14.Advanced ignition point


 通り雨が枯渇の大地が帯びた熱を冷やし、饐えた匂いが垂れ込める中、
連合軍諸将は退却先の仮本陣にて合戦の報告を受けていた。
 絶体絶命の窮地に陥りながら無理を押して対抗するのでなく、血路を開いて撤退を第一としたエルンストの判断が功を奏し、
あれ程の大敗であったにも関わらず、味方の被ったダメージは最小限に留まった。
 負傷者の数こそ数知れないものの、戦死者が数百で済んだことは、
大型兵器の投入やギガント型クリッターの出現と照らし合わせれば奇跡と評しても良かろう。
 敵に与えたダメージは未知数だが、あの場における最前の選択だったのは間違いない。

 とは言え、一致団結してギルガメシュに対抗する筈だった連語軍が完膚なきまでに叩きのめされた事実が覆るわけでもない。
 世論に与える衝撃は途方もなく大きく、覇権は確実にギルガメシュへと渡る――
考えられる最悪の事態に転がってなお希望の種を芽吹かせる人間など誰一人としておらず、
仮本陣の天幕の下には、憂色だけが重く横たわっていた。
 せめてもの救いは、人一倍、ギルガメシュの打倒に強硬な姿勢を見せていたクインシーが
エルンストの選択には反対せず、それどころか賛成してくれたことだろう。
 ギルガメシュは憎むべき大敵であるが、その為に無理を重ねて犠牲を増やしてもイシュタルは喜ばれまい――
それがクインシーの判断であった。
 そのクインシーの姿はこの仮本陣にはなく、今は割り当てられた宿所にて休息を取っている。
いかに剛毅な気質であっても、元々が聖職者。戦場に立ったときには将士の数倍も疲弊してしまうのである。

 主戦場にも突入できなかったアルフレッドは、佐志の代表たる守孝と共に招聘こそされたものの、
末席に控えることを余儀なくされ、発言はおろか相槌一つ打つだけで、

「激戦区にいなかった人間に、この戦いの何を語れると言うのか」

 この一言で封殺され、その都度、侮蔑を露にする冷たい視線で射抜かれた。

 敵陣深く斬り込み、第一の戦功を挙げたと言えるアルカークなどは、
その功績とあいまって誰よりも激しく痛罵を浴びせそうなものであるが、
アルフレッドが陣所に姿を見せてからと言うもの、彼に一瞥すらくれない。
 名誉の負傷をした右の瞼へ浅黒い布をアテたままむっつりと押し黙るアルカークは、
アルフレッドに対して軽蔑の感情すら抱いていない様子である。
 敵艦隊を壊滅に追い込んだ功績は誰にも評価されていない。
大金星に違いはないのだが、結局、ギルガメシュの側が退路を必要としなくなった為、戦局に与える影響は最小に留まってしまった。
 所詮は局地戦。悪夢のような主戦場からは遠く掛け離れていると嘲られても仕方がない。
 しかも、だ。合戦に及びながらも大敵であるエトランジェと馴れ合っていたとの噂まで立ってしまい、
アルフレッドだけでなく佐志の立場をも悪化させた。
 結果、戦場の片隅で遊んでいただけと酷評されるに至った次第である。
 友と交わした約束を守る覚悟の守孝は、自身に悪評が立つのも構わず、黙然と瞑目し続けた。
エトランジェとの間で具体的にどのようなやり取りがあったのか、これが露見せずに御の字とさえ思っている。

 戦いを本分とするアルカークにとっては、合戦場で遊んでいただけのアルフレッドなど虫けらほどの価値もない。
 それは、程度の差こそあれエルンストを首座に据えて居並ぶ諸将の誰もが共通する軽蔑であり、
非難以外の眼光がアルフレッドへ向けられることは無かった。

 声をかける者と言えばフェイと、「合戦の間にリサーチしておいたギルガメシュの情報(ネタ)、買いません?」と言う触れ込みで
ちゃっかり潜り込んできたK・kくらいなものだ。
 ジョゼフでさえ関わり合いを避けるように彼の前を素通りしてしまったのである。

 鬱憤が一気に爆発したのだろう。これまでアルフレッドから数々の無理強いをされてきたK・kは、ここぞとばかりに舌鋒が鋭い。
戦争を食い物にしている自分の職業を棚に上げてアルフレッドを
「軍師なんてとんでもない! ただの殺し屋ですよ!」などとボロクソに詰り、
これでもかと厭味を飛ばし、果ては「この小物めェッ!」とまで嘲り笑った。

 元より折り合いの悪かったフェイは特に厳しくアルフレッドを叱責し、同じグリーニャ出身であることを恥に思うとさえ言い放った。

「他の人間と自分の姿とを見比べてみるといいよ。皆が死力を尽くして戦っているときに、君は何をしていたんだ? 
一箇所二箇所に負った火傷が、身動き取れないくらい痛かったと言うのなら同情もしてやるけどね」
「……フェイ兄さん」
「君に馴れ馴れしく呼ばれる筋合いは無いな。……悪いが、今の君にだけは兄と呼んで欲しくない」
「………………」

 主戦場へ足を踏み入れることさえなかった自分の立場を弁えるアルフレッドは、
向けられる非難の全てが当然の報いと心得、嵩む心労に耐えて瞑目していたのだが、

「……皆、それぞれに思うところはあるだろうが、ここは一先ずグドゥーを離れよう。潔く敗北を認め、次なる機会を待とうではないか」

 デュガリを介したエルンストのこの宣言を耳にした途端、カッと目を見開き――

「臆病風にでも吹かれたか……」
「……何……?」
「臆病風に吹かれたと言ったんだッ!」

 ――火が点いたような剣幕で撤退への非難を一気呵成に捲くし立てた。
 「お控えあれ、アルフレッド殿! 我らにもの申す資格はござらぬ!」と舌鋒鋭く守孝が制しても、
アルフレッドは止まるに止まれなかった。

「グドゥーを離れるだとッ!? 損害が最小限で済んだと言うのにかッ!? こっちにはグドゥーを制覇した人間がいる。
地の利は俺たちにあるんだぞッ!? 戦う力を残しながら、地の利を得ておきながら、逃げる理由がどこにあるッ!?」

 ニコラスとの戦いを通して一旦は鎮まったかに思えた恩讐の蒼炎が再び燃え盛っていくのをアルフレッドは感じていた。
 エルンストを見据えている筈の視界には、焼け落ちる故郷が、泣き叫ぶ妹が、
……かき抱いた胸の中で急速に体温を失っていく親友の姿が幻影となって揺らぎ、彼心をドス黒い怨念で満たしていく。

「合戦はまだ終わってなどいない……ッ! 白旗を揚げるつもりなら、それをダシに敵を誘き寄せて奇襲を仕掛けるんだ。
恭順するよう見せかけて背後を狙うことだって出来る――恐れをなしちゃ勝ちも拾えないッ! 
逆転可能な手段が目の前に転がっているってときに尻尾振るのが貴様らの戦い方かッ!?」

