に掛けたときのような残虐さは影も形もない。
 “捕虜の監視役”をヒューに、“友の治癒”をマリスにそれぞれ命じるアルフレッドだったが、
誰とも目を合わせることがなく、全ての指示は一瞥もせずに告げられた。
 自分の下した決定に不服があったからではない。自分の下した決定に、どこか居た堪れない思いを抱いたからだ。
 今更、どの面を下げてそんな台詞を言えるものか、と。
 あれ程までに燃やしていた復讐心が私情一つで揺らいでしまうことを思い知り、
自分の決意はこんなにも軽いものだったのかと、衝撃を禁じ得ないのかも知れない。

 そのアルフレッドは、銅鑼の音の意味を耳にした途端、正気を疑う程に様子がおかしくなった。
 ニコラスを佐志の捕虜にすると言いつけて以来、皆の輪から離れて彼方の主戦場を呆然と眺めていたのだが、
佐志本軍が連合軍敗走の報を携えて戻ってくると、蹌踉めく身を引き摺りながら当て処もなく周囲を彷徨い始め、
何かを求めるように右手を突き出し、やがて落魄したようにその場へ崩れ落ちた。
 砂上に崩れる最中にグラウエンヘルツの変身も解けたのだが、
砂埃へ溶けるようにしてヴィトゲンシュタイン粒子が霧散し、その光芒の内側より現れたアルフレッドの表情(かお)は、
何もかもが壊れてしまっていた。
 未だにマリスのリインカネーションを受けていない為、負傷もそのままになっているのだが、
そんなことは問題にもならない。身を蝕むものよりも遙かに深刻なダメージが彼を崩壊させているのだ。
 正も負もなく、昂揚も落胆もなく、怒りも悲しみも、安堵も復讐も、希望と絶望すらない。
砂塵が飛び込んでくるのも構わずに口を開け放ち、何も存在しない空間を虚ろな瞳で見つめ続けている。
 その様は余りにも憐れで、フィーナは勿論のこと、マリスでさえ彼のもとに歩み寄ることが出来なかった。
掛ける言葉ひとつ見つからず、手を差し伸べることすら躊躇われてならない。

「捨て身で大切なものを守っても、そこには何も生まれないわ。ただ恨みが渦巻くだけよ。
踏み台にした相手だけじゃない。……そうして守られた側だって、いつかは恨みに呑まれて壊れてしまう」

 魂が抜け出てしまったかのように身じろぎ一つしなくなったアルフレッドを睥睨するレイチェルは、
肩を並べるディアナに向かって、そのように言い諭した。
 乱戦の最中であったなら強硬に反発しただろうが、無惨と言うより他ないアルフレッドの姿を目の当たりにしては、
ディアナも頷くしかなかった。
 もしも、自分の愛息がアルフレッドと同じ狂態(こと)になったなら――
無意識にその様を想像してしまったディアナは、戦慄に身を震わせた。

 レイチェルの訓戒と、ディアナの身震い、それから何事か案じるように表情を曇らせたトキハの様子を目端に捉えたニコラスは、
自身の決意を確かめるように右の拳を握り締め、次いで「オレはもう逃げねぇよ」と呟いた。

「……オレはもう逃げねぇぜ」

 今一度、噛み締めるようにして反芻したニコラスへ答えるように、ヒューは彼の首に回していた腕の力をまた少し強めた。
 ニコラスが何を決意し、アルバトロス・カンパニーと袂を分かってでも佐志と共に歩む道を選んだのか――
捕虜監視役を命じられたヒューもまたその全てを認めているのだ。

「……がんばれよ」

 耳元でささやかれたヒューの声援に、ニコラスは躊躇うことなく頷いて見せた。
 決然と燃え盛る彼の双眸は、ただただ砂を浴びるばかりとなったアルフレッドの背中のみを見つめている。


 このようなとき、真っ先に駆けつけて親友を励ます筈のネイサンは、
しかし、アルフレッドと共鳴でもしてしまったかのように砂の大地の上で棒立ちになっている。
 彼の面からも感情らしい感情は抜け落ちてしまっているのだが、ただひとつだけ、
平時とかけ離れた変化が見受けられた。
 いつもは起きているのか、眠っているのかも判らない程に目を細めているネイサンなのだが、
僅かばかりではあるものの、このときには珍しく明瞭に開かれていたのだ。

 真紅の瞳が、……酷い狼狽の色を宿した双眸が、アルフレッドの背中を見つめていた。
 焦点は一所に定まらず、アルフレッドからニコラスへ、握手を交わす守孝とボスへ……と、忙しなく目を転じ続けた。
 その胸中を窺い知ることは出来ないのだが、一つだけ確かなのは、
ときに不気味な程に歪んでしまう彼の口元が、今は一文字に結ばれていることだ。
 何がネイサンを動転させているのかを察したらしいトリーシャは、
撮影を取り止めて彼のもとに駆け寄ると、だらりと垂れ下がったその手を強く握り締めた。

「思うところは多いだろうけどさ、あんたが笑ってないと調子出ないのよね、あたし。
……もしも、“引き返したい”って言うなら、付き合ってあげるわよ。あんたの笑顔を見返りにね」
「………………」

 いたわるように声を掛けるトリーシャだったが、ネイサンは何も答えなかった。
 とても返事が出来るような情況ではなかった。




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