 ――敵が勝利に油断し切っている今こそ残存した戦力を結集し、ギルガメシュへ目にもの見せてやろう。
 それが自分には出来るというのに、それなのに、どうして撤退しなければならないのか。
戦える力を残しながら尻尾を巻いて逃げるなど臆病者のすること。それを受け入れろと言うほうが土台無理な話だ。

「性根が腐っているとは思っていたが、ここまで卑怯とはな! 調子の良いときは掠奪を楽しみ、旗色が悪くなると媚びへつらうッ! 
どこまでも救いようがない最低最悪の下衆どもだなッ! 生きている価値も無いのは、俺でなく貴様のほうじゃないのかッ!? 
どうなんだ、エルンスト・ドルジ・パラッシュッ!? 敗軍の将なら、それに相応しい責任を取ったらどうだッ!!」

 ……考えれば考えるほど、巡らせれば巡らせるほど矛盾と無謀をはらんでいくアルフレッドの思考は、明らかに正常を失していた。
 思考回路の片隅に機能を残した冷静な部分で自分の異常を自覚しながらも、
エルンストにとって何ら謂れのない罵声を浴びせていることを把握しながらも、
怨念にブレーキを破壊された心の暴走がアルフレッドには止められない。

 最後には意識の末端に残した正常さも食い潰され、自分がどんなに呆れた物言いをしているかも、
自分が何を喋っているのかもわからなくなり、文脈さえ怪しい悪言をただただ口早に羅列するばかりであった。

「控えよ、ライアン! いかに御屋形様に目を掛けられておるからと言って――」

 無遠慮にも程がある悪態に我慢の限界を来たしたザムシードは、握り拳で黙らせようとするが、
エルンストはそれを眼差し一つで押し止めた。
 それから立ち上がって肩を震わすアルフレッドの前まで歩み寄り、
ギルガメシュへの怨念と自分自身への戸惑いとで充血し切った真紅の瞳を静寂に覗き込む。
 烈火の彩を帯びたアルフレッドの眼差しと異なり、エルンストのそれは降りしきる雪のように涼しく、
敗戦の直後であると言うのに完璧な冷静さを称えていた。

「臆病風と言ったな、アルフレッド。……お前の言う通りだ、俺はギルガメシュに恐れをなしたのだ。
あのまま戦っては、味方に与える損害も計り知れなかっただろうしな」

 卑怯者呼ばわりの罵倒をエルンストはさも当然そうに肯定してみせ、開き直りとも取れる態度が一同の口をあんぐりと開放させた。
 特に驚愕が強いのはデュガリを筆頭とするテムグ・テングリ群狼領の将たちだ。
 これでは馬軍の面目も丸潰れと言うもの。ビアルタに至っては、頭を抱えて蹲ってしまっている。

「我が軍を無為に失うことは何にも勝る苦痛だ。だから、兵を引いた。それを臆病と罵倒したいなら、好きに言えば良い」
「……認めるのか、卑怯な逃亡を」
「ああ……だが、撤退の決断を敗北と認めるつもりはない。今度の合戦ではしてやられたが、
俺は白旗を揚げたつもりはないぞ」
「詭弁を弄して取り繕うと言うのか? ますます惨めなことだ」
「全滅さえしなければ、反撃の芽はいつか必ず華を咲かせる。次なる機会に期した退転を、人は策略と呼ぶのだ、アルフレッド」
「……策略……だと?」

 エルンストが口に出した『策略』の一言をアルフレッドは鼻先で嘲笑する。
 無様に敗走した人間が、どの面を下げて勝つ為の計略を口にしようと言うのか――
見下しきった態度で鼻を鳴らすアルフレッドの耳には、
エルンストのどんな言葉も敗戦の責任を誤魔化そうとする御託にしか聴こえなかった。

「訊けば、お前は今度の合戦に無策で望んだらしいな」
「バカにしてくれるなよ。俺は万全に陣形を調え、軍艦を粉砕した。局地戦だが、陸戦でも奴らを退けた。
陣形を組み違えたお前の体たらくと一緒にするな。俺には勝つ術がある。だから、もう一度、引き返せと言っているんだ……!」
「たった一度の局地戦で全力を使い果たし、後のない状態へ味方を追い込むのがお前の策というわけか」
「渾身の力を注ぐのは戦いにおいて常識だ。力を使い果たして何が悪い。
逃げることや退くことを前提にしているような男が、そこまで大胆になれる攻められるものか」
「勇ましい限りだな。臆病者の俺とは大違いだ」
「抜け抜けとほざくな……ッ」

 エルンストが下した判断の一つ一つを卑怯にして臆病と決め付け、
あまつさえ大将が単騎駆けで敵本営に斬り込むのは、勇気ではなく短慮だとアルフレッドは悪し様に付け加えた。
 彼の無礼にテムグ・テングリ群狼領の将兵は大変な剣幕で激怒しているが、
矛先を向けられたエルンスト当人は、まるで意に介していない態度で応じている。
 いくら卑劣と詰られようと微塵も歪まないエルンストの涼しげな表情が、また神経を逆撫でし、アルフレッドの眦は更に吊り上がった。

「だがな、アルフレッド。臆病風に吹かれたお陰で俺は軍を壊滅させることなく退くことができた」
「偉そうに言うことか? 危険に怯えて逃げ出したのだから、ダメージ軽く済むのは当たり前だろうが」
「それでは勇ましいお前の部隊はどうだ? 数度の戦いで全力を使い果たし、戦場を離脱するのにも苦労したのではないか?」
「………………」
「疲弊したところに追撃を被るリスクを、お前は一度でも案じたか? 
無策でないと言うからには、長期戦の可能性も当然熟慮していたのだろうな」
「………………ッ」

 自分の圧倒的優勢に思えた罵声を鋭い反撃で刺し貫かれたアルフレッドは低く唸り、そのまま言葉を失ってしまった。
 エルンストの指摘は正確に真芯へ突き刺さるものであり、アルフレッドに何一つ反論を許さない。

「……人を蔑む心は、己が心の映し鏡と心得よ、アルフレッド」
「………………」

 反論の口火を切ろうにも、アルフレッドにはそれが出来ずにいる。
 今、ここで言葉を返すのは、彼がさんざんに罵った責任逃れと全くもって同じこと。
口に唾して罵倒しておいて、形勢が不利になったからと誤魔化しの羅列を並べられるわけもなく、
憤然とした眼差しで睨むのが、今のアルフレッドに出来る唯一の抵抗である。
 正常な思考回路を壊すような暴走を露見しているものの、そこまで恥知らずにはならなかったようだ。

「俺はこの一戦こそ雌雄を決するものと覚悟を決めてギルガメシュに挑み、力及ばず、敗れた。それも認めよう」
「………………」
「しかしな、勝利を諦めてはいない。今日の撤退は、次なる戦いの布石なのだ」
「……負けた先に何がある。次なんか、あるものか……」
「ある」

 連なり続けるエルンストの言葉は、決して敗戦の責任から逃れるための詭弁ではない。
自分の呈した醜態を隠す為に誰かを悪し様に罵り、独り善がりの傷を舐めるものでもない。
 敗北も、痛みも、失態も認め、受け入れ、その上で次なる勝利を目指そうと心燃やす果てしない意志の迸りを、
エルンストは紡いでいった。

「俺は勝つ為の選択しかしない。一時の有利を譲ったとて何を構う? ――最後に笑う者が最も高く笑うのだ」

 キッパリと断言するエルンストにアルフレッドは目を見開く。
 それは、アルフレッドの心中に一ミリとて想定していないものだった。

「敵がどのような部隊を繰り出し、どのような奇襲を用いるのか、その手の内を、身をもって知ることができた。
同じ轍を踏むまいとする教訓も得られた。これに勝る成果を、お前は挙げられるか?」
「……いや……だが……」
「恨みを晴らすことのみに囚われ、視野を狭めたお前には及びもつかぬ考え方だ。……違うか?」
「――ッ……」
「その結果が、お前が胸を張るご立派な戦果だよ。己の妄念を達成するために味方の疲弊と損害を度外視し、
挙句、怨敵を前にして宿願果たせず指を咥えて戦いを見物するしかなくなった」
「………………」
「大局的な物の見方を失した人間には、似合いの滑稽ではあるがな」
「………………」

 「大体の事情は訊いている」と前置きし、アルフレッドの肩に右手を置いて語り続けるエルンストの瞳は、
言葉こそ痛烈だが、いたわりと慈悲に満ちている。
 諌言でもって咎めると言うよりも優しく言い諭そうとする柔らかな瞳だった。

「仕える主を持たぬお前は軍師には足らん。独り善がりに満足するばかりのペテン師だ」
「………………」
「恩讐を誓うなとは言わない。大切なものをいくつも奪い取られたお前の怒り、恨み、悔しさ、憎しみ――
共に泣いてやることはできないが、理解はしているつもりだ」
「………………」
「だが、あえて言わせてもらう――復讐の先にあるものを見つめてみろ、アルフレッド。
仇敵との戦いに勝ち、無念を晴らした先にお前は何を求めるのか」
「………………」
「今のお前に最も欠けているものが、それだ。だからこそ、お前は、先の見えない、次の無い策しか立てられないのだよ」
「………………」

 厳しさと優しさとが宿る瞳へ自分のそれを合わせたアルフレッドの心からは、
怒りも、恨みも、苦しみも……恩讐へ影を染み出す負の感情が失せていた。
 今、彼の裡にあるのは、純粋な驚きであった。

(……勝った先に、何があると言うんだ……?)

 故郷を焼き尽くし、ベルを誘拐し、クラップの命をも奪い取ったギルガメシュへ同じ苦痛と与えてやることを、
報復と言う名の裁きを振り落とすことのみを考えて戦ってきたアルフレッドに、“その先”のビジョンなどある筈もない。

(……ギルガメシュを滅ぼした先に、俺は何を求めていたのか……)

 少し考えれば当たり前のものとして思いつくのだが、エルンストに諭されるまでそんなことにも気付けなかった――
気付けなかったからこそ、暴れて、狂って、血に塗れることでしかやるかたない衝動を呑み込めなかったのだ。

「人でも理想でも良い。命を賭して仕えられるものを見極めろ。次なる決戦は、そう遠からず内に必ず起こる――
いや、俺の手で必ず起こしてみせる」

 力強く断言するエルンストの威容へアルフレッドはこれまで自分が思い描きもしなかった“戦いの先”を見たような錯覚を覚えた。

 違う――決して錯覚などではあるまい。

 復讐を果たした先の導を、彼は、今、確たる形をもってエルンストに重ねていた。

(戦いの先にあるのは、復讐の達成だけじゃない……)

 暗黒の時代を照らす理想と、それを貫かんとする高潔な意志によって切り拓かれる未来の導を――。

「……そのとき、お前が我がもとにいたなら、言うことは無いのだがな」
「――ッ!」

 どうしようもなく道を外した自分には輝ける理想へ手を伸ばすことさえ憚られ、
エルンストへ重ね合わせた理想の行く末を語る死角は無いと考えるアルフレッドだったが、
彼はそうした過失や蟠りなど最初から眼中に入れていない。
 過失も蟠りも、復讐の牙も……アルフレッドと言う人間を成す全てを受け入れ、
その上で理想を共に歩もうとエルンストは手を差し伸べているのだ。
 仕官を持ちかけられるのは『オノコロ原』に続いて二度目であるが、最初の誘いとは重みが違う。

 まるで、違う。

 恨みに囚われ愚行を極め、仲間や恋人を突き放してまで突っ張ってみたものの、
結局は何にもなれなかった中途半端な大馬鹿野郎を、エルンストは迎え入れたいと申し出た。

(俺が……エルンストの軍師……)

 アルフレッド本人にさえその正体が掴めず、発せられた衝動の赴くままに暴走を繰り返してきた心の葛藤を深く見抜き、
呪わしい影を振り払ってくれたエルンストの温情には熱く込み上げるものがある。
 高潔なる理想の先に立つ彼の力になりたいと思うのも確かだ。

 ……けれど――。

「仕えるべきものを見極め、心に決めたときこそ、天の運、地の利、そして、人の和が本当の意味でお前の血肉となる」
「……天と……地と……人……」
「己の全てを傾けるに足る情熱と出逢えた人間を、真の軍師と呼ぶのだ。
……お前がそうなる日を、俺は心から待ち侘びるぞ、アルフレッド……」
「………………」

 ――けれど、エルンストが理想の日輪を受けて輝けば輝くほど、
どうしようもなく浅はかな己の醜さに忸怩たる劣等感を抱いてしまい、眩いばかりの光輝に背を向けた。

「……俺にはそんな資格はない……俺なんかが……何に仕えられるんだ……」






「こっぴどくやられたな、アルフレッド・S・ライアン。賜る同情が重ければ重いほど、今の貴様には堪えるだろうて。
横で見ていて、実に痛快だったわ」

 天幕を出てからと言うもの濡れるのに任せて陣内を彷徨っていたアルフレッドの背中を、
厭味たっぷりの呼び声が追いかけた。

 腹立たしいまでに声の主が思い当ってしまうアルフレッドは振り向きもせずに歩を進め、
少しでも彼から遠ざかろうと試みたが、本当にどうしようもない厭味な人間と言うのは、
言動にこだわらず一挙手一投足に至るまで全てに煩わしさが伴うものだ。
 全身から拒絶の意志を醸すアルフレッドの態度にも関わらず、傲慢を絵に描いたような声の主――
ゼラールは彼の背中を追いかけ、一定の距離を保ったまま決して離れようとしない。
 しかも、数秒に一度の割合で厭味や当てこすりをぶつけてくるのである。
 自己の嫌悪に滅入った心にとって高圧的な厭味はただでさえ気に障ると言うのに、
この上、しつこく追従してくるのだから、煩わしいにも程がある。

 ゼラールの言行は全てアルフレッドが神経を逆撫でされると見越した上で発せられている。
 確信を得た上での厭味だからこそ、本当の意味で鬱陶しく、彼の性情を他の人間よりも多少は心得、
慣れているはずのアルフレッドでさえ疎ましく思えて仕方がなかった。

「……悪いが、今はお前の顔を見ていたい気分じゃないんだ。消えてくれ、頼むから……」
「貴様に指図される謂れなどあるものか。余は余の意志一つで動くのよ」
「……別にいい。俺のほうから消えるまでだ」
「本当につまらん人間に成り下がったものよな、アルフレッド・S・ライアン」

 いつものように適当にあしらい、やり過ごすことにさえ気力が涌かず、
諦め半分に不貞腐れたような態度で突っぱねてみるも、やはり無為。
 自身の軍団の旗にまで大書させた「天上天下唯我独尊」を地で行くゼラールがアルフレッドの意志を汲み、
気を遣って退くわけがない。意地になって突き放せば、突き放した分だけ、
何倍にも深度を増した厭味と鬱陶しさで逆襲してくるのである。

「……親友もろとも故郷を焼かれたのが、それほどまでに堪えたか?
縁(よすが)が灰燼に帰す様を、指を咥えて傍観するしか出来ぬ矮小な己が恨めしいか?」

 倍に倍を足してゆけば、無量を許容する夜天でもない限り、いつか頂点に達するのは自明の理。
特に人の感情が関わる場合において頂点は簡単に沸点を迎えるものだ。そして、その頂点を、人間界では禁句(タブー)と呼ぶ。

「堪えぬわけがあるまい。軍師だ策士だのと背伸びしてはおるが、貴様とて人の子よ。
哭いたか? 嘆いたか? 力不足を悔やんだか? ……取るに足らぬな、いずれの甘えも。
そんなものに囚われておるから、貴様は見るに耐えぬゴミ溜めに成り果てたのじゃ」
「――お前に何がわかるッ!」

 決して踏み入ってはならない禁句(タブー)を土足で踏み躙った挙句、
あまつさえ茶化すかのような悪しき嘲笑を上げるゼラールにアルフレッドの怒りは心頭に達し、
リストカット用のナイフを垂れ下げるチョーカーごと彼の首を掴み上げた。
 殺意と呼べるほど激烈ではないが、戦意に留められるほど生易しくない力が右の掌へ伝い、
ゼラールの頚椎を軋ませる。

 いかに超然たるプライドで身心を固めていようとも、いかに明確な殺意が無かろうと、
軋むほどに頚椎を締め上げられれば、どれほど屈強な体躯を備えた人間であっても痛みを患うのが必定だ…が、
されるがままに任せるゼラールの表情には苦痛の断片さえ浮かんではいない。
 やせ我慢でも何でもなく、ゼラールは自分の頚椎が軋む音を耳に受け止めながらも
表情一つ変えないままでアルフレッドを見据えていた。

「自分以外の人間に何の価値も見出さないお前に、俺の何がわかると言うッ!? 
恨むことが罪かッ!? 幼友達の無念を晴らそうとして何が悪いッ!? 
そんな感情、お前には理解できやしないだろうがッ!」

 堰を切ったように葛藤を吐露するアルフレッドを、ゼラールは真剣な瞳で見据えていた。

「それが貴様の甘えだと言うておるのじゃ、不幸自慢の自己満足めが」
「まだ言うかッ!」
「何度でも言うてやるわ、下賎なるゴミ溜めよ。甘えん坊の貴様には何も見えておらぬ。いや、見ようともしておらぬのじゃ。
……貴様、よもや全てを失ったなどと思うてはおるまいな」
「生まれた場所を焼き尽くされたんだ……これ以上、何を失うものがあるッ!?」
「逆に問おう。貴様は己の手に何が残されたか、見えておるか? 全てを失ったと抜かす貴様の手は、
今、何を掴んでおるのじゃ」

 自分の頚椎を軋ませるアルフレッドの右手首を、ゼラールは力の限り握り返した。
 “握り締めた”のでなく、彼の葛藤に正面から応えるよう“握り返した”。

「貴様の目の前に立つ余は、貴様にとって何ぞ? 余にとって貴様は如何な存在かを答える名誉をくれてやる」
「好敵手とでも言いたいのか? お前と同列に見られるのは不本意だがな」
「笑わせるな、アルフレッド・S・ライアン。それとも新進気鋭の喜劇のつもりか? 貴様が如き底辺が余に肩を並べ、好敵手を語るなど、
ゴミ溜めに群がる蛆虫が畏れ多くも日の輪へ唾するに等しき冒涜ぞ」
「だったら、聞かせてくれ。俺はお前の何なんだ? 好敵手でなければ、天敵か? 
まさか、手駒だなんて言い出すつもりじゃ――」
「――友じゃ」

 そして、思いも寄らなかった返答に、アルフレッドは言葉を失った。

「好敵手などおこがましい……貴様は余の友でしかないわ」
「友……だって……」
「歓喜で言葉もあるまい? 遠慮せず咽び泣くが良い。貴様にはそれだけの名誉を授けてやったのだからな」

 全く想定していなかった関係性の喩えへの衝撃と驚きがあまりに大きく、
きつく頚椎を締め上げていた右手を思わず取り落としてしまったアルフレッドを雲上なる高みより見下さんと
ゼラールは両手を広げて見せた。

 全身を十字架に見立てたお決まりのポーズだ。
 舌の表面を長く鋭い犬歯で薄く薙いだゼラールは、そこから零れ落ちる血液をエンパイア・オブ・ヒートヘイズの能力で発火させ、
全身を覇者の炎で包み込んだ。
 超越者にのみ許される無量の哄笑を上げながら炎を浴びるその様は、さながら聖者を灼く火刑台上の十字架を彷彿とさせた。

「――ここにゼラール・カザンの名をもって宣言しよう。余は今後十年以内にエンディニオンを平定し、
全ての首座たる超王となってくれよう。テムグ・テングリ群狼領もギルガメシュも、我が覇道の前には一時の座興に過ぎぬ。
日輪たる余の威光をもって全ての障害を平定せしめ、抗う悪を焼き尽くし、余の手にてエンディニオンへ久遠の虹をかけてくれる」
「な……ッ」
「余がエンディニオンの超王――ゼラール・カザンなりッ!!」

 ……尤も、為された宣言は聖者の金言とは真逆に位置する、有史以来最悪の暴言にして最高の啖呵であったのだが。

「お前、何を言って……自分が何を言っているか、理解しているのか?」

 たった今、彼は、自らを超王であると宣言した。
 テムグ・テングリ群狼領と言わず、ギルガメシュと言わず、エンディニオンに数多存在する全ての勢力を超越し、
支配する超王こそ我である――と。

 途方もなさ過ぎる宣言そのものは戯言として軽く受け流せば良いものの、発した場所がマズ過ぎる。
 二人が屹立――あるいは対立――するテムグ・テングリ群狼領の仮本陣には
エルンスト率いる馬軍の他にもヴィクドやグドゥーなどの将兵が屯している。
 合戦が終結し、敗戦が決裁された直後の将兵は末端に至るまで一人も欠けることなく殺気立っているのだから、
陣の中央に在って不遜な態度を取ることは自殺行為としか言いようが無かった。
 ちょっとした刺激が諍いを招き、敗戦に揺れる衝動をリンチと言う形で慰める暴動にさえ発展しかねず、
しかも、ゼラールは彼らの頭目など座興とまで言い放ったのだ。

 別段気遣うつもりも無かったのだが、アルフレッドは反射的に周囲に警戒の視線を巡らせた。
 案の定、先ほどまで首筋にかかっていた握力など比べ物にならない殺意と怒りが、
その眼光を万本の針と変えてゼラールへ突き立てられたが、放言した本人は、身の危険を感じて萎縮するどころか、
それさえも「矮小なる人間の所業など可愛いものよ」と吐いて捨てた。
 剣呑に肌を突き刺す悪意へ酔いしれでもしたのか、頬まで釣り上がった口は陶然と歪んでいる。

「頭がおかしいと抜かしたそうよな。されど、これぞ余の夢じゃ。余が麗しき生涯の全てを注ぎ、やがて叶える夢なのじゃ。
何人たりとも余の伝説を覆すことは出来ぬと心得よ」
「世界征服でも始めようって言うのか、お前は……」
「結構、結構。余を見る眼がまたまた険しくなったの。法で社会を律するが夢の貴様に、
余の存在は到底容認できぬものよな」
「法律以前の問題だ。エルンストに飼われる立場で、お前、よくそんな暴言を吐けたもんだな」
「何度、頭に叩き込めれば記憶中枢に焼き付けられるのだ? 青臭い牧場などは我が覇道の敷石に過ぎぬ。
お馬の大将とて余にとっては高みを往くに手ごろな踏み台ぞ」

 至極、常識的な返答がよほど笑気を刺激したらしく、ゼラールはややオーバーなまでに胸を反らせて哄笑(わら)った。
 それに合わせて火花が周囲に巻き散るような大袈裟なリアクションで、
そもそも火達磨状態で哄笑い続ける様子自体がひどく滑稽…と言うよりも不気味なのだが、
コントさながらの態度を呈する間もアルフレッドを見据える瞳から真剣な輝きが抜け落ちることは無い。

「余の好敵手を標榜せんと欲するならば、余の夢と貴様の夢が相容れぬとのたまうならば、
そのときに余の前に立ち塞がるがよい。愚かにも超王へ楯突き、華々しく犬死する踏み台となれ。
友の過ちを正すのも友の務めであろう? ……それこそが、貴様の生きる路じゃ」
「………………」
「……他の誰が貴様に背を向けても、この誓いだけは、未来永劫、裏切らぬ」
「……ゼラール……」
「貴様の人生に意味を与えし唯一無二の依る辺として邁進せよ――我が愛しき友、アルフレッド・S・ライアンよ」

 暴言の羅列をそう締め括ったゼラールは、天を衝かんと右手を掲げ、その指先から我が身灼く業火を一気に駆け上らせた。
 右手を伝い、曇天へ飛翔した幾筋もの炎は、やがて中空にて一つに合わさり、
一個の丸い塊となるや一際高く輝いた――超新星の爆発をかくやと思わせる炸裂だ。

 ……あるいは、それは友へ贈呈する進物の一つだったのかも知れない。
 傲慢な生き方を貫きながらも、どこか不器用さを伴うゼラール・カザン一流の。

「勝手なことばかり言わないでっ! 私たちは、誰もアルを裏切ったりしないよっ! 絶対、いつまでも一緒だよっ!」

 万事決め付けにことを運び、アルフレッドの人生まで己の都合よく規定してしまおうとするゼラールの物言いが
毅然とした反論で否定されたのと炸裂の余韻が曇天から消失されたのは、ほとんど同時であった。

「フィー……みんな……」

 顔を真っ赤にしてゼラールへ食って掛かったフィーナを始めとする仲間が――
仲間と呼べる人々がアルフレッドたちのいるすぐ近くに参集していた。

 ……いや、違う。参集したのではない。

 この場を見つけ、駆けつけたのはアルフレッドとゼラールのやり取りを耳にしたからだが、
フィーナも、シェインも、ムルグも、マリスも……皆が皆、全身を雨だれに濡らしており、
与えられたテントからつい先ほど出てきたと言う風体ではない。
 一秒でも早くアルフレッドを迎えてあげる為、皆が皆、彼が天幕から出て来るのをズブ濡れになりながら待っていたのだ。

 ――ニコラスと演じた一騎討ちの後、ひどく塞ぎこんでしまっていた彼を案じて。
……心の揺らぎに耐えかね、今にも壊れてしまいそうだった彼を気遣って。

「てめぇ、クソアル公。風邪引いたらどうしてくれんだ、コラ。医者代と薬代と、あと酒代タカッてやるかんな、赤字覚悟しとけや」
「ボクは更にお見舞いの品を要求しちゃうよ。あ、アル兄ィお気に入りのチェーンでいいや。
ベルトループに付ける、あの髑髏のヤツ、欲しかったんだよね〜」
「ンン〜、シックにナンバーワンなメディスンってったら、フルーツバスケットでしょ。
ちなみにボキはバスケットなんかいらないね。バスケットなんかトーシロのリクエストだよ。
ナイスでマイトなガイは、ドリアン一気イートにリミッツだネ」
「これだから男ってのはや〜ね。あんたら、揃いも揃って物欲に走り過ぎよ。
どこぞの宿六とまるっきりおんなじ! ろくでなしの吹き溜まりね!」
「俺っちのとあいつらのを一緒くたにされちゃあ、困るね。あいつらのは物欲、俺っちのは性欲だよ」
「うるせぇ、セクハラ魔人ッ! 妻の皮肉に下品で返すなッ! いい加減さぁ、調子くれてっと、ちょん切るわよッ!?」
「はいは〜い、お二人ともニッコリ笑って、ニッコリね。本気のどつき合いはフォトジェニック的にバッチグーだけど、
カメラ映りをちょ〜っとだけ意識しときましょ〜ね。そのほうが記事として面白いし。
……ほら、ボサッとしてないでアルも混ざんなさいよっ。
こーゆーシバキ倒しは、人数いたほうが絵的なインパクトが強まるんだから!」

 自分でも厭になるほど暴挙を重ね、謝っても謝りきれないような醜態を晒してしまったからには、
最早、歯車を元通りにする術もないと諦めていたのに、そんな深刻な鬱屈など杞憂とばかりに
仲間たちはいつもとまるで変わらぬやかましい喧騒で出迎えてくれた。
 アルフレッドが自分の演じた暴走と失敗へ表情を暗くする都度、
気にも留めない風情で「それが何? 何かマズイことでもあったか?」。

 ……仲間たちはアルフレッドがさんざんに撒き散らした悪意と暴言を全て受け止め、全て呑み込んでくれていた。

「わたくしは、アルちゃんが傍にいてくれるだけで、どんな病魔とも戦えます。
だって、アルちゃんがいてくれたから、あの悪夢に打ち克つことができたのですから」
「……マリス……」
「でも、でも……ちょっとだけぎゅっとして貰えたら、天国に昇るくらい嬉しいですわ」
「マリス様、今の流れでご昇天の喩えは重大な語弊があるものと思われます」
「ちょ、ちょっとした言葉のアヤよ。わたくしは、それほどの歓喜だってアルちゃんに伝えたくってっ」
「………………」

 控えめながらも案外に積極的なアプローチを仕掛けてくるマリスの声も、
その様子をちょっとだけ眉間に皺寄せて見守るフィーナの眼差しも、何もかもがこれまで通りだ。

「コカカコ! コケーケケケケケケッ!!」
「――うわッ!? この…腐れ鳥!? こんなときにまでッ!!」
「コォォォケコゥッコオオオォォォォォォーッ!!」
「この! こいつ……目玉は……本気で……やめろッ!」

 精確に喉笛を狙って繰り出される鋭く尖った嘴を白刃取りの要領で受け止め、
「空気を読め」の叱声で返すアルフレッドに対し、ニヤリとほくそ笑んで応じたかのようにも見えるムルグの突撃までもが、
修羅の道へ踏み込む以前と何ら変わっていなかった。

「ムルグも嬉しいんだよ、アルが、私たちのところへ帰ってきてくれて」
「帰ってくるも何も、ずっと一緒にいたじゃないか。こいつが俺にだけ容赦ないのはいつものことだろ。
嬉しいとか、嬉しくないとか、あるものか」
「ん――ずっと一緒にいたようで、でも、見てる場所は違ったって言うのかな……。
なんて言ったら良いか、わかんないけどね、そんな感じだったよ」
「……そうか……かも知れないな」
「コカカカカカカカァーコッコッ!」
「だがなぁッ! そうしんみりもしていられないんだよッ! フィー、いい加減、このバカ、どうにかしてくれっ!」
「カッカッカッカーッ! コーッコココココココココッ!!!!」
「ハグして欲しいんだって言ってるよ。ホントは仲良しのくせに意地張っちゃって〜。
両手を広げてキャッチしてあげなくちゃっ、ほ〜らっ」
「嘘通訳にも程があるだろッ!! お前ら、本当に意志の疎通が出来てんのかッ!?」

 何もかも……何もかもが、復讐の業火を心中に宿したその日から変わっておらず、
生き急ぐ足をふと停めたアルフレッドへいつか身を委ねた柔らかくも心地良い順風(かぜ)を運ぶ。
世界中のどこにでも吹くようなありふれた風だ。
 しかし、それだけに得難く、何も換え難い。

 あまりにも柔らかな順風は失われたモノへの想いをさらわれてしまうようで、
ほんの少しだけ怯えを伴うのだが、その順風を全身に浴びられる丘こそが、
人間が人間として生きるべき場所なのである。

(……確かに俺は帰って来れたのかも知れない……)

 その居場所を自らの手で壊してしまった……もう二度と風吹く丘には登れない――
そう思い込んでいたアルフレッドだが、彼は今、確かに順風を全身に受けていた。
 ちょっとやそっとのことではビクともしない、『仲間』と言う名の絆(かぜ)を。

「馴れ合い結構、孤高の反対に在るのが貴様に似合いの領分じゃ。
……己を取り巻く環境を認めてまで、まだ全てを失っただのと悲劇ぶるつもりであらば、
余は貴様から友たる名誉を奪おうぞ、アルフレッド・S・ライアン」

 「濡れ鼠の群れが群れ鼠を出迎えるとは、滑稽にして愉快よな」と言い残し、
高笑いを引き摺りながら去っていくゼラールの口元は、仄かな満足に綻んでいた。
 愛しき友があるべき場所へ帰り着くさまをしかと見届けた――満足げに歪めた口元からはそんな言葉が飛び出してきそうだ。

(……だが……)

 だが――帰るべきグリーニャを滅ぼされ、最愛の妹を奪われ、無二の親友を殺害された事実が
消えて無くなる日は永遠に訪れない。
 ギルガメシュ、そして、カレドヴールフへの恩讐を忘れることだって出来やしない。
 今だって目を瞑れば、あの日の惨状がたちまち甦り、アルフレッドを再び修羅の道へと誘うことだろう。

 これまでの戦いの中で鬱積された怒りと悲しみを解き放つ術はどうにも見つからない。
 誰にでも等しくあるべきなのに、クラップたちから強制的に簒奪された順風を自分だけが浴びることへの葛藤を
是と出来るとも思えない。

(……俺には……やはり資格なんかない……)

 生き残ってしまったが故の葛藤を、力及ばず何も救えなかった負い目を、
……何かの拍子に再び暴牙を剥くであろう復讐の想念を心に抱えたまま、
順風の丘に立ち続けられるものか、アルフレッドには微塵も自信が無かった。
 運良く今日は取り戻せたけれど、心の奥に昏い闇を抱えたままでは、いつか本当に取り返しの付かない醜態を晒し、
丘に立つ資格を取り落としてしまうのではないかという恐怖がアルフレッドを縛り付け、
耐えかねるほどの痛みを走らせるのだ。

「せやから言うたやんけ、このありがた〜いお師さんが。
どうしようもない恨みにトチ狂うんも、気が済むまで暴れるのも構へんねん。
……アル、帰ってくる場所だけは見失うんやないで」
「……ローガン」

 けれど、不安や恐怖に怯える度、仲間たちはそれを和らげようと手を差し伸べてくれる。

「本当に道に迷ったときは、正義を信じなさい。自分の心に決めた絶対に揺るがない正義をね。
それが間違いでなかったら、必ず道は開けるし、もしも間違っていたときには、必ずあたしたちが止めてあげるから。
……その為の仲間じゃない。あたしたちは、一人ひとりが皆の為に生きているのよ。
思いっきり頼りにして構わないんだからね、アル」
「ハーヴ……」

 何度だって絆(かぜ)を呼び起こし、心に巣食った恐れと怯えを洗い流してくれる。

「ん♪ もうアルちゃん、恐くないの。元気になってめでたしめでたしなの♪
正直、シケた顔が続くんだったら、ルディアのほうから三行半だったの」
「……そんなに俺の顔は恐かったか?」
「もともと極悪人相だけど、それよりもっとやばかったの。恐かったってゆーか、やばかったの」
「父親に似たんだ。俺のせいじゃないぞ……多分、きっと……」

 懊悩することがバカバカしく思えるくらい、いっぱいの希望を与えてくれる。

「やりすぎた面はあったかもだけどさ、お前のしたことが間違いとはオレには思えねぇよ。
難民を助けようって言うアイツらの大義名分とやらは大層なもんだぜ? 
でもよ、暴力でもって時代を思い通りに動かそうなんて考え方は絶対に許せねぇ」
「……ラス……」
「例え相手が同じ世界に生まれた同胞であっても、俺はギルガメシュに歯向かってやる。
理想の押し付けがどれだけバカげているのか、見せ付けてやるつもりだぜ。
アルだって……そうだよな?」
「愚問だな。最後まで戦うというのは、俺の専売特許だろう? ギルガメシュを倒すまで、俺は何があっても必ず戦い続ける。
……今度こそ、俺はみっともない真似はしない――守るべきものを見定めて、
そこに戦火の果てを切り開く……ッ!」
「どこまでも付き合うよ。……オレはそう決めたんだ」
「………………」
「――って、捕虜の身分で偉そうに何ほざいてんだって感じだな」
「全くだ。少しは自分の立場を弁えろ。場所が場所なら、今頃、お前の眉間に風穴が開いている頃だぞ?」
「冗談にしてはちょっとキツ過ぎるぜ、アル」
「冗談なものか。いつかまとめてツケを払ってもらうから、覚悟しておけよ、ラス」

 今日のこの場所へ辿り着くまで耳に入ることすら無かった風の音をはっきりと聴きながら――

「………………」
「ど、どうしたの、アル? 急に黙りこくっちゃってさ。お腹、空いちゃった?」
「…………――――……」
「……アルちゃん?」
「――すまなかったな……」
「……アル……」
「……どうしようもなく迷惑をかけてしまった……本当に……すまない……」

 ――……自分の在るべき場所を全身に感じ、二度と見失うまいと誓いながら……――

「……すまなかった……みんな……っ」

 ――アルフレッドは、掛け替えの無い仲間たちへ、何があっても失いたくないと気付けた順風へ、
万感の想いを胸に頭を垂れた。

 葛藤、安堵、不穏、歓喜、恩讐……色々なものが入り混じり、熱い滴となって頬を伝った想いは、
いつまでも降りしきる優しい雨と、

「アル兄ィってば、ホントに真面目だよなぁ。誰も何も気にしてないってばさ〜」
「あーっ! もうっ! やめやめ! 辛気臭いのはナシにしましょっ! 
アルもラスも帰ってきたんだし、パーッと騒いでウサを晴らすわよっ!」
「レイチェルさんに賛成〜。身体も冷えてきちゃったし、何か温かいものが飲みたいね」
「いけませんわ、フィーナさん。女の子が身体を冷やすなんて、まるで太陽が氷の接吻を受けたのと同じです。
タスク、可及的速やかに何か温まるものを用意して頂戴」
「それでしたら、皆様、すぐに宿所へお入りくださいませ。鍋の中のスープも丁度良い塩梅に煮詰まっていることでしょう」
「おう、さすがに気が利くじゃねーか。当然、酒はあるんだろーな? それからガキどもにミルクだ。ホットでぶっかけてやれ」
「ミルクが必要なのはシェインちゃんだけなの。ルディアは紅茶もイケるくちなの。
蜂蜜ドバドバ、砂糖いっぱいで、バリキャリオトナ気分なの〜」
「……いや、ボクがどーこーの前に、それ完璧に自爆だから」

 ……どこまでもありふれた絆(かぜ)が拭い去ってくれた。

『……貴様、よもや全てを失ったなどと思うてはおるまいな』

 ゼラールの問いかけがふと耳元にリフレインされ、アルフレッドは小さく首を振った。
 首を振る方向は、もちろん、横。否定の意を表す横。

「……こう言う喧騒なら、どんなに煩くても――黙って欲しくないな」

 その言葉を待っていたとばかりにアルフレッドの肩へと腕を回したネイサンは、
「今夜は呑もうよ。良い気分になったら、モヤモヤしたものも一発で晴れちゃうよ〜」と軽やかに笑った。
 ……ほんの少しだが、いつもと比べて声のトーンが低く、また笑気に乗せて紡がれた言葉も
アルフレッドに向かって発しているのではなく、自らに言い聞かせているように思える。
 ネイサンの面に差した奇妙な陰を戦いの疲れと見て取ったアルフレッドは、
彼の仕掛けてきた頬ずりを鬱陶しそうに押し返しながら、「……程ほどにしろよ」と釘を刺した。


 少し離れた場所から若者たちの様子を見守っていた守孝は、本当の意味でアルフレッドが戻ってきたことに胸を撫で下ろし、
「これにて一件落着でござるな」と安堵の溜め息を吐いた。
 彼の隣には、ジョゼフとラトクも居並んでいる。守孝は彼らに向かって事態が収束した旨を話しかけたのだ。
 アルフレッドの事情になど全く興味がなく、曖昧と言うか適当に相槌を打つのみのラトクはともかく、
守孝の言葉に相好を崩したジョゼフは、「まだまだ。今は荒療治が済んだところじゃ。
使い物になるかならぬか、もっと尻を叩いてやらねばなるまいて」と軽口を叩きながら自前の白髭を撫でた。
 エルンストからの仕官の誘いを断り、次いで天幕をも辞したアルフレッドの後を三人は追ってきたのだが、
そこで出くわしたのが、ゼラールの闖入と言うわけである。
 以降の筋運びは、改めて語るまでもなかろう。アルフレッドの“帰還”を、彼らは息を潜めて見守っていた。
とても年長者には真似の出来ないやり方で、仲間たちはアルフレッドを出迎えたのである。
「おかえり」と抱き留めたのである。

 晴れがましい表情で何度も何度も頷いていた守孝は、先程、ジョゼフと交わした言葉を反芻し、
急に「むッ!?」と目を見開いた。

「アルフレッド殿の尻を叩くとは、もしや、御老公――」
「……鍋の具にきりたんぽは入っておるかの。大好物なんじゃ」

 もうひとつの帰還が成るとは夢にも思わなかった守孝は、
茶目っ気たっぷりに舌を出して「頭は冷やすに限るが、鉄は別じゃ.熱い内に叩かねばな」と笑うジョゼフへ深々と頭を垂れた。
ジョゼフのほうから面を上げるよう促されるまで、雨に打たれるのも構わず頭を垂れ続けた。
 紛い物ではない真の誠意を見せつけられたラトクは、殊更破顔して頷くジョゼフを目端に捉えながら居心地悪そうに頬を掻いた。





「………………」

 軍議が終わり、諸将も席を立ち、シンと静まり返った天幕の下に一人の男が居残り続けていた。
 灯りも消された薄暗い空間に感情と生気の浮かばぬ面を下げて佇んでいるのは、
アルフレッドが座していた革張りの椅子を睥睨したまま微動だにしないのは、
彼の兄貴分にして英雄、フェイ・ブランドール・カスケイドである。

 持って生まれた英雄の性と言うものだろうか。
 溌剌そのものの活気と何物も受容する微笑は見る人の心を捕えて離さない爽快な魅力に満ち溢れていた。
 剣腕一つで築き上げた名声に裏打ちされる微笑は、まさしく英雄たるフェイのみに許された特権でありカリスマ性であった。

 だが、その微笑が今は浮かんでいない。
 溌剌そのものの活気も、何物も受容する微笑も、欠片ほども感じられない。

 あるのは、虚無。

 半ば幻覚に近いアルフレッドの残照をジッと見つめる瞳はひどく虚ろで、
生気の薄い頬の蒼白さと言ったら、大病によって痩せこけたと錯覚してしまいそうになる。

「………………」

 常人の眼には、座れば軋む木製の椅子になど何ら余韻が見られないが、
フェイの眼には、そこで行なわれた事実への残照が今もはっきりと焼きついている。

 エルンストが英雄たるフェイ・ブランドール・カスケイドの頭越しにアルフレッドの才を認め、
滅多に披露しない饒舌でもって叱咤激励したことも。
 エルンストが英雄たるフェイ・ブランドール・カスケイドへ
ただの一度も発しなかった仕官の誘いを再三に渡ってアルフレッドに出したことも。
 その光景を目の当たりにしたときに覚えた言いようの無い疎外感も、
英雄であるべき自分の評価が取るに足らない舌先三寸の騙り者に遠く及ばないことも。

 ……残照は呪いのようにフェイの網膜に焼きつき、心の奥底まで焦がしていた。

「グリーニャと言うのは、まこと傑物を輩出するに優れた環境らしいな。
……アルフレッド・S・ライアンか。かの地にて培われた智謀、剣にも勝る軍略とやら、次なる機会にて披露願いたいものよ」

 天幕を去る間際のアルカークが独り言のように漏らした呟き――奇しくもそれは、かつてレイチェルが話した内容と類似する――も、
残照を象るパーツの一つとしてフェイの鼓膜で反響し続けている。

「かの地にて培われた智謀、剣にも勝る軍略とやら、次なる機会には披露願いたいものよ」

 フェイ・ブランドール・カスケイドへ英雄の名声を授け、今も絶対の自信を傾けるツヴァイハンダーが、
舌先三寸と忌み嫌う軍略よりも劣るとアルカークは明言した。
 虚実も意図も定かではない個人の呟きの域を出ないものの、アルフレッドの知略を向こうに回しては、
フェイの剣など勝ち目も宿らぬナマクラという評価がアルカークによって為された。

 グリーニャを――封鎖的で住民の心も腐りきり、
焼亡によってエンディニオンが清められたとさえ思える忌まわしい地を出奔したことで、
ようやく陽の目を見ることが出来たフェイ・ブランドール・カスケイドと言う存在が、不意の呟きによって全て否定された。

「あの小物はともかく、グリーニャなる寒村をルーツとする部隊、主戦場には加わらなかったが、なかなかの精強ぶりと聞いておる。
是非とも朕の駒と試合させてみたいものだ」
「相手はロボットまで持ち出すのだぞ? 単純な攻撃力ではエンディニオンでも屈指だ。
軍略とロボット、おまけに狙撃手のトリオと来ては、勝負にもならんでしょう」
「だからこそ愉快なのではないか。最強対最強のゲームを高座より観戦する楽しみよ。
それは無敵の駒を統べし快楽と同等に朕を昂ぶらせてくれよう」
「……我が主ながら、理解し兼ねるな、そのセンスは」

 アルカークの言葉尻へ乗るかのようにしてアポピスと結んでいたファラの放言も、
反響の末端にこびり付いたまま、決して離れてくれない。
 たった一人の放言ならいざ知らず、別な人間にまで自分はグリーニャに劣ると評されていた。
ファラの放言に頷く向きがあったのも、目端に捉えて覚えている。

 一体、どれだけ多くの将兵がアルフレッドたちグリーニャ輩出の人間を認めていると言うのか。
 英雄フェイの頭越しに、どれだけの人々がグリーニャ出身の人間を評価していると言うのか。

「………………」

 ギガント型クリッターを撃破する戦功を挙げたに留まらず、撤退戦においても獅子奮迅の立ち回りをしたとの自負もあるが、
その功績について誰か一人でも触れてくれたか。
 アルフレッドにばかり意識を向けるエルンストの双眸へ、果たしてフェイの剣閃は入っていたのか。

 ……潜りぬけた死地の果てにようやく掴んだ英雄の名声を、自分の手で築いた居場所を、
忌まわしき同郷の、それもさしたる苦労を知らないような若造どもに軽々乗り越えられなければならない道理が、
どうして存在するのか。

「やっぱりまだここにいたのね。……考え事もいいけど、怪我してるんだから安静にしときなさいよ」
「……いやさ……ヒーローなんて人種(もん)は……体調不良のときに限って……
中学生男子顔負けの……みみっちいいダンディズムを……気取りたくなるのよ……。
……やせ我慢は……ニヒリストのポーズにも見えて……なかなかカイカンなのだ……」
「なによ、それ。実体験に基づく発言? 時々、ケロちゃんの頭ン中がわかんなくなるのよね」
「……ハニー……男は……みんな……永遠の……思春期なのさ……」

 いつまで経っても宿所に戻らないフェイを心配し、ソニエとケロイド・ジュースが彼を天幕まで迎えにやって来たが、
それでも沈黙は破られない。
二人の仲間がかけた言葉も、天幕の入り口から仄かに伸びた二つの影も、今のフェイの五感は認識していないに違いない。
 ソニエの呼び声にも、ケロイド・ジュースの皮肉にも、フェイはピクリとも反応しなかった。

「……冗談はともかく……本当に……大丈夫か……? ……負傷が……芳しくないのか……?」
「会議中になんかあった――」
「どうしてアイツなんかに――『グリーニャ』なんかに負けなきゃならないんだッ!」

 ソニエとケロイド・ジュースが唖然とする眼前で、フェイはアルフレッドの座っていた椅子を、
自身の心を掻き乱す残照を天幕へ届くほどに蹴り上げ、落下を見るなり何度も何度も踏みつけにした。
 乾いた音を立てながら椅子が椅子としての存在意義を失い、単なる木片と化した後もフェイの足が乱暴な動きを止めることはなく、
文字通りの木っ端微塵となるまで、彼は狂ったように木片を、……残照を踏み躙り続けた。

 その面には浮かぶのは激情。
 虚無の底から浮かび上がったのは、破壊衝動に取り付かれた憤怒の激情であった。
 悪魔の如き癇癪に驚いたソニエとケロイド・ジュースは、それきりかける言葉を失ってしまい、
眼を見開いてフェイの狂乱を見守るばかり。
 狂っているとしか思えない行動を制する手も差し伸べられなかった。

「どいつもこいつも――『英雄』と屑どもを比べるなぁッ!」

 爆発した雄叫びは、フェイが生まれて初めて吐露する負の感情は、
妬みと嫉み、あるいは、果てしなき憎悪と呼ばれる漆黒(もの)だった。




